「鎌倉の碑」めぐり 著者 稲葉一彦には、次のような記述がありました。碑の元文を現代文になおすと次のような内容となります。
鎌倉幕府ははじめ大蔵に在ったが、嘉禄元年(1225年)に政子が亡くなったときに、幕府の位置を他のところに変えようとの意見が出たので、北条時房、同泰時等が適当な場所をさがしまわり評議をした結果、同年11月に此の地に幕府を定めることとし、12月藤原頼経将軍が移り住むようになった。その後、嘉貞二年(1236年)に、頼経将軍がさらに若宮大路幕府に移るまで12年の間、武家政治の中心となっていた。
建立場所 若宮大路に面した第二鳥居付近の教会から入った中道(小町大路)
参考
若宮大路を八幡宮に向かって、右側に見える鎌倉彫刻会館のわきの小道を入ったところにある宇都宮稲荷が、宇都宮辻子幕府のほぼ中心の位置にあるとかんがえられる。
鎌倉市史によると、若宮大路と小町大路(現在)の間に、南北約200米にわたって設けられたようである。
実朝が死んで、北条氏は京都より源氏の血縁をたどって藤原頼経(当時二歳)を将軍に迎えた。頼経が八歳のとき政子も死んだので、執権北条泰時は心機一転の思いで、大蔵の地を引き払って、この宇都宮辻子に幕府を移したのであろう。
高柳光博士は、辻子(ずし)は小路という意味であって、道路の交叉するところの辻とはちがうと述べている。したがって、宇都宮小路と解べきであろう。また辻子に厨子の字をあてる場合もあるが、京都で言う逗子と同じように、通り抜けのできる小路あることには変わりはない。
なお、鎌倉の南にある逗子市の逗子は上記の意味とは全く関係なく、同音のずしにあて字として、逗子の文字を用いたにすぎない。この点については、国衛や荘園の一役人として、田畠などの絵図を作製する職務の図師が居住していたのではないかとの説もある。
上記の見解によるならば「宇都宮辻幕府」とある碑の文字は、「宇都宮辻幕府」とするのが正しい表示というであろう。という記述がありました。
(宇都宮辻幕府旧蹟の碑)
(小道の一角に建てられた碑)
(御宮の際の碑)
鎌倉幕府ははじめ大蔵に在ったが、嘉禄元年(1225年)に政子が亡くなったときに、幕府の位置を他のところに変えようとの意見が出たので、北条時房、同泰時等が適当な場所をさがしまわり評議をした結果、同年11月に此の地に幕府を定めることとし、12月藤原頼経将軍が移り住むようになった。その後、嘉貞二年(1236年)に、頼経将軍がさらに若宮大路幕府に移るまで12年の間、武家政治の中心となっていた。
建立場所 若宮大路に面した第二鳥居付近の教会から入った中道(小町大路)
参考
若宮大路を八幡宮に向かって、右側に見える鎌倉彫刻会館のわきの小道を入ったところにある宇都宮稲荷が、宇都宮辻子幕府のほぼ中心の位置にあるとかんがえられる。
鎌倉市史によると、若宮大路と小町大路(現在)の間に、南北約200米にわたって設けられたようである。
実朝が死んで、北条氏は京都より源氏の血縁をたどって藤原頼経(当時二歳)を将軍に迎えた。頼経が八歳のとき政子も死んだので、執権北条泰時は心機一転の思いで、大蔵の地を引き払って、この宇都宮辻子に幕府を移したのであろう。
高柳光博士は、辻子(ずし)は小路という意味であって、道路の交叉するところの辻とはちがうと述べている。したがって、宇都宮小路と解べきであろう。また辻子に厨子の字をあてる場合もあるが、京都で言う逗子と同じように、通り抜けのできる小路あることには変わりはない。
なお、鎌倉の南にある逗子市の逗子は上記の意味とは全く関係なく、同音のずしにあて字として、逗子の文字を用いたにすぎない。この点については、国衛や荘園の一役人として、田畠などの絵図を作製する職務の図師が居住していたのではないかとの説もある。
上記の見解によるならば「宇都宮辻幕府」とある碑の文字は、「宇都宮辻幕府」とするのが正しい表示というであろう。という記述がありました。
(宇都宮辻幕府旧蹟の碑)
(小道の一角に建てられた碑)
(御宮の際の碑)