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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 宗教の真理から独立した法的秩序?

2007年06月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 宗教の真理から独立した法的秩序?

1-真の宗教の判別は、国家の裁量外?

 信教の自由に関する公会議宣言の起草委員会は、信教の自由に、何らの定義付けを欠いた「客観的な道徳秩序」を含む「公の秩序」以外の法的制限を定めることを拒否した。とりわけ同委員会は、宗教上の事柄における真・偽についてのいかなる判断をも、信教の自由の「正当な制限範囲」の基準として含むことを拒否した。
 この拒否を盾に取って、同委員会の報告係ドゥ・シュミット司教は『修正草案の再修正に関する報告』(”Relatio de reemendatione schematis emendati” 1965年5月26日付)において、次のように議論を展開している。
「[同宣言においては、]宗教上の事柄における真偽の判断を国家がなすということは、まったく問題外です。ここで問題となっているのは、公の場で自らの良心に従って行動する人を、彼の行動が公の秩序を著しく害さないかぎり、一切の処罰・制裁から免除するということです。(中略)より精確に言うと、ここで問題となっているのは、公に自らの宗教上の見解を表明する個人を、公権が強制力によって拘束できるかどうか、という点です。このように問題を提起した後で、公権には宗教上の真偽を判定することは属さず、却って公の犯罪の場合をのぞき、強制的措置を避ける義務が帰属する、という原則が確認されます。(中略)この意味で、「認容」は、真理ならびに賢慮によって形相付けられた精神の態勢(ハビトゥス) を指す道徳的概念です。しかるにこの態勢は、何か悪いものであると[何某かの悪であると]把握され、なおかつ正当な理由によって許容すべき事物を対象とします。(中略)しかしながら、これを根拠として誤謬の認容を、国家がそれにしたがって行動するよう義務付ける法的な概念に変換することは許されません。なぜなら、国家は宗教自由の事柄における真理および虚偽をについての判断を下す権限を持った権威ではないからです。したがって、国家によって「認容されるべき」宗教上の誤謬 という概念はもはや通用しません。
(中略)公会議宣言の草案が「無宗教」ないしは「宗教上中立」の国家を奨励するように思われるとしても、これを危惧する必要はありません。なぜなら、同草案は人間生活のの2つの領域、すなわち世俗的および神聖な領域、市民としての領域と宗教者としての領域という、伝統的な区別に依って立っているからです。最近では、レオ十三世教皇が、2つの社会、2つの法的領域、2つの権力の存在を指摘して、この教説を見事に発展、拡張しています。同教皇は、この両者が天主によっていずれも、しかるに異なった仕方で、すなわち自然法とキリストの実定的な法とによって制定さられたものであると教えています。信教の自由の概念はこの区別に依拠しています。さらに言うならば、この区別は、信教の自由の概念を、歴史が往々にして生んできた誤解・混同から確実に守る遮断壁なのです。」(p.48-50)

【疑問点 26】
 国家が宗教上の事柄における真偽についてのを下す権能を有さないということは、上述の文書の筆者が示唆しているように教義的原則(すなわち国家の本性自体に基づいた原則)なのか。もしそうだとすれば、この原則は、国家がかかる判断を下し、かつこれに従う義務についての諸教皇の教え、また国家レベルでの宗教不可知主義(すなわち、国家が宗教上の真理を識別することは原理的に不可能だとするやり方)の排斥と相容れるのか。

「国家首長は・・・宗教を助長し、好意的に保護し、法の保護の権威でそれを擁護するべきである。・・・市民社会は、・・・その仕事が容易くできるように保証しなければならない。・・・その主要なものはその義務が人間と天主とを結びつける宗教を聖なるものとして実践し不可侵のものとして守ることである。真の宗教がどれであるかを知ることについては、賢明と誠実さとをもって判断しようとするものにとっては難しいことではない。実に(カトリック教会が真の宗教であることに関する)証拠は数限りなくある。・・・」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.23 / PIN 131-132 / 回勅『リベルタス・・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 203-204)

「国の為政者は、自ら、キリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。」
(ピオ十一世 回勅『クアス・プリマス』 Actus III p.77 / PIN 543)

「角の親石とも言うべき「生活についてのキリスト教的観念」を放棄して道徳上および宗教上の不可知論に依拠しようとする憲法が(中略)社会のただ中にもたらす厭(いと)うべき結果についてよく考えてみるならば、カトリック教徒は皆、今、何にもまして関心を抱き、そのために働くべき問題は、「健全な宗教上の原則」に反さず、却ってそこから力強い霊感をくみ取り、かつかかる諸原則が目するところの気高い目的を公言し、首尾よく追求する国家の根本的な法の善益を今日および未来の世代に確保することであると容易に理解するでしょう。」
(ピオ十二世 第一9回イタリアカトリック社会週間へ宛てた手紙 [1945年10月19日付] Documents 1945 p.246)

【疑問点 27】
 先の引用文で報告担当者が断定するように、国家が専ら自然的次元にのみ限定される(かくして国家は超自然的次元で活動する教会とは対局に置かれる)ということは、「2つの権力」に関するレオ十三世教皇の明白な教えに合致するのか。また、この教説は、ピオ十一世が『クアス・プリマス』で、すなわち国家の為政者は、キリストの支配、確かに超自然的なものであるこの支配に服従する義務を有する、という教えと相容れるのか。最後に、信教の自由は、このような国家の自然主義的観念に依拠するかぎり、確固とした基盤に立脚しているといえるのか。


2-法的実証主義?

 前述の報告担当者は、このリスクに気がついたのか。いずれにせよ、彼は(宗教上の事柄について)国家が判断を下す権能を持たないということを、宗教的信念自体の内容についての価値判断形成、および「真の宗教の有する権利」ならびに「他の諸宗教の認容」という「道徳的」概念の「法律上」の表現における、法的団体に本質的に属する権能の限界によるものとしている。
 したがって、「認容される宗教」という表現は、「法的拘束からの免除」というより一般的な表現に取って代えられるが、後の概念は同時に、真の宗教の有する権利をも意味する。真の宗教に対しては、まさに真の宗教であるかぎりにおいて有するところの「権利」は認められず、単に「特殊な状況」における ―例えば当の宗教が国民大多数の宗教である場合― 「特殊な認知」のみが与えられている。したがって、ここで問題とされているのは、現実の状況であり、真理に属する権利ではない。このように、シュミット司教は、社会の法的機構は原則上個人間の関係における交換的正義 を規制することに限られ、個々人の真理に対する関係、殊に天主という真理に対する関係については一切関与しないという驚くべき教説を展開したが、同様にジョン・カートニー・マレイ神父による公権の家父長主義的な概念(レオ十三世教皇の論説において顕著に見られ、しかるにこれは世襲的君主制という歴史的状況によるものだとされるところの概念)から立憲制の民主的および社会的国家の近代的な概念(当の概念は個々人の個人的かつ政治的良心の目覚めに関連付くものとされる)への移行についての論文を発表し、関心を集めた。これらの試みの意図したところは、教会が幾世紀にもわたって変わらず教えてきた教義を骨抜きにし、ピオ十二世まで歴代の教皇によって排斥されてきた徹頭徹尾の歴史相対主義に取って代えることだった。これらの誤謬およびどちらにもとれる曖昧(あいまい)な教説を分析することは筆者の目するところではない。ここで、まず確認しておかなければならないことは、このような道徳上のみならず宗教上の真理に関する法的次元における不可知主義が純然たる法的実証主義(これも同じく、ピオ十二世までの諸教皇によって排斥されてきた誤謬である)ではないか、という点である。

【疑問点 28】
 国家が実定的神法に基づく真の宗教と諸々の誤った宗教との区別を成し得ず、また法的な言葉遣いで真の宗教が有する権利と他の諸宗教の認容との間の神学的な区別を表現することができないというのは、ピオ十二世による法的実証主義の誤謬の排斥と相容れるのか。また当の原則は、これらの区別を憲法上法的に具現化している国々の非難を意味するものか。以下に引用する文書は、この原則を排斥しているように思われる。

「権利は物理的事実にある。およそ人間の義務たるものは全て、空虚な言葉にすぎない。かえって、人間の世界において生成する全ての事実こそが権利の力を有する。」
LIX. Jus in materiali facto consistit, et omnia hominurn officia sunt nomen inane, et omnia humana facta juris vim habent.
(ピオ九世 「シラブス(排斥命題集)」第59排斥命題 Recueil p. 31)

注:物理的事実(materiale factum)および人間の世界において生成する事実(humanum factum)とは、ある国家において存在する事実上の状態のことを意味する。この排斥された意見によれば、権利とはこの事実上の状態を描くので満足すべきであって、その価値について一切判断を下すべきではない、と主張している。

「このような危機の直接の諸原因は、主要に法の実定主義(positivisme juridique)と国家の絶対主義に求められなければならない。この両者は相互に由来し、互いに依存し合っている。もしも天主の自然実定法によってかつ不可変の法によって構成された基礎を法から取り除くなら、国法の上にそれをあたかも最高法であるかのように築き上げるしか残されていないことになる。これが絶対国家の原理である。・・・
最高の主として天主を認めることや、人間の天主に対する依存を、国家と人類共同体にとって利益のないことであると特に考えるような「法制」を見いだすためには、かなり歴史を遡らなければならないのだろうか?・・・
法体秩序はもう一度道徳的秩序に結びつけられなければならない。・・・ところで、道徳秩序は本質的に天主の上に、天主の御旨、天主の聖性、天主の存在の上に築き上げられている。法学の最も深遠で最も繊細な知識も、不正な法と正しい法とを区別し、字面だけの法と真の法とを区別するための基準として、ものごとの秩序と人間の秩序の上に基礎をおく理性の光だけによって既に認められた基準以外、また人間の心の中に創造主によって書き込まれた法(ローマ2:14-15)、そして啓示によって明らかに確認された法の基準以外に何も指摘することができないだろう。もしも法と法学とが、正しい道を維持させることができる自分たちの唯一の道案内を捨てようと望まないのなら、「道徳的義務」というものを客観的規則であり法的秩序においても有効なものとして認めなければならない。」
(ピオ十二世、1949年11月13日教皇庁控訴院の教皇庁裁判所での訓話 “Con vivo compiacimento”, PIN 1064, 1072, 1076)

注:この「道徳的秩序」において、人間の宗教的義務を完全な法として結論しなければならない。この義務は十戒の第一戒によって明示され、イエズス・キリストの新法である「天主の実定法」によって明確にされた。法的秩序による真の宗教をそれとして認識することは、天主の実定法の要求に含まれている。しかもこのことは真の宗教を真なるものとして見る信憑性の判断は、それ自体として理性の自然の力を超えるものではないが故により容易になされうる。(レオ十三世の回勅『インモルターレ・デイ』および『リベルタス』を参照せよ。)

「そこから二つの原理が明らかになるが、諸国家の共同体(或いは連合体)に関する上記に挙げられたような宗教的・道徳的寛容の形式に対して、法学者、政治家、カトリック国家元首が取らなければならない態度を、これらの二つの原理から、具体的なケースにおいて、導き出さなければならない。
 第一に、真理と道徳的法に対応しないものは、存在することにも宣伝することにも行動することにも、客観的にいかなる権利も存在しない。
 第二に、国家の法という手段によってそれを妨害しないという事実と強制的な法律の事実は、より上位のより広範な善という利益において正当化されうる。」
(ピオ十二世、Ci riesce, PIN. 304)

「近年、海を隔てたある国で、互いに対立する機構を持った2人の著者の間で交わされた論争については、よく知られていますが、この論争に置いて上述の教説を説く方[おそらくマレイ神父]は、次のように主張しています。「倫理ならびに神学の領域を起点として、そこから憲法をはじめとする基本的な法の領域へと導く推論は、弁証的に不可能である」、と。すなわち、これは国家が天主をあがめ尊ぶ義務は、憲法の領域に決して入り込む余地がないということを意味するものです。・・・まさに、このために教会法の教本で解説なされるところの教理に対して攻撃されるのです。」
(アルフレッド・オッタヴィアーニ枢機卿 ラテラン教皇立アカデミーでの訓話 1953年[1953年3月23日付] “L’Eglise et la Cité” 多言語刊行物 バチカン 1963年 p.275-276)

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聖伝のミサについての自発教令(モートゥー・プロプリオ)は7月7日に公表

2007年06月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 聖伝のミサについてのベネディクト十六世教皇様の自発教令(モートゥー・プロプリオ)は、7月7日に公表されるそうです。
 既にローマでは6月27日に世界中からの30名の司教様たちには世界中の司教たちの代表として内容が伝えられたそうです。

◆Motu proprio coming July 7

◆La Croix: Motu Proprio revealed to world's Bishops

◆OFFICIAL: MOTU PROPRIO on July 7th

◆OFFICIAL: MOTU PROPRIO on July 7th

◆ Motu proprio zur 'Alten Messe' am 7. Juli

 続けてお祈りをいたしましょう。

聖ペトロと聖パウロよ、我らのために祈り給え!

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 主観的権利、それとも客観的権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 拘束を伴わない探求?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 対話、それとも説教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真理の宗教? それとも偽りの宗教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 誤った諸宗教の有する権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の宗教の原則が認知されないことこそ「正常な」状態?

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: すべての信教の自由が最良の制度?

2007年06月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ すべての信教の自由は、最良の制度?

1-『信教の自由に関する宣言』 6
「国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特殊の宗教団体に特別の地位が認められている場合にも、全ての市民と宗教団体とに信教の自由の権利が認められ、尊重されなければならない。」

【疑問点 23】
 この主張は、ピオ9世による、次の命題の排斥と相容れるのか。
「特定のカトリック教国において、そこに移住している人々に彼らの固有の礼拝を公に実践することが許されるように法が配慮しているが、これは賞賛すべきことである。」
(ピオ9世 「シラブス(排斥命題集)」第78排斥命題 Recueil p.35)

2-『信教の自由に関する宣言』 13
「そのため、信教の自由の制度が、単に口で宣言されまた法で定められるだけでなく、誠意を持って実行に移されるならば、その時に、教会は、法律上および事実上安定した条件と神の使命を遂行するために必要な自律性を与えられることになる。」

【疑問点 24】
 第二バチカン公会議は、天主から与えられた教会の使命は、国家権力に対する自立のみを要求し、これに加えて、法律上の保護ならびに優遇を、当然の権利として求めるものではない、と教えているのか。実際これは、パウロ6世教皇が公会議閉会時の「国家首長に対するメッセージ」(1965年12月8日)で示した見解と軌を一にしている。

「あなた方の地上的かつ現世的国家社会において、[キリストは]ご自分の霊的にして永遠の国である教会を神秘的なしかたで建設されます。この教会は、およそ2千年の間、あなた方地上の権力者たちとの関係において、ありとあらゆる有為転変を経てきました。およそ2千年の間、あなた方地上の権力者たちとの関係において、ありとあらゆる有為転変を経てきた教会は、今日あなた方に何を求めるのでしょうか。教会は、この要求を公会議の主要な文書の一つであなた方に伝えました。「教会が求めるのは、ただ自由だけです。」信じる自由、自らの信仰を宣布する自由、自由の信奉する天主を愛し、これに仕える自由、生活し、人々に自らが有する命のメッセージを伝える自由です。この自由を恐れないでください。なぜなら、この自由は、その教師[たるキリスト]と同様、自らの神秘的なはたらきによってあなた方に固有な権利を侵すことはなく、かえって人間に属する事柄一切をその宿命的な脆(もろ)さから癒し、これを変容し、希望、真理、美とで満たすからです。」

(In your earthly and temporal city, God constructs mysteriously His spiritual and eternal city, His Church. And what does this Church ask of you after close to 2,000 years of experiences of all kinds in her relations with you, the powers of the earth? What does the Church ask of you today? She tells you in one of the major documents of this council. She asks of you only liberty, the liberty to believe and to preach her faith, the freedom to love her God and serve Him, the freedom to live and to bring to men her message of life. Do not fear her. She is made after the image of her Master, whose mysterious action does not interfere with your prerogatives but heals everything human of its fatal weakness, transfigures it and fills it with hope, truth and beauty.)

 もしそうだとすれば、公会議の教えは、国家が真の宗教を認知し、これを優遇すべきであるとするレオ十三世の教えと相容れるのか。(回勅『インモルターレ・デイ』参照 PIN 131-132, 142)

【疑問点 25】
 第二バチカン公会議が「信教の自由の制度が(中略)実行に移されるならば、その時に、教会は、法律上および事実上安定した条件と神の使命を遂行するために必要な自律性を与えられることになる」と述べる際、同公会議は、国家がカトリック教会を法的に優遇する政治体制は、法律上および事実上、天主に託された使命を遂行する上で、より好ましくも、有利でもないと教えているのか。もしそうだとすれば、この教説は、レオ十三世が、先に引用した回勅『ロンジンクア・オチェアーニ』で示した教えと相容れるのか。また、この教説は、教会と国家との和合的一致こそ、法律上および事実上、教会ならびに人々の霊魂のみならず市民社会のために、最良の政治体制であるとし、これと反対の論説を排斥した諸々の教皇のきわめて明白な教えと相容れるのか。

「現代において、他のすべての宗教をさしおいて、カトリック教を国家の唯一の宗教とすることは、もはや通用しない。」
(ピオ9世 「シラブス(排斥命題集)」第77排斥命題 Recueil p.35)

「あらゆる信教に法律上の自由を与え、あらゆる意見や思想をあけっ広げに公表する十全な権能をすべての人に与えることは、人民の道徳と人心をより容易く腐敗へと導き、宗教無差別主義の疫病を伝播させる」というのは間違っている。」
(ピオ9世 「シラブス(排斥命題集)」第79排斥命題 Recueil p.35)

「したがって、この2つの権力の間に、しかるべく秩序付けられた関係体制が存在しなければなりませんが、この関係は、人間において霊魂と身体の一致を形成するところのそれに類似したものです。」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.27/ PIN 137)

「そしてこれは、互いに結び合わされた両者それぞれの福利のためです。両者を切り離してしまうことは身体に取り返しのつかない害を及ぼす―つまり、その生命自体を消滅させてしまう― こととなるからです。」
(レオ十三世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』Actus II p.193 / PIN 200)

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の宗教の原則が認知されないことこそ「正常な」状態?

2007年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 真の宗教の説く諸々の原則が公に認知されないことこそ、「正常な」状態?

『信教の自由に関する宣言』 6
「国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特殊の宗教団体に特別の地位が認められている場合云々」

【疑問点 21】 「特殊な事情という言葉づかいをとおして、第二バチカン公会議は、社会の正常な状態とは、真の宗教に対するいかなる[公の]認知も成されない状態である、と教えているのか。もしそうなら、当の教説は、教会がこれまでに教えてきた教理と相容れるのか。次に引用する排斥文書は、教会の従来の教えを示している。
「現代において、他のすべての宗教をさしおいて、カトリック教を国家の唯一の宗教とすることは、もはや通用しない。」 (ピオ9世 「シラブス(排斥命題集)」第77排斥命題 Recueil p.35)

 また、以下に引用する文書は、教会の従来の教えである。
「歴史家は、次のことを忘れてはならないだろう。つまり教会と国家とが戦う時代があったとしても、コンスタンチノ大帝から現代までしかもつい最近まで、しばしば長くつづいた平安な時代があり、その間に両者は人々の教育について完全な理解のうちに協力していた時代があったことを。教会は原則的にこの協力関係を正常であると見なしていること、そして真理の宗教における国民の一致と教会と国家との行動の一致との理想であると考えていることを隠さない。」
(ピオ十二世 1955年9月7日の第十回歴史科学国際会議での講話より Documents 1955 p.293-294)

【疑問点 22】
 国家による真の宗教の認定の有無に基づいて、どの場合に社会が正常な状態、もしくは例外的な状態にあるかを定める第二バチカン公会議の教えは、この点に関して[関する限り]、諸国家社会が日増しに宗教多元主義に傾きつつあるという現代の歴史的状況に[のみ]関連し、この(=第二バチカン公会議の)教えは公会議以前の完全にカトリックのであった多くの国々には適用せず、また将来いつの日か、この教えは通用しなくなる可能性がある、と教えているのか。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日

ピオ十二世教皇の回勅“AD SINARUM GENTEM ”(支那の国民に対し)を推薦します

2007年06月22日 | 共産主義
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ピオ十二世教皇の1954年10月7日発布の回勅“AD SINARUM GENTEM ”(支那の国民に対し)を推薦します。

 これを読むために、次のような歴史的経過を頭に置いて下さい。

◆ 中共のカトリック教会迫害

 1949年に「中華人民共和国」が成立。共産主義の中国では、毛沢東がキリスト者を「帝国主義のスパイ」と見なして教皇大使代理(internuncio)と外国人宣教師たちを全て国外追放に処した(その当時、合計約3000名)。

 1951年、「三自」運動を開始し、中国大陸に残る100の司教区にいる2500名の中国人司祭と400万名の信徒たちで三自教会を設立しようとした。

 「三自運動」とは、プロテスタント起源(中国基督教協進会の主席呉耀宗を中心とする)の中共政府との協力運動であり、≪三自運動≫の教会につく者のみが、真に祖国を愛する者であるとの誤った主張。≪国民的≫教会を設立する事を目論んでいる。「三自」というのは自治(中国人が自分で教会を管理運営する。司牧権の独立)、自養(教会運営資金は自分で稼ぎ、外国宣教団からもらわないで、金銭面でも自分の力で教会を維持する。経済的独立)、自伝(中国人のみが自分たちの布教活動を行い宣教する。教導権の独立)ということであり、「三自運動」組織は人民団体として、中共政府の指導のもとに革命と建設に協力する。こうして中国ではキリスト教会は「三自愛国運動」という政府管理下の組織だけが活動を公認された。
 中国の天主教会(カトリック教会)では、支那の教会の司牧、経済、宣教に関する独立を目ざして、一人の司祭と約四十人の信徒の集団を端に、「三自」革命運動が始まった。約5年間の運動の後、三千人の支那人司祭の中、約三十人が「三自運動」に荷担したが、大部分の支那人司教、司祭及び信者達は監獄にあって迫害に耐えた。

 ピオ12世教皇様は、1951年4月9日、教皇様の任命(或いは追認)なき全ての司教たちを、その国籍と典礼様式を問わず、全て自動破門( ipso facto excommunication )とする法令を発布した。それ以前の制裁は、聖職停止だけ。(1917年の教会法「聖座を許しを与えるまで法自体によって聖職停止になる」(Ipso jure suspensi sunt, donec sedes Apostolica eos dispensaverit. Canon 2370, CIC 1917、1983年の教会法もこれを踏襲して、聖座に許しが限定された自動破門 excommicatio latae sententiae (Canon 1382, CIC 1983))

 また、同時にこの教皇の許しなき司教聖別に関わる全ての司教たちをも同じ罰で処罰することにした。1952年1月18日の使徒書簡( Cupimus in primis )で、ピオ12世は中国人たちが共産主義者の迫害に抵抗するように励ました。そして怖ろしい迫害が始まった。

 1954年10月7日、ピオ十二世は、回勅「アド・シナールム・ジェンテム“Ad Sinarum Gentem”(支那の国民に対し)」を発表。

回勅「アド・シナールム・ジェンテム“Ad Sinarum Gentem”(支那の国民に対し)」【英語版】


 1957年、中共は「三自運動」の延長線上に、中国天主教愛国協会を設立。1958年6月29日、ピオ12世は新しい回勅「アド・アポストロールム・プリンチピス(Ad apostolorum principis)を発表し、「愛国協会」は離教状態にあること、そしてカトリック信徒はそれに加わってはいけないことを命じた。何故なら、彼らはキリストの真の教会とは別の「教会」を捏造したからだ。

 1958年12月の枢機卿会議で、ヨハネ二十三世はこの排斥を繰り返した。


◆ この回勅の中で、ピオ十二世教皇様は次の3点を指摘しています。

 ≪司牧権の独立≫

(1)外国人宣教師らは、世俗的理由に動かされているのではなく、キリスト教の教理の光に依て照らし、キリスト教的道徳を以って教育し、超自然的愛を以って助ける事以外何も要求せず、またそれ以上に何か良い事があるとも考えていない。

(2)支那自国民の聖職者が増加し外国人宣教師の共同活動を必要としなくなった暁に於ても、キリストの地上の代理者たる教皇に、彼が信仰及び道徳に関する事柄には密接に繋がっているが故に、全く従わねばならない。

(3)天主の御旨に依て一般人或は地上の権力が教階制度の諸権利と構成を侵す事が禁じられている(トリエント公会議 Sess. XXIII, De ordine cann. 2-7; 及びヴァチカン公会議 Sess. IV; C. I. C. Cann. 108と109参照)。


 ≪経済的独立≫

(1)教皇は、支那の信者自身に依てなされる援助が支那のカトリック教会の必要を満たすに足るようになり得る事を切に希望している。

(2)諸外国に於いて集められた寄附は、キリスト教的愛から起こったもの。この愛に於いて、或は兄弟の契を以て互に結合もし、或は聖なる愛に動かされて、各人の力の限り我等の贖主の御国の拡張の為、あくまで挺身しなければならない。


 ≪教導権の独立≫

(1)キリスト教の教理に於ても≪独立≫ということはおかしい。イエズス・キリストによる天与の福音を、各国に違ったように解釈し得ないからだ。

(2)牧者は発明家でも創始者でもなく、只単に、権威の番人であり、天主より定められた伝達者であるに過ぎない。人間精神の所産たる教理の教師ではなく、主キリスト御自身が教え給い、しかして己が使徒とその後継者達に教えるよう厳粛に托し給うた御教を、職務上の良心にかけて受け取り、且つそれに忠実に従うべき。


 教会の≪カトリック性≫乃至≪超国家性≫

 ≪三自運動≫とか、その他それに類するものにと連なる危険な諸原理を保持する人々のように、以上説明した事と違って宣言し且つ教える人は、誰しもカトリック者とは考えられない。彼等は自分等の頭の中で捏造した教会、即ち≪三自運動≫の教会につく者のみが、真に祖国を愛する者であるとの誤った主張をしている。力にかけても≪国民的≫教会を設立する事を目論んでいる。しかし、それは、イエズス・キリストに依って築かれた真の教会、且つ国民を包括する普遍性乃至は≪カトリック性≫を否定しますが故に、それは最早カトリック教会ではない。


◆ この回勅をお読みになった後に、「カトリック教徒たちは中国における2008年オリンピックから閉め出されるべきなのか?」をもお読みになって、中共の迫害に苦しむカトリックの信徒の方々のためにお祈りをお願い致します。


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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 自由な国家における自由な教会?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 自由な国家における自由な教会?

1-『信教の自由に関する宣言』 13
「教会の自由は、教会と公権および全ての社会秩序との関係の根本原理である。」

【疑問点 18】 「教会の自由」という言葉をとおして、第二バチカン公会議は、「信教の自由を保護する政治体制」においてカトリック教会のみならず、他の諸宗教にも保証される自由を意味しているのか。もしそうであるとすれば、第二バチカン公会議は、かかる「教会の自由」が、教会と国家との関係を律する「根本原理」であることを、しかも単に教会を抑圧する国家という特殊な状況にかぎらず、あらゆる状況に適用する原則としての根本原理であることを教えているのか。もしそうなら、この教説は聖書ならびに諸教父、諸教皇の教えと合致するのか。なぜなら、この[伝統的]教えによれば、教会と国家の関係を律すべき根本原理は、「充全な自由」、すなわちキリストが正当に国家社会の王であるのと同様、教会が女王として君臨するところの自由———かかる自由を教会はたえず要求するのだが——したがって、国家(civile)の法制をキリスト教的、カトリック的原理によって「形相付け」し、浸透する自由に他ならないからである。

 実際、第二バチカン公会議の説くこの教えが、ピオ9世、レオ十三世両教皇による「自由な国家における自由な教会」をモットーにしたカトリック・リベラル派の排斥と矛盾するのではないかと正当に問うことができる。次に挙げる引用文は、まさに両者が矛盾背反することを示している。

「彼(キリスト)は統治しなければならない。」(コリント前書15章25節)

「私は、忠実な友としてあなたに願います。(中略)天主の法の下に生き、あなたの意志をことごとく天主の御旨に従わせなさい。あなたが天主の御旨にそって統治するとき、はじめてあなたはあなた自身にとって有益なかたちで統治するのです。多くの悪い王のように、教会が、奴隷が主人に対するが如く、あなたの手に委ねられたと思いこんではなりません。教会は、その弁護者、かつ守護者に対するが如くあなたに託されたのです。この世の中で、教会の自由ほど天主の御目に尊いものはありません。天主は、その花嫁[である教会]が奴隷ではなく、自由であることをお望みになります。子が母親に対する敬意をもって教会を処遇する者たちこそ、自らが教会の子、天主の子であることを証明するのです。」
(聖アンセルモ、エルサレム王ボドアンへの手紙 PL CLIX, 206)

「君主の中のある者が、異教徒流の独裁政治の専制的な処し方を捨てきれず、[教会に対する]合法的な保護を早々に抑圧へと化し(中略)、かつキリスト教的精神にそぐわない五剛猛さをもって行動したことは否めないとしても、教会においては、聖ヒラリオや聖マルチノ、聖アタナジオ、聖アンブロジオならびにそれに類した多くの信仰の人、温かい心情を持った人が輩出し、これらの暴君にキリスト教的柔和の精神を思い起こさせ、剣による使徒職を放棄させ、宗教上の信条は決して暴力によって課されるべきではないことを宣言し、そして君主らの迫害にも関わらず広まったキリスト教は、同じく君主らの優遇なしに存続、発展することができ、かついかなる専政にも臣従するべきでないことを公言したという事実を忘れてはなりません。私たちは、信仰および母なる教会の自由のために闘ったこれらの気高い英雄の発した一つ々々の声明を知っており、これを熟慮してきました。しかしながら、行き過ぎ、権利の濫用に対して抗議し、また時期外れで不賢明な、[旧体制への]回帰―これは時として聖職者特権の原則ならびに規範を侵害するものでした―を弾劾したこれらのカトリック教会博士たちの誰一人として、キリスト教の真理を公に表明し、これに自らの行動および制度をしたがわせることが諸国民、ならびにその首長の義務であることを疑いませんでした。彼らはまた、諸国家および国家首長の義務となるところには、公然の不敬神としての性格を帯び、かつ世俗的ならびに宗教的社会の只中に混乱と無秩序とを引き起こす不当な侵害を、時代および人々の性向に応じて予防的、あるいは抑圧的な法規によって禁止することをもがふくまれることを、夢にも疑いませんでした。」
(ルイ・エドゥアルド・ピ枢機卿 「現今の社会における主要な誤謬についての司教会議 第三訓話」Œuvres V p.177-178)

「実際、あなたたちの国(=アメリカ合衆国)では、国家の良好な憲法のためにいかなる法の束縛によっても縛られず、慣習法によって侵害行為から守られている教会は・・・何らの障害無しに存続し、行動する自由を確かな形で獲得したのでした。上記のことは全て正確な事実です。しかしながら、ここで一つの誤りに陥らないように注意しなければなりません。すなわち、教会にとっての最良の状態がアメリカにおいてそれが与っているところの状態である、或いはまた教会と国家との利害を分離・分断することが常に許され、かつ有益である、とする誤りです。・・・教会はもしもそれが法律上の優遇と公権の保護とを得るならば、はるかに多くの実りを生み出すでしょう。」
(レオ十三世、回勅『ロンジクァ・アチェアーニ』 Actus IV, p. 163-165)

「毎年くり返されるこの[王たるキリスト]の祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の礼拝と服従を示さねばならないことを、全ての国々に思い出させるでしょう。(中略)キリストの王としての権威は、全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上、それは当然のことです。


2-『信教の自由に関する宣言』 13
「教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、また全ての公権の前で、自由を要求する。」

【問題点 5】 第二バチカン公会議は、キリストが「天と地における」(マテオ 28章18節)その普遍的全能のゆえにご自分の教会にお与えになった神的掟、全ての民、すなわち個人のみならず、諸々の民ならびに国家を、まさに国家としてこれを教え、洗礼を授け、キリストの法に従わせるという掟から帰結すべき諸々の実際的結論を、しかるべく導き出しているのか。(例えば、カトリック教を国家の宗教として法的に認知すること。)


3- 『信教の自由に関する宣言』 13
「教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会[=団体] としても、自由を要求する。」

【疑問点 19】 教会が帯びる「完全な社会」としての性格を括弧に入れ、「市民社会における他の諸団体」と同列に置くこの原則は、第二バチカン公会議によって、それ自体として、また全ての場合において有効な原則として保持されているのか。もしそうだとすれば、この原則はカトリック国家において、教会を国家内における他の全ての団体・組織に共通の権利に引き下ろす法律を排斥する教会の教えに相容れるのか。この点に関する教会の教えは、例えば次に引用する文書に如実に示されている。

「司教であるあなたに、フランスにおけるカトリシズムが、この条項[フランス憲法第二8条]によっていかに致命的な傷を被るかを明らかに理解させるために、長々と述べる必要はないでしょう。全ての宗教に見境なく自由を与えること自体によって、真理と誤謬とを混同し、キリストの聖にして汚れのない花嫁、その外では決して救いが得られない教会を、諸々の異端宗派はおろか、[主を]裏切ったユダヤ教と同列に置くことになります。」
(ピオ7世 回勅『ポスト・ディウトゥルナス』PIN 19)

「国家が、今日大いにもてはやされている当の原理[教会と国家の分離]に依拠しているかぎり、教会がいかに不当な地位に置かれているかは、およそ容易に見てとることができます。事実、かかる教説に沿って物事が取りはこばれている所では、カトリック教は国家において、それとは異質な種々の団体・組織と同列に、はてはそれに劣った地位に置かれているからです。教会法は考慮に入れられず、すべての国々、すべての民を教え導く、という命令と使命をイエズス・キリストから受けた教会は、公教育における一切の介入を禁じられています。(中略)要するに、[諸国の首長は]教会を、あたかもこれが完全な社会としての権利ならびに性格を有せず、国家において存在する他の諸団体と同類の組織であるかのように扱っています。」
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.35-37 / PIN 144)

「現代の病、それは、いわゆる政教分離主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎(うと)んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。」
(ピオ十一世教皇 回勅『クアス・プリマス』Actus II p.83-84 / PIN 552-554)

【疑問点 20】 第二バチカン公会議は共通の権利」を、あらゆる状況を含む絶対的原理として要求しているのか。[第二バチカン公会議は、あらゆる状況を含む絶対的原理として「共通の権利」を要求しているのか。] もしそうだとすれば、かかる論説は、現代最良の神学者の一人、「ローマ的神学者」と呼ばれるレジナルド・ガリグー=ラグランジュ神父が以下に解説するところの教説とどうやって両立することができるのか。

「無論、私たちは信教の自由を起点として、この信教の自由を標榜しつつ、なおかつ真の教会を迫害し、その礼拝行為を禁止する者たちに対して、彼らだけを対象とした方便的な議論を展開することができるでしょう。このような、特定のグループを対象とした議論は正当であり、カトリック教会はこれを蔑ろにせず、かえって自らの権利と自由とを守るためにこれを用います。しかし、この事実から、「信教の自由」が、まさにそれ自体としてカトリック信者により絶対的な仕方で養護され得るということは導き出されません。なぜなら、信教の自由は、それ自体として不条理かつ不敬神なことだからです。実際、真理と誤謬とは、同一の権利を有し得ないのです」。(De Revelatione, Rome-Paris, Ferrari-Gabalda, 1921 t.II p.451)

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 真の信仰にとって有利となる国家の不介入?

『信教の自由に関する宣言』 3
「公権の本来の目的は現世的共通善を配慮することにあり、当然市民の宗教生活を認め、奨励しなければならないが、宗教行為を指導または妨害することができると考えるなら、公権の限界を超えていると言わなければならない。」

【疑問点 17 】
 第二バチカン公会議は、具体的にカトリック教国において、教会が他の諸宗教に対しての援助を求めることができない、と教えているのか。たとえそれが、人々の霊魂を誤謬から守るという直接的に、かつ純然たる霊的な目的に即してではなく、同国の公の平和と現世的共通善の枢要的要素としての宗教的統一性を維持するという動機からであったにせよである。もしそうであるとすれば、かかる教説をレオ十三世教皇の次のように明確な言葉づかいで述べている教えと、どうやって相容れることができるのか。
「したがって、国家の首長は(中略)宗教を助長、かつ厚意的待遇をもって保護し、法の保護的権威をもって援助することを自らの主要な義務の一つとしなければなりません。(中略)彼がはかるべき[便宜]の中で第一のものは、それが課す義務をとおして人間が天主へと結ばれるところの宗教の神聖かつ侵すべからざる遵守を尊重させることです。どれが真の宗教であるかを決めることについて言えば、これは困難なことではありません。」

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【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 権利、それとも認容?

2007年06月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 権利、それとも認容?

『信教の自由に関する宣言』 4
「なお宗教団体は自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。」

【疑問点 14】
第二バチカン公会議が諸々の誤った宗教に対して認めている信教、ならびに伝道活動を行う権利は、国家がこれらの宗教ならびにその信者を認容する義務、ピオ十二世が、先に引用した訓話で次のように表現しているところの義務に相当するのか。
「国家の法ならびに強制的条例によって[真理にそぐわない事柄]を妨げないということは、より上位かつ、より広汎な善の利害のために正当化され得る」。

【疑問点 15】
第二バチカン公会議は諸々の誤った宗教とその信奉者が、原則として、またあらゆる状況において、カトリック教国において認容される(当然の)権利を有していると教えているのか。もしそうだとすれば、かかる教理はレオ十三世、およびピオ十二世教皇の教えと相容れるのか。両教皇は、誤謬ならびにそれに追従する者たちに対する認容は、とりわけそれが宗教上の事柄における場合、原則としてではなく、またあらゆる状況下においてでもなく、その存在理由自体によって定められる限度によって制限されるべきものであること、また誤謬、ことに宗教上の誤謬に追従する者たちに施される認容は、決して自由な活動に対する[当然の]権利ではないことを重ねて強調されたからだ。というのも、認容は政治的賢慮と愛徳のみによって付与されるものだからである。

【疑問点 16】
『信教の自由に関する宣言』は、教導的な文書ではなく、「妨げられない権利」という言葉が厳密な意味での権利、すなわち当然認められるべき要求ではなく、単に政治的賢慮と愛徳とが適当なものとして求めるところのものを意味する(舌足らずな表現であることはたしかだが)純粋に法律的な文書なのか。もしそうなら、『信教の自由に関する宣言』は、真に教導的な文書に対して示すべき同意ならびに一切の批判の放棄を、信徒から要求することができるのか。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日

中絶に関する国民投票についての公開書簡: 「ノー!」に投票する義務

2007年06月21日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 来月の参議院議員選挙に関連して、次の記事をもお読み下さい。

2月11日の中絶に関する国民投票についてポルトガルの人々への公開書簡
「ノー!」に投票するカトリック教徒の義務


 この記事のポルトガルという言葉を日本と置き換えて読んでみて下さい。


 日本の人々へ:日本の参議院議員選挙が早々と近づいているので、われわれは最大の緊急性をもってこの公開書簡をあなたたちに宛てて出します。なぜなら日本の人々は十字路に立っているからです。そして数日のうちに彼らの方向の選択は単に母胎における無数の無辜の生命の運命ばかりでなく、またわれわれの国家それ自体の運命をも決定するだろうからです・・・。

 中絶はいかなる国も「合法化する」あるいは支持することができない犯罪であるし、同性同士の「結婚」・男色もいかなる国も「合法化する」あるいは支持することができない犯罪であるからです。

 教会が常に教えてきたように、不道徳な法は全然法ではないのです。聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナスそしてすべての教皇たち、聖人たちそして教父たちは、カトリック教徒は単に不道徳な法を支持することを控えなければならないだけではなく、積極的にそれに反対し、たとえそれが法として施行されたとしてもそれに従うことを拒否しなければならない、と一致して宣言しています。

 あらゆる男女 - カトリックもそうでない人も - は中絶に反対しなければならない

 そして教会が中絶や同性愛を断罪していることはただカトリック教徒だけを拘束するだけである、あるいは近く行われる投票は「政治的」あるいは「社会的」問題であって、「宗教的」問題ではないと誰にも言わせないようにしましょう。政治は道徳によって支配され、そして道徳は自然法に由来します。

 中絶や同性愛は自然法の重大な違反です。自然法はあらゆる男と女の心に書かれており、そしてそれは何が善であり、何が悪であるかをわれわれに告げます。すべての人はその宗教あるいは国籍が何であろうともです。

 女性に同情をという誤った訴えによって左右されてはいけない!

 日本の人々よ、母胎内での殺人の主張者たちが困っている女性に対するあなたたちの同情を食い物にすることを許してはいけません。いかなる女性も彼女自身の子どもの破壊によって助けられ得たということは決してありません。中絶は女性たちに彼らの生涯の残りの間ずっととりつく恐るべき錯誤です。レズビアンを認めることも「同情」ではありません。

 秋田の聖母よ、日本のために祈り給え。
 秋田の聖母よ、日本の青少年のために、祈り給え。
 秋田の聖母よ、日本の女性たちのために、祈り給え。

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■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、天主の国を嗣がない。

2007年06月21日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア!

 来月は参院選がありますね。
 参院選比例代表には、レズビアン候補も出馬するそうです。
 民主党の尾辻かな子前大阪府議(32)で、日本で初めて同性愛者を公言した候補です。

“レズビアン候補”尾辻かな子氏が涙の会見

レズビアン参院立候補予定者が挙式

尾辻さん、同性挙式…民主・小沢代表から祝電も

「不正の人は天主の国を嗣げないことを、あなたたちは知らないのか。思い誤るな。淫行する者も、偶像崇拝者も、姦通する者も、男娼も、男色する者も、泥棒も、食欲な人も、酒飲みも、讒言する人も、略奪する人も、天主の国を嗣がない。」(聖パウロ:コリント前書6章)

 カトリック信者の兄弟姉妹の皆様は、是非良識をもって投票してください。

 兄弟姉妹の皆様、カトリック信者が投票に行ってまともな政党に投票しないと、比例代表でこのレズビアンが当選して、同性愛者が当たり前の社会になってしまう虞があります。

 天主の定めた自然法に反するレズビアンの民主党参議院議員候補者の尾辻かな子ですが、民主党に属しています。だから民主党には私たちは投票することができません。

 カトリック信徒の方々が何も行動を起こさないと、あれよあれよという間に、カトリック信者がまともな生活を送ることさえもできなくなってしまいます。フェミニズム、性教育、その他、天主の定めた自然法に反する悪しき政策が、組織票のある労組などの支援を受けるサヨク政党やそのほかの宗教団体などの主張と思いの通り、政策に反映されるようになり、真理というよりも数の支配がまかり通るようになってしまいます。

 カトリックも行動を起こさなければならない、ということです。いくら私たちの愛する子供たちが聖伝のミサにあずかっても、学校でコンドームの装着の実習の授業を受けて、ポルノ映画を見せられたのでは、どうして貞潔の徳を保つ良きカトリック信者になるでしょうか?

 繰り返して申し上げますが、カトリック信者の兄弟姉妹の皆様は、良識をもって投票してください。よろしくお願いします。

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第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 主観的権利、それとも客観的権利?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 拘束を伴わない探求?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 対話、それとも説教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 真理の宗教? それとも偽りの宗教?
第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 誤った諸宗教の有する権利?

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:誤った諸宗教の有する権利?

2007年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 誤った諸宗教の有する権利?

『信教の自由に関する宣言』 4
「なお宗教団体は、自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。」

【疑問点 12】
「信仰」という言葉は、カトリック信仰のみを指しているのか。それとも諸々の偽りの宗教が説く誤った信念をも同様に指しているのか。もしそうなら、第二バチカン公会議は、全ての誤った宗教に伝道の自由を認めているのか。もしそうであるとすれば、第二バチカン公会議は、かかる伝道活動が善であり、なおかつカトリック信者の信仰、カトリック教会がもつ全ての民を教え導く使命、ならびにカトリック諸国の宗教的一致を害するものではない、と主張しているのか。

【疑問点 13】
 第二バチカン公会議が諸々の誤った宗教に対して認めている伝道活動を行う権利は、教皇ピオ十二世の教えと両立し得るか。
「真理ならびに道徳法にもとる事柄は、客観的に見て、存在、宣布、活動を為すいかなる権利をも有しない。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)
あるいはまた、回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』(Actus II p.197 / PIN 207)における教皇レオ十三世の教えと相容れるか。


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【推薦図書】
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脳内汚染からの脱出

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:真理の宗教? それとも偽りの宗教?

2007年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 真理の宗教? それとも偽りの宗教?

1- 『信教の自由に関する宣言』 3
「実際、宗教の実践は、その性質上、第一に、人間が自分を神に関係づける任意で自由な内的行為にある。このような行為は、単なる人間的権力によって命じられたり、妨げられたりしてはならない。」

【疑問点 8】 「宗教の実践」という表現を通して第二バチカン公会議は、カトリック宗教の諸々の行為の外に、他の諸宗教の行為をも暗に指しているのか。もしそうであれば、第二バチカン公会議は、諸々の誤った宗教の「内的行為」によって「人間は自らを天主に関係づける」と教えているのか。もしそうなら、かかる主張は諸教皇による宗教無差別主義の排斥から免れ得るのか。


2-『信教の自由に関する宣言』 4
「さらに、宗教団体が、社会に秩序を立て、人間の全行動に活力を与えるために、その教義の特殊な力を自由に発揮することを妨げられないことも、信教の自由に属している。」

【疑問点 9】 これらの「宗教団体」の内に、カトリック教会の他にプロテスタント諸宗派、イスラム教の各派、仏教、統一協会をはじめとする種々のセクト 、フリーメーソン等々をも数えるべきなのか。もしそうなら、第二バチカン公会議は、これらの誤った宗教が説く教えの「顕著な効力」を認めているのか。つまり、人々の霊魂から恩寵を奪い(プロテスタント)、聖戦と不道徳とをいたる所に蒔き広げる(イスラム教)諸々の民を怠惰と無活動に陥らせ(仏教)、道を誤る者らを真の教会から遠ざける(種々のセクト)「特殊な力」を。


3-『信教の自由に関する宣言』 4
「したがって、このような団体は、正当な治安の要求が傷つけられない限り、・・・ 最高の神を公に礼拝する ・・・自由を享有する権利を持っている。」

【疑問点 10】 「最高の神を公に礼拝する」ことは、カトリック教の他に、プロテスタント教、ユダヤ教、イスラム教、さらには仏教、アニミズム、フリーメーソン等々の礼拝をも指すのか。もし、そうであるとすれば、第二バチカン公会議は、これらの礼拝がおよそ「真の天主に対する不適当な礼拝」もしくは「偽りの天主に対する礼拝」ではない、と主張するのか。言葉を換えて言えば、公会議は天主が偽りの信教、礼拝によって正当に崇敬され得ると教えているのか。


4-『信教の自由に関する宣言』 6
「人間の不可侵の権利を保護し、増進することは、本質的にすべての公権の義務である。したがって、公権は、正しい法律と他の適切な手段によって、効果的にすべての市民の信教の自由を保護し、宗教生活を助長するために有利な条件を作る必要がある。それは市民が真に信教の権利を行使し、その義務を果たし、また社会自体も、神とその意志とに対する人間の忠実さによってもたらされる正義と平和の恩恵を享受することができるようにするためである。」

【疑問点 11】
「宗教生活」ならびに「(宗教上の)義務」という言葉は、カトリック教の活動の他に、諸々の誤った宗教の活動をも同様に意味しているのか。もしそうなら、第二バチカン公会議は、(たとえ善意からであれ)自らの信奉する宗教が教える誤謬に固執する、誤った宗教の信者が「天主とその意志とに対して忠実」であると主張しているのか。


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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:対話、それとも説教?

2007年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 対話、それとも説教?

『信教の自由に関する宣言』 3
「真理は人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探求の面で互いに協力するため、自らが発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する。」

【問題点 3】 第二バチカン公会議は、これらの手段を列挙することを通して、真理の発見にあたって、「自由な探求」が教えを説く者の言葉に耳を傾けることよりも、人間の本性に適合した方法であると教えているのか。すなわち、教会による教え、両親から子供への信仰の伝達、一言で言えばカトリック教育よりも人間の本性に適った方法であると教えているのか。

【問題点 4】 交流ならびに対話、とりわけ「真理探究の面で互いに協力する」という表現を通して第二バチカン公会議は、たとえばイスラム教徒と対話するカトリックの宣教者が、当の交流を通して真理、すなわち宗教に関わる真理の探求において助力を受けると教えているのか。あるいはまた、当の宣教者は、かかる真理に到達するために、彼の話し相手と等しい道のりを経なければならない、と教えているのか。

【疑問点 7】 自由な探求並びに対話に関する第二バチカン公会議の教えは、宣教的使徒職を目しているのか。もしそうなら、当の教えは聖パウロの次の教えと相容れるのか。「それなら、彼らは、まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう、そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう、宣教する者がなければ、どうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう。」(ローマ人への手紙 10章 14-15節)使徒たちが派遣されたのは、対話するためだったのか。それとも宣教するためだったのか。(マルコ 16章 15-16節参照)非カトリック者、あるいは異教徒を前にして、「対話しましょう。あなた方の宗教には救いに至らせる諸々の価値が見出されますから」と言うのは、「これ以外の名においては救いは与えられません」(使徒行録4章12節)というよりもより真実、かつより効果的なのか。


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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:拘束を伴わない探求?

2007年06月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 拘束を伴わない探求?

『信教の自由に関する宣言』 2
「しかし、人間は、心理的に自由であるとともに、外的強制を免れなければ、自らの本性にかなった方法で、この [宗教に関わる真理を探究し、これに恭順するという] 義務を果たすことはできない。」

【疑問点 5】 上述のくだりにおいて、第二バチカン公会議は、「いかなる類のものであれ、真理」の探求、恭順、実践において、あらゆる拘束から免除されることは人間の自然本性に適ったことであると教えているのか。すなわち、実際に今執行される暴力からだけでなく、物理的ないしは物質的、あるいは霊的な法的罰の脅威からことごとく免除されることが人間本性に適合した、自然なことであると教えているのか。もしそうなら、当の教えは理性ならびにレオ十三世が真の自由を確保するために課される法による拘束の恩恵について述べている教えに合致しているのか。
「人間の自由の状態がこのようなものだとすると、人間は自らの自由意志をもって行動するにあたって、しかるべく善を為し、悪を避けるために光と力添えとが当然、不可欠となります。そして、それなしには私たちの意志の自由は、私たちを破滅へと導くものとなるでしょう。 まず第1に、「法」 ――― すなわち、何を為すべきであり、何が為されるべきでないかを教える確固とした規範 ――― がなければなりません。・・・法とは人間の行為の指針であり、報いをもって人を善へと向かわせ、罰によって悪から遠ざからせるものだからです。」
(回勅『リベルタス・プレスタンティシムス』Actus II p.179-180/ PIN 179-180)
 さらに「人間社会の真の自由は・・・法の命令によって全ての人が永遠法の規定により容易にしたがうことができるということにあるのです。」
回勅『リベルタス・プレスタンティシムス』Actus II p.183/ PIN 185)

【疑問点 6】 第二バチカン公会議は、カトリックでない人々が宗教上の真理を見出し、かつこれに、しかるべき仕方で恭順するために、強制的に同意を得るべく行使される拘束だけでなく、宗教上の誤謬を正当に抑圧[抑制]かつ制限するために行使される拘束、これを被る者らに熟考を促し、彼らがいまだ知らずにいる真理を学ぶよう駆り立てる、という望ましい結果を生む拘束からも免除されなければならない、と教えているのか。もしそうなら、第二バチカン公会議は、まさにこの点に関する聖アウグスティノのきわめて明確な教えを否認するのか。また、この教理を実践に移したキリスト教諸侯を弾劾するのか。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日

第二バチカン公会議についての疑問および問題点:主観的権利、それとも客観的権利?

2007年06月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 主観的権利なのか、それとも客観的権利なのか?

『信教の自由に関する宣言』2
「したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。」

【コメント】 強制からの免除、あるいはより正確に言うと、誤った宗教の信奉者が妨げなしに公に自らの礼拝儀式を執り行うということは、上述したように、もしこれが権利として認知される場合、あくまで消極的権利でしかない。
 同じく既に述べたとおり、かかる免除はそれ自体において悪である。たとえ、ある国の具体的状況において、より大きな悪を避けるため、あるいはまた、より大きな善を確保するためにこれを容認することができるとしてもである。
 ここで筆者が成す主張の説明として、ひとつ例を引いてみることにする。ある父親が思春期を迎える息子を過度に押さえつけないため、強制し過ぎないために、一定の限度内で、また適度に目を配りつつ、「若気のいたり」を犯す自由を与えたとする。(無論、実際そうなった場合、この父親はとにそれが過ちであったことを指摘する心構えである。)強制からの、このような免除が、それ自体として悪である、ということは疑いの余地がない。なぜなら、それは道徳的な悪への扉を開くことになりかねないからだ。たとえ、それが特定の状況において、認容し得る、より小さな悪であると見なされるとしてもである。
 しかるに、悪であることは、いかなる権利の対象にもなり得ない。したがって、誤った宗教の信者に対して与えられる、強制からの免除はいかなる権利の対象にもなり得ない。言葉を換えて言えば、かかる免除は客観的権利ではない。

【疑問点4】 はたして第二バチカン公会議は、誤謬あるいは道徳的悪に与する者が客観的に(すなわち客観的権利として)自らの宗教、すなわち誤った宗教を公に執り行う消極的権利を保持すると教えているのか。もしそうであるとすれば、かかる主張はピオ十二世が次の言葉で解説している「客観的権利」についての伝統的な教理と両立するのか。「真理ならびに道徳法にもとる事柄は、客観的に見て、存在、喧伝、活動を為すいかなる権利をも有しない。」(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)


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ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』
第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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