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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちは何のためにこの世で生きているのか?人生の目的は?今日がその答えです。

2020年10月31日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年11月1日は諸聖人の祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「諸聖人の祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

そのとき、人々の群れを見たイエズスが、山に登ってお座りになると、弟子たちは、おそばに近よった。イエズスは、話しはじめて、こうお教えになった。「心の貧しい人はしあわせである、天の国は彼らのものだからである。柔和な人はしあわせである。彼らは地を譲りうけるであろうから。泣く人はしあわせである。彼らは慰めをうけるであろうから。正義に飢え渇く人はしあわせである。彼らは飽かされるであろうから。憐れみのある人はしあわせである。彼らも憐れみをうけるであろうから。心の清い人はしあわせである。彼らは天主を見るであろうから。平和のために働く人はしあわせである。彼らは天主の子らと呼ばれるであろうから。正義のために迫害される人はしあわせである。天の国は彼らのものだからである。私のために、あなたたちを罵り、あるいは責め、人々が、あるいは数々の讒言(ざんげん)をいうとき、あなたたちはしあわせである。喜びに喜べ。あなたたちは、天において大きな報いをうけるであろう。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年11月1日、諸聖人の祝日です。それと同時に聖ピオ十世会創立50周年の日です。

諸聖人、これこそ天主の愛が私たちを創造した目的です。天主の愛の結実です。天主がどれほど私たちを愛しているかを示す永遠の至福です。では、一緒に天にいる全ての聖人たちについて黙想しましょう。

【1】【諸聖人の祝日】

教皇ボニファチオ四世は、ローマのパンテオンにカタコンベにあった多くの殉教者たちの遺骸を数年かけて移し、610年5月13日に、異教の全ての神々に捧げられたパンテオンを、聖母と殉教者たちとに奉献された教会として聖別しました。この教会の献堂式の記念日は、聖母と全ての聖人たちの祝日として祝われるようになりました。二世紀後の835年、教皇グレゴリオ四世は全ての諸聖人の祝日を11月1日に移動します。

今日の諸聖人の祝日は、異教の神々にキリストの殉教者たちが勝利したという凱旋の日でもあります。殉教者とはギリシア語でμαρτύριος「証し人」「証言する人」という意味です。諸聖人の祝日のミサも、殉教者のミサをもとに作られています。

【天にいる聖人たち】

教会は、今日の典礼で私たちに天国のヴィジョンを見せてくれます。使徒聖ヨハネは、イスラエルの十二のそれぞれの部族から一万二千人が記されたと言います。一万二千とは、つまり十二の千で、十二は完全な数として考えられています。

さらに、誰にも数えきれぬおびただしい大群衆が見えます。すべての国々と民族と民々と言葉とからなる巨大な人々の群れです。彼らは、王座の御前に、羔(こひつじ)の目前に立って、白衣を着て、彼らの手に棕櫚(しゅろ)を持ち、天主を賛美しています。

キリスト、聖母マリア、九つの階級の天使たちの大軍、使徒たち、預言者たち、紅に染まった殉教者たち、真っ白に輝く証聖者たちや童貞女たち、教皇、司教、司祭、修道者、聖なる王や軍人、その他の一般の多くの聖人たちです。この世で隠れて天主への愛と従順に生き成聖の状態で生活した無数の聖なる霊魂たちです。

旧約の太祖、聖なる預言者、義人たち、この世に来ると約束された救い主(メシア)であるイエズス・キリストを信じ、待ち望んで、聖なる一生を送った全ての人々、そして、ついに私たちのためにこの世に来られた唯一の救い主イエズス・キリストを信じ、礼拝し、希望し、愛し、従順に従った全ての聖人たちが、天国にいます。凱旋の教会です。今ここ地上に生きている私たちは戦闘の教会は、天国の凱旋の教会にいる聖人を祝っています。

この地上の物事から離脱した心の貧しい人々、柔和な人々、罪の機会の多いこの世について悲しみ泣く人々、天主の御旨を行うことに飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、天主をその頂点とする秩序を作ろうと平和のために働く人々、天主の御旨を果たそうとするがために迫害される人々、イエズス・キリストの名前ために、罵られ、責められ、数々の讒言を言われた人々、洗礼を受け、例え罪を犯してしまったとしても告解の秘蹟を受け赦され、御聖体を頻繁に拝領し、天主の助けをもって聖なる一生を送ろうと努めた人々がそこにいます

【2】【人生の目的をえる諸聖人】

カトリック教会は、私たちの目の前に人生の究極の目的をはっきりと示します。私たちは天国に行くために、聖人と成るために、この地上に生きている、ということです。

「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。」(マテオ16:26)

「狭い門からはいれ。亡びに行く道は、広く大きく、それを通る人は多い。しかし、命に行く門は狭く、その道は細く、それをみつける人も少ない。」(マテオ7:)

「私にむかって、主よ、主よ、という人がみな天国にはいるのではない、天にまします父のみ旨を果した人だけがはいる。」(マテオ7:)

「実に、招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マテオ22:14)

「恐れおののいて、自分の救いをまっとうせよ。」(フィリピ2:)

【天とは】

秋晴れの青い空のもとで太陽に照らされてくっきりと浮かぶ紅葉の山脈、十三夜の月と天に輝く星々、大自然の光と色が織り成す美しさを、生まれつき目が見えない方にどうやって説明すればよいでしょうか?天国の凱旋の喜び、果てしない幸福、全ての善の源である最高の善である天主を直接見奉る至福直感、自然の限りある喜びを無限に超える幸せ、天主の喜びの中に入りそれに与る楽しさを、天主の喜びを、この地上に生きる私たちにどうやって説明すればよいでしょうか?

天国の聖人たちは、もはや、天主に背く罪を犯すこともありません。罪からの完全な自由を得ます。何故なら、あまりにも善で美である天主を見てしまい、天主以外のことを欲する気すらなくなってしまうからです。天国とは、愛の生活です。私たち人間の心、人間の存在全てが天主の愛で満たされます。

「天主が、私たちの光栄のために、この世のはじまる前から予定されたもの …「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮ばず、天主がご自分を愛する人々のために準備された」ことを私たちは告げるのである。」(コリント前2:9)

【諸聖人は天主に光をす】

この短い地上の生活の間、天主のために、天主の御旨を果たして聖なる生涯を終えたのちに、私たちには天国での永遠の栄光が待っています。これこそ私たちの地上での最も重大な事業です。天国での無数の大聖人たちの大群は、天主の聖なる恩寵のなした傑作の数々です。

彼らのもっていた天主への固い信仰、天主が必ず助けてくださり天国に生けるという希望、天主を愛するために忍んだ迫害と苦しみと屈辱の数々、天主を愛するために行った英雄的な隣人愛、王たるキリストへの完全な従順、深い謙遜、柔和、貞潔、清貧、寛大な赦しの心、などなど、これらは、全て天主の恩寵の結果です。諸聖人たちは、天主の憐みと愛徳と恩寵の偉大さを賛美しています。

私たちが、天主の恵みで救いを果たすなら、天国にたどり着くなら、つまり聖人になるなら、それは天主の恩寵に栄光を帰することです。何故なら、天主の憐れみ深い恩寵によって、私たちの弱さやみじめさや罪の数々にもかかわらず、聖性を得ることができたことになるからです。私たちは、天主の恩寵の助けにより、聖人になることができる、これを今日、私たちに教えています。

希望の徳である望徳唱では私たちはこう祈ります。「恵みの源なる天主、主は約束を違(たが)えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終りなき命とこれを得(う)べき聖寵とを必ず与え給わんことを望み奉る。」

【諸聖人は私たちを天で待っている】

「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8:18)

私たちの生きている今の時の短さを考えてください。この浮世の儚(はかな)さに思いをはせてください。この涙の谷にいる間の苦しみは、あっという間に過ぎ去ってしまいます。

【私たちのために祈る諸聖人】

しかも、天主は、私たちに天にいる全ての諸聖人たちを私たちのための取次、仲介として与えてくれています。天の全ての聖人たちが、つまり天主の心に適う友人たちが、私たちのために、天主に熱烈に祈ってくれているということです。聖人たちの取次で、歴史上、様々な奇跡も起こりました。全ての聖人たちは、私たちが天国にたどり着いたとき、天主の憐みを賛美し、私たちを大歓声をもって喜び歓迎することでしょう。

「恐れるな、小さな群れよ、あなたたちに御国を下さるのは、あなたたちの父のみ旨である」(ルカ12章32節)。

【カトリック教会の聖性を輝かす諸聖人】

カトリック教会が祝う全ての聖人たちは、私たちにカトリック教会の持っている聖性の輝きを示しています。それと同時に、カトリック教会こそ、一、聖、公、使徒継承という、キリストの真の教会が持つ四つの印のうちの一つである「聖性」があるゆえに、キリストの立てた真の教会であると識別することができるようにしてくれます。

何故なら、カトリック教会だけが、みじめな私たちに英雄的な聖徳にまで到達することができる恩寵を与えることができ、このような数多くの諸聖人たちを生み出すことができるからです。

【3】【聖ピオ十世

11月1日は、聖ピオ十世会の創立の記念日でもあります。今から50年前の1970年11月1日、ジュネーブとフリブール司教区のシャリエール司教は、聖ピオ十世会の会則に教会法による認可を与え、聖ピオ十世会をカトリック教会の正式な修道会として承認しました。

聖ピオ十世会の目的は、カトリック司祭の聖化と養成です。カトリック司祭職とは、天主がキリスト者たちの聖化のために特別に立てた手段・道具です。司祭とはラテン語でsacerdos と言いますが、その語源は sacra dans、つまり「聖なるものを与える」という意味です。聖ピオ十世会が私たちに与えられたことを、天主に感謝いたしましょう。

カトリック司祭は、第二のキリストです。イエズス・キリストの特別の愛の対象です。約2千年前、十二名の司祭が世界を聖化しました。二十一世紀の現代でも、イエズス・キリストへの愛に燃えた十二名のカトリック司祭が、天主の御恵みにより、世界を変えることができるはずです。

ますます多くの聖人たちを天国に生み出させることができます。司祭たちの持つ武器は、イエズス・キリストの愛と真理です。天主の無限の憐みの愛と真理です。

天国の諸聖人を増やすためにこそ、カトリック司祭は、ますますイエズス・キリストを愛し、イエズス・キリストに従順でなければなりません。キリストの花嫁であるカトリック教会を愛さねばなりません。カトリック教会の二千年の変わらない信仰とその教えに忠実でなければなりません。歴代の教皇たちの不可謬の教えに忠実に従わなければなりません。

イエズスの至聖なる聖心は、御自分の愛の炎を、カトリック司祭を通して人々に示したいと望んでいます。司祭の執行する秘蹟を通して、聖化の恵みを分け与えたいと欲しています。イエズスは、諸聖人を作り出し続けるために、カトリック司祭たちを必要としています。

何故なら、司祭を通して行動することを欲されるからです。私たちの救い主の愛の支配を拡張するために、カトリック司祭はイエズスの聖心の愛に満たされていなければなりません。司祭は、「御血のカリス」である聖心から、愛徳の炎を飲まねばなりません。

司祭の持つ最高の手段は、ミサ聖祭です。十字架のいけにえの祭壇における再現です。この聖伝のミサを捧げ続けることこそ、カトリック教会に対する最高の奉仕です。何故なら、この十字架の神秘にこそ、天主の愛の神秘が凝縮されており、聖化の秘密があるからです。

【聖性とは?】

聖性とは、天主の聖性に恒常的に与ることです。天主が聖なる方で完全であるように、私たちも天主の恩寵で、そのようになることです。天主を信じ、礼拝し、天主に希望し、天主を愛し、天主に仕えることです。そして天主を愛するがために、隣人をわが身のごとく愛することです。これは聖伝のミサによってはっきりと明示されています。

残念ながら「第二バチカン公会議の精神」による「聖性」は、そうではありません。新しいミサにおいて典型的に示される新しい「聖性」とは、人間を信じ、人間に希望し、人間を全てに越えて愛する、のようです。

公会議の精神は、真の天主への信仰と礼拝が不在の、エキュメニズムと話、イエズスキリストのこの世における普遍的な王を否定することで成り立っています。フランシスコ教皇さまの個人的な意見によれば、空気や水をきれいにして地球を救うことが、聖性だとされています。

【4】【聖母こそが私たちにイエズスキリストをえてくださった】

もしも私たちが天国に諸聖人を持つことができるなら、それは、私たちに救い主イエズス・キリストが与えられたからです。もしも私たちに唯一の救世主イエズス・キリストが与えられたなら、それは聖母マリア様が天主の御計画に「はい」と答えたからです。聖母こそ、天主三位一体の最高の大傑作です。諸聖人は天国で、聖母にも特別の感謝と賛美を捧げています。聖母は、天国の中央に、最高の場所に、イエズス・キリストのすぐ隣におられます。

諸聖人の元后である聖母に祈りましょう。610年5月13日、パンテオンが聖母と全ての殉教者たちの教会に献堂された日から、十三世紀の後、1917年5月13日にファチマで最初に聖母が私たちに現れて、私たちに天国への道をもう一度示してくださいました。聖母の汚れなき御心に祈りましょう。ファチマの聖母はこういいました。「私の汚れなき御心はあなたたちの避難所であり、天主への道です!」と。

「幸いなるかな、心の清い人々、彼らは天主を見奉るであろう。

幸いなるかな、平和を作る人々、彼らは天主の子と呼ばれるであろう。

幸いなるかな、義のために迫害を受ける人々、天の国は彼らのものである。」


【訃報】バルトロメオさんが10月29日に名古屋で霊魂を天主に返しました

2020年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの信仰における兄弟、バルトロメオさんの霊魂が、10月29日に名古屋で天主に呼ばれました。

霊魂の永遠の安息の為に、愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを宜しくお願いいたします。

トマス小野田神父




【参考情報】【拡散希望】ヴィガノ大司教「キリストの御旗の下で仕えることを拒否する人は、必然的に悪魔のしもべを助けることに終わってしまいます。」

2020年10月30日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

マルコ・トサッティによる、ヴィガノ大司教のインタビュー(2020年9月12日)の日本語訳をご紹介いたします。これを訳してくださった大阪と東京の両信徒会長には心から感謝いたします。

VIGANÒ, INTERVIEW: PRO-ABORTION CATHOLICS? THEY BETRAY THE CHURCH.ヴィガノ大司教インタビュー「妊娠中絶容認派はカトリック教徒か?彼らは教会を裏切っている」

2020年9月14日

マルコ・トサッティ
親愛なる読者の皆さん、最近私たちはカルロ・マリア・ヴィガノ大司教に、米大統領選挙と米国の教会に関する状況についての質問をいくつか送りました。

前駐米教皇大使は非常に丁寧な回答を私たちに送ってくださいました。しかし、私たちがこれから見ていくように、このお話はより広範囲で深遠なものとなり、更に興味深いものとなります。お楽しみください。

マルコ・トサッティによる、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教へのインタビュー

2020年9月12日
マリアの聖なる御名の祝日

Dextera Domini fecit virtutem,
dextera Domini exaltavit me;
dextera Domini fecit virtutem.

主の御右手は御得能を示したり。
主の御右手は私を挙げたり。
主の御右手は御得能を示したり。
詩篇117篇16節


【マルコ・トサッティ】大司教様、あなたは2011年から2016年まで駐米教皇大使を務められましたので、この国のことをよくご存じです。民主党大統領候補のジョー・バイデンはカトリック信者だと主張していますが 、9カ月目までの妊娠中絶と「同性婚」に賛成しています。カトリック信者であって、なおかつ公式レベルで、つまり、政治的選択と公に表明した選択によって、二次的な要素ではなく重要な問題について、教会の教えに反することは可能なのでしょうか。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】親愛なるトサッティさん、あなたが提起した質問には、よく考えた回答が必要ですが、まず第一に、真剣な省察と、現在の状況に至った状況をつくり出した責任は誰にあるのかを明確に認識することが必要です。

それは2015年9月22日、教皇フランシスコの米国への使徒的旅行の機会に、教皇が首都ワシントンに到着した日のことでした。教皇の側近数人が出席したバチカン大使館での夕食会で、私は教皇フランシスコにこう言いました。

「米国の歴史の中で、これほど多くのカトリック信者が高位にいる政権はなかったと思います。ジョー・バイデン副大統領、ジョン・ケリー国務長官、ナンシー・ペロシ下院議長です。3人とも、カトリック信者であり、中絶容認派にして同性婚とジェンダー・イデオロギーを支持すると強く公言して、教会の教えに反しています。あなたは、この矛盾をどう説明されますか」。

さらに私はこう付け加えました。「イエズス会のロバート・フレデリック・ドリナン神父は、ボストン大学出身者で、1971年から1981年までの10年間、ワシントンでマサチューセッツ州の民主党の米下院議員の地位を保持しました。ドリナン神父は、最も熱心な中絶擁護者かつ中絶推進者の一人でした」。

教皇フランシスコは、2013年6月23日に私が彼の具体的な質問の一つに答えてマカリック枢機卿の正体を明らかにした時に反応しなかったのとちょうど同じように、少しも反応しませんでした。

第二バチカン公会議が閉幕してから2年後の1967年、もう一人のイエズス会士、ヴィンセント・オキーフ神父(イエズス会の管区長としてベルゴリオは、ペドロ・アルペ神父の下で副総長だった彼を知っていたはずです)が、フォーダム大学の学長として、当時のノートルダム大学学長だったセオドア・M・ヘスバーグ神父とともに、米国のウィスコンシン州のランド・オレイクス(Land O' Lakes)で北米のカトリック大学の全学長会議を開催しました。

この会議で、彼らはランド・オレイクス声明として知られる文書に署名しました。この文書は、カトリックの大学とカレッジが、教会のあらゆる権威および教会の教導職への忠実義務からの独立を宣言したものです。この文書は、ベルゴリオと管轄するローマ教皇庁の各部署への私の報告書の中で私が激しく非難したもので、米国の教会と市民社会にとって壊滅的な結果をもたらしたのです。

後に政治的指導者たちになった人々も含む何十万人もの若いカトリック信者をこのように育成することが、今日私たちが目にするような悲惨な結果を生んだこの福音への裏切りにつながったことは驚くべきことではありません。また、プエルトリコ・カトリック大学の当時の学長だったセオドア・マカリックが、この反逆的な文書の署名者の中にいたことも驚くべきことではありません。

【トサッティ】すると、あなたの分析は、現在の現象の観察に留まらず、その遠因にまでさかのぼり、その背後には長期的な計画を持つ一つの意志があるということですね。

【ヴィガノ大司教】私が強調したいのは、イエズス会を筆頭にした超進歩的な聖職者たちの反乱と、公会議に流れ込んでいた近代主義のイデオロギーに従って育成された何世代にもわたるカトリック信者の教育との間には密接な関係があり、それは政治的な領域での1968年の革命だけでなく、教会的な領域での教理的かつ道徳的な革命の前提としても機能したということです。

第二バチカン公会議がなければ、西洋世界の生活、家族観、女性の役割、権威の概念そのものを根本的に変えた学生革命は起こらなかったことでしょう。

要するに、これらの自称カトリック信者の政治家たちによる裏切りの責任は完全に、近代主義のイデオロギーにとりこにされている不忠実な教区司祭および修道会の聖職者たちと、さらに位階階級とにあります。特に位階階級は、社会全体へのこの計り知れないダメージを防ぐために必要な堅固さを持って介入する方法を知らず、また介入することも望まなかったのです。

この意味で、「ディープ・ステート」(deep state)と「ディープ・チャーチ」(deep church)は、明らかに手を取り合って協働し、市民的秩序と教会的秩序の双方を科学的に不安定化させることを目的として行動してきました。

今日、私たちは現在の状況を理解する良き機会を得ました。そして、この奈落の底への競争を止めるために可能な限りのことをすることが、再び教会権威当局の任務です。聖座と米国カトリック司教協議会(USCCB)は、反乱する聖職者たちと、その聖職者たちが欺き続け、公に支援さえし続けている信徒の両方に従順を求める義務を負っています。


【トサッティ】譲れない原則を遵守するよう人々に再び求めるためには、司教たちによる権威ある介入が必要だと信じておられますか。

【ヴィガノ大司教】教理省が、教会の教えに従わないカトリック信徒の政治家たちにご聖体を授けないことについて非常に明確な指示を出したとき、米国でのその実施を阻止するために働いたのは、マカリック自身とウィルトン・グレゴリー大司教(当時USCCB会長)でした。道徳的堕落と教理的逸脱は本質的に関連しており、教会の体にあるこれらの傷を効果的に癒やすためには、両方の面で行動することが不可欠です。もしこのような義務を果たす介入が行われなければ、司教や教会の指導者たちは、牧者としての義務を裏切ったとして天主に対して責任を取ることになるでしょう。


【トサッティ】第二バチカン公会議と1968年の学生の抗議行動との間に関係があるとお考えなのはなぜですか。

【ヴィガノ大司教】歴史的かつ社会学的な観点からだけであっても、「公会議の革命」と1968年の革命との間に非常に密接な関係があることは否定できません。第二バチカン公会議の主役たち自身が、それを認めています。ヨゼフ・ラッツィンガーは、その中でもひときわ目立つ存在であり、次のように書いています。

「ユートピア的な無政府主義的マルクス主義への固執は、・・・その中にキリスト教の希望の実現の夜明けを見た大学の聖職者たちや学生団体によって、最前線で支持されました。指針となる光は、1968年5月のフランスでの出来事に見いだされるべきです。ドミニコ会士とイエズス会士がバリケードのところにいました。バリケードでのエキュメニカルなミサで行われた相互陪餐【相互聖体拝領】は、救いの歴史における一種の転機となる出来事、キリスト教の新しい時代の幕開けとなる一種の啓示だとみなされました」[1]。

公会議のペリティ[専門家]の一人であるルネ・ローランタン神父は次のように書きました。

「1968年5月の運動の要求は、公会議の壮大なアイデア、特に教会と世界に関する公会議の憲章【現代世界憲章】中のアイデアとほぼ一致していました。ある意味では、すでに第二バチカン公会議は、制度的にプレハブ(組み立て)式の公会議をつくろうとしていた司教グループによる教皇庁に対する抗議行動だったのです」[2]。

アルゼンチンの神学者アルバロ・カルデロン神父【聖ピオ十世会司祭】は次のように断言しました。

「第二バチカン公会議を研究している人々にとって、すぐに目を引くことがあるとすれば、それは、自由主義的な意味での権威の概念の変化です。教皇は自分の最高の権威を自ら取り去りそれを司教たちに与え(司教集団主義)、司教たちは自分たちの権威を自ら取り去りそれを神学者たちに与え、神学者たちは自分たちの学問を放棄して信徒の意見を聞くようにしたのです。そして、信徒の声はプロパガンダの実りに過ぎません。」[3]

このビジョンはまた、公会議革命の要求と同じものが1968年の革命で実現したのを見た進歩的な戦線の人々によって、広く誇らしげに肯定されています[4]。アミアンの名誉司教ジャック・ノワイエは次のように述懐しています。

「第二バチカン公会議の準備、挙行、実施を触発した精神は、教会と世界にとって大いなる良き機会であると確信しています。それは今日の人々に差し出された福音です。根底では、1968年5月の革命は公会議の夢と首尾一貫した、神秘的なものでさえある霊的な運動でした」[5]。

教会からの「青信号」がなければ、この世は学生運動の反乱の要求を受け入れたり、取り上げたりすることはなかったことでしょう。公会議の教令以上に、まさに第二バチカン公会議の精神こそが、階層的に構成された社会の終焉と、西洋世界に共通する伝統的な価値観の終焉をしるしたのです。

それまでは、権威や名誉、年配者への敬意、禁欲と奉仕の精神、義務感、家族と祖国の防衛などの概念が共有され、過去に比べて弱体化していたものの、まだ実践されていました。

国家のための真理と文明の道標であるカトリック教会が、この世にそのドアを開け放って、ためらうことなくその栄光の遺産を捨て去り、典礼に革命を起こして道徳を水で薄めるようになるところまで行くのを見ることは、大衆に対する明白な合図でした。その時点では、その特徴的なしるしのすべてを把握することが可能であったとしても、まだ、それが何であるかを完全に明らかにあえてすることはしなかった行動計画(アジェンダ)を、いわば承認することだったのです。

それは教会と社会を破壊し、市民的・宗教的権威を危うくし、結婚と家族に対する信頼を傷つけ、愛国心と義務感を嘲笑し、あるいはそれらにファシズムのレッテルを貼りました。これらすべては共謀した位階階級の沈黙のうちに行われたのです。公会議後すぐの時期に神学校に入学した私のような人々は、いくつものローマ教皇庁立の神学校でさえも、抗議や、規則と規律のすべてからの解放や解消などというこの大きな揺れに、すぐに支配されたことを証言することができます。

このことに疑いの余地はありません。もしこれが事実でなければ、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティー」のような世界統一主義(globalist)的組織が、イエズス会の活動や、おそらく他のカトリック組織の活動にも割り当てている多額の資金は、説明がつかないものでしょう[6]。

第二バチカン公会議と学生革命で提示されたすべての前提条件は、その核心が、今や教会の前線でバチカンの指導者たちによって、また世界統一主義的政治の前線で政府の指導者たちによって、一貫性を持って提案されています。

それゆえに、ベルゴリオの政治プログラムの優先順位がジョー・バイデンの優先順位と一致していても、驚くべきことではありません。移民、環境主義、マルサス的環境主義、ジェンダー・イデオロギー、家族の解体、世界統一主義は、「ディープ・ステート」と「ディープ・チャーチ」の行動計画と共通しています。

ベルゴリオが妊娠中絶やLGBTを子どもたちへ教え込むことに公式に反対していることは、実際には、否定され打ち消されています。何故なら、それを政治的に推進している人々や、産児制限【避妊具】の使用や同性愛の権利を認めることを理論化している人々を、司教たちが支持しているからです。

イエズス会のジェームズ・マーティン神父のケースは象徴的です。なぜなら、このケースは世界統一主義の推進者と進歩的なカトリック知識人との間にある「idem sentire」[同じ心を持っていること]を裏付けているからです。これらの運動を統一するしるしは、嘘と欺瞞、分裂と破壊、聖伝とキリスト教文明への憎しみです。そして究極的には、ルチフェルとその追随者に典型的なキリストへの神学的な嫌悪なのです。


【トサッティ】大司教様、この「ディープ・ステート」と「ディープ・チャーチ」の一致は、中国との関係においても裏付けられているのではないでしょうか。

【ヴィガノ大司教】中国の共産主義独裁政権は、「ディープ・ステート」と「ディープ・チャーチ」の両方から求愛されています。ジョー・バイデンは、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオと同じように、北京の経済的・政治的利益に従属しています。中国で人権が組織的に侵害されようが、カトリック教会に忠実なカトリック信者が迫害されようが、憎悪に満ちた独裁政権が集団妊娠中絶を計画して何百万人もの無垢の人々を虐殺しようが、問題ではないのです。世界統一主義の行動計画の利益は、中国の独裁政権が実行している恐ろしい出来事の証拠に対してさえも上回るのです。

さらに付け加えます。マカリックが中国に赴き、後にベルゴリオの教皇職の下でバチカンが批准することになる有名な合意書を準備した時から、行われていたイエズス会による積極的な支援は重要なことです。この合意は、世俗の報道機関においてさえ、かなりの当惑を呼び起こしました。

「ザ・タイムズ」は、最近、「教皇は、北京の意外な讃美者である」とのタイトルで記事を掲載しました。その中で、ドミニク・ローソンは、「ますます多くの国が、中国の新疆ウイグル自治区での強制収容所やさらには大量虐殺の証拠が増えていることへの懸念を表明している」と非難し、「苦しんでいる人類全体をそのミッションの中核に据えている一つの組織からの沈黙が続いている。私が言及しているのは聖座である」と指摘しました。そして、彼はこう付け加えます。「大量虐殺を非難しなかったことは許されない」[7]。

さらに、7月5日のお告げの祈りの際、フランシスコが演説のテキストを事前にマスコミに配布したにもかかわらず、習近平を困らせないように香港での出来事への言及を省略し[8]、波紋を呼びました・・・

世界統一主義運動と聖座が中国に従属しているのは憂慮すべきことであり、またこのことは、スパダロ神父をはじめとするイエズス会士が、都市封鎖期間中に中国共産党の代表者と同会総合雑誌「ラ・チビルタ・カットリカ」中国語版の流通について行った会談によっても裏付けられています。

【トサッティ】民主党のカトリック信者の候補者が明らかに教会の教導職の教えを守っていない現状を超えて、まことのカトリック信者の政治家はどうあるべきでしょうか?

【ヴィガノ大司教】カトリック信者であるためには、洗礼を受けているだけでなく、聖なる泉で受けた信仰と矛盾しない生き方をしなければなりません。聖書が私たちに教えているように、信仰は善行と密接に結びついています。私たちがキリストの神秘体の肢体となることによって天主の子となったことを実践に移さなければ、私たちの言葉は空虚であり、証しはつじつまが合わず、信徒や信徒でない人々にとっては実際つまずきになります。

それゆえに、イエズス会のジェームズ・マーティン神父が、純粋に官僚的な面に自らを限定するのは間違っています。彼の言葉は次の救い主の言葉で否定されています。「私の命じることを守れば私の友人である」(ヨハネ15章14節)。霊魂が成聖の恩寵の状態にあることで成り立つ天主との友情は、主の命令に従順であるかどうかで左右されます。提案や忠告ではなく、命令なのです。主はまたこうもおっしゃいます。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします私の父のみ旨を果たした人が入る」(マテオ7章21節)。

地獄は、カトリック信者でない人々のためだけにあるのではない、ということを付け加えます。永遠の火の中には、洗礼を受けた多くの霊魂がいて、修道者、司祭、司教でさえも、主のご意志に反抗したために、罰を受けるにふさわしい人々がいます。自称大人のカトリック信者たちとその指導者たちは、キリストの次の言葉を聞く前に、注意深く考えるべきです。「私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ」(マテオ7章23節)。

妊娠中絶やジェンダー・イデオロギーを支持しているカトリック信者は、教導職を否定しているだけでなく、すべての時代とすべての場所のすべての人々に共通の道徳的基盤を構成している自然法をも否定しています。

教会に属することと教会の教えに忠実であることとの間にある矛盾の深刻さは、教理と司牧的世話との間の人為的な二分法を反映しており、この二分法は第二バチカン公会議以降に忍び寄り、使徒的勧告「アモーリス・レティチア」で最も明確に定式化されています。

しかし、よく見てみると、いわゆる「laicità dello Stato」[国家が宗教を持たないこと]も深刻な問題を提起しています。なぜなら、この思想は、 キリストの天主の王権を否定し、キリストの法を拒否することが市民社会の権利であると認識すると同時に、信徒に対して、カトリックの真理の最優先事項が誤謬と同じレベルに下げられている中で信仰の証しをするように求めているからです。

はっきりしていることは、カトリック信者は、カトリックの教理のすべてを実践に移していない「カトリック信者の」政治家に投票することはできず、ましてや位階階級はそれを容認することはできない、ということです。

自称カトリック信者のジョー・バイデンは、部分出産中絶【胎児の一部を子宮の外に出した後で損傷を与えて死に至らしめる中絶法】、すなわち嬰児殺しを支持しており、オバマ以前でさえジェンダー・イデオロギーを支持し、2人の男性の「結婚」を祝ったのですから、全くカトリック信者ではありません。これで十分です。


【トサッティ】ジョー・バイデンは、カマラ・ハリスを副大統領候補に選びました。ハリスは、カリフォルニアにある世界最大の中絶会社「Planned Parenthood」が、中絶された子供の臓器を取引した疑いをかけられたとき、同社を擁護しました。この選択にはどのような意味があるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】今日、広まっている反キリスト教イデオロギーの根底にある死の文化は、そのイデオロギー自体と一貫しています。罪なき被造物の殺害は、キリスト教だけでなく、"天主なる創造主のみわざをはっきりと示している人類および被造物"を抹殺しようと望む人々の不可欠な要素の一つです。

何度も言っているように、この解体のプロセスは二つのレベルで行われています。一つは、悪を意図的に望み、自分たちの地獄的な計画を強制的に段階的に実行しようとする人々によるイデオロギー的なもの、もう一つは、このイデオロギーを支持する人々による経済的なもので、必ずしも信念からではなく、利益のために行われています。

このように、中絶診療所で捧げ続けられてきた人間のいけにえは、新型コロナウイルス感染症の緊急事態の間でさえも、「Planned Parenthood」と、中絶された赤ちゃんの臓器を売買する死の連鎖全体に利益をもたらしてきました。

中絶ロビーは、LGBT運動と同様に、世界中の左翼の選挙運動の主要な資金源の一つであることを忘れてはなりません。死の文化をイデオロギー的に指向する企業が特定の政党に潤沢に資金を提供しているならば、それらの政党の候補者が自分たちのスポンサーに有利な法律をもってスポンサーを支援するのは驚くべきことではありません。

【トサッティ】ロードアイランド州プロビデンスの米国人司教トマス・トービンは、久しぶりに民主党にカトリック信者の候補者がいないと言いました。イエズス会のジェームズ・マーティン神父は、バイデンは洗礼を受けたからカトリック信者であると答えました。この質疑応答から、米国の教会の現状について何がわかるでしょうか。

【ヴィガノ大司教】「カトリック信者の候補者」とは、カトリック信者を名乗るだけでなく、教会の教えである信仰と道徳に矛盾のない生き方をしている政治家の候補者であることはすでに述べました。カトリック信者であることが具体的な影響を与えないのであれば、実際には他の候補者と差がない候補者に投票しても意味がないのではないでしょうか。

マーティン神父(イエズス会)の答えは詭弁です。なぜなら、彼は、カトリック信者のように見えることと、カトリック信者であることの違い、選挙に有利なように「称号」を悪用することと、私生活、市民生活および政治生活、そして諸団体においてまことの福音の証人であることの違いを見ていないふりをしているからです。ジェームズ・マーティン神父(イエズス会)自身はどうでしょうか。彼は洗礼を受け、堅振を受け、司祭に叙階され、貞潔と従順の厳粛な誓いさえ立てたのです。彼はイエズス会士で・・・彼はLGBTです。他のある人、十二のうちの一人は、主を裏切りました。いつも非の打ち所のない聖職者の服装をしているマーティン神父に、自分の霊魂の鏡をのぞき込んでもらい、誰に似ているのかを見てもらいましょう!


【トサッティ】大司教様、なぜ教会は、明らかに反キリスト教的でもある支配的なイデオロギーに関心を持っているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】これは、私たちが70年間抱えてきた問題です。その時以来、カトリックの聖職者、特に位階階級は、この世で自分たちの対話相手の下に自分たちを置くという劣等感に苦しんできたのです。彼らは存在論的に劣っていると感じています。彼らはキリストの教えを不十分であるとみなし、教えを世俗的なメンタリティーに適応させようと不器用にも試みます。

既に亡くなった別の著名なイエズス会士が言ったように、彼らは、時代遅れで、時代に追いついておらず、何世紀も遅れていると思われることを恐れているのです。

この恐ろしい劣等感は、信仰の劇的な喪失から来る直接的な結果です。キリストの救いのメッセージは、この世の誘惑とは両立しません。「諸国の民」に宣教し「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教え」(マテオ28章19-20節)ることを目的とする聖なる権威を乱用して、この世を喜ばせるために教導職を歪曲することは、ふさわしくありませんし、不当です。

教会の指導者たちが、自分たちの役割やキリストの教えと一貫した行動を率先して行わないのを続ける限り、自分たちを模範として見ている信徒たちに同じような一貫性を要求することは不可能でしょう。
このことは、自称「カトリックの」政治家たちが今日、自称「カトリックの」聖職者たちや「カトリックの」司教たちの支持を享受しているという事実によって裏付けられています。

また、カトリック信者ではないものの、生命と自然法を擁護する人々が、前世紀の独裁者たちに例えられ、ポピュリズムであると非難され[9]、キリスト教的ではないと言われ[10]、あるいは最近のジェームズ・アルトマン神父のケースのように、彼の司教から「分裂的でつまずきを引き起こしている」と非難されている[11]という事実によっても裏付けられています。


【トサッティ】米国の政治における「Planned Parenthood」の役割は何でしょうか。「進歩派」が言うように、自由と権利の肯定の道具なのでしょうか、それとも・・・

【ヴィガノ大司教】世界統一主義的社会では、「Planned Parenthood」はキリスト教国のいのちを守る慈善団体や財団が果たしている役割とはちょうど逆の役割を果たしています。

キリスト教社会では、子どもたちは愛をもって迎えられ、貧困や困難な状況にあっても、福音の言葉を実践することで、良きキリスト教徒や誠実な市民になるように世話をされ、育てられ、教育されていました。

反キリスト教社会では、「Planned Parenthood」はこれらの罪のない人々を殺すことを任務とし、「最初から殺人者」(ヨハネ8章44節)だった者【悪魔】に触発された死の文化を実践しています。私たちは、「Planned Parenthood」が他の多国籍の中絶会社と一緒に、世界の人口の徹底的な減少を計画している世界統一主義の最高司令部のマルサス的な妄想に仕えていることを忘れないようにしましょう。

【トサッティ】ジョージ・ソロスらがマーク・ザッカーバーグに圧力をかけて、フェイスブック上でのプロライフの存在と活動を制限しようとしています。ジョー・バイデンとカマラ・ハリスという選択、そしていのちを守る人々を制限するためのこれらの作戦。彼らは、どのような種類の世界的なシナリオにつなげていこうとしているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】使徒たちの宣教と殉教者たちや証聖者たちの証しのおかげで、福音は世界中に広がりました。同様に、「サタンの会堂」の反福音は、闇の子らの宣教、公人や有名人、芸能人、そして自称慈善家の証言のせいで広がっているところです。

終わりには、残されたものは、常に二つの陣営に分かれます。聖書の善と悪の戦いにおいて、一方は善、他方は悪です。ある時は、聖徒が偶像や異教の神殿を破壊し、悪魔崇拝者が入る余地をなくしましたが、今日では、集団思考の追随者が団結して教会を冒涜して破壊し、十字架や聖人の像を取り壊し、キリストへの信仰の記憶をすべて消し去ってしまうことは避けられません。昔、禁書が検閲されたのは、それらによって霊魂が毒されてしまう素朴な人々を守るためでした。今日では、善が検閲されますが、それは悪が善を許さないからです。

この世界的なシナリオが私たちの目の前で起こっています。「悪を行う者」(マテオ7章22節)と対話することはできず、キリストの光とサタンの闇の間には両立性がないことを私たちが理解するまでは、私たちは戦いに勝つことができないでしょう。なぜなら、私たちは、自分たちが地獄の力との戦いの場にいるということさえ気付いていないからです。

そして、戦いにおいては必ず二つの対立陣営があります。キリストの御旗の下で仕えることを拒否する人は、必然的に悪魔のしもべを助けることに終わってしまいます。この認識は、私たちの敵にとっては明らかですが、キリスト教生活を「戦い」として見ていない人にはあまり明らかではないように思えます。

最近の共和党全国大会の最後にトランプ大統領が言った言葉を思い出してみましょう。「私たちの反対派は、"あなた方のための贖いは彼らに権力を与えることからしか来ない"と言っています。」 この「贖い」とは、個人や社会、国家に対する天主の主権を否定することから成り立ち、さらには、キリストの優しいくびきをサタンの悪意に満ちた専制政治に置き換えるで成っています。そしてそれは本当の贖いを転覆させることです。救い主が十字架の木の上で成し遂げられた贖い、すなわち奴隷の贖いを、あらゆる意味において逆さにすることです。

ですから、ルチフェルの国を打ち立てるために、光の子と闇の子という聖書的な暗喩を奪い取る人々による聞こえのいい言葉でだまされないようにしましょう。私たちが米国の都市で目にする暗闇と混沌は、出産後の中絶や同性婚を認めるのと同じイデオロギーの産物なのです。それはちょうど、BLMとアンティファ運動の支持者らがまさに民主党であり、しかもトランプ氏の再選に猛烈に反対する「慈善家の」財団[12]であるのと同じようです。

バイデンの言及は、実際には、ヨハネ・パウロ二世の有名な勧告「恐れてはいけません」の恥ずべき簒奪ですが、このポーランド人教皇がキリストから遠く離れた世界に向けて発した勇気ある招待状というよりも、むしろあの蛇が木の実を取るための狡猾なわなのように聞こえます。

そして、ウィルトン・グレゴリー大司教は、トランプ大統領夫妻が聖ヨハネ・パウロ二世聖堂を訪問するのを憤って、すぐに非難することができたのですが、今日、選挙運動を有利に進めるために同じ教皇とベルゴリオの写真を利用している対立候補である倒錯したカトリック信者のジョー・バイデンについては、同じように非難しようとしないのは不思議なことです。

今日、ヨハネ・パウロ二世の強力で権威ある言葉を聞けば、民主党と、おそらく司教たち自身が震え上がることでしょう。

「キリストを迎え、キリストの力を受け入れることを恐れてはいけません。教皇と、キリストに仕え、キリストの力をもって人間と全人類に仕えようと願うすべての人々を助けてください。恐れてはいけません。キリストのために扉を大きく開いてください。彼の救いの力に、国家の境界、経済と政治のシステム、文化や文明、発展の広大な分野を開いてください。恐れてはいけません。キリストは『人の内にあるもの』を知っておられます。彼だけがそれを知っておられます」[13]

今日、キリストの救いの力は、「創造された自然の秩序の中の私たちの正当な位置に戻るように促す創造の声」に置き換えられています。

私たちの主の贖いの受難は「創造のうめき声」に置き換えられ、天主の正義の鞭はパチャママの「母なる大地の怒り」に置き換えられています・・・

トランプ大統領はこう述べました。「私たちの反対派は、"あなた方のための贖いは彼らに権力を与えることからしか来ない"と言っています。しかし、この国では、私たちは職業政治家に救いを求めません。米国では、私たちの霊魂を回復するために政府に頼ることはしません。私たちは全能の天主に、私たちの信仰を置きます。」

この天主への信仰は、明らかにキリスト教的の生活と証しの一貫性と一致しなければなりませんが、2020年の米大統領選挙でも、詩篇117篇が私たちに思い起こさせるように、「主の御右手は御得能を示したり」ということが確認されると私は信じています。

脚注:

[1] Joseph Ratzinger, Les principes de la théologie catholique, Téqui, Paris 1985, p. 433
[2] René Laurentin, Crisi della Chiesa e secondo Sinodo episcopale, Morcelliana, Brescia 1969, p. 16
[3] Álvaro Calderón, La lámpara bajo el celemín. Cuestión disputada sobre la autoridad doctrinal del magisterio eclesiástico desde el Concilio Vaticano II, Ed. Rio Reconquista, Argentina 2009
[4] Cfr. https://www.atfp.it/rivista-tfp/264-ottobre-2018/1494-il-maggio-68-e-il-concilio-vaticano-ii | See also: https://www.agensir.it/italia/2018/04/26/il-sessantotto-agostino-giovagnoli-storico-profondo-legame-con-il-concilio-che-ne-ha-anticipato-alcuni-tratti/
https://notedipastoralegiovanile.it/index.php?option=com_content&view=article&id=13936:il-68-e-la-sua-ricaduta-sul-fronte-ecclesiale&catid=353&Itemid=1074 | See also the interesting chronology published by Archivio 900: http://www.archivio900.it/it/documenti/doc.aspx?id=177
[5] https://www.atfp.it/rivista-tfp/264-ottobre-2018/1494-il-maggio-68-e-il-concilio-vaticano-ii
[6] https://www.marcotosatti.com/2020/09/08/open-society-di-george-soros-finanzia-i-gesuiti/
https://t.co/2alWhlx0R5?amp=1
[7] https://www.thetimes.co.uk/article/the-pope-is-beijings-unlikely-admirer-knkvp2qv3
[8] https://www.lanuovabq.it/it/hong-kong-la-santa-sede-si-inchina-al-regime-cinese
[9]https://www.adnkronos.com/fatti/cronaca/2020/09/08/papa-populismo-europa-ricorda-terribili-degenerazioni-passate_QIC4RJ8Dyn07BJD6d82JBI.html?refresh_ce
[10] https://www.toscanaoggi.it/Documenti/Papa-Francesco/La-conferenza-stampa-del-Papa-sul-volo-di-ritorno-dal-Messico
[11] https://quincy-network.s3.ca-central-1.amazonaws.com/wp-content/uploads/sites/10/2020/09/Statement-Father-James-Altman-090920.pdf
https://www.lifesitenews.com/news/watch-priest-warns-us-voters-you-cannot-be-catholic-and-be-a-democrat
[12] The antifa.com domain redirects to Joe Biden’s campaign site: joebiden.com
[13] https://www.vaticannews.va/it/papa/news/2019-10/22-ottobre-1978-giovanni-paolo-ii-non-abbiate-paura.html; http://www.vatican.va/content/john-paul-ii/en/homilies/1978/documents/hf_jp-ii_hom_19781022_inizio-pontificato.html

VIGANÒ, INTERVIEW: PRO-ABORTION CATHOLICS? THEY BETRAY THE CHURCH.

Marco Tosatti Dear Stilumcuriali, in recent days we have sent A...

STILUM CURIAE


【拡散希望】バーク枢機卿「同性愛関係の法的承認に関する教皇の発言は聖書と聖伝に『反している』」

2020年10月29日 | カトリック・ニュースなど
バーク枢機卿「同性愛関係の法的承認に関する教皇の発言は聖書と聖伝に『反している』」
 
 
 
 
新しいドキュメンタリー映画で教皇フランシスコは同性愛関係の法的承認を合法化するよう呼びかけた。
 
 
2020年10月22日(木曜日) 米東部標準時間9時間12分
 
 
【ローマ映画祭で上映された映画の中でインタビューの中での教皇フランシスコの同性愛に関する発言】
 
 
【2020年10月22日(CardinalBurke.com)】教皇フランシスコが同性愛の状態にある人々について、彼らが天主の子として「家族を持つ権利を有し」、そして「誰もそれを原因として追い出されたり、惨めな思いをさせられたりしてはならない」と宣言して、これまでの路線を変更したというニュースを世界中のメディアが大きく強調して報道しています。さらに、教皇が「私たちが確立しなければならないのは、(その関係の)法的承認です。そうすれば、彼らが法的な保護を受けられるでしょう。私はこれまでもこれを支持してきました」と宣言したと、それらのメディアは報じています。これらの宣言は、2020年10月21日にローマ映画祭(Festa del Film di Roma)でプレミア上映されたドキュメンタリー映画「フランチェスコ(Francesco)」のエフゲニー・アフィネエフスキー監督とのインタビューの中で行われたものです。
 
 
【教皇の宣言は聖書と聖伝の教え(信仰の遺産)に反し、教会の教導職の教えにも反し、霊魂たちに混乱を引き起こしている。司教・司祭らは信徒らに明確に説明する義務がある。】
 
 
このような宣言は聖書と聖伝の教えに反し、また聖書と聖伝に含まれる信仰の遺産全てを守り、保護し、解釈するために教会が与えてきた最近の教導職の教えにも反しているため、それはカトリック信徒の間に大きな当惑を生み出し、混乱と誤謬を引き起こします。
 
この宣言は、カトリック教会が教えることを真摯に知りたいと望む善意の人々の間に、教会の教えに関する疑問と誤謬を引き起こします。
 
したがって、この宣言により、霊魂の牧者たちには、人々のために適切かつ必要な明確化を行わなければならないという良心上の義務が課されています。
 
 
【この発言は、単なる個人的見解であって、教導職としての権威はなく、信者は信じる義務がない。むしろ信者は、聖書と聖伝、教会の通常教導権の教えに従う義務がある。】
 
 
まず第一に、このような宣言がなされた文脈と状況のゆえに、この宣言には教導職としての重みはいささかもありません。
 
これらの宣言は、それを述べた人の単なる個人的見解として解釈することが適切です。これらの宣言は、いかなる形においても信者の良心を縛るものではなく、信者はむしろ、聖書と聖伝、そして教会の通常教導権がその問題について教えることに対して宗教的従順をもって従う義務があります。特に、次のようなことに注意しなければなりません。
 
 
【同性愛の「行為」は、自然法に背き、秩序を乱し、受け入れられない。罪を憎むべき。】
 
1.「同性愛の行為を重大な堕落としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの(intrinsically disordered)』であると宣言してきました(『カトリック教会のカテキズム』2357番。教理省『Persona Humana、性の倫理に関する特定の問題に関する宣言』VIII番[1])。
 
同性愛の行為は自然法に背き、生命という賜物から閉ざされ、真の感情的・性的補完性を欠いているためです。したがって、これを認めることはできません。
 
 
【同性愛の「人々」については、受け入れられるべき。罪びとは愛するべき。】
 
2.特定の、そして時には同性愛の根強い傾向を持っている、同性愛の条件にいる男性や女性がいます。この条件は彼らにとっては試練ではあるけれども、それ自体は罪を構成しないかもしれませんが、それにもかかわらず、客観的には、これは秩序を乱す傾向です(『カトリック教会のカテキズム』2358番、教理省『Homosexualitatis problema、同性愛者の司牧的ケアに関するカトリック教会の司教への手紙』3号[2])。
 
したがって、彼らについては、不当な差別を避けて、敬意と思いやりと感受性をもって受け入れられるべきです。カトリックの信仰は、信者に罪を憎み、しかしながら罪人を愛することを教えています。
 
 
【信徒や政治家は、同性関係の法的承認に反対する義務がある。】
 
3.信徒、特にカトリックの政治家は、同性関係の法的承認に反対する義務があります(教理省『Considerations Regarding Proposals to Give Legal Recognition to Unions between Homosexual Persons, Diverse questioni concernenti l'omosessualita』10号[3])。
 
家族をつくる権利は主張さるべき私的な権利ではなく、人間を性的な差異(ちがい)のうちに「男と女とに天主がつくりだされ」(創世記1章27節)、人を、つまり男と女を、生命の伝達にお呼びになる創造主のご計画に対応したものでなければなりません。
 
「結婚した夫婦は(父、子供、孫、曾孫などと)世代世代の継続継承を保証するので、抜きん出て公共の利益に合致します。そのため、市民法は夫婦の結婚に制度的な承認を与えます。
 
一方、同性関係は、この機能を公共善のために果たさないため、法的観点から特別な注意を払う必要はありません」(同上9号[4])。結婚した夫婦間の結合と同じ意味において同性間の結合を語ることは、実際には、非常に大きな誤解を招くことになります。なぜなら、同性の人の間にはそのような結合は存在しえないからです。司法の運用に関しては、同性愛の状態にある人は、他のすべての市民と同じように、自分の私的権利を保護するために、常に法律の規定を利用することが可能です。
 
 
【教皇の個人的な意見が教会の不変の教えに不一致であり、きわめて悲しい。これは、つまずきや動揺、混乱や誤謬という司牧的な懸念の源でもある。】
 
報道機関によって非常に大きく強調されて報道された、教皇フランシスコのものだとされる個人的な意見が、聖書と聖伝に表わされ、そして教導職によって守られ、保護され、解釈される教会の不変の教えに一致していないことは、最も深い悲しみの源であり、また差し迫った司牧的な懸念の源です。
 
また同様に悲しく、かつ懸念されることは、カトリック教会が路線変更をした、すなわちそのような基本的かつ重要な問題について教会の永続する教えを変更した、という完全に誤った印象を与えることによって、一般的に言えば、それらが引き起こすつまずきに加えて、カトリック信徒の間に引き起こされる動揺、混乱、誤謬です。
 
 
レイモンド・レオ・バーク枢機卿
2020年10月22日、ローマにて
 
 
脚注
 
[1] “... suapte intrinseca natura esse inordinatos.” Sacra Congregatio pro Doctrina Fidei, Declaratio, Persona humana, “De quibusdam quaestionibus ad sexualem ethicam spectantibus,” 29 Decembris 1975, Acta Apostolicae Sedis 68 (1976) 85, n. 8. English Translation, p. 5, VIII.
 
[2] Cf. Congregatio pro Doctrina Fidei, Epistula, Homosexualitatis problema, “Ad universos catholicae Ecclesiae episcopos de pastorali personarum homosexualium cura,” 1 Octobris 1986, Acta Apostolicae Sedis 79 (1987) 544, n. 3. English Translation, pp. 1-2, no. 3.
 
[3] Congregatio pro Doctrina Fidei, Nota, Diverse quaestioni concernenti l’omosessualita, “De contubernalibus eiusdem sexus quoad iuridica a consectaria contubernii,” 3 Iunii 2003, Acta Apostolicae Sedis 96 (2004) 48, n. 10. English translation: English Translation, pp. 5-6, no. 10.
 
[4] “Poiche le coppie matrimoniali svolgono il ruolo di garantire l’ordine delle generazioni e sono quindi di eminente interesse pubblico, il diritto civile conferisce loro un riconoscimento istituzionale. Le unioni omosessuali invece non esigono una specifica attenzione da parte dell’ordinamento giuridico, perche non rivestono il suddetto ruolo per il bene comune.” Ibid., 47, n. 9. English translation: Ibid., p. 5, no. 9.
Also published at the Daily Compass, October 22, 2020.
 




私たちが、悪魔の汚染から逃れ、そして御身天主のみを、純粋な心で、良い心で従う事ができますように

2020年10月29日 | お説教・霊的講話

2020年9月27日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日このミサの後の感謝の祈りの後に、小さな生まれたばかりの赤ちゃんの洗礼式がある予定です。この赤ちゃんの為に、天国にちゃんと導かれて、良い立派な聖なる一生を送る事ができますように、お祈り下さい。

今日御ミサの時に、私たちは集祷文で、とても美しい祈りを見ました。
「私たちが、悪魔の汚染から逃れ、そして御身天主のみを、純粋な心で、良い心で従う事ができますように」と。
“Da, quǽsumus, Dómine, pópulo tuo diabólica vitáre contágia : et te solum Deum pura mente sectári.”

そして今日はこのお祈りを、心を込めて唱える事にしましょう。そして真の天主を心から礼拝致しましょう。純粋な心を以って、御身天主のみを礼拝致しましょう。

ところで今日皆さんに知って頂きたいのは、「天主の礼拝」という事に関して、それに反対する罪はたくさんありますが、その内よく見かけるのが「迷信」という罪です。そこで今日は皆さんに「迷信という罪は何か?」という事を知ってもらいたいと思っています。

「天主の礼拝」という事は、目的は3つあります。

1つは、天主を礼拝する事によって、主の栄光をいや増す事、讃美する事です。

第2には、主を礼拝する事によって、主からの正しい真理の教えを、啓示を受け取って、知性を照らす、真理を知る、という事。天主のみが、私たちを真理に導いて下さる事ができるからです。

第3の目的は、私たちが礼拝する事によって、天主からの教えを受けて、行動も体も、頭だけではなく体全体が、善を行なって、掟に従い、主を愛し、そして行動を律して、そして私たちの目に見える世界に、善をもたらすという事です。

天主の栄光、
そして、知性を真理で照らし、
そして、行動を正しく、そしてこの周りに善を施す。

悪魔はこの「天主の礼拝」に、猿まねをします。これの劣化コピーをします。これのものまねをします。

どうするかというと、それが「迷信」です。真の天主を礼拝する代わりに、誤った事を私たちに信じさせて、そして下らない事をさせます。これが迷信と言われているものです。

では、それにはどういうものがあるかというと、おもに3つあります。

「天主の名誉を、栄光を高める」代わりに、それに反対をするものが、迷信の内の1つです。
これは「偶像崇拝」と言われます。偶像崇拝というのは、偽りの神々に礼拝を捧げさせる事です。

ですから考えてもみて下さい。ある王国に、王様がいるにも関わらず、誰かが「あ、別の王様がいる。別の王様に税金を払って、別の王様の為に軍隊を作って、別の王様の法律に従わなければならないよ」と言ったら、その国は全く反逆、反乱罪がいる事になってしまいます。

その反逆を、天主に対する反逆をさせようとするのが「偶像崇拝」です。大体はおどろおどろしい偶像が、恐ろしい形相の偶像が作られます。象の鼻を付けていたり、猿の姿をしたり。

そして第2に、「礼拝によって真理を得る」という事の代わりに、そのものまねをするのが、「占い」です。

占いというのはたくさんあります。非常に危険です。例えば占星術、あるいは手相、人相、あるいは水晶の玉を覗いて、あるいはタロットカードで、あるいはサイコロで、あるい火の形を見て、あるいは鳥がこう鳴いた、あるいはくしゃみの仕方はこうだとか、あるいは「あなたの生まれた土地は何ですか?うん、それは良くないね。あなたの先祖には獣が付いている。」

大体下らない、荒唐無稽の話をして、私たちを迷わせます。そして下らない行為をさせます。「あなたはその試験をやめたほうがいい。」「あなたはそうしない方がいい。」「これはダメだ。」

全く根拠がありませんし、全く虚しい、下らない話です。そういう話がたくさんあります。「方向が悪い。」

全く危険な事です。なぜかというと、その背後に悪魔が潜んでいるからです。そして少なくとも悪魔が潜んでいなかったとしても、それは理性に反しています。それが「占い」です。

そして、「行動を律する、礼拝によって私たちの行動を良くして、正しくして、周りに善を施す」、それの猿まねが、「魔術」です。

魔術を行なって、何か自分の利益を得ようとする事です。非常に危険です。特にこれには悪魔が関わっている場合があります。

皆さんの所に誰かが来て、「さぁ、このペンダント付けてもらえますか。そうすると、金運が回ってくるよ。お金持ちになるよ。」「交通安全」「これをすると出世します。」「試験が受かります。」「これを付けると、病気になりません。」「これを付けると、コロナに勝ちます。」「これを…。」

皆さん、みんなこれは迷信であって、嘘であって、信じないで下さい。

私たちがそのような悪魔からの悪い汚染に浄められて、純粋に、真の天主三位一体、私たちをいつも愛して下さる方を信頼して、その天主にのみ礼拝する事ができるように、お祈り致しましょう。

来たる火曜日29日は、大天使聖ミカエルの日です。「誰が天主に如く者あるぞ!」と、そして悪魔を打ち払いました。

私たちの愛する祖国から、そして世界中から、悪魔の働きが追い払われて、そして本当の天主イエズス・キリストを、愛と真理を以て礼拝する、その喜びがますます広がりますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




謙遜というのは「私たちが真理に根付いている」という事、つまり「私たちが創造主から創られた単なる被造物であること」

2020年10月29日 | お説教・霊的講話
2020年9月20日(主日)聖霊降臨後第16主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(東京)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、「謙遜がどれほど大切か」という事を教えて下さいます。

謙遜の反対は傲慢です。傲慢によって、光の天使であったルチフェルは、サタンになりました。傲慢によって、アダムとエヴァは、天主から命じられた事を、禁止されている事に反して、善と悪の知恵の実を食べてしまいました。傲慢な人は、必ず辱められます。

しかし、マリア様はとても謙遜でした。謙遜というのは一体何なのでしょうか?

謙遜というのは、「私たちが真理に根付いている」という事です。真理に根付いているという事は、「私たちが天主から、創造主から創られた単なる被造物であって、無に過ぎない。全て私たちの持っているものは、与えられたものだ」という事を、そのまま認める事です。

私たちが持っているものは全て、良いものは全て与えられました。私たちが持っているもので、与えられなかったものはありません。その事を感謝して、それを認める事、これが謙遜です。

私たちは全て与えられた、無に等しい者。私たちは誇る理由は全くない、という事です。

マリア様に、私たちが謙遜である御恵みを求めましょう。謙遜であればあるほど、ますます御恵みを受けて、ますます高められます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




十字架が降りかかり、苦しみ悲しみひどい事が起こったその時に、私たちにとって一番大切なものを思い出して下さい

2020年10月28日 | お説教・霊的講話
2020年9月13日(主日)聖霊降臨後第15主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(東京)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、寡婦の一人息子をよみがえらせました。それによって私たちも、主の憐みの深さが分かります。

同じ愛を以て現代でも、イエズス様は私たちを霊的によみがえらせて下さいます。私たちにとって一番大切なのはまさに、この霊的な命を守る事です。イエズス様といつも一致している事です。

私たちは時々、十字架がこの身に降りかかり、苦しみがある、こんな悲しみがある、こんな事件がある、こんなひどい事が起こった、と、「どうしたら良いんだろうか」という事がありますけれども、その時に、私たちにとって一番大切なものを思い出して下さい。

それは、「私たちがイエズス様といつも一致している事」であって「それに比べれば、他の事は実は、何でもない。」

なぜかというと、私たちが霊的にイエズス様と一致して、聖寵の状態を保っている、という事こそ、永遠の価値を持っておりその為にこそ、天主が人となって、十字架で私たちの為に苦しまれた、その目的だからです。

ですからいつも私たちは、イエズス様と一致している事を、イエズス様の御旨を果たす事を、イエズス様の聖寵の状態を保つ事を、まず優先する事ができますように、お祈り致しましょう。

マリア様がそうされました。マリア様に、その御恵みをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




罪から、悪魔の誘惑から、誤謬から守られますように、マリア様の御名の尊き名前において、祈りましょう

2020年10月28日 | お説教・霊的講話
2020年9月12日(土)童貞聖マリアの至聖なる御名の祝日
御聖体降福式にて

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父


御聖体の内に真に在し給うイエズス様の御前で、礼拝と、感謝と、讃美を御捧げ致しましょう。

ヨーロッパをイスラムの侵略からマリア様が守って下さったように、世俗主義や共産主義、あるいは異端、誤謬が、私たちの家庭、あるいはカトリック教会の信徒を侵略する事から守って下さいますように、マリア様にお祈り致しましょう。

私たちの霊魂が、家族が、教会が守られますように、イエズス様に捧げられたものとして守られますように、罪から、悪魔の誘惑から、誤謬から守られますように、マリア様の御名の尊き名前において、お祈り致しましょう。





誰も、2人の主人に仕える事はできない。天主に仕えて、それと同時にマンモンにも仕える事はできない

2020年10月28日 | お説教・霊的講話
2020年9月6日(主日)聖霊降臨後第14主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(東京)


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、そして小さなお友達、

今日福音でイエズス様は、「誰も、2人の主人に仕える事はできない。天主に仕えて、それと同時にマンモンにも仕える事はできない」と仰いました。

これは、私たちのお友達にとってはこういう事です、「イエズス様の命令と、この世のやり方とは、対立している。この二つを同時に行く事はできない。」

お父さんが「こうしなさい」と言ったら、「でも、お友達は別の事をやっている。」

それは、私たちはこのお父さんとお母さんの言う事を、イエズス様の仰る通りにしなければなりません。

私たちはどちらかを取る時に、「いつも、イエズス様を取りなさい。まず天主様のその御旨と、御国と、その義を求めなさい。」

ですから、小さなお友達、いつもイエズス様の聖心に従うようにする事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




本の紹介と宣伝:ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿著(ベネディクト十六世)『典礼の精神』(濱田了訳 サンパウロ2004年 現代カトリック思想叢書21)

2020年10月27日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は本の宣伝をします。

今日取り上げる書籍は、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿著(ベネディクト十六世)『典礼の精神』(濱田了訳 サンパウロ2004年 現代カトリック思想叢書21)です。内容に賛成する方も、同意しない方も、一読するに値すると思います。

この本の一部を(第四部 典礼の組成から)引用してみます。きっともっとお読みになりたいと思われることでしょう。

読みやすくするために、段落を付け加えたり、一部、訳語や漢数字を算用数字に置き換えたりしてあります。濱田了神父様の訳されたものの完全なコピペではありません。ご了承ください。

『典礼の精神』(ヨゼフ・ラッツィンガー著)
第四部 典礼の組成
三 体の構え

「ひざまずく」「ひれ伏す」

 

【問題提起:ひざまずき】
少なからぬ影響力を持つグループが、私たちに「ひざまずく」ことを止めさせようと試みてきます。「私たちの文化に合わない」と言います(一体、どの文化に?)。「まっすぐに立って、神に向かって歩く成人には似つかわしくない」あるいは、「救われた人はキリストによって自由となり、もはやひざまずく必要がないので、ふさわしくない」と言います。

【ギリシア人もローマ人も、異教の神々には「ひざまずき」をしなかった】
もし私たちが歴史を一瞥するならば、ギリシア人もローマ人も、「ひざまずき」を受け入れなかったことが確かに分かります。神話に物語られた、党派的で争い好きの神々という理解からは、このような立場がまさに正当化されます。このような神々は、たとえ人が彼らの気まぐれな力に左右されたとしても、また彼らの好意をできるかぎり確かめなければならなかったとしても、天主ではないことがあまりに明白でした。そこで人は、自由人にとって「ひざまずく」ことは品位を汚すことだ、ギリシアの文化にふさわしくなく、野蛮人のすることだと言っていました。プルタルコスとテオフラストスは、「ひざまずき」を迷信の表現だと見なしました。アリストテレスは野蛮人の行動様式だとしました(「修辞学」、1361, a36)。

アウグスティヌスは、アリストテレスがある面では正しいとしました。偽りの神々は、人間を金銭崇拝と利己主義の支配下に置く、悪魔の仮面にしかすぎず、人をそのようにして「奴隷」にし、迷信の闇に引き込みます。十字架に至るまでのキリストの謙遜と愛は、私たちをこれらの諸力から解放し、この謙遜に対して私たちは「ひざまずく」のだと、アウグスティヌスは言います。

【キリスト者の「ひざまずき」は、キリスト教文化の表現】
実際、キリスト者の「ひざまずき」は、すでに成立していた何らかの慣習を文化受容した一形式ではなく、それとは全く反対に、キリスト教文化の表現であり、それまでの文化を、天主についての新しく深い認識と体験によって変容させるものです。

「ひざまずく」ことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書と聖書が伝える天主の認識からきたものです。聖書における「ひざまずき」の中心的な意味は、次のことから具体的に知ることできます。つまり、「プロスキネイン」(προσκυνείν proskynein = 伏し拝む)の語が新約聖書だけでも59回も使われていて、そのうち24回が黙示録に出ます。黙示録は、教会の典礼にとっての基準となる、天上の典礼を記す書です。詳細に見てみると、三種の互いに関連する姿勢を識別することができます。

第一に「プロストラツィオ」(prostratio = ひれ伏す)があります。これは、天主の圧倒的な力の前に、「地面にうつ伏す」ことです。
次に新約聖書に特に見られる「ひざを屈する」こと、
そして最後に「ひざまずく」ことです。

厳密にはもちろん、言語学上も、三つの姿勢が常に互いに明確に区別されていたのではありません。これらは互いに結びつき、入り混じっています。

【「プロストラツィオ」:ヨシュアとイエズス】
簡潔にするために、「プロストラツィオ」について、旧約と新約から一カ所ずつ取り上げたいと思います。
旧約聖書の中で、エリコ征服の前に、天主がヨシュアに出現する個所があります。これは、モーセに対して天主が燃える柴に現れたという個所と並行するように、聖書記者によって全く意図的に形成されたものです。
ヨシュアは「主の軍隊の長」と出会い、彼がそれと分かると、地にひれ伏します。するとこのときヨシュアは、かつてモーセに語られたのと同じことばを聞きます。「あなたの足の履き物を脱ぎなさい。あなたが立っているのは、聖なる場所である」(ヨシュ5・14以下)。「主の軍隊の長」という神秘に満ちた姿において、隠れておられる天主ご自身がヨシュアに語り、そしてヨシュアはその前に身を投げ出したのです。オリゲネスはこの個所に素晴らしい注釈を付けています。「私たちの主イエズス・キリストの他に、主の軍隊の長がいるのでしょうか?」ヨシュアはそれ故、来るべき方、来るべきキリストを拝んだのです。

新約聖書については、教父時代以来のキリスト教信心にとって、オリーブ山でのイエズスの祈りが特別の重要性を持ってきました。マテオ福音書(マタ26・39)、とマルコ福音書(マコ14・35)によれば、イエズスは身を投げ出し、まさに、「地にひれ伏して」(マコ14・35)祈ったのです。
ルカはこれに対して、福音書と使徒行録の全体において、ひざまずいて祈ることの神学を独特な方法で表して、イエズスがひざまずいて祈ったことを記録しています。受難の初めとしてのこの祈りは、所作としても内容としても模範となるものです。所作として、イエズスは、言わば人間の宿命を身に負い、人間の下落に陥ることを耐え忍び、人間的孤独と苦悩の最下層の深みから御父に祈ります。

【「ひれ伏し」を行いつつ、主の御旨がなされることを祈ったキリスト】
イエズスは自分の望みを御父の御旨の中に入れます。「わたしの望みではなく、あなたの望みが行われますように」(ルカ22・42)。イエズスは人間的意思を天主の意思の中に入れます。イエズスは人間的な拒みの心を余すところなく理解し、それを耐え抜きます。人間的な心が天主の御心に重ね合わされるという、まさにこの点に、救済の核心があります。なぜなら人間の下落は、人間の意思を天主の意思に対置させようとする、意思の矛盾に由来するものであり、それは「惑わす者」が人間に、自由への条件であると思い込ませたものです。「惑わす者」は、ほかのだれの意思にも服従しない自分固有の自立した意思だけが、自由であるかのように思い込ませたのです。「わたしの望みではなく、あなたの望みが行われますように」。これが真理のことばです。なぜなら、天主の意思は私たちの願いと対立する意思ではなく、私たちの願いの土台であり、それを可能とする条件だからです。天主の御心にとどまるとき、私たちの意思は本当の意思となり、自由となります。オリーブ山での苦悩と葛藤は、この救済の真理のため、分裂したものを結び合わすため、天主との交わりに結び入れるための苦闘なのです。

こう考えてくると、私たちはこの個所に、御父に対する御子の親愛の情からの呼びかけ「アッバ」(マコ14・36)のことばが置かれているのを理解できます。パウロはこの呼びかけに祈りを見ています。それは聖霊が私たちの舌の上に置き(ロマ8・15、ガラ4・6参照)、私たちの霊からの祈りを主のオリーブ山での祈りにつなぎ留めるものです。

【教会の典礼における「プロストラツィオ」】
教会の典礼において、「プロストラツィオ」は今日、二つの場合に行われます。聖金曜日と聖職叙階式です。【聖伝の洗礼式において、成人が受洗するときも「ひれ伏し」を行う。】

「プロストラツィオ」は、主が十字架につけられた日である聖金曜日に、私たちの罪科を通してキリストの十字架刑死に共同責任があることを知って、衝撃を受けたことをふさわしく表現します。私たちは身をうつ伏せ、キリストが受けた痛手、キリストが沈み込んだ苦悩の深みにあずかります。私たちは身を地にひれ伏し、そのことによって、私たちがどこにいるのか、そして、私たちが何者であるのかを確認します。私たちは倒れてしまった者であり、キリストだけが私たちを起き上がらせることができます。十字架が真の燃える柴であり、燃え上がりながらも破壊することのない、天主の愛の炎の場所であることを知って、イエズスが天主の現前する力の神秘の前に行ったように、私たちも身をうつ伏せます。

叙階式においては、イエズス・キリストの司祭的任務を代行すること、つまり、キリストの代わりに「わたし」と話すことが、私たち自身の力では絶対に不可能だということを知っているからです。叙階候補者たちが身を地にひれ伏している間、集まった全会衆は、諸聖人への連願を歌います。私も司祭叙階と司教叙階に際して、地にひれ伏したことを忘れることができません。私が司教に聖別されたとき、自分の力不足への焼き付くような感覚、責務の大きさを前にした自分の無力感が、司祭叙階のときよりもなお強く押し迫りました。そのとき、祈る教会によって諸聖人が呼び寄せられたこと、つまり、教会の祈りが文字通り私に注ぎ込まれ、私を包み込んだことは、素晴らしい慰めとなりました。身を地にひれ伏してまで表現しなければならない自分の無力さにおいて、このような祈り、この諸聖人たちの臨在感、生きている者も死んだ者も不可思議な力を与え、その力だけが私を助け起こすことができ、その力が共にあることによって、私の前にある道を進むことを可能にしたのです。

【「ゴニュペテイン」ひざをかがめる】
二番目に「ひざを屈する」姿勢に言及しなければなりません。福音書の中には「ゴニュペテイン」(γενυπετείν gonupetein)の語で4回出てきます(マコ1・40, 10・17、マタ17・14, 27・29)。

マルコ福音書1章40節から見てみましょう。一人の「重い皮膚病 λεπρός」を患っている人がイエズスのもとに来て助けを求めます。彼はイエズスの前に「ひざまずき γονυπετών」、こう言います。「お望みならば、わたしを清くすることがおできになります εάν θέλης δύνασαί με καθαρίσαι」。この姿勢が示すところを推し測るのは難しいことです。これが本来の崇拝行為を言っているのではないことは確かです。むしろ熱情を込めて身体で表現した願望であり、同時に単に人間的なものを超える力への信頼が言葉になっています。

【「プロスキネイン」跪いて礼拝する:霊的な意味と身体的な意味】
ひざまずいて崇拝することを示す古典的な語「プロスキネイン」(προσκυνείν, proskynein)が使用される場合とは異なる状況があります。これについて翻訳家が直面している問題を明らかにするために、二つの例を選びましょう。

まずパンを増やす奇跡の後、山上で御父のもとにとどまるイエズスが物語られ、その間、弟子たちは湖の上で風と波にさえぎられて漕ぎ悩んでいます。イエズスは弟子たちの方へと水の上を歩いて行きます。ペトロはイエズスのもとに歩いて行こうとして沈みかけ、主に助けてもらいます。イエズスが舟に乗り込むと風はおさまります。本文は続いてこう述べます。「舟の中にいた弟子たちは、あなたはまことに天主の子ですと言って『イエズスの前にひれ伏した』」(マタ14・33)。以前の翻訳では、次のようになっていました。「舟の中にいた弟子たちは、本当にあなたは天主の子ですといって『イエズスを拝んだ』」。両方の翻訳とも正しく、両方とも出来事の一側面を押さえています。新しい翻訳は身体的な表現であり、以前のものは内的な事象を表しています。物語の構成から、イエズスを天主の子と認めて礼拝する態度が明らかとなります。

これと同様な問題がヨハネ福音書の、生まれつき目の見えない人を癒す記述に見られます。このまさに、「神劇的」に構成された物語は、イエズスと癒された人との間の対話で終了します。その対話は、回心の対話にとって原型となるものであり、物語全体もまた、洗礼の実存的・神学的意味を心の動きから解明するものとして理解されなければなりません。この対話においてイエズスは、その人に人の子を信じるかと尋ねます。それに対して、生まれつき目の見えない人はこう答えます。「主よ、いったいその方はどなたですか」。イエズスが「あなたと現に話しているのが、正にその人である」と答えると、彼は「主よ、信じます」と言って、イエズスを伏し拝んだのです(ヨハ9・35~38)。以前の翻訳では、「イエズスを拝んだ」となっていました。実際、情景全体は、信仰の行為とそこから生じるイエズスへの崇拝に向けられています。今や身体の目だけでなく、心の眼が開かれたのです。その人は本当に見えるようになったのです。

ヨハネ福音書では「προσκυνείν プロスキネイン」の語が11回使われていて、そのうち9回がヤコブの井戸におけるサマリアの女との問答(ヨハ4・19~24)に表れていることは、この聖書個所の釈義にとって重要です。この問答全体が崇拝のテーマに終始しており、ヨハネ福音書全体におけるようにここでも、この語が「崇拝」を常に意味することには異論がありません。この問答もまた、癒された目の見えない人との会話と同じように、イエズスの自己啓示で終わっています。「あなたと話しているこのわたしがそうだ」。

私はこれらの聖書個所を長く論じていますが、その中から何か重要なものが現れるからです。詳細に見た二カ所において、「プロスキネイン」の語がもつ霊的な意味と身体的な意味は分かつことができません。身体的な動作は霊的な意識を有する者としてのものであり、ほかならぬ崇拝であり、それなしには無意味な動作となります。そして、霊的な行為はまた、その本質からして、人間の身体と霊魂との一致を土台として、身体の動作に表現されなければなりません。両側面が一つの語に合一します。なぜならそれらは非常に深く互いに依存しているからです。

ひざまずくことが単に外的行為であり、単に身体的行為となるなら、それは無意味な行為となります。しかし、また反対に、崇拝を単に霊的な範囲に引き留め、身体に表すことをさせないのであれば、崇拝の行為は消滅します。なぜなら、純粋に霊的なものは人間の本性に合致しないからです。崇拝は、人間全体に関するような根源的な行為なのです。その理由により、生ける天主の臨在を前にしては、ひざを屈するのを放棄することができないのです。

【ひざまずきの姿勢について】
ここにおいて私たちは、片膝あるいは両膝をつく、典型的なひざまずきの姿勢について論じることになります。旧約聖書のヘブライ語において、動詞「バラク」(barak = ひざまずく)は、「ベレク」(berek = ひざ)の語に対応しています。「ひざ」はヘブライ人にとって力の象徴と見なされていました。ひざを屈することは、生きている天主の前に私たちの力を屈することであり、私たちが、私たちのものすべてを天主から受けていることを認めることです。この姿勢は、旧約聖書の主要な個所において、崇拝の表現として現れます。

ソロモンは神殿の献堂において、「イスラエルの全会衆の前でひざまずいた」(歴代下6・13)のです。
バビロン捕囚後、帰還したイスラエルが苦境にあったので、エズラは夕べの献げ物のときにこの所作を繰り返しました。「わたしは意気消沈から立ち上がり、引き裂いた着物とマントのままひざまずき、わたしの天主、主に向かって手を差し伸べて祈った」(エズ9・5)。
偉大なる受難の詩編22(「わが天主よ、わが天主よ。なぜわたしを見捨てたのですか」)は、次の約束で結ばれています。「まことに地の中に眠っている者もみな、主を拝み、ちりの中に倒れている者もすべて、み前に身をかがめるでしょう」(22・30)。同じようなイザヤ書45章23節の個所も、新約聖書との関係の中で考察しなければならないでしょう。
使徒行録は、ひざまずいて祈る聖ペトロ(9・40)や聖パウロ(20・36)、そしてキリスト信者全体(21・5)を記しています。

私たちの問題にとって特に重要なのは、聖ステファノの殉教の記述です。最初の血による証しは、その苦難においてキリストの完全な模写と評されました。キリストの受難は、証し人の殉教において細部に至るまで繰り返されるのです。十字架につけられたキリストに対して、ステファノがひざまずいて祈ったのはこの一例です。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」(使7・60)。

これについて私たちはルカが、マテオやマルコとは異なり、主がオリーブ山でひざまずいて祈ったことを語っているのを思い起こします。すなわちルカは、最初の殉教者がひざまずいたことを、イエズスの祈りに入っていくこととして理解してほしいことが示されます。

【ひざまずくことは、十字架につけられたキリストに対する姿勢】
ひざまずくことは単にキリスト教的な所作なのではなく、キリスト論的な所作なのです。ひざまずきの神学にとって最も重要であり、私にとって常に偉大なキリスト賛歌であり続けるのは、フィリピ書2章6~11節です。バウロ以前からのこの賛歌に、私たちは使徒時代の教会の祈りを聞き、理解し、そしてキリストへの信仰告白を認知します。私たちはまた、この祈りに入り込んで私たちに伝えた、使徒たちの声も聞きます。そしてついには旧約聖書と新約聖書の非常に深い一致と、キリスト教信仰の宇宙的広がりに気付きます。

この賛歌はキリストを第一のアダムの好対照として示しています。第一のアダムが、高慢にも天主としての存在を手に入れようとしたのに反して、キリストは本性として天主であったのに、天主としての存在を「利得のように」固執しようとはせず、かえって十字架の死に至るまで自分を低くされたのです。

まさに愛からくるこの謙遜は、真に天主としての存在であり、彼の「名をすべての名に優るもの」とし、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべて、イエズスの名においてひざをかがめる」(フィリ2・10)のです。

使徒時代の教会の賛歌は、イザヤ書45章23節の約束の言葉を受け継ぎます。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがむ」。

まさしく十字架につけられた者としてのイエズスが「すべての名に優る名」、つまり至高者の名を持ち、天主の本質を備えていることが、旧約聖書と新約聖書の相関関係において明らかになります。十字架につけられた方を通して、旧い契約の荒削りの約束が成就したのです。すべての者はイエズスの前に、降りて来られた方の前にひざをかがめ、そのことによって、すべての神々に優る真の天主の前に身をかがめるのです。

十字架は天主の現存についての世界を包含するしるしとなりました。そして、かつて歴史的・宇宙的十字架について聞いてきたすべての事柄は、ここにおいて意味を見いだすのです。キリスト教典礼は、十字架につけられ、高められた主の前にひざをかがめることによって、まさしく宇宙的典礼となるのです。これが本当の「文化」、真理の文化の核心なのです。私たちが主の足元にひれ伏すという謙遜の姿勢は、私たちを宇宙の真の生命軌道の中に組み入れます。

【初代教会の実践】
もっとたくさんのことを付け加えることができるかもしれません。例えば、カイサレイアのエウセビオス(340年頃没)が、その「教会史」の中で、ヘゲシップス(Hegesippus)(二世紀の教父)にまでさかのぼる伝承として記述している感動的な話があります。それは、「主の兄弟」であり、エルサレムの最初の司教、ユダヤ人キリスト教会の「首長」であるヤコブが、ひざにラクダの皮革を当てていたそうです。それはヤコブが天主を礼拝し、彼の民のために赦しを嘆願するために、いつもひざまずいていたからです(23・6)。

また、砂漠の教父たちの教えに由来する物語があります。それによると、アポロンという修道院長の前に、悪魔が天主に強いられて姿を現したとき、その容姿は黒く、おぞましく見え、恐ろしいほどやせた肢体を持ち、そしてとりわけ悪魔にはひざがなかったのです。ひざまずくことができないのは、あからさまに悪魔の本性として著されています。

しかし、あまりに詳しく論じるつもりはありません。ただもう一点だけ指摘しておきたいと思います。ルカがキリスト者のひざまずきを述べた表現「セイス・タ・ゴナタ」(θείς τα γόνατα, theis ta gonata)は、古典ギリシア語には見られないものです。それはキリスト教独特の語なのです。【注:使徒行録20:36にはこうある。και ταυτα ειπων θεις τα γονατα αυτου συν πασιν αυτοις προσηυξατο, [パウロは]こういい終って跪き、みなとともに祈った。】この指摘をもって私たちの考察はその出発点に戻る円環を描き上げます。

【結論:ひざまずきにより、使徒たちや殉教者たちや宇宙全体と共に、イエズス・キリストとの一致にとどまる】
ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前ではひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエズス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。


2020年11月1日は、諸聖人の祝日(저성 첨례)です。聖伝のミサのラテン語・日本語・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

2020年10月27日 | ミサ聖祭

2020年11月1日は、諸聖人の祝日(저성 첨례)です。聖伝のミサのラテン語・日本語・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします

諸聖人がキリストとともに喜ぶ光栄の国! 彼らは、輝く服をつけ、羔(こひつじ)につき従う。〈晩課〉本日、公教会が祝うのは、最も慰め深い情景である。公教会は、天の光栄に入った子らを、一人一人祝うことが到底不可能であったので、本日の祝日を設けて、それを祝うのである。
この祝日の歴史は非常に古い。初代教会時代すでに、すべての殉教者の祝日として祝っていた。グレゴリオ四世教皇は、835年ごろ、その祝日を11月1日と定めた。本日は、キリストが、諸聖人によって得給うたキリストの勝利の日であり、また、典礼の秋、すなわち、贖いの実を感謝し、神秘的収穫を祝う日でもある。
公教会が本日祝う知られざる聖人の中には、信仰のしるしをもって永遠の旅へと先立った我らの親戚知友もあるであろう。また、天の報いをすでに受けている人々は、かつてこの世において、われらと変らぬ生活をおくった人々である。聖アウグスティノの言葉をかりるまでもなく、彼らになしえた事なら、われらにも出来ないはずはない。

저성 첨례 
『너희가 풍성한 상급을 하늘에서 받을 것이니 즐거워 하라』(복음) 가다꿈바 안에 그려져 있는 그림에서 중앙에 있는 표상은 왕위에 오르신 그리스도를 상징한다. 밑에는 시간과 영원의 바다를 항해하는 교회라는 배가 있다. 순교자가 십자가를, 복음사가는 책을, 동정녀는 종려나무 잎을, 고해자는 칼을, 종도는 열쇠를, 성부(城婦)는 족자를 각각 들고 있다. 서간경은 장막을 들어올려『헤아릴 수 없는 많은 무리들』이 천당으로 들어감을 보여주고 있다. 그렇게 많은 무리라고 하니 얼마나 위안을 주는 말씀인가! 천당에 들어가는 기본절차는 무엇인가? 

die 1 novembris 十一月一日 11월 1일
IN FESTO OMNIUM SANCTORUM 諸聖人 저성 첨례
I classis 一級祝日 (1급) 흰색
Ant. ad Introitum. 入祭文 초입경(성영 32)
Gaudeámus omnes in Dómino, diem festum celebrántes sub honóre Sanctórum ómnium, de quorum solemnitáte gaudent Angeli et colláudant Fílium Dei. 私たちは皆、全ての諸聖人の名誉のもとで祝日を祝いつつ、主において喜ぼう。この諸聖人の荘厳祭について、天使たちは喜び、天主の御子を共に賛美する。 모든 성인들을 공경하여 첨례를 지내나니 우리는 모두 주 안에 즐거워 할지어다. 천신들도 이 첨례를 기뻐하여 천주 성자를 찬미하는도다.
Ps. 32, 1. 詩篇 32ノ1 (성영 32․1) 
Exsultáte, iusti, in Dómino : rectos decet collaudátio. 義人らよ、主において喜べ。ともに讃美することは、正しい人に相応しい。 의인들아 주 안에 용약할지어다. 정직한 자들은 찬미를 받기에 합당하도다. 
V/. Glória Patri. V/. 願わくは、聖父と・・・(栄誦)。 영광이 부와 자와... 
Gaudeámus omnes in Dómino, diem festum celebrántes sub honóre Sanctórum ómnium, de quorum solemnitáte gaudent Angeli et colláudant Fílium Dei. 私たちは皆、全ての諸聖人の名誉のもとで祝日を祝いつつ、主において喜ぼう。この諸聖人の荘厳祭について、天使たちは喜び、天主の御子を共に賛美する。 모든 성인들을 공경하여 첨례를 지내나니 우리는 모두 주 안에 즐거워 할지어다. 천신들도 이 첨례를 기뻐하여 천주 성자를 찬미하는도다.
Oratio. 集祷文 축문
Omnípotens sempitérne Deus, qui nos ómnium Sanctórum tuórum mérita sub una tribuísti celebritáte venerári : quǽsumus ; ut desiderátam nobis tuæ propitiatiónis abundántiam, multiplicátis intercessóribus, largiáris. Per Dóminum. 全能永遠の天主よ、御身は我らをして、御身の全ての諸聖人の功徳を一つの祝いのもとに崇敬することを恵み給うた。願わくは、取り次ぐ者たちが増やされ、御身の憐みの溢れという我らの欲したことを与え給え。天主として(…)。 전능하시고 영원하신 천주여 너는 우리로 하여금 모든 성인들의 공로를 이 한 첨례에 공경케 하셨나니 간절히 빌컨대 네 무궁하신 자비를 무수한 성인의 전달하심으로 우리에게 충만히 태워 주시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Léctio libri Apocalýpsis beáti Ioánnis Apóstoli. 使徒聖ヨハネの黙示録の朗読  독서
Apoc. 7, 2-12. 黙示録 7ノ2-12 (성요왕묵시 7․2-12)
In diébus illis : Ecce, ego Ioánnes vidi álterum Angelum ascendéntem ab ortu solis, habéntem signum Dei vivi : et clamávit voce magna quátuor Angelis, quibus datum est nocére terræ et mari, dicens : Nolíte nocére terræ et mari neque arbóribus, quoadúsque signémus servos Dei nostri in fróntibus eórum. Et audívi númerum signatórum, centum quadragínta quátuor mília signáti, ex omni tribu filiórum Israël, Ex tribu Iuda duódecim mília signáti. Ex tribu Ruben duódecim mília signáti. Ex tribu Gad duódecim mília signati. Ex tribu Aser duódecim mília signáti. Ex tribu Néphthali duódecim mília signáti. Ex tribu Manásse duódecim mília signáti. Ex tribu Símeon duódecim mília signáti. Ex tribu Levi duódecim mília signáti. Ex tribu Issachar duódecim mília signati. Ex tribu Zábulon duódecim mília signáti. Ex tribu Ioseph duódecim mília signati. Ex tribu Béniamin duódecim mília signáti. Post hæc vidi turbam magnam, quam dinumeráre nemo póterat, ex ómnibus géntibus et tríbubus et pópulis et linguis : stantes ante thronum et in conspéctu Agni, amícti stolis albis, et palmæ in mánibus eórum : et clamábant voce magna, dicéntes : Salus Deo nostro, qui sedet super thronum, et Agno. Et omnes Angeli stabant in circúitu throni et seniorum et quatuor animalium : et ceciderunt in conspéctu throni in fácies suas et adoravérunt Deum, dicéntes : Amen. Benedíctio et cláritas et sapiéntia et gratiárum actio, honor et virtus et fortitúdo Deo nostro in sǽcula sæculórum. Amen. そのとき、見よ、私ヨハネは、日の昇るほうから上がる別の一位の天使を見た、彼は、活ける天主のしるしをもち、そして、大きな声で、地と海とを害する[権力]を与えられた四位の天使らに叫んだ。「我々が、天主のしもべらの額〔ひたい〕にしるすまでは、地も海も木も害するな」と。私は、しるされた人の数を聞いた。それは、イスラエルの子らのすべての部族の中から、十四万四千人であった。ユダ族の中から一万二干しるされ、ルベン族の中から一万二千しるされ、ガド族の中から一万二千しるされ、アゼル族の中から一万二千しるされ、ネフタリ族の中から一万二千しるされ、マナッセ族の中から一万二千しるされ、シメオン族の中から一万二千しるされ、レヴィ族の中から一万二千しるされ、イサカル族の中から一万二千しるされ、ザブロン族の中から一万二千しるされ、ヨゼフ族の中から一万二千しるされ、ベニヤミン族の中から一万二千しるされた。こののち、私は、すべての国と民族と人民と言葉とからの、誰にも数えきれぬおびただしい大群衆を見た。彼らは、王座の御前に、羔(こひつじ)の目前に立ちながら、白衣を着て、彼らの手に棕櫚(しゅろ)を持ち、大きな声でこう叫んでいた。「救いは、王座に坐し給う我々の天主と羔とにあれかし!」と。全ての天使たちは、王座と老人たちと四匹の動物たちとのまわりに立っていた。王座の目前に、自分たちの顔をつけてひれ伏して天主を礼拝した。「アメン、祝福と輝き、上智と感謝、誉れと力と強さとが、われらの天主に代々にあれかし、アメン」と言って。 유시에 문득 나 요왕이 생활하신 천주의 표를 가진 다른 일위 천신이 동편에서 올라 오는 것을 보았노라. 저는 육지와 바다를 해학하기로 허락을 받은 사위천신에게 큰 소리로 이르되「우리가 우리 천주의 종들의 이마에 표를 하기 전에는 육지와 바다와 나무를 해하지 말라」하더라. 나 표를 받은 자의 수를 들은즉 이스라엘의 아들들의 모든 지파에서 표를 받은 자가 십사만사천명인데 유다지파 중에 일만이천명, 루벤지파 중에 일만이천명, 가드지파 중에 일만이천명, 아셀지파 중에 일만이천명, 네프다리지파 중에 일만이천명, 마낫셋지파 중에 일만이천명, 시메온지파 중에 일만이천명, 레위지파 중에 일만이천명, 이스칼지파 중에 일만이천명, 사불론지파 중에 일만이천명, 요셉지파 중에 일만이천명, 벤자민지파 중에 일만이천명이더라. 그후 모든 백성과 지파에 말에서 온 아무도 헤아릴 수 없는 많은 무리를 나 보매 그들은 어좌앞에 고양의 면전에 흰 옷을 입고 손을 빨마를 들고 서 있어 큰 소리로 부르짖으며 이르되「어좌에 좌정하시는 우리 천주와 고양에게 구원이 있도다」하더라. 또한 모든 천신들이 어좌와 장로들과 네 동물을 둘러있다가 어좌앞에 엎디어 천주를 흠숭하여 이르되「『아멘』우리 천주께 찬미와 영광과 지혜와 감사와 명예와 권세와 용맹이 무궁세에 있어지이다」하더라. 
Graduale. Ps. 33, 10 et 11. 昇階誦 詩篇 33ノ10,11 층계경(성영 33․11)
Timéte Dóminum, omnes Sancti eius : quóniam nihil deest timéntibus eum. 主のすべての聖人らは、主を畏(おそ)れよ。主を畏れる者らには何も足りないものがない。 모든 성인들아 주를 두려워할지니 대저 주를 두려워 하는 자는 부족함이 없도다. 
V/. Inquiréntes autem Dóminum, non defícient omni bono. V/. 主をさがし求める者らは、すべての善がに不足することがない。 주를 찾는 자는 아무 선도 빼앗기지 않으리로다. 
Allelúia, allelúia. V/. Matth. 11, 28. Veníte ad me, omnes, qui laborátis et oneráti estis : et ego refíciam vos. Allelúia.  アレルヤ、アレルヤ、V/. マテオ、11ノ28 全て労苦する者、重荷を負う者は、私にきたれ、私はあなたたちを休ませよう、アレルヤ。  알렐루야 알렐루야.(성마두 11․28) 무릇 수고하는 자와 무거운 짐 진자는 다 내게로 오라. 나 너희를 쉬게 하리라. 알렐루야. 
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦 복음
Matth. 5, 1-12. マテオ 5ノ1-12 (성마두 5․1-12)
In illo témpore : Videns Iesus turbas, ascéndit in montem, et cum sedísset, accessérunt ad eum discípuli eius, et apériens os suum, docébat eos, dicens : Beáti páuperes spíritu : quóniam ipsórum est regnum cælórum. Beáti mites : quóniam ipsi possidébunt terram. Beáti, qui lugent : quóniam ipsi consolabúntur. Beáti, qui esúriunt et sítiunt iustítiam : quóniam ipsi saturabúntur. Beáti misericórdes : quóniam ipsi misericórdiam consequántur. Beáti mundo corde : quóniam ipsi Deum vidébunt. Beáti pacífici : quóniam fílii Dei vocabúntur. Beáti, qui persecutiónem patiúntur propter iustítiam : quóniam ipsórum est regnum cælórum. Beáti estis, cum maledíxerint vobis, et persecúti vos fúerint, et díxerint omne malum advérsum vos, mentiéntes, propter me : gaudete et exsultáte, quóniam merces vestra copiósa est in cælis. そのとき、人々の群れを見たイエズスが、山に登ってお座りになると、弟子たちは、おそばに近よった。イエズスは、話しはじめて、こうお教えになった。「心の貧しい人はしあわせである、天の国は彼らのものだからである。柔和な人はしあわせである。彼らは地を譲りうけるであろうから。泣く人はしあわせである。彼らは慰めをうけるであろうから。正義に飢え渇く人はしあわせである。彼らは飽かされるであろうから。憐れみのある人はしあわせである。彼らも憐れみをうけるであろうから。心の清い人はしあわせである。彼らは天主を見るであろうから。平和のために働く人はしあわせである。彼らは天主の子らと呼ばれるであろうから。正義のために迫害される人はしあわせである。天の国は彼らのものだからである。私のために、あなたたちを罵り、あるいは責め、人々が、あるいは数々の讒言(ざんげん)をいうとき、あなたたちはしあわせである。喜びに喜べ。あなたたちは、天において大きな報いをうけるであろう。 유시에 예수 백성을 보시고 산에 오르사 앉으신 후에 그 문도들이 가까이 나아 오거늘 입을 열어 저들을 훈계하여 이르시되「마음으로 가난한 이는 진복자로다. 천국이 저의 것임이요. 양선한 이는 진복자로다. 저들이 땅을 차지할 것임이요. 우는 이는 진복자로다. 저들이 위로함을 받을 것임이요. 의덕을 주리고 목말라하는 이는 진복자로다. 저들이 배부를것임이요. 애긍하는 이는 진복자로다. 저들이 애긍함을 받을 것임이요. 마음이 조촐한 이는 진복자로다. 저들이 천주를 뵈올것임이요. 화목하는 이는 진복자로다. 저들이 천주의 아들이라 일컬을것임이요. 의를 위하여 군난을 받는자는 진복자로다. 천국이 저희것임이요. 사람이 나 때문에 너희게 악답하고 너희를 핍박하고 모든 악한 것으로 너희를 거스려 망증하면 너희가 진복자 되리니 즐거워 하고 용약하라. 너희가 풍성한 상급을 하늘에서 받을 것이니라」하시니라. 
Credo 信経 신경
Ant. ad Offertorium. Sap. 3, 1, 2 et 3. 奉献文 智書、3ノ1-2、3) 제헌경(지서 3․1,2,3)
Iustórum ánimæ in manu Dei sunt, et non tanget illos torméntum malítiae : visi sunt óculis insipiéntium mori : illi autem sunt in pace, allelúia. 義人らの霊魂は、天主の御手にある。邪悪の苦しみ[死]は彼らに触れない。愚かな人々の目には、死んだと見えた。しかし彼らは平安のうちにいる。アレルヤ。 의인들의 영혼은 천주의 손에 있으니 괴악한 형벌이 저들에게 접촉치 않으리로다. 미련한 자의 눈에는 죽을 것 같이 보이나 저들은 평화중에 있도다. 알렐루야. 
Secreta 密誦 묵념 축문
Múnera tibi, Dómine, nostræ devotiónis offérimus : quæ et pro cunctórum tibi grata sint honóre Iustórum, et nobis salutária, te miseránte, reddántur. Per Dóminum nostrum. 主よ、われらは、われらの信心の捧げものを、御身に献上し奉る。各々の聖人らの名誉のためのこれらが、御身には嘉せられ、われらには御身の憐みにより救いとならんことを。天主として(…)。 주여 우리가 전심의 예물을 네게 드리오니 네 성인의 영광으로 네 성의에 합하게 하시고 또한 네 자비로 우리 구원에 유익이 되게 하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 
Præfatio de sanctissima Trinitate  三位一体の序誦  
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、…
Ant. ad Communionem. Matth. 5, 8-10. 聖体拝領誦  マテオ、5ノ8-10 영성체경(성마두 8․10)
Beáti mundo corde, quóniam ipsi Deum vidébunt ; beáti pacífici, quóniam filii Dei vocabúntur : beáti, qui persecutiónem patiúntur propter iustítiam, quóniam ipsórum est regnum cælórum. 幸いなるかな、心の清い人々、彼らは天主を見奉るであろう。幸いなるかな、平和を作る人々、彼らは天主の子と呼ばれるであろう。幸いなるかな、義のために迫害を受ける人々、天の国は彼らのものである。 마음이 조촐한이는 진복자로다. 저들이 천주를 뵈올것임이요. 화목하는 이는 진복자로다. 저들이 천주의 아들이라 일컬을 것임이요. 의를 위하여 군난을 받는자는 진복자로다. 천국이 저들의 것임이니라. 
Postcommunio 聖体拝領後の祈 영성체후 축문
Da, quǽsumus, Dómine, fidélibus pópulis ómnium Sanctórum semper veneratióne lætári : et eórum perpétua supplicatióne muníri. Per Dóminum. 主よ、願わくは、信ずる民たちに、全ての聖人らの尊敬によってたえず喜ぶを与え、彼らのたえざるとりつぎによって守られんことを与え給え。天主として(…)。

주여 비오니 네 믿는 백성들을 네 성인들을 공경함을 인하여 즐겁게 하시고 또한 저들의 전달하심으로써 보호하시되, 네 아들 우리 주 예수․그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... 

 


ヴィガノ大司教「私たちは特別な時代、歴史的な時に生きている。第二バチカン公会議と新世界秩序との関係について」

2020年10月27日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ヴィガノ大司教様のビデオ・メッセージです。

私たちは特別な時代に生きています。第二バチカン公会議と新世界秩序との関係について、ヴィガノ大司教様は私たちに語りかけています。










教皇フランシスコの「同性愛に関する発言」は、教会の不変の教えに反しており、霊魂たちに混乱を引き起こしています。

2020年10月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年10月25日、王たるキリストの祝日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。




王たるキリスト_イエズス・キリストが王である2つの理由_その王国はどこで完成されたのか知っていますか?

2020年10月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年10月25日は王たるキリストの祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年10月25日、王たるキリストの祝日です。一緒にキリストが王であるということを黙想しましょう。

【王たるキリスト】

天主は愛である。天主は私たちに祝福と幸福をあたえることを欲しています。私たちはただそれを受ける準備をするだけでよいのです。どうやって準備をしたら良いのでしょうか?天主を信頼し、天主に忠実に従うことです。天主に信頼する、何故なら天主の富と祝福は与え尽くすことも汲み尽くすこともないからです。天主に従う、何故なら天主を拒むとは、天主の与える祝福を拒むということだからです。

私たちを愛して人となった天主イエズス・キリストは、私たちの最高の王です。ピオ十一世教皇はその回勅『クアス・プリマス』で、イエズス・キリストが王である理由を二つ挙げています。

一つは、イエズス・キリストが天主だからです。天主と人間の本性が位格において結合した神秘(ヒポスタシスにおける結合)によって、イエズス・キリストには天主のペルソナ(位格)一つのみがあり、イエズス・キリストは同時に完全な天主であり同時に完全な人間だからです。ですから天主として、全ての被造物・全宇宙を、絶対最高の主権をもって支配し統治しているからです。

もう一つの理由は、イエズス・キリストが贖い主として、天主の御血で私たち罪人である人間を贖ったからです。人間の救い主として私たちの最大最高の恩人であるからです。イエズス・キリストは私たちを救うために人間になってこの地上に来られました。

「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(Act 4:12) これは聖ペトロの言葉です。永遠の真理です。カトリック教会の教える真理を一言でいう真理です。

カトリック教会はこの永遠の救いを霊魂に与えるために建てられました。イエズス・キリストの福音が、その与える聖寵が、その愛が、その教えが、霊魂たちに与えられるために。イエズス・キリストは、真の天主、私たちの贖い主として、したがって私たちの上に主権を持つ王として、私たちから信じられ、礼拝され、希望され、愛される権利を持っています。

イエズス・キリストは、霊魂たちを愛する王として、霊魂の幸せのために、霊魂を統治する権利を持っています。霊魂に永遠の幸福を与えるために、人間となった天主のことを、この歴史的事実を、だれも知らないでいることはできません。私たちが救われるためには、真の救い主の教えと恵みを、つまりその統治を受け入れなければなりません。

私たち個人のみならず、家庭も、社会もイエズス・キリストを王として認めなければなりません。イエズス・キリストこそが、全宇宙を支配する法を定め、愛の掟そのものである立法者です。それと同時にイエズス・キリストこそが私たちを愛し、私たちを生かしめ存在させている方であり、また最後の審判者です。この世のすべての統治者と指導者らや国々をも裁く方です。

イエズス・キリストの立てた御国である教会の外に救いはありません。何故ならイエズス・キリストの外に救いはあり得ないからです。私たちの主イエズス・キリストにおいてのみ、永遠の救いの価値があるからです。イエズス・キリストを通らなければ、だれも天国に入ることはできません。天国には、イエズス・キリストの神秘体しかないからです。イエズス・キリストこそが天国であるからです。何故ならイエズス・キリストは天主だからです。

イエズス・キリストの御国とは、今日の「王たるキリストの序誦」にあるとおり、すなわち「真理と生命との王国、聖性と聖寵との王国、正義と愛と平和との王国」です。

【ミサ聖祭】

唯一の贖い主かつ救い主であるイエズス・キリストは、その王国を十字架の祭壇の上で完成させました。永遠の司祭として、同時に、汚れなき且つ平和をもたらすいけにえとして自分自身を捧げつつ、唯一天主御父のみこころに適う犠牲を奉献しました。

私たちは、全カトリック教会と共に、イエズス・キリストを王として認めます。特に、聖伝のミサ聖祭においてイエズス・キリストが私たちの王であることを、知性と意志と体の態度で示します。

聖伝のミサによって、イエズス・キリストに、私たちの王としてふさわしい礼拝と賛美と感謝を捧げたいと望みます。イエズス・キリストの現存にふさわしい礼拝をささげます。私たちのカトリック信仰を心の底からの愛を表明する、聖伝のミサを捧げ続けることを望みます。私たちは、御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストを跪いて、天主として、王として、崇敬し敬います。

私たちはイエズス・キリストが愛をもって私たちを統治することを望みます。イエズス・キリストは私たちのすべてだからです。何故なら、イエズス・キリストこそが真の天主だからです。Regnavit a ligno Deus. 天主は十字架の木から統治するからです。

聖パウロが言う通り、天主御父は「キリストによって、キリストにおいて、すべてのものを和睦させ、御子キリストの十字架の御血によって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようと望み給うた」からです。本当の和睦と平和は、キリストの十字架の御血だけによるからです。

聖伝のミサは、私たちの主が持つその絶対的首位権を、祈りと態度で明白に表明しています。しかし、新しいミサでは、残念ながら、人間が中心になっています。

何故なら、十字架の犠牲の再現であるよりは、新しいミサの総則の定義によれば、「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」(7)であり、「主の晩餐を食する」(10) ことだからです。そこで、新しいミサは、もはや人から天主に向う垂直的な礼拝というよりは、それに代わって人と人との間での水平的な礼拝を制定しているからです。

【カトリック司祭の務め】

王であるイエズス・キリストは、ご自分の十字架によって勝ち取った天国の救いを与えるためにカトリック教会を創立しました。従って、イエズス・キリストの福音、イエズス・キリストの御国、イエズス・キリストによる霊魂の救いを説教するのは、カトリック司祭たちの務めです。

天国のみならず、この地上での幸せをさえも、イエズス・キリストがなければ得ることはできません。何故なら、イエズス・キリストこそ、この世界の創造主であり、愛の天主だからです。私たちの主の恩寵なしには何もできないからです。イエズス・キリストこそが全ての恵みの源だからです。

カトリック司祭は、救霊を望む人々全てに本当のことを伝えなければなりません。イエズス・キリストだけが救いの唯一の手段です。十字架につけられたイエズス・キリストを司祭たちは語らなければなりません。もしも聖伝のミサが、教会の聖伝の教えが、迫害されているとしたら、まさにこの真理のためです。

カトリック司祭は、イエズス・キリストの立てた宗教が超自然の真の宗教だと教え続けなければなりません。過去の歴代の教皇様たちの不可謬の教えをそのまま信じて繰り返し、カトリック教会が教えてきたことをそのまま変えずに教えなければなりません。使徒継承の教えを捨ててはなりません。カトリック教会の聖伝と断絶してはなりません。教会の聖伝や歴代教皇の教えと断絶することこそ、離教的です。教会を破壊することです。

カトリック司祭は、聖伝を礎(いしずえ)として教会を建てなければなりません。真の天主イエズス・キリストの上に、十字架の上に、聖伝のミサ聖祭の上に、教会を建てなければなりません。

王たるキリストの祝日の聖務日課では次のような賛歌を歌います。

(讃課)

キリストは誉れ高き御旗を

凱旋して大きく広げ給う、

民々よ、跪いて来たれ、

王の王に喝采せよ。

 

彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、

暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。

[十字架の]木に高く挙げられて、

全てを愛によって引き寄せた。

 

三重(みえ)に幸いなる国よ、

そこにキリストが合法的に命令し、

天からこの世へ命じられた

法の順守を実行する社会!

 

不敬な戦争は火を噴かず、

平和は条約を固め、

心の一致も微笑み、

市民秩序は安全に立ち留まる。

 

忠誠は、婚姻を守り、

若者は、貞潔を尊び、

家庭生活の諸徳により、

慎み深い家族は花咲く。

 

望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、

いとも甘美なる王よ、

燦然たる平和を楽しむことにより、

[御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。

 

イエズスよ、御身に栄光あれ、

御身は世の王笏を統括し給う、

聖父と聖霊と共に、

代々に至るまで、アメン。

 

(晩課)

千代の八千代の君主なる御身を

キリストよ、諸国の王なる御身を

御身を精神と心の唯一の

判定者と私たちは告白する。

 

邪悪な群れは叫ぶ

「俺たちはキリストの支配を望まない」と

私たちは御身を全て人々の最高の王と

拍手喝采して宣言する。

 

おお、キリストよ、平和を与える君よ、

逆らう人々の心を平定し、

御身の愛によって道を外れた人々を

一つの群れと集め給え。

 

それのために、流血の木に

御身は掛けられ両の腕(かいな)を開き

剣にて開かれた

火に燃える聖心を見せ給う。

 

それのために、御身は祭壇に隠れ給う、

ブドウ酒と食事の姿で。

子供たちに救いを注ぎながら

胸を突き刺されて。

 

諸国民の指導者(政府)たちは

公けの名誉を捧げつつ、

学者たちも、裁判官らも、御身を崇敬し

法律も芸術も、それを表明せんことを。

 

奉献された王たちの御旗らが

そこで輝き出んことを。

柔和な支配に祖国を

全ての家庭を奉献せよ。

 

イエズスよ、御身に栄光あれ、

御身はこの世の支配を司り給う、

御父と、聖霊とにも、栄光が

代々、とこしえに。アメン

邪悪な群れは「俺たちはキリストの支配を望まない」と叫ぶかもしれません。しかし私たちは、天主の御恵みと御助けにより、カトリック教会と歴代の教皇様たちと共に、イエズス・キリストを全て人々の最高の王と拍手喝采して宣言しましょう。御国の来たらんことを!御国が天にあるごとく地にも来たらんことを!と心から祈りましょう。

【遷善の決心】

ロザリオの聖母に祈りましょう。私たちを愛し、私たちを本当に幸福にすることを欲している王であるイエズス・キリストに、私たちが従いますように。イエズス・キリストの愛の掟に従いますように。王なるイエズス・キリストの福音を生きることができますように。王たるキリストの御旗のもとに、善のために罪に対してたたかうことができますように。そして、ついには永遠の王であるキリストと天国で、キリストとともに、とこしえに喜びを得ることができますように。

イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」とお答えになった」。


聖ピオ十世会 日本 SSPX Japan カトリック教会の聖伝のミサ Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka

2020年10月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

王たるキリストの祝日おめでとうございます!

東京で三回、大阪で一回のミサを捧げることが出来て天主に感謝いたします!

東京では82名が、大阪では28名がミサに参加されました。日本では110名でした。

願わくは、カトリック教会が教え続けてきたそのままの教えを、信仰と道徳に関する教えを、伝えられたまま、何も変えずに、教皇様、司教様方、司祭たちが教え続けますように!

ところでアメリカの大統領選挙が近づいています。この選挙の為にノベナの祈りが始まったと聞きました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計82人でした。

09:00のミサ
男: 16人(内、子供0人)
女: 16人(内、子供0人)
計: 32人(内、子供0人)

11:00のミサ
男: 16人(内、子供3人)
女: 14人(内、子供4人)
計: 30人(内、子供7人)

12:30のミサ
男: 11人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 26人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの6人を除く)
男: 42人(内、子供3人)
女: 40人(内、子供5人)
計: 82人(内、子供8人)







--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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