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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考情報】ヴィガノ大司教:私たち西洋人は、王や貴族や高位聖職者の首を切り落とすことで、何を達成できると考えたのか?母親に自分の胎内の子どもを殺す権利を与えることが自由の獲得だと思ったのか?

2022年06月29日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「フリーメーソンは世界的なクーデターを進めるためにWHOと『ベルゴリオの教会』を利用している」

Abp. Viganò: Freemasonry is using the WHO and the ‘Bergoglian church’ to advance its global coup

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

2022年6月17日 米東部標準時夏時間午後零時01分

(LifeSiteNews)―編集者注:以下は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が「Byoblu TV」のアルマンド・マノッキアに対して行ったビデオ・インタビューの記録です。このビデオはイタリア語で話され、2部に分かれています。

【問い(アルマンド・マノッキア)】大司教様、(ここイタリアでは)今、公的債務が27億ユーロを超え、経済的・財政的に破綻しています。私の考えでは、問題は、支配階級だけでなく、国民のかなりの部分が道徳的、倫理的に破綻していることです。倫理的、道徳的な感覚を含めた社会構造を再構築するために、私たちに何ができるでしょうか?

【ヴィガノ大司教】破綻は複数の要因による必然的な結果です。第一は、個々の国の通貨主権が欧州連合(EU)のような超国家的組織に移ったことです。欧州中央銀行(ECB)は民間銀行であり、加盟国に利子を取ってお金を貸し付け、永久債務を強制しています。欧州中央銀行は、公式には加盟国の中央銀行によって所有されていることを思い起こします。したがって、中央銀行は民間企業によってコントロールされているため、欧州中央銀行(ECB)自体も本質的には民間企業であり、そのように行動しているのです。

第二の要因は、通貨発行益(seigniorage)、すなわち中央銀行が国家に代わって通貨を発行することで得られる収入です。国家は、銀行券を印刷する材料費ではなく、その名目上の価値で借り入れを行います。これは、共同体に不利益を与える窃盗行為です。なぜなら、通貨は市民に属するものであり、民間銀行からなる私的主体に属するものではないからです。

第三の要因は、EUの経済・金融政策にあります。EUは、各国が過去に支払った資金を交付することで、利子の付いた融資を押し付けています。このため、【資金拠出が融資より多い】純拠出国であるイタリアは、利子を受け取らないだけでなく、あたかも自分のものでないかのように高利貸しのEUに返還する数十億ドルを想定しておかなければならないことになっているのです。

第四の要因は、最近の(イタリアの)政権の悲惨な財政政策によるものであり、それは加盟国の公的債権者である「トロイカ」(国際通貨基金、欧州委員会、欧州中央銀行)の強制的な命令に基づいているのです。大金融・大企業グループの実質的な免税と中小企業への嫌がらせは、国の貧困化を進行させ、多くの活動を失敗させ、その結果、失業者を増やし、安い労働力を生み出す基礎となっています。そして忘れてはならないのは、加盟国への融資という脅迫によって、地球温暖化や人口過剰といった誤った物語(ナラティブ)に基づいた、いわゆる改革を押し付けるのは、常にEUだということです。ジェンダー平等やその他の恐ろしいことが、市民への相談なしに、しかも市民が反対していることを十分承知のうえで、国内法に導入されたのです。

最後に、国連のアジェンダ2030の破壊活動、つまり世界経済フォーラムのグレート・リセットは、その目的として、国家と個人の富をグローバリスト・マフィアが管理する大規模な投資ファンドに移転することを宣言しています。この破壊的な作戦は、共同体に対する真のサイレント・クーデターとなっているため、裁判官が糾弾し、起訴しなければならないものです。

しかし、私が指摘したいのは、経済的な側面は、世界人口の完全な支配とその奴隷化といった、はるかに心配される目標を達成する一つの手段に過ぎないことです。もし、市民が持ち家を奪われるなら、もし、市民が企業の自由を持つのを妨げられるなら、もし、無秩序な移民や保健上の緊急事態で地域に特有の失業が起こって増大し、人件費が削減されるなら、もし、イタリア人が法外な税金で苦しめられるなら、もし、若い二人が結婚して子どもを持つことを事実上不可能にすることで、伝統的な家族が罰せられるなら、もし、教育が小学校から破壊され、個人の才能をくじくことによって文化の空白が生まれるなら、もし、私たちの生まれ育った土地の歴史が取り消され、イタリアを偉大にした輝かしい遺産が、包括性および国のアイデンティティー放棄の名の下に否定されるなら、未来もなく、希望もなく、戦う意欲もない社会以外に、何が期待できるでしょうか?

社会の構造を再構築するためには、まず第一に、現在進行中のクーデターが、支配する人々と全政治家の共犯によって行われていることを認識することが不可欠です。国際的な犯罪組織に不可侵の権利を奪われていることを理解することが、第一にして必須の一歩となります。特に制度や司法の健全な側が、いったんこのことを理解するならば、このサイレント・クーデターを可能にした裏切り者を裁き、政治の舞台から永遠に追放することが可能になります。当然ながら、イタリアは、まず第一に、EUから離脱することによって、その主権を取り戻さなければならないのです。

【問い】大司教様が始められた反グローバリズム同盟が決定的な役割を果たすことになるこの再建の仕事で、最初に着手すべき取り組みは何でしょうか?

【ヴィガノ大司教】将来の支配階級の知的、科学的、文化的、政治的、さらには宗教的な養成教育を目的とした、将来を見通した広範なプロジェクトを実施することが必要でしょう。彼らに批判的判断力と確固たる道徳的基準を持たせるのです。正しい市民、誠実な支配者、利益の正当な要求と労働者の権利や消費者保護を調和させる方法を知っている企業家といった支配階級が出現するような、学校や財団を設立しなければならないでしょう。

すべての正直な市民のように、公職に就く人々が自覚しなければならないのは、主がお与えになった役割において自分を聖化して天国に行くにふさわしくなりたいならば、自分が行うことに対して天主の御前で責任を取ること、また、個人的利益よりも共通善を優先させなければならないことです。私たちは、次のことを子どもたちや若者たちに教育しなければなりません。すなわち、誠実さ、義務や規律の感覚、対神徳【信仰・希望・愛徳】から当然あるべき結果として枢要徳を実践すること、善と悪が存在することを知る責任、そして、私たちの自由は、善であることの領域で動くことであると知る責任があります。何故なら、これこそが天主が私たちに求めていることだからです。「私が命じたことを行うなら、あなたたちは私の友である」(ヨハネ15章14節)と主は言われました。そして、これは公共の問題にも当てはまります。公共部門では、道徳が、腐敗と個人的利益の追求に、また、法律の乱用と市民の裏切りに、敵対勢力への卑怯な隷属に取って代わられています。アンブロジオ・ロレンツェッティがシエナのコムナーレ宮の広間に描いた善政の寓話(アレゴリア)から例を挙げてみましょう。15世紀のイタリアの自治体(コムーニ)の公権力に霊感を与えて導いた原理の単純さを見いだすでしょう。

【問い】イタリアでは、過去50年間の非政治的な文化が腐敗した支配階級を生み出し、そして今、おそらくまさにそのために、全体主義的な政権ができています。私たちの愛する素晴らしい国が、その歴史の中で最も否定的な影響を受けています。もはや欧州や西欧の一部ではないように思えます。市民、個々の国民は、もはや何にも期待していません。まず第一に政治家が、次に政府が、そして今や国全体が、新世界秩序のグローバリストのアジェンダ(行動計画)による命令(diktats)に服従しています。上記の腐敗に加えて、イタリアが歴史的にキリスト教の揺籃(ようらん)の地であり、カトリック教会の中心であったという事実と何か相関関係があるのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】しかし、それは明らかです。グローバリストの狂乱は、特にカトリック諸国に冷酷かつ残酷な形で影響を及ぼしており、この諸国に対して何世紀にもわたって信仰、アイデンティティー、文化、伝統を抹殺しようと激怒し続けてきました。イタリア、スペイン、ポルトガル、アイルランドといったカトリック諸国こそ、メーソンエリートの攻撃から最も被害を被っています。フランス革命でカペー王朝が崩壊し、第一次世界大戦で同じくカトリックのオーストリア・ハンガリー帝国と、正教会のロシア帝国も崩壊しました。第二次世界大戦でサヴォイア王政も崩壊しました。この王政はまず、いわゆる「リソルジメント」(Risorgimento、イタリア統一運動)の共犯者にして犠牲者でした。体制変革は最近のことではありません。むしろその逆です。

カトリック諸国が繁栄し、競争力を持ち、独立し、平和であることを許さない国々があります。なぜなら、それは、善きキリスト教徒であること、善き法律や公正な税金、家族に好意的な政策、繁栄と平和が可能であることの証明になるからです。比較の対象があってはならないのです。そのため、国民の不幸だけでなく、その腐敗、悪徳の醜さ、利益のための冷笑的な利己主義、最低の情念への隷属を求めるのです。霊魂と肉体が健康で、自由で、独立していて、自分のアイデンティティーに誇りを持っている民族は、恐ろしいものです。なぜなら、その民族は、そうあることを簡単には放棄せず、何もせずにく自分が征服されるがままになるのを許さないからです。キリストを王として敬う国民が知っているのは、支配者が自らを天主の代理人とみなしていることです。また、自分に金を与え力を与えてくれる人々に従うだけの専制君主とはみなしていないと知っています。

フランス革命がイエズス・キリストから王冠を奪い、天主の主権に対抗して、いわゆる「人間と市民の権利」を設定したことを忘れてはなりません。この権利は、自然道徳律の尊重から解放されて、今や中絶、安楽死(今日のカナダのように、貧しい人々の安楽死でさえ)、同性の人との結婚、動物との結婚、さらには無生物との結婚(その通りです。五つ星運動[イタリアの政党]がこれらを認める法律の提案を行っています)、ジェンダー論、LGBTQイデオロギー、そして原則も信仰もない社会が主張できる最悪のものすべてが含まれています。

国家の世俗主義は文明の征服ではなく、むしろ社会集団の野蛮化という意図的な選択であり、その社会集団の上に、宗教に関する政府の中立性とされるものが押し付けられますが、このことは、実際には戦闘的で反カトリックな無神論を宗教的に選択したことなのです。そして、大衆を操作して特定の「改革」をさせることができない場合、EUの命令(diktats)に従う者にのみ与えられるEU資金による脅迫が後を引き受けるのです。要するに、まず経済を破壊し、国の通貨主権と財政・経済問題における意思決定の自主性を奪い、次に、正直者が住みたがらないような腐敗した自己中心的な社会モデルの受け入れに援助を結びつけるのです。「欧州は私たちにそれをするよう求めている!」――つまり、【ここで言う欧州とは】誰からも選ばれていない技術官僚(technocrat)のロビーであり、これは、自然法やカトリックの信仰とは全く相容れない原則に突き動かされているのです。

しかし、もしディープ・ステートが国家の公的生活や市民の私的生活からカトリックの宗教を消し去ろうと動いているならば、ディープ・チャーチもまた、第二バチカン公会議以来、この世俗化に独自の貢献をしてきており、それは、福者ピオ九世によって断罪されたにもかかわらず、その世俗主義を支持した上、キリストの社会的王権という教理を、象徴的かつ終末論的な次元へと追いやるという段階にまで達していることを、私たちは認識すべきです。60年にわたるこの世のメンタリティーとの対話の後では、イエズス・キリストは、もはやカトリック教会の王ですらなく、その一方で、ベルゴリオは天主の代理人の称号を放棄し、聖ペトロ大聖堂でパチャママと戯れて時間を過ごすことを好んだのです。

【問い】巧妙に作られたサイコ・パンデミックは、精神病、パニック、恐怖、肉体的・精神的苦痛を生み出し、消えない痕跡、深刻な社会不安、人類の歴史上かつてないような事態を引き起こしました。こういったことが、人間をゾンビに貶めてしまったのです。このように人々へ押し付けられた適合化(conforming)と初期化(formatting)に直面して、どのようなメッセージを伝えることができるのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】あなたは正しくも「初期化」という言葉を使われましたが、それはある意味で、まさにサイコ・パンデミアによって開始され、今日、戦争とエネルギーの緊急事態によって続いているグレート・リセットを思い起こさせます。私たちは、なぜ国全体が信仰を棄て、反省することなくアイデンティティーを消し、伝統を忘れ、アングロサクソンの「るつぼ」(melting pot)をモデルに形作られるようになったのか、自問しなければなりません。この問題は、特に私たちの愛するイタリアに当てはまります。イタリアは、何十年にもわたって、一方ではフランスの左翼やソ連の共産主義に、他方では米国の「ネオコン」リベラル主義に思想的に従属し、ひどい姿にされてきました。今日、私たちは、ダボス世界経済フォーラムにおいて、中国の共産主義とグローバリストの自由主義が融合し、全世界と特にわが国を脅かしているのを目の当たりにしています。

もちろん、第二次世界大戦は、イタリアの植民地化の条件を作り出しました。それは、今日でもNATOが採用している統合モデル、すなわち、現実の独裁政権あるいは成立する可能性のある独裁政権を破壊し、爆撃し、壊滅させて、外国の利益に奉仕する傀儡政権に置き換えるというモデルに従うことでした。自国のアイデンティティーと主権を確認する誇りを再発見することは、イタリアの救済と破壊されたすべてのものの再建に不可欠な一歩です。だからこそ私は、多極化のモデルが、今日日常生活のあらゆる側面で私たちを脅かしているグローバリストのリヴァイアサンと戦うための興味深い展望であると考えているのです。

米国内の健全な勢力によってディープ・ステートが敗北すれば、自らを優位にあるとみなし、自らが他を服従させることを正当化するとみなす一国が存在しなくなって、国家の平和的共存の前提になるでしょう。だからこそ、ドナルド・トランプが不正選挙によって米大統領の座から追放され、彼に代わって――またもや体制変革で――工作されなければ統治できないほど腐敗した性格の人物がその地位についたのです。

【問い】西洋が危機に瀕しているのは、天主と自然法を否定しているからであり、また何よりも、生命の価値を過小評価して、道徳的、経済的、社会的観点から大きな過ちを犯し、現在の倫理的漂流と道徳的退廃につながったからだと言えるでしょうか?

【ヴィガノ大司教】「過ち」とは言えないと私は思います。むしろ、イタリアを、一部は(経済に関しては)ドイツの、一部は(文化に関しては)フランスの、一部は(国際政治に関しては)米国の、そして一部は(財政政策やいわゆる改革に関しては)欧州連合全体の植民地に変えてしまおうと、権力の立場にある者たちが、やましい気持ちで決行した詐欺、裏切り行為です。わが国は、歴史上何度も、もっと困難で問題の多い時代に、外国の諸大国と非常によく競争できることを示してきたという事実にもかかわらず、常に誰かに従属させられているのです。

基本的な問題は、サヴォイア王政以来、私たちが持つ政府が完全にフリーメーソンによって操縦され、改革を決定し、戦争を宣言し、国境を引き、条約を規定し、常にロッジの命令によってのみ行われてきたことです。悪名高いメーソンの国会議員、フリーメーソン員の大臣、メーソンの大学教授、最上位のフリーメーソン員、メーソン上級幹部、フリーメーソン員の出版者、フリーメーソン員の司教は、グランドロッジへの忠誠の誓いに服従し、イタリア国家の利益を裏切ってきました。今日、フリーメーソンは、その「世俗部門」であるダボスフォーラムを利用しており、このフォーラムは、国連、世界保健機関、欧州連合、さまざまな「慈善」財団、政党、そしてベルゴリオの教会に、アジェンダ(行動計画)を設定するのです。

しかし、このクーデターがあまりにも大規模かつ分岐しているという事実は、それが現実でないということを意味するのではありません。実際、現在の状況は、犯罪的陰謀を企てる単一のエリート集団によって事実上統治されている何百もの国々を巻き込んでいるというまさにその理由で、非常に深刻なのです。一方、「陰謀論」について語る必要はありません。「グレート・リセット」の主な立役者であるクラウス・シュワブが5月23日、ダボス会議で語った次の言葉を聞くだけでよいのです。「未来はそれ自体で創られるものではありません。未来を創るのは、(世界経済フォーラムの)私たちです。私たちは、自分たちが望む世界を押し付ける手段を持っています。そして、各共同体の『利害関係者』として行動し、互いに協力し合うことにより、私たちはそれを実現できるのです」(こちらこちら)。

ウクライナ危機も、この計画の一部です。「正しい物語(ナラティブ)で、私たちは戦争を利用して、あなたをグリーンにすることができます」。シュワブのアドバイザーであるユヴァル・ノア・ハラリ――イスラエル人、同性愛者、ヴィーガン動物愛護活動家で、反プーチン、反ロシア、さらにトランプに猛反対という、目覚めた知識人の「才能」をすべて要約している人物ですが、恥知らずにも次のように言うところまで行ってしまいました。「10年後には、誰もが脳にインプラントを持ち、デジタル領域で永遠の命を持つようになります…どの本を読むべきか、誰と結婚するか、どこで働くか、誰に投票するかは、グーグルとマイクロソフトが決めます…」(こちら)。

ハラリは、「Sapiens. Da animali a dèi. Breve storia dell'umanità.」(邦題「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」)(2011)や、「Homo Deus. Breve storia del futuro.」(邦題「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」)(2015)をはじめ、さまざまなエッセーの著者です。死を打ち負かし、自らを神にすることができると考えるトランスヒューマン人間のばかげた戯言です。

イタリア国民に対して行われた詐欺は、彼らに次のように信じさせるという19世紀にはじまった詐欺でした。それは、フリーメーソンに従順なピエモンテの支配者の庇護を受けて、統一前のイタリアのさまざまな国家の専制政治によるくびきから自分たちを解放することが自分たちの意志であること、もっと悪い腐った人物に従うことになると理解せずに「自由」の名の下に正当な君主の権威に対して反抗することが自分たちの意志であること、戦後すぐにサヴォイア王政を排除して、その代わりにイタリア共和国を設立することが自分たちの意志であること、(富と繁栄につながるという)エルドラドの幻影を抱いて欧州連合に加盟すること――なのですが、その後で、このすべてが欺瞞であることが分かるのです。そして、自由、民主主義、進歩を求めるこれらの要求の背後にいたのは誰なのでしょうか? それは、いつもフリーメーソンしかいません。あらゆるところに浸透しているそのしもべたちとともに。

おそらく、時が来たのでしょう。イタリア人が、本格的な裏切者に支配されずに、自分たちの未来を決め始める時が。裏切者が、犯罪的な陰謀者というその正体を裁かれて、政治からも、国の生活に干渉する可能性からも永遠に追放される時が。裁判官や警察関係者には、この独裁政権を支持した者は、まもなく協力者とみなされ、そのように非難されるということを覚えておいてもらいましょう。今、彼らが尊厳と名誉の奮発があれば、まだ信用できるかもしれません。

【問い】歴史と文化が非常に豊かな西洋が、自然法を否定して逆らうという、この態度の結果をなぜ考えないのでしょうか? 理性的な人間がそれを否定することがどうして可能なのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】人間は理性的です、そうです。しかし、人間はまた、情熱や色欲、この世の誘惑の支配下にもあります。超自然の恩寵の生活においてのみ、人間は天主の助けを受けて、天主との友情の中で自分を保ち、善のために行動することができるようになるのです。しかし、たたえられているロマン主義運動が私たちに教えてくれたのは、理性は感情に屈しなければならず、意志は情熱を支配できず、「心は命令されない」ということでなく、実際にはその逆が正しいということではないしょうか? ここでも、ジュゼッペ・ヴェルディに始まり、あらゆるオペラや小説など、比較的平凡な大衆を操る作戦によって、人民やブルジョアの道徳的義務の認識が、いかにして消し去られて、非合理性や一瞬の情熱への隷属に取って代わられたのか、そしてそれに続いて起こるあらゆる損害があったのかが分かります。

自然法の否定の原点には相対主義があり、これは、あらゆる考えを容認して正当とみなし、創造主によって人間に刻まれた超越的原理の存在を否定します。そして、歴史、文化、芸術は、社会学的あるいは心理学的な鍵で分析されるべき現象となり、もはや文明を構成するものではなくなってしまうのです。しかし、よく聞いてください。創造主、贖い主としての天主【イエズス・キリスト】を否定する人々は、キリスト信者でない人々が彼らの宗教を実践するのを許可するために【キリストを】否定するのではなく、じつは、キリスト信者たちが社会教理と共通善の原理に従って社会を形成するのを妨げるために否定しているのです。これらの背後には、私たちの主イエズス・キリストを憎む人々がいるのです。

マノッキア博士、次にお尋ねになる質問はこうであるべきです。「なぜサタンのしもべは、キリストに似たあらゆるもの―たとえ似通うことが離れていたとしても―を嫌うのをやめなければならないのか? 彼らは常に嫌ってきたというのに。【彼らはキリストを憎しみ続ける】」私たちを滅ぼそうとする敵と対話ができると考えるのは、無責任あるいは犯罪的です。何のためらいもなく倒さなければならない敵がいるのです。彼らは悪に身を捧げているのですから。

西洋の過ちは、革命の嘘を信じたことであり(グレート・リセットもそうだったのですが)、反乱と背教の渦、暴力と死の渦に引きずり込まれるのを許したことです。しかし、それは結局のところ、蛇に誘惑されるのを許したとき、アダムとエワに起こったことではありませんか? その時でさえ、サタンの約束は明らかに嘘で、欺瞞に満ちていたのに、アダムとエワは誘惑者の言葉「あなたは天主のようになる!」に屈してしまい、それから自分たちが欺かれていたことに気づいたのです。

私たち西洋人は、王や貴族や高位聖職者の首を切り落とすことで、何を達成できると考えたのでしょうか? フーシェ、ダントン、ロベスピエールのような人物や、ギロチンにかけられた人々の代わりになるはずだった腐敗した暗殺者たちの寄せ集めによって、私たちは何が改善されると思ったのでしょうか? 離婚を認めることが進歩だと本当に思った人が私たちの中にいたのでしょうか? あるいは、母親に自分の胎内にいる子どもを殺す権利を与えることが、自由の獲得だと思ったのでしょうか? あるいは、眠っている高齢者や、病人、貧しい人に毒を盛ることが文明のしるしだと思ったのでしょうか? 最も忌まわしい悪徳【同性愛】を誇示することが基本的な権利であるとか、人が性別を変えることができ、自然がすでに決定したことをグロテスクに変更できると、正直に納得している人がいるのでしょうか? これらの恐ろしいことがらを受け入れる人々は、これらの恐ろしいことが「文明」と「進歩」のモデルとして示されているからという理由でそうするのであり、これらを受け入れる人々は、皆のやるように従い、皆のやることから離れずに従おうとするからです。

問題は、現代人が革命の子であり、無意識のうちに「政治的正しさ」(political correctness)や「相対主義」、「客観的真理は存在せず、あらゆる思想は等しく受け入れられる」という考え方に洗脳されていることです。この思想の病が、敵対者の成功の第一の原因です。なぜなら、多くの人々は、彼らの原則を受け入れること彼らと同盟を結び、(このように破壊的な方法で)私たちの社会を変えることを可能にしたのは、まさにそうした思想であることを理解しなかったからです。

EUとその地獄のようなイデオロギーの奴隷になることは、イタリアにとどめを刺す最後の一歩の一つに過ぎないのです。だからこそ、革命、人権宣言、啓蒙主義、イタリア統一運動(リソルジメント)、千人隊の遠征(1860年のイタリア統一運動の歴史における伝説的な愛国的瞬間)への賞賛を耳にするとき、私は身震いしてしまうのです。グローバリズムは、現代のあらゆる誤謬の転移であり、教会だけが、その始まりから、先見の明をもって断罪する方法を知っていました。そして実際、グローバリズムが加速されてきたとすれば、それはまさに、第二バチカン公会議以降、高位聖職者階級が、メーソンの陰謀に対する不倶戴天の敵から、その熱心な同盟者に変わってしまったという事実のせいです。

【問い】西洋では、人口減少がやむことなく進行しており、その結果、あらゆることが起こっています。現在の一般的な考え(Vulgate)は、人口減少がより大きな貧困を引き起こすため、人類にとって心配な現象であると主張しています。人口減少が経済衰退の主な原因になり得たのでしょうか? この現象に、西洋諸国の政府は関心がないかのように思えます。大司教様のお考えでは、なぜなのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】グローバリストが明確に認めていることによって、グローバリストの主な目的が世界の人口を大幅に減少させることであることを、私たちは知っています。イタリアのロベルト・チンゴラーニ生態系移行大臣――彼は偶然にもレオナルド社(航空宇宙・防衛・安全保障)出身です――は、地球は30億人以下になるように「設計」されていると主張しているのです。【80億人に迫るとされる現在の人口との】差をどう解消するのか、丁寧に説明すべきです。そして何よりも、彼の政府、EU、国連、WHO、そしてグローバリストのマフィア全体とともに、中絶、安楽死、パンデミック、実験的血清、戦争、飢饉、そして集団同性愛をこの方向に進める「自発教令」を決定する権限を誰が彼に与えたのか、丁寧に説明すべきでしょう。誰が彼らを「黙示録の騎士」に任命したのでしょうか? このようなプロジェクトが国民に承認を求めるために提案されることがあると仮定して、誰が彼らのプロジェクトを国民投票によって承認したのでしょうか?

したがって、西洋の指導者たちが出生率の低下を懸念していないことは、私には驚きではありません。わが国の出生率のデータは、イタリア人よりはるかに多産な多くの非EU市民の存在によって、ほぼ相殺されているのです。人口の減少は、まさにこの目的のために設定された前提の結果であり、都市封鎖が多国籍企業との競争と不当な課税によって、すでに倒れていた経済を破壊するのに役立ったのと同じです。要するに、私たちは犯罪的共謀者からなるグローバル・ロビーのメンバーによって統治されており、彼らは自分たちの計画は私たちを排除することだと直接に私たちに伝えています。その間私たちはずっと、バスではマスクをつけなければならないが、レストランではつけなくてもよいのはなぜなのかと、不思議に思っているのです。【もっと深い計画に気づいてそれを見抜かなければならない。】

【問い】ニヒリズムや新マルサス理論を受け入れない人々は、おそらくキリスト教の原則に忠実であるために、権力の地位から排除される危険がありますか?

【ヴィガノ大司教】もちろん、それは明らかです。サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)、ジェンダー論、LGBTQイデオロギー、WEFの集団主義的自由主義、新世界秩序、偉大なる普遍宗教を支持しない人々は、追放され、委縮し、狂人か犯罪者として消えていきます。権力が心理的暴力と大衆操作に基づいているとき、反対するどんな声も不快です。スペランツァ(イタリアの保健大臣)の処方箋(プロトコル)を受け入れない医師、ワクチン未接種者を差別しない教師、ウクライナのネオナチの真実を報道するジャーナリスト、予防接種を受けたくない教区司祭、中国の独裁政権に対するバチカンの隷属を糾弾する枢機卿に、それは起こるのです。

【問い】生命や自然法について語ることは、社会の基幹である家族について語ることでもあります。出生率の低下は別にして、経済危機が家族に及ぼす影響は何でしょうか?

【ヴィガノ大司教】グローバリストの攻撃の中心にあるのが、家族であるのは確かです。家族とは、伝統、アイデンティティー、信仰、相互扶助、理念や価値観の伝達を意味します。家族とは、夫婦の相互関係においても、子どもの教育においても、また共同体に対しても、それぞれ固有の役割を持ち、かけがえのないものであり、交換可能なものではない、父親と母親を意味します。家族とは、生きた宗教であり、小さな仕草や良い習慣、良心や道徳心の形成を通して伝えられる宗教なのです。

家族を攻撃することが社会組織の解体につながるのは確実であり、社会組織は本来、家族の役割の代わりをすることができないことを、皆さんはよく理解できるでしょう。ですから、次のことがおこります。離婚、中絶、同性婚、独身者や非正規カップルの養子縁組、イデオロギー的理由による親権の剥奪、家庭生活からの祖父母や親族の排除、母親が家事をすることができない労働条件、結婚したり子どもを持ったりした女性が仕事を探す際のペナルティー、小学校から始まる子どもへの教え込み、などがそうです。この分野でも、自然な家族を守り、国家の所有物ではない子どもの教育における親の権利を擁護するために、勇気と決意をもって行動することが必要です。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

https://www.marcotosatti.com/2022/06/14/vigano-intervista-a-byo-blu-crisi-delluomo-e-declino-delloccidente/

https://www.veritaspress.vip/%EF%BF%BCerzbischof-vigano-die-freimaurerei-benutzt-die-who-und-die-bergoglianische-kirche-fuer-ihren-globalen-coup/

https://catholique.forumactif.com/t36p170-les-ecrits-de-mgr-vigano#13869


聖ピオ十世会神学校 エコンにおける叙階式のライブ放映

2022年06月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のエコン神学校での叙階式の様子です。






【参考情報】ヴィガノ大司教:ロー対ウェード判決は「人間の生命の尊厳」を擁護する「歴史的な好機」:中絶の"権利"があるところには正義はあり得ない

2022年06月28日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教:ロー対ウェード判決は「人間の生命の尊厳」を擁護する「歴史的な好機」である

Abp. Viganò: Roe decision is a ‘historic opportunity’ to defend the ‘sanctity of human life’

by カルロ・マリア・ヴィガノ大司教



2022年6月27日 米東部標準時夏時間午前6時12分

(LifeSiteNews)6月24日、米最高裁は、1973年の「ロー対ウェード」判決を覆し、憲法の傷(vulnus)を癒やすと同時に、約50年ぶりに各州に主権を回復させました。

この最高裁の判決は、主流派の物語(ナラティブ)が主張するような「中絶の権利」を覆したのではなく、むしろ中絶の「すべての州での義務的な合法化」を覆し、「中絶という深い道徳的問題」についての決定権を、「ロー対ウェード」判決が米憲法の規定に反して奪った「国民と国民が選んだ代表」のもとに戻したのです。

こうして、中絶推進ロビーのメンバーによる悪意ある判決文草案のリークに始まった最高裁判事たちへの威嚇の試みは失敗しました。それはちょうど、ジョージ・ソロスのオープン・ソサエティー財団から資金提供を受けた過激派の運動や団体に煽られた、民主党左派の死のレトリックが失敗したようにです。また、西洋世界の各国の政治家や首脳の宣言は言うまでもなく、バラク&ミシェル・オバマからヒラリー・クリントン、ナンシー・ペロシからチャック・シューマー、メリック・ガーランド司法長官からジョー・バイデンといった自称リベラル派の反応がいかに激しく、不寛容であるかを目の当たりにするのは重要なことです。

実は、この判決の重要性を人々に理解させるには、次のようなものを見れば十分なはずです。

「プロチョイス」グループの行った攻撃、プロライフ団体への襲撃、教会への冒涜、胎児の無垢な命を殺す権利の支持者の一部によるヒステリーの場面、政府が資金提供している家族計画連盟(Planned Parenthood)に資金提供されている民主党のメンバーの結束を象徴するような光景。目覚めた (Woke) 左翼。クラウス・シュワブのグローバリズムの信奉者。国際フリーメーソンのメンバー。グリーンチェンジと人口減少のイデオロギー信奉者。ジェンダー論やLGBTQ+イデオロギー、虹色の旗の宣伝者。中絶を礼拝の「儀式」の一つとする悪魔教会の信者。死のクリニックからの人間の胎児を採取・販売する者。人間の胎児から作った「ワクチン」を販売する者、パンデミックの茶番劇とそのグロテスクな「専門家」たちを支持する者。彼らはみな、自分たちの文化の覇権が今、脅かされると認めています。その覇権は、1973年から米国で6300万人の子どもたちの死を引き起こし、政治的正しさ(politically correctness)のモロク神に人間のいけにえを捧げたのです。

あらゆる科学的エビデンス(証拠)に反して実験的な遺伝子治療を国民に押し付けることで、人間の体に対する組織的侵害を自らの思想的旗印としたグローバリストの世界は今、その衣を引き裂いて【怒り狂って】、女性が自分の体を自由にできる権利と母親が胎内に宿す生命を殺す権利を主張しています。

破壊的な犯罪者のエリート集団が権力を掌握して、国家や国際機関の権力の頂点に登り詰めたこのグローバリズムの世界は、ドナルド・トランプ大統領に最近任命された人々を含む賢明な判事たちによって下された歴史的な判決のおかげで、今や米国を支配できなくなりました。人間の生命の尊厳を守ることに尽力したこの判事たちは、今日米国および米国を模倣すべきモデルとする人々にとって大きな勝利を達成したのです。米国の多くの州はすでに中絶を違法と宣言しており、最高裁の判決のおかげで、ようやく胎児の権利を認め、保護することができるようになります。

バチカン広報局や米国司教協議会は、この歴史的な日について、恥ずべき義務であるかのように、疑いを抱かせるような控えめの態度で反応しています。ベルゴリオは沈黙していますが、ドナルド・トランプを攻撃したり、ヒラリー・クリントンやジョー・バイデン、民主党候補を支持したりするときは、とても饒舌でした。

天主なき世界の死のイデオロギーに対する善の勝利を前にした彼の沈黙は、いわゆるワクチンや国連のアジェンダ2030を支持するベルゴリオの教会のプロパガンダを、今でも繰り返しています。

国連は、まさに1973年の「ロー対ウェード」事件以来、各国に押し付けられてきた「性と生殖に関する健康」(reproductive health)の主唱団体の一つです。また、ヨハネ・パウロ二世が設立した教皇庁生命アカデミーが、中絶や避妊に賛成する悪名高いメンバーを加えることで、この10年間でいかにひどい状態になったのかも忘れてはなりません。

このようなトランプ大統領への憎悪と、ディープ・ステートとの繋がりや利害関係を持つディープ・チャーチのネットワークは、とりわけベルゴリオの教会の大きな矛盾を明るみに出しています。彼の教会は、政治家と高位聖職者の双方を巻き込んだ経済的・性的スキャンダルが出続ける中でさえも、世界の大金融会社や製薬会社との取引に尽力しているのですから。

教会がイエズスの至聖なる聖心の祝日と、母エリザベトの「胎内でおどった」(ルカ1章41節)洗者聖ヨハネの誕生も祝うこの日、主は米国に自らをあがなう可能性をお与えになり、その人の作った法が、創造主によってすべての人の心に刻まれた自然法に一致するのを確実にしたいと望まれました。そして、これこそが、国家が天によって祝福されるために、「天主の下の一つの国家(One Nation under God)」に、必要な本質的基盤なのです。

米国民がこの歴史的好機を大切にする方法を知るようになること、また彼らが、中絶の権利が認められているところには正義はあり得ないこと、自らの子どもたちを虐殺する社会には平和と繁栄はあり得ないこと、放埓、悪徳、高慢が天主の掟を破壊するところには自由はあり得ないことを理解するようになることを、私は望んでいます。

+カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前駐米教皇大使)

2022年6月24日 至聖なるイエズスの聖心

【ジェイソン・モーガン准教授の記事】世界戦争の最前線で:カトリックのプロライフ活動家ウィル・グッドマンとのインタビュー - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


全ての御恵みは、例外なく、マリア様の手を通して私たちに来る。いったい何故か?

2022年06月27日 | お説教・霊的講話

2022年5月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父様御説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、明日5月8日は、或る地域では「ガルガノ山における大天使聖ミカエルの御出現」の祝日、ベルギーやある修道会では「全ての聖寵の仲介者である聖母マリア様」の祝日を祝います。この教えは、古代からずっと教え続けられてきました。

マリア様が「天主の御母である」という教義がドグマとなったのは、エフェゾの公会議431年のことでしたが、その前、明後日に祝日を祝うナジアンスの聖グレゴリオは既に「マリア様にお祈りしながら、御身の仲介を通して、私たちは御恵みを得ている」ということを、「だから私たちはマリア様にお祈りする」と祈っています。

ですから、これは「天主の御母」という最初のマリア様のドグマが決定された、その前から教えられていた教えだ、ということが分かります。それ以外にも、歴代の教皇様、諸聖人たち、教父たち、聖人たちが、教会博士が、この同じことを言ってます。

「御恵みは、マリア様の手を通して私たちに来る。」「全ての御恵みは、例外なく、マリア様の手を通して私たちに来る」と言っています。

私たちに馴染みのある有名なのは、例えば聖アルフォンソ・デ・リグオリとか、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォール、あるいはコルベ神父様などがあります。

一体なぜそうなのかと言うと、イエズス様は第二のアダムとして、マリア様と一緒に、マリア様を第二のエワとして、贖いの業を成し遂げたからです。

無限の功徳を、イエズス・キリストは、十字架の苦しみを、マリア様と共に勝ち取りました。この御恵みの大海、大海原を、これをイエズス様とマリア様は二人で勝ち取ったのです。

これをどうやって分配するのでしょうか。永遠の昔から、天主聖霊は、マリア様を通して、これを私たちに与えることを望みました。

イエズス・キリストは神秘体の頭です。神秘体の頭(キリスト)から来るもの全ては、マリア様を通って、身体全体に染み渡るので、マリア様のことを「神秘体の首だ」と言っています。

雅歌という旧約聖書の一つには、花婿が花嫁にこう言います。ちょうどキリストが聖母に言っているようです。
「(あなたの頬は山鳩のように美しい)首は宝石の飾りのように美しい」(雅歌1:9)
Pulchrae sunt genae tuae sicut turturis; collum tuum sicut monilia.
また
「あなたの首は象牙の塔のようだ」(雅歌7:4)とも言われています。
Collum tuum sicut turris eburnea, 

聖母の連祷では、マリア様は「象牙の塔」だと言われています。まさに神秘体の首で、全ては、マリア様を通って、私たちに行き渡ることを教えています。

何故でしょうか?何故なら、私たちを聖化するために聖霊が送られましたが、聖霊は聖母を通して私たちに聖寵をあたえるからです。

なぜかというと、マリア様と聖霊は全く一つになってしまって、聖霊の御望みのままに動いていて、聖霊に反することは全く行わなかったからです。なぜかというと、無原罪の御孕りで、罪の汚れのない方であるからです。マリア様と聖霊は愛において一つになっているからです。

今日、初土曜日で、マリア様の御心を、汚れのない御心の信心を行なうにあたって、私たちもこの汚れのない御心にますます近くに行って、その汚れない御心から、聖霊の浄配であるマリア様の御心から、たくさんの御恵みを仲介してもらうようにお祈りしましょう。私たちのみならず、多くの方々に救いの恵み、永遠の命の功徳を得る御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




「キリストは、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」主イエズスはなぜこれほどまでに謙遜だったのか?

2022年06月26日 | お説教・霊的講話

第一のアダムは天主のようになろうとして罪を犯した。第二のアダムは、私たちの救いのためにご自分の神性を隠された。「天主の力ある御手の下にへりくだれ!」(聖ペトロ)

2022年6月26日 聖霊降臨後第三主日の説教

レネ神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

聖ペトロは本日の書簡を、「天主の力ある御手の下にへりくだれ!」で始めています。これは、金曜日にお祝いした聖心の祝日、さらには昨日の洗者聖ヨハネの祝日と、とてもよくマッチしています。実際、聖心は「柔和で謙遜」で、あわれみ深いのです。さて、聖心の謙遜さを正しく理解するためには、聖心がどなたなのか、まさに天主の御子であることを思い起こす必要があります。

聖パウロはフィリッピ人に対して、この点を非常にうまく述べています。「互いにイエズス・キリストの心を心とせよ。キリストは天主の形であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌(がいぼう)は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章5-8節)。「天主の形であった」とは、つまり、天主の本性(形相因)を持つという意味です。「天主と等しいことを固持しようとはせず」とは、福音の中で、私たちの主が、例えば罪をお赦しになったように、天主のように話し、天主のように行動されましたが、主にとって、そのような行動は天主と等しいことを固持なさったのではありません。すでに天主と等しいお方だったのですから、固持なさったのではないのです。

ですから、まことの天主、まことの天主の御子である主にとって、人間の本性をお取りになるということは、まさに「かえってしもべ/奴隷の形をとり、…自分自身を無とされた」ということなのです。しかし、まるでそれだけでは不十分であるかのように、主は「死ぬまで」、さらには「十字架の死に至るまで…従われた」のです! 私たちの主イエズス・キリストのその謙遜の深さを、いったい誰が理解できるというのでしょうか?

主は、なぜこれほどまでに謙遜だったのでしょうか? 第一に、主は真理であり、謙遜とは、被造物がふさわしい場所にいることだからです。そのため、天主の御子が人間の本性、被造物の本性をお取りになったとき、主は、「愛において真理を宣言」(エフェゾ4章15節)することの模範を示されたのです。高慢は恐ろしい嘘であって、悪魔に典型的なものです。悪魔は、高慢の権化(ごんげ)であり、私たちの最初の父祖をだまして、高慢という大きな罪を犯させたのですから。第一のアダムにとって、天主のようになると主張することは、実際に天主と等しいことを固持することでした。第二のアダムにとって、それは天主と等しいことを固持するのではなく、また高慢によってそれにしがみつくことでもなく、むしろ、私たちの救いのためにいけにえとなることができるように、「その神性を隠された」のです。

第二に、私たちの主は、私たちを罪から救うために来られたため、十字架の死に至るまで謙遜でいらっしゃいました。聖書は、「高慢のもとは罪」(集会書10章16節)と言っています。私たちの主イエズス・キリストは、謙遜によって私たちを高慢から救われるのです。「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)。実際、「主はこの上なく気高く、小さな者をかえりみ、遠くから高慢な者を見分けられる」(詩篇137篇6節)のです。天主はすべての被造物よりはるかに気高いお方ですから、天主の照らしのもとでは、高慢な被造物は愚かな者なのです。

第三に、私たちの主は良き羊飼いであり、失った羊を探すために来られました。主は、旧約でなさったような、ご自分の力をお見せになることで、罪によって傷ついた霊魂を恐れさせたいと思ってはおられません。むしろ、柔和さと謙遜さによって、罪人を引き寄せたいと思っておられるのです。ですから、主はこう言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるためであり、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである」(マテオ20章28節)。

実際、良き羊飼いはあわれみ深いお方です。あわれみとは、良い人物が人の不幸を癒やすために、その不幸に注意を向けるという聖徳です。さて、不幸には2種類あります。苦難と罪です。苦難とは意志に反する不幸であり、罪とは意志の内にある不幸、つまり、意志そのものが悪い場合の、意志による不幸のことです。もし罪がなかったならば、この世に苦難は全くなかったことでしょう。しかし時には、ある人の罪が、その人のせいで苦しむ他人に影響を与えることがあります。例えば、一家の父親が大酒飲みで、給料を酒に使ってしまい、妻と子どもたちを不幸にしてしまう場合です。あるいは、泥棒が罪のない人から盗みを働く場合です。このような例はたくさんあります。

誰かが他人の罪による被害者になっている場合、その被害者に同情し、あわれむことは簡単です。事実、そうすることは良いことであり、そうすることは愛徳による義務です。「あわれみのある人は幸せである、彼らもあわれみを受けるであろう」(マテオ5章7節)。また、「父に祝された者よ、来て、世の始めからあなたたち備えられた国を受けよ。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに宿らせ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見舞(ってくれた)」(マテオ25章34-36節)。

しかし、実際のところ、罪による悪は、苦難による悪よりも、さらに深刻なことであり、罪人を癒やすためにあわれむことは、より一層困難なことなのです。しかし、これこそが聖心のあわれみなのです。「誰に対しても悪に悪を返すな」(ローマ12章17節)、「善をもって悪に勝(て)」(ローマ12章21節)。天使ガブリエルが聖ヨゼフに、「彼は罪から民を救う方」(マテオ1章21節)と言ったようにです。

このあわれみの極みにおける大きな困難は、罪人が自分の罪に愛着を持ち、それをあきらめようとしないことです。罪人は自分の罪の結果が見えないか、あるいは単にそれを見ることを拒否するのです。たとえ罪人が他人の苦しみに気づいていたとしても(大酒飲みの父親が自分の家族の苦しみに気づいていたように)、罪人には、自制してより良い生活に戻るという力がありません。この罪人はまだアルコールに愛着を持ち、もっとアルコールが欲しいと思っているのです。では、天主の御あわれみは、どのようにして、この地獄のような悪循環を断ち切り、罪人の頑固さに打ち勝つのでしょうか?

第一の方法は、天主の法を、その報いおよび罰とともに、明確に提示することです。旧約では、簡単に知ることができて、すぐに当てはめられる、数多くのこの世の報いとこの世の罰がありました。しかし、いつもそうだったわけではありません。天主は、当時でさえも、「悔い改めの時間」をお与えになりました。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知ら(ぬのか)」(ローマ2章4節)。罪人の中には、聖書が「悪を行う人への判決がすぐ実施されなかったので、人の子らの心は悪を行いたい望みにかられた」(集会書8章11節)と言うように、この天主の忍耐を悪用する者がいるのです。天主はもう一度、こう言われます。「私は悔い改めの機会を彼女に与えたが、彼女はその淫行を改めようとしなかった」(黙示録2章21節)。

新約では、天主はさらに多くの時間をお与えになり、さらに多くの回心の機会を提供なさいますが、永遠の報いと永遠の罰という段階まで強調して、法をさらに強いものとしてお定めになります。この報いについて、聖パウロは次のように言っています。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)。また、聖ヨハネは次のように言っています。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。この世は私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者となることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第1書3章1-3節)。

しかし、この罰についても、聖パウロはこう言っています。「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライ10章31節)、「ただ審判の恐るべき待機と、反逆者を焼き尽くす復讐の火だけが残る」(ヘブライ10章27節)。そして私たちの主ご自身が、罪人に対して「ゲヘナの不滅の業火に入る。そこではうじが失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章43-44節)と恐ろしいことを言っておられます。「あなたたちの恐れねばならぬのは誰かを教えよう。殺したのちにゲヘナに投げ入れる権威あるお方を恐れよ。私は言う、そうだ、そのお方を恐れよ」(ルカ12章5節)。

しかし、天主は、単に恐れからではなく、また私欲を求める愛からでもなく、完全な愛から、仕えられることを望んでおられるのです。ですから、報いと罰のある律法では不十分なのです。聖パウロは、「律法は何事も完成させなかった」(ヘブライ7章19節)と言っています。そこで、天主の御子は、贖いというこの驚くべき愛を成し遂げられました。主が天からくだって来られたのは、罪人に近づくためでしたが、それでも主に罪はありませんでした。良き羊飼いのように、主は、この人生の砂漠で、いばらとアザミの中で、失った羊を追いかけ、私たちの罪による罰を御自らお受けになったのです。さあ、罪人の心に触れるべきものがあるとするならば、これこそがそうです。罪人が怒らせた罪なきお方が、天からくだって来られ、罪人が受けるべき罰を御自らお受けになったのです! 御あわれみは愛の極みであり、贖いは御あわれみの極みなのです!

また、主を別にして、罪のない人がいるでしょうか? 私たちには全員、多かれ少なかれ自分の罪があり、あまりにも多くの罪があります! ですから、私たちは聖パウロとともに、「私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子」(ガラツィア2章20節)と言うことができるのです。私たちは失った羊であり、主は、来て私たちを連れ戻すために99匹を置いたままにされたのです。私たちはどれほどの感謝をもって、どれほどの愛をもって、主を愛し返さなければならないでしょうか! 私たちはもはや自分のものではなく、「自分のために死んでよみがえったお方」(コリント後書5章15節)のものなのです。

聖ヨハネは、さらに一歩進んで、こう言っています。「愛する者よ、天主がこれほどに私たちを愛されたのなら、私たちもまた互いに愛さねばならない」(ヨハネ第1書4章11節)。私たちは、このあわれみを他人に対して、被害者に対してだけでなく、罪人に対しても実践し、彼らのために祈り、彼らが私たちの主イエズス・キリストに回心し、彼らの生き方が主に従うように、助けようとしなければなりません。そして、そのために、私たちは、「私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自分を渡されたキリストの模範に従って」(エフェゾ5章2節)、自分をいけにえとしなければなりません。

やはり罪のないお方であり、私たちの救いのために十字架のふもとでキリストとともに自らをお捧げになった「あわれみの御母」である童貞聖マリアが、私たちが聖母の模範に従い、今度は私たちが、多くの霊魂の永遠の救いのために、そのあわれみを他人にまで広げていくことができるよう助けてくださいますように。

アーメン。






カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年06月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。大阪では25人、名古屋では12人でした。
東京では、イエズスの聖心の荘厳祭を行い、9時のミサの直後には「イエズスの聖心の連祷」「人類の忘恩を償ういのり」を唱え、昨年の「暁の星の聖母」修道院をイエズスの聖心に奉献する祈りを更新しました。
大阪では、レネ神父様が金曜日にイエズスの聖心の大祝日のミサを司式してくださり、主日にはレネ神父様の司祭叙階40周年(1982年6月29日―2022年6月29日)を一足先にお祝いしました。
名古屋では、今月もレネ神父様が司式してくださいました。

今日の主日も、聖伝のミサに日本中から新しい方々が与るためにやってこられました。イエズスの聖心に心から感謝いたします。

【報告】
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 113, including children.
The number of attendees in Osaka today was 25 and that of Nagoya, 12.

In Tokyo there were three new people, and in Nagoya two.

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today and the amounts of donations received.

09:00 mass
M: 20 (incl. 3 children)
F: 24 (incl. 4 children)
Total: 44 (incl. 7 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 6 children)
F: 27 (incl. 6 children)
Total: 48 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 0 children)
F: 12 (incl. 0 children)
Total: 24 (incl. 0 children)

Total of 3 masses (excl. 3 people who participated in multiple masses)
M: 52 (incl. 9 children)
F: 61 (incl. 10 children)
Total: 113 (incl. 19 children)









聖ヨハネ・ユードのたとえよりも、イエズスの聖心の愛の効果は計り知れません。イエズスの聖心が私たちのためにできたことでしなかったことがあったでしょうか?

2022年06月26日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年6月26日は聖霊降臨後第三主日,イエズスの聖心の荘厳祭です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「イエズスの聖心の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ルフェーブル大司教が1989年11月19日、叙階60周年の記念にパリ近郊ル・ブルジェで行った説教

2022年06月24日 | お説教・霊的講話

ルフェーブル大司教が1989年11月19日、叙階60周年の記念にパリ近郊ル・ブルジェで行った説教

秘密結社の目標は世界政府であって、それは、人間の権利、平等、兄弟愛、自由といったメーソンの理想を、反キリスト教的な意味で理解し、私たちの主に反対するものだということです。これらの理想は、世界政府によって推進され、すべての国に対して一種の社会主義を確立し、次に、ロシア正教がソビエトに奉仕しているように、カトリックの宗教を含むすべての宗教を包含する宗教会議が、この世界政府に奉仕するようになるのです。二つの会議ができるでしょう。それは、全世界を支配する普遍的な政治会議と、この世界政府を傭い人のように支援する宗教会議です。

Sermon given by Archbishop Lefebvre at Paris, Le Bourget, on the occasion of the celebration of his 60th anniversary of ordination, November 19th, 1989.

司教様方、親愛なる同僚の皆さん、親愛なる神学生の皆さん、親愛なる兄弟の皆さん。

この叙階60周年の記念式典に、これほど多くの皆さんが集まってくださったことに、深い感慨を覚えずにはいられません。皆さんの多くは、困難な旅をして来られました。中には、遠く離れた別の大陸から来た方もおられます。しかし、この式典はその努力に値するものであったと思います。

実際、私たちはなぜ、ここに集まったのでしょうか? それは、カトリックの司祭職を尊ぶためです。それこそが、今日、皆さんがここに集まった深い動機だと思います。

【天主に感謝しよう】

至聖なる三位一体に、そして永遠の司祭職を制定してくださった、人となられた私たちの主イエズス・キリストに、私たちはいくら感謝してもしきれません。そうです、私たちの主は本質的に仲介者、司祭です。私たちのために司祭となられ、御父に聖なる犠牲を捧げられたのは主なのです。天主の知恵において、主は、主によって選ばれた幾人かの人々に、主の司祭職を分け与えることを望まれました。天主の愛、私たちに対する天主の愛の何という偉大な神秘でしょうか。私たちは司祭職という大きな恩寵を受けるのに、いかにふさわしくない存在であると感じていることでしょうか。天主は祝されんことを! 私たちの主イエズス・キリストは祝されんことを! 童貞マリアも祝されんことを! なぜなら、マリアがおられなければ、私たちは、大司祭と、分け与えていただいた彼の司祭職を持つことはなかったからです。司祭の母、司祭職の母であるマリア、そうです、聖母は実際に私たちの母、特に私たち司祭にとっての母です。この60年の司祭の年月、この42年の司教職、その間、私がいただくにふさわしくない天主の聖なる恩寵により、私が司教聖別と多くの司祭叙階を授けることができたことのために、天主がかたじけなくも私に授けられた司祭職のために、主は感謝され、祝されますように。――私は毎日、ミサの聖なる犠牲を捧げることができ、秘跡、特にご聖体の秘跡を通して、霊魂たちに私たちの主イエズス・キリストご自身を与えることができたのです。何と多くの恩寵でしょうか! 何と多くの賜物でしょうか!

親愛なる兄弟の皆さん、私は、この感謝の歌に、この状況に最もふさわしいと思われる、司祭が毎日唱えている奉献の祈りの言葉の翻訳を付け加えたいと思います。

「聖なる父、全能永遠の天主、我は卑しき僕(しもべ)なれども、願わくは活ける真(まこと)の天主に捧ぐるこの汚れなき犠牲(いけにえ)を受け納れ給え。今これを我が無数の罪と主に対する侮辱(はずかしめ)と怠慢(おこたり)とのため、すべてここに集まれる人々のため、またすべてのキリストの信者、生ける者と死せる者と、我と彼らとの救霊(たすかり)のため、永遠(とこしえ)の生命に至らんために主に捧げ奉る、アーメン」。

これは、奉納の祈りであり、司祭が毎日祭壇で唱えるものです。何という壮大な祈りでしょうか! この司祭職の崇高な神秘を前にして、私たちは自分がいかにそれに値しない者であるか、いかにあわれな者であるかを感じないわけにはいきません。

【多くの聖なる司祭を準備し、見分け、教える】

親愛なる司祭職の同僚の皆さん、特に将来の司祭の養成を担当している皆さんに申し上げます。私たちのために、深い信仰、聖性へのあこがれ、宣教師になりたいという願いをもった多くの司祭、多くの聖なる司祭、多くのカトリック司祭を準備してください。これこそ、皆さんがしてくださっていることであり、真のカトリック司祭、真のもう一人のキリストを持つ必要性をよく理解しているすべての信者の名において、皆さんに感謝申し上げます。

司牧の場におられる親愛なる同僚の皆さん、私は、皆さんにも目を向けます。皆さんの周りの若者の心の中にある召命の芽を見分けること、また、修道生活への召命を見分けることは、皆さんの義務です。ですから、天主は皆さんに、司祭となるために、あるいは、修道生活を通して天主の司祭職に別の形で参加するために、天主はご自身のために選ばれた霊魂たちに気を配り、世話をする恩寵をお与えになっておられます。

そして、カトリックの親御(おやご)さんである親愛なる兄弟の皆さん、皆さんは司祭や修道者の召命が形成される聖域です。皆さんがおられなかったら、私たちはどうすればいいのでしょうか? 司祭、修道士、修道女の召命がどこで見つかるというのでしょうか? ですから、私は皆さんにお願い申し上げます、この聖域を世の腐敗と悪の影響から遠ざけておいてください。皆さんの家庭に世俗の精神が入り込まないようにしてください。教区や教会の真の延長線上にあるものにしてください。子どもたちには、生涯にわたって、霊魂を汚すようなものでなく、健全なイメージだけを見させましょう。彼らの心を堕落させるものを目に入れないようにしてください。そうすれば、天主さまが皆さんの家庭からエリートの霊魂を選び出されるでしょう。家庭における司祭召命ほど、修道院や修道院への召命ほど、美しいものはないのです。家庭全体が、兄弟姉妹が、どれほどの保護を受けていることでしょうか! これを確信してください。

ですから、この聖なるミサの間、私たちは共に祈りましょう。善き召命に対する、カトリック司祭職に対する、この世や地獄の攻撃にもかかわらず、天主さまがカトリック司祭職を継続させられますように。司祭のいない教会はどうなるのでしょうか? 現代の教会では、まもなく司祭のいない集会祭儀だけが行われるようになるでしょう。そのような集会とはいかなるものになるのでしょうか? それはもはや、祭壇の上で再現される主の犠牲ではありません。それに皆さんはそれにあずかり、私たちはそれにあずかるのでしょうか。違います、カトリック教会は、そのような集会のための教会ではありません。カトリック教会はカトリック司祭の教会です。カトリック司祭がいなければ、もはやカトリック教会は存在しません。

【カトリック司祭を得るためには、カトリック司教が必要である】

そして、カトリック司教がいなければ、カトリック司祭は存在できません。ローマとの話し合いの結果、ご存じのように、一人の司教を作ることはできました。しかし、その司教はどのようなものだったでしょうか? 彼らは、司教が「バチカンが望む中身」を持っていることを要求したのです。それはどういう意味でしょうか? それは、公会議の精神、第二バチカン公会議の精神を持っていることです。天主の精神ではない精神、カトリックの精神ではない精神、そのような精神から自分たちを守るためにこそ、私たちはこの愛する四人のカトリック司教をつくり、次の世代の神学生たちにカトリックの司祭職を伝えることにしたのです。このようにして、皆さんや子どもたちに真のカトリック信仰を教え、真の秘跡と真のミサの聖なる犠牲によって恩寵を伝える司祭が存在し続けることが、皆さんには保証されているのです。

【悪の根源:キリスト教一致推進事務局】

親愛なる兄弟の皆さん、私は、教会内の現状についても少しお話ししたいと思います。

もし誰かが私に、「しかし、教皇ピオ十二世までちゃんとしていたカトリック教会が、一体どうしてリベラルな近代主義の教会になってしまったのでしょうか?」とお尋ねになるなら、私はこうお答えするでしょう。あなたは公会議の歴史を十分に知っておられるし、十分に説明を受けてこられたし、私たちカトリックの心にとってとても悲しい、この悲しいテーマに関する多くの本を読んでこられたはずです。私たちは、過去からの逸脱、聖伝からの逸脱、公会議以前の諸教皇からの逸脱を感じていたのです。

公会議の歴史を特徴づける多くの事実のうち、私は次の事実を強調したいと思います。教会の方向性の間違いへと天秤を傾けたもの、教会を活気づける精神がリベラルな精神に完全に方向転換するように重石(おもし)を置いて傾けたもの、公会議の前、間、後に重要視されたものは、キリスト教一致推進事務局【訳注:現在はキリスト教一致推進評議会】です。

最近、非常に有益な3冊の本が出版されました。
◇モンシニョール・ブニーニの伝記、これは膨大な自伝で、彼の死後に出版されました。
◇ベア枢機卿に関する本、これも膨大な本で、公会議の前、間、後に彼が及ぼしたすべての影響を教えています。
◇そして最後は、ヴィヨ枢機卿の伝記、これは公会議中とその後の彼の方向性と、彼が行使した影響力を教えています。

これらすべてのことが教えているのは、教会の精神を変え、「アジョルナメント」(aggiornamento)、つまり、教会の現代化を行い、信仰を共にしないすべての人々にその扉を開き、彼らと私たちの間に違いはないという印象を彼らに与えようとする明確で確固たる意志があったことです。これは、教会の立場の根本的な変化です。

公会議以前は、――個人的にも私は実際にこの経験しました――私たちは海外の宣教に派遣されていました。私は30年間をアフリカで過ごしました。ここにいるガボン出身の信者の方がそれについて証言できます――30年もの間、何のために過ごしたのでしょうか? 洗礼によって霊魂たちをカトリック教会に回心させるためです。聖ペトロはエルザレムで最初の説教をした後、何をしましたか? 4000人に洗礼を授けました。聖ペトロは知っていたのです。洗礼によって自分が教会を教化するということを、また今後、教会に入りたい人、救いの道に入りたい人、私たちの主イエズス・キリストに従って救いの天主の贖いの御血にあずかりたい人はすべて、カトリック教会で洗礼を受けなければならないということを。これが、20世紀を通じて教会が行ったことなのです。

ところが、突然、私たちはこう言われました。「だめです! 皆さんは今、対話すべきです。回心させてはいけません。皆さんは、すべての人の意見を尊重しなければなりません。彼らが間違っているという印象を与えてはなりません」。

しかし、それでは、教会の使命はどこにあるというのでしょうか?

この根本的な変化は、まさにキリスト教一致推進事務局のメンバーであった人々のグループによる圧力によってもたらされました。

実際、少し考えてみましょう。なぜキリスト教一致推進事務局があるのでしょうか? まだ信仰を持っていないすべての人々に信仰をもたらすことを担当するのは、すでにプロパガンダ聖省(Congregation of the Propaganda)、すなわち布教聖省(Congregation of the propagation of Faith)ではなかったでしょうか?【訳注:当時はすでに福音宣教象省に名称を変更されていた】異教徒、精霊信仰者(animist)、無神論者、仏教徒、イスラム教徒、プロテスタントといったすべての霊魂を回心させるために世界中に宣教師を送り込んだのは、この布教聖省だったのです。布教聖省は、カトリックの洗礼によって、これらのさまよえる霊魂を教会に連れてくるために、宣教師を送ることを担当していたのです。

では、なぜ、布教聖省のほかに、あらゆる偽りの宗教や偽りのイデオロギーと「友好的」に接触するだけの新しい省を設立するのでしょうか? 教会は今、まさにこのことで苦しんでいるのです。もちろん、教会が死ぬことはあり得ません。皆さんは、教会が継続し続けることの証人であってまた執行人であり、皆さんが教会であり、皆さんが維持する信仰を通して、また皆さんが継続する教会の聖性を通して、教会を継続させています。そうでなければ、私たちの聖なる教会はどこへ行こうとしているのだろうと、私たちは疑問に思うことでしょう!

ベア枢機卿は、公会議の前に、全世界を回り、司教らを集め、彼らに公会議をエキュメニズム的な(ecumenistic)会議にするように頼みました。私は、エキュメニカル(ecumenical)とは言いません。公会議は常にエキュメニカルな会議と言われています。エキュメニズム的とは、つまり、すべての宗教の間に絆を作るということです。

これは不可能なことです。これは、私たちの主イエズス・キリストの神性に反しています。これが、この「事務局」が教皇の支持と励ましを受ける限り、ローマと同じ道を進むことが不可能である理由です。現状では、この事務局のメンバーは、教会と私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を破壊する行動を続けることが可能なのです。

ウィレブランズ枢機卿の名前は、十分よく知られています。彼は、教会の教理、教会の信仰の責任者は他には誰もいないかのように、どこにでも行き、誰とでも接触するのがまさに彼の役目であるという事実を自覚しているということで有名です。

デ・スメット司教は、キリスト教一致推進事務局の次官として、公会議で信教の自由に関する草案を擁護した人物です。モンシニョール・ブニーニはキリスト教一致推進事務局のメンバーでした。彼は聖なるミサおよび秘跡の典礼を破壊し、新しい典礼に置き換えた人であり、典礼の進化の終わりがどこに導かれるかを誰か知っている者がいるでしょうか? その典礼は常に変化しています。

このような状況に直面すると、間違いなく、私たちはローマと定期的に連絡を取ることができません。なぜなら、これまでローマは、聖なるミサや典礼、神学校のための特別許可など、いかなる譲歩のためにも、公会議とその結果の受け入れを明確に含む新しい信仰告白―昨年2月にラッツィンガー枢機卿が作成した―に署名しなければならないと要求してきたからです。

私たちは、自分たちが何を望んでいるのかを知らなければなりません 聖なるミサを破壊し、 信仰やカテキズム、市民社会における私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を破壊したのは、公会議です。それなのに、どうして私たちは公会議を受け入れることができるでしょうか?

【私たちはカトリックの信仰を守り、擁護しなければならない!】

このような状況に直面したとき、親愛なる兄弟の皆さん、私たちには何ができるでしょうか? 私たちはカトリックの信仰を守り、あらゆる手段でカトリック信仰を擁護しなければならないのです!

奥のテーブルにはたくさんの本が並んでいますが、その中には、私たちが苦しんでいる危機について見識を深め、信仰を守るために役立つ本がたくさんあります。

二冊の新しい本が出版されたばかりです。マルジアック神父の本とギユー神父の本です。特にギユー神父の本は、ミサのローマ典文、また、全時代の典礼の典文と新しい典礼の典文の違いを取り扱っています。これは非常に貴重で、非常に勉強になる本です。

聖ピオ十世会はまた、今世紀初頭のレデンプトール会士であるフィリップ神父様の「諸国民の王たるイエズス・キリスト」などの非常に興味深い本を再版しています。彼はこの素晴らしい小著をカテキズムとして書きました。この本は、諸教皇の回勅からの引用でいっぱいで、これが私たちの祖先の信仰、公会議以前の諸教皇の信仰である、と示しています。これは現在教会で教えられていることとは相容れません。つまり、国家や市民社会は宗教を持たないとする世俗化とは相容れません。彼らはこう言います。「これは許されない。主イエズスはもはや社会の上に君臨することはできない。イエズスはもはや社会の上に立つ者ではない」と。主は、創造主ではないのでしょうか? 主にはもはや統治する権利がないのでしょうか?

良い読書によって皆さんの信仰を守って、養ってください。私は、天主の恩寵によって、信者がカトリックの信仰を守るのを助ける必要性を理解していた熱心で知的な霊魂たちによってなされた、すべての出版物、すべての雑誌、などのすべてを引用することはできません。しかし、皆さんはそれらを知っています。皆さんが許してくださるなら、司教の聖別について確固たる立場を保った「モンド・エ・ヴィ」(Monde et Vie)を一つだけ引用しましょう。また、「ラジオ・クルトワジー」(Radio-Courtoisie)を通して、私たちのメッセージ、聖伝のメッセージを伝えることができると思います。これらは貴重な手段であり、「フィデリテール」(Fideliter)やシレ・アン・モントルイユ(Chiré-en-Montreuil)、またベルギーの「ディスマス」(Dismas)などの出版社には言及するまでもありません。すべての名前を挙げることはできません。しかし、私たちがカトリック信者であり続けるのを助けてくれる、この祝福された数多くの手段から利益を得なければなりません。

さらに、私たちは信仰を擁護するだけでなく、信仰を告白しなければなりません。以下に、聖ピオ十世の近代主義の誤謬に反対する誓いの終わりの部分があります。私たちがこの言葉をしばしば繰り返すことができますように。

「我は、使徒達に由来せし司教座の継承の内にあり、今もあり、また未来においても常にあり続くべき真理の確実なる徳能(カリスマ)に関する教父らの信仰を最も堅く守り、これを最後の息まで堅く守り抜かん。そは各時代の文化により良く似つかわしく見ゆる事が信ぜらるる為にあらず、むしろ初めより使徒達によりて説かれし不変の真理が、別様に信ぜられ或いは別様に理解さるる事決してあらざらんが為なり」。

参考:https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/b6f192b820013624a4b6733b4d21f19e

これは、聖ピオ十世が、全時代の信仰、使徒の信仰を守るために、福音書に手を置いて誓うようにすべての司祭に要求した誓いです。私たちには、他の信仰はありません。これが、私たちが告白する信仰です。この信仰は、皆さんが小さなカテキズムの中で告白し、皆さんの子どもたちに伝えているものです。これらの古いカテキズムを大切に守ってください。

もしある家族が遠くに住んでいて、私たちの司祭の世話になることができない場合は、彼らに、サン・ミシェル・アン・ブレンヌのシスターたちに手紙を書くように勧めてください。彼女たちは通信教育でカテキズムの授業を行い、それによって家族に真のカテキズムを教えることができるのです。彼女たちは現在、800人の登録者を抱えています。私は、司祭から遠く離れている人々が信仰を守り続けるのを助けるために、登録者がもっともっと多くなることを望んでいます。

最後に、私たちは天主の恩寵である聖性を守るべきであり、イエズス・キリストなしにはこれを行うことはできません。実際、私たちが天主の恩寵を受けるのは、主の犠牲を通して、主の十字架を通して、主の御血の分けていただくことを通してです。これを、私たちは、すべての秘跡、特にご聖体において受けるのです。ですから、全時代のミサに忠実でありましょう。そうすれば、私たちは天主の恩寵を心に保ち、私たちの霊魂は変容し、天主さまにお会いする用意が、永遠の命への用意ができるのです。

【国際情勢】

さて,国際情勢について少しお話ししてもよろしいでしょうか? そこに黙想の材料があり、私たちが今生きている出来事から、まさに黙示録的な性格を持つ出来事から、引き出される一つの結論があるように思います。

皆さんは、起こっていることをご存じです。偽りの宗教による[ヨーロッパ]侵略です。特にイスラム教です。フランスだけでなく、英国、ベルギー、ドイツでも、私たちを脅かしています。2年前、10万人のトルコ人がミュンヘンの街路を行進し、ドイツとキリスト教に反対するスローガンを叫びました。これらの事実は、一つの警告です。もし私たちの政府が何の注意も払わず、キリスト教世界がイスラム教徒によって侵略されるままにしておくならば、これは予想できることです。聖ピオ五世をはじめとする諸教皇が、イスラムの大津波を食い止めようとしたのは、理由がないわけではありませんでした。そうしていなければ、キリスト教世界はすでに消えてしまっていたことでしょう。

もう一つの注目すべき出来事があります。これらの運動を、私たちは認識しなければなりませんが、必ずしも完全には理解していません。鉄のカーテンの向こう側にあり、そして今、鉄のカーテンを通ってやって来る、例外的な運動です。これらの運動に際し、私たちは、教皇ピオ九世が発表したメーソンの計画を忘れてはなりません。100年以上前、この計画は、メーソンの思想を押し付ける世界政府について述べていました。この計画は、教皇ピオ九世の命令に基づき、ジャック・クレティノー=ジョリー(Jacques Crétineau-Joly)によって公にされました。

至聖なる童貞マリアの予言も忘れてはなりません。聖母は、「ロシアの回心がなければ、この世の回心がなければ、祈りと償いがなければ、共産主義は全世界を侵略するでしょう」と警告なさいました。これはどういう意味でしょうか? 

秘密結社の目標は、メーソンの理想による世界政府であるということを私たちはよく承知しています。メーソンの理想とは、人間の権利、平等、兄弟愛、自由を、反キリスト教的な意味で、私たちの主に反対して理解することです。これらの理想は、世界政府によって推進されるでしょう。世界政府は、すべての国々に一種の社会主義を確立し、次に、宗教会議を作るでしょう。この宗教会議は、カトリックの宗教を含むすべての宗教を包含し、ちょうどロシア正教がソビエトに奉仕しているように、この世界政府に奉仕するために創立されます。こうして二つの会議ができるでしょう。全世界を支配するような全世界の政治会議と、この世界政府を傭い人のように支援する宗教会議との二つです。

これらのことは私たちを威嚇しています。私たちは覚悟を決めなければなりません。このような事態に直面して、私たちは何をすべきなのでしょうか?

教皇レオ十三世はフリーメーソンに関する回勅の中で、次のように述べました。「彼らは全てのキリスト教の組織を完全に破壊することを望んでいる。これが彼らの目標である」と。彼らは目論見にますます近づいています!

ですから私たちは、私たちは再び建て直さなければなりません! この破壊に反対して立ち上がらなければなりません。これこそ皆さんがなさっていることです。

ですから、私は皆さんに祝福の言葉を申し上げます。私は皆さんを十分に称賛することはできません。天主、私たちの主、聖母が皆さんにお伝えになりたいことを、私は確信をもって申し上げます。「続けなさい、皆さんがしていることを続けなさい」と。

あらゆるところで、学校や、修道院が生まれ続けています。多くの国々で、小教区が増え続けています。あらゆるところで、聖伝のための教会が入手されています。私たちは、消えつつあるこのキリスト教世界に、もう一度、私たちの主イエズス・キリストの社会的統治を打ち立てなければなりません。

皆さんはこう言われるでしょう。「しかし、大司教さま、これはダヴィドのゴリアトに対する戦いです!」と。そうです、確かに私は承知しています。しかし、ゴリアトとの戦いで、ダヴィドは勝利を収めました! どのようにして勝利を得たのでしょうか? 小川から取った小石によってです。私たちが持っているこの小石は何でしょうか? イエズス・キリストです! 私たちの主イエズス・キリストです! 

私たちは、[フランス革命時代の]ヴァンデの先祖たちとともに、こう言いましょう。

「イエズス・キリストの名誉でなければ、私たちにはいかなるものも名誉ではない。イエズス・キリストを[罪を犯して]侮辱することでなければ、私たちにはこの世に恐れなど何もない!」と。彼らはこれを歌いながら、自分たちの天主を守るために死地に赴いたのです! 私たちも、勇気をもって、心の底から歌いましょう。

「私たちの主イエズス・キリストを愛するのでなければ、私たちにはそれ以外の愛はない、主を侮辱こと以外、私たちには恐れなど全くない!」と。

この戦いにおいて、私たちを助けてくださるよう、至聖なる童貞聖マリアに祈りましょう。この目的のために、この聖なるミサの後、私たち、ここにいる五人の司教は集まり、聖母の汚れなき御心への世界とロシアとの奉献を更新します。

いつも戦いの中心におられる私たちの良き母である至聖なる童貞が、私たちを励ましてくださっていることを、私たちは確信しています。聖母は、私たちが恐れずに戦うよう求めるために地上に来られたのです。聖母は私たちとともにおられるのですから。

私たちの家族、私たち自身、私たちの町、私たちの国、私たちの故郷を、聖母マリアの汚れなき御心に奉献することで、聖母が私たちを助けるために来てくださること、また、聖母が、なんとかして私たちを、ご自身とともに、いつの日か永遠の命に到達させてくださることを、私たちは確信しています。

父と子と聖霊の御名によりて。アーメン。

Sermon de Mgr Lefebvre - Jubilé sacerdotal - 60 ans - 19 novembre 1989 • La Porte Latine

1989年11月19日パリでの叙階60周年奉祝ミサでルフェーブル大司教様が行われた説教 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

1989年11月19日パリでの叙階60周年奉祝ミサでルフェーブル大司教様が行われた説教(2) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


【ジェイソン・モーガン准教授の記事】世界戦争の最前線で:カトリックのプロライフ活動家ウィル・グッドマンとのインタビュー

2022年06月22日 | プロライフ

世界戦争の最前線で:カトリックのプロライフ活動家ウィル・グッドマンとのインタビュー

もし普通の米国人が「中絶」という言葉の裏にある残酷な現実を見ることを許されたなら、彼らは憤慨し、この暴力を絶対に終わらせることを要求することでしょう! この厳しい真実は、正直で、誠実で、善意のあるすべての人を完全な中絶廃止論者にするでしょう。

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2022年6月8日(水曜日)

On the Front Lines of the Global War: An Interview with Catholic Pro-Lifer Will Goodman

ジェイソン・モーガン(レムナント東京特派員)

私の友人ウィル・グッドマンの名前が、3月下旬のニュースで取り上げられました。グッドマンは、3月30日(水)に首都ワシントンで起訴された9人のうちの1人です。2020年10月22日に行われたプロライフ救出作戦の際に、「クリニック入り口へのアクセスの自由」(FACE)法に違反したとされたのです。ウィルと仲間はその日、悪名高い首都ワシントン外科クリニックに入り、そこにいる中絶医のチェーザレ・サンタンジェロ医師が、お金のために子どもたちをバラバラにするという日常的で陰惨な仕事を遂行するのを止めようとしたのです。

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通常、ウィルのようなプロライフ活動家が逮捕されると、たとえ連邦犯罪容疑であっても、ニュースとして取り上げられ、その後、一般市民の関心はすぐに他のことに移ってしまうものです。しかし、今回は、多くの米国人がその報道にくぎ付けになりました。その理由は、今年3月末のその起訴が、ウィルとともに連邦犯罪に問われた9人のうちの1人、ローレン・ハンディのニュースと重なったからです。ハンディと他の人々は、首都ワシントンにある同じワシントン外科クリニックから115人の中絶された子どもの遺骨を回収し、首都ワシントンの当局にこの事件を報告していたのです。その子どものうちの5人は、明らかに後期中絶であり、出産後の嬰児殺しの可能性がありました。

私はウィルに連絡を取り、彼がこの事件について何か知っているのか、また彼の起訴や彼が関わっている国中の他の事件についての彼の考えを聞きました。ウィルはフルタイムのプロライフ活動家です。つまり、ウィルが「米国のホロコースト」と呼ぶ、胎児とその母親に対する「世界戦争」から女性とその子どもを救い出すために、キャリアと物質的な快適さを放棄しているのです。以下のインタビューは4月に「Human Life Review」に掲載されたものですが、ウィル・グッドマンは「レムナント」の読者に、プロライフ活動家の仕事と、死の文化に支配された政府と社会というねじれた現実についての一つの内幕を提供してくれています。

カトリックのプロライフ活動家ウィル・グッドマンとのインタビュー

【問い(ジェイソン・モーガン)】明らかにできる情報の範囲で、首都ワシントン地区での人間の遺体の発見と丁重な埋葬について教えてください。

【ウィル・グッドマン】私はこの直近の救助と埋葬に立ち会っていません。しかし、以前には、そのような任務に携わったことがあります。その中には、殺された赤ん坊の遺体を入手するために生物災害の恐れのある廃棄物の処理業者を買収して、中絶クリニックの外のゴミ箱から小さな殺人被害者を見つけましたことがあります。また、体外受精の研究室や、出生前殺人によって殺された小さな子どもたちの死体を利用している大学の研究施設で、こういう殺された人間を埋葬するための交渉に従事したこともあります。

これは困難で、しばしば秘密裏に行われる仕事です。通常、大きな勇気とともに、コンタクトを取った死の文化に参加する従業員の側に対する信頼が必要であり、彼らが進んでプロライフ活動家と協力してくれなければなりません。したがって、このような任務は、多くの忍耐と我慢強さを必要とする一方で、多くの失敗と心痛を生み出しがちな、非常にもどかしい取り組みです。それでも、気にかけている人々にとっては、あわれみ深い目標はどんな犠牲をも払う価値があることは明らかです。

私は、この分野でのモニカ・ミラー博士シスター・メアリー・ラングの先駆的な仕事を大いに賞賛していますし、首都ワシントンでチェーザレ・サンタンジェロによる115人のあわれな犠牲者の遺体を救い出すのを手伝った私の友人ローレン・ハンディの勇気と献身にも、もちろん感謝しています。

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【問い】子どもたちの切断された遺体がどこにあるか、どうやって知ったのですか? また、彼らが苦しんだ恐怖の後、どうやって彼らを人間にふさわしく取り扱うことができたのでしょうか?

【グッドマン】殺人カルテルの施設で長い時間を過ごすプロライフの擁護者と調査員は、お金のためにこれらの残忍な犯罪についての身体の証拠を持ち去って破壊する契約組織のスケジュールを発見します。時折、中絶産業内部やその契約仲間から内部告発者が現れ、被害者の遺体を密かに入手するために必要な情報を教えてくれることがあります。しかし、これは非常にまれなことです。大型ゴミ容器や放棄されたトラックヤード(荷物の積み降ろしの場所)が、遺体を発見する典型的な場所となっています。

母親の胎内で殺され、ゴミ箱に捨てられたこれらの小さな子どもたちは、それぞれが全能の天主の似姿として創造された唯一無二で二度と現れない人間なのです。

【問い】主流メディアは、何が起こったのか真実を伝えてきたのでしょうか?

【グッドマン】1965年にレナルト・ニルソンが有名な「ライフ」誌に掲載した胚・胎児期の人間の有名な写真以来、中絶産業と政治、メディア、大学などの彼らの同盟者は、胎内の人間の生命についての真実を隠蔽したり、分かりにくくしたりしてきました。聖ヨハネ・パウロ二世は、その記念碑的な回勅「いのちの福音」(Evangelium Vitae)の中で、この組織的な計画を、「沈黙」によって強制される「生命に対する陰謀」、つまり中絶の犠牲となった生まれる前の子どもとその母親に対する陰謀と呼んでいます。

ありがたいことに、良きカトリック、キリスト教、プロライフのメディアサイトは、事実を徹底的に調査し、チェーザレ・サンタンジェロの恐怖のワシントン中絶施設から救出された115人の犠牲者についての真実を共有するために、「適用かつ相当な調査」(due diligence)を行ってくれました。

【問い】子どもたちの写真を見て、私は胸苦しくなりました。もし可能なら、子どもたちの遺体を回収している間にあなたの心によぎったこと、つまり嫌悪感、悲しみ、怒り、行われている残虐行為を止めようとする決意について教えてください。

【グッドマン】母親の胎内での殺人による無垢の犠牲者の顔、腕、脚、手、つま先、胴体、切断された遺体を実際に見ることは、決して忘れることのできない悲惨な体験です。1990年代半ばに見た犠牲者の写真やビデオは、私を「消極的」から「積極的」なプロライフ活動家へと変えてくれましたが、殺された小さな少年少女の実際の遺体を間近に見ることは、何物にも代えられないものです。言いようのない恐怖です。彼らが立派に成長していること、沈黙の無垢さと同時に、彼ら一人一人が容赦なく受けたグロテスクな拷問やひどい身体的外傷を目の当たりにするからです。

ほんの赤ん坊に放たれた野蛮な暴力を目の当たりにして、人は当然、気持ちの悪い感覚や人間らしい感情をすべて感じます。悲しさ、恐ろしさ、吐き気がする、苦痛、といった感情です。同時に、ひどい不正に対する嫌悪感、このような残虐行為を許している政府に対する真の怒り、そして、言うまでもなく、このような陰湿な人道に対する罪を隠しているメディアや大学などの機関に対する完全な失望感もあります。

もし普通の米国人が「中絶」という小さくて空虚な言葉の裏にある暗くて残酷な現実を見ることを許されたなら、彼らは憤慨し、この恐ろしい死に至らせる暴力を絶対に終わらせることを要求することでしょう! この厳しい真実は、正直で、誠実で、善意のあるすべての人を完全な中絶廃止論者にするでしょう。

中絶産業によって虐殺された兄弟姉妹の目を見つめるたびに、私は、なぜ天主の最も弱い子どもたちに対するこの目に見えない戦争を終わらせるために人生を捧げる人々と自分が行動を共にしているのか、その理由を思い起こします。この世界戦争の無力な犠牲者の血まみれの死体を見るたびに、どうしてこのような悪が起こったのか信じられない思いがします。そして、暴力が無垢の人々を思い通りにするのを許してしまうとは、善き人々はどこに行ってしまったのだろうかと不思議に思います。

殺された赤ん坊の遺体を手にすると、この恐ろしいホロコーストを止めるためには、「普通の生活」をあきらめるだけでは不十分であることが分かります。アシジの聖フランシスコが毎日、目覚めたときに「今のところ、私はキリストのために何もしていない!」と言ったように、私も(そして中絶反対の人も)、無防備な人々を守り、その母親を助けるための私たちのささやかな努力について、次の言葉を繰り返すことができるのです。「私たちは今までほとんど何も、あるいは全く何もしていない」と。

善き人々がなすべきことをしないということは、ある意味で悪質な人々の悪事よりもずっと衝撃的です。沈黙は、恐ろしくも無知と無関心によって培われた、現在進行中の米国のホロコーストに大きく寄与しています。善き人々は、虐殺された何千万人もの生まれる前の子どもたちの叫び声と同じように、沈黙しています。しかし、イエズス・キリストは、この1億人近い小さな米国人の声の合唱を聞いておられます。私たちは、キリストのために、キリストの小さな子どもたちのために、もっと勇敢に、もっと声を上げなければならないのです。

「あなたに100万人の声があるかのように真理を説きなさい。この世を殺すのは沈黙です」(シエナの聖カタリナ)。

死の文化によって殺された赤ん坊や母親の何百万、何千万という声と共に語る恩寵を、天主が私たちに与えてくださいますように。

【問い】司法省は、あなたや回収作戦に携わる人たちに対して、どのような訴訟を起こすつもりなのでしょうか?

【グッドマン】もし中絶産業が思い通りにやるならば、プロライフ活動家が自分たちの産業の犠牲者の遺体を回収して、恐るべき真実を明らかにすることを厳しく罰し、阻止するための過酷な法律が成立するでしょう。現政権では、犠牲者をあわれみ、彼らのために発言する人々は、すぐに攻撃的な訴追を受けるでしょう。

現在の司法省には、そのような攻撃性を確実に見ることができます。2020年10月にサンタンジェロが運営する後期中絶施設で、座り込み中にあえて殺人を止めようとした9人の平和的な救助者たちに対する連邦大陪審の起訴を、メリック・ガーランド司法長官が承認したのですから。70代の4人の祖母を含む各被告は、現在、連邦刑務所に11年の刑と、35万ドルの罰金および3年間の連邦裁判所の監督という可能性に直面しています。非暴力の活動家に対するこの理不尽な攻撃は、50年にわたる米国のプロライフ運動だけでなく、わが国の歴史上の230年の抗議活動においても前例がありません。

この非常識な連邦政府の重罪容疑について誰か知っているのでしょうか? 気にかける人は誰もいないのでしょうか? 司法省は、彼らのイデオロギーの敵―胎児の友人ら―を、収容所に追放することで逃げ切れるのでしょうか? 時間がたてばそれが分かるしょう。

【問い】あなたや他の人々が直面している、あるいは将来直面する可能性のある、他の法的複雑さ(例えば、州や連邦の境界を越えた遺体の移送、他の州での未解決の逮捕状、子どもたちが殺されたクリニックによる訴訟、積み重ねられた容疑など)にはどのようなものがあるのでしょうか?

【グッドマン】米国や州の政府の立法、司法、行政部門を、(自分たちの)さらなる武器とするために、中絶・政治・産業複合体が、どのような不道徳で不正な努力をするのかを、推測することは困難です。プロライフ活動家に対する彼らの集団的攻撃は、彼らが自分たちの悪事にどの程度の労力を費やしたいのかということと、教会関係者、プロライフ運動のリーダーたち、一般市民がどの程度無関心だと予想するかということの間の計算によって決まるのかもしれません。もし彼らの悪意が善き人々の無関心と同じであれば、赤ん坊を救出し、犠牲者の遺体を入手したり埋葬しようとしたりする人々は、まもなく罰に直面し、それによって、プロライフ活動家が愛し、守り、同情を寄せようとする無垢の犠牲者と、ますます運命を共にするようになるかもしれません。

【問い】バイデン政権は、オバマ政権よりも反生命的なのでしょうか?

【グッドマン】1973年以来、全米の民主党は年々過激な中絶推進派になりつつあります。数十年にわたって滑り台のように、「女性の私的な選択」から「安全で合法的で稀な」に変わり、さらに「ヘルスケアの基本的要素」に、ついに「すべての女性の最も基本的な人権を税金で賄う」へとフレーズが移り変わっていくのを見ました。最終的に、現在のいくつかの州の議会が、出生後かなりたってからの嬰児殺しでさても、犯罪ではなくそうとするという病的なところにまで、私たちの国を連れてきてしまったのです。

ビル・クリントンの中絶推進政権は、「オバマケア」政権に中絶擁護で追い抜かれ、これは現在、猛烈な中絶推進派のバイデン・ハリス政権に急速に追い越されつつあります。民主党は、出生前の赤ん坊の殺害を声高に擁護するのを、生後9カ月まで延ばし、いかなる理由であれ、納税者の資金を使うというのは、現政権でその頂点に到達しました。これらの優先順位は、やはり、最近の前例のない連邦大陪審による9人の非暴力的な患者擁護者の起訴に見ることができます。

【問い】トランプ政権下で、反生命の行動に顕著な変化はありましたか?

【グッドマン】完璧とは言い難いものの、オバマおよびバイデンの政権と比較すると、トランプ政権は多くの点でプロライフ運動にとって新鮮な空気のようなものでした。トランプは混迷を極めていました。大規模な全国的で象徴的な証人である「マーチ・フォー・ライフ」には、彼とマイク・ペンス副大統領が自ら参加しましたが、彼の政権は、ワクチン開発を含むバイオテクノロジー研究という広大な分野で、多くのプロライフ保護を提供することができませんでした。彼の保健福祉省は、最も弱い立場の人々を尊重するという点ではオバマ大統領を何光年も上回っていました。しかし、彼の司法省は中絶産業や大学などの機関における多くの不正に無関心なように見えました。

トランプに指名された最高裁判事は、来月にドブス判決でその価値が証明されるでしょう。あるいは、逆でしょうか。(モーガン注:このインタビューの約1カ月後、政治サイト「ポリティコ」は、ロー対ウェイドを打倒する最高裁の多数決判決のリーク原稿を入手しました。この記事を書いている時点では、この判決は正式には発表されていません)。

【問い】米国における一般的な傾向として、文化はさらにプロライフ(生命擁護的)になり、中絶推進者とその支持者は、さらにプロデス(死推進的、pro-death)になっているのでしょうか?

【グッドマン】過去8年間における米国の過激な文化的・思想的二極化は、子どもの「合法化」された殺害をめぐる争いの中で増幅された小宇宙を見いだします。かつては「プロチョイス」運動の極端な一派であったものが、今では全国の民主党の指導部と現在のバイデン・ハリス政権の中に居場所を見つけたのです。

「家族計画連盟」(Planned Parenthood)と名乗る国際的な中絶カルテルは絶対的権力として、死を「健康管理の選択肢」として、文化的に普通のこととする(正常化)のおかげで、また、古くからある優性主義者の支援金と若い「進歩派」―彼らはこの身の毛もよだつようなビジネスを、人口削減と二酸化炭素排出量削減の重要な手段とみなしている―の両方からの豊かな支持のおかげで巨大化し続けています。

一方、明るい面では、多くの若い人々が積極的にプロライフ活動家となり、主流メディアや大学などに挑戦し、両政党にも挑戦する創造的な方法を見いだしています。プロライフの母子保健センターの設立、女性やマイノリティーが率いる声高なグループ、プロライフの若者たちの活動の増加、非暴力直接行動キャンペーンの刷新、オンラインメディアやソーシャルメディアでの教育プラットフォームの増加、中絶後の回復とケア活動の増加、斬新な州議会の努力などのうねり。プロライフの勢力がさまざまな面で力をつけていることは希望に満ちています。

とはいえ、米国の積極的なプロライフの中絶廃止論者は、国民総人口の中ではまだ非常に少数派です。さらに、絶望的な状況にある母子をしっかりとケアしようとする良心的な市民も十分にはいません。もし私たちが文化の内部で本当に意味のある永続的なプロライフの傾向を見ることを期待するならば、このすべてを変えなければならないのです。

【問い】この戦いの霊的な次元について、あなたはどのようにお考えですか?(私の見解では、首都ワシントンで発見された子どもたちを切断した人々は、ほぼ確実に悪魔の影響下にあります。その人たちがしたことは悪魔的なことです。)

【グッドマン】生きている人間という天主の象徴に対するいかなる攻撃も、天主ご自身に対する攻撃です。イエズス・キリストは、「あなたたちが、これらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節参照)と言われたとき、このことを教えられました。

遠い昔、全能の天主の霊的な敵(堕天使たち:サタンと悪魔たち)が天の国での戦いに敗れたとき、悪魔とその大軍はもはや聖三位一体に対して直接攻撃することができなくなりました。したがって、悪魔たちは堕ちたとき、天主に愛された人々、とりわけ幼い子どもたちに対して不浄の戦いの軍勢を集結させました。

1800年代後半以来、教会のメンバーたちは、信仰、真理、家族、結婚、人間の生命に対する世俗的な攻撃が、20世紀とキリスト教第三千年期の決定的な戦いになることを認識していました。

悪魔崇拝とオカルトの役割は、中絶を非犯罪化し、そのような病的な暴力の隆盛を永続させようとする現代の活動の隠された一部として常に存在してきたのです。今日、この悪はもはや隠されてはいません。「サタンの寺院」(Satanic Temple)と他の悪魔崇拝組織は、母親の胎内の子どものいけにえを維持するために、公の立法のために法的努力をしているところです。これらのグループは、中絶産業による女性への恐ろしい虐待と搾取は言うまでもなく、胎内の人間をバラバラにして死に至らしめることを支持する大規模な中絶推進デモを組織し、公的な広告掲示板やディスプレイを建てているのです。

もし、霊魂と、ほんの少しの信仰でも持つ人が、サンタンジェロの5人の犠牲者について真剣に考えてみるならば、この残忍な悪は、悪魔に他ならないことをすぐに発見することでしょう。

このことは、次の疑問を生じさせます。なぜ、政府はこのような悪を熱狂的に擁護するのか? なぜ力のある文化的勢力がこのような悪を「善」として推進するのか? そして、なぜ私はこの醜い悪を止めるためにもっと多くのことをしないのか?

霊的な戦いにおいて、まず始めるのに良いのは祈りです。しかし、これは出発点に過ぎないはずです。聖ベネディクトが助言しているように、「祈れ、かつ、働け」(Ora ET labora)です。

【問い】今度の最高裁判決は、米国の文化的景観を変えるでしょうか?

【グッドマン】そう望んでいます。全米のプロライフ法学者の間では、最高裁が、有利なドブス多数判決によってロー・ドー事件(ロー対ウェード事件、ドー対ボルトン事件)の範囲を限定するという楽観論が多く見られます。

起こり得る結果には幅があります。一つの可能性は、生まれる前の子どもを保護する国家の利益と能力について、もっと直接的な擁護を最高裁が支持することです。もう一つの可能性は、いわゆる「スカリア・オプション」で、文字通り中絶の犯罪性の問題全体を州に投げ返すというものです。可能性が低いと思われるのは、最高裁がなすべきこと、すなわち、例外なく、受胎の最初の瞬間からすべての人間を保護する憲法修正第14条の保護を支持する決定的な判決を出すことです。

政治的通路の両側の多くのアナリストは、この6月に来る決定が、主に国家のイデオロギーに基づいて、米国で子どもを殺すビジネスのための新しい国家の状況の到来の案内役を務めるだろうと信じています。すでに中絶カルトは多くの新しい戦術を準備しています。その中には、プロライフの州に住む妊娠中の女性が購入したり使用したりするための、人間を殺す薬や器具をその州に輸送する計画もあります。ニューヨークのようないくつかの左翼の州は、旅行、ホテル、食事、赤ん坊の殺害がすべて含まれた中絶ツーリズムパッケージを開発しました。

そのような中絶促進パッケージを医療プランに組み込んでいる企業さえあります。低所得で中絶せざるを得ない家族が、家族の一部のメンバーを清算(堕胎)するために州外に行く費用を支払うために、裕福な個人、企業、そして可能な限りの連邦政府の税金が信託として設立されるかもしれません。中絶を行う「死の船」が、プロライフの沿岸州のすぐ外側の国際海域に停泊し、小さな子どもたちの死を得るために、これらの浮かぶ「医療サービス船」に乗るための無料の海岸線ボートを提供すると約束されています。

一方、このような新しい状況が起こり得る中で、教会とプロライフ運動は、通常なら望まない妊娠の解決策として死を求めるであろう妊娠中の母親への、さらに積極的な支援とさらに大きな連帯を強調するために、プロライフの州でさらに強く働くことになるでしょう。これらの地域では、支援と教育のネットワークの拡大が中心的な行動目標となるでしょう。

中絶推進派の州では、完全に稼働している中絶施設、中絶に友好的な州議会、中絶を支援する文化団体において、現在と同じ種類のプロライフの取り組みが継続され、あるいは規模を拡大する必要があります。国、州、地域のプロライフ団体間の協力は、胎内に生きている人々に対する保護の度合いにおける地理的、地域的変化の中で、新たな次元の相互作用をもたらすでしょう。

最高裁はこの戦いに終止符を打つことはありません。米国のホロコーストは、ある面では継続し、他の面では新たな戦いの始まりを告げるでしょう。継続的な解決策は、小さな子どもたちのための平等と、その両親のための連帯のために、新しい方法で愛情を持って働くことです。

政府のすべての部門は、受胎の自然な始まりから自然な死まで、例外なくすべての人間の生命に対する天主から与えられた権利を擁護し保護する責任、義務、義務があります。最高裁が、生まれる前の米国人の憲法上の権利を守るために司法によって必要とされ、要求されることを行うには、まさに奇跡が必要でしょう。彼らは、なすべきこと、あるいは天主が要求なさっていることを行いそうにはありません。

しかし、ロー判決が見直され、もしかしたら骨抜きにされるかもしれないという希望もあるようです。

とはいえ、どんな裁判所や法律も、母親や父親に胎内の小さな子どもを愛させることはできません。このことが、私たちの国を「命の文化」にするために必要なことなのです。私たちがそこに到達するまで、この運動はこの究極の目標に一致して働き、同時に政府の3部門が、すべての人間が「法の下の平等」として保護されることを保証するために、委ねられた権限のすべてを行使するよう要求しなければなりません。

繰り返しますが、これは主として霊的な戦いですから、子どもをいけにえにする悪魔は、「投票で職を追われたり」「裁判所で覆されたり」「警察に逮捕されたり」することはあり得ません。王たるイエズス・キリストの力によって、彼らを追い出さなければならないのです。

祈り。断食。愛徳。あわれみ。犠牲。連帯。償い。これらは私たちの主要な焦点です…。「御国の来る」まで。

【問い】あなたや、あなたの仲間が行っている愛すべき、命を救う活動を支援するために、人々は何ができるのでしょうか?

【グッドマン】私は個人的な基金や非課税団体を持っていません。この仕事をするために、1996年以来、天主の御摂理に頼ってきたのです。天主は私にとてもよくしてくださいます…私にふさわしい以上に。

「Red Rose Rescue」の救助者としての私の使命を支援なさりたい方は、「Citizens for a Pro-life Society」のモニカ・ミラー博士(https://bringingamericabacktolife.org/monica-miller/)に寄付をすることができます。(寄付は「Red Rose Rescue」のためと明記してください。)http://www.prolifesociety.net)

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また、邪悪な司法省との巨大な法廷闘争で私たち支援するための大規模な資金調達のプラットフォームを立ち上げたいと希望しています。レスキュー隊員は弁護士を雇うお金を持っていません。また、プロライフの公益法律事務所は、司法長官や米検察庁のように何十億ドルもの資源を持っているわけではありません。大陪審の重罪事件において、私たちは、すべての生まれる前の子どもたちのための憲法修正第14条の保護を主張するために、真実の証拠記録を確立し、最高のプロライフ専門家の証人や弁護人を利用し、2020年にチェーザレ・サンタンジェロの恐怖の後期中絶ハウスで行った私たちの救助活動から生じた不当な重罪容疑に対して、肯定的に「他人の防御」を行いたいと考えているのです。

【問い】他に付け加えたいことはありますか?

【グッドマン】全能の天主は、現代に生きるすべての人に、特別な命令を与えておられます。「死地にひかれる人を救い出し、死に処されようとする人を助け出すのをためらうな」(箴言24章11節)。

この掟にはさまざまな従い方がありますが、母親の胎内に生きる幼い子どもたちに対する黙示録的な攻撃、母性と父性の神聖さに対する攻撃のただ中に生きるすべての人々にとっての規範的な義務として理解されなければなりません。

生と死が天秤にかけられるとき、天主は「勧告」や「提案」をなさることはありません――天主は明確かつ確固たる命令を下されたのです。

今、皆さんはどのような答えをするのでしょうか? 皆さんが死ぬ日に天主の審判を受けるとき、皆さんの答えはどうなるのでしょうか? 皆さんは、天主なる、命の救い主であるイエズス・キリストのように、どのように愛しますか?

これらのことについて祈りましょう。天主に助けを求めてください。天主は皆さんを導いてくれるでしょう。赤ちゃんも、お母さんも、お父さんも、皆さんの助けを必要としています。

「私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」【ヨハネ13章34節】。(イエズス・キリスト)。

+王たるキリスト万歳!!!


ジェイソン・モーガン(レムナント東京特派員)


【参考情報:WARNING: This article contains disturbing images.】

Aborted babies discovered in DC may indicate infanticide after attempted abortions


御聖体について教会が最初から教えてきたこと:御聖体は、我らの罪のためにお苦しみになり、御父が復活させられた主イエズス・キリストの御体、肉体となられたそのイエズス御自身の御体と御血である

2022年06月21日 | お説教・霊的講話

2022年6月19日 東京での説教 — 御聖体の荘厳祭

レネ神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

今日、私たちは至聖なる御聖体の荘厳祭(そうごんさい)をお祝いしています。かくも重大な事柄については、私たち皆、教会が最初から教えてきたことを傾聴(けいちょう)することが、私たち自身の役に立ち、また、私たち自身に有益なことであると思います。

アンチオキアの聖イグナチウスは、聖エボヂウスに続く、アンチオキアの二番目の司教で、西暦108年に亡くなった人です。このように、聖イグナチウスは、教会の歴史でも極(ごく)初期の人ですが、スミルナ人たちに対する手紙で、ある種の異端者(いたんしゃ)たちについて、このように書いています。「この人々は、御聖体が、我らの罪のためにお苦しみになり、御父が、その善性(ぜんせい)のゆえに復活させられた我らの主イエズス・キリストの御体ではない、と主張するのである。したがって、天主からのこの賜物(たまもの)を否定する人々は、死に至(いた)る。」カトリックの信仰、とりわけ天主からの、このように畏敬(いけい)すべき賜物(たまもの)を否定することは、大罪です!

最後の使徒が亡くなってから50年も経(た)たない頃、聖ユスチヌスは、このように書きました。「そしてこの食べ物は、我らがエウカリスティア(即ち、御聖体)と呼ぶものであって、我らが教えることを真実であると信じ、罪の赦(ゆる)しのため、また再生のための浄(きよ)めによって洗われ、そして、キリストがお命じになったように生きている者でなければ、誰も、それにあずかることは許されないのである。なぜならば、我らがこれを受けるのは、普通のパンや普通の飲み物としてではなく、我らの救い主であるイエズス・キリストが、天主の御言葉によって御托身(ごたくしん)になり、我らの救いのために、肉も血も持っておられたように、受けるのである。また、我らが受けた教えによれば、御言葉の祈りによって祝別された食べ物、またその変化によって我ら自身の血と肉が養(やしな)われるその食べ物こそ、肉体となられたそのイエズス御自身の御体と御血なのである。

この最初の文章の中で、御聖体を受ける条件が、「…でなければ、誰も、それにあずかることは許されない」と表現されていることに注意してください。これは、今とまったく同じです。まず最初に、カトリックの信仰を持つことが必要であること:「我らが教えることを真実であると信じ(ていること)」、二番目に、洗礼を受けていることが必要であること:「罪の赦(ゆる)しのため、また再生のための浄(きよ)めによって洗われ(ていること)」、三番目に、成聖(せいせい)の恩寵(おんちょう)の状態で生きていること:「キリストがお命じになったように生きている者で(あること)」。

そして、これらの条件の説明が続きます。それが、「イエズスの御体と御血なのである」からです。そして聖ユスチヌスは、ここで、非常に明確に、こう言っています。「それは普通のパンではない。」それは、パンのように見えるかもしれませんが、普通のパンではありません。では、それは何なのでしょうか?それは、「肉体となられたそのイエズス御自身の御体と御血」です。 聖ユスチヌスは、「御言葉は肉体となられた。」という聖ヨハネの言葉を、そのまま引用しているのです。私たちのために御言葉が取られたこの肉体こそが、私たちが受けるものです。これこそが、私たちと私たちの救いのために、「肉体となられたイエズスの御体と御血」です。この文章が複雑なのは、聖ユスチヌスがここで、私たちが聖体拝領で受ける体は単なる人間の体ではなく、天主の御言葉が、 私たちの救いのためにお取りになった、まさにその体であることを、正確に指摘しようとしているからです。

では、聖ユスチヌスは、いかにして、そのことを知っているのでしょうか?聖ユスチヌスは、「我らが受けた教えによれば」と言っています。誰に教えられたのでしょうか?使徒たちの直接の後継者たちに、教えられたのです。聖ユスチヌスがこの「最初の護教論(ごきょうろん)」を書いたのは、聖ポリカルプスが殉教(じゅんきょう)したすぐ後のことでした。聖ユスチヌスが聖ポリカルプスに直接会っていたかどうかは不明ですが、聖ユスチヌスが、シリアから、小アジア地方を通って、ローマにまで旅行したので、その可能性はあります。いずれにせよ、聖ユスチヌスと使徒たちとの間を介した人は、ほんの数人に過ぎません。これこそが、使徒的な「口頭の」教え、即ち、カトリックの聖伝です。

聖ポリカルプスのことを個人的に知っていたもう一人の教父は、聖イレネウスです。聖イレネウスは、御聖体におけるキリストの御体と御血の現実から、死者の復活を証明する論拠(ろんきょ)を述べます。聖イレネウスは、こう言っています。「したがって、混(ま)ぜられた杯(さかずき)と作られたパンが天主の御言葉(即ち、聖変化におけるキリストの御言葉)を受けるとき、御聖体はキリストの御血と御体になるのであり、これによって我らの体の実体は強められ、支えられるのである。我らの体が、天主からの永遠の命という賜物(たまもの)を受けることができ、主の御体と御血によって養(やしな)われ、主の体(したい)の一部であるということを、この異端者らは、いかに否定することができようか。…我らの体は、主の御血である杯(さかずき)によって養(やしな)われ、主の御体であるパンによって強められるのである。」この文章は、非常に明確です!

続く3世紀には、聖キプリアヌスが、自らがミサをたてたときのことについて、「nobis sacrificantibus(ノビス・サクリフィカンティブス)」、即ち、「私たちが犠牲をお捧(ささ)げしていたとき」と書いています。また、御聖体のことを、「主の至聖(しせい)なるもの」、「主の御血において聖別された酒」、あるいは、「司祭によって執行される犠牲」の実(み)、と呼んでいます。これでおわかりの通り、御聖体における主の実存とミサの犠牲の教理は、教会の一番最初から存在するものです。

続く4世紀には、数多くの教父や偉大な教会博士たちが現れましたが、その中に、まずアンチオキアで司祭、その後、コンスタンチノープルの司教となった、聖ヨハネ・クリソストムスがいます。エフェゾ人への書簡(エフェゾ第1章22-23節)の解説として、聖ヨハネ・クリソストムスは、このようなことを書いています。「しかし、我らの論題は主の御体に関するものであるから、皆来て、それに思いを致(いた)そう。たとえ、その御体が、十字架に付けられ、釘付(くぎづ)けにせられ、犠牲となられた御体であったとしても。もしお前が、主の御体の一部であるならば、十字架を担(にな)え。主が、十字架を担(にな)われたからである。つばきに耐え、鞭(むち)打ちに耐え、釘付(くぎづ)けに耐えよ。『罪を犯さず、口を偽(いつわ)られなかった』(ペトロ第一第2章22節)主の御体は、まさにそのように扱(あつか)われたからである。主の御手(みて)は、それを必要とする全ての者のために、なし得る全てのことをなされ、主の御口(おんくち)は、ふさわしからざることを、一言(ひとこと)も発(はっ)せられなかった。主は、『お前は悪魔を持っている』と言われても、何もお答えにならなかった。」

聖ヨハネ・クリソストムスは、この最初の部分で、私たちは洗礼と恩寵(おんちょう)とによって主の御体の一部であり、したがって、私たちは、私たちの頭(かしら)である私たちの主イエズス・キリストのように生きなければならない、という事実を述べています。「もしお前が、主の御体の一部であるならば、十字架を担(にな)え。主が、十字架を担(にな)われたからである。」

そして続けて、御聖体について、こう言うのです。「更に、我らの論題はこの御体に関するものであって、我らのうちの多くがこの御体にあずかり、この御血を味わうとき、この御体といささかも違うもの、あるいはこの御体と別のものにあずかっているのではないのである。天にましまし給(たま)い、天使らに崇(あが)められ、永遠に朽(く)ちぬ権勢(けんせい)のお側(そば)におられるその御体を、我らが味わっていることを、考えてみよ。いかに数多くの救いへの道が、我らに開かれていることであろうか!主が、我らを御自分自身の御体の一部とされ、御自分自身の御体を我らにお与えくださったにもかかわらず、我らは、そのいずれをもってしても、悪(あ)しきことから自らの身を引くことができないのである。ああ、何たる闇(やみ)、何たる深淵(しんえん)、何たる冷淡(れいたん)さであろうか!聖パウロはこう述べる。『キリストが、天主の右に座(ざ)しておられる、上のことを求めよ。』(コロサイ第3章1節)しかし、これらすべてのことをもってしても、金銭や放埒(ほうらつ)を好(この)む者がおり、また自らの情欲の虜(とりこ)となる者がいるのである!」

このように、教父たちは、御聖体における私たちの主の現存という偉大なる真理から、わかりやすい道徳的結論を導き出すのです。それは、私たちは、私たちが受けるものにふさわしい生活を送らねばならない、ということです!「天にましまし給(たま)う、その御体を、我らが味わっている!」ですから、聖パウロがコロサイ人たちに言うように、私たちは、「上のことを求め」なければなりません。

聖ヨハネ・クリソストムスは、別の箇所で、聖パウロのエフェゾ人へのこの言葉について解説します。「私たちが祝(しゅく)する祝聖(しゅくせい)の杯(さかずき)は、キリストの御血にあずかることではないか?」(コリント前第10章16節)聖ヨハネ・クリソストムスは、こう書いています。「ここで聖パウロの言うことは、非常に説得的で、かつ、恐るべきことである。なぜなら、彼の言うことは、こういう意味だからである。『その杯(さかずき)の中にあるものは、主の御脇腹(おんわきばら)より出たものであり、我らは、その同じものにあずかるのである。』」

同時期に活躍したイエルザレムの聖キリルスは、「神秘(即ち秘蹟)について」という題名の求道者たちへの指示書の中で、次のように書いています。「聖なる、崇(あが)むべき三位一体(さんみいったい)に対する祈りの前、奉献(ほうけん)されたパンとぶどう酒は、単なるパンとぶどう酒に過ぎないが、その祈りの後、パンはキリストの御体となり、ぶどう酒はキリストの御血となる。」「奉献(ほうけん)されたパンは、聖霊に対する祈りの後、もはや単なるパンではなく、キリストの御体となる。

この聖キリルスはまた、御聖体について、次のように、更に詳細に、非常に明快に説明します。「我らの主イエズス・キリストは、渡された夜、パンを取り、感謝を捧(ささ)げた後、それを割り、ご自分の弟子らに与えて、こう言われた。『これを取り、食べよ、これは我が体である。』また、杯(さかずき)をとり、感謝を捧(ささ)げ、こう言われた。『これを取り、飲め。これは我が血である。』この時、このパンについて、主御自身が『これは我が体である』と宣言されたのであるから、いまや誰が、これを疑おうか?また、主御自身が『これは我が血である』と断言されたのであるから、いまや誰が、『これは主の御血ではない』などと言って、ひるむことがあろうか?」教会によってなされてきたのは、いつも、これと同じ説明です。私たちは、御聖体が本当にキリストの御体と御血であると信じます。それは、天主の御言葉である主御自身が、そうおっしゃったからです!

聖キリルスは、続けてこう書いています。「主は、あるときガリラヤのカナの町で、水をぶどう酒に変えられた。ぶどう酒は血のようなものである。主がぶどう酒を血に変えられたということは、信じがたいことであろうか?主は、この肉体的婚姻(こんいん)に招(まね)かれたとき、この不思議なわざを行われた。では、花嫁の間(ま)に控(ひか)える子供らに、主が、御自分の御体と御血の実(み)をお与えくださったことを、むしろ、我らは認めるべきではなかろうか?」聖キリルスは、ここで、とても強力な議論を行っています。それは、御聖体が、キリストと、キリストの教会との間の婚姻(こんいん)の秘蹟である、ということです。キリストは、カナにおいて、驚くべき全実体変化をなさったのですから、御自分自身の天上(てんじょう)での婚姻(こんいん)に際(さい)して、それを、どれほど超(こ)えるわざをなさったことでしょうか!カナでの全実体変化が事実であったように、祭壇上での全実体変化も事実です!御聖体における主の現存を否定するプロテスタントの人々は、御聖体は単なるシンボルに過ぎないと主張しますが、ではカナでは、水が単なるぶどう酒のシンボルに変えられて、そこにいた人々は、単なる、空虚(くうきょ)なシンボルとして、水を喜んで飲んだと言うのでしょうか?カナにおける全実体変化が事実であったように、御聖体における全実体変化も事実です!

聖キリルスは、続けてこう書いています。「それゆえに、我らは確信を持って、キリストの御体と御血にあずかろう。それは、主の御体が、パンの姿(即ち、外観)のうちにお前に与えられ、主の御血が、ぶどう酒の姿のうちにお前に与えられるからである。お前が、キリストの御体と御血にあずかることにより、主と同じ体、同じ血となされんことを。かくして、キリストの御体と御血が我らの体を通して与えられるがゆえに、我らは自らのうちにキリストを担(にな)うようになるからである。聖ペトロによれば、我らはこうして、神性にあずかる者となるのである。」

最後に、聖アウグスチヌスの言葉を、短く引用します。「主はこの地上を、御体で歩かれ、我らの救いのため、その御体を、我らが食べるよう、お与えになった。誰も、まずその御体を崇(あが)めずして、食べることはない。我らは、その御体を崇(あが)めることによって、罪を犯(おか)さないどころか、その御体を崇(あが)めないことによって、罪を犯(おか)すのである。

私たちのカトリック信仰は、古代教会の信仰と同じです。その信仰は、私たちの主と使徒たちから直接来たもので、決して変わったことがありません。願わくは、聖母、聖なる天使たち、そして全ての聖なる教父や教会博士たちが、私たちがこの信仰を生き生きと保(たも)ち、それに従って生き、もっともっと、御父と聖霊と共にとこしえに生き給う私たちの主イエズス・キリストのようになれるよう、私たちを助けてくださいますように。アーメン。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年06月21日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年6月19日、日本では御聖体の荘厳祭を祝いました。東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計108人でした。大阪では30人でした。

東京では、ミサは二回だけでした。午前9時の歌ミサの直後に例年の通り、御聖体降福式を行いました。大阪でも去年のように御聖体行列を行いました。

来る6月24日金曜日は、イエズスの至聖なる聖心の祝日です。「暁の星の聖母」修道院では朝7時15分からミサがあります。大阪の聖母の汚れなき御心聖堂でも、午後6時から歌ミサがあります。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 108, including children.

09:00 mass and benediction
M: 26 (incl. 4 children)
F: 39 (incl. 6 children)
Total: 65 (incl. 10 children)

11:30 mass
M: 20 (incl. 6 children)
F: 26 (incl. 6 children)
Total: 46 (incl. 12 children)

Total of 2 masses (excl. 3 people who participated in multiple masses)
M: 44 (incl. 10 children)
F: 64 (incl. 12 children)
Total: 108 (incl. 22 children)









御聖体こそキリスト教の教えの中核です。日本のキリシタンも御聖体を大切に崇敬し讃美しました

2022年06月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年6月19日は御聖体の荘厳祭です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御聖体の荘厳祭の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


聖霊の七つの賜物と七つの罪源の名前をラテン語と日本語と韓国語と中文で御紹介します

2022年06月15日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊の七つの賜物と七つの罪源の名前をラテン語と日本語と韓国語と中文で御紹介します。

聖霊の七つの賜物

Septem Dona Spiritus Sancti 聖霊の七つの賜物 성신 칠은(聖神七恩) 聖神七恩 圣神七恩
Sapientia 上智 슬기 上智 上智
Intellectus 聡明 통달(通達)함 明達 明达
Consilium 賢慮 의견(意見) 超見 超见
Fortitudo 剛毅 굳셈 剛毅 刚毅
Scientia 知識 지식(智識) 聰敏 聪敏
Pietas 孝愛 효경(孝敬) 孝愛 孝爱
Timor Dei 敬畏 두려워함 敬畏天主 敬畏

 

七つの罪源

七つの罪源 vitia capitalia 모든 죄의 근원은 칠죄종(七罪宗) (韓国語の最近の言い方) 七宗罪
傲慢(superbia)あるいは虚栄(inanis gloria) 교오(驕傲)(superbia) 교만(驕慢)(superbia) 傲慢(虛榮)
嫉妬(invidia) 질투(嫉妬)(invidia) 질투(嫉妬)(invidia) 嫉妒(憂鬱)
憤怒(ira) 분노(忿怒)(ira) 분노(忿怒)(ira) 愤怒
怠惰(acedia) 해태(懈怠)(acedia) 나태(懶怠)(acedia) 懒惰
貪欲(avaritia) 간린(慳吝)(avaritia) 인색(吝嗇)(avaritia) 贪婪
貪食(gula) 탐도(貪饕)(gula) 탐욕(貪慾)(gula) 暴食
色欲(luxuria) 미색(迷色)(luxuria) 음욕(淫慾)(luxuria) 色慾

Photo Credit


今日から、至聖なる聖心の連祷を毎日、9日間唱えてノベナを捧げましょう!

2022年06月15日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
明日は御聖体の祝日で、来週の金曜日はイエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日です。
今日から、至聖なる聖心の連祷を毎日、9日間唱えてノベナを捧げましょう!!

聖ピオ十世会のためにお祈りください。

6月はイエズスの聖心の聖月です:イエズスの聖心の連祷を日本語・中文・韓国語・ベトナム語でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

明日はイエズスの聖心の祝日です:イエズスの聖心の連祷を英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

6月はイエズスの聖心の聖月です:イエズスの聖心の連祷をラテン語、イタリア語、ポルトガル語、ポーランド語、ギリシア語でご紹介いたします - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え! イエズスの聖心の連祷のもととなった聖書の引用箇所をご紹介します - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


【参考情報】バチカン、フランスの聖伝の司教に司祭・助祭の叙階停止を指示

2022年06月14日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】バチカン、フランスの聖伝の司教に司祭・助祭の叙階停止を指示

Vatican tells traditional French bishop to suspend ordinations of priests, deacons

トゥロン・フレジュス教区の4人の司祭と6人の助祭の叙階を、突然残忍にも――また無期限に――停止した理由は、ローマから出されていない。

ジャンヌ・スミッツ(パリ特派員)

2022年6月4日 米東部標準時夏時間午後5時27分

(LifeSiteNews) フランスの司教たちに関する二つの個別の出来事(一つは聖伝に寛容で、もう一つは明らかに聖伝に反対するもの)で、古い典礼のミサや聖伝の聖職者の服装に愛着のある聖職者への迫害精神が高まっていることが、大きく強調されています。

最も深刻な決定は、フランス南部のトゥロン・フレジュス教区に関わるもので、その教区のドミニク・レイ司教は6月2日木曜日にローマから、6月26日に行われるはずだった司祭と助祭の叙階式を、ローマのさまざまな省と協議するまでは中断しなければならない、という通知を受けました。

フランス南西部トゥルーズ教区ギー・ド・ケリメル大司教は、6月2日付で教区の神学生に手紙を送り、スータンを着ている者が目撃されていると不満を述べ、これをやめるよう命じ、この規則は神学校内部と、外部でのすべての活動に義務付けられていることを明らかにしました。その理由は、司祭職への準備をしている若者が、「過度に聖職者的な」イメージを与えているというものでした。

22年間教区を率い、フランスで最も盛んな神学校の一つを誇るドミニク・レイ司教(ほとんどの教区の神学校が閉鎖され、司祭養成のための「諸司教区共立」養成所が12ほどしか残っていません)に関して、突然の残忍な――そして無期限の――司祭になるはずだった4人の司祭と6人の助祭の叙階式の停止についての理由は、ローマから出されていません。

関係者にとって、このニュースは衝撃的でした。彼らは叙階の日を目指して生活してきたというのに、数カ月後、1年後、あるいはこれからも聖なる品級を受けることになるかどうか今では分からないのです。レイ司教の教区総代理の一人は、フランス司教団の非公式新聞「ラ・クロワ」(La Croix)に、「彼らはこのことを、痛みをもって経験し、待っている立場にあります」と語っています。誰の目にも明らかなのは、神学生自身が司祭職としての適性を問われているというよりも、神学生を犠牲にして、司教個人が標的にされていることです。

この新聞は、聖伝志向の多くの観察者がすでに残酷な停職処分の真の原因として指摘していたことに重点を置き、「内部情報源」を引用して、レイ司教が聖伝主義の傾向を持つ将来の司祭たちを歓迎したという事実は、場合によっては教区内でさえ「疑念」を呼び起こすものだったと述べました。ラ・クロワ紙によれば、レイは「判断力の欠如を示した」と非難されています。

司教は、カリスマ派の(charismatic)「新しい共同体」と聖伝の(traditional)ラテン語ミサに愛着を持つ司祭の両方を歓迎し、「聖伝カリスマ派」(tradismatic)というあだ名を頂戴しました。司教自身は、保守的なカリスマ派共同体「エマニュエル」の出身です。

しかし、レイ司教に対する「制裁」と言及されているものの原因は、嫉妬であり得るのでしょうか? 実のところ、嫉妬には2種類あります。

一つは、トゥロン教区の司祭の数が平均より多いこと、つまり約70万人の霊魂(カトリック人口)に対して300人もいること、そして司祭の平均年齢も他の地域より低いことが引き金になったのかもしれません。昨年、10人の司祭と8人の助祭がモンシニョール・レイによって叙階されましたが、彼らの多くは他の教区出身者で、さらには外国の者もいます。ラ・カスティーユ神学校は、フランスで2番目に大きな司祭養成機関です(1番目はサン・マルタン共同体で、聖伝の典礼の司祭養成機関に入るつもりのない聖伝志向の若者が、同共同体の教理的堅固さから、この数年集まってきています)。

LifeSiteの情報源の一つが示唆するもう一つの嫉妬の動機は、数年前にトゥロン神学校の元校長がその職を解かれ、それに関して、彼が、神学校が「聖伝化」されているという不平を述べた公開書簡をローマに書き送ったことです。彼は特に、2005年にトゥロンに設立された聖伝の共同体、すなわち聖伝の形式でミサを捧げるMissionaires de la Miséricorde(あわれみの宣教者会)のメンバーに「学監」(prefect of studies)のポストが割り当てられたことを強調しました。彼らは属人小教区を与えられており、その特別な「カリスマ」は、トゥロンで増え続けるイスラム教徒の移民に福音を宣教することです。

LifeSiteが相談した情報源によると、レイ司教に対するローマの攻撃の根本的な理由が何であれ、それはレイ司教がローマに召喚されて引き起こされ、ローマで彼は、聖職者省での大人数の委員会によって尋問されました。一部の人々による攻撃的な尋問もありました。

尋問の後、トゥロン教区は、近郊マルセイユのジャンマルク・アヴリーヌ司教による「友好的」とされる使徒的訪問を受けました。ちなみにアヴリーヌ司教は8月に予定されている来る枢機卿会議で教皇フランシスコによって枢機卿に任命される予定です。アヴリーヌはフランスの新聞では教皇フランシスコの友人であり支持者であるとされ、今は都市や村の大部分に主にイスラム教徒が住む自身の「多文化」教区で宗教間対話を説いています。

同時に、司教省長官のマルク・ウエレット枢機卿とも話し合いが持たれました。同枢機卿は、レイ司教の聖伝志向の考え方を明らかに受け入れておらず、レイ司教が退任するのを見るのを切望しているといわれています。実際には、レイ司教を退任の気持ちにさせることが真の目的である可能性もあります。教皇フランシスコの自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)によってすでに緊迫した状況にある中で、レイ司教の退任は、ウエレット枢機卿を筆頭とする反・聖伝ラテン語ミサ派にとって大きな勝利となるでしょう。非常に信頼できる情報源は、ステラ、パロリン、ベルサルディ各枢機卿とともに、この自発教令の発表に大きく賛成した人物としてウエレット枢機卿の名を挙げています。

トゥロン・フレジュスへの使徒的訪問は公式報告には至っていませんが、レイ司教の司祭叙階を無期限に禁止するという決定は、この教区が聖伝のミサに開かれていることに、ローマが注目していることと明らかに関連があり、何カ月も前から準備されてきたものです。しかし、その決定自体を規定する規範は、教会法の規範を尊重したものではなかったように思われます。

レイ司教は木曜日に、前述のローマとのやり取りの数々を思い起こさせる声明を発表しました。彼はこう付け加えました。

私たちは、この要請を悲しみと確信をもって受け入れ、この要請が、とりわけ叙階を受けようとしていた人々にとっての試練であることを自覚しています。

私たちは彼らのために祈り、彼らの旅に同伴し続けていきます。全員の利益のために状況が明らかになるまで、皆さん一人一人が、私たちの教区のために祈ってくださるようにお勧めします。

聖霊降臨の霊が、私たちの心を平和に保ち、喜んで奉仕し愛することができるようにしてくださいますように。

信徒のグループが、この決定がもたらす「悲惨な結果」を考慮するように願う教皇フランシスコへの嘆願を立ち上げました。彼らはこの決定が「大きな混乱を生む」と言っています。

「私たちの手紙は、私たちがこの叙階停止について理解できないことと同時に、レイ司教に愛着を持っていることを表明します。司教が22年間この教区に植え付けることを可能にした活力を考えてのことです」と、文章の作者の一人はラ・クロワ紙に語りました。

一方、トゥルーズでは、この古くて大きな司教区の大司教自身が、サン・シプリアン神学校にいる15以上の教区から集まった全員で43人の学生と8人の叙階された「学生司祭」のうち、より聖伝志向のある学生を狙っているように見えます。

トゥルーズの大司教であるギー・ド・ケリメル大司教は6月2日付で彼らに手紙を送り、その手紙はすぐにソーシャルメディアで公開されました。その手紙には前日の夜、大司教が共に過ごした時間に対して若者たちに「感謝した」と書かれていました。その手紙の目的は、トゥルーズの中心地で行われた学生のための堅振式で、スータンとスルプリを着用したのを目撃された若者が何人かいたことに対する不満を公式に表明することでした。

神学生が行き過ぎた聖職者の服装をするのは望ましくありません、と私は皆さんにお話ししました。将来のこれら聖職者たちが(中略)見せるイメージは、信者席から遠く離れた聖職者席に座っていれば、まだ奉仕活動になくとも、非常に聖職者的なイメージを与え、まだ信者である神学生の皆さんの状況に適応していないことに私は気づきました。皆さんは私のコメント、とりわけ私が皆さんにお願いしていることを理解していなかったようです。

私の望みを明確にしておきたいとい思います。神学校ではスータンを着用することは許可されていません。それが現在の規則です。ですから、私はトゥルーズ教区の神学校の外でもこの規則を適用するようお願いしていますし、これは助祭にも適用されます。役務的司祭職のために勉強している若者の優先事項は、その役になりきるのを目指すのではなく、謙遜と真理のうちに、キリストとの関係を増大させ、強化すべきことだと私には思えます。その後で、特徴的なアイデンティティーを見せることにこだわる前に、司牧的愛徳が自分の中で成長できるようにし、自分をすべての人に近づきやすくし、人々を、特に貧しい人々や最も遠くにいる人々を愛する努力をしなければならないと思います。将来司祭になれるかどうかは、何よりもその人の聖性、奉仕の精神、司牧的関係の質のおかげで識別できるようになるはずです。

入学後は、特徴的なしるし(「ローマン・カラー」または単に十字架)をつけることができます。助祭職の場合、聖職者は「司教協議会によって定められた規則と地域の合法的な慣習に従って、ふさわしい教会の服装」(教会法284条)を身に着けるように求められています。

フランスでは1960年代の世代が高齢化し、多くの若い召命が、新しいミサや第二バチカン公会議後の多くの激変の先導者となった司祭たちと対立しています。教区の各神学校内でも、これらの若者の多くは、カトリック司祭職の聖伝の形式や服装に、先輩たちよりももっと愛着を感じています。このことは、フランスのカトリックの位階階級の一部にとって明らかに問題であり、聖伝志向の学生たちに関する多くの話題がそれを証明しています。

ド・ケリメル大司教の手紙は、聖伝の典礼や服装に愛着を持つ神学生の「硬直性」に関して教皇フランシスコが数多く宣言していること、司祭を「会衆」から切り離して会衆の上に置くやり方として恥ずべきものとする「聖職者主義」を常々非難していることと非常によく一致するものです。これは、教会が、位階構造を持つキリストの神秘体というよりも、むしろ「天主の民」であるいう考え方とも一致します。しかし、キリストの神秘体とは、主がその頭(かしら)であり、聖職者(特に、秘跡を通してキリストの恩寵を分配するために「キリストに代わって」行動する者)、修道者、信徒はその肢体であるという考え方です。

神学生にとってスータンを着ることは、自分がこの世から切り離され、結婚などのこの世の魅力を放棄するしるしであると同時に、自分が天主によって選ばれ、たとえ実際には司祭職になれなくとも、天主の呼びかけに応えているというしるしでもあるのです。また、独特の服装は、独身であることを含め、彼らの身分の特別な必要要件を守っていることを、他人が見て分かるためでもあります。

「聖職者主義」に対するド・ケリメル大司教の攻撃は、彼が「トラディティオーニス・クストーデス」の最も熱心な擁護者の一人であるという事実を思い起こさせるものでもあります。前任地のグルノーブル教区で、彼は昨年11月に教令を発表し、聖伝のラテン語ミサを捧げるすべての司祭は新しいミサも捧げなければならず、聖伝のミサが「許容」されているグルノーブルの一つの教会では、月に一度の主日には新しいミサに代えるように命じています。彼はまた、他の秘跡を聖伝の典礼で執行することも拒否しました。

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ジャンヌ・スミッツ(Jeanne Smits)は、1987年、法学修士号を取得後、フランスでジャーナリストとして活躍。フランスの日刊紙「Présent」の元編集長で、インターネットを利用したフランス語圏のニュースサイト「reinformation.tv」の編集長を務めていた。多くのカトリック雑誌(Monde & vie, L'Homme nouveau, Reconquête...)に定期的に寄稿するほか、個人のプロライフブログを運営している。また、オルタナティブ・メディアに関するラジオやテレビ番組にしばしば招かれている。キリスト教とフランスの防衛協会「AGRIF」の副会長。ヘンリー・サイアー著「The Dictator Pope」とシュナイダー司教著「Christus Vincit」のフランス語への翻訳者であり、最近では「Bref examen critique de la communion dans la main」に「手による聖体拝領」について寄稿している。結婚して3人の子どもがおり、パリ近郊に住んでいる。


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