Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年10月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2022年10月30日(主日)東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計132人でした。大阪では26人、名古屋では15人でした。天主さまとマリアさまに感謝いたします!

ミサの後には「イエズスの聖心に人類を献げ奉る祈」を唱えました。
聖務日課では Te sæculórum Príncipem を唱えました。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the numbers of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 132 including children.

09:00 mass
M: 41 (incl. 8 children)
F: 37 (incl. 7 children)
Total: 78 (incl. 15 children)

11:30 mass
M: 25 (incl. 4 children)
F: 35 (incl. 6 children)
Total: 60 (incl. 10 children)

Total of 2 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 63 (incl. 12 children)
F: 69 (incl. 13 children)
Total: 132 (incl. 25 children)

【お便りのご紹介】

小野田神父様

イエズス様の十字架は御聖体と並んですべての恵みの源泉ですね。

異邦人のシモンはたまたま、エルサレムに来た時に、イエズス様が十字架を担う手伝いを強いられただけなのに、家族全員が信者になるお恵みをいただきました。息子のアレクサンドルとルフォスは信者仲間で有名でした。司祭あるいは司教だったのかもしれません。イエズス様の十字架との出会いがシモンと家族を変えました。シモンはイエズス様からは一言も声をかけられなかったはずですが、大いなる苦しみを気高く耐えるお姿に心打たれ、お恵みをいただいたのでしょう。

十字架の道行きには登場しませんが、イエズス様と一緒に十字架に付けられた良き盗賊は罪人である私たちの代表かもしれません。「我々は行ったことの報いを受けた」と自分の罪を認め、「この方は何も悪いことはしていない」とイエズス様の無実を宣言し、「イエズス、あなたが王位を受けて帰られる時、私を思い出してください」と懇願しました。たったそれだけで「今日あなたは私とともに天国にいるであろう」とイエズス様からありがたいお言葉を賜っています。

第一留 イエズス、死刑の宣告を受け給う

罪なくて
死刑宣告
イエズスは
み旨受け入れ
何も言われず

第二留 イエズス、十字架を担い給う

十字架は
あまりの重さ
罪ゆえに
人祖の罪と
今の世の罪

第三留 イエズス、初めて倒れ給う

よろめいて
十字架背負い
倒れるも
ここでは死ねぬ
起き上がらねば

第四留 イエズス、聖母に会い給う

自らの
みにくき姿
さらすのは
辛きことなり
母泣き給う

第五留 イエズス、シレネのシモンの助力を受け給う

イエズスの
十字架担う
恵み受け
シモンの一家
信者になりぬ

第六留 イエズス、御顔を布に写させ給う

ヴェロニカの
愛の行為に
感謝して
尊い御顔
与え給えり

第七留 イエズス、二度倒れ給う

倒れても
起き上がられる
主の強さ
み旨成就が
使命であれば

第八留 イエズス、エルザレムの婦人を慰め給う

わが身より
婦人気づかう
主のこころ
泣くならなんじ
と子らのために

第九留 イエズス、三度倒れ給う

主でさえも
三度(みたび)倒れる
われらなら
力尽き果て
起き上がれずや


第十留 イエズス、衣をはがれ給う

生まれしと
同じ姿で
死に向かう
母の思いが
ベール届ける

第十一留 イエズス、十字架にくぎ付けにせられ給う

打ちつける
音は母を
苦しめる
わが子の姿
見るに見られず

第十二留 イエズス、十字架の上に死し給う

死のときも
使命忘れず
母と子に
言葉かけられ
死に給えり

第十三留 イエズス、十字架より下ろされ給う

ピエタかな
母の悲しみ
始まりぬ
わが子亡きあと
母ひとりにて

第十四留 イエズス、墓に葬られ給う

日没に
墓もふさがれ
終わりけり
母の悲しみ
いかばかりかぞ

【お返事】

マルコによる福音の「アレキサンデルとルフォとの父で、キレネ人のシモン」(マルコ15:21)と、
ローマ人への手紙第16章にある「主において選ばれたルフォとその母とにもよろしく、その母は私の母でもある。」という一節のルフォは、同一人物であるとも考えられています。
何故なら、聖ペトロの伴侶であったマルコは福音をローマで、ローマにいる信者たちのために書いたと思われるからです。そこでアレキサンデルとルフォとは、ローマの信者たちの間でよく知られていた人だったようです。

キレネのシモンは、いきなり重い十字架を担がされて、誰の十字架だったのか知っていたのでしょうか?聖金曜日の出来事を、自分の子供たちや妻に話したのでしょうか?
イエズス・キリストの御死去の直前に、御摂理によって、シモンはイエズスを出会い、十字架を受け取りました。
私たちも理由がわからない十字架を受ける時に、イエズス様のためにその十字架を受け取るという模範を示してくれていますね。諸聖人たちがまさにそうでしたね。


なぜイエズス・キリストは王なのか? 私たちは従わなければ ならないのか?|人類は茨でできた王冠を本当の王に冠らせてしまいました

2022年10月29日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年10月30日は王たるキリストの祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教「位階階級において異端的となっている教会を去らなければならないのは、カトリック信者ではなく、羊の皮をかぶった狼と偽預言者たちである」

2022年10月29日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「位階階級において異端的となっている教会を去らなければならないのは、カトリック信者ではなく、羊の皮をかぶった狼と偽預言者たちである」

2022年10月10日

Archbishop Viganò / “It is not Catholics who must leave a Church that has become heretical in her hierarchy, but the wolves in sheep’s clothing and the false prophets”

ブログ:アルド・マリア・ヴァッリ

親愛なる「Duc in altum」(沖に漕ぎ出せ)の友人の皆さん、ファビオ・バティストンの記事 「ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点」(Questions in the Margins of Archbishop Viganò's Statements)によって始まった討論に、ヴィガノ大司教自身が回答しています。

大司教が寄稿文を送ってくださいましたので、それをここで公表して、問題をはっきりさせることができればと思います。

「私たちの誰もが、『自分の母親を非難する』つもりはなく、むしろ、王の不在中に、神聖な義務と誓いを立てた荘厳な誓約を裏切って、王の花嫁に怒りを表す者たちから母を守るつもりなのです。教会はキリストの神秘体ですから神聖であり、腐敗するものは教会に属しません。…私たち自身の望みに従って教会を作ることが可能だと信じることは、幻想であり欺瞞です。カトリック信者としての私たちの義務は、城塞に留まり、敵の攻撃と城塞内に侵入した裏切り者たちの破壊的行為に対抗するために、自由に使えるすべての手段を使って、命を捧げる覚悟をすることです」。

お返事をいただける方は、こちらのメールアドレス(blogducinaltum@gmail.com)をご利用ください。

***

Spelunca latronum
盗人の巣

カルロ・マリア・ヴィガノ

10月6日、「Duc in altum」に、「ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点」と題するコメントが掲載されました。

「ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点」の著者は、「教皇に対する非常に重大な告発を口にする人々が、自分たちが悪魔的だと考える組織の内部で自分たちの信仰を告白し続けることは絶対に論理的であり、私がほとんど正常だと言ってもよいと考えていることが、受け入れられるのでしょうか?」と書いています。

ベルゴリオに対する告発は、私たちの主がそのかしらであるキリストの教会の肢体(メンバー)に対して、何ら影響を与えるものではありません。また、私は教会が「悪魔的な組織」になったと断言したことは決してありません。その組織とはむしろ、教会の最高指導者たちの裏切りによって、教会の上に重ね合わせられた教会の偽物なのです。人々をつまずかせ、これまで聞いたことのないものとみなされるべきなのは、私には然るべきものと思われる「教皇に対する非常に重大な告発」ではなく、むしろ教会で権威を行使する者が、キリストとキリストがお委ねになった群れにとっての敵であったという正体を現し、さらに、実は彼の共犯者である位階階級が、耳の聞こえないかのような沈黙を保っているという事実でしょう。

教会は、責任者に同意しない場合には捨てると決めることのできるような団体ではありません。むしろその逆が正しいのです。教会のトップである者には、キリストがご自分の代わりに教え、守るように命じられたことに、「verbo et exemplo」(言葉と模範によって)自分を合わせる義務があるのです。キリストは彼に、教会を破壊し、信者を散らすための絶対的な権力をお与えになったのではありません。
位階階級が異端となっている教会を去らなければならないのは、カトリック信者ではなく、むしろ天主の代理権を濫用し、私たちの主によって立てられた目的そのものに反する形で、その代理権を使用する権力を簒奪している、羊の皮をかぶった狼と偽預言者たちなのです。

著者はこう続けます。「教皇が枢機卿たちとともに、地上におけるキリストの代理人をこのように攻撃する者たちに対して、全く関心を示さないということが、受け入れられるのでしょうか?…しかし、怪物のように感じられるのは、何よりも、最高位から始まる位階階級の沈黙です。それはあたかも家族の中で、母親が、不道徳や不誠実や無知で非難されるのを子どもたちが毎日見ているようなものですが、同時に、この女性がそのような悪事の前に反応しないばかりか、自分に対して言われていることに全く無関心であることを、子どもたちが呆れながら観察しているようなものです」。

ベルゴリオと彼の最高法院(サンヘドリン)によって示された、拡大する背教についての十分に検討された多くの非難に対する無関心――「この点で、(使徒的勧告)「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)のさまざまな点について何人かの枢機卿が出した「ドゥビア」(dubia)に直面しながらも、教皇が耳の聞こえないかのように沈黙していることに、どうして言及せずにいられるでしょうか?」――は、これらの人々が、キリストの花嫁の名誉を守ることに関心がないことを示しています。それどころか、彼らの故意の意図は、花嫁の名誉を傷つけ、屈辱にさらし、花嫁にふさわしい王妃としての栄誉を否定した上で、花嫁を奴隷として提示することであることを裏付けています。そして、次は、カトリック・アイデンティティー会議でのマイケル・J・マットとのインタビューにおいて、私が断言したことです。

著者はさらに筆を進めます。「自分の母親が辱められ、使用人が母親の悪名と中傷をさらし、その三重冠と王衣をはぎ取り、宝石を盗んで財物を売りさばき、母親に強制して泥棒や売春婦と暮らさせ、さらには王位を取り上げ、不名誉な状態に打ち捨てるのを、無表情で見ていられる息子がいるでしょうか?」

私たちの誰もが、「自分の母親を非難する」つもりはありません。むしろ、王の不在中に、神聖な義務と誓いを立てた荘厳な誓約を裏切って、王の花嫁に怒りを表す者たちから母を守るつもりなのです。教会の役務者たちの過失の責任が教会にあると考えないように注意しましょう。教会はキリストの神秘体であり、腐敗しているものは教会に属さないのですから、教会は聖なるものです。しかし、至聖なる童貞が十字架のふもとで天主なる御子のご受難にあずかられたように、教会も――何世紀にもわたって個々のメンバーにおいて、また終末においてはその神秘体全体において――カルワリオの道に沿ってそのかしらに従い、「教会の受難」(passio Ecclesiae)を生きなければならないのです。

私たちの主が商人たちを神殿から追い出し、両替人のテーブルをひっくり返してしまわれたとき、主はこう言われました。「『私の家はすべての民の祈りの家と言われる』と書かれているではないか。あなたたちはそれを『盗人の巣』にしたのだ」(マルコ11章16節)。天主なる花婿は、花嫁を「盗人の巣」と呼ぶことで侮辱するおつもりだったのでしょうか、あるいはむしろ、悪しき商人たちのせいで花嫁がさらされた屈辱を糾弾し、終止符を打つおつもりではなかったのでしょうか?

私たちは、聖なる洗礼とそのままの信仰告白のゆえに、教会の子です。教会は唯一の救いの箱船ですから、私たちには教会に留まって戦う権利と義務があります。逆に、放り出されるべき者たち――すでに神秘体の一部ではない者たち――は、異端の教理を教えることにより、また不道徳で倒錯した行為によってつまずきを与えることにより、日々教会を傷つける者たちの方なのです。

私たち自身の望みに従って教会を作ることが可能だと信じることは、幻想であり欺瞞です。カトリック信者としての私たちの義務は、城塞に留まり、敵の攻撃と城塞内に侵入した裏切り者たちの破壊的行為に対抗するために、私たちが自由に使えるすべての手段を使って、命を捧げる覚悟をすることです。王が戻られるとき、私たちは、私たちの忠誠と、キリストの兵士として教会を敵から守るために行った戦いに基づいて裁かれるでしょう。敵どもがいて、その邪悪な働きがあることについて沈黙するならば、私たちは敵どもの共犯者になってしまうのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年10月9日
聖霊降臨後第十八主日

初出「Duc in Altum」


【参考資料】ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点

2022年10月29日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教の発言の周辺にある問題点

2022年10月10日

Questions in the Margins of Archbishop Vigano’s Statements

【解説】ある読者がヴィガノ大司教の発言を読み、カトリック教会の現体制を非難しているが、同時にカトリック教会の一員であり続けていることについて、ヴィガノ大司教に疑問を投げかけた。この読者は、カトリック教会を人間的に見すぎていて、天主の創立した、天主の教会という側面を忘れているようである。あたかも普通の会社や団体であるかのように見ている。そこから疑問が生じた。カトリック教会のかしらは、イエズス・キリストであり、教皇を始めとする聖職位階はキリストの代理にすぎない。キリストの後継者ではない。ヴィガノ大司教は、後に彼の疑問に答えて、母なる教会を非難しているのではなく、母なる教会を裏切っている人々を非難している、と言うだろう


ブログ:アルド・マリア・ヴァッリ

ファビオ・バティストン

ヴィガノ大司教が「カトリック・アイデンティティー会議」のためにマイケル・J・マットに公表したインタビュー記事を、私はブログ「Duc in altum」(沖に漕ぎ出せ)で読み終えたところです。

大司教の発言のトーンや内容について、ここでコメントするつもりはありません。大司教の断言は、第二バチカン公会議の実体と解釈の間に差異があることに関するいくつかの問題点に集中していますが、それでも大司教の発言は「教会」という大きな問題に対する私の見方といつも一致しています。

私が提案したいと思うのは、そのことではなく、ヴィガノ大司教とカトリック教会の現体制との関係を典型例とする、ペトロの舟が今日置かれている「状態」に関する、もっと全般的な考察です。ヴィガノ大司教は、カトリック教会の現体制と対立していますが、同時にその一員であり続けています。したがって、具体的な立場による利益を別にして考えれば、いくつかの問題点が心に浮かんできます。

聖にして母なる教会の高位者と、現職の教皇である(権威的、教理的、司牧的な)人物の間に、これほど大きな意見の相違があった場合、過去数世紀には何が起こったでしょうか? 一方では、母なる教会の川床の内に留まろうとする「反逆者」の意向、他方では、自らの特権を守るために組織権力が用いたであろう手段、これらのことからどのような結果が導き出されたでしょうか? 歴史はこの種の例を数多く与えてくれています(完全に教会内部に限定しており、政治の権力と教会の権力の衝突には触れません)。これらの衝突は、ほとんどの場合、破門、教会を去る人々、離教、断罪、そしてお互いが公に異端の非難を行うことになり、公然かつ深刻な矛盾を生じさせました。私が言いたいのは、こういったときにはすべて、論じる立場の善悪とは関係なく、教会は、強さ、活力、原則の擁護、そして誤謬への対応を示し、そこから常にさらに強く、さらに復元力が増してきたということです。

しかし、その代わりに、この数年間に何が起こっているのでしょうか? 「ヴィガノ事件」に限って言えば、私たちに分かるのは、一人の有力な高位聖職者が、言葉を濁すこともなく、外交的駆け引きを用いることもなく、現職の(reigning)教皇(この形容詞は、サンタマルタ館の現住人には特に歓迎されません)をサタンの使者として扱っていることです。新異教主義、背教、汎神論などは、教皇に追加された副次的な罪状です。

同じ大司教が、ベルゴリオの選出は、メーソンの世界支配勢力(例の「ディープ・ステート」)のお金の支払いを受けてなされたコンクラーベが裁可した、全く無効なものであると、自らの立場を裏付ける豊富な論拠をもって主張しています。このすべての主張は、いたるところにあるマスメディアの装置によって増幅されています。一方で、私たちは、これらの告発が重大であって繰り返されているということを完全に無視するかのような教皇の振る舞いに気づいて、呆然としています。2013年に【コンクラーベで】ブエノスアイレスの大司教に投票したすべての人々【枢機卿たち】の沈黙にも気づくなら、私たちは同じ悲しみを抱きます。

しかし、こういった態度は孤立した【大司教に限った】ものではありません。この点で、回勅【実際は使徒的書簡】「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)のさまざまな点について何人かの枢機卿が出した「ドゥビア」(dubia)に直面しながらも、教皇が耳の聞こえないかのように沈黙していることに、どうして言及せずにいられるでしょうか? 私は次のように問いかけます。これは、どのような教会なのでしょうか? 

教皇に対する非常に重大な告発を口にする人々が、自分たちが悪魔的だと考える組織の内部で自分たちの信仰を告白し続けることは絶対に論理的であり、私がほとんど正常だと言ってもよいと考えていることが、受け入れられるのでしょうか? また、教皇が枢機卿たちとともに、地上におけるキリストの代理人をこのように攻撃する者たちに対して、全く関心を示さないということが、受け入れられるのでしょうか? そして、はっきりさせておきたいのは、私がヴィガノ大司教に提案している、この教会の内部にとどまるかどうかという問題点は、私にとっても、ここ数年、自分がこのままでいるのがますます難しくなったと思っている教会の状況の中で生きることを不快に感じてきたすべての人々にとっても、非常に自分の身にかかわる問題だということです。

しかし、怪物のように感じられるのは、何よりも、最高位から始まる位階階級の沈黙です。それはあたかも家族の中で、母親が、不道徳や不誠実や無知で非難されるのを子どもたちが毎日見ているようなものですが、同時に、この女性がそのような悪事の前に反応しないばかりか、自分に対して言われていることに全く無関心であることを、子どもたちが呆れながら観察しているようなものです。子どもたちはどう感じるのでしょうか?

私は、これまで数々の問題点を問うてきたこと、またそれを自問してきたことに気づいています。その問題点とは、どう答えればいいのか私には分からないもの、また、この教会にとって、そして個人的な疑惑や優柔不断、恐れ、罪の真っただ中で、まだ教会の一部である私たちにとって、近い将来はどうなるのかについての不安感を日ごとに膨らませているものなのです。

紀元3世紀のカルタゴの司教、聖タシオ・チェチリオ・チプリアノは、教皇ステファノ二世への手紙の中で、後に教義となる有名な言葉「Extra Ecclesiam nula salus」(教会の外に救いなし)を記しています。この原則は今でも基準です。しかし私は、第三千年紀の初頭には、「どの」教会の外のことなのか、と問わないわけにはいかないのです。

初出「Duc in altum」


四季の斎日の精神:マグダレナ・マリアの回心と罪の償い、日本の先祖キリシタンたちのカトリック教会は祈りの教会・痛悔の教会だった。「ああ、イエズスよ。我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」

2022年10月27日 | お説教・霊的講話

2022年9月23日(九月の四季の金曜日)説教(大阪)
トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン 

愛する兄弟の皆様、今日は九月の四季の金曜日です。福音では、何度読んでも非常に感動的なマグダレナ・マリアの回心、罪の償いの場面が出てきます。

彼女は 世間体を一切考えませんでした。人が何を考えようとなんと噂されようと自分はイエズス様のもとに行く、自分は罪を償わなければならない、イエズス様の愛のことでいっぱいでした。そしてそれを実践しました。

イエズス様の足元の後ろに来て、跪いて、涙を流して、痛悔の涙を流して、今までの罪を悔い改めました。何度主を悲しませたことか、それを悲しみました。自分の髪でそれを拭いました。主の御足に接吻を何度もしました。非常に高価な香油で主の御足に塗りました。おそらく彼女の最も大切な宝物で高価な非常に到底普通の人では手が出ないようなものすごいものだったに違いありません。 

教会はこの回心の姿を私たちに見せ、私たちも同じようにするようにと、招いています。イエズス様の下で痛悔の涙を流すように、罪を悔い改めるように、そして罪の償いをするように、そしてイエズス様に接吻を差し上げるようにと。

私たちは幸いなことにミサを捧げることができています。歌ミサを捧げることができています。私たちの持っている最も貴重な愛と時間と考えをすべて、イエズス様にお捧げいたしましょう。他の人が何と言うか、それは関係ありません。イエズス様のことだけを、主をお愛いしすることだけを、考えましょう。

過去のキリシタンたちは250年の間、迫害の間、ずっとそうでした。聖フランシスコ・ザビエルから受け継いできたその信仰、イエズス・キリストへの愛、マリア様への愛、これを考えてきました。ですから250年間、迫害にもかかわらず信仰を保つことができたのは、コンチリサンの祈りのおかげだと言われています。つまり痛悔の祈りを良くしたからです。

特に踏み絵を踏まされたとか、あるいはどうしても強制的に村の人が亡くなった時には仏教のお寺に行かなければならなかったとか、という時には、その後に気が済むまで何度も何度も痛悔の祈りを唱えていました。涙ながらに自分の裏切ってしまった罪を悔やんで祈り明かし、祈り通しました。だから信仰が伝わってきた、信仰を守ることができたと、いわれています。日本の私たちの先祖のカトリック教会、キリシタンたちは、祈りの教会であり、痛悔の教会でした。まさに教会が今日私たちに求めていること、つまり祈りと痛悔を、私たちの先祖はそのまま実践したのです。

マリア様も言います。ファチマでおっしゃいました。「ああ、イエズスよ。我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」

キリシタンたちもいつも、七代に渡ってコンフェッソーレつまり告解を聴く司祭がやってくるのを、ずっと待ちに待っていました。「我らの罪を赦したまえ。地獄の火より守りたまえ。」まさに同じ信仰でした。

今日は是非このよい四季の金曜日を過ごすことができますように、このミサを、愛をこめて、マグダレナ・マリアに倣って、お捧げいたしましょう。御聖体を拝領いたしましょう。マリア様に御助けを請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン


実のならないイチジクの木である私たちのために:18年間背中が曲がって地面しか見ることができない年寄りの婦人のような私たちのために

2022年10月27日 | お説教・霊的講話

2022年9月24日(九月の四季の土曜日)お説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

今日の福音では、二つの話があります。

一つはイエズス様の例えです。ある時、農夫が無花果(イチジク)の木を植えて、その木の実が実ったかを見に来ると、実が成っていない。「なんだ」。雇人を呼んで、「こんな木は切ってしまえ」と言います。

するとその雇い人は、「ご主人様、待ってください。私が周りに土を掘って肥料(こやし)をおいて水をかけて大切に育てますから、もう少し待ってください。今年一年待って下さい。もしもそれでも実がならないなら、引き抜いて焼いてください」と言います。

これは私たちの主イエズス・キリストが、実のならない木である私たちのために、天主御父に取り次いでくださっていることを表しています。

天主御父は、私たちに愛とお恵みをすべて与えて、私たちに聖霊の実を実らせるようにと期待していますが、しかし、私たちはなかなか実をつけません。

この私たちのために主イエズス・キリストは、一生懸命愛を注いで、実をならせよう、ならせよう、としてくださっています。私たちが地獄の火に、切り取られて焼かれないように、してくださっています。

もうひとつの出来事は、奇跡です。18年間背中が曲がって地面しか見ることができない年寄りの婦人がいました。天を見上げることができずに いつも下ばかり向いていました。それを見た主は、安息日にこの婦人を治しました。手を置いて、瞬間的に治されます。この婦人も私たちの霊魂の象(かたど)りです。

私たちも、天に目を挙げることをせずに、長々と地上の事ばかり心配しています。他の人が何と言うかと、他の人が何と考えるかと考えたり、あるいはこの地上の富をどうやって貯めるかあるいは楽しむか、そのことばかり考えていたのです。

その私たちをイエズスは、安息日に、主の日に、癒されました。心を天に上げることができるようにイエズス様が私たちにしてくださる、ということです。私たちがたくさん実を結ぶことができるようにしてくださるということです。

今日は、お腹をすかしていますが、しかし胸は祈りと感謝と痛悔の心でいっぱいで、イエズス様の身元に参りましょう。

私たちが実りをたくさんつけることができますように、主に捧げる良い果実を実らせることができますように、そして私たちが天に心をあげることができますように、お祈りいたしましょう。

マリア様の御取り次ぎをお祈りいたしましょう。


主を全てに超えて愛すとは、そして主のために隣人を愛するとは、どういうことなのか?「天主のために天主を愛する」とは?

2022年10月27日 | お説教・霊的講話

2022年8月28日聖霊降臨後第12主日名古屋での説教
トマス小野田神父

聖伝のミサにようこそ。
今日は2022年8月28日、聖霊降臨後第12主日です。

名古屋では最終の主日の5時半からここで聖伝のミサが捧げられています。
12月の場合は最終の主日がクリスマスにあたってしまうので、クリスマスの一週間前の12月18日に繰り上げてミサを行います。どうかご了承ください。

父と子と聖霊の御名によって、アーメン

今日は典礼でイエズス様は質問を受けました。「永遠のいのちを受けるためにはどうしたらよいのか」と。するとイエズス様は彼に聞きます。「律法にはなんと書いてあるのか」と。すると彼は正しく答えます。「すべてに超えて心を尽くして霊魂を尽くして力を尽くして汝の天主を愛せよ、そして自分のごとく隣人を愛せよ、と書いています」。「正しく答えた、そのようにせよ、そうすればお前は生きる、永遠の命を得る」と。

ではこの愛の掟、最も大切な愛の掟というのは、どういうことなんでしょうか。主を全てに超えて愛す、そして主のために隣人を愛するというのはどういうことなんでしょうか。
是非今日はこの事を黙想いたしましょう。

実は、愛するということは、特に現代の日本では、あるいは世界では、その価値がますます見失われてしまっています。なぜかと言うと、テレビやマスコミであるのは、あの人が好きだ、この人が好きだ、という男女の愛とか、ペットが好きだとか、なかにはサラ金の宣伝もあります。

しかし天主を愛するというのはこれらとは全く別のことです。是非そのことを深く理解なさってください。

何故、私達は天主を愛するのでしょうか?なぜかというと、天主というのは私たちを無から創造して下さった大恩人であって、そして私達が究極にたどり着かなければならない目的だからです。

ですから私たちはその目的をどうしても選び、欲しなければなりません。この私たちは生まれつき幸せでありたいと願うようにできていて、そのように生まれてきました。この生まれつきの願いは誰にもあって、これを消すことはできません。幸せでありたいと思うのだけれど、しかしやり方を間違って、ある人はふさわしくないことが幸せだと思うので不幸になってしまいます。しかし本当の幸せを私たちに与えるものを私たちは求めなければなりません。

ところで、たとえですけど、もしも私たちが健康を求める、健康でありたい、といった時には、その健康でありたいという望みは100%です。いつでもそうしたいと思います。だからといって、健康のためには風邪薬がいいからこの風邪薬を毎日100錠飲んでもいいかというわけではありません。限度があります。目的には限度がありませんけれども、しかし手段には限度があります。

天主に対する愛は目的に対する愛なので、限度はありえないのです。天主を愛すれば愛するほど私たちはますますその目的に適う者となります。その愛は良いものになります。ですから私たちは天主を天主のために愛するのです。隣人も天主のために愛するのです。

では天主のために天主を愛するというとき、「のために」とはどういうことなのでしょうか。聖トマス・アクィナスはこんな三つの表現を例を出しています。

(1)【目的「のために」】
たとえば「健康"のために"私は散歩を愛する」と言うとき、これは「健康 "という目的" のために散歩を愛する」という意味です。散歩をするとのは良いことですけれどもこれは手段です。やりすぎだと病気になってしまうかもしれません。
しかし、「天主"のために"天主を愛する」と言う時は、ほかの目的のためでもなく、天主を目的として天主を愛する、という意味です。

(2)【持っている善「のために」】
たとえば「彼の親切"のために"、私はあの人を愛する」といった時、「彼は親切"だから"私はあの人を愛する」という意味です。親切という特別な何かよいものがあるから愛する、ということです。
「のために」のこの意味において「天主のために天主を愛する」と言った時、天主は善そのものであり、究極の最高の善なので、天主を愛するのです。

(3)【善が由来する根源「のために」】
聖トマス・アクィナスはまたこんなことも言います。「親友の子どもである"ために"、彼を愛する」といったとき、それは「彼は親友の子どもだから、彼を愛する」という意味です。そういう時、愛する理由はどこか別のところから由来しています。
この意味で「天主のために天主を愛する」という場合、天主が天主であるがゆえに愛する、ということです。天主は、すべての善がそこに由来する根源なので、天主を愛するということです。
天主は、愛される善となるために何かの特別な理由など必要とせず、それどころかその他のすべての善は天主御自身から由来するから、天主のために愛するのです。

聖ベルナルドはこう言っています。天主を愛する原因というのはその理由は天主である。天主だからこそ私は天主を愛する。天主を愛する限度は限度なしに愛することである、と。すべてを尽くして際限がなく天主を愛する。これが私たちの天主に対するまことの創造主に対する愛なのです。

では隣人に対する愛というのは何なんでしょうか。隣人に対する愛というのは 天主の愛に基づいていなければならない、天主を愛するがために隣人を愛して初めて本当の隣人愛になるのです。

なぜ天主に基づいて天主のために 隣人を愛するのでしょうか。なぜかというと 隣人は同じ天主の似姿にかたどって創造されているからです。私たちと共に天国で天国の栄光を一緒に味わうことができる存在だからです。私たちに近い存在だからです。ですから私たちの隣人が天主から愛されるように、隣人が天主を愛することができるようにする、これこそが本当の隣人愛なのです。

私のある友人は外交官でした。今はもう外交官のお仕事を退職されたのですけれども、その方は自分にいろいろな知人やいろいろな繋がりがあるけれども、もしもそのような友情関係が本当の友情であるために、彼らにイエズスキリストを知らせて、彼らがイエズスキリストを愛することができるようにしたい、と言っていました。彼は、そうでなければ本当の友情ではない、本当の隣人愛ではない、と私に言ってくれました。そうやって、自分の地位や影響力を効かせて、カトリックの教えをなるべく伝えようとなさっている方がいます。まさに本当の隣人愛です。何故なら、隣人愛とは、隣人が天主を知って天主を愛することができるようにすることだからです。

ではその隣人をどのように愛するかというそのやり方というのはどうなのでしょうか。それは自分を愛する如く愛するということです。

永井博士が原爆を受けた時、小さな小屋を建てた時そこにずっといた時に、そこに如己堂と名前を付けました。それは自分と同じように、自分の如く、われの如く、という意味です。永井博士は、隣人をわが如くに愛したいと、一生懸命、執筆活動やいろいろな活動をやっておられました。

私たちは隣人を究極の目的であるかのように愛するとしたら、それは間違っています。妻が夫を夫だけが究極の目的であるように、あるいは子供を究極の目的であるかのように愛する、これも間違っています。あるいは自分を究極の目的であるかのように愛したとしたら、これも間違っています。

隣人を天主のために、天主を愛するがために、自分の如く自分のように愛する、これが本当の隣人愛です。

これはどういうことかと言うと、究極的には私が天主を愛するように 隣人たちも天主を愛することができるように助けるということです。自分"のように"愛するというのは 自分と"まったく等しく"愛するということではありません。もちろんそうではありません。同じ"ように"であって、"等しく"ではありません。何故なら愛には秩序があるからです。

自分の近しい人にはまず最初に、そしてその近くに従って愛を与えなければなりません。ですから愛徳の掟というのは、天主の永遠の至福を一緒に持つ、天主にそして隣人に対してだけあるものなのです。そして天主を愛するがためにこれを行うものなのです。ですから理性のない被造物やペットやその他のものにはこのような超自然の愛徳というのはありえないんです。

キリスト教が教える愛の掟は、このすべてを天主への愛に基づいて行うということです。これをする時に、私たちは永遠の命を受けるようになります。

マリア様にぜひお祈りいたしましょう。私たちの愛をますます清めてくださいますように。私たちが純粋に天主を愛するがために私たちを愛しておられる天主のその愛をよく知ることができますように。そして主を愛したいということができますように。主の御心を傷つけるのを私たちがしてしまわないように、愛する御方を傷つけてしまわないようにお祈りいたしましょう。

またマリア様の御助けによって隣人も天主をますます知り愛することができるようできるだけの奉仕ができますようにお祈りいたしましょう。

父と子と聖霊との御名によって、アーメン。


『はい、私はあなたを愛しています。あなたがすべてです。あなただけを求めています。あなたを全ての霊魂に与えたい。』

2022年10月26日 | お説教・霊的講話

2022年9月3日 修道院お説教
小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆様、今日は聖ピオ十世教皇様の祝日です。聖ピオ十世会の守護の聖人、聖ピオ十世教皇様です。ですから今日聖ピオ十世教皇様がなさったことを一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音で主はペトロに尋ねます。
『ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているか?』
ペトロは答えます。
『主よ、そうです。あなたがご存知の通り私はあなたを愛しています。』
同じことを主は3回聞いて、ペトロは同じことを3回答えます。

イエズス様が教皇様とそしてまたすべての司祭、ご自分の代理者に求めることは、まさにこのことです。イエズス・キリストに対する愛です。ヨゼフ・サルト聖ピオ十世教皇は子供の時から、イエズス様に対する愛に特徴付けられていました。天主に対する湧き出る愛と、その天主による愛によって、隣人に対する愛に深く形づけられていました。特に今日は教皇様となって、いったい何をなさったかを黙想しましょう。

1903年8月4日ヨゼフ・サルトは教皇に選ばれました。教会にとっては非常に難しい時代でした。なぜかと言うと、フリーメイソンが教会を破壊しようと一生懸命になっていたからです。聖ピオ十世教皇様は、イエズス・キリストへの愛として十字架として受難のカリスとして、これを受け入れました。

最初の回勅で何をおっしゃったかと言うと、『私の願いはたった一つ、天主の利益が私の利益である。私は天主の代理者としての他の何ものをも求めない。私はイエズス・キリストがすべてであって、イエズス・キリスト以外の何ものをも求めない。すべてをキリストにおいて復興させる。復活させる。イエズス・キリストだけを求めている。もしも私に別のことを何か探るなら全く無駄だ。』
これが聖ピオ十世教皇様のプログラムでした。

イエズス・キリストを愛したがためにイエズス・キリストにすべてを捧げたためにイエズス・キリストだけを霊魂たちに与える、これしか他には破壊された今の社会を救う方法がない、ということでした。

そのために聖ピオ十世教皇様は何をなさったでしょうか。

司祭を聖なるものとすることです。司祭たちがイエズス・キリストを愛するように、イエズス・キリストの似姿になるように、第二のキリストになるように、イエズス・キリストの生き写しになるようになること、これを求めました。

特に司教達に、司祭たちの養成を注意深く見守るようにと、霊的にも学識にもそして規律にも聖徳の高い司祭を生み出すようにと、あなたたちの一番の関心はこれでなければならない、だから神学校を最も大切に考えよ、とおっしゃいました。イエズス・キリストの司祭を通して全世界をキリストにおいて復興させようと思いました。

次に、司祭を聖なるものとする他には何をしたでしょうか。イエズス・キリストの教えをそのまま伝えることです。特に公教要理を、イエズス・キリストの教えを説教させることによって、イエズス・キリストを伝えようとしました。特に司祭が公教要理を大人達にあるいは子供達に教えて、現代のいろいろな異説とか異論に反対することができるように、そういう反対意見に対応できることができるように準備させようとしました。

頭だけではありませんでした。ご聖体を大切にして、そして特にご聖体を子供達に与えることによって、イエズス・キリストを与えようとしました。イエズス・キリストを受けることによって、私たちはますます聖となることができます。ですから教皇様は御聖体の教皇様とも呼ばれています。

そればかりだけではありませんでした。司祭は何のために存在するかと言うと、ミサ聖祭を捧げるためにあります。十字架の生贄を再現させることにあります。このミサが最も美しく捧げられることができるように、司祭が聖徳で飾られるのみならず、グレゴリオ聖歌で美しいミサを捧げることができるように配慮しました。

そればかりではありません。特に聖ピオ十世教皇様の苦しみはフリーメイソンの対立でした。現代では、お金持ちたちが世界の富のもしかしたら半分をあるいはもっと多くを持っているような人たちが国家を越えて国家よりももっと上に自分達の株式会社を立てて、それを通して世界を支配しようとしているかもしれません。

その当時今から100年前は、国家があたかも最も神聖であって、国家よりも聖なるものがなく権威あるものがないかのように宣伝していました。国家は教会の上に立つものであるかのように、イエズス・キリストが建てた教会を支配することができるかのように宣伝していました。それがフリーメイソンのイデオロギーでした。教会を自分の支配下に置くためにすべてをしました。

例えばどんな事があったかというと、フランスではフランス革命直後にナポレオンとピオ七世が政教条約を結んでいました。しかしフリーメイソンのフランス共和国はこの政教条約を一方的に破棄しました。教会の立場を認めないで、教会はスポーツクラブやサッカークラブと同じ立場だ、そして教会の財産を没収する、もしも教会が当局のいう通りにしなければ追放する、と非常に厳しい脅迫と脅しをかけました。

聖ピオ十世は何を考えたかというと、イエズス・キリストでした。イエズス・キリストのすべて、そっくりそのまま全部でした。イエズス・キリストがそのまま霊魂たちに与えられる事でした。もしもイエズス・キリストの教えが歪められてしまうなら、イエズス・キリストの教えの通りを私が教えることができなくなるならば、それならば没収するが良い。好きにすれば良い。

しかし私はイエズス・キリストを自由に宣教する。イエズス・キリストの教えのままを教える、でした。そのような毅然とした態度を見てフランス政府は聖ピオ十世に何もすることができませんでした。恐れて何も、手を触れることさえもできませんでした。そのおかげで教会は自由を維持できました。

聖ピオ十世はいつもイエズス様の呼びかけにこう答えました。
『シモン・ペトロ、お前は私を愛するか』
『はい、私はあなたを愛しています。あなたがすべてです。あなただけを求めています。あなたを全ての霊魂に与えたい。全世界を、あなたを与えることによって復興させたい。健康にさせたい。永遠の命に導きたい。そのあなたを与える司祭を養成したい。』

では、聖ピオ十世教皇様にお祈りいたしましょう。私たちにもこの教皇様の愛を、イエズス・キリストに対する愛を、与えてくださることができますように。聖ピオ十世教皇様のお考えに従って私たちの修道会がイエズス・キリストを愛し、霊魂を愛することができますように。イエズス・キリストを、そのまま伝えることができますように。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。聖なる司祭を私たちにたくさん与えてくださるように。多くの司祭召命を私たちに与えてくださりますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン。


2022年8月11日黙想会 第二の講話:罪ということの重大さを考える:天使たちの罪、アダムとエワの罪、それらのために受けた罰、私たちの罪にふさわしい罰

2022年10月24日 | お説教・霊的講話

2022年8月11日黙想会

ドモルネ神父による第二の講話

罪について黙想いたしましょう。

罪とは、天主のみ旨に背くことです。私たちは天主とその無限の御稜威を直接見ることは出来ませんから、罪がどれほど天主のお怒りを招くものなのか、常に気がつくというわけではありません。私たちはとても自己中心的ですから、罪がどれほど天主に対して恩知らずなものなのか、常に気がつくというわけではありません。

私たちは非常に多くの罪を犯しますから、その罪に慣れてしまい、ほとんど注意を払わないという傾向があります。その結果、私たちの痛悔はしばしば表面的なものに留まります。もう二度と罪を犯さないという私たちの決心は、弱いものです。真剣に自分を改めようとするところまではいかないのです。

このお話の目的は、罪とは何かというということを深く考えることによって罪の重さをもっとよく理解して、自分の罪を心から痛悔して、これ以上罪を犯さないようにと、堅くそしてより堅く効果的な決心を立てることにあります。

【天使の罪】

聖イグナチオは、天使の罪について考えてみることを提案しています。天主はまず天使を創造されました。

天主は天使をご自分の象り・似姿として創造されて、そして天使に知るための知性と愛するための意志をお与えになりました。知性によって、天主を知る能力を受けました。意志によって、天主を愛する能力を受けました。知性と意志とともに自由・意志つまり天主を愛するか愛さないかを選択する能力をも受けました。天主を愛することを選べば天使は報いを得ることができますけれども、天主を愛することを拒めば天使は罰を受けることになります。

天主は、永遠の幸福を与えようとお招きになるために天使を創造されました。この招きをなさる必要はありませんでした。なぜ必要ないかというと、天主には天使を完全に幸福な状態にする必要はないからです。天使に対する善意から、そうすることをお望まれになりました。天使は自分の力では天主のいのちと幸福にあずかることはできません。天使のいのちと幸福はその能力を超えているからです。そこで天主は天使に能力をお与えになりました。その能力は「成聖の恩寵」と呼ばれています。

この成聖の恩寵によって天主は天使に友情という愛と永遠の幸福の約束をお与えになりました。ですから、天主は存在・自然の善・超自然の善というすべてをお与えになりました。全く自由に、ただで、無償で。

ではそのお返しに何をお求めになったのでしょうか。感謝と愛をお求めになりました。天主へのまことの愛というのは、掟に従うことによって示されます。天国の永遠の幸せを与える前にその愛をテストしようとされました。

そこで天主は将来なさるおつもりのことを、天使たちには理解できない神秘を、明らかにされました。そしてこの神秘を信じて、主のみ旨に従うことに同意することで、信仰と謙遜の行ないをするようにお求めになりました。多くの天使たちは天主のみ旨に従うという謙遜の行ないをすることを拒みました。なぜ拒んだのか。傲慢のためにです。天使たちは自分たちが受けた賜物により非常に傲慢になっていて、それで天主から自分に天主御自身のようにすべてを理解することを与えてもらいたいと思っていました。自分の与えられた自由を濫用して、主のみ旨に服従するのを拒みました。天主が与えられた神秘を信じることを、服従することを、拒みました。この天使たちの忘恩について私たちは考えるべきです。

罰はたちまちに下されました。天主の正義によって、反乱のそのまさにその瞬間に、天主は打ちました。恩知らずは非常に悪質で、傲慢は非常に愚かだったので、罰はすぐでした。その瞬間に天主は地獄を創造しました。大天使聖ミカエルによって反乱の天使たちはその中に投げ込まれられました。天主が天使たちに与えたその愛またすべての賜物、自然のお恵み、超自然のお恵みがあっても、でも天主の完全な正義のために、天使たちを罰することを止めるものは何もありませんでした。天使たちは今でも永遠の地獄にいます。耐えがたい苦痛を受けて、怒りと絶望に満ちています。

この天使たちはたった一つの大罪だけを犯しただけです。そして、その犯した瞬間に、直後に罰せられました、永遠に。

天使たちの受けた罰は私達への教訓です。人間よりも天使たちの方がずっと完全で美しいものです。そのような素晴らしい天使たちを容赦されなかったのならば、人間はどれほど容赦されないことでしょうか。天使たちは人間よりも力があります。天使たちがそれでも地獄の苦しみに耐えることができないのならば人間はどれほど耐えることができないでしょうか。天主の正義がどれほど恐ろしいかを黙想しなければなりません。天主の正義を恐れなければなりません。

それでは、私たちの状況と天使たちの状況を比較してみましょう。私たちが存在するその最初から天主がどれほど私たちにとって善い御方であったかを思いだしてください。私たちのいのちや、持っているものや、私たちを取り巻くところにあるものは、すべて天主に由来しているものです。天主は私達を永遠の幸福へと招いておられて、そしてそれに到達するための手段もくださっています。聖寵、聖徳、ミサ、秘跡、イエズス様、マリア様、すべてをお与えになっています。天主はすべてをお与えになられているのに、一方で私たちはどれほど恩知らずでいることでしょうか。ちょうど反乱した天使たちのように天主のみ旨にしたがうことを拒んできました。わたしたちも罪のために天主の罰を受けるのにふさわしいものとなりました。天使たちよりももっと厳しい罰を受けるべきものです。天使たちはたった一回しか罪を犯しませんでしたが、私達は何度も罪を犯したからです。

天使は傲慢の罪をたった一回犯しただけです。しかし私たちは多くの傲慢や貪欲や不潔や嫉妬、憤怒、貪食、怠惰など多くの罪を犯してきました。イエズス・キリストは天使たちを救おうとするためには亡くなろうとしませんでした。しかし人間を救うためには、命を落とされました。天主が私たちのためにすべてをしてくださったにもかかわらず、私達は平気で罪を犯し続けて主の憐れみを軽蔑しています。悪魔たちの堕天使たちの反乱を私たちは真似したのですから、彼らよりももっと私たちは地獄に落とされて当然のものです。すぐにわたしたちは、自分の罪のためにいまは当然地獄にいるはずべき身のものであることを理解できます。しかし、いままでのところ、主が私達を地獄の火に罰せておられてないということを驚かなければなりません。

ですから、心のなかで例えばこのようなお祈りをしてみるのはどうでしょうか。黙想のあいだに、例えばこうです。『わが天主よ、どうしてまだ私を地獄で罰せられないのですか。これほど恩知らずで悪人の私を。私にはこの罰がふさわしい者です。わが天主よ、私は御身の正義をあがめます。御身は天使を裁かれたように私をも裁かれます。自分の罪を思い出して私は恐ろしくなります。力ある天使をこのような恐ろしい方法で罰せられたのならば全く力のない私などいったいどれほど罰せられるのでしょうか。わが全能の創造主よ、御身は今まで私に御身が憐れみ深い御方であられることを示してこられました。私を憐れんでください。私の罪を赦してください。私に相応しい地獄から私を救い出してください。』

【アダムの罪】

では二番目の罪であるアダムの罪について考えてみましょう。

私たちの人祖であるアダムとエヴァに対してどれほど天主がよい御方であったかを思いだしましょう。天主は二人を全くの善意から創造されました。天主は御自分で全く完全で幸福な御方です。ご自分が幸せになるために天使も人間も作る必要はありませんでした。しかし天主は、二人をご自分の象り・似姿にお造りになりました。人間にも、天主を知る知性や天主を愛する意志と愛することを選ぶ自由をお与えになりました。天主は、二人を楽園と呼ばれる素晴らしい庭に置きました。天主は、アダムとエヴァに賜物をふりそそぎ、二人に情欲もなく苦しみもなく死もなく、楽園で静かに幸せな生活を送るようにさせました。更には天主は、二人にいつか天国で天主の永遠の幸福にあずかれるようにということも招かれました。天使たちと同じように、二人に成聖の恩寵というかけがえのない賜物をも与えました。この賜物はアダムとエヴァにだけでなくて全ての子供たち・子孫にも与えられました。アダムとエヴァ、そしてその子孫たちに対してどれほど寛大で良さに満ちて行ったかをご覧ください。それ以上のことをどのように想像することができるでしょうか。そのお返しに天主は何を求めたでしょうか。愛です。天主のみ旨に従うことによってあらわされるまことの愛です。

そこで、アダムとエヴァに自分たちの愛がまことであるということを証明する機会をお与えになりました。非常に簡単な掟を与えました。ある木の実を食べないように、という掟を与えたのです。この掟を守ることはとても簡単なことでした。楽園にはそのほかにたくさんの美味しい実をつける樹があったのです。アダムとエヴァは何の不足も全くありませんでした。天主は彼らに何でも与えたからです。それにも関わらず、アダムとエヴァは背きました。みなさんご存じです。悪魔は、好奇心と傲慢でエヴァを誘惑し、エヴァは禁断の実を食べました。アダムは天主のみ旨よりも妻の意思に従うことを好みました。アダムも禁断の実を食べました。こうやってアダムは自分になされたすべてのことを軽んじました。この実を食べたらお前は死ぬ、という天主の厳しい警告をも軽蔑しました。天主が自分にして下さった全てのことで傲慢になっていたのです。天主からこれほど愛されているのだからおそらくまさかこのような罰をすることがないだろう、と思っていたのかもしれません。しかし恐ろしいやり方でアダムとエヴァに罰が下りました。

アダムとエヴァは楽園から追放されました。苦しみ、働き、死ぬことを宣告されました。更に悪いことには、二人は天主との友情を失いました。成聖の恩寵を失い、天国に行く可能性も失いました。それは、自分自身のみならず、そのすべての子孫たち、すべての人類に及びました。アダムの罪は、他の全ての人々の罪の発生源のようなものになりました。アダムはたった一つの大罪を犯しました。このたった一つの大罪のために、自分と全人類にどれほどの悪をもたらしかを考えてください。たった一度の大罪で、成聖の恩寵と天国へ行く可能性を全て全人類のために奪ったのです。なんと恐ろしい罰でしょうか。

しかし天主は正義のお方ですから、正義以上のことは罰することはできません。また天主は正義よりも憐れみをもって罰する方であられることを私たちは知っています。もしも天主がアダムをこのように罰したのならば、この罪がどれほど恐ろしいことかということがわかります。大罪がこの世で起こる最悪のものであるということを理解しなければなりません。大罪によって私たちは成聖の恩寵、天主との友情を失ってしまいます。永遠のいのち、永遠の幸せを失ってしまいます。大罪一つで、私達はすべての聖徳と功徳をも失ってしまいます。大罪は、私達に永遠の地獄を宣告します。大罪のせいで、この世で苦しむことにならねばなりません。真理において大罪はこの世で最も悪であるといわなければなりません。

ですから猛毒の蛇から逃れるように私たちは罪から逃れなければなりません。聖霊が聖書の中で語っている言葉に耳をかたむけてください。

集会の書からの引用を申します。
「子よあなたは罪を犯したのか。
もう二度とするな。
以前犯した過ちの免赦を願え。
蛇を避けるように罪を避けよ。
それに近寄るとあなたはまた噛まれる。
その歯は致死の歯で人の命を奪う。
法の違反は諸刃の剣でその傷は治らない。」
引用を終わります。

では、アダムと私達を比較してみましょう。アダムのように私たちは天主の掟に逆らいました。アダムが天主のみ旨に従うよりも妻の望みを満足させる方を好んだように、私達も天主に従うよりも自分の傲慢・肉欲・憤怒・快楽への渇き・強情さを満足させる方を好んできたのです。アダムはたった一度の罪を犯しただけですけれど、どれほど恐ろしい罰を受けたか見てください。私達は何度も罪を犯しました。

では私たちにはどのような罪がふさわしいのでしょうか。この世の全ての悪と起こりうるすべての苦しみが私たちの上に降り掛かって、それでふさわしいのです。私達は、罪においてアダムの真似をしたので、償いにおいてもアダムの真似をしなければなりません。アダムは自分の罪を嘆いて残りの人生を生涯にわたって厳しい償いの生活をしました。生涯に渡っての償いの生活というのは930年生きた償いの生活でした。930年のあいだ自分の罪を嘆き続けました。長いですね。私達も生涯のあいだずっと罪を嘆き続けなければなりません。謙遜に忍耐強く寛大に一生のあいだ罪の償いをしましょう。

【たった一回の大罪】

では今たった一回の大罪を犯しただけで地獄に行くことを考えてみましょう。

想像で地獄に行ったと考えてみましょう。地獄には恐ろしい苦しみの中にいる人達がたくさんいます。その中にはたった一回の大罪を犯しただけでそのために地獄にいる人もいます。ある人々は不潔の罪のため、他の人は隣人に対する憎しみの罪のため、その他の人は盗みの罪のため不正義の罪のため、ある人は冒瀆の罪のため、などなど。そしてこのようなたった一つの大罪を犯しただけの人であっても、なかには、よいキリスト教信者の方もいます。ある時はよいキリスト教信者であったということもあります。洗礼を受けて、堅振も受けて、御聖体拝領もして、告解もしたという人です。しかし、冷淡になって大罪を犯してそしてその状態で死んでしまった、その罪を犯している最中に亡くなった、あるいはその直後に亡くなったので、償いをする時間あるいは痛悔をする時間がなかったのです。

では、このような人々と私達を比較してみましょう。このような人々に起こったことは私達にも起こりうることだったのではないでしょうか。私たちは今までどれほど多くの大罪を犯して来たでしょうか。何度地獄に落ちるにふさわしいものだったでしょうか。そして天主がそのような罪を犯した直後に私たちのいのちを取って私達に地獄の罰をうけさせるということが何度起こりうることだったのでしょうか。天主はこの人たちをたった一回の大罪のために永遠の地獄で罰せられるのになんで私はそうでないのでしょうか。わたしは彼らより良かったのでしょうか。いいえ。それではなぜ天主は私にそのような憐れみを見せてくださったのでしょうか。これは天主の秘密です。今までこのように地獄から救って守ってくださっていた天主には将来もそうしなければならないという義務はまったくないということです。もしも将来、たった一回でも大罪を犯した直後に命を落としてしまえば、私達もほかのあの人たちのように地獄に行かなければならなくなります。

つぎの最後のポイントで、これで終わります。

いわばもしも私たちが大罪を犯したその直後に死ななかったというのは、ある意味で私達が実は地獄に落ちていたのだけれどもそこから天主が引き出してくださって、そこから償いをするチャンスを第二のチャンスを与えてくださったことだ、と例えることができます。

もしもこの地獄に落ちた方々の中から天主が特別にひとりを選んでこの地上にもどして、そして、償いと天国に行くための悔い改めのチャンスを与えたのだとしたら、一度限りの最後のチャンスを与えたのだとしたら、どうでしょうか。このような人が今後どのような生活をするか想像してみてください。

天主の赦しを得るために、祈り、償い、行いを全て捧げるということを想像できます。どれほど注意深くたった一つでも罪を犯さないようにとどれほどするかということを想像できます。そして罪を犯すよりもどのような苦しみでも喜んで苦しむというようなことも理解できます。このような態度こそが私達が取らなければならない態度です。

私たちは今地獄にいるかもしれないようなものですが、しかし天主の憐れみによってそれがそうではないのです。天主はもう一度チャンスを与えてくださったために地獄にはいないのです。愚か者でないように、そして聖寵を無駄にしないようにしましょう。たった一つの大罪を犯すよりもむしろ死を覚悟するように準備しましょう。

天使の罪、アダムの罪、それに対する罰、そして私たちの罪にふさわしい罰についてもう一度黙想しましょう。

今からチャペルに行きます。私たちの心の中に罪への深い憎しみ、二度と罪を犯さないという固い決心をたててください。それから最後にどのようにして具体的に罪を避けるかという遷善の決心をたてることを忘れないようにしてください。この決心を童貞聖マリア様にお願いして、聖母の導きのもとに自らを置くようにいたしましょう。お御堂に行きます。


2022年8月11日黙想会 第一の講話:私たちの土台「岩の上に家を建てた賢い人」

2022年10月24日 | お説教・霊的講話

2022年8月11日黙想会
小野田神父による第一の講話

この聖なる黙想会を、聖霊に対してお祈りをする事によって始めることにいたします。私たちが七つの賜物で満たしていただけますようにこの一日がよい実りの多い日でありますようにお祈りいたしましょう。

特に聖霊の特別の道具であるマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様のその現存によって私たちが聖霊の賜物と特別の導きをいただくことができますようにお祈りいたしましょう。Veni Creator Spiritusを歌いましょう。

今日黙想会が開かれて、天主様のみ旨に御摂理に感謝いたします。
今日イエズス様は私たちに特別なお恵みを与えようと準備されています。
今日は、二つの講話が準備されています。短い講話がありますので、その後で一階の御聖体の前に行かれて、この講話の内容を黙想なさってください。
黙想会というのは、いろいろな講話を聴いて「あぁ、そうかぁ」と思うだけではありません。講話を聴くということが黙想会で一番大切なものではありません。これを黙想することが大切です。

またこの黙想会でお話を聴いても、「あぁ確かにそうだ」と思われても、その後でお忘れになってしまったのでは何も残りませんので、もしもそれが「あっこれはよいものだ」と思われたらそのことを黙想なさってください。黙想すればするほど私たちの心に沁み通るからです。

黙想会のための準備のアドバイスがあります。まず簡単なアドバイスとしては、償いの精神を持ってください、ということです。というのはもしかしたらお部屋が暑いとかあんまり快適でないとか椅子がないとか不都合があるかもしれませんけれど、それは主から与えられたものとして償いの精神で捧げてください。

黙想会のためにいちばん大切なことがあります。これは黙想会の本質をなすものでそれは「天主の聖なる現存の前で私たちはこの黙想会を捧げる」ということです。

もう一つはこの黙想会がよい黙想会であることができるように助けることで、それは私たちが「寛大である」ということです。

第三は私たちがこの黙想会をよいものとするために絶対に必要な条件で、「沈黙」です。この三つについて少し詳しく説明させてください。

【天主の現存に身を置く】

いったいなぜ今日ははるばる曙町会館にやってきたのでしょうか。これは天主の御前に、天主の現存に、身を置くためです。

「天主と共にいる」ということは私たちの霊魂にとっては特別の利益があるからです。今日の黙想会は英語ではrecollection dayといいます。Recollectionというのは日本語ではときどき沈静(ちんせい)とか訳されています。月に一回修道者たちがこの日を設けて主の御前に身を置くという意味ですが、沈黙のうちにこころを統一させる、主に一致させる、という意味です。これはラテン語の「recolligere」という動詞から来ています。

この黙想会の指導者はドモルネ神父様でも私でもなくて、聖霊が指導してくださいます。そして聖霊は、マリア様を通して私たちを導いてくださいます。ですから私たちは“Veni Creator Spiritus”、“聖霊来り給え”、と創造主なる聖霊に“来たり給え”とお祈りしました。「天主と共にいる」「天主の現存のうちに生きる」ということです。特に今日はご聖体が顕示されているので、主の御前に身を置くのは簡単になると期待しています。

天主の現存に身を置くということはどういうことかというと、もしも天主様がいらっしゃったならと考えて、ほんとにイエズス様の御前であったら私はそういうことを決してしないであろうということをしない、もしもイエズス様がほんとにいらしたならば私はそうするだろうということを私たちの目にイエズス様が見えなくてもそうする、ということです。たとえば今いったい誰とお話しているのかとか誰と一緒にいるのかということを考えて、実は私たちは天主様の御稜威の御前にいるのですから、礼拝の心と尊敬の念をもってこの黙想の日を送ることに致しましょう。

天主というのはいったいどのような御方でしょうか。たった一つの御言葉(みことば)で、お考えで、全宇宙を無から創造された御方です。何千もの美しい莫大な銀河・果てしもない大宇宙・私たちが今生きているこの地上の何千何億という人々、そのような人々を、御言葉一つで「あれかし」と創造されました。天使たちもみ旨のままに創造されました。そのような全能の全知の永遠の天主の計りしれない美しい全宇宙を創られた天主が私たちの御前におられて、私たちの父として、友として、私たちのすぐそばにおられるということです。なんという美しいことでしょうか。そのような天主の御前に出て、聖なる畏敬・尊敬に満ちた畏れに満たされて、天使たちも震えて畏れおののくその主の御前に出て、礼拝することができるという特権を感謝いたしましょう。その主の御前に呼ばれたということについて感謝し信頼をもって愛情をこめて近づきましょう。そして話しかけましょう。

【寛大である】

第二の黙想会の成功の秘訣は私たちが「寛大である」ということです。「寛大である」ということは、主の御前に全てを捧げるということです。つまり私たちは黙想会に50%でなくて100%の心をもって、全てを主のためにお捧げして、黙想会に与るということです。お祈りをする時にはお祈りをして、講話を聴く時は講話を聴いて、そしてロザリオをする時にはロザリオをして、携帯電話は今日は黙想会が終わるまで見ないとか、「あれーメッセージが、、、」などということは気にしない、ということです。悪魔は、私たちの黙想会が上手くできないように妨害を掛けてくるかもしれません。あたかも黙想会以外のことが大事であるかのようなことを、誘惑するかもしれません。その時には私たちは悪魔に「退け!」と言って、イエズス様のために時間を使いましょう。私たちがいましていることを100%することに致しましょう。

【沈黙】

第三の条件は沈黙です。天主は沈黙の天主であって、叫んだり騒いだりせずに沈黙のうちに私たちのうちに働きかけて、そして囁いてくださいます。全て天主は沈黙のうちに事(こと)を行いました。無から全宇宙を創造されたときも、沈黙のうちに創られました。イエズス様が人となられたときも、マリア様のご胎内に沈黙のうちに人となられました。真夜中にイエズス様がお生まれになられた時も、ベトレヘムでは沈黙のうちにお生まれになられました。静けき真夜中に…。三十年間の私生活もほぼ沈黙のうちに行われました。三年間の公生活も、沈黙の祈りにおいて満たされていました。復活も、沈黙のうちに行われました。

この世の終わりまでイエズス様は、御聖櫃において沈黙においてまことにましまし給いながら私達に語りかけます。沈黙を愛しつつ働きかけます。ですからこの世の騒ぎや喧騒から離れて、心を静かに沈黙させて、天主の方に心を向けるようにする、これこそが今日の沈黙です。今までずーっと開かれていた、世界に向かって開かれていたドア……耳や目やその他の感覚を閉じて、イエズス様の方に向けるということです。主と共にいらっしゃるということを思いだしましょう。

もしかしたら携帯やメッセージのほかにもいろんな空想やいろんな心配事や仕事のことやあるいは家族のことや・・などなど・・が雑念として入ってくるかもしれません。「社会はどうなっていくのだろうか」とか・・。しかし黙想会と関係ないことは今日はお休みにして、イエズス様とマリア様と聖なる黙想に集中いたしましょう。全てイエズス様とマリア様とに信頼なさってください。心配事があってもイエズス様とマリア様がそれをちゃんと私達よりもよく面倒を見てくださいます。きっとイエズス様はこうおっしゃるに違いありません。「さあ息子よ、娘よ、この黙想の一日のあいだあなたの考えを全て・あなたを全て、私にください。あなたの家族のこと、お仕事のこと、全て私に任せなさい。私のことだけを考えてください。あなたの心配事について全て解決してあげます。」

【岩の上に家を建てた賢い人】

では今日は、この最初の講話で、深く黙想のなかに入りましょう。

今日の最初のテーマはイエズス様の山上の垂訓の終わりの「岩の上に家を建てた賢い人」という言葉です。

マテオの福音にはイエズス様が山に登って「心の貧しい人は幸せである・・・」と話された「至福八端」「山上の垂訓」というものが記録されてあり、その最後の方です。

『これらの言葉をきいてそれを実行する人は岩の上に家を建てた賢い人にたとえてよい。雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当たるがその家はたおれない。岩の上に土台をおいているからである。また、私がいまいった話を聞いて実行しない人は、砂の上に家を建てた愚かな人にたとえてよい。雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当たったので、その家はたおれて、大いに破壊されてしまった。』(マテオ7章24~27節)イエズス様のお言葉です。

イエズス様は賢い人は岩の上に土台を置いているからどんなことがあってもその家は倒れないとおっしゃいます。家を建てる時には土台をしっかりと作ります。しっかりしていればどんな高いビルでも建てることができます。スカイツリーもいま建っています。家があっても、家を建てたのちにはその基礎工事・土台っていうのはもう目に見えません。下に深く沈んでいるからです。私たちの霊的な「聖性」私たちが「聖となるということ」を霊的な建物と例えることができます。イエズス様もおっしゃっているとおりです。この霊的な建物はしっかりとした土台の上に建てられなければなりません。

【私たちの土台】

では一体どんな土台なのでしょうか。私たちの霊的な生活の基礎工事というのは何でしょうか。私たちの基礎というのは、生活を導く原理であってそれがその土台です。生活の原理というのは、それに従って行動するその基準なのです。

私達が普通一般に何を基準にしているかというと、たとえばこのようなことです。「きょうはお昼を作るから台所に行く」ということを考えてみます。すると、ちゃんと原理があります。まず台所に行く、台所というのはいったい何かということがわかっています。料理をするところです。どこから行くのかということもわかっています。私の部屋から台所に行くのです。何のためにいくのか。料理を、お昼を作るから。ではどうやって行くのか。歩いて行くのです。そういうふうに私たちも行動を起こす時に、いったい何をするのか、どこへ行くのかということがまずわかっています。第二にどこからどう行くのか。わかっています。第三には何のためにするのか。第四にはどういう手段で行くのか。たとえば結婚する。結婚とは何か。わかっています。などなど。

では私たちが人生をどのように行動づけるか、どこにどういうふうな原理をもって生きるか、ということについては、正しい原理を持たなければなりません。正しい生活規定を持たなければなりません。そのためにはいったい人生とは何なのか。いったいどこからどこに行くのか。いったい何のためなのか。いったいどんな手段で行くのか。ということをよく考えなければなりません。

いったい人生とは何なのでしょうか。何のためにあるのでしょうか。いったいどこから来て私たちはここにきてここにいるのでしょうか。どんな手段で。

カトリックの公教要理はこれを綺麗にまとめています。
『人は何のために、この世に生まれてきましたか。』
『人がこの世に生まれて来たのは、天主を知り、天主を愛し、天主に仕えて、遂に天国の幸福を得るためであります。』

これについてよく考えると、人がこの世に生まれてきたというのは天主から来たというのがわかります。そしてこの人生の目的は天国の幸福を得るためであるということがわかります。その手段は、天主を知って、天主を愛して、天主に仕えること、と、このように公教要理では教えています。
それとまったくおなじようなことをつい最近祝日を祝った聖イグナチオも言っています。「人間は、天主によって創造された。それは、主なる天主を讃美し敬い仕えるためである。それによって自分の霊魂を救うためである。」

私達は天主から来ました。天主によって創造されました。これが非常に大切な真理です。創造されたことを私たちはもちろん知っています。『われは、天地の創造主、全能の父なる天主を信じ…』を何度も唱えます。

でも創造された、創られたということはどういうことでしょう。これは私達が自分の力で存在し始めたのではなくて、誰かから今あらしめられている、存在させてもらっているということです。存在をもらっているということです。今私はこの各瞬間いま創造主に依存しているということです。私を創ってくださっている方に全く依存している。自分が起源ではない、根源ではない。私たちは天主のおかげで今ここにいさせてもらっている。天主があらしめてくださっているということです。

聖パウロはこういっています。「人間よ、お前が持っているもので与えられなかったものがあるであろうか。」私達がこうやってこのように考えることじたい、こうやって私たちがいま息を吸っていることさえ、私達が今この私がお話ししているのを皆さんがお聞きになっているのも、全て主がそれをあらしめてくださっているからなのです。

もしも犬がこの私の話を聞いたとしても理解できません。しかし皆さんは理解できる。皆さんにはその能力が天主から与えられているからです。皆さんの霊魂には天主から与えられた非常に高貴な能力があります。真理を理解するということ、善を愛する、永遠の天主を知り愛することができるという、普通の動植物にはできないという能力が皆さんに私にも与えられています。まさに天主はこのような私たちを創ってくださいました。そしていまあらしめてくださっています。もしも主がいま「やーめた!」といえば私たちはあっという間に無に帰してしまうこともできる弱々しい存在です。

このような真理に対する正しい態度というのはどのようなことでしょうか。真理をどのように把握したらよいでしょうか。これを素直に認めるということです。つまり天主の御前で私達はまったく無に等しい、私達は全てを天主から受けた、天主という恩を与えてくださる御方から、恩人…人と付けるということはできないから…恩をくださる御方から、与えてくださる御方から受けた。つまりちょうど私たちは、お母さんから全てを受ける赤ちゃんのようにまったく主に依存している、ということを認めるということです。私達が今ここにあること、将来、永遠の未来まで、全て主に依存しているということです。全て今まで生きている間私たちの生涯の全ては天主様のお恵みでした。

全てを主から頂いて、そしていまこうしてあることができて、そしてもしもいま私たちになにか価値があることがあるとしたらそれは全て、主から、三位一体の全能の天主から寛大に与えられたものです。これこそが私達が創造されたということです。これこそが『われは、天主の創造主、全能の父なる天主を信じ…』と言う時に私たちがいつも思わなければならないことです。この土台のうえにイエズス様は家を建てようとおっしゃっています。天主こそが私たちの人生の主人であって、私は天主に依存している、天主に属している、ということです。私が全てを支配しているのではない、ということです。

では天主に依存しているということは、どのように認めたらいいのでしょうか。それを認めることは、礼拝と言います。礼拝というのは主から全て与えられたということで、それを認めて感謝する、その事実を認めて創造主にのみ与えるべきものを与えることです。それが礼拝です。

この世の人々は、残念ながら天主というものを全く無視して行動しています。あるいはもしも天主がいると思ったとしても、遙かに彼方にいることであってまったく私には関係ないかのように行動しています。そして世の人々は天主とはまったく関係のない法律を作ろうとしています。しかし、ちょうどもしもそのような態度をとるとしたら、誰かが私に、「神父様、神父様は東京にお御堂が必要でしょう。東京の一番集まりやすいところに大きな土地を買ってください。修道院を建ててください。大きなお御堂を建ててください。ここに10億円あります。これを使ってください。」と言ったとします。それで私がそれをしゃあしゃあといただいておきながら、そのあと、「これはね、じぶんのもので、これをくれた恩人とは関係ない」という態度をとったら、「いったい、おい、いったいなんだ、小野田神父は。今度は本当はもうあと50億円やろうと思っていたけれど、これはもうあげない。」となってしまいます。

天主も私たちにお金では測りきれないものすごいお恵み、聖寵、健康の宝を、お恵みの宝を、超自然の宝をお与えくださっていることを知りながら、それなのに私たちがあたかも天主が存在していないかのように、「オレ知らないよ」というのはまさに忘恩冒瀆の限りです。

他の人たちがどのようであろうとも、私達は霊的な土台の上に真理の上に家を建てなければなりません。わたしたちは天主から毎瞬毎瞬愛されています。毎秒毎秒すべてのものを与えられています。これが、人間が「私たちが天主から創造されている」という意味です。そしてこの天主から創造されたというのは、私たちが天主を讃美して敬い仕えるためであり、そのためにそれらが与えられました。

お祈りの時間が短くなってしまうのであまりもう長く話しませんが、最後にこのことをひとつ言います。

私たちは天主から来ました、天主によってこの人生が与えられました。いったい何のために?究極の目的とはいったい何なのでしょうか?何のために私たちはこの地上にいるのでしょうか?それは私たちが永遠の幸せを得るためです。

この私たちの存在は時のある時に私たちのお母さんの胎内から始まりましたが、終わることがありません。最初の部分は非常に短くて、後の部分は永遠に続きます。終わりがありません。この最初の非常に短い部分、もしかしたら100年とか120年とか もしかしたら医学が進めば150年とかするかもしれません。しかしどんなに長くても、あっという間です。そののちには「時の世界」から「永遠の世界」へと移らなければなりません。この「永遠の世界」のためにこそ、今のこの「時の短い時間」が与えられています。この短い人生のこの短い地上での目的はたったひとつしかありません。永遠のための準備です。永遠という天主の生命(いのち)のなかに入るための巡礼です。もしもイエズス様が人間となって十字架の苦しみを受けて私たちのために全ての血潮を流されて復活されたとしたら、それはこの無限の生命(いのち)の幸せを与えるためでした。これが天国と呼ばれているものあるいは永遠の冠と呼ばれているものです。

もしもマリア様が今日皆さんの手を取って「天国の門まで連れていこう」とされたら、と想像してください。永遠の昔から準備されていた無限の幸せを皆に見せたい、垣間(かいま)見せたいと思って、「さあここにドアがあります、さあここを開けて、天主が準備されたものを見るように」とマリア様がドアを開いてくださった。すると私たちがそれを見ると、人間が考え尽くすことができる全ての幸せを全部集めてもっとも美しいものがあるとすればそれを全部集めてそして世界の富を全部集めてさらにそれよりもさらに大きな喜びと美しさと富と全て集めて、「さあこれがみんなあなたのひとりのものですよ」と言われたと考えてみてください。そして世界中の全てのよい母親や父親や皆さんが持っている愛情を子供たちに持っている愛情を全て集めて皆さんのためだけにささげて、そして世界の全ての美しい友情を集めて夫と妻の愛を集めてさらに聖人たちの全ての愛を集めて皆さんに与えて、「これはあなたのものだ、皆さんのものだ」と言われたと考えてみてください。全ての最高の瞬間の人間が体験したあらゆる最高の喜びを集めてさらにこれにボーナスをつけて与えられた、と。もしもそのようなものが与えられたとしたら、私達は「はぁー、これほどの幸せ!これほどの喜び!」とイエズス様に感謝しなければならない。跪いて、もう涙を流してボロボロ涙を流して感謝するじゃないでしょうか。

ところでマリア様は言います。「いやまだこれは天国ではありません。まだまだ入り口です。」実はそれはまだ入り口で、その奥にまだ本当の天国の入り口がある。その今まで受けたのと比べると、その第二の入り口を見ると、もうこのいままでの受けたものは全くトイレの紙きれが「あっ、フラッシュされて流れた!」というほどのなんでもないものにみえる。それを遙かに超えるものが待っている。その喜びが待っている。天使たちの全ての美しさを集めてもまだ遙かにこの地上の美しさを集めてもまだ遙かに超えたこの全くもう想像も比べられないような美しさが待っている、喜びが待っている。何十倍何百万倍もの美しさが待っている。「はぁマリア様、これほどのものが一体どうして?なぜ私が?」・・・でもマリアさまはまだ言います。「これはまだ天国ではありません。その奥にもまだ扉があるのです。」

本当の扉というのは、天主が、無限の善である天主が私達に全て与えられるということです。この最高の幸せと比べると、私たちが想像できるどのような幸せも全く大海の一滴の水にもなりません。主は「私自身がおまえの報いとなろう」と言われたのです。また、聖パウロのものには「天主を愛する者には、目も見たことがなければ耳も聴いたことがなく心でも思いついたものがないことが準備されている」と書かれてあります。天主は私たちのためにこれを準備して、私たちを無から創造されました。もしもこのとてつもないお恵みということを本当に理解したとしたら、感謝のあまり、感激のあまり、うれしさのあまり、私たちは窒息して息を絶えてそのまま命を取られてしまうかもしれません。

公教会の公教要理にはこうあります。
『人がこの世に生まれて来たのは、天主を知り、天主を愛し、天主に仕えて、遂に天国の幸福を得るためであります。』これこそが私たちの土台です。

では時間になりましたので、一階に行って黙想いたしましょう。


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年10月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖霊降臨後第二十主日でした。今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。大阪では24人でした。

元教理省長官であったミュラー枢機卿は、今なされている「シノドス性についてのシノドス」は、「イエズス・キリストの教会の敵対的乗っ取り」であると、最近厳しく警告しました。
「彼らが成功すれば、それはカトリック教会の終わりとなるでしょう。私たちは抵抗しなければなりません。…彼らは、カトリックの信仰とは全く関係のない別の教会を夢見ているのです…彼らは、カトリック教会を変化させるために、この過程を悪用しようとしているのです…彼らは、カトリック教会の破壊(への道)となるように、イエズス・キリストの啓示された現実を、自分の主観的な思想で置き換えるという意図を持っているのです。」

香港の陳枢機卿も「シノドス性についてのシノドス」に警告の声をあげています。

「シノドス性についてのシノドス」からの攻撃から教会を守るためにどうすれば良いでしょうか?

私たちは、防御を、カトリックの聖伝のミサに見出すことができます。何故なら、聖伝のミサは全時代にわたって変わらないミサだからです。完全なカトリック信仰の表明だからです。ミサ聖祭は、使徒の時代から伝えられたもので、私たちが自分勝手に変える事ができないからです。ミサを聖なるものとして守ることによって、教会をまもらなければなりません。

私たちは、防御を、聖母のロザリオに見出すことができます。何故なら、マリア様は天主の婢女(はしため)として、全てを天主の御旨のままに行なわれた方だからです。天主の御旨に従順となったからこそ、天主の御母となったからです。聖母は天主の御旨に逆らって司祭になりたいと思った事は一度もありません。聖母は、婚姻の掟を変えようと思ったことは一度もありません。聖母は童貞をつねに守ろうとされました。司祭の独身制というのは、御聖体がイエズス・キリストの真の御体であるからです。これに親しく触れるのは、マリア様や聖ヨゼフのような童貞でなければなりません。

私たちがカトリック信仰をたもつために、聖伝のミサに与ってください。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 113 including children.

09:00 mass
M: 32 (incl. 6 children)
F: 30 (incl. 7 children)
Total: 62 (incl. 13 children)

11:30 mass
M: 28 (incl. 7 children)
F: 29 (incl. 4 children)
Total: 57 (incl. 11 children)

Total of 2 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 57 (incl. 13 children)
F: 56 (incl. 11 children)
Total: 113 (incl. 24 children)

【お便り】
小野田神父様

私が散歩の時に考えていることなど…

イエズス様は十字架に付けられた時、手の片方は掌に釘が刺されました。最初に釘が刺されたのは、釘を刺す印のあったところですが、片方の手は釘を刺すところの位置が左右対称ではなく、少し遠いところにあったため、掌と腕の間ではなく、掌に釘が刺されてしまったのでしょう。掌は神経が集まっていますから、とても痛かったはずです。どうして、このようなミスが。その理由は分かりませんが、イエズス様の受難の苦しみから得られる功徳を最大にするためだったのではないかと思われます。イエズス様はそこまでして、私たちを愛してくださったのです。どこにも、このようなことは書かれていないようですが、とても感謝すべきことかと。

今日の散歩中、聖ヨゼフ様のことを考えていました。聖ヨゼフ様の最後の仕事は、イエズス様がミッションを開始する前に亡くなることだったのではないでしょうか。聖ヨゼフ様は聖マリア様と結婚する時30歳ぐらいです。イエズス様が公生活を始められたのは30歳ぐらいですから、聖ヨゼフ様は生きていれば60歳ぐらいです。聖ヨゼフ様はイエズス様がエルサレムで失踪された時、義父の役割を終えて、ボディーガード兼大工の師匠に徹することにされたと理解していますが、亡くなる時は、イエズス様を公生活に送り出す時が来たと悟っていたのではないでしょうか。もう、自分はこの世では必要ない、去るべき時が来たと。

聖ヨゼフはとても地味な聖人に見えますが、イエズス様とマリア様の節目でとても大きな役割を果たしていた大聖人と思っています。イエズス様をエジプトにお連れし、エジプトからナザレに連れ戻されたのは、ヤコブの末子でエジプトに売られた、エジプトの宰相となったヨゼフと、出エジプトを成し遂げたモーゼのようにも思えます。

聖マリア様を世間の疑いの目から守り、マリアさまの童貞を守り、幼きイエズス様を守り育て、大工の仕事を教え、公生活に送り出したのですから。

【お便り】

YAHOOニュースの「新型コロナウィルス感染症まとめ」のワクチン接種者と接種率(9月14日時点)から総人口を計算すると、
1回目接種 127,818,521人
2回目接種 127,816,172人
3回目接種 125,839,158人

2回目接種と3回目接種とでは、197万7014人も人口が減っています。

10月19日時点のデータを計算すると、日本の人口が、2回目のワクチン接種時から202万6293人減っています。この数字は札幌市の人口よりも多く、名古屋市よりは少ない。この間に生まれた新生児がいるので、死者はこの数字よりも多いはず…

【参考リンク】

【参考情報】ミュラー枢機卿、シノダリティーについて「イエズス・キリストの教会に対する敵対的乗っ取りである…私たちは抵抗しなければならない」 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【カトリックのニュース】いま全世界の司教区で行われているシノドスとは何か?シノダリティとは何か?来年の10月にローマで何が決まろうとしているのか? - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

悲しみの聖母の元に行って、マリア様と共に苦しみを捧げる:マリア様は御一人で世界中の異端を滅ぼした方 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考情報】70人を超える司教たちは、ドイツの司教たちに「シノドスの道」は離教につながると警告:七つの重要な問題点:キリストではなくこの世への服従 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


「王官の息子を癒した奇跡」の道徳的な意味|癒された時間にも神秘的な意味があります。情念とは?

2022年10月23日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年10月23日は聖霊降臨後第20主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第20主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


【参考情報】ミュラー枢機卿、シノダリティーについて「イエズス・キリストの教会に対する敵対的乗っ取りである…私たちは抵抗しなければならない」

2022年10月20日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ミュラー枢機卿、シノダリティーについて「イエズス・キリストの教会に対する敵対的乗っ取りである…私たちは抵抗しなければならない」

Cardinal Müller on Synod on Synodality: ‘A Hostile Takeover of the Church of Jesus Christ … We Must Resist’

ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、ヨゼフ陳枢機卿の逮捕とシノダリティーに関するシノドスをめぐる教皇の沈黙について、カトリック教会は、「教理を」投票によって変更できる「政党の綱領のように考えている」人々による「敵対的乗っ取り」に直面している、と述べた。

レイモンド・アロヨ インタビュー 2022年10月7日

【編集者注】ゲルハルト・ミュラー枢機卿は10月6日、EWTNの「The World Over with Raymond Arroyo」に出演しました。長いため、また分かりやすくするために、編集したインタビューの書き起こしを以下に掲載します。

【問い】枢機卿猊下、お越しいただきありがとうございます。この2年間、教会は世界中のカトリック信者と、カトリック信者以外で可能な人に、教会で望むこと、教会から望むことを調査してきました。そして今、そういった国々の報告書がローマに送られました。国際的には、洗礼を受けたカトリック信者の平均1%から10%が、このような小さな代表集団のために、これらのシノドス討議グループに実際に参加したのです。これらの国別調査は非常に大きな意味を持つのでしょうか。カトリック信者が最も懸念していることを実際に反映しているのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】私は、このアプローチは間違っていると思います。…私たちは天主のみ言葉にこそ耳を傾けなければなりません。そして、その後、それを実践しなければなりません。…

【問い】これらの報告書の懸念は奇妙なものです。イングランド、アイルランド、フランスなどでは、もっと歓迎される教会の必要性を挙げています、猊下。特に、全体では、「LGBTQ」コミュニティー、離婚したカトリック信者、教会における女性などが挙げられています。「LGBTQ」コミュニティーについて、米国の報告書は次のように述べています。「歓迎される教会への希望は、真正性をもって、LGBTQ+の人々がその家族の中で寄り添っていたいという望みを明確に表現した。さらに歓迎される教会となるためには、LGBTQ+の兄弟姉妹にどのように寄り添うのが最善なのか、教会全体で継続的に見極めていくことが深く求められている」とあります。この「LGBTQ」コミュニティーに注目していることについて、猊下はどう思われますか。また、進化しつつあるシノドスが、それらの懸念をどのように取り上げるとお考えでしょうか。

【ミュラー枢機卿】このイデオロギーの目的は…表向きはカトリック教会を道具としながら、自分たちの思想を広めることでした。しかし、実際には、誰でも教会に歓迎されています。しかし、まず、人は自分の罪を悔い改め、天主の掟に従って自分の生き方を変えなければなりません。私たち人間にとって最善なのは、イエズス・キリストの道に倣い、その掟とイエズス・キリストの福音に従って、自分の生き方を変えることです。


【問い】これらの報告書は、いずれも女性の指導的役割を強化し、意思決定の際の存在感を高める方向にあるようです。オーストラリア人は特に、女性の叙階や助祭について継続的に議論するよう要請しています。さて、この女性の叙階の問題は、教皇フランシスコを含む過去数人の教皇たちによって決着がついているのではないでしょうか。

【ミュラー枢機卿】…教会においては、私たちは政治権力や自己実現とは何の関係もなく、天主のみ旨に従い、全人類の救いに責任を持ち、天主のみ旨に協力しなければなりません。私たちにはイエズス・キリストの使命があります。それはすべての人を救いへと、唯一の贖い主であるイエズス・キリストへと導くことであって、自己創造や自己救済へと導くことではありません。それはすべて、イデオロギーによる操作されたもの(そういった思想)であり、福音やカトリック教会の教理とは何の関係もないのです。


【問い】猊下はバチカンの教理省のトップでいらっしゃいました。一つのシステムが作られていて、そこでは、そういったあらゆる教理を誰でも手に入れられるように思える状況をご覧になりながら、猊下はどうお考えになるのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】教会の基本は、啓示としての天主のみ言葉です…私たちの風変わりな考えではありません。…これ(このやり方)は、【天主の啓示ではない人間による】自己啓示の一つのシステムです。このようにカトリック教会を占拠することは、イエズス・キリストの教会の敵対的乗っ取りです。…そして、福音の一ページだけでも見れば、つまり福音書の一ページを読めば、そういったものはイエズス・キリストとは何の関係もないことがお分かりでしょう…そして、(この議題において)彼らは教理を、自分たちの投票によって変更することができる政党の綱領のようにしか考えていないのです。


【問い】猊下、司教シノドスの事務局長であるマリオ・グレック枢機卿は先月、ローマで米国のカトリック指導者200人の前で話をしました。彼は、離婚して再婚した者がご聖体を受けること、同性カップルを祝福することなど、「複雑な問題」――それを彼はこう呼びました――について話し、次のように述べました。「これらは教理の観点からだけで理解されるのではなく、天主と人間との継続的な出会いの観点から理解されるべきものだ。もし、信者の中のこの二つのグループが、彼らが経験する霊的現実の親密な感覚を表現する機会を与えられるとしたら、教会は何を恐れなければならないのか。これは教会にとって、彼らを通して語られる聖霊に耳を傾ける機会となるのではないか」。それを聞かれて、猊下はどう思われますか。天主と人類の継続的な経験に反する教理を設定する、とのことですが。

【ミュラー枢機卿】それは古い文化的プロテスタンティズムの解釈論であり、近代主義【の異端】を固守することでもあります。それは、客観的な天主の啓示と同じレベルにされた、個人の経験です。そして、天主は、皆さんにとって壁にすぎず、その壁に皆さんが自分に固有の思想を投影することができ、その結果、教会におけるある種のポピュリズムを作り出すのです。間違いなく、カトリック教会を、その土台を破壊したいという教会の外にいる全員は、彼らはこれらの宣言について非常に喜んでいます。しかし、この宣言が、カトリックの教理に絶対的に反していることは明らかです。私たちには、イエズス・キリストにおける天主の啓示があります。さらに、その啓示は、イエズス・キリストにおいて間違いなく閉じられ、終了しているのです。…このことは絶対的に明らかであり、イエズスは婚姻の不解消性について話されました。ですから、グレック枢機卿がイエズス・キリストよりも知性があり、そのためグレックがキリストの権威を奪って天主を相対化し、転覆するなどということが、どうしてあり得るでしょうか。


【問い】本当に、私は、私は猊下の言葉をお聞きして震えました。猊下はちょうど枢機卿会議に出席しておられましたが、それについては後ほどお話ししましょう。猊下は、シノドスの過程が…教会の敵対的乗っ取り、つまり教会を破壊しようという試みだとお考えなのですね。そう思われますか。

【ミュラー枢機卿】彼らが成功すれば、それはカトリック教会の終わりとなるでしょう。ですから、私たちは、アリウス派の古い異端者たちのようなそういったものに、抵抗しなければなりません。アリウスの思想によれば、彼が、天主は何ができ、何ができないのか、と考えたとき。そして、それは非合理主義です。人間、何が正しくて何が間違っているかを決定するための知性です。


【問い】これらすべての国別報告書は、ローマでは「討議要綱」(instrumentum laborious)と呼ばれる作業文書にまとめられます。この文書は引き続き改良されますが、最終的には、ローマでのシノドスのために、これらすべての議論の指針となります。この文書は、シノドスの指導者たちや諮問委員会、そして約20人のいわゆる専門家のグループによって起草されています。この人たちは、信者たち、修道女たち、カトリック司祭たち、一人の大司教です。この人たちは何者で、なぜこの作業文書をまとめるために選ばれたのでしょうか。なぜ枢機卿のグループではないのに、このようなことをするのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】彼らは、カトリックの信仰とは全く関係のない別の教会を夢見ているのです…そして彼らは、カトリック教会を変化させるために、この過程を悪用しようとしているのです…そして、他の方向だけではなく、カトリック教会の破壊のために…絶対的な変化を起こしたり、啓示された教会の教理を置き換えたりすることは誰にもできませんが、彼らは、数人の神学者たちによる一つの理論だけを教理とする、こういった風変わりな思想を持っているのです。

使徒たちの教理は、天主のみ言葉の啓示を反映したものであり、それをはっきりと表したものです。私たちは、聖書、使徒的伝承、教導権にある、天主のみ言葉に耳を傾けなければなりません。そして、公会議が以前に述べたことといえば、イエズス・キリストにおいて一度かつ永遠に与えられた啓示を、別の啓示によって置き換えることは不可能であるということです。


【問い】なぜ教皇は、これを許していると思われますか。

【ミュラー枢機卿】それは難しい質問です。でも、私には理解できません。私はそのことを公に言わなければなりません。なぜなら、教皇の定義は、バチカン公会議とカトリック神学の歴史に基づいて、教皇は、福音の真理とすべての司教の一致を保証し、また教会において、啓示された真理において、保証しなければならないからです。そしてペトロが尋ねられ、すべての使徒が尋ねました。「イエズス・キリストは何者ですか。預言者ですか、それとも新しいエリアですか、別の宗教家ですか」と。するとペトロはこう言いました、「あなたはキリスト、生ける天主の子です」。この告白の中に、カトリックの、あるいはキリスト教の信仰の神秘の他の真理がすべて含まれています。三位一体、ご托身、恩寵、秘跡。すべてがここに含まれているのです。


【問い】猊下、私は毎日、プロテスタントの牧師たちやユダヤ教のラビたちから、カトリック教会の重要性について聞かされています。また、彼らはこう言っています。「私たちは教会のために祈らなければなりません。教会が維持されるように。なぜなら、教会が崩壊すれば、私たち全員が、ある意味で崩壊してしまうからです」。猊下にお見せしたいものがあります。今週、バチカン・シノドスの公式ツイッターアカウントが、シノドスと第二バチカン公会議についてのグレック枢機卿の次の言葉をツイートしています。彼はこう言っています。「公会議の教会論を正しく受け入れることで、公会議でさえ想像しなかったシナリオが開かれ、教会を導く聖霊の働きが明らかにされるような実りある過程が活発になっています」。猊下にとって、それはどのような意味なのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】それはグレック枢機卿の権威、彼自身の、彼のための啓示から来るものです。そしてこれだけではありません。それは、いわゆる過程に関する理論です。この過程は啓示を克服しつつあるとされます。そして、社会学の最初の学期を勉強した人なら誰もが知っていますが、教会と教会の権威は、啓示を変更することはできません … いろいろなことに従って新しい教会を創立するために、そして創立しようとして、すべての役職を使って聖霊について話しても、啓示は変更できません。

聖霊は、長老派主義や、あるいはカトリック教会の外にあるこれらすべて聖霊運動のようなやり方はなさいません … イエズス・キリストを代替をするのではありません。聖霊は、御父と御子の霊との霊です。聖霊こそが、私たちを完全な真理へと導き、ただ一度だけ永遠に語り給い、イエズス・キリストにおいて啓示し給うたのです。したがって、【聖霊とは】私たちをついに啓示に反して導く一つの過程、単なる衝動ではありません。ですから、また、私たちには明確な使徒信経があるのです。

私は不思議に思うのですが、ここでグレック枢機卿は自らを超権威として提示しているものの、彼は認められた神学者ではなく、彼には学術神学において何の重要性もありません。カトリック信仰の新しい解釈論をどのどのように提示しているのかといえば、ただシノドスの事務局長だからという理由だけです。しかしシノドス事務局長は、教会の教理に関しては何の権威も持っていません。また、こういった司教らのシノドスとその過程にはすべて、何の権威もなく、教導上の権威も全く何もありません。


【問い】お見せしたいと思っているものがありますが、先週、バチカン・シノドスのフェイスブックのページに、シノダリティーに関するシノドスをイラストにした写真がいろいろとアップロードされました。その中に、女性司祭が大きく描かれ、「プライド」のシャツを着た若者と一緒に写っているものがあり、ソーシャルメディア上で話題になりました。イラストにはこう書かれています。「私たちは未来の若者です。そして、未来は今、私たちの誰よりも大きなこの花開く使命に活気を与えています。私たちは、諮問委員会に参加し、意思決定を行うことを望みます」。さて、このイラストの上隅には、司教シノドスの透かしが入っていました。これはどういうメッセージなのでしょうか、猊下。ローマではどう見られているのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】これは乗っ取りの願望であり、存在しない権力であり、天主ご自身よりも知的であろういう望みです。それはまるで、自らの力を提示することで、真理を創造するというマルクス主義的な形態です。…彼らは、カトリック教会の破壊(への道)となるように、イエズス・キリストの啓示された現実を、自分の主観的な思想で置き換えるという意図を持っているのです。


【問い】これは第三バチカン公会議のための芝居なのでしょうか。ポップカルチャーの第三バチカン公会議を作ろうと試みているのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】はい、その通りです。バチカンの権威のもとで、この文脈で、このようなことが許されているのは、非常に驚くべきことです。そして、教会が(変わることできるのが)本当に可能であるかのような印象を与えています。…(シノドス主催者は)聖霊の聴衆となることを承認され、聖霊は彼らのために機能するだけであると。…それは、御父と御子と聖霊としてご自身を啓示される聖霊とは何の関係もありません…これは、カトリック信仰とカトリック教会を弱体化させる方法です。


【問い】猊下は、今回の枢機卿会で、中国共産党によって冤罪で逮捕され、現在裁判中のヨゼフ陳枢機卿について何も言及がなかったことを憂慮しておられました。枢機卿のお名前が、枢機卿会で呼ばれることはありませでした。祈りを求めることもありませんでした。実際、教皇は、陳枢機卿を逮捕することは信教の自由の侵害だと思うかと問われ、次のように述べました。「中国を反民主的と評するのは、私はそのように感じません。なぜなら、独自のリズムを持った複雑な国だからです。確かに、私たちには民主的でないと思われることがあるのはその通りです。それはそうです。陳枢機卿は高齢ですが、あと数日で裁判になると思います。彼は感じたことをそのまま口にします。そこに限界があると、人は感じるものです」。猊下のお答えはいかがですか。バチカンは、なぜそこまでむきになっているのでしょうか。

【ミュラー枢機卿】中国は民主主義体制ではなく、生命と自由という基本的人権を尊重しません。そして反対側では、中国を、この文化を理解するのに誰も100年も必要とはしません。なぜなら、中国人も、私たちと同じ人間だからです。そして私たちは、すべての人間は尊厳において平等であると確信しています。すべての人が、天主によって、天主の息子、娘となるために召されているのです。…教会は世界のどこでも普遍的な教会です。私たちは、基本的人権と、すべての人に福音を宣べ伝える絶対的権利を守らなければなりません。したがって、私たちは、すべての人が兄弟姉妹であり、イエズス・キリストにおいて、特にキリストにおいて私たち自身の兄弟姉妹、特に教会の高位の代表者も守らなければならないと考えています。陳枢機卿は教会の代表者の一人であるだけでなく、中国人民の自由と解放、人間の尊厳の代表者の一人でもあります。…そして、北京からモスクワ、ブリュッセル、ワシントンまで、こういった政治家たちに世界を贖う(事態を改善する)ことを期待することはできません。この政治家たちは、私たちが今置かれている状況…核戦争になるかもしれない状況について責任を負っています。したがって、私たちの贖い主、私たちの助け手は天主であり、この政治家たちは私たちが置かれている混沌に責任があるのです。


レイモンド・アロヨ(Raymond Arroyo) EWTNの「The World Over with Raymond Arroyo」の司会者。国際的に知られた受賞歴のあるジャーナリスト、プロデューサー、ベストセラー作家であり、これまでにブッシュ大統領やトランプ大統領、教皇ベネディクト十六世、マザー・テレサ、メル・ギブソン、有名テノール歌手プラシド・ドミンゴ、コミック界の伝説的人物ジェリー・ルイスらにインタビューを行っています。


【参考資料】フレデリック・ヘンリー司教(カルガリー名誉司教)のジャスティン・トルドー首相への手紙

2022年10月20日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】フレデリック・ヘンリー司教(カルガリー名誉司教)のジャスティン・トルドー首相への手紙

【解説】カルガリー司教区の名誉司教であるフレデリック・ヘンリー司教は、カナダの首相に手紙を書いた。ヘンリー司教がこの手紙の中で、指摘していることは、カナダ首相ジャスティン・トルドー自身が受け入れて認めたカナダ政府に責任があったことを無視しているばかりか、政府の責任を教会になすりつけていることである。教会は政府からの経済的な援助がほとんどなかったにもかかわらず、最善を尽くしていた。
カナダ真実和解委員会(the Truth and Reconciliation Commission of Canada)が2015年にカナダ政府に提出した最終報告書(final report)には、第一義的な責任は、連邦政府が負うべきものが明らかにしている。

カトリック・カルガリー教区司教事務局

2021年6月7日

K1A 0A6オンタリオ州オタワ市
下院
カナダ首相
ジャスティン・トルドー閣下(枢密顧問官、文学士、教育学士)

首相閣下

先週、閣下は記者会見で、カトリック教徒として、教会が寄宿学校の悲劇にどのように対応したかについて、「深く失望した」と述べられました。閣下は、カトリック教会が、寄宿学校の運営に果たした役割について正式に謝罪していないこと、また、寄宿学校に関する文書化や情報公開の取り組みに協力するよう求める声に抵抗していることを挙げられました。

カトリック教徒として、またカナダ人として、私は、恐ろしいカムループス寄宿学校の子どもたちの遺骨発見に対して閣下が対応なさった方法について失望しております。

閣下のコメントは無益であるだけでなく、政治的目的のための姿勢とみなさねばならず、さらにまた、2014年にアルバータ州・ノースウエスト準州の司教たちが先住民の兄弟姉妹に対して行った謝罪と遺憾の意という、継続中の偽善に加える、別のあからさまな企てとみなさねばなりません。

2014年、アルバータ州の司教たちは先住民の兄弟姉妹に謝罪しましたが、それには次のような文言が含まれていました。「私たちも、子どもたちを家族から引き離し、カトリックが、寄宿学校でアボリジニの文化や言語をしばしば抑圧する結果となった政府の政策に関与したことについて謝罪と遺憾の意を表します」。

私たち自身の悲しみと、罪の責任を認め、寄宿学校への関与における私たちの罪深さを自認していますが、私たちの声明の文言、特に「政府の政策に関与」(participation in government policies)という言葉に注目することが重要です。第一義的な責任は、連邦政府が負うべきものです。

このことは、「カナダ真実和解委員会最終報告書 第4巻 行方不明の子どもたちと墓標のない埋葬者」でも強調されています。

この報告書の内容に関連した部分を引用して、閣下の記憶を呼び起こさせるのを許してださい。

1.概要
「『誰が死んだのか』『なぜ死んだのか』『彼らはどこに埋葬されているのか』という、行方不明の子どもたちに関する最も基本的な質問について、カナダ政府は、これまで取り組んだことも、包括的に記録したこともない。」(4ページ)

2.統計分析
「これらの割合が、他の場所で報告されているほど高くないかもしれないということは、連邦政府が、寄宿学校とアボリジニ・コミュニティー全般における国家的な健康管理の危機に対処するための適切な行動を取らなかったという事実を軽くするものではない。」(33ページ)

3.運用方針と保護型ケア
「四つの主要な結論がある(中略)第一に、連邦政府は寄宿学校の生徒の健康と安全を保証するための適切な基準と規制を設けなかったことである。この不作為は、政府がその基準を設定する権限を持っていたにもかかわらず起こったものである。第二に、連邦政府は、最低限設定した基準や規制を適切に施行することがなかった。第三に、このような規制を設けず、実施しなかったのは、寄宿学校の費用を最小限に抑えようとする政府の決定が大きく作用していた。第四に、適切な基準の設定・実施をしなかったことと、学校に十分な資金を提供しなかったことが、不必要に高い死亡率という結果をもたらした。

生徒たちは、粗末な建物、粗末な暖房、手入れが粗末で、混雑した、しばしば不衛生な施設に収容された。多くの学校には隔離室も診療所もなかった。多くの学校は、訓練を受けた医療スタッフの世話を受けることができなかった。連邦政府が、生徒の食事が栄養的に足りることを保証する十分な資金を提供しようとしたのは、1950年代後半になってからだった。このように、粗末な住環境、不十分な医療ケア、粗末な食事が重なった結果、生徒たちは感染症にかかりやすくなり、感染症を克服する能力も低下してしまった。インディアン問題省が、住居、食生活、収入、医療受診を改善することによって、より広いアボリジニ・コミュニティーの結核の危機に対処することを怠ってしまい、さらに、寄宿学校への入学前に感染した子どもを選別しなかったため、生徒が感染にさらされることが確実になってしまった。カナダの総人口における結核死亡率は、有効な薬物治療が開発される以前の20世紀初頭に低下したことを、再度強調しておかなければならない。この低下は、一般的に、衛生、住居、食事の改善、感染者の療養所への隔離など、さまざまな要因によるものであるとされる。このような同じ有益な効果が期待できる政策が寄宿学校に勧められましたが、採用されなかった。その結果、薬物治療が導入されるまで、結核は寄宿学校の根強い問題として残り、死亡率も高いままだった。

建物の建設・維持管理で火災安全基準を採用して施行し、さらに、安全で利用しやすい非常階段を建設・維持管理するといったことを怠ったため、生徒の安全はさらに危うくなった。

システム全体の規律方針を定めて実施することを怠ったため、生徒たちは例外的に厳しく、しばしば虐待的な処罰を受けることになった。このことで、ストレスレベルを上げてしまい、病気に対する抵抗力を弱めることになったのだろう。…」(122-123ページ)

4.子どもたちはどこに埋葬されているか。墓地と墓標のない埋葬
「結核は、死因が報告されているケースの48.7%(名前のある名簿と名前のない名簿を合わせたもの)の死因だった。子どもの結核に対する脆弱性と感染からの回復能力は、食事、衛生状態、換気、衣類の質、体力に大きく影響を受ける。政府の資金提供が限られていたため、ほとんどの学校の生徒は栄養失調に陥り、混雑した不衛生な施設に隔離され、衣服も不十分で、過労状態だった。政府が、感染した生徒を学校から排除しておく選別の仕組みを導入・維持することができなかったという事実のため、学校が、アボリジニのコミュニティーに既に存在する結核の危機を増幅させることになった。学校で死亡した生徒が家に帰されることは、親に輸送費を払う余裕がない限り、ほとんどなかった。学校の近くに住んでいない限り、ほとんどの親はそのような費用を負担することはできなかった。その結果として、寄宿学校で亡くなった生徒のほとんどは、近くのミッション墓地か寄宿学校墓地のどちらかに埋葬されたと思われる。これらの墓地の中には、現在も運営されているものもあるが、学校やミッションが閉鎖された後は、多くの墓地が放棄されている。近年、アボリジニのコミュニティー、教会、元生徒たちが、墓地を修復し、そこに埋葬されている人々を記念するための措置を取っている重要な例が数多くある。」(138ページ)

最後に、真実和解委員会の「行方不明の子どもたちと埋葬に関する行動への呼びかけ」の72、73、74、75を再読されることをお勧め申し上げます。私たちは、連邦政府の側に対して、それほど大げさな姿勢ではないものの、もっと率直な行動を取る権利を持っております。

首相のご健勝を祈っております。

敬具

フレデリック・バーナード・ヘンリー
カルガリー名誉司教

ccキャロライン・ベネット閣下(メンタルヘルス・依存症担当大臣兼保健准相)
マーク・ミラー閣下(先住民関係大臣)

【参考】
「カナダ真実和解委員会最終報告書 第4巻 カナダの寄宿学校 行方不明の子どもたちと墓標のない埋葬者」

Calls to Action 71 to 76: Missing Children and Burial Information
72.私たちは連邦政府に対し、カナダ真実和解委員会によって設立された「国立寄宿学校生徒死亡簿」を開発・維持することを可能にするために、国立真実和解センターに十分な資源を割り当てるよう要請します。

73.私たちは連邦政府に対し、教会、アボリジニ・コミュニティー、元寄宿学校生徒と協力し、寄宿学校墓地のオンライン登録を、可能であれば死亡した寄宿学校生徒の位置を示す区画図を含んで確立・維持するよう要請します。

74.私たちは連邦政府に対し、教会やアボリジニ・コミュニティーの指導者と協力して、寄宿学校で亡くなった子どもたちの家族に、その子どもの埋葬場所を知らせ、適切な記念式典や墓識、希望があれば故郷のコミュニティーでの再埋葬を望む家族の願いに応えるよう要請します。

75.私たちは連邦政府に対し、州、準州、自治体、教会、アボリジニ・コミュニティー、元寄宿学校生徒、現在の土地所有者と協力し、寄宿学校の子どもたちが埋葬された墓地あるいは他の跡地を継続的に特定、記録、維持、記念、保護する戦略と手順を開発・実施するよう要請します。これには、亡くなった子どもたちをたたえる適切な記念式典や記念標示を提供することが含まれます。


マイケル・マット、ヴィガノ大司教にインタビュー:カトリック・アイデンティティー会議にて:教会の危機に対する最も強力な武器となる古代のミサを、真の超自然の精神をもって惜しみなく受け入れてください。

2022年10月18日 | カトリック・ニュースなど

マイケル・マット、ヴィガノ大司教にインタビュー:カトリック・アイデンティティー会議にて

―――司教や司祭の皆さん、教会の危機に対する最も強力な武器となる古代のミサを、真の超自然の精神をもって惜しみなく受け入れてください。二つの主人に仕えることはできません。

―――カトリック信者は、教会が最も完全な方法で至聖なる三位一体を礼拝することを要求する権利があるだけでなく、義務もあります。教理的、道徳的に逸脱した心によって生まれた偽の儀式を用いることはできません。

―――皆さんの多くは、真理に「飢え」、聖性に「渇いて」います。他の人々は、この霊的な宝があまりにも長い間、彼らから隠され、奪われてきたために、自分たちが何を失っているのかが分かっていませんが、もし彼らがそのことを分かれば、もうそれなしにはやっていけなくなるでしょう。


2022年10月3日

Michael Matt Interviews Archbishop Vigano LIVE at the Catholic Identity Conference

マイケル・J・マット(編集長)

これは、2022年10月2日にピッツバーグで開催された「カトリック・アイデンティティー会議」(Catholic Identity Conference、CIC)で、生中継により行われたヴィガノ大司教とのインタビューの書き起こしです。このビデオ、およびCICでのすべての講話は録画されており、「Video Subscription」(こちら)を通じて視聴することができます。

【問1】今日、多くのカトリック信者は、聖にして母なる教会が、アリウス派の異端の危機さえも上回る史上最悪の危機に苦しんでいると考えています。大司教様はそうお考えでしょうか。

【ヴィガノ大司教】この危機が、現在から時の終わりまでの間に、教会が直面しなければならないであろう最悪のものであるかどうかは、私には言うことができません。確かに、壊滅的な割合の背教や、下級聖職者と信者が位階階級に対して麻痺していることからすれば、これまでで最悪の危機であることは間違いないでしょう。他の時代には、迫害はもっと激しいものでしたが、司教たちの抵抗とカトリック信者の反対がありました。司教や信者は、ペトロの座を真理の道しるべとみなし、反キリストの国確立の障害物とみなすことができたのです。今日では、少なくとも目下のところ、「カテコン」(katèchon)はいなくなり、使徒座はキリストの教会の公然たる敵によって占拠されています。

信仰、道徳、典礼、教会規律に対する組織的な裏切りがあり、それを教会の最高権威自らが支持し、推し進めさえしていて、位階階級は共謀して沈黙し、多くの聖職者と信者が無批判に受け入れているというのは、歴史上、これまで決して見られなかったものです。ディープ・チャーチの解体作業が、国家におけるディープ・ステートの破壊的行動と同期して進んでいるという事実によって、この状況の深刻さは増しています。そのためにカトリック信者を、信者として、また市民として、二重の攻撃の対象としています。

今や議論の余地のないこの二つの現実に共通するのは、キリスト、教会、聖なる法、キリスト教文明に対するサタンの抑えがたい憎しみです。この欺瞞はあまりにも明白なため、もはや「陰謀論」というレッテルを貼ることはできません。

考えてみれば、憂慮すべきなのは、この犯罪計画の主人公たちが、政府においても教会においても、あのしゃれた左翼の環境――ここで公会議の「カトリック」進歩主義、平和主義、環境保護主義、同性愛、そして「目覚めた(ウォウク)」左翼の全レパートリーが1960年代から生まれ、成長した――から出てきたということです。私がすでに述べたように、ここ数十年、個人の司教たちも位階階級全体も、この危機に加担したことについて、実際、ある意味でこの危機を思いつかせてこれを支持することで、「諸国民の指導者(Domina gentium)」という教会の役割を放棄したことについて、天主と歴史の前で答えなければならなくなるでしょう。

【問2】大司教様に、聖伝のカトリック的な反革命に参加することを確信させたものは何だったのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】自分の母親が辱められ、しもべが母親の悪名と中傷をさらし、その三重冠と王衣をはぎ取り、宝石を盗んで財物を売りさばき、母親に強制して泥棒や売春婦と暮らさせ、さらには王位を取り上げ、不名誉な状態に打ち捨てるのを、無表情で見ていられる息子がいるでしょうか。また、裏切り者の支配者や腐敗した役人によって国家が破壊されるのを、武器を取って立ち上がることなく、奪われた名誉を国家に返さずに見過ごすような、栄光ある国家の国民がいるでしょうか。

もしこのことが自然の秩序において有効であるとすれば、聖なる教会においてはさらに真実で切実なことです。なぜなら、敵どもは、教会の現世的なものを攻撃して、教会堂、調度品、聖具を競売にかけて売り飛ばした(これは敵どもが歴史を通じて常に教会に対して行ってきたことです)のみならず、超自然のもの、すなわち、朽ちない富である教理と典礼という、天主なる王が霊魂の聖化のために教会に与えてくださった宝をも攻撃しているからです。

堕落した聖務者たちは教会をスキャンダルにさらし、教会の教えに混ぜ物を入れ、教会の軍隊【修道会などのこと】を散らし、敵の侵入から教会を守る城壁を壊してしまったのです。教会のおかげで保護され、永遠に向かう地上の旅を共にする霊魂は、背を向けられ、迷ってしまいました。これらの霊魂は、私たちの主が御血を流された大切な霊魂、しかし主の不忠実な聖務者によって見捨てられ、聖なる囲いから追い出されてしまった霊魂たちです。

聖にして母なる教会の辱めを傍観することは、私たちの主のご受難と磔刑を、殺害者の叫びと唾の中で、目撃した群衆の中にいたことに劣らず深刻です。なぜなら、私たちは天主の子であると同時に教会の子でもあり、教会はイエズス・キリストの功徳によって私たちを成聖の恩寵の状態に回復させ、天国の相続人にしてくれるのですから。

始めに、60年前、第二次世界大戦という悲劇的な事件と独裁政権の恐怖の後、教会自身が自分の過去を捨て去ろうと望んでいるように思われました。教会はそのまま残っていたのに、世界は別のものになってしまったので、その間の亀裂を何かしら和らげようとしたのでした。

この放棄は、数々の革命とカトリック君主制が次々と終焉することによって動揺した社会に迎合するためのジェスチャーであるように思われました。これらの革命は、あの「民主主義」の波に乗って起こり、私たちは民主主義がキリスト教的でありうると信じていたのですが、同時に、民主主義の「価値」とは、カトリックの信仰宣言をする権力が固有に持つ超越的な物の見方とは大きく対立していることをよく理解していました。

当時、公会議の革命が天主の秩序を破壊するだろうこと、また、公会議が教会を「混乱」(chaos)に陥れることで「秩序」(kosmos)を転覆させ、異端に居場所を与えて正統性を破壊し、聖徳と誠実さの代わりに道徳の腐敗を受け入れることになること、を理解していた者はほとんどいませんでした。

この破壊転覆的な(subversive)プロセス(ラテン語でevertereは、まさに転覆させることを意味します)は、決してその地位に認められるべきでなかった人々を位階階級の頂点へと導き、それまで高く評価され尊敬されていた人々を象徴的に追い出したり、疎外したりしました。それが、非常に多くの司教、司祭、聖職者、男女の修道者の運命でした。彼らに革命が「現代化」として提示されて、押し付けられたのです。この現代化こそ、新たな信仰再生の前触れである「公会議の春」を一世紀にわたる血生臭い紛争で消耗した人々に生み出したはずだったのです。

スーネンス枢機卿が「教会の1789年【フランス革命】」として熱狂的に提示したものは、調整の過渡期に過ぎず、そこから教会はもっと強く、もっと自覚的に再生するだろうと、多くの人々は善意で信じていました。

【しかし】私たちが知っているように、そして私たちが見てきたように、そうではありませんでした。公会議革命は、現世の世界を破滅させて、キリスト教社会を崩壊させたもの【政治的革命】と何ら変わりはありませんでした。それどころか、公会議革命は、悪魔的な心によって考え出された破壊転覆的な計画の成就が必要なことを表しています。悪魔は、まず人間の肉体を攻撃し、次に必ず不滅の霊魂を攻撃しなければなりません。そこでこの目標を達成するために、まず世俗社会を荒廃させ、次に宗教社会を執拗に荒廃させ続けるのです。

2013年3月13日以来、公会議の癌は変異して悲惨な転移へと変わっています。司教として、つまり使徒の後継者として、教会のこの巨大な劣化と屈辱に直面して、私は声を上げ、明確な立場を取らなければなりませんでした。私は、同僚たちに訴えます。この「教会の受難」(passio Ecclesiæ)を黙って見物している者、敵の共犯者という休眠状態から次々と覚醒するようにと促します。椅子から立ち上がり、屋根の上から真実を叫んでください。また、いわゆる「保守的」な司教の皆さんが、第二バチカン公会議を擁護することをどんな犠牲を払ってもやめますように。第二バチカン公会議こそが天への復讐を叫ぶ、霊魂たちの虐殺の主な原因です。ともに破滅に圧倒される前に、立ち上がってください。

【問3】今でも時々、新しいミサを捧げられますか。

【ヴィガノ大司教】いいえ。ここ数年、新しいミサを捧げていません。そして、たまにであってもそれを捧げることに同意することで、自分の足取りを振り返ることができたとは思えません。

私の「回心」は、使徒継承のミサのおかげであり、また私が由緒あるアンブロジオ典礼に対して持っている特別な愛着のおかげです。何十年もの間、私の司祭職から奪われてきたもの、教理の源、さらには聖なる犠牲の中にしかない霊性と禁欲の源をこの中に見いだしたのですから。カトリックのミサでは、司式司祭は「もう一人のキリスト」(alter Christus)であり、大司祭であるキリストになって汚れなきいけにえを御父の御稜威(みいつ)に捧げるだけでなく、自分が神秘的にいけにえであるキリストの生き写しになって捧げるのです。この私たちの主との親密な一致の中に、司祭職の霊魂そのもの、使徒職に不可欠な原理、宣教の「信仰の基準」(regula fidei)、霊魂の聖化のための恩寵の力が存在するのです。そして、司祭職とミサがないならば教会は存続できないため、私たちは、キリストの敵どもがミサと聖伝の司祭職に激しく反対するのを理解できますし、私たちの選択の重要性とこの貴重な宝に忠実であり続ける必要性を認識できるのです。

聖伝のミサのおかげでカルワリオへの道の主に倣う恩寵を受けた後で、モンティーニの典礼に戻るということは、私にとっては裏切りとなってしまい、この由緒ある典礼を知らない人とは違って、さらに深刻なものとなるでしょう。

ここで、古いミサについての問題は、形式的な、また、いわば合理的な評価で終わるものではないことを思い起こしたいと思います。ミサとは、神秘体【教会】が至聖なる三位一体を礼拝する最も完璧な方法であると同時に、花嫁【教会】が天主なる花婿に語りかける声でもあるのです。もし自然の秩序において、花婿への愛を減らすようなことを花嫁は考えられず、実際、花婿をおとしめることや花婿を他の男と同じレベルに置くことは侮辱であると花嫁が考えるとすれば、天主を愛する司祭の霊魂は、花婿の完全性が沈黙させられたり否定されたりする――花婿の敵どもを怒らせないために――のを、どれほどの勇気があれば許容できるでしょうか【できるはずがありません】。

愛徳には限界がなく、妥協は考えられませんから、愛徳は寛容ではありません。つい数日前、カザフスタンで開催された何回目か分からないほどのエキュメニカル・パンテオン【世界伝統宗教者会議】に際し、ベルゴリオは原理主義を、宗教間の対話と普遍的兄弟愛に有害なものとして非難しました。これほど、真の信仰にとって異質なものはなく、人類教を推進するメーソンの思想とこれほど明確に一致しているものはありません。

私は、同僚である司教や司祭の皆さんの多くが困難な立場にあることを理解していますが、この点でさらに一貫性を示し、教会が経験している危機に対する最も強力な武器となる古代のミサを、真の超自然の精神をもって惜しみなく受け入れるよう励まさないではいられません。二つの主人に仕えることはできないのですから。

【問4】従順は(神学的というよりもむしろ)自然の聖徳として、何よりもまず信仰に奉仕しなければならず、そのため、権威ある地位にいる近代主義者に従うことは罪深いことであると言うのは正確でしょうか。

【ヴィガノ大司教】従順は自然の聖徳であり、不従順(従順の不足)や隷属(過剰な従順)と対立するものです。しかし、従順はただ誰にでもすべきであるというわけではなく、権威にある人々だけに、また、権威の行使を正当化する制限の範囲内でのみ、従順するのです。教会においては、従順はその究極的な目的、すなわち、カトリック信仰で一致している霊魂の救いのために秩序づけられています。信仰を守るために立てられた権威は、信仰に反する立法をすることができません。なぜなら、まさにその力を同じ源、すなわち、ご自分と矛盾することはあり得ない至高の天主かつ立法者なる天主から引き出すからです。権威を行使する人々を喜ばせるために非合法な命令に従うことは、従順を堕落させるのであり、それは、もはや従順ではなく隷属です。

私はまた、今日、盲目的で迅速かつ絶対的な服従を信者に要求する人々は、権威が善き人々によって行使されるとき権威に反抗するのと同じ人々であることも指摘しておきたいと思います。第二バチカン公会議と「シノドスの道」の名において教導権全体を取り消す人々は、「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)と「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)の永久革命を受け入れるのを拒否する人々の前で衣を引き裂くのと同じ人々です。問題は、私たちが見ているように、権威の危機にあるのです。その権威は、正当であるためにまず行わなければならない、天主という最高権威への服従を受け入れていないのですから。

【問5】しかし、キリストは死に至るまで従順であり、それは私たち全員が行うよう召されていることだと指摘する人々に、大司教様はどのようにお答えになりますか。

【ヴィガノ大司教】私たちの主は、最高法院(サンヘドリン)にも、大司祭たちにも、民の長老たちにも従われませんでした。彼らは、主に対して、「天主の子」と公に言わないように警告し、この理由で主に死刑を宣告したからです。私たちの主は御父に従われ、ご受難という苦い杯を飲み干されたのです。「私の思うままではなく、み旨のままに」(non sicut ego volo, sed sicut tu.)【マテオ26章39節】。これが真の従順の徳です。なぜなら、従順の徳が地上の権威の命令に従うのは、その権威が命令を正当化させる目的のために行為する場合に限られるからです。

ちょうど最高法院にとってキリストの神性を問うことは正当なことではなく、むしろ聖書を知っていたのですから、彼らは、約束されたメシアだとキリストを認めるべきであったようにです。ですから、位階階級にとって信仰や道徳に反する事柄において従順を要求することは、正当なことではありません。私たちも、キリストの例に倣い、聖ペトロの警告に強められながら、「人間よりも天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)と繰り返すのです。

【問6】フランシスコは、聖伝主義者は「第二バチカン公会議を拒否している」と宣言しました。しかし2013年2月14日、教皇ベネディクト十六世は、公会議はメディアに乗っ取られ――それゆえに、教会に計り知れない損害を与え「典礼を陳腐化した」――と述べました。それならば、すべてのカトリック信者は「公会議を拒否」すべきではないでしょうか。何故なら、ベネディクトによれば、公会議はメディアによって世界に【歪められて】提示されたのですから。

【ヴィガノ大司教】まず第一に、明確にしておきたいのは、公会議の物語(ナラティブ)に対するメディアの貢献は、第二バチカン公会議の作者たちが意図した明らかに破壊転覆的な内容に比べれば、部分的で取るに足らないものに過ぎないということです。近代主義者によって「裏切られた」とされる幻の「善き公会議」は存在しません。公会議は、「実質的」にカトリック的であることを妨げるような「形」で構想され、公会議が抱えていた(そして公会議がすぐに明らかにする)落とし穴を、冗長さと曖昧な概念の背後に隠していたのです。もしメディアが、公会議を望んでいた教父たちや教皇の意図に反して公会議を乗っ取ったのであれば、なぜメディアが伝える度重なる逸脱に直面しても、彼らのうちの誰もカトリックの教理を繰り返さなかったのでしょうか。もし公会議後の期間の典礼の矮小化がメディアのせいだけだとしたら、なぜどの司教もヴェトゥス【古い典礼】と連続したノブス・オルドの挙行を提案せず、むしろモンティーニの典礼という革新物をテコにして、それを推進したのでしょうか。もし古い典礼が新しい典礼に脅威を与えなかったのであれば、なぜ古代の形式で挙行し続けようとした人々への冷酷な迫害があったのでしょうか。

この点では、ベルゴリオは完全に正しいのです。聖伝に忠実なままでいたいと望むカトリック信者は、まさに第二バチカン公会議が、信仰の規範である聖伝と異質であって対立しているという理由で、これを拒否しているからです。そしてこのことは、聖伝の典礼のカトリック性を裏付けているだけでなく、改革された典礼が、礼拝が何世紀にもわたって知られていた調和のとれた発展から外れていること、つまりその実質的な非カトリック性も裏付けています。

したがってカトリック信者は、教会が最も完全な方法で至聖なる三位一体を礼拝することを要求する権利があるだけでなく、義務もあるのであって、異端者を喜ばせるために、また信仰を低下させるために、教理的、道徳的に逸脱した心によって生まれた偽の儀式を用いることはできません。このことは、ノブス・オルドの典礼よりもさらにカトリック的な典礼を「発明」するという問題ではなく、二千年にわたる典礼を廃止し、それをみすぼらしい偽物に置き換えることによって教会に生じた非常に重大な「傷」(vulnus)を修復するという問題です。カトリックの典礼を復興させ、改革された典礼を禁止することは、教会の復興のために必要な一歩となるでしょう。

【問7】少なくとも、教皇職についての神学を弱体化させるために教皇ベルゴリオがペトロの座に据えられた可能性はあると思われます。私たちがフランシスコを批判するとき、教皇職に関するその同じアジェンダ(行動計画)に貢献していないでしょうか。

【ヴィガノ大司教】2013年のコンクラーベでベルゴリオを当選させることができた人々がよく承知していたのは、ベルゴリオの意図が、彼がペトロの座にすわる主な結果としての教皇職の信用失墜とカトリック教会の屈辱、そして異端や道徳的誤謬、非常に深刻なスキャンダルの拡大を得ることだったことです。実際、この男の継続的な行動、過去10年間の冷酷で着実な流れにおいてこそ、教皇職は、教会に対する権威を負っている者が行う、教皇職に対する最も深刻で強力な攻撃を経験しています。外から教会を攻撃する行為でさえも、同じような結果をもたらさなかったでしょう。また、ベネディクト十六世の放棄と、彼が生み出した「名誉教皇」という教会法上の「怪物」(monstrum)は、教会に致命的な打撃を与え、世界のエリートのアジェンダを支持する教皇の選出を含む教会に対する陰謀を実行することを可能にしたと言うべきでしょう。

ベルゴリオが教会に対して行っていることについて彼を批判しても、彼を意図的にそこに配置した扇動者たち、つまりザンクトガレン・マフィアやグローバリストのメーソン・エリートの術中にはまることはないでしょう。一方、このアルゼンチン人がペトロの玉座にふさわしくないということは、計画的で悪意に満ちた行動からでたことの明白なしるしです。この工作は、一つの組織を崩壊させる最も効果的な方法が、その組織で最高の権威を持つ者たちが行う信用失墜作業であることをよく承知している者たちによって計画されました。それは、今日、世俗の領域で起こっていることと何ら変わりはありません。そこでは、政治かつ支配階級の全体が腐敗して、同じ反キリスト教エリートの犯罪的利益に従属しています。反キリスト的なエリートらは、一方では、LGBTQ+のプロパガンダとジェンダー論で霊魂を腐敗させ、他方では、――ベルギーで同性愛者の結合を「祝福」しているように――腐敗した司教たちを利用しています。これらすべては「裁くという私は何様なのか」で始まるベルゴリオの言葉を、究極の結論にまで導いた結果です。

私は、教会生活におけるLGBTQ+の教えとジェンダー・イデオロギーの合法化の進行がもたらす、極めて重大な(そして不可避な)意味を明らかにしたいと思います。私たちは、教会の教導権が同性愛の行為を「本質的に倒錯したもの」として断罪していることを知っています。それらは悪であり、それらを行う人々は重大な罪を犯しており、もし彼らが悔い改めないなら、その霊魂は永遠の罰を受ける運命にあるのです。このことは、聖書によって、旧約聖書と新約聖書の両方で、明確に教えられています。

その逆に、ベルゴリオの言葉と彼の共犯者たちの行為は、同性愛と、「性転換」の実践に対する道徳的な断罪のすべてを取り除くことを意図しています。しかし、数年のうちに、聖職に就くことを求める「信仰深い」性転換者が出てきたら、どうなるのでしょうか。私はこれ以上何も言うつもりはありません。私たちの前に広がっている奈落の底を理解するのは、皆さんにお任せします。

ベルゴリオの「教導権」のどの部分が拘束力を持ち、どの部分がそうでないかを区別することにまだ固執している人々に対して、この形式的アプローチは、おそらく教皇不可謬性の教理を救うことはできても、教会のイメージを救うことはできないのは確実です。同時に、ベルゴリオが完全に教皇職の外にいることを証明していることは、改めて言うまでもないことだろうと私は思っています。この事実は、移植された臓器が自分のものではないと認識する有機体によって拒絶されるように、素朴な信者たちであっても本能的に感じ取ることができるのです。彼の異端的な宣言の分析が神学者たちや教会法学者たちに確認させるのと同じことを、「信仰の感覚」(sensus fidei)が彼らに理解させるのです。2013年3月13日、聖ペトロ大聖堂の回廊(Loggia)のバルコニーから発せられた彼の有名な「buona sera」(こんばんは)には、彼が教皇職とってまったく異質であるという取り返しのつかない事実の本質が、一言で凝縮されています。

【問8】大司教様は、「グレート・リセット」に反対する発言で国際的な評価を得ておられます。陰謀論に手を染めている、祈りだけして沈黙しているべきだ、という批判に対しては、どうお答えになりますか?

【ヴィガノ大司教】いずれにしても、私は祈りを唱えています。また、私の司教としての、使徒の後継者としての義務に密接に関連し補完し合う問題について沈黙を守ることで、何故自分の義務を果たしそこねなければならないのか分かりません。

私の批判がマカリック元枢機卿のスキャンダル隠蔽や第二バチカン公会議の教義的逸脱に向けられる限り、「ルフェーブル派」のレッテルは、信者の前で私を悪者にするのに十分でした。しかし私が、ディープ・ステートが、まずパンデミック非常事態で、今ではエネルギー非常事態によって行っているグローバル・クーデターと、ディープ・チャーチが組織したベルゴリオの選出という、それに劣らぬ破壊転覆的行為との間の一貫性を指摘したので、私の言葉に耳を傾ける人々に私に対する不信感を与えるために、「陰謀論者」のレッテルを貼らなけなければならないのも不思議はありません。

彼らによれば、リスクは同じことです。自分の頭で考えだした人がいて、自分が巨大な詐欺の――ダボス会議アジェンダによって物質的生活が損なわれ、第二バチカン公会議とベルゴリオのアジェンダによって霊的生活が損なわれている――犠牲になっていることを理解したのです。

また、超国家的な私的組織、すなわち権力の中枢に組織され根を下ろした本物のマフィアによる破壊的な計画が、その支持者たちによってかなり前に発表されていて、かつメーソン・カルトのディストピア的妄想の成就を表すものであるということが、なぜ「陰謀論」として退けられるべきなのかを私は理解したいと思います。

もしマフィアが人口の一部を絶滅させたいと宣言し、そうするために組織化しているのを私が目にして、この絶滅計画が告知通りに実行されるのを目撃するならば、陰謀論をでっち上げるのは私ではなく、その成功を非常に確信しているため、それを隠さなければならない必要さえないと感じているマフィアであって、彼らは実際、――私たちを劣ったものとみなしているため――私たちが絶滅することは望ましく、良いことだと、私たち自身が納得すると思い込んでいます。事実、人類を地球の寄生虫とみなすネオ・マルサス的な母体の「グリーン」・イデオロギーにも、同じことが起こっています。国連、欧州連合、各国政府が下す決定は、脱炭素化といわゆる持続可能エネルギーの強制導入を正当化するために、地球温暖化という偽りの口実に基づいています。しかし、これはまさに嘘であり、強制的に大衆を全面的な支配に服従させ、エリートに不釣り合いな権力と利益を保証するための口実なのです。また、考えてみれば、公会議の推進者たちも、「教会を現代化する」と述べていましたが、それは偽りの口実であり、そのとき言葉にできなかった目的は、その反対に教会の破壊だったのです。

ディープ・ステートとディープ・チャーチは、同じ偽りのコインの裏表です。なぜなら、どちらも、創造と贖いの両方において天主を憎み、また肉体の生命と霊魂の生命に対して放たれる、同じ地獄の心に一致しているからです。このシステムは、その悪魔的な錯乱状態にもかかわらず、人々が孤立し、自らのデバイスに任せている限り、機能することが証明されています。

逆に、自分は一人ではなく、同じ世界観と同じ信仰を共有しているという自覚は、多くの人々の目を開かせ、彼らに抵抗する勇気と力を与えて、公に欺瞞を明らかにさせ、抵抗勢力を団結させます。このことは、市民(世俗)の領域でも、教会の領域でも同じです。パンデミックの茶番劇がディープ・ステートとディープ・チャーチを団結させて、超現実的で犯罪的な物語(ナラティブ)で市民と信者をつまずかせたことは、偶然の一致ではありません。

ですから、もし明らかに陰謀があるのなら、なぜ私は沈黙していなければならないのでしょうか。また、もし陰謀がないのなら、なぜ高齢の大司教の言葉を彼らはそんなに気にするのでしょうか。

【問9】多くの人がミサにあずかることができなくなるかもしれないこの激動の時代に、私たちの元后の役割と聖なるロザリオについて、何か言っていただけますか。

【ヴィガノ大司教】このインタビューは、天主の御母であり、私たちの母でもある、恩寵によって全能となられた至聖なるマリアについて触れることで終わります。女といにしえの蛇の間のこの歴史的な戦いにおいて、聖なるロザリオは、私たちが受けた堅振の秘跡によって、「キリストの兵士」(milites Christi)として貢献しなければならない最も強力な武器なのです。

皆さんの多くは、真理に「飢え」、聖性に「渇いて」います。それは、少数の高位聖職者たちや聖職者たちの抵抗と、「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)によるベネディクト十六世の御摂理的な決定のおかげで、皆さんが味わうことのできたミサの聖なる犠牲によって私たちが利用できる永遠の財産です。他の人々は、この霊的な宝があまりにも長い間、彼らから隠され、奪われてきたために、自分たちが何を失っているのかが分かっていませんが、もし彼らがそのことを分かれば、もうそれなしにはやっていけなくなるでしょう。したがって、使徒継承のミサの「原状回復」(restitutio in integrum)を要求することは、カトリック信者として、神秘体の生ける肢体としての私たちの義務であります。また、聖伝のミサを特権として与えるだけでなく、それを教会における完全かつ独占的な市民権として認めることが、教会の権威の義務なのです。

しかし、これが実現するためには、私たち全員が、聖性の生活と、私たちが洗礼を受けた信仰を勇気をもって証しすることによって、この恩寵を受けるにふさわしい者となることが必要です。キリストの教会の公的な礼拝の復興により、私たちのために用意された永遠の栄光の先取りを見ることができるように、この道において私たちを強め、「われらの代願者」(Advocata nostra)である聖母を慈悲によって動かすのは、聖徳を実践し、聖なるロザリオを絶え間なく祈ることです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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