Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2017年 12月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】
死者の月です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。
意向:死せる信者のため、よき死を迎えるため
実践すべき徳:祈り
守護の聖人:聖アンドレア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2017年 12月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    12月1日(初金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月2日(初土) 殉教者童貞聖ビビアナ(3級祝日)赤
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月10日(主) 待降節第2主日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月11日(月) 証聖者教皇聖ダマソ1世(3級祝日)白
            午前6時半 ミサ聖祭 
    12月12日(火)~12月15(金)まで毎日  ←追加されました
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月16日(土) 殉教者司教聖エウゼビオ(3級祝日)赤 ←追加されました
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月17日(主)~12月21(木)まで毎日  ←追加されました
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月22日(金) 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月23日(土) 待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
            午後9時 クリスマスの朝課、クリスマスキャロル 
            深夜11時55分 ミサ聖祭(真夜中のミサ)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白 
    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(日中のミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    12月3日(主) 待降節第1主日(1級)紫 
            午後01時  ロザリオ及び告解
            午後01時半 ミサ聖祭       ←時間が変更になりました
    12月4日(月) 宣教地では聖フランシスコ・ザベリオ1級祝日 
             教会博士証聖者司教聖ペトロ・クリソロゴの記念
            午前7時 ミサ聖祭
    12月17日(主) 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫)   ←追加されました
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭
    12月26日(火) 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎聖母の汚れなき御心への信心の実践として多くの祈りと犠牲をありがとうございました!
【聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍が終了しました】
2016年8月15日~2017年8月22日
聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍についてのお招き ←こちらをクリックしてください

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1990年9月6日、ルフェーブル大司教様の講話(スイスのエコンにて)

2012年06月29日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】

 将来に関してですが、私は一般信徒たちが皆さんに尋ねるかも知れない質問、例えば「ローマとの関係は打ち切られるのでしょうか?」という、司祭会の中で起きている事柄について良く御存知でない人々から私がしばしば受ける質問について少しだけお話したいと思います。

 数週間前、恐らく三週間前になりますが、私は再びオッディ枢機卿閣下から「ところで大司教様、解決の方法を何もお持ちでないのですか?」という電話を頂きました。そこで私は「閣下こそ変わる必要があります。聖伝にお戻りください。これは典礼の問題ではありません。信仰の問題なのです。」と答えました。枢機卿閣下は抗議しました「いえ、いえ、これは信仰の問題じゃありません。いえ、違います。教皇様には貴方を迎え入れる準備が出来ていますし、そうする事をお望みなのです。貴方の側で、赦しを求めるほんの僅かな意思表示をして下さい。ちょっとした懇願でいいですから。そうすれば全て決着するのです。」オッディ枢機卿はちょうどこんな感じで話します。

 ですが、彼は何一つ分かっていません。どこにも行き着きません。行き止まりです。彼は何も理解していないか、何も理解したくないかのどちらかです。残念ながら、同じ事が約四名の枢機卿方に当てはまります。パラッツィーニ(Palazzini)、スティックラー(Stickler)、ガニョン(Gagnon)そしてこのオッディ枢機卿です。彼らはローマで発言力や影響力を持っていませんし、一切の影響力を失っているます。今彼らにできることとは、聖ペトロ会の為に叙階式を執り行なったりする事だけなのです。それ以外に彼らの仕事はありません。皆無です。

 一方で、問題は相変わらず深刻であり、相変わらず非常に深刻なままです。私たちは絶対にそれを軽視してはいけません。つまり私たちとしては「何時になればこの危機は終わるのでしょうか?私たちは何処かに向かっているのですか?私たちの典礼や秘蹟に対して許可を頂く方法はないのですか?」という類の質問をして来る一般信徒の皆さんにこう答えなければならないのです。

 もちろん典礼や秘蹟の問題は重要ですが、それが最重要の問題ではありません。最重要の問題とは信仰の問題なのです。ローマではこの問題が未解決のままです。私たちにとってそれは解決済みなのです。私たちは永遠の信仰を持っています。それはトレント公会議公教要理や聖ピオ十世の公教要理の信仰であり、またそれ故にカトリック教会の、全公会議の、そして第二バチカン前の全教皇たちが持っていた信仰なのです。今や公式の教会は、第二バチカンの誤った思想と重大な誤謬の中で、言ってみれば頑固に堅忍しているところです。それだけははっきりしています。

 タム(Tam)神父様がメキシコから私たちにオッセルヴァトーレ・ロマーノ紙の切抜きを送って下さっています。それは教皇聖下やカザロリ枢機卿、またラッツィンガー枢機卿による演説の記事です。これがカトリック教会の公文書なのですから、誰もがその確実性を疑えません。この内容は唖然とさせるものです。

 近頃(私は失業中ですから)私は、自由主義カトリック教義(le catholicisme libéral)について、皆さんよく御存知のバルビエ神父執筆の本 l’Histoire du liberalisme <自由主義の歴史>を再読しました。私たちの戦いがちょうどフランス革命以降になる、十九世紀の偉大なカトリック教徒たちのそれであって、ピオ六世、ピオ七世、ピオ八世、グレゴリオ十六世、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世という、ピオ十二世までの教皇たちが交えた戦いであると知る事は感動的です。それでは、この戦いは何処に要約されますか?それはピオ九世によるクワンタ・クーラ(Quanta Cura)シラブス(Syllabus)、そして聖ピオ十世によるパッシェンディ・ドミニチ・グレジス(Pascendi Dominici Gregis)に於いてです。これらの文書は素晴らしいもので、当時の騒ぎを起こし、聖座の教義が近代の誤謬に面と向かって発表されました。近代の誤謬とは、革命中に表明された誤謬、それは特に人権宣言の中にある教えです。

 これが、今日私たちがそのただ中にある戦いで、同じ戦いです。つまりシラブスに賛成する人々、クワンタ・クーラに同意する人々、パッシェンディに賛成する人々がいて、またそれに反対する人々がいます。とても単純です。

 これらの公文書に反対する人々は、革命の原理である近代主義の誤謬を受け入れています。またこれらの公文書を擁護する人々は、真のカトリック信仰に留まっているのです。

 では、第二バチカンは反シラブスであるとラッツィンガー枢機卿が公式に発言された事を皆さんは良く御存知ですね。これで、彼は明らかに反シラブスの立場を取っているのです。それはつまり彼が革命の原理を取り入れているという事になるのです。さらに、彼ははっきりとこう言いました:「カトリック教会は【第二バチカン公会議によって】、自分の原理ではなく、近代社会に由来する原理を自分のものにしようと、自らを開いた。」教会の原理ではなく、近代社会に由来する原理とは、皆が理解するように、フランス革命の原理、人間の権利です。

 私たちはちょうど、ピ(Pie)枢機卿やフレッペル(Mgr. Freppel)司教、ルイ・ヴォイヨ(Louis Veuillot)、アルザス地方の代議士ケラー(Keller)、スイスのメルミヨ(Mermillod)枢機卿の立場にいます。彼らは大多数の司教たちと共に善き戦いを戦ったのです。当時は自分に賛同してくれる大多数の司教を得るという幸運がこの彼らにありました。

 しかしながら、デュパンルー(Dupanloup)司教や、彼に続いた一部のフランス人司教たちは例外を作り上げ、反シラブス派をつくりました。同様に、ドイツやイタリアのごくわずかの司教たちは公然とシラブスとピオ九世に反対しましたが、これはどちらかと言えば例外的でした。

 もちろん、革命勢力や、革命を相続する勢力らが存在しており、デュパンルー(Dupanloup)、モンタランベール(Montalembert)、ラムネ(Lamennais)などが革命に援助の手を差し伸べており、これらの支援勢力もありました。彼らは人権に反対してまでも天主の権利を守ろうとはしませんでした。これらのリベラル派が言っていたことは、「私たちは、全ての人間にの権利のみを要求する、つまり全ての各人にがもつ、全ての宗教が持つ、権利であって、私たちが要求するのは天主の権利ではない」です。

 私たちはそれと同じ状況にいます。幻想を抱いてはいけません。つまり私たちは非常に熾烈な戦いをしている真っ最中なのです。しかし教皇たちの全系列によって保証されている戦いを私たちは闘っているのです。尻込み又は恐れる必要などありません。

 ある方々はこれかあれを変更して、やはりローマと教皇には力を貸したいと思われるかも知れません。

 もしもローマと教皇が聖伝の戦線にいて、十九世紀と二十世紀前半の全教皇たちの仕事を継続しているのであれば、もちろんです。ところが彼ら自身、自分たちが新しい道を採用した事や、第二バチカン公会議が新たな時代の幕を切って落とした事、そしてカトリック教会が新しい段階を経験している事を認めています。

 信徒たちにはこの事を教えるべきだと私は思っています。彼らが教会史全体とひとつになっていることです。何故なら、結局のところこれは革命前にまでも遡るからです。つまり天主の国に対するサタンの国の戦いにまでです。

 どうすればこれは解決するのでしょうか?これは天主の秘密であって、神秘です。ただ心配する必要はなく、善き天主の恩寵に信頼する必要があるのです。

 ラッツィンガー枢機卿やカザロリ枢機卿、ヴィルブランド(Willebrands)枢機卿、その他多くの人々同様に、教皇の口から表明している思想である、現在のローマに蔓延している思想と戦わなければならないのは明白です。これらの思想は、教皇たちが一世紀半に亘って荘厳に述べ、断言された事柄の逆を繰り返す事しかしないので、私たちはそれと戦います。

 ですから選ばなければなりません。次は私が教皇パウロ六世に申し上げた事です。「私たちは聖下と公会議を選ぶか、あるいは聖下の前任者たちを選ぶか、どちらかを選ぶことを余儀なくされています。カトリック教会の教義を主張された前任者たちについて行くべきでしょうか、それとも聖下が主張された第二バチカン公会議の新しさについて行くべきでしょうか。」

 彼は私に「おお、ここで神学論争をしている場合じゃありません」とお答えになりました。ですからそれははっきりしています!少しも躊躇するには及びません。
(続く)

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「召し出しを識別する祈り」

2012年06月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 「召し出しを識別する祈り」を日本語に訳して下さった方があります。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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召し出しに関する祈り
人生の身分選択のための祈り

(一日に三百日の贖宥。聖ピオ十世。一九〇五年五月六日)

 我が天主よ、御身は、上智と賢慮の天主にてまします。御身のみを喜ばしめ、我が人生の身分を選び奉るにより、御身のいとも聖なる望みにまったく一致して、自らを律し奉らんとの真摯なる意志を、我が心の内にて読み取り給う御者よ。願わくは至聖なる童貞、我がおん母、我が聖なる保護の聖人、ことに聖ヨゼフと聖アロイジオのおん取り次ぎによりて、我が願いを聞き入れ給え。すなわち、我が選ぶべき身分と、そを受諾すべき時とを、悟らせ給うおん恵みを垂れ給え。かくて、我をして御身の栄えを求めしめ、いや増し奉り、我が救霊を全うせしめ、御身がそのとうときみ旨を行う者らに約束し給うた天国の報いにふさわしからしめんがためなり。アメン。


Prayers relating to Vocations
Prayer For THE CHOICE OF A STATE OF LIFE
(Indulgence, 300 days, once a day, St. Pius X, May 6, 1905)


O my God, Thou who art the God of wisdom and of counsel, Thou who readest in my heart the sincere will to please Thee alone, and to govern myself with regard to my choice of a state of life, entirely in conformity with Thy most holy desire; grant me, by the intercession of the most blessed Virgin, my Mother, and of my holy patrons, especially of St. Joseph and St. Aloysius, the grace to know what state I ought to choose, and when to embrace it, so that in it I may be able to pursue and increase Thy glory, work out my salvation, and merit that heavenly reward which Thou hast promised to those who do Thy holy Will. Amen

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ローマと聖ピオ十世会との関係について2012年6月14日の聖ピオ十世会の本部の公式発表

2012年06月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 バチカンと聖ピオ十世会との関係についてお知らせします。

まず、2012年6月14日の聖ピオ十世会の本部の公式発表は、以下の通りです。
Communiqué of the General House of the Society of Saint Pius X (June 14, 2012). DICI 257

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聖ピオ十世会の本部の公式発表(二〇一二年六月十四日)


二〇一二年六月十三日水曜日、聖ピオ十世会総長、ベルナール・フェレー司教と、同伴の第一補佐ニクラス・フルーガー神父は、教理聖省長官ウィリアム・レヴァダ枢機卿の出迎えを受けた。レヴァダ枢機卿は、二〇一二年四月十五日付で聖ピオ十世会が教理聖省にあてて送付した、教義上の宣言に関する教理聖省による評価を、フェレー司教に手渡した。同書は二〇一一年九月十四日、教理聖省より提示された、教義上の前提(Doctrinal Preamble)への回答文書である。

この会見の間、フェレー司教はレヴァダ枢機卿からの説明と、さらに踏み込んだ詳細事項に耳を傾けた。同枢機卿に対し、フェレー司教は兄弟会の状況を提示し、第二ヴァチカン公会議と新しいミサによって引き起こされた数々の教義上の問題点を詳しく説明した。より多くの明確な説明を要求されたことで、今後の話し合いに新しい局面が生じる可能性がある。

二時間を超える長い会談の後、フェレー司教は、兄弟会の教会法上の承認の可能性に関して、属人区の提案をしたためた草案文書を受け取った。会談の間、兄弟会の他の三名の司教たちの状況に関しての議論はされなかった。

この会談の結論として、教会と霊魂の善のための解決に両者が到達することを許すことができるように、話し合いは続行されるだろうと期待された。

二〇一二年六月十四日、メンツィンゲンにて

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●バチカンの情報筋によると、ベネディクト十六世は、聖ピオ十世会に関する決定を5月末にすると言われていた。 DICI The Sources Closest to the Case

聖座の公式報道:2012年3月16日の、教理聖省と聖ピオ十世会との会談

フェレー司教様の2012年2月2日のお説教

フェレー司教様の2011年12月8日のお説教

フェレー司教様の2011年11月28日のインタビュー

●ドイツ管区のウェブ・サイトの聖ピオ十世会総会のお知らせ(二〇一二年六月二十三日、十時二十六分土曜日投稿)を日本語に訳して下さった方がいらっしゃいますので、ふかく感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

==以下よりドイツ管区のウェブ・サイトの翻訳です==


七月九日から十四日にかけて、エコンの総母院において総会が開かれる。

実際のところ、この総会は、純粋に会の組織的事項を明確にするため、ずっと前から計画されてきたものである。兄弟会がローマとの関係において、極めて重要な決断をしなければならないこの時に、総会がちょうど開かれることになるとは、誰にもわからなかった。

会憲は、総会の席に連なる者を、原則として、総会が招集される際に決定すると定めている。そのことについては会憲の第五項に述べられている。

──

V. De Sodalitii Administratione
2 総会について

総会は、十二年ごとに、総長とその補佐二名を選挙するため開催される。この総会は、当会が会憲に忠実に従っているかどうか、会憲の精神を保持する努力をしているかどうか、検証する役目をも担っている。変更や修正を持ち込まないよう慎重であらねばならない。ただし、当会の発展と、その管理に関する事柄においてはこの限りではない。

3. 総会の構成員について

- 前総長、及びその補佐二名。秘書長と会計長。
- 管区長各位
-神学校校長神父各位
- 自治修道院長各位
- 兄弟会管理下の補佐司教各位
- 元総長各位
- 最後に、当会が、千名未満の司祭たちを会員として定めている間、職務にある会員の三分の一の範囲において以下の者。すなわち、当会における最長期間の会員であるすべての司祭及び終生誓願を立てた者(同時に立てた者がいる場合、最年長者)。


──

六月に開かれる予定であった総会は、純粋に「実務的事項に関する総会」として計画されていた。実務的問題について話し合う必要があるからである。従って今回の総会は、二〇〇六年に最後の総会が開かれて以来、通常十二年間隔で開催される総会の範疇の外にある。

総長は、六月二十日付で、すべての司祭たちに、六月三十日から七月八日までノヴェナの祈りをするよう呼びかけ、依頼した。「聖霊来たり給え Veni sancte spiritus」、続いて「聖母のけがれなき御心よ、我らのために祈り給え(三回)」そして「聖ピオ十世、我らのために祈り給え」を、毎日祈ること。
【注:本部からの通達によれば、12年ごとの総会の前に通常するように、Veni Sancte Spiritus ではなく、Veni Creator Spiritus となっています。】

総会において、総長は、会内の結束を強めるための有利な条件を信頼をもって行使するだろう。

現在進行中のローマとの話し合いにおいて、兄弟会は結束して行動することが最重要課題である。無意味な分裂の数々は、ルフェーブル大司教の事業を、ひいては教会の聖伝を衰退させることになる。

従って、ローマの申し出に対し、最大可能な意見の一致の内に返答するため、兄弟会の長上たちが視点を切り替えることが非常に望ましい。その場に出席する総長にとって、それが重要であるだろうし、[ローマの申し出に]賛成か反対か、この周知の議論を取り扱うことを広く公にするだろう。

しかしながら、最終決定は総長の手の内にある。兄弟会は、司教たちの同盟、もしくは合議制協議会によらず──カトリック修道会にふさわしく──一人の総長によって率いられる。
【注:これは創立者ルフェーブル大司教の御意志によってそう定められています。】

教会の歴史にとって、この困難かつ決定的な時期において、私たちは兄弟会を支持するすべての平信者たちに、祈りをいっそう増してくれることを願いたい。

最初の使徒ペトロが牢獄にいたとき(使徒行録十二章)、平信者についてこのように述べられている。「彼のために、教会は絶えず神に祈り続けた」(使徒行録十二章五節)

この模範に倣おう! 兄弟会の指導者たちのために祈ろう! 可能ならば、司祭ととともに、総会に聖霊がお降(くだ)りになってくださるための、ノヴェナの祈りに参加しよう。

聖霊来たり給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火を我らに燃えしめ給え。
V. 主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずのものは造られん。
R. 地の面は新たにならん。

祈願。聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊を持って我らに正しきことを悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめたまえ。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

聖母のけがれなき御心よ、我らのために祈り給え!(三回)
聖ピオ十世、我らのために祈り給え

二〇〇六年の総会はエコン神学校で開かれた。まもなく、世界中の司祭たちが、聖ピオ十世会創立者、ルフェーブル大司教閣下が埋葬されたその地に駆けつける予定である。

==以上でドイツ管区のウェブ・サイトの翻訳は終わりです==


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料】
2006年聖ピオ十世会 総会の宣言
 
 天主の光栄のため、霊魂の救いのため、教会への真の奉仕のため、2006年7月3日から15日まで、スイスのエコンで開かれた聖ピオ十世会の第3回総会 において、聖ピオ十世会は天主の御助けにより、その崇敬する創立者マルセル・ルフェーブル大司教によって置かれた教義上及び実践上の方針に従って、その行 動を続けるという固い決心を宣言する。

 カトリック信仰のための戦いにおいてルフェーブル大司教の足跡に従いながら、ルフェーブル大司教がその数々の講話と説教で、とりわけ1974年11月 21日の宣言で次のように表明したように、聖ピオ十世会はルフェーブル大司教の第二バチカン公会議とその改革に関する批判を完全に自分のものとする。

「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠 のローマ、知恵と真理の師であるローマに固執する。しかしながら、私たちは第2バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れ た公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。」

 ここ数年の間ローマとの接触を持ったが、それは聖ピオ十世会をして2つの前提条件(注1)がどれ程正しく必要であったかを理解させた。何故なら、これら は少なくとも部分的にも、教会自身の聖伝にたいする権利を復興させることによって教会に多大に利益をもたらすものであるからである。聖ピオ十世会が手にし ている聖寵の宝が、もはや升の中に隠されないばかりか、さらには神秘体にも癒されるためにそれが必要としている薬が与えられるためである。

 これらの前提条件が満足されるや、聖ピオ十世会は教義に関する討論をすることができると考えるが、その目的は教会内において聖伝の教えがより明確に響き 渡るためである。同様に、ローマの当局と時折コンタクトが取られるが、それはローマ当局をして、教会がそのアイデンティティーを失うことなく喪失すること の出来ない聖伝をもう一度抱擁することができるように手伝うため以外の何ものでもない。この目的は、単に聖ピオ十世会の利益のためでも、何らかの単に実践 的だけの不可能な同意に達するためでもない。聖伝が自らの地位に再び戻った時「和解はすでに問題ではなくなっているであろうし、教会は命を吹き返すであろ う」(注2)。

 この聖伝回復への長い道のりにおいて、総会は聖ピオ十世会の全ての会員たちに、その会憲が要求する通り、今までに優って力強くそれに固有の聖寵によって 生活するようにと奨励する。即ち、大司祭イエズス・キリストの偉大な祈りであるミサ聖祭と一致して生きることである。彼らが、信徒たちとともに、教会の最 も奥深くにおけるより一層の聖化への努力において、現代に生きる私たちの不幸のための唯一の解決策が見いだされるべきであること、つまり教会が司祭職の復 興を通して復興されることを、確信するように。

 最後に私の汚れなき御心が凱旋するでしょう。

(注1) 聖伝のミサのための無条件の自由と聖ピオ十世会の四名の司教らの「破門令」の撤回のこと。
(注2)1988年6月2日のルフェーブル大司教からヨハネ・パウロ二世教皇への手紙

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カトリック教会のためのロザリオの十字軍、40,205環のロザリオが集まりました

2012年06月26日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨年の復活祭からフェレー司教様が発動した第4次ロザリオの十字軍で、日本から受けた最後のロザリオの十字軍のご報告を申し上げます。
 2011年4月23日から2012年5月27日までの分として、日本から、総計
 ロザリオ 40,205 環

 の報告を頂きました。深く感謝します。

 なお、全世界からは 11,528,573 環のロザリオが集まりました。ありがとうございます。多い順に次の国が挙げられます。
USA 4525217環
France 2116309環
Asia 694449環
Germany 586359環
Canada 501104環
Africa 450443環
South America 393600環
Mexico 357794環

 残念ながら、報告されたものでは、今回は一二〇〇万環には届かず、約47.2万環が足りませんでした。

 メールで受けた報告とは別にも、マキシミリアノさんから617環、レジナさんから665環、マリア・テレジアさんから1592環のロザリオの報告を受けました。ありがとうございます。


【報告】
お元気でしょうか?

報告が遅くなりました。4月は28環、聖ヨゼフの連祷5回、聖心の連祷5回、煉獄の霊魂の為の祈り(イエズスへの御傷への聖ベルナールの信心)28回、5月は30環、聖マリアの連祷30回、聖心の連祷5回、煉獄の霊魂の為の祈り(イエズスへの御傷への聖ベルナールの信心)30回、聖ヨゼフの連祷5回を唱えました。
 早くまともなミサがささげられるように祈っています。今の教皇様は何とかして少しづつでも軌道修正したいとお考えではないですか?
平成のノアの大洪水とも言うべき震災と津波、何か人類に語りかけておられるような気がします。石原知事が天罰だと言われた事も意味のあるような気がします。お祈りしています。くれぐれも体に気をつけて下さいね。合掌

【報告】
5月分の、マリアの分26環書き忘れておりました(@_@;)
それと、追加で、エリザベト 4月分60環 5月分54環との事でした。

【報告】
小野田修道院長様、ブログなどを通していつもお世話して下さりありがとうございます。すみません。遅れてしまいましたがまとめてですが、第四次ロザリオ十字軍の報告をさせて頂きます。401環でお願い致します。お祈りの最中に気を散らしたりして集中出来ないことが多くありました。聖母マリア様の御憐れみをお願いいたします。
神父様におかれましては、お忙しい中、お身体には十分お気をつけ下さいませ。聖母マリア様の御取り次ぎを願って天主様の御旨が行われてますようにお祈りさせて頂きます。それではまたよろしくお願いいたします。失礼します。



【お便り】
小野田神父様、
お元気ですか。

ちょっとすみません。いま OLVCWeeklyBulletin をよみました。 Mateo Crawley-Boevey 神父様のためのお話を心からありがとうございます。先日FSSPX のSTUTTGARTの教会で Mateo Crawley-Boevey神父様のための伝記をかって、感銘 の深ったです。でもそのTrappistのところでした説教はありません。

 OLVC Weekly Bulletinで読められるのは感謝いたします!そして Lumberjack のお話も大好きです!Mateo Crawley-Boevey 神父様のための伝記の本には写真も少なく ありますが、鹿児島のは一枚、PHILIPPINE のは二枚です。ドイツ語で書いて ありますが、その本はいかがですか。よろこんで送ります。

ところであの Lafcadio Hearn の本はどう思いますか。
神父様の Credidimus Caritati のホームページで秋田の巡礼の写真を待っていましたがOLVCのホームページで見つけました^.^ 私の日本語はあまりよくならないので神父様のホームページをあまり読めません、すみません。シャヤル神父様のために心からお祈りのうちに。

ところで「Credidimus Caritati」:そこでみつけられますか:http://pius.info/index.php?option=com_phocagallery&view=category&id=1381&Itemid=675 ^.^

毎日心からお祈りのうちに、

【お返事】
ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日は大変きれいですね!


SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012

SSPX ドイツ管区のシュツットガルトでの御聖体の祝日2012



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愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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聖ピオ十世会の総会について、ドイツ管区のウェブ・サイトから

2012年06月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の総会について、ドイツ管区のウェブ・サイトが説明をしてくれています。ドイツ語原文

 ドイツ語から英語に訳して下さった方がおられますので、心から感謝するとともに、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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General Chapter of the SSPX
(posted Saturday, 23 June 2012 at 10:26)


From 9 to 14 July a General Chapter meets in Econe, the Mother House of the Society.

Actually, this general chapter has long been planned in order to clarify purely organizational matters.

No one could know that it would just fall into the time when the Society has to make crucial decisions in the relationship with Rome.

The Statutes of the Society determine who belongs to a general chapter, and when it will be convened in principle. It states in paragraph 5:

V. De Sodalitii Administratione

2. About the General Chapter

It meets every 12 years for the election of the Superior General and his two assistants. It also has the task of verifying whether the Society carefully follows the statutes and whether it strives to preserve the spirit of these statutes. One should be careful not to introduce modifications or changes, except perhaps in the chapter on the management of the Society with regard to their development.

3. About the members of the General Chapter

- The former superior general and his two assistants, the Secretary-General and the General Treasurer

- The District Superiors

- The Seminary Rectors

- The superiors of autonomous houses

- The auxiliary bishops in the service of the Society

- The former Superior Generals

- Finally all those priests who have been the longest members of the Society and have made their perpetual promise (among the same, the eldest), to the extent of one third of the members ex officio, as long as the Society numbers less than 1,000 priests as members.


The General Chapter scheduled for June was planned as pure "organizational general chapter", because practical things should be discussed. It is therefore outside the normal interval of 12 years since the last General Chapter held in 2006.

The Superior General asked in a circular dated 21 of June all priests to pray a novena from 30 of June to 8 of July. Daily a prayer "Veni sancte spiritus" - "Come, Creator Ghost" followed by the invocation "Immaculate Heart of Mary, pray for us" (three times) and "Saint Pius X, pray for us" should be prayed.

In the chapter the Superior General with trust will use the opportunity to strengthen the unity within the Society.

Just in the current discussions with Rome, it is of utmost importance that the Society act together. Any unnecessary division would mean a weakening of the work of Archbishop Lefebvre, and thus the tradition of the Church.

It is thus very desirable that the superiors of the Society exchange views in order to respond in the greatest possible consensus to the offer of Rome. It will be important for the Superior General to be there, open to deal with the arguments that are put forward in favor or against it.

However the final decision rests in his hand. The Society is not headed by a bishops association or a collegial conference, but - as befits a Catholic congregation - by a general.

In this difficult and decisive moment for the church history, we would like to ask all the faithful of the Society, to multiply their prayers!

When Peter, the first apostle, was in prison (Acts Chapter 12), it is said about the faithful: "The congregation prayed for him without ceasing to be God." (Acts 12:5).

Let us follow their example! Let us pray for the leaders of the Society. Join - if possible - the novena of your priest and you call the Holy Ghost down to the General Chapter:

Come Holy Ghost, fill the hearts of Thy faithful and enkindle in them the fire of Thy love.

V. Send forth Thy Spirit and they shall be created.

R. And Thou shalt renew the face of the earth.

Let us pray. O God, Who hast taught the hearts of the faithful by the light of the Holy Ghost, grant that, by the gift of the same Spirit, we may be always truly wise, and ever rejoice in His consolation. Through Christ Our Lord. Amen.


Immaculate Heart of Mary - Pray for us! (Three times)

Saint Pius X - Pray for us.


The General Chapter of 2006 in the courtyard of the Seminary of Econe. Soon priests from all over the world will come to where the founder of the Society is buried: His Eminence Archbishop Lefebvre.
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6月30日から7月8日まで、総会のためのノベナのお願い

2012年06月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会本部より要請があり、私たちは6月30日から7月8日まで、総会のためにノベナをすることになりました。愛する兄弟姉妹の皆様にもご招待いたします。

 ノベナは、九日間、次の祈りを唱えることにあります。

Veni Creator Spiritus

聖母の汚れなき御心よ、▲我らのために祈り給え。(3回繰り返す)
聖ピオ十世、▲我らのために祈り給え!

です。よろしくお願いいたします。

また、聖ピオ十世会の会員は、7月6日の金曜日には、大齋小齋を行います。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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二〇一二年六月一五日、ティシエ司教様による叙階式での説教 ウィノナにて

2012年06月24日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式の時のお説教を日本語に訳して下さった方があります。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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Bishop Tissier - Ordination Sermon June 2012, Winona.
二〇一二年六月一五日、ティシエ司教様による叙階式での説教 ウィノナにて


原文はこちら

youtubeの映像



父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。

親愛なる管区長様、神学校校長神父様、神学生の皆さん、司祭職における親愛なる同僚の皆さん、親愛なる叙階候補者の皆さん、親愛なる信者の皆さん。至聖なるイエズスの聖心の、この最も重要な祝日において、私たちはこの叙階式を執行しております。私たちは、使徒聖ヨハネの福音書におけるこのみことばを、使徒聖ヨハネとともに言えるでしょう。
"[V]idimus gloriam ejus, [gloriam] quasi unigeniti a Patre plenum gratiae, et veritatis."
 私たちはその栄光、聖心の栄光、おん父のひとり子の聖心の、恩寵と真理に満ちた栄光を見た。その満ちあふれるところから、私たちはすべてを受けた。恩寵と真理に満ちておられる至聖なるイエズスの聖心よ、我らは御身に全幅の信頼を寄せ奉る、と。
[訳注: ヨハネ福音書第一章十四節~十六節]

親愛なる未来の助祭と司祭たちよ、恩寵と実りはあなた方の模範となる二人の聖人の生涯において輝いています──聖ステファノと聖ヨハネ──聖ステファノは助祭の模範であり、聖ヨハネは司祭の模範です。まず初めに、助祭の模範なる聖ステファノについて話しましょう。彼は助祭の務めに選ばれました。それはつまり、彼の信仰告白の堅固さと、祭壇の至聖なる秘跡の奉仕の故に、貞潔の模範として選ばれたのです。Cogitate Beatum Stephanum merito praecipuae castitatis ad officium istud electrum. 「聖ステファノが、特に貞潔の徳の功徳のおかげで、この務めに選ばれたことに思いを馳せよ。」これは「ローマ司教儀式書」の言葉です。

「ローマ司教儀式書」は助祭たちにこう説明しています。「あなたたちは、主のおん体とおん血の聖職者と共同奉仕者になるため呼ばれたのであるから、あなたたちは、あらゆる肉の誘惑の敵とならねばならない。聖書にあるように『主の聖なる器を運ぶあなたたちは、自分自身を清くせよ。』」
 ですが、まず初めに未来の助祭たちに命じられるものは貞潔の徳の実行です。「ローマ司教儀式書」の力強い言い方を黙想しましょう。Cogitate Beatum Stephanum. 聖ステファノに思いを馳せなさい。貞潔の徳のみならず、祭壇の聖なる奥義におけるその関与によっても最も称賛すべき聖ステファノを。

あなた方は、主のおん体とおん血の共同奉仕者であり共同労働者です。主のおん体とおん血の共同奉仕者、共同執行者──力強い言葉です。あなた方は司教荘厳ミサにおいて仕えることができるようになり、カリスを捧げることができるようになるので、あなた方と司教は、奉献の時にカリスをともにお捧げするのです。あなた方は公に祭壇の聖体を顕示することができるようになり、特別奉仕者として、聖体を配ることができるようになるでしょう。主のおん体とおん血の共同従事者。なんという尊い役目! 聖体のおそば近くに、聖なる犠牲のおそば近くにお仕えする、なんという幸福!

"Cogitate Beatum Stephanum"──私たちの主、イエズス・キリストの天主性を告白する信仰の堅固さの故に、最も称賛すべき祝された聖ステファノに思いを馳せましょう。聖ステファノがイエズスの天主性を告白したなら石殺しにするつもりであったユダヤ人たちの前で、聖ステファノはその信仰を告白しました。恩寵と堅固さに満たされて──恩寵と堅固さに満たされてです! 彼は人々の間で偉大な奇跡としるしを行いました。ユダヤ人たちは、彼の口から出た知恵と霊に抵抗することができませんでした。それでも聖ステファノは「あなた方、頭が固く、心と耳において割礼を受けていないあなた方は絶えず聖霊に逆らっています。常に聖霊に逆らっています。あなた方の先祖がそうであったように、あなた方も同じです」と言いました。聖霊に逆らうということ! 教会の中に改革を導入し、聖霊に反抗することを望んでいる第二ヴァチカン公会議について私たちは考えます。[訳注: 使徒行録七章五十一節]

そして、祝された聖ステファノはこう締めくくります。「あなた方! あなた方が、あなた方の先祖が迫害しなかった預言者たちがいるでしょうか? あなた方の先祖が破門せず、汚名を着せなかった預言者たちがいるでしょうか? あなた方の先祖が迫害しなかった預言者たちがいるでしょうか?」
そして彼はこのように言います。あなた方が裏切って殺してしまったかの義人の来臨を預言した人々も同じように殺してしまいました、と。聖ステファノは恩寵と堅固さに満たされ、祝された救い主の殺害者であるユダヤ人たちを非難しました。使徒行録には次のような書いてあります。すなわち「しかし、彼、ステファノは、聖霊に満たされて、しっかりと天を仰ぎながら、天主の右に立っておられるイエズス、イエズスにおける天主の栄光を見た」そして彼は「見なさい、私は、天が開かれ、天主の右に立っておられる天主のおん子を見ている」と言い、その言葉でもって彼は殺されました。石殺しにされたのでした。
[訳注: 使徒行録七章五十二節~六十節]

なんという称賛すべき知力と勇気の賜物の模範、信仰による知性と、信仰を持つ人生における堅固さの賜物の模範、私たちの大切な聖ピオ十世会の助祭たちのあるべき姿の模範でしょうか! 助祭として私の最愛の息子たちよ、あなた方は、絶え間なく続く苦闘において、敵と戦うための準備を怠らない天主の教会の奉仕者です。この言葉の数々は、教会について述べている「ローマ司教儀式書」の言葉──絶え間なく続く戦闘において、敵と戦うための準備を怠らない教会について述べている言葉です。

この敵たちとは、近代主義者たちとその新しい宗教──罪も、痛悔も、償いも、赦しも、犠牲も、贖罪も、まことの愛徳もない新しい宗教のことです。ご存知の通り、犠牲なくしてまことの愛徳はあり得ません。ですから、新しいミサという徽章を帯びているこの偽りの宗教に対して、親愛なる未来の助祭たちよ、あなた方はこの新しい宗教、自然主義の宗教の異端的な歪みを非難せねばならないでしょう。自然主義の宗教をです! あなた方は、カルワリオの償いの生贄の真理を、ミサ聖祭の贖罪の生贄の真理を述べ伝えねばならないのです。

さて、次に、親愛なる司祭候補者の皆さん、あなた方の模範となるのは使徒聖ヨハネです。

しかし最初に、「ローマ司教儀式書」に従って勧告する司教の言葉に耳を傾けましょう──"Sacerdotem etenim oportet offerre, benedicere, praeesse, praedicare, et baptizare." 司祭は、捧げ、祝福し、主宰し、説教し、洗礼を授けなければならない。

初めの三つの役目──捧げ、祝別し、主宰する──は、ミサの聖なる犠牲を司ることです。司祭は天主の神的な生贄を捧げます。司祭はカリスとホスチアを聖別します。そして、叙階された奉仕者のみが執り行うことのできる聖祭を司ります。叙階された者のみが執り行う、特別な秘跡のしるし──叙階の秘跡のしるしの結果、司祭はキリストのペルソナにおいて振る舞うことができ、キリストがなさったことをすることができます。つまり、私たちの主イエズス・キリストのおん体と、とうといおん血を奉献──血を流さない、十字架上の生贄を再現することができるのです。「ローマ司教儀式書」は、天主なるおん父への次のような祈りにおいて、この素晴らしい権能を描写しています。「御身の民が御身に従順であることの発露として、おお天主よ、御身の司祭らが、けがれなき祝福により、パンとぶどう酒を、御身のおん子のおん体とおん血に変化させますように」

非常に単純な言葉です! 非常に深遠な意味を持っています。このミサの典文(カノン)の祈りにおけるけがれなき祝福、特に、この感嘆すべき変化、言うなれば変容を成し遂げるミサ典文中の奉献の祈り、これは、聖なるトリエント公会議によって、正しく「全実体変化」と言われています。つまり、パンをイエズス・キリストのおん体に、ぶどう酒をイエズス・キリストのおん血に変化させる奇跡、聖変化のことです。これこそあなた方の持つ主なる権能です──ミサ聖祭中の典文によって全実体変化を起こさせること。あなた方は捧げ、聖別し、ミサの聖なる犠牲を司る権能を持つのです。

それから、司祭のもう二つの権能、つまり、説教し、洗礼を授けるということ。洗礼についてお話ししまょう。司祭は洗礼を授ける権能を持ちます。それはつまり、洗礼の秘跡によっても、また告解の秘跡によっても、二つの秘蹟によって成聖の恩寵を増すということです。この二つの秘跡! 二つ目の秘跡は、今日の教会においてほとんど忘れ去られています。告解の秘跡──忘れ去られた秘跡! 最初の一つ、洗礼の秘跡は今日では歪められています──新しい自然主義の宗教によって歪められています。天主の生命を与える代わりに、単に名前を洗礼台帳に記入されるだけのものになっています。それでは充分な理解とは言えません。洗礼は真実に原罪を破壊し、霊魂に成聖の恩寵を注ぎます。これがカトリック信仰です。だからこそ、親愛なる未来の司祭と助祭たちよ、この新しい宗教に決して妥協しないで下さい。昔からのカトリック教会の教えと、私が「新教会 "new church"」 と呼ぶ教えとの間には、まったく正反対のものがあります。そのことを曖昧にしてはいけません。これは教会でないどころか、毒、教会を毒するだけのものなのです。

私は「ローマ司教儀式書」とともに、未来の助祭であるあなた方に聖ステファノについて申しました。未来の司祭であるあなた方にはこう申しましょう "Cogitate beatum Joannem" (聖ヨハネに思いを馳せよ)と。
祝された使徒聖ヨハネについて説教しましょう。Cogitate beatum Joannem. 聖ヨハネに思いを馳せよ──死にゆくキリストが、その天主のおん母をお委ねになった、いとも優れた司祭。童貞マリアは聖ヨハネの立てたミサにあずかり、その手からご聖体を拝領しました。つまり、聖母のとうとい愛より芽吹き、そのとうとい御胎に命を宿されたのと同じおん体とおん血を拝領したのです。なんという神秘! 司祭職のなんという至高なる名誉! このことへの深い尊敬の念とともに、聖ヨハネはミサの聖なる犠牲を捧げたに違いありません。

聖ヨハネは、「ローマ司教儀式書」が数え上げるその徳の数々によって、司祭職に備わる多くの徳の模範のように見えます。すなわち、正義、貞節、安定、慈悲深さ、堅忍、そして他の多くの徳です。しかし、聖ヨハネを正義の人、慈悲深く、謙遜で、従順で、柔和で、優しく、親切で、上品な、平和に満ちた、良識ある、慎重な、もの静かな、そしてたぶん物惜しみすることのない方としてのみ、思い描かないで下さい。そうではありません! 彼は称賛に価する、親しみやすい、すぐれた聖人であることは間違いありません。しかし聖ヨハネの徳はただそれだけではないのです。聖ヨハネの魂を描くには、それだけでは充分ではありません。彼は子羊の前でもおとなしい羊であるだけなく、蛇の知恵と賢さを持っていました。なによりも、彼には強靭さと獅子の如き咆哮が備わっていました。強靭さと獅子の如き咆哮! これこそ、使徒聖ヨハネの真の姿を描写していると言えます。 

彼は、その時代の異端に非常に力強い言葉で反論することができ、彼らに反対して──天主が人となられたという教えを、人が天主となったという教えに歪めた人々--- ちょうど教皇パウロ六世が、第二ヴァチカン公会議に着手することについて述べたのと同じことですが --- に反対して、確固たる態度を取ることができました。
ですから、天主が人となられたというまことの教えに代わって、人が天主となったという新しい教えに反対して苦闘する聖ヨハネの同じ言葉を、第二バチカン公会議にあてはめてみます。聖ヨハネが、その最初の書簡で書いた、人が天主となったという新しい教えについて読んでみることにしましょう。そこには、人間の尊厳、人権についての教えが述べられています。聖ヨハネは「偽り者とは誰か? イエズスがキリストであることを否定する者ではないか?」これこそ、おん父とおん子を否定する反キリストのことです。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 二章二十二~二十三節]

天主のご託身を否定する者は、天主が私たちを救うためまことに人となられた-- そしてその反対ではありません--- ということを否定します。その反対とは、人が天主となったということ、これこそ人間の尊厳と人権の宗教です。人が天主となる! 「否」と聖ヨハネは言います。私たちの教えは、天主が人となられたという宗教である──天主の聖なるご託身の玄義による宗教であると。聖ヨハネは続けて「おん子を否む者はおん父を持たず、おん子を宣言するものは、おん父をも持っている」と言います。これが私たちの取るべき態度です──イエズス・キリストの神性を宣言すること、天主のおん子は人となられたということを宣言すること、おん子は天主であり、王であるということを宣言することです。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 第二章二十三節]

親愛なる未来の司祭たちよ、この新しい、聖伝に由来しない宗教に反対して、聖ヨハネのように、信者たちによくよく警告しなさい。あなたたちに関して聖ヨハネは言っています。「あなたたちが初めから聞いたことを、あなたたちのうちに留めなさい。初めから聞いたことを、あなたたちの内に留めなさい。つまり教会の聖伝を保ちなさい。私たちは受け取ったものを告白します。初めから聞いたことを、あなたたちの内に留めなさい。初めからあなたたちが聞いたことが、あなたたちの内に留まるなら、あなたたちもまた、おん子とおん父の内に留まるでしょう」これは、使徒聖ヨハネの力強い、真理から来る言葉です。[訳注: ヨハネの第一の手紙 第二章二十四節]

親愛なる未来の司祭たちよ、聖ヨハネは、私たちの主イエズス・キリストの王権、社会的、政治的王権を否定する者たちに反対して、イエズス・キリストは天主であり、王であるということを否定する自由主義者たちに反対して、どのように戦えばよいのかを諭しています。聖ヨハネは、すでにその書簡で、キリストを認めない人々、イエズス・キリストと分裂した人々──キリストの神性を受け入れる一方で、その王権を否定していた人々を糾弾しました! そうです、彼らは「キリストは天主である、だが王ではない」と言いました。そして今日、第二ヴァチカン公会議から来る自由主義が、教会内におけるこのありさまを作り出しています。彼らはイエズス・キリストは天主であると受け入れますが、王であることは否定するのです! キリストが王として統治すべきであることを否定するのです! ですから、私たちはこれに反対し、戦わなければなりません。

書簡における聖ヨハネの言葉を引用しましょう。「イエズス・キリストは肉体をとられたと告白するすべての霊は天主から来る。繰り返す、イエズス・キリストは肉体をとられたと告白する霊は天主から来る。そしてイエズスを認めないすべての霊は、天主から来ていない。これは反キリストであり、彼が来るということを私たちは聞いている。そして彼らはすでにこの世、このひどい世に来ている──反キリストはすでに世に来ている」と、聖ヨハネは初めから言っていました! キリストの王権を否定すること、これこそ、反キリストの仕業です。親愛なる未来の助祭と司祭たちよ、従って、現代において、聖なる公教会を異端と不幸で満たす近代主義者たちに反対し、キリスト教世界の遺産を破壊しつつある近代主義者たちに反対し、説教することを固く決意して下さい。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 第四章二節~三節]

親愛なる信者の皆さん、秘跡の恩寵、特にミサ聖祭と司祭職の恩寵のおかげをもって、まことのキリスト教世界の再建に奉仕することができることを誇りに思いましょう。聖ピオ十世会は、いかなる和解も、第二ヴァチカン公会議に依って立つこの新しい宗教への妥協も、私が描写したこの種の「新教会」へのいかなる合意も協定も、断じて受け入れません。この「新教会」は教会と革命の間の許されない不義の結合から生まれたのです。ルフェーブル大司教様はすでに三十年前、教会と革命との間に起きた、公会議が成し遂げた姦淫の結合について話されていました。

この不義の結合は、現代世界憲章 No. 11によると、第二ヴァチカン公会議の主要な目的です。この公会議は、二百年にわたる自由主義の誤謬の数々を導入するという計画を持ったものでした。これが第二ヴァチカン公会議の主な目的です。信仰の教義に自由主義の誤謬を導入するという、この悪しきさまざまな意向を差し挟んだあげく、それと同じくらいの聖霊のおん助けによる支えを公会議に期待するのは不可能なことでした。それは不可能です! この公会議には、この意向を差し挟んだと同じくらいの拘束力を持つ義務はありません──司牧の権威もありません。私たちは、第二ヴァチカン公会議を、真理にふさわしい公会議であると受け入れることはできません。


では、結論を出しましょう。親愛なる信者の皆さん、未来の助祭と司祭たちよ。信仰の真理のための、聖ピオ十世会のこの戦いを続けましょう、特に、私たちの主イエズス・キリストの王権と司祭職の真理のための戦いを。イエズス・キリストは天主です! このお方は司祭です! このお方は王です! これが私たちの説いてきたことです。あなた方、司祭と助祭たちがこれから説くことです。私たちの主、イエズス・キリストの王権と神性、司祭職についても、心の底から説き続けて下さい。童貞なるマリア様が、その信仰においてもけがれなき童貞女であるマリア様が、教会の聖なる戦いにおいて、あなた方、未来の司祭と助祭たちを守ってくださいますように。

[ラテン語での激励の言葉がここで入る。] 教会は、絶え間なく続く戦闘において、敵どもに一撃をくらわせ、戦い、反撃する準備が、怠りなくできています。この戦いはルフェーブル大司教様の戦いであり、聖ピオ十世会の戦いでもあります。私たちの最愛の聖ピオ十世会の使命を維持し続けましょう。この使命とは、私たちの主イエズス・キリストの司祭職を、そのすべての教義の純粋性と布教の愛徳をもって、聖なる公教会において常に維持し、伝え続け、これからもそうするだろうということです。おお、恩寵と真理に満ちておられる至聖なるイエズスの聖心よ、我らは御身に全幅の信頼を寄せ奉る。アーメン。

父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。


聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式 SSPX Ordination Winona 2012

聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式 SSPX Ordination Winona 2012

聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式 SSPX Ordination Winona 2012

聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式 SSPX Ordination Winona 2012

聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式 SSPX Ordination Winona 2012



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ルフェーブル大司教様とのインタビュー (フィデリテール誌1989年7-8月号) その2

2012年06月23日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。これは以前に頂いていたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながら一部を修正してご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方に心から感謝いたします。【訳注1】については必ずしも私の考えではありませんが、訳者の考えとして削除せずに掲載しました。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

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トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて


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ルフェーブル大司教様とのインタビュー つづき

<>和訳者補足



9:保守主義者たちを任命する教皇?

 質問:ヨハネ・パウロ二世は、オーストリアとそれ以外の国で聖伝主義者と見做される方々を司教に任命されました。彼らが聖伝主義者と見做される理由は、フランス人神学者たちの援護を受けたドイツ人神学者たちが、この司教任命を巡って教皇様を批判し、非難している事から伺えます。それから、最近の事ですが、ラッツィンガー枢機卿様は、忠誠の誓いとそれに先立つ信仰宣言の付いた指令書を発行されました。私たちはこれにある種の改善と、より聖伝に近い形式への回帰という印を見る事は出来ないのでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:私はそれが聖伝への回帰であると考えていません。ちょうど戦闘中の兵士たちが少しばかり前に進み過ぎている時に、誰かが彼らを引き止めているようなものであって、彼らは第二バチカンの推進力に軽くブレーキを掛けているところなのです。何故なら、公会議の支持者たちは余りにも進行し過ぎているからです。その上、これらの神学者たちが苛立つなんていうのはお門違いです。この司教たち‐表向きは保守的である司教様たち‐は、例外なく公会議と公会議後の刷新、そしてエキュメニズムやカリスマ運動に協力的です。

 明らかに、彼らは穏健派も同然であるし、聖伝の宗教的心情を僅かに表明してはいるのですが、それは強いものではありません。彼らは公会議の大基本原理、つまり公会議の誤謬を受け入れて、それを実行します。彼らにとってそうする事は全く問題ではないのです。それに比べて私は、これらの司教様こそ私たちを最悪の輩として扱っているとさえ言います。彼らこそ、公会議の原理に服従するよう私たちに最もしつこく求めて来るでしょう。

 いえ、どんな戦闘に於いても、戦略を用いるべきです。やり過ぎを回避する必要があります。

 その他に、教皇様はモンシニョール・カスパー(Msgr. Kasper)をドイツの司教に任命されました。彼はブリュッセルのダネルス(Danneels)枢機卿によって主宰された1985年の司教会議の秘書官でした。カスパーはこの司教会議の先導者、つまり立案者だったのです。彼は非常に聡明な方で、最も危険な公会議主義者(Conciliarists)の一人です。彼はドイツ司教議会(the German Assembly of Bishops)の議長であり、やはり非常に危険な人物であるトリアーの司教(the bishop of Trier)に似て小柄な方です。彼らはラーナー派(Rahners)やキュング派(Kungs)と心の底では繋がってはいても、そうである事を言わないように注意を払っている確実に左派的な人々なのです【訳注1】。彼らは誰かにより過激論者たちと結び付けて考えられるのを避ける為に外見を繕いますが、実際には同じ精神を持っています。だからこそ、そう、今のところどう見ても望みはないと思います。

10:聖伝に対する善意?

 質問:それでは、これまでル・バルー<聖伝系聖ベネディクト修道会の支部修道院>や、聖ヴィンセント・フェリエ兄弟会(the Fraternity of St. Vincent Ferrer)、それから聖ペトロ会に対しある程度の寛容さを示しておられるラッツィンガー、マイヤー両枢機卿方により特徴付けられるローマの態度についてはどう考えたら宜しいのでしょうか?他の聖伝グループを取り戻す手段を使い果たすまで彼らは連絡を取り続ける、それから次に、いったんこのゲームが終わったら、ローマと和解した聖伝グループは、公会議への服従を要求されるという二重の計略なのでしょうか?それとも、私たちは彼らが改善すると信用すべきでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:貴方がお話されている事は、<ローマの寛大さが>例外的で束の間のものでしかない事を私たちに示す印が沢山あります。これらの印は、世界中の全司祭に当てはまる一般規則ではありません。それは例外的な特権であり、限定された幾つかの事例に於いて(in precise cases)与えられるものです。例えば、フォンゴンボーの大修道院、又はジュック(Jouques)の女子修道会、あるいはその他の修道院に与えられたものがそれなのですがそれは例の特典(the Indult)に基づいています‐彼らはそれを言いません‐。ところでこの特典は例外です。それは何時でも撤回され得るのです。特典というものは、一般規則を強めます。この事例に於ける一般規則とは新しいミサと新典礼ですが。ですから、特典とはこれらの共同体に対して設けられる例外なのです。

 ロンドンでの一例があります。そこの枢機卿大司教様(the Cardinal archbishop)は、私たちの信徒たちを取り込む為に、この英国首都にある聖ピオ十世会の教会周辺で三つの<聖伝>ミサを開始しました。「私は六ヶ月間それを試しにやっています」と彼は言いました。もし私たちの信徒が司祭会のミサ中央施設<会場>から立ち去り始める事になれば、彼はこの実験を続けるでしょうね。その反対に、もしこの信徒たちが私たちと一緒に留まるとすれば、彼はこの実験を止めるでしょう。それからもしこれらの御ミサが廃止されるとなれば、聖伝典礼に対する味覚を取り戻したこの信徒たちは、おそらく私たちのところにやって来るでしょう。

 パリのリュスティジェ枢機卿様は、私たちのもとから去った司祭たちに教会堂を提供する事を考えておりますが、新しいミサもまたこれらの教会堂で捧げられるよう命ずると考えられます。ローマでラッツィンガー枢機卿様とした討論期間中、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょうと。それは完全明快でしたし、彼らの心の状態<新旧典礼の共存>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。

11:昨年

 質問:貴方がお選びになった四司教たちによる一年の聖務が過ぎたところですが、全ては貴方のお望みになったように、つまり彼らの司教聖別のほぼ一年前に書かれた手紙で貴方が彼らにお示しになった目標通りに展開しましたか?

 ルフェーブル大司教様:今迄のところ、成り行きは私たちの期待したように展開しています。私たちは、彼らが地域的な裁治権を与えられた司教たちだと非難される事がないように、またどこかの地方に属している司教がいないよう行動しようと努めています。もちろん、フランス人司教がフランスへ行き、ドイツ語圏の司教がドイツに行くのは当然の事ですが、時あるごとに、私たちは今申し上げた非難を回避する為に司教様の取替えを試みています。もちろん、合衆国であればウィリアムソン司教様が堅振を授けるのは当然です。しかし、フェレー司教様もカンサス州のセント・メリーに堅振を授けに行きますから、誰もアメリカ合衆国はウィリアムソン司教様の領域だと言う事が出来ません。同様に、フェレー司教様は前にウィリアムソン司教様によって訪問された南アフリカにも行きました。ティシエ・ドゥ・マルレ司教様ですが、彼は南アメリカとドイツのザイツコーフェンに行きました。ですから、私たちは地域的な裁治権の一切発生しないこの根本方針を立証しようと努めているところなのです。四司教は叙階と堅振の秘蹟を授ける為に、つまり私の代わりとなり、この私が何年間も行なって来た事を行なう為にそこにいるのです。

 残りの人々は、自分の管轄として領域を与えられた方であり、出来る範囲で自分たちを呼び求める霊魂の助けに行くのは明らかに菅区長たちです。何故なら、これらの霊魂は秘蹟と真理を受ける権利、つまり救われる権利を持っているからです。まただからこそ、私たちは彼らの助けに向かうのであって、教会法から予見される様に、彼らに聖務を果たす為の権利を私たちに与えてくれるのは、これらの霊魂の訴えなのです<裁治権の補足>。

 その時、私たちは何もかも非常に上手く行ったと善き聖主に感謝する事が出来ると思います。信徒方から私たちに届く感想は、彼らが満足している事、そして私たちの司教様方が好意を持って迎え入れられた事を示しているのです。

 おそらく私たちは一部の司祭や神学生たちの離脱で損害を被ったかも知れません。しかし、それは今年になって二組に、つまり聖伝主義と保守主義の巡礼に分裂してしまったシャルトルの巡礼に少しだけ似ています。私たちと完全に一致せず、何ゆえに私たちが戦っているのかを完全に理解していない人々が私たちのもとを去るに任せて下さった事を善き聖主に感謝しても良いのです。こうして私たちは、自分の行動に於いてより強く、より揺るぎなくなります。この離反なければ、私たちは常に私たちを批判し、私たちと一致しない人々と、私たちの信徒たちの中で交流している事になりますから、そうなってしまえば分裂と無秩序をもたらすでしょう。

 総長であるシュミットバーガー神父様が、フィデリテール 誌の最終号で強調された様に、私たちの神学校と、当司祭会の女子修道会、そして他の聖伝系修道会に入会する良い数の候補者が私たちにはいます。ですから、その結果、相当数の会員の減少があるだろうと私たちを恐れさせた一部の人々が予想したような司教聖別の不快な余波を私たちは受けませんでした。

12:和解に向けた探り

 質問:貴方は最近、ティアンドゥム(Thiandoum)枢機卿様に要請されて彼とお会いになったのでしょうか、またこの方は和解の方法を模索しておられるのでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:お会いしたのは本当ですが、ヌイリー(Neuilly)におられる御自分と会って欲しいからと、ヴィラヌーヴァの聖トマス女子修道会(the Sisters of St. Thomas of Villanueva)まで来るよう私に要請したので、この私の方から会いに行きました。彼は何時も大変親切で、非常に愛情のこもった方でありますが、今のところ何の違いもありません‐つまりローマ側には何もなく、ティアンドゥム枢機卿様やその他のどの枢機卿側にも何ら違いはありません . . . . ですから<和解に向かう>どんな種類の隙間もないのです。

 何時もの事ながら、行動は言葉以上に人を納得させるなと私は思います。貴方はよく教皇様に尊大ぶった手紙を書けましたねと私に言ってくる人々がいます。ですが、私はこれまでの二十年間、どこにも届かない手紙を書いているのです。もう一度言いますが、行動は言葉以上にうるさく語るものです。私たちが神学校を開校した時、あるいは支部修道院を開設した時か、私たちが学校を開校し、そこに修道女たちが群れをなしてやって来て、女子修道院が増える時、それはローマに交渉を迫る唯一の手段となります。私がそこにいる事は重要ではありません。重要なのは私たちの行なう仕事です。ローマでは、私たちが行なっている事が無益ではない事を当局者たちはよく知っています。司教方は、私たちが此処彼処に定着するなら、やや気分を害してしまうのです。すると彼らはローマに愚痴を溢しますので、ローマの方も何が起きているのか分かっています。

 ですからローマとの接触を試みるには適切な時期だとは思っていません。私たちはさらに待つべきだと思います。残念ですが、状況が彼らの方でさらに悪化するのを待って下さい。ただ、今のところ彼らはこの現実を認めたくないのですが。

13:聖伝への恐れ

 質問:もしローマが貴方にたった一名の司教を与える事に承諾したとすれば、例の合議議定書(プロトコール)は、合意の時点で終わっているかも知れませんし、このような譲歩は貴方に拒絶されるべきだったと人々は呆れるかも知れませんね。何故なら、所詮この譲歩は、彼らにとって大したことでもない(世界中に三千人存在する司教の所詮たった一人でしかない)<聖伝主義の司教を一名与えたところで痛くもかゆくも無い>からです。

 ルフェーブル大司教様:そう、驚きです。これはただ聖伝に対する恐れによってのみ説明する事が可能です。信じられない事なのですが、彼らは公教会の誤謬に逆らって働く司教を恐れていますから、そんな司教には我慢ならないのです。

14:忠誠の誓い

 質問:信仰宣言を含んでいる忠誠の誓いを準備されたラッツィンガー枢機卿の指令書についてどうお考えですか?

 ルフェーブル大司教:先ず第一に、信仰宣言 Credo があり、これは少しも問題を提起していません。Credo は無傷のまま残されています。ですから、第一部と第二部は、どちらとも何一つ問題を提起しません。それは神学的観点から良く知られた事ですし。非常に有害なのは第三部です。それが実際に意味するものは、現代世界の司教たちが持つ考えを並べ立てています。さらに、序文には、公会議の精神ゆえにこの第三部が加えられた事がはっきりと示されています。それは公会議と、いわゆる現代の教導権に言及しておりますが、後者は、もちろん公会議の信奉者たちの教導権のことです。誤謬を免れようとするが為に、「この教導権が聖伝との完全な一致にある限りに於いて . . . 」と彼らは付け足さなければならなかったのです。

 そのままでは、この第三部の形式は危険です。それは、私たちが合意に至る事が出来ないこれらの人々の心の状態を明確に示しています。ある人々がそうした様に、この忠誠の誓いを公会議の結果として廃止された反近代主義の宣誓の再開として紹介するのは完全に馬鹿げていますし、それは間違っています。

 全ての毒はこの第三部にあります。ローマに再合同してしまった人々に、この信仰宣言に署名して、司教たちとの完全な合意を言明せざるを得なくする為にわざわざ作成されたように思えます。まるでアリウス主義の時代に「これで、アリウス主義者である全司教たちの考える事に同意しているのです。」と言われたかのようです。

 いいえ、私は誇張などしていません。それは序文の中ではっきり表現されています。これは純然たる詐欺です。この様に、ローマ当局者たちは議定書の本文の修正をするつもりがないのではないかと自問する人がいるかも知れません。例の議定書は私たちにとって満足の行くものではないにせよ、その教義的宣言の第三箇条に於いて余りに私たちに有利であるかのように見えます。というのは、それは公会議に服従するという義務を十分表明していないからです。

 ですから、当局者は失われた足場を取り戻しているのだと考えます。彼らは恐らくこれらの文書が、叙階を控えた聖ペトロ会の神学生たちと司祭たちから署名される事を望んでいるのです。そしてその時、彼らは「公会議の教会」に合流するという公式な行為をするよう強いられている事に気づくでしょう。

 この議定書とは違って、これらの新しい文書の中には、公会議と公会議派の全司教への服従が存在しているのです。それが彼らの精神であり、誰も彼らを変える事はないでしょう。

15:何らかの後悔?

質問:そうすると、結局、貴方には何の疑いも後悔もないのですか?

ルフェーブル大司教様:はい、全くありません。起きてしまった事はどれも実に摂理的で殆ど奇跡的に引き起こされたと考えています。

 多くの人々はかつて私にこう催促していました‐「貴方は老いているのです。もし貴方が偶然にも姿を消してしまえば、私たちは一体どうなるのでしょうか . . . .?」私は少なくとも三、四年前に司教たちを聖別する事が出来ました。それは理に適ってさえいたのです。しかしながら、善き聖主は、私たちが本当に聖伝主義者の司教たちを頂く認可を何とかして獲得する上で自分に出来る事は何でもやり遂げたという事をローマにはっきり証明する為に、事態が徐々に熟すのを御望みになったのだと思っています。

議定書に署名するにしても、ローマはこれらの司教をどうしても私たちに与える許可をくれませんでしたので、もし私たちが<合意交渉を>継続していたなら、実際問題として考えられ得るありとあらゆる困難を私たちは経験していたことでしょう。私の下した決断に私たちは至るべきだし、私たちは自分たちの限界にいると私は心から思っています。親愛なる友人でありますデ・カストロ・マイヤー司教様は、もう御ミサを捧げる事が出来ないほど疲労困憊しておられ、あの司教聖別から一年も経たないのにそうなのです。

本当にそれは全て奇跡だったと思います‐つまり彼の到着、そして彼の旅行、賞賛に値する彼の信仰宣言、さらに私たちの司教様方の聖別式を私と共に挙行する事に対する彼の下さった承諾など、これら全ては奇跡です。新聞は彼がそこに同席する重要性を理解しませんでした。ただし、私と聖別された司教様方にとって、それは実際、特別な恩寵だったのです。彼らを聖別する司教が二名いたという事実は非常に重要なのです。私について言えば、満足です。私は何ら重い病気を持っていないとはいえ、それでも疲労を感じておりますし、これ以上力が残っていませんので、依然として引き受けさせて頂いてはいる式典の挙行を完全に止める事を余儀なくされているところです。といいますのは、私にはもう力がないからです。今や、かつては常としていた世界中への旅行を私にはする事が出来ないでしょう。人々は私のアルゼンチン再訪か、でなければウィノナにある新しい神学校を一目見る為に私が合衆国に行く事を要求していますが、そこには限界がありますし、私はもうそこに達してしまいました。私はただ疲れない事を行ない続けています。例えば、聖堂の聖別、カルメル女子修道会でのヴェールの着衣式、そして初ミサに与るなどの様な事、要するに、かつて私が良くしていた事と比べて些細な仕事です。自分としては、昨年の6月30日が私の限界だったとはっきりと感じる事が出来ます。善き聖主は事態がかつて起きた様に起こる事を望まれていると私は考えています。あの式典<司教聖別>に与った方々は、誰もがそれについてのすばらしい思い出を持ち続けているのです。あの全ては摂理的でした。期待出来る事とは、信徒たちがますます多くなる事、また彼らが<事の真相に>気づいて最後には何処に真理があるかを悟る事、そして救いはますます離教的となる公会議の教会にではなく、聖伝にこそあるのだ、と彼らが認めてくれる事です。

16:天国のイエローページ

 質問:もちろん貴方は御自分の名前がローマで編集される“教皇年鑑”、つまり Annuario Pontifico の最新版から消えてしまったのは御存知ですね?

 ルフェーブル大司教様:私の名前は、善き聖主の年鑑 Annuarioからは消えなかったと思います。少なくとも私はそう期待していますし、そうである事こそが重要なのです。


【訳注1】<(大司教様の言葉を今後の日本の世情に適用したい)政治に全く無関心な方は、ここにある大司教様の指摘を心に留めるべきである。これは何も宗教の世界だけに適用可能なものではないからである。ここでは日本の政治を例にあげさせていただくが、一体どれだけの信徒が、日本の保守政党と言われる自民党も、その底辺に於いては北朝鮮と繋がっている事を知っているだろうか?これは現実であり、またこの現実を良く踏まえて日本の信徒は(明らかに左翼である政党への投票については言うまでもないが)いわゆる保守派及びタカ派を自称する政党及び政治家への投票を控えるべきである。さらに現行の憲法下にある日本に於いて、倫理面を第一に考慮して投票する義務を持つカトリック教徒にとって、投票に適した政党及び政治家は存在しない。これもまた現実である。仮にある候補者個人が堕胎に反対していたとしても、彼が堕胎を、程度の差こそあれ、容認する自民党や民主党等に所属するのであれば、堕胎反対を主張するこの候補者に投票する事は、実質的に、上述の劣悪な倫理政策を持つ政党に投票する事にもなる事をよく理解すべきである。もしこの候補者が心から堕胎に反対するならば、本来これらの政党に属する事は出来ないはずである。信徒はセンチメンタルな保守主義者あるいはタカ派であってはならず、現実を見詰め、自称保守の政治家及び団体に捏造された保守的感情に流さることなく政治を観察すべきである。米国に於いて、タカ派を心から信用する信徒は多くないだろう。彼らはタカ派であるネオコンの中枢が極左である事を熟知しているからである。日本でも、極度に右寄りな発言をする上級官僚らがメディアで持てはやされているが、この種の方々の多くが、元共産主義者又は社会主義活動家である事も知るべきである。またマスコミ関係者は、一般的に米国批判を、十把一絡げに、左翼的行為と見做す向きもあるが、それは米国政府の中枢がどのような人々によって占められているのかを知らないからである、と申し上げた方がむしろ彼らに対する礼儀を欠かないだろう。『真理に対する愛、そして現実に対する感覚を失えば第二バチカン公会議を受け入れる準備が出来ている』(秋田巡礼に於けるウィリアムソン司教様の言葉)現実に対する正しい認識を失うなら、私たちも政治に於いて簡単に欺かれ、カトリックの道徳原理と相容れない、非道徳な政策を持つ政党及び政治家に一票を投じる可能性もあるのだ。その一例がこれまで散見された、行き過ぎた自民党擁護である。異論のある方は、戦後の自民党結成までの経緯や、この結成に関わった三名のA級戦犯の実態を精査する事を勧める。同じA戦犯の東条英機氏が処刑された翌日に、何故彼らは巣鴨プリズンから釈放されたのか?一体誰の意向で釈放され、またその後、誰の資金で彼らは自民党を結成するに至るのかを調べて欲しい。そして何の為に日本を反共の砦にする事を意図したのか?その答えは単に『赤の中国は悪で、白の米国とその同盟国は善であり、その為に日本はこの悪である赤の中国による攻撃から白同盟を守る為に反共の砦として築かれる必要があったから。』というものではない。そこには共産主義思想の識別が必要となる。スターリンの一国社会主義とトロツキーの世界革命主義がそれである。後者は敵国を作り上げ世界規模の戦争(つまり世界共産革命)を捏造し、世界統一政府の樹立を目論んでいる。さらに忘れてはならないのは1917年のロシア革命を主導したのはスラブ民族のロシア人ではなく、レーニン、スターリン、トロツキー、マルクス、エンゲルスなどの革命家は全てユダヤ人である(私は人種差別主義者ではなく、単に事実を述べている)。そして現在の米国政府の中枢を占めているのは世界革命主義者であり、血に於いて、あるいは信仰ゆえにユダヤ人である。中東に於ける紛争を良く見て欲しい。特に米国はCIAを送り込み、反政府運動を扇動し、最終的にその弾圧に出る政府を、人道の名に於いて、NATO軍を用いて軍事介入する。今シリアがその標的になっているのが分かるだろうか。日本に於いて、この米国主導の支配からの脱却を目指した田中角栄氏の失脚や、その直系とも言える現民主党員の小沢一郎氏に対する虚偽捜査報告書に基づいた検察側の不当な裁判を詳しく観察すれば、辿り辿って、日本もこれらの共産主義勢力下(米国CIA)にある事が見えて来るだろう。上に挙げた二名の政治家が中国との国交改善に尽力した事を理由に、彼らに親中と言うレッテルを貼って、共産主義の走狗かの様に非難するよう誘導しているのは、いわゆる偽装保守政党、つまり実質極左の集団であり、日本の政治及びマスコミの要に就いている人々なのだ。信徒は幻想ではなく、現実を見つめてこの世を生きるべきである。『私たちはお祈りさえしていればそれで良いと言うカトリック教徒には災いあれ!世俗の事など知った事ではないというカトリック教徒には災いあれ!』(秋田巡礼に於けるウィリアムソン司教様の言葉)しかし、あくまでも夢想家として生きて行こうというのであれば、それが漂わせる一見霊的生活に進んでいるかのようなその姿勢が、世俗で生活する良識的で世情に通じた多くの人々に不快感を与え、彼らをさらに救いから遠ざける事にもなり得る事を忘れてはならない(もちろん社会性のない弱い人々は、度々この様な姿勢に惹かれるものである)。これは世間体の問題ではなく、常識の問題であり、我々は聖性を求めつつも夢想家、あるいは独善家として終わってはならない。>。


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ルフェーブル大司教様とのインタビュー (フィデリテール誌1989年7-8月号) その1

2012年06月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。これは以前に頂いていたのですが、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながら一部を修正してご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方に心から感謝いたします。

 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて


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ルフェーブル大司教様とのインタビュー

<>和訳者補足

このインタビューは、司祭会がフランスで発行する雑誌フィデリテール の1989年7-8月号に掲載された。これは例により明快で意味深い、正式の教会が置かれた状態と、司祭会とこの教会の関係を分析したものである。

1:何故司教聖別を?

質問:おそらく、司教たちの聖別をしようという重大な決断を貴方が下された理由と目的を思い出す事は適切だと思います。ちょうどあの時、貴方はこの聖別がローマ側に猛反発を引き起こすだろうと自覚されましたね。貴方は司祭職と秘蹟の継承が継続する事を御望みになったからこそ、「破門され、離教者としてさっさと片付けられる」という危険を冒す事を引き受けたのです。

ルフェーブル大司教様:ええ、確かに、それは用意されるべき決断でした。この決断はある日突然下されたわけではないのです。既に数年に亘り、歳もとっている事から、私は自分の後継者を確保する必要がある事をローマに理解してもらおうと努力していました。何時かは誰かが私を引き継いでくれると保証する必要が私にはあったのです。司教なくして、誰も神学校や神学生たちを持つ事など出来ませんから。人々もまた、信仰と秘蹟、それも特に堅振の秘蹟を伝承してくれる司教を必要としているのです。ローマの当局者たちはこの現実を非常に良く分かっています。私は数回それ<司教聖別>を仄めかしてから、最終的に私は、それを公然と行ったのです。ローマでは、誰一人として私が彼らの不意をついた‐つまり彼らは不意に嵌められたとか、あるいは私が隠れて行動したなどと言う事は出来ません。彼らは数年前から何通もの手紙や、手元に彼らが持っている私の説教の録音、それからデ・カストロ・マイヤー司教様と私自身が教皇聖下に宛てた手紙を通じてはっきり警告されたのですから。

 この警告は、私たちに対する彼らの態度にある種の変化をもたらしたと私は思います。彼らは司教聖別を恐れてはいたのですが、私が実際それを行うとは信じていなかったのです。それから1987年6月29日に、私が司教聖別候補者たちについて公にお話した時でさえ、ラッツィンガー枢機卿は少し狼狽しただけでした。ローマでは、私が司教聖別に取り掛かりはしないか当局者たちは恐れていましたので、彼らは私たちが常に要求してきた事‐つまり御ミサ、秘蹟、そしてヨハネ二十三世の1962年版典礼様式に則った司教儀式‐に対して、少しではありますがより寛大になろうという決定を下したのです。あの時、彼らには第二バチカン公会議に賛成するよう私たちに要求する気は一切なかったようです。彼らはそれについて何一つ触れませんでしたし、彼らは私たちが私の後継者となる司教一名を持つ可能性にそれとなく言及さえしたくらいです。

 ところで、それは確かに彼らが見せた幾分意味深く根本的な変化でした。だからこそ、私のやるべき事を知るという問題が生じたのです。総長様やその補佐たちと会って、貴方がたはどうお考えなのか?また差し伸べられている手を私たちは受け入れるべきか?それともそれを拒絶するか?と尋ねる為、私はリッケンバッハ(Rickenbach)まで行きました。

 私は言いました「私自身、個人的には、彼らを全く信用していません。何年も何年も私はこの種の人たちと付き合って来ましたし、数年間私は彼らの行動様式も見て来ました。私にはこれ以上彼らに対する信頼がありません。」それでも、司祭会と聖伝界内部の人々が、"貴方には関係修復を試みてみることが出来ましたね、討論と対話に入る事によって貴方は何一つ失わなかったじゃないですか" と後になって言い得る事を私は望みません。これは総長様とその補佐たちの意見でした。彼らは言いました「貴方は差し出されている提案を考慮すべきです。それを無視すべきではありません。彼らと話し合う事は依然として無駄ではないのですから。」

 そこで、私はラッツィンガー枢機卿と会う事に承諾し、ラッツィンガー枢機卿に、誰かが(こちらの方に)来て、司祭会を訪問すべきだと要求しました。この様な訪問は、聖伝の維持という利益に帰着するかも知れないと私は考えたのです。それと同時に聖伝の影響が認められることがはっきりと分かると思ったのです。それは、私たちの立場をローマにあって力づけてくれ、聖伝を守る事を旨とした数人の司教とローマ委員会<の設立>とを獲得する為に自分の行う依頼には、さらなる成功のチャンスがあるだろうと私は考えました。

 しかしながら、時を待つまでもなく私たちは正直でない方々と取引している事に気付いてしまったのです。この訪問の直後にガニョン(Gagnon)枢機卿とモンセニョール・ぺルル(Msgr. Perl)がローマに戻ると直ぐに、私たちは彼らの物笑いの種となってしまいました。ガニョン枢機卿は新聞紙面で信じられない発表をしてくれたのです。彼曰く、もし私が司教聖別の話しを進めるなら、私たちの内の80%は司祭会を去って行くだろうというものでした。私たちは認可を模索している最中だったのです。そしてローマは、私たちとの和解と、その為に私たちが自分たちの過ちを認める事を模索していました。司祭会の諸々の施設を訪問した方々は、結局自分たちは会の外見しか見なかったという事‐つまり天主のみ人の心の内にあるものが見えるのであるから、この訪問は、単なる訪問であって、それ以上の価値がないという事を口にしました . . . 要するに、彼らはこの訪問それ自体の間に、自分たちが行い、口にした事とは全く異なる事を語っていたのです。それは想像を絶するように思えました。彼らはバチカンに戻り、ローマの有害な影響下に入っただけで、またローマのメンタリティーを取り入れ、再び私たちに食ってかかったり私たちを蔑んだりしたのです。

 それでも、私は会話をする為にローマへ行きはしましたが、会話の成功に対する自信など一切ありませんでした。私は1月の初めにオラニエ(Aulagnier)神父様に宛てて手紙を書きました。私は6月30日に司教たちを聖別しているだろうと確信しています。私には実際彼らに対する信頼が全くないので、それは司教聖別の年となるでしょうと。

 それでも、私たちがどんな良い意志を持っているかを証明する為に、出来るだけ耐えようと私は望みました。私たちが聞きたくもない公会議の問題を彼らが再び持ち出して来たのはその時なのです。合意の為の定式は、まさに私たちにとって承諾可能な限界のものが見つけられました。次に彼らはミサ<トリエントミサ/聖ピオ五世のミサ>と典礼書を与えてはくれたのですが、ローマ委員会と司教聖別に関しては私たちの要求を受け入れたくなかったのです。ローマ委員会に於いて私たちが獲得出来たのは、七名の構成メンバーのうちの二名‐しかも議長席、副議長席はもらえません‐だけで、私の要求していた司教三名については、たった一名しか獲得出来ませんでした。既にこれはほぼ容認出来ない事でした。また<議定書の>署名の前でさえ、私が何時この司教を頂けるのかと尋ねた時、それに対する答えは回避的か、意味を成さないものでした。彼らはいつかを言うことが出来なかったのです。11月は如何ですか?‐彼らには言うことが出来ませんでした。それでは降誕祭は如何でしょう?‐彼らは言うことが出来ませんでした。. . . ですから日付を聞き出す事は不可能でした。

 合意を容易にするあの<5月5日の>議定書に署名した後で、ようやく私は腰を据えて考えました。不信と沈黙の蓄積は、5月5日に私がローマへ預けてきた三人分の関係書類<司教聖別候補者三名分のプロフィール>の中から、6月30日に向けた司教一名の任命を求めるよう私を駆り立てたのです。つまり司教一名を任命してもらうか、私が自分の望むものを司教聖別するかの何れかでした。この様な選択の機会に直面して、ラッツィンガー枢機卿様は言われました「そういう事であれば議定書は終わりです。それは終わりとなって、これ以上議定書はありませんよ。貴方は関係を壊しているのですから。」そう言ったのは彼であって、この私ではありません。

 5月20日に、私は教皇様に手紙を書いて、自分は議定書に署名をしましたが、司教たちを頂きたい事、しかも6月30日に司教たちを是非頂きたいと彼に伝えました。

 しかし実際には、合意に至る道などありませんでした。私はラッツィンガー枢機卿様にあの選択肢を突きつけ、そして彼の方は8月15日に司教一名を私たちに与えるという趣旨の事を言っていた一方で、その彼はバチカン<教皇ヨハネ・パウロ二世>によって敷かれた要求を満たす司教一名を聖座が選ぶ為に、さらに多くの聖別候補者に関する書類を私に要求していたのです。ところで、それはいったい何処にわたしたちを導く事になっていたのでしょうか?

 相互理解に至る事は不可能だと理解しましたので、6月2日に再び私は教皇聖下に宛てて手紙を書きました。これらの会話と接触を継続するのは無益です。また私たちは同じ目的を持っていません。聖下は和解を利用して私たちを公会議に向けさせたいと思っておられますが、私たちが望むのは、ありのままの私たちが認められる事です。私たちは、聖伝を今行なっているようにこれからも継続する事を切望しますと。

 それ<和解交渉>は終わりました。隠れて行動したくなかった事で、私が6月15日に記者会見をすると決定した時、和解交渉は終わってしまいました。聖伝主義者の司教なくしては、永続性のある聖伝など決してあり得ないのです。それを頂く事は絶対に不可欠なのです。だからこそ、聖ペトロ会やル・バルー(Le Barroux)はお伽の国にあるのです。彼らが聖伝主義者の司教たちを持たないからです。

2:聖ペトロ会に与えられる司教?

質問:聖ペトロ会に司教一名が与えられるかも知れないという噂が徘徊しておりますが。

ルフェーブル大司教様:どの司教様でしょうか?‐第二バチカンの要求を満たす司教様ですか?その場合、彼らは、ゆっくりゆっくりと、自分たちを公会議へと向けさせる司教様を持つ事になるでしょう‐それは分かりきった事です。生粋の聖伝主義者であり、公会議の誤謬や公会議による刷新に反対する司教様を彼らが持つ事は決してありません。ですから、実際のところ、聖ペトロ会は私たちの署名したのと同じ議定書には署名しなかったのです。それは彼らが司教を持たないからなのです。私がラッツィンガー枢機卿様と署名した議定書は、私たちが司教を持つ事が出来ると規定しました。それにより、あるやり方で、ローマは司教一名の任命を承認してくれたのです。人々は、貴方は教皇聖下に背いていますよと私たちに言って来ます。部分的に背いているのですが、根本的にはそうではありません。ラッツィンガー枢機卿様は、司祭会のメンバー一名を司教として持つ事に対して書面による認可を私たちに与えてくれました。私が四司教を聖別したのは本当です。しかし一名又は二名の司教を持つという基本方針そのものは、教皇聖下から与えられました。その反対に、私たちと縁を切った人々<聖ペトロ会等>は、どんな司教も、あるいはローマ委員会に於けるどんな代表も獲得しなかったので、自分自身を引き渡し、身動きが取れなくなって進歩主義者の手中へと陥ったのです。この様な状況下に於いて、彼らには決して聖伝を維持する事が出来ないでしょう。欲しいものは何でも頂いていると彼らは言っているのですが、完全に思い違いをしているところなのです。

 これら聖伝主義者の<四>司教たちを持つ事は私の義務であるし、信徒や神学生たちにとっては必然だったと思っています。

 繰り返しますが、もしこの信仰と聖伝への忠誠がこれらの司教たちにないとしたら、共同体というものが信仰と聖伝に忠実に留まる事が出来るとは思いません。それは不可能です。貴方が何と言おうと、公教会は先ず最初に、そして真っ先に司教たちから成り立ちます。例え司祭たちが貴方の考え方を持っていたとしても、この司祭たちは司教方から影響を受けるのです。そうやって貴方がそれを眺めようと、司教方が司祭たちを作り上げるのであって、まただからこそ神学校に於いて、あるいは説教か、黙想会に於いて、でなければかなり多くの方法を使って司祭たちを指導するのです。進歩主義者の司教たちと一緒では聖伝を維持する事など出来ないのです。

 私たちが前進する上で他に方法はありませんから、カトリックの聖伝を守り、信仰を保つ司教たちを持つ事が私たちに今保証されているのをとても嬉しく思います。何故なら、危険に晒されているのは信仰だからです。それは小さな問題ではありません。少しの細事に関する問題ではないのです。

3:「ルフェーブルは教会内に留まるべきである。」

質問:ある人々は言います:「そうですね、ただルフェーブル大司教様はローマとの合意に受け入れるべきでしたね。というのも、いったん聖ピオ十世会が認められ、聖職停止が解除されるなら、彼は公教会の内側でもっと効果的に活動する事が出来たからです。しかし彼は今教会の外側にいます。」

ルフェーブル大司教様:こういう事は、言うのは簡単です。公教会の内側に留まる為、あるいは公教会の内側に身を置く為にそう言うのは簡単なのです‐それはどういう意味でしょうか?第一に、どの教会について私たちは話しているのでしょうか?もし貴方が「公会議の教会」について話しているとすれば、二十年もの間カトリック教会を望むと言う理由から公会議と戦って来た私たちは、恐らく、この「公会議の教会」に、それをカトリックにする為に戻らなければならない事になります。それは全くの幻覚です。長上たちを作り上げるのは配下の者ではなく、長上たちが配下の者を作り上げるのですから。

 全ローマ聖省の間で、そして進歩主義者である全世界の司教方の間で、私は完全に圧倒されている事になるでしょう。何も出来ずにいるでしょう。私には信徒も神学生も守る事が出来なかったかも知れないのです。ローマは私にこう言ったでしょう「大丈夫、私たちは叙階式執行の為に、これこれの司教様を貴方に差し上げるつもりです。ただ貴方の神学生たちは、これこれ教区からやって来る教授たちを受け入れなければなりません。」考えられません。聖ペトロ会に於いて、彼らはアウスブルグ教区から来る教授たちを迎えています。これらの教授たちは誰なのでしょうか?彼らは何を教えるのでしょう?

4:離教の危険?

質問:最後になって、善き天主が貴方を御自分のもとにお呼びになる時、この分裂は徐々に広がって行き、一部の方々が“可視的教会<公会議型のカトリック教会>”と呼んでいるものと並ぶ並行教会<対立/離教教会>に直面するかも知れないという心配をお持ちにはなりませんか?

ルフェーブル大司教様: ドン・ジェラール(Dom Gerard)師<聖ベネディクト修道会に属する、ル・バルーの聖マリー・マドレーヌ大修道院長>やマディラン(Madiran)氏の主張する“可視的教会”についての話は馬鹿げています。

 私たちが代表し、継続しようと試みているカトリック教会と対立するものとしてこの「公会議の教会」を“可視的教会”として話しが出来るのには驚きです。私たちこそがカトリック教会だと私は言っているのではありません。私は決してそんな風には言いませんでした。これまで自分を教皇の上に置こうと望んだと私の事を非難する事は誰にも出来ません。しかし私たちは真にかつてのカトリック教会を代表しています。何故なら私たちは公教会が常に行なった事を継続しているからなのです。可視的教会の特徴、即ち、唯一、聖、公、そして使徒継承の特徴を持っているのは私たちです。この特徴は、可視的教会を特徴づけるものなのです。

マディラン氏は抗議しました:「ですが、公式な教会はさらに不可謬性も持っています。」しかしながら、不可謬性の問題については、デュラック(Dulac)神父様が教皇パウロ六世について、暗示的な一節において言ったように、私たちは言わなければなりません:「何年も前に、公教会に数人の教皇たちがいた頃、人々は彼らの内から誰か一人を選ぶ事が出来ました。しかし今や、私たちは一人の中に二人の教皇を持っています。」私たちには選択の余地がないのです。これら最近の教皇たちの各々が、まさに一人の中の二人の教皇なのです。彼らが聖伝‐つまり<公会議前の>教皇たちの聖伝、そして不可謬な聖伝‐を代表する限りに於いて、私たちはこの教皇に一致します。彼がペトロの後継者を継続している限りに於いて、また彼にされた<聖霊の守りによる>不可謬性の約束がゆえに、私たちは彼に結びついているからです。彼の不可謬性にしがみ付くのは私たちなのです。しかし、例え限定された事項<信仰と道徳>に関しては、彼が教皇であるという意味において、彼がこの不可謬性を持っているとしても、彼は自分の意向と考えによりそれ<不可謬性>に対立しています。それは、彼がもはや不可謬性により行動する事を望まないからそうなるのです。彼はそれを信じていないので、不可謬性のスタンプを押された行為をする事が一切なくなります。

そういう訳で、彼らは第二バチカンが教義的公会議ではなく、司牧的公会議である事を望んだのです。彼らは不可謬性を信じないからです。彼らは決定的な真理を望みません。<彼らにとって>真理は生きているべきであり、また進化すべきものなのです。ゆくゆく、それは時と共に、また歴史と共に、知識などと一緒に変わってしまうかも知れないのですが . . . . その一方で、不可謬性は<真理の>表現形式を一度で定める事から、それは不変の真理を作り上げる‐つまり不変の真理にスタンプを押す‐のです。この事を彼らは信じる事が出来ませんし、またそれだからこそ私たちは不可謬性の支持者となるし、公会議型の教会はそうならないのです。「公会議の教会」は不可謬性に反対しています‐それは確実で間違いありません。

ラッツィンガー枢機卿は不可謬性に反対しています。教皇様は御自身が受けられた哲学的養成ゆえに不可謬性に反対しているのです。私の言う事を正確に理解して下さい!
‐私たちは教皇様が変わることのない使徒座、つまりペトロの座の全価値を代表する限りに於いては、彼に反対しません。が、教皇様が御自身の不可謬性を信じないで、エキュメニズムを実施する近代主義者である限りに於いて、私たちは彼に反対します。言うまでもなく、彼らが如何に否定しようと、潜在的に(virtually)離教的である「公会議の教会」に私たちは反対します。実際問題として、この教会はそれが近代主義であるという理由から、潜在的に(virtually)破門されている教会です。私たちはしばらくの間破門される者となりますが、何故ならカトリックのままでいたいと望むからです。カトリック教皇及びカトリック教会と共に留まりたいと思いうからです‐そこが<ドン・ジェラール師とマディラン氏が指摘する事との>違いです。

それを別とすれば現状について正しい理解をお持ちのマディラン氏が、私たちは“可視的教会”ではないという事‐つまり私たちは不可謬なる“可視的教会”から去っている‐と言っている事についてですが、この発言の全ては、単に現実と合致しない言葉にしか過ぎません。

5:司教たちの必要性?

質問:大司教様、カトリック司祭職に向けて養成されている神学生たちには自分たちを叙階するカトリック司教たちが必要だ、という結論に至ることなく、司教聖別に賛成も反対もせず、またこの司教聖別に関して如何なる立場も取らず、さらに貴方がエコンを創立する際に模範を示して下さった様な司祭養成を奨励する事は可能でしょうか?

ルフェーブル大司教様:その様に考える人々は、ド・ミルヴィル(de Milleville)司教様に似た司教方を持つ事になるでしょう。彼らは叙階式を行う為に私服でフォンゴンボー(Fontgombault:ソレム系聖ベネディクト修道会支院)まで来ました。彼が説教をしたとしたら、私はただ彼がこれらの神学生たちに何と言ったか、そしてどんな模範を彼らに与えかを知りたいですね。それはもはやカトリック教会ではありません。それは不快な結果を全て備えた「公会議の教会」なのです。彼らは公教会の破壊に貢献しているのです。デュラック神父様が言われた様に、一人に於いて二人の教皇であり始めたのはヨハネ二十三世でした。彼こそがこの世に対して公教会の開放を始めた方です。その瞬間から、私たちは曖昧さと二面性という、自由主義者固有の行動様式に立ち入ってしまいました。

 ですから、私たちはこれらの司教聖別について、少しも躊躇したり、あるいは疑念を抱いたりすべきではないと思います。私たちは離教徒でも破門されたものでもなく、教皇様に反対しているのではありません。私たちはカトリック教会に反対などしていません。また私たちは並行教会を作っているのでもありません。これらの指摘はどれも馬鹿げています。私たちは常にそうであったように‐つまりカトリック教徒(Catholics carrying on)であり続けているのです。それだけです。余計な複雑化を探す必要性はありません。私たちは、ポペール氏(Paupert)がその著書 Torn-Away Christians<引き裂かれたキリスト教徒たち>で書いた様な、“小さな教会”を作っているのではありません。この本の終わりに彼が書いている事は貴方を身震いさせます。「もう自分が誰なのか私には分からない!」と。

ポペール氏は神学生‐恐らくは司祭‐でした。しかし彼は信仰を失ってしまい、その後それを多少取り戻して、聖伝主義者の思考に心が傾いているのですが、公会議の教会を去る事を怖がっています。そういう理由から、彼は自分がカトリック教徒なのかそうでないのか、また自分は信仰を実践しているのかいないのか分からなくなっているのです。「近頃教会にいても、私は自宅にいない様な気がする。だから私は聖体拝領に行かないのだ。」

彼は知的な方ですが、自分が出口のない袋小路にいる事に気がついています。それはぎょっとさせます。またこれは、聖伝への一歩を断固拒絶するカトリック教徒の全てが抱えている問題です。彼らは司教座を占拠している人々、即ち司教たちと一緒に留まりたいと考えるのですが、自分たちが若かった頃に実践したカトリック信仰と、これ以上一切の関係を持ちたくないのです。そしてこれを再び身に付けようという意志を持っていないのです。無数のカトリック教徒たちがこの状況に置かれていると考える時、それは実に恐れおののくべき事です。ですから、彼らの多くはもはや日曜日に教会へ行かない傍らで、他の人々はセクトに入会するか、全く何も実践しないので、信仰を失っている最中です。

6:大司教様は来た道を引き返せないのか?

 質問:最近出版されたEcone, How To Resolve The Tragedy <エコン、この悲劇をどう解決するのか>という本の中で、ド・マルジュリィュ(de Margerie)神父様は、貴方がこれまで常に拒絶してきたものを受け入れる事により、ローマと和解するよう貴方に助言しておられます。それについてどうお考えですか?

 ルフェーブル大司教様:個人的に私はド・マルジュリ神父様と面識がありません。彼は矛盾に満ちています。信教の自由を擁護してから、それが聖伝と一致しており、何ら<聖伝との>断絶は存在しないと言明するようになる時、彼が大いに恥ずかしい思いをするのは目に見えています。それは擁護する事の出来ない立場です。何故なら、「公会議の教会」の指導者たち、例えばラテラノ大学学長、あるいはローマに於ける重要人物である(潜在的に、教皇たちの社会回勅の全てを書いた人物である)パヴァン司教様(Msgr. Pavan‐現在枢機卿)同様に、「公会議の教会」の最も傑出した人々は、昨年の五月のヴェニスの会議で、信教の自由について公に「そうです、何かが変わりました」と言われたのです。ラッツィンガー枢機卿やこの問題に関して数多くの著書を書かれた神学者たちのような他の方々は、信教の自由なる学説が聖伝と一続きである事を立証しようと努力しています。以前であれば、自由というものは、真理との基本的関係の中で常に主張されました。現在、自由は人間の良心と関係があるとされるのです<つまり真理と関係は無視された>。これは真理の選択を人の良心に委ねる事を意味します<良心が真理だと認めれば、それがその人の真理となる>。またそれは公教会の死となるのです。<第二バチカン公会議が神聖なものとした>人権が公教会から承認される時、それは革命の毒を持ち込む事を意味します。少なくとも、ラテラン大学の学長とパヴァン司教様とはこの事実を認めているのです。他の方々は、私たちを黙らせようと奮闘しつつ言いたい事を言うでしょう。しかしそこには「市民社会である国家は、根本的にどれが真の宗教であるかを知る事が出来ない」と白地に黒で書かれているのです。公教会の全歴史は、私たちの聖主の時以来ずっと、この様な主張への抗議に始まります。ジャンヌ・ダルクや聖人たち、そして聖なる人々であり、公教会を擁護した王子や王たちはどうですか‐彼らは真の宗教を識別する事が出来ませんでしたか?どうしてこんなとんでもない事を書けるのか人は不思議に思います!

 それから私たちが様々な仲介者を通してローマに送った異議に対するそのローマからの回答は、どれも変更は存在せず、むしろ単に聖伝の継続があるという事を説明する傾向がありました。これらの主張はこの公会議が打ち出した 信教の自由に関する宣言 に見る主張より酷いものです。それではまさに嘘を伝える官僚世界(officialdom)です。

 ローマに於いて、彼らが信教の自由やエキュメニズム、さらに司教団体性などの公会議の思想に愛着したまま留まっている内は、誤った道を進んでいます。これは深刻ですよ、というのも、それは事実上の結果に帰着するからです。その事を教皇様によるキューバ訪問が証明しています。教皇様は、拷問人あるいは暗殺者を、まるで正常な人間くらい正直でもあるかのように、その手をキリスト教徒たちの血で染めている共産主義指導者たちを訪問し、又は謁見中に彼らを迎え入れたのです。

7:共産主義に反対する聖職者たち?

 質問:リュスティジェ(Lustiger)枢機卿が<ウクライナの首都>キエフに行けない事というニュースの流出がありましたが。

 ルフェーブル大司教様:ロシアに行った結果、モスクワがカトリックになったと彼は考えました。それは思慮の欠如です。彼らが言うには、教皇様は、スリピ(Slipyi)枢機卿様の後を継いだ現職の総主教を取り替える事で、ウクライナの<首都キエフ>総主教の任命権をモスクワに多かれ少なかれ与えたそうですが、代わりに任命される人は、当然の事ながら、ピメネ(Pimene)同様にソ連工作員となるでしょう。

 これらカトリックによる訪問の全てはソ連を有利にしてしまいます。ソ連は遂に、自分たちの欲がるものを獲得するでしょうが、それは特に、政府の支配下にある階級制を利用してウクライナ人を自分のポケットに入れる為です . . . . ちょうどハンガリーのミゼンティ枢機卿様の後に、彼らがレカイ(Lekai)を任命した時にやった様にです。つまりレカイのスキャンダルです!以前なら、これら全ての枢機卿と司教たちは監獄に投げ込まれましたが、それは彼らがカトリック宗教を擁護していたからです。ですが今ではその彼らが、真にカトリックの司祭たちを監獄に投げ込んでいるのです。私たちはそれとちょうど同じ状況にあります。つまり司教たちは、私たちがカトリックのままでいるからこそ、その私たちを迫害しているところなのです。私たちを追い詰めているのは、無神論政府や社会主義者、あるいはフリーメーソンたちではなくて、一般的に考えられているところではカトリックの司教たち‐つまり公会議派司教たちなのです。

 同じ事が共産主義の国々で起こっています。彼らはカトリックの司教たち、それも共産主義政府に同意する“平和の司祭たち(Pax Priests)”である司教方を持っています。

 私はあるハンガリー人司祭から1通の手紙を頂きましたが、そこにはこう書いてありました:「議論が起きると、政府は司教と司祭たちに賛成してもらおうと努め、政府は“善人”役を演じています。」信じられません!教皇様は、真理と徳に対するのと同じ敬意を誤謬と悪にも払うというこのやり方を使って、多くの損害を与えています。それは小さな民族にとっては大惨事となるのです。またそれは全キリスト教道徳の、あるいは道徳の基盤それ自体の崩壊であるどころか、社会生活の完全な崩壊なのです。

8:道徳を擁護する教皇?

 質問:ヨハネ・パウロ二世は家族の団結を擁護していますし、彼は司祭の結婚や、堕胎にも反対しています。道徳の点で、多くの方は彼が良い教皇だと考えておりますが。

 ルフェーブル大司教様:自然道徳に関する特定の原理についてそれは本当です。良い事は言われていますが、それなら、避妊に賛成する司祭たちには、例えばの話し、御咎めがありません。誰も<彼らに対して>強硬な態度を取らないのです。私たちがまず反対しない自然道徳の一部を成す一般的な指導がそこにはあるだけです。合衆国のブッシュ大統領が<もちろん政治的な理由で>堕胎に反対しているのなら、ではどうして教皇が堕胎に賛成出来るというのでしょうか?

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ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のお説教 二〇一二年六月三日 パリ

2012年06月21日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 聖ピオ十世会の+ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のパリでの堅振の時のお説教を日本語に訳して下さった方があります。私に自由な時間が与えられず、愛する兄弟姉妹の皆様にすぐにご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のお説教
二〇一二年六月三日 パリ、サン・ニコラ・ドゥ・シャルドネにて


フランス語音声の英訳を日本語に翻訳
http://www.gloria.tv/?media=296765


私には天と地の一切の権能が与えられている。だから、あなたたちは行ってすべての諸国に教えに行き、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい。[訳注: 三位一体の祝日の聖福音より]

このみことばに、教会の使命と聖ピオ十世会の使命があります。ここにこそ、イエズス・キリストのおん力によって、すなわち、王たるキリスト、司祭なるキリスト、私たちの使命において支えてくださるお方のおん力によって、私たちが持つ信仰があります。私たちは司祭なるキリストのため、司祭職とこのお方の司祭たちのため、教会のため、王たるキリストのため戦い続けてきました。それはすなわち、カトリック国家のためであります。

親愛なる信者の皆さん、私たちはカトリック信仰を蝕んだ異端と戦った初代教会の聖人たちがしたように戦い続けましょう。ちょうど今日のありさまと似ています。聖三位一体に反対するアリウス派の誤謬と、今日、司祭職と私たちの主イエズス・キリストの統治に反対する数々の異端との間には、同じような類似があります。

では、諸聖人と司祭たちによって打ち負かされた古代の三つの異端を描写することで、わかりやすくこの比較をしてみましょう。

最初はアリウス派です。アリウスはカトリック信仰の一ドグマを否定したエジブトのアレクサンドリアの司祭でした。彼は「否! 天主のみことば、天主のおん子は天主と同等ではない、彼は天主ではない。天主のみことばは被造物である」と言いました。そして聖パウロの言葉を引用して、キリストはあらゆる被造物の最初の者である、と言いました。聖パウロは確かに、イエズス・キリストはすべての被造物の最初の者であると書きましたが、それは天主の計画において、天主は彼の創造物における最初の場所の中に彼を見たからです。天主の計画において、天主はおん子のご託身(受肉)を見たのでした。

アリウスは、「否、天主が肉をまとうことはふさわしくない、だから私は一つの新しい教義を発見した、みことばは天主ではない」と言いました。そこで、アリウスを断罪するため、天主のみことばは天主と同等である、天主のみことばはおん父と本性が同じであると宣言するため、一つの公会議、決定的な公会議、ニケア公会議が招集されました。私たちは毎日曜日に使徒信経でこのこと、"父と一体なり consubstantialem Patri." を告白します。

子なる天主であるみことばは、おん父と本性が同じであり、おん父とおん子は一つの本性を有し、唯一の天主です。この言葉(consubstantialis)は聖書の中にはない哲学用語であり、公会議の教父たちは、哲学的であり、異教に由来し、まったく別の事柄を意味するかも知れないこの言葉を使うことをためらいました。例えば、天主おん父と天主おん子は、一人の人間が使う二つの仮面であるかのような意味を与えてしまうのではないかと。つまり天主の内に、「天主おん父」の仮面と「天主おん子」の仮面を、代わる代わる付ける一つの人格があるのであると。


聖アタナジオですら、この「同じ本性 consubstantialem」という言葉を採用することに乗り気ではありませんでしたが、最後にはこの言葉を使い、アリウス派に反撃するため、ニケア公会議で使用しました。そのため彼は苦しみました。国を追放されたのです。つまり聖三位一体における聖アタナジオの信仰のために、父と子は完全に同等であるということを擁護するために、天主のみことばの神性を擁護するために、砂漠に避難しなければならなかったなど。


私たちもこのように戦わねばなりません。親愛なる信者の皆さん。聖アタナジオが容赦なくアリウス派に反撃したようにです。かなりの範囲で、彼は対アリウスとの戦いに勝利を収めました。ですから、この苦闘を戦うことを止めないようにしましょう。私の意見では、さらに二十年は続くだろうと思います。目下、私たちがくぐり抜けている危機は非常に重大です。ですからこの危機は長く続くでしょう。教会史は、長期に渡る教会の危機は七十年間続いたことを示しています。アリウス派、(東西の)大分裂などです。

ですから、公会議後の危機は、恐らく約七十年は続くでしょう、それはつまり、あと三十年は待たねばならないということです。勝利が早く来ることを期待しないように。私たちは勝利を得るでしょう、私たちの主は、私たちがその一部を成しているご自分の教会にすべての力を授けたからです。


その後にわき起こった二つめの異端は、ネストリウス派の異端です。ネストリウスはコンスタンチノープルの総大司教であり、みことばは託身しなかった、と前述の説と同じように宣言し、「それはあってはならないこと、スキャンダルである」と彼は言いました。「天主が人間の肉体をまとったと仮定することはあってはならないことである。イエズスの肉体! 純粋の霊である天主にとって、それはあってはならないことである。天主が肉体を持つなど仮にもあり得ない、それはこの時代の哲学に歯向かうことであり、私、ネストリウスは別のことを考えている。イエズス──人間イエズス──は、ご自分の功徳によって神性にふさわしい者となったのだと思う」と宣言したのでした。

だから、イエズスは天主に「なった」のだから、イエズスは天主である。イエズスが天主ならば、間違いなくネストリウスはカトリック信仰を告白したといえる、そうではないか? イエズスは天主である、しかしどうやって彼はそれを告白したか? イエズスは天主であるが、人間となった天主というより、天主となった人間であった。人間イエズスが天主となった──これはカトリック信仰でしょうか? イエズスが天主となったということはカトリック信仰でしょうか? いいえ、これは異端です。

これは残念なことに、三十年前、ラティスボンのある教授がはっきりと授業で教えていたことです[ラッツィンガー神父への婉曲な言及。公に異端を教えたその教授が現教皇である]。イエズスはまったくご自分を離脱させ、自分自身から離れ、ご自分の愛徳によって、ご自分を天主に結びつけ一体となり、天主になったのだと。


これは異端です。ネストリウス派の異端に非常によく似た説です。ですから私たちは、私たちが告白すべきカトリック信仰を告白することに非常に注意深くありましょう。親愛なる信者の皆さん、イエズスが天主であると告白するだけでは充分ではなく、彼が肉体をまとったということも言わねばなりません。ご託身の玄義によって天主は人となりました。聖人たち、例えば、アレキサンドリアの聖チリロはこのために戦いました。ネストリウスがこう言ったからです。「もしイエズスが天主でないなら、彼がただの人間であった(人から天主になった者)なら、童貞女は人間を生んだのだ。だから彼女は天主のおん母ではない。天主のおん母聖マリア、我らのために祈り給え! 否、マリアは、ただの人間イエズス・キリストの母である」と。

おお! 異端だ! 聖母への侮辱だ! 我々はいかにして彼女の神的母性(天主のおん母であること)を否定できようか? 聖チリロとエフェゾ公会議は抗議し、祝された童貞女は天主のおん母である、彼女は天主を生んだ、人となられた天主、イエズス・キリストを生んだ、と述べました。彼女が人となられた天主を生んだなら、彼女は天主の母である。彼女のおん子は天主、子なる天主である。

ここに、異端に意義を唱えることをためらわなかった聖人の姿があります。彼はこのために迫害され、それでもなお異端を攻撃し、カトリック信仰を明らかにしました。親愛なる信者の皆さん、今日、私たちはこのようにしなければなりません。信教の自由に異議を唱え、カトリック信仰を明らかにすること。信教の自由は、間違った宗教を告白する人々を尊敬することを私たちに望みますが、それはつまり、"国家は、人間の尊厳の名の下に誤謬に自由を与えるべき、すべての間違った宗教を告白するための自由を与えるべきだ" というのです。私たちは、否! イエズス・キリストが統治すべきである、と言います。彼がすべての人の心を統治し、公に国家を統治しなければなりません。国家はカトリック国家にならなければなりません。


ですから、私たちはこういった間違った人間の尊厳と信教の自由に異議を唱えなければなりません。国家はすべての人の自由に寛容でなければならない、と言いますが、それは不可能であり、誤謬であり、今日でも誤謬であることは変わりません。そうではなく,私たちは逆を支持しなければなりません──イエズスは公に国家を支配する権利を持っていると。これこそ、アレキサンドリアの聖チリロの例にならって、私たちが言い続けていることです。ローマが今日、私たちに合意と、教会内での公的な地位を提供しようと申し出をしているのだから、ということを考えないようにしましょう。それはつまり、公会議と相反する、この強固な真理の数々を放棄すべきであるということです。私たちは公会議とその誤謬と戦うことを止めてはなりません。

皆さんに教えたい三番目の例は、反聖霊派 pneumatomachians【ギリシア語で「霊に反対」という意味】についてです。エフェゾ公会議の後、人々は「聖霊は天主ではない」と言うようになりました。三番目の重大な異端です。「おん父は天主である、よろしい。おん子は天主である、よろしい。しかし、聖霊は天主ではない。聖霊は被造物である。その証拠に、イエズスは聖霊を私たちに送られたではないか。『慰め主、真理の霊を、私はあなたたちにおん父から送ろう』 その通りだ。イエズスが誰かを送るのなら、その者は被造物だ」 これが反聖霊派 pneumatomachians です。


親愛なる信者の皆さん、聖霊は天主ではないというのは真実でしょうか? 私は皆さんが、皆さんの信仰を告白する準備が、おん父とおん子と同じく聖霊は天主である、と告白する準備ができていることを望みます。皆さんが十字架のしるしをする時、父と子と聖霊とのみ名によりてするのであり、この三者は天主です。「父と子と聖霊とのみ名(name)──単数の名です──によりて」 三位における唯一の天主。聖霊は天主です。そこで、ポントゥスのカエサリアの聖バジリオは立ち上がり、この誤謬に抗議しました。「否! 聖霊はまことに天主である。我々は聖霊を、おん父とおん子を崇めるのと同じやり方で崇めなければならない」 彼はこの誤謬を告白する人々と戦い、勝利を収めました。

二十年もしくは三十年後に、危機が収束を迎え始めた時、聖バジリオは異端者たちは回心し始めているとみなしました。公会議支持者たちは回心し始めていると私たちが言えるならば──しかし事実はまったく逆です。一人もいません。どこでも、ローマでも教区でも、彼らは誰も回心していません。さて、聖バジリオは、反聖霊派 pneumatomachians と呼ばれた彼らが回心し始め、カトリック信仰に立ち戻るのを見て、彼らを攻撃するのをやめることを決心しました。聖バジリオは聖霊は天主であると言うことはできませんでした、なぜなら異端者たちがそういうのを好まなかったからです。ですから彼はそのことを、少し穏やかに表現しました。つまり、聖霊は「おん父とおん子とともに崇められるべき存在である」。聖霊はおん父とおん子とともに同じ栄光を受け取る。我々はおん父とおん子と同じように聖霊を崇めなければならない。我々はおん父とおん子と同じく聖霊にも栄光を帰すのである。「穏やかな表現」ながらも、この言葉はカトリック信仰を表現しています。曖昧ではありません。

聖霊が天主であるが故に聖霊をあがめなければならないのなら、すなわち、おん父とおん子と同じように聖霊にも栄光を帰さなければならないのなら、それは聖霊が天主であるからです。ですから、聖バジリオはカトリック教会に戻りたがっていた人々と一緒になって、曖昧な表現を使ったりはしませんでした。聖バジリオは、異端者たちがカトリック信仰全体を告白することを求めましたが、そのことを穏やかな言い方で表現しました。彼は慎み深く上品でしたが、まことの信仰をはっきりと告白しました。彼は曖昧な文書にサインをしようとはしませんでした。親愛なる信者の皆さん。これが私たちが今日しなければならないことです。曖昧な文書を拒否し、誤謬を断罪し、カトリック信仰を正しく告白しなければなりません。

いつの日か、二十五年後でしょうか、公会議を悔やみながら、終わらない大破壊、すなわち、空っぽの神学校、廃墟となったいくつもの教会、あらゆるところに背教と不道徳があるのを見るその時に、彼らは深く悔やむでしょう。そして彼らがそうするとき、心からの償いをしながら戻り始める時、私たちは彼らを助けるため「穏やかな」表現を使うことができます。しかしそれは今ではありません! この危機は今やそのまっただ中にあります。今、私たちは堅固でなければ、公会議の誤謬、特に王たるキリストの否定、王たるキリストの拒否を断罪しなければなりません。

親愛なる信者の皆さん、これが私たちの実行計画です。己を欺いても意味はありません。この危機が終わる見込みはまだまだありません。この危機は終結からほど遠いところにあります。戦いは長く続きます。ですから私たちは結束し、持ちこたえ、私たちの主イエズス・キリストのおん力におけるまったき信頼のうちに、完全なるカトリック信仰を告白し続ける必要があります。

私は、天においても地においても一切の権能を与えられた。故にあなたたちは行って、真理を述べ伝え、聖三位一体について述べ伝え、王たるキリストを述べ伝え、司祭なるキリストを述べ伝えなさい。同様に、あらゆる聖寵を持ち、分け与えてくださる天主なる私のおん母に信頼を持ちなさい。私が敵どもに勝利するのは彼女を通してである。私の教会にカトリック信仰を取り戻させるのは彼女を通してである。

私の母に、その信仰においてもけがれなき童貞女である彼女に信頼を持ちなさい。祝されたおん母が私たちの信仰をけがれなく(immaculate)保ってくださいますように。父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。


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ローマとの関係について、ベルナール・フェレー司教へのインタビュー

2012年06月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会総長のフェレー司教様のインタビューを日本語に訳して下さった方があります。これはインタビューが発表された翌日にすぐに訳してくださったものですが、私の個人的な時間の関係で、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介することが出来ませんでした。遅ればせながらご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
 その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Interview with Bishop Bernard Fellay on relations with Rome
ローマとの関係について、ベルナール・フェレー司教へのインタビュー


DICI: ローマからの返答が遅れていることについて、聖ピオ十世会の教会法上の承認に反対する人々が、一部の司祭たち、信者たちを当会から遠ざけてしまう可能性があるかも知れないと、あなたは懸念なさっていますか?

フェレー司教: すべてのことは天主のみ手の内にあります。私は善き主と天主のみ摂理に信頼を置いています。天主は、ご自分を愛する人々の善のために、返答が遅れているとしても、すべての物事を成し遂げる方法をご存知です。

DICI: 一部の雑誌に書かれているように、教皇様の決定は中止になったのですか? 返答が遅れる可能性があることを聖座から告げられましたか?

フェレー司教: いいえ、どんな予定に関する情報も知らされていません。教皇様は、七月にカステル・ガンドルフォでこの問題に取り組むおつもりだと言う人々さえいます。

教義的な解決の前に、教会法上の解決をすることとは?

DICI: 教会法上の承認を兄弟会が承諾することに反対する人々は、このように断言しています。(2009年から2011年にかけての)教義に関する話し合いにより、
ローマが「教義に関する同意による解決」が無いかぎり、つまりローマによる「回心」が無い限り、この教会法上による正常化という承諾が生じる可能性があると。この点について、あなたの主張は変わったのでしょうか?


フェレー司教: ぜひ認識していただきたいことは、この話し合いの数々は、私たちが第二ヴァチカン公会議に関して経験するさまざまな問題点を、はっきりと示す許可をくれたということです。ローマがもはや、教会法的解決のために、公会議の全面的承認を必須条件としないという事実は、はっきりと変化があったということです。今日、ローマでは、公会議は教会の未来のために絶対に必要なものではないと、別の理解をもって眺める人々がいます。(彼らの見解によると)教会は公会議を超えるものだからです。つまり教会はもっと広大である、と。ですから、私たちはもっと広範囲に渡る解決のため努力すべきです。この新たな認識は、実際には何が起きているのか、理解する一助となってくれます。つまり、私たちが保持し続けることのできた聖伝の宝を、他の人々にもたらす助けとなるため呼ばれているのだ、ということをです。

ですから、教会当局の態度は変化しています。私たちが変わったのではありません。私たちが同意を願ったのではなく、教皇様の方が私たちを承認なさりたいのです。なぜこのような変化が起きたのか? と皆さんはお尋ねになるかも知れません。私たちは教義的には、いまだ同意してはおりません。ですが、教皇様は私たちを承認なさりたいのです! なぜか? 答えはまさしく私たちの眼の前にあります。すなわち、今日、教会には痛ましい重大な問題がいくつもあるということです。この問題の数々に取り組まなければなりません。私たちは二番目の問題は脇に置き、一番重要な問題に対処しなければなりません。公には決して言わないでしょうが、これは、ローマの高位聖職者の誰かが述べた答えです。皆さんは、行間を読んで理解する必要があります。

ローマ当局は、第二ヴァチカン公会議の誤謬を認めたくありません。彼らは決してはっきりとは口にしません。にも関わらず、皆さんが行間を読むなら、当局がこの誤謬の一部を修正することを望んでいるとわかるのです。ここに、司祭職のテーマに関する興味深いひとつの例があります。皆さんはご存知ですが、公会議に端を発する司祭職の新しい概念があり、それが司祭の役割を破壊してしまいました。今日、ローマ権威者たちが司祭のまことの役割を回復させようとしているのが、非常にはっきりとわかります。私たちはすでにこのことを、二〇一〇年から二〇一一年に起きた司祭年の間に観察しました。今や聖心の祝日は、司祭たちの聖化に捧げられた日になりつつあります。この行事のため、一通の書簡が発表され、司祭のための良心の究明箇条が作られました。この良心の究明個条を見つけるため、ローマ当局はエコンに行ったのだと言う人がいるかもしれませんが、この究明箇条は、公会議以前の霊性の道筋に非常に沿ったものなのです。この究明箇条は聖伝の司祭の姿を提示し、教会におけるその役割をも提示しています。この役割は、ルフェーブル大司教様が兄弟会の使命を描いたときに確認しているものなのです。すなわち、司祭職を復興させることで教会を復興させるということです。

書簡は述べています、「教会と世界は、司祭の聖化を通してのみ、聖なるものとなり得る」。書簡は、実際に司祭を中央に置いているのです。この究明箇条はこのような問いで始まります。「司祭である私の第一の関心は、自身の聖化であるか?」 二番目の問い「ミサの聖なる犠牲は」──これはそこで使われている表現です。感謝の祭儀でも集会でもなく、それとも他にどんな言葉があるか知りませんが──「私の生活の中心であるか?」 そして、この究明箇条はミサの締めくくりの部分を思い起こさせるのです。すなわち、天主の賛美、祈り、罪の償い……。すべてを語っています。司祭はおのれを生贄としなければなりません──この「生贄とする」という言葉は使われておらず、むしろ「おのれを与える」、救霊のためおのれを犠牲にすると書いてあります。本当にそう書いてあるのです。そして臨終について喚起させる言葉が出てきます。すなわち「私は頻繁に臨終について考えるか? 臨終の時に忍耐できる恩寵を乞い願うことを考えるか? 信者たちにそうするよう思い出させるか? 瀕死の者に最後の秘跡を与えるため見舞っているか?」 このローマの書類ははっきりと、聖伝の司祭の見解を賢明なやり方で想起させているとわかるでしょう。

もちろん、このことで問題のすべてが片づいたわけではありません。教会内には依然として重大な困難がいくつもあります。すなわち、エキュメニズム、アシジ、信教の自由……しかし事情は変化してきており、事情だけなく、状況自体も変化しています……。私は、外側の関係と内側の状況を区別しています。外側との関係は変わってはいません。が、教会内で起きていることはというと、ローマ当局は、少しずつその状況を変えようとしています。今日、明らかに深刻な被害が依然として残っています。そのことに気づくべきであり、私たちはそこから眼を背けません。が、起き始めていることにも、眼を向けなければなりません。この司祭のための良心の究明個条は、意味のあるひとつの実例です。


教義的諸問題へ向けての私たちのあるべき態度とは?

DICI: エキュメニズム、信教の自由といった重大な困難の数々が残ったままであると、あなたはお認めになっていらっしゃいます……。教会法上の承認がもたらされた場合、この困難に関して、あなたはどういった態度をお取りになりますか? 保留にしておく必要はないとお思いですか?


フェレー司教: ご質問に、三つの問いで答えることをお許し下さい。すなわち、公会議中に導入された目新しいことは、教会内の教勢率を上げ、召命を増やし、信仰の実践に役に立ったでしょうか? それどころか、キリスト教世界のすべての国々で「沈黙の背教」が現れているのを見ないでしょうか? こういった問題の数々に直面しても、私たちは沈黙を守ることができるのでしょうか?

私たちが霊魂の善のために、聖伝の宝を豊かに実らせたいなら、話し行動しなければなりません。私たちには、話すことと行動することという、この二重の自由が必要です。しかし、教義的誤謬についての[行動という中身を伴わない]口先だけの非難──口先に過ぎないだけに、いっそう論争的になる非難には、私は疑いを抱くかも知れません。

聖ピオ十世会によって提示された支持者数と事実に対しては、ローマと教区の権威者たちは神学的議論よりもっと敏感になるだろうと、ルフェーブル大司教様は、その持ち前の現実主義で認識していました。ですから、私はこう言ってはばからないのです。教会法上の承認がもたらされたなら、教義上の問題の数々は、[眼の前の]事実そのものが教える知識、聖伝の生き生きとした具体的なしるしと一緒に、私たちによってさらに際立たせられると。そうなるには、ローマとの話し合いの数々の段階に関係して、私が二〇〇六年に申し上げたように、私たちには「聖伝のミサに信仰を持つこと、ミサにおいて、ミサそのものに教義と秘跡の完全性を求めること、霊魂たちの奉仕においてもたらされるあらゆる霊的な実りに確信を持つこと」があるべきです。

DICI: 二〇一二年は、あなたの司教聖別式の年である一九八八年ではありません。二〇〇九年には破門が解かれ、二〇〇七年には、トリエント・ミサが「決して廃止されたことはなかった」と公に認められましたが、教会がいまだに回心していないという事実を会員の一部は、今、嘆いています。四十年間の異例の状況が原因で、彼らが教会法上の承認を前もって拒否しているということは、ローマの権威に従うことへの理解を、ある種妨げる結果となってしまっているのではないでしょうか?

フェレー司教: ここ数日で起きていることは、自分自身が置かれた立場によって作り出された危険な状況に関する、私たちの弱さの一部をはっきりと見せています。大きな危険の一つに、結局、理想的に映る教会の姿を自ら発明して終わることです。教会の実際の歴史の中で、そんなものは事実見つからないのです。教会内で「安全に」働くためという主張する人がいます。教会はまず初めに誤謬を一掃しなければならないのだと。これは、すべての合意の前にローマが回心するべきである、もしくは私たちが働けるように、まず初めに誤謬を抑えなければならない、と彼らが主張するときに言うことです。しかし現実的ではありません。教会史の過去を見れば充分です。つまり、私たちはたびたび、ほぼ必ず、教会の中に誤謬が蔓延しているのを眼にします。教会を再建した聖人たちは、誤謬の数々と戦うために教会を離れたりはしませんでした。私たちの主は、世の終わりまで常に毒麦があり続けるだろうと言われました。良い収穫や、良い麦だけでなく。
[訳注: マテオ十三章二十四~三〇節、三十六~四十三節]

アリウス派の時代に、司教たちは、真理を誤解していた人々を説得するため誤謬のただ中で働きました。彼らは、何人かの人々が今口にするように、外側に存在していたいとは言いませんでした。もちろん、こういった「内側」「外側」という表現は、常に注意深く使わなければなりません。私たちはカトリック教会のものであり、カトリック信者だからです。しかし、そういうわけで、彼らが誤謬にどっぷり浸かっているという名目で、教会の中にいる人々を説得することを拒めるのでしょうか? 聖人たちがしたことを見て下さい! 善き主が、新しい状況、真理の軍隊において、接近戦の中に私たちが身を置くことをお許しになるなら……。これこそ、教会の歴史が私たちに提示する現実です。福音はキリスト教徒をパン種に例えています。つまり、パン生地の中の私たちという存在なしに、パンが膨らむことを私たちは望みますか?
[訳注: ルカ十三章二十節]

今のところ、[前述したことは]あり得ないかのように表現する人々がいるこの状況の中で、私たちはちょうど、すべての時代の聖人たちがしたように、再建のため、来て働くよう願われているのです。もちろん、それで危機がなくなるわけではありません。しかし、私たちに今、行動するため、生きるため、成長するための充分な自由があるならば、このことは成し遂げられるはずです。私たちに充分な保護があるという条件で、このことは成し遂げられると本当に思うのです。

DICI: 兄弟会の中に、意識していようといまいと、教皇空位主義者の考えを支持する会員がいると思われますか? その人たちの影響を危惧しておられますか?

フェレー司教: 実際そのような考えに影響される人はいるかも知れません。しかし、今に始まったことではありません。その数は多くはないと思いますが、彼らは害悪、特に間違った噂を広めることで害をもたらし得ます。しかし、私たちの中での主な懸念は、何が起こるかわからない、罠をしかけてくるかも知れないという恐れとともに、ローマ権威者たちへの信頼を疑う気持ちがあるということです。個人的には、そういうことはないと確信しています。が、兄弟会としてはローマに不信感を抱いています。あまりに多くの失望を味わったからです。罠かも知れないと疑ってかかる人々の理由はこれです。私たちの敵が、この申し出を罠として利用するつもりかも知れないというのは正しいのですが、教皇様は、本当にこの教会法上の承認を望んでおり、罠として私たちにそのことを申し出たのではありません。


ローマの申し出が "法律上"(de jure) と "事実上"(de facto)許すことは何か?

DICI: 教皇様は、個人的に兄弟会の教会法上の承認をお望みだと、あなたは何度もおっしゃいました。これが本当に教皇様のご意向であるという、聖下ご自身からの新しい個人的な保証があるのですか?

フェレー司教: そうです、教皇様はそれをお望みです。そして私はそのことを繰り返し繰り返し言いました。自分の発言が真実であると宣言するに充分な、正確な情報を持っています。ですが、私は教皇様と直接の面会の機会を持ったことはありません。──むしろ、教皇様の側近の方々のみです。


DICI: 兄弟会の三名の司教様の署名入りの四月十四日付けの手紙は、残念なことにインターネットで広められてしまいました。この司教様たちの分析は教会内の状況と一致していることを提示していますか?

フェレー司教: 三名の司教様たちがそれぞれの主張を変える可能性があることを、私は否定しません。ルフェーブル大司教様に聖別された私たちにとっての最初の課題は、聖伝を生き残らせること、という課題です。法律上そして事実上(de jure and de facto)、「すべてをキリストにおいて復興させる」ために、ローマの申し出が兄弟会にとって正真正銘の良い機会を含んでいると、私の同僚たちが眼にし、理解するならば、今日、教会内に存在し続けているあらゆる難問にも関わらず、三名の司教様たちはその判断を見直すことができるでしょう──つまり、教会法的地位を片手に、[カトリック教会に起こっていることの]事実をテーブルの上に乗せてみせる(つまりじっくりと話し合う)ということです。そうです、私はそう思い、そう希望します。私たちはこの意向のために祈らなければなりません。

DICI: 兄弟会の会員を含む世界中のいたるところに、あなたがカトリック・ニュース・サービス(CNS)に答えたインタビューの一部分を利用する人々がいます。このインタビューの一部分は、あなたの視点から見ると、ディニタティス・フマネ(信教の自由に関する宣言)は、もはや問題を引き起こさないと示唆しているかのように見えます。
このインタビューは、あなたが言いたかったことの意味を変えて編集されたものですか? この問題について、ルフェーブル大司教様が教えたことに関してのあなたの主張はどういったものなのでしょうか?


フェレー司教: 私の主張は、兄弟会とルフェーブル大司教様の立場です。このような細心の注意を払う問題においては、私たちは例によって区別をつけなければいけません。この区別の大半は、テレビ放映されたインタビューが六分未満にまで短縮されたことで消えてしまいました。しかし、私の述べたことを元にCNSが作成した報告書は、放映されたバージョンに含まれなかった私の発言が再録されています。つまりこうです。
「フェレー司教は、ベネディクト教皇の、信教の自由が本質的に教会の聖伝とつながっているものとしての解釈──兄弟会の多くの者が声に出して反対した主張です──に同意せずにとどまったが、フェレー司教は、共感を含んだ言葉で教皇の考えを説明した。」 実際は、私は信教の自由によってもたらされた問題に対し、聖伝という解決策がすでにあることをわかりやすく思い起こさせたのです。つまり、それは寛容(tolerance)です。公会議に関し、「第二ヴァチカン公会議は聖伝に属しますか?」と彼らが私に質問した時、私は「そうだと思いたいですね」 "I would like to hope that that is the case" と答えました(フランス語では不完全に「そう思います」"I hope so" と訳されました)。この答えは、聖伝の光に照らして公会議を理解するという、ルフェーブル大司教様がなさった、区別する考えのラインにきわめてよく沿ったものです。つまり、聖伝に同意していることを私たちは受け入れ、疑わしいことは、聖伝が常に教えてきたこととして理解します。聖伝と逆のことは拒否します。


聖ピオ十世会と教区司教たちとの関係


DICI: 「属人区」は、最近の声明であなたが言及した教会法的組織のことです。現在、教会法の第二九七条では、教区司教たちに情報を与えるだけでなく、彼らの教区で事業を始めるためには許可を得ることを要求しています。どんな教会法上の承認を受けても、現状の私たちの使徒職を保持するだろうということは明白です。ただし、今日聖ピオ十世会が存在しないところでは、その教区の司教たちの許可があって初めて、今後の仕事が可能になるかも知れないということを、あなたは受け入れるほうに傾いているのですか?


フェレー司教: この質問については多くの混乱があります。裁治権を持つ教区司教と「属人区」との間の通常の関係を読み違えると同様に、主に「属人区」の性質を誤解していることから来ています。それに加えて、今日、「属人区」のただ一つの有効な例は、オプス・デイであるという事実です。しかしながら、はっきりと言わせて下さい。もし「属人区」が私たちに与えられるなら、私たちの状況は同じではありません。よりよく理解するために、何が起ころうとしているのか、私たちの地位は「軍人教区」military ordinariate に非常によく似たものになるのかも知れないと、じっくりと考えてみなければなりません。私たちは信者たちの上に通常の司法権を持つことになるからです。従って、私たちは教区の一種、彼らの領域の状況に関係なく、すべての信者たちにまで及ぶ司法権のようなものになるでしょう。

すべての小聖堂、教会、修道院、学校そして兄弟会の、兄弟会と協力している修道会の事業は、それぞれの職務のため、実際に自治権を持つでしょう。

新しい聖堂を開くため、事業を創設するため、その司教区の司教の許可を得ることが必要であるということは──教会法がそう命じているので──本当です。私たちはかなりはっきりと、教区における私たちの現在の状況がいかに大変なものであるかをローマに報告しました。そしてローマはまだそれを調査中です。あちらでもこちらでも、この困難は現実とものとなるでしょう。しかし、いつから人生とは困難ではないものになったのでしょうか? 十中八九、私たちはまた多くの相容れない問題を抱えるでしょう。つまり、私たちに友好的な司教たちから来る要求には答えられないだろうということです。私は、ある司教が教区で未来の司祭たちを養成する責任者になることを、私たちに要求してくる可能性について考えています。

その時、私たちの関係は、一人の司教区の司教に対する一修道会の関係になることは断じてありません。どちらかといえば、私たちの関係は、一司教と別の司教との関係に似たものなるでしょう、ちょうど離散状態のウクライナ人とアルメニア人たちと同じようです。従って、問題が生じて、解決されないならば、それはローマに上告されるでしょう、そして今度は、問題に終止符を打つため、ローマが介入してくるでしょう。

ついでに言わせて下さい。先月オーストリアで、この問題についての私の意見に関してインターネットで報告されことは、まったくのでたらめです。


DICI: 教会法上の承認があるならば、兄弟会と協力している聖堂と、教区に独立して働いている教区司祭らの聖堂には何が起こるのでしょうか? 兄弟会の司教様たちは、堅振の執行と聖香油の提供を続けるおつもりですか?

フェレー司教: これらの司祭たちが私たちとともに働くなら、なんの問題もありません。つまり、今とまったく同じです。そうでないなら、すべてのことは「司教区から独立して働いている」とは、どういう意味かによります。

DICI: エクレジア・デイ委員会傘下の修道会とあなたとの関係には、違いが出てくるのでしょうか?


フェレー司教: 最初の違いは、彼らが私たちを離教者として扱うことをやめざるを得ないだろうということでしょう。将来的な発展については、私たちに近くに寄って来る人々もいること明らかです。彼らはすでに控えめながら私たちを認めているからです。そうでない人々もいますが。新しい状況の中で聖伝がどのように発展するか、時間がたてばわかるでしょう。私たちは聖伝による使徒職に大きな期待を抱いています。ちょうどローマの重要人物たちの一部がそうであるように。教皇様ご自身も期待しています。私たちが参入することで聖伝が発展するだろうことを、私たちは大いに希望しているのです。


DICI: もう一度お尋ねします。教会法上の承認があれば、あなたはローマ・クリアの枢機卿の一部、もしくは司教の一部に、私たちの聖堂を訪問すること、ミサを捧げること、堅振を執行すること、おそらく、あなたの神学校で司祭を叙階する機会さえも、与えるおつもりでしょうか?


フェレー司教: 聖伝に賛成な司教たちと保守的な枢機卿たちは近づいてくるでしょう。特に細かな詳細を知らなくても、全体的発展を先読みすることができます。そして間違いなく困難も生じるでしょう。困難は常につきまとうものです。皆が私たちを訪問しに来るだろうことに疑いの余地はありませんが、もっとはっきりとした協力、ミサの執行と叙階といったことに関しては状況次第であり、ちょうど私たちが聖伝が発展していくことを希望しているように、司教たちと枢機卿たちの間で発展していくのを眼にすることを希望しています。いつの日か、すべては聖伝に調和しているでしょうが、どのぐらい時間がかかるのかは、天主のみがご存知です。


DICI: ローマの決定を待つ一方で、あなたの内的な意向はどんなものでしょうか? 聖伝に忠実な司祭たちと信者たちのために、あなたが願う意向と何でしょうか?

フェレー司教: 一九八八年、ルフェーブル大司教様が四人の司教を聖別すると告知なさったとき、そのことを励ます人たちもいれば、やめさせようとする人たちもいました。しかし私たちの創立者は、その眼に入るものに、天主のみ旨と教会の善の他は何も求めなかったため平和を保っていました。今日、私たちが持つべき同じ内的な意向がここにあります。当会の聖なる保護者と同じく、聖ピオ十世会は「すべてをキリストにおいて復興させる」ためという望みを持っています。今はまだその時ではないという人もいる一方で、それどころか、これはちょうど良い時だという人もいます。私が知っていることは一つだけです。すなわち、天主のみ旨を行うための時は常にあり、天主はちょうどよい時、聖霊の導きを私たちが受け入れようと準備された時に、私たちにそれを知らせて下さるということです。こういうわけで、聖心の祝日、六月十五日に、聖ピオ十世会の至聖なるイエズスの聖心への奉献を更新してくれるよう,そのための準備として、すべての修道院で聖心の連祷をノヴェナとして唱えるよう司祭たちにお願いしたのです。すべての人は、キリストにおいてすべてのものを復興させるための従順な道具となるための恵みを求めて、祈りに加わることができます。
(DICI no. 256 二〇一二年六月八日付)


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今回のミサ聖祭

2012年06月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様
今回は、私、トマス小野田圭志神父が日本でミサ聖祭を捧げます。よろしくお願いいたします。天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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ローマと聖ピオ十世会との関係について

2012年06月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は、ローマと聖ピオ十世会との関係について公式のお知らせを申し上げます。

1. 聖ピオ十世会とローマとの関係についての背景 大まかな流れ

 ローマは、聖ピオ十世会と教義について話し合いをしたいと提案してきました。聖ピオ十世会は、ローマを信頼することが出来ないので、信頼に値する印を求めました。それが二つの前提条件でした。
(1)聖伝のミサを解放すること
(2)聖ピオ十世会の司教たちの「破門」を撤回すること、です。

 ローマは、ベネディクト十六世の下で、(1)2007年7月7日、スンモールム・ポンティフィクムを発表し、(2)2009年1月21日、聖ピオ十世会の司教たちの「破門」を「撤回」しました。

 そこで、2009年から2011年まで、聖ピオ十世会とローマとの間で、教義上の第二バチカン公会議に関する討論が行われました。

 2011年の秋、聖ピオ十世会とローマ(教理聖省)との間で2年にわたって続いた教義の話し合いが終わりました。最終の結論は、第二バチカン公会議の問題点について、ローマと聖ピオ十世会とでは不一致していると言うことで見解が一致しました。但し、非公式的に聖ピオ十世会の行ったこれらの議論はいかなるドグマも攻撃していることには当たらない、という回答が伝えられました。ただ私たちの立場が明確になった、というだけで、公式には、肯定的にも否定的にも何の発表もありませんでした。

 それどころか、教理聖省は「聖ピオ十世会に教会法的な地位を与えたい」と望んでいるという提案を受けました。これは、ローマは「第二バチカン公会議は過去の教会の教えと完全に調和している」という、いわゆる「継続の解釈学」の中に聖ピオ十世会も入るようにと提案でした。

 しかし聖ピオ十世会は、教会の現実がそのような継続の可能性さえにも反対している、と答えました。最初に2011年12月1日に、次には2012年1月12日に、聖ピオ十世会は曖昧な文書にサインすることは出来ないと回答しました。

 但し、1987年にルフェーブル大司教がガニョン枢機卿に言った考えに従って、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れないが、そのようなままで、いかなる妥協もなく聖ピオ十世会が今あるままでであるなら、認可を受けることが出来ると答えました。

 2012年3月16日、教理聖省からの回答を受けました。それによると、聖ピオ十世会の回答と文書を厳しい口調で拒絶し、これが最後通牒であるとのことでした。もしも、聖ピオ十世会が同じ立場を維持し続けるなら、事実上、現在の教導権を受け入れていないのであるから、聖ピオ十世会は離教であるとして1ヶ月後に宣言する、と。

 聖ピオ十世会の立場は、
(1)何よりもまず信仰を維持すること。私たちはカトリックとして留まることを望み、そのためにカトリック信仰を何よりもまず固守すること。
(2)教会の状況は悪化しているので、私たちは信仰を守るために賢明な行動をしなければならない。2006年の総会では、フェレー司教が選出されたとき、教義の問題が解決されなければ実践上の解決もないと、信仰が優先することが確認されていること。
 但し、フェレー司教によると、第2の点は、絶対原理ではなくガイド・ラインである。


2.聖ピオ十世会とローマとの関係についての最近の動き

*2012年4月15日付けで、フェレー司教様は教義聖省に別の回答をした。
*5月15日、フェレー司教様は教義上の前提に対する聖ピオ十世会の回答について話し合うために教義聖省と会談した。
*5月中旬、聖ピオ十世会の3名の司教様たちのフェレー司教様への書簡がインターネットで流された。
*4名の司教様たちのローマに対する見解の違いが、その後説教や書いたものなどで明らかになっていった。
*5月31日、クチュール神父様は、聖ピオ十世会のため、特に聖ピオ十世会の総会のために祈りを要請した。
*6月13日、フェレー司教様は教義聖省に召喚され、教皇様の意見と教義聖省の意見を知らされた。そして教会法上の解決の可能性も知らされた。


3. シャザル神父様の最近の活動について

 以下のことを書くのは、非常に心の痛むことです。しかし、最近、シャザル神父様は、長上としての私の命令に背いて行動をしています。シャザル神父様には、フィリピンのミッションを依頼しました。フィリピンには新任の神父様も来られ、フィリピンの新学期も始まりました。いつでも、シャザル神父様を別のところでミサを命ずることが出来るのは私の権限のうちにあります。しかし、シャザル神父様は、その命令に従わず、自分の思うとおりに勝手に韓国に行きミサをし、今週末は日本に来ていると情報を受けました。しかし、シャザル神父様は、私の命令に反して、不従順のうちに行動しています。そのことで大変心を痛めています。


4.愛する兄弟姉妹の皆様には、どうぞ、シャザル神父様の日本滞在中のこの不従順の行動をサポートしないで頂きたくお願い申し上げます。それをすることは、神父様の不従順を助長することにつながるからです。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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司教聖別に選別された四人の司教への手紙 ルフェーブル大司教 一九八八年六月十三日

2012年06月09日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ルフェーブル大司教様が1988年6月13日に書いたお手紙を訳して下さった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 聖ピオ十世会のために、聖ピオ十世会が7月に開く総会のためにお祈り下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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司教聖別に選別された四人の司教への手紙

ルフェーブル大司教

一九八八年六月十三日

 聖ピオ十世会を代表して、あなた方四人に感謝の意を表します。
 本質的なことが問題になると、ローマはその疑問に決して返答しません。ローマはいつも、彼らが示す方向に、私たちがほんの少しだけ傾かせる宣言を出すよう要求していますが、ローマの側においては、自分たちの基本的な自由主義と近代主義に疑問を差し挟もうとしないのです。今のところ、私はローマの近代主義のことを常に問題提起し続けています。

 六月二日、ローマに手紙を書いた時、話し合いは丁重でしたが、理解し合う時はまだ来ていないと理解させられました。私たちはアシジの精神に対抗するなんらかの防御を持たねばなりません。ローマは絶対に基本的な問題に取り組もうとしません。絶対に! ですから私たちの努力は無駄でした。数々の話し合いにおいて、私たちとローマは意見が食い違っています。こちら側としては、ローマが聖伝に戻ることを期待しています。ローマはというと、頑として動こうとしません。

 教皇様は『こういった話し合いを開くことで、私は一致に向けて関心を示している』とお答え下さいました。このようにして、五月五日の議定書は、第二ヴァチカン公会議を含む二十一のエキュメニカルな公会議に一致した上で、兄弟会が教会内に留まることを許そうとしました。それにも関わらず、私は教皇様のこのご返答に答えねばならないのですが、本来ならば私たちの方こそが、ローマに反近代主義者の誓いを立てること、"ラメンタビリ" と "クァンタ・クラ" を受け入れることを要求しなければならない、ということです。私たちこそがローマに信仰について質問すべきです! しかしローマは答えないでしょう。ただ誤謬を主張し続けるだけです。

 昨日、デ・サヴェンゼムが『あらゆる分裂の責任は、あなた一人にあるのですよ』と言いました。しかし "マーテル・エクレジエ" の全面的失敗に関する、元神学生カルロの手紙をとにかくご覧なさい。彼は『何から何まで間違っていました』と書いています。彼のラッツィンガー枢機卿への嘆願書も見て下さい。カルロは何度も枢機卿閣下に手紙を書きました。でも、なしのつぶてです! 二年もの間、ローマは、カルロら青年たちを笑い物にし続けたのです。彼らは歩調を合わせるよう強制されています。ガロンヌ(Garrone)、インノチェンティ(Innocenti)あるいはラッツィンガー【枢機卿ら】であれ、誰であれ、私たちに対して、まったく同じやり方です……。保守派と公式の教会との間のいかなる戦いにおいても、ローマはいつも公会議支持の司教たちの味方であり、聖伝を断罪しています。

「デ・サヴェンゼムは『しかし、こういったことは取るに足らないことですよ』と反論します。私は『いくつもの取るに足らないことが、甚大な影響をもたらすのです』と答えます。ローマは私たちのすること全てを第二バチカン公会議の精神に引き寄せようとするつもりなのです。五月五日の議定書によって、すぐに私たちは死んでいたことでしょう。一年も持ちこたえられなかったかも知れません。今のところ、私たちは一致していますが、議定書によれば、ローマと接触を持たざるを得ず、聖ピオ十世会内に分裂をもたらしていたことでしょうし、すべての事が分裂の原因となっていたことでしょう。新しい志願者たちは、私たちがローマとともにあったから私たちの道にたくさん来ていたことでしょうが、このような召命を持つ者たちは、ローマとの不一致──つまりは分裂──を我慢できなかったでしょう。今のところ、彼らの召命は、私たちのところにたどり着く以前に別のところに行っています。

 ローマ側では、ドクルトレ(Decourtray)大司教が、私たちの同僚の一人、ラファルグ(Laffargue)神父に、聖ピオ十世会を出ることを条件に聖伝の教区を提供しています……。ローマは私たちの同僚を引きずり込み、私たちを公会議へと引っ張っていこうとしています……。私たちはというと、注意深くローマと距離を取ることで、兄弟会と聖伝を守っています。私たちは、公式の教会に入り込んで聖伝を守ることができるかどうかを知ろうと、誠実に努力し理解しようとしました。それは不可能なことと分かりました。ローマは、さらに悪くなる以外に頑として動きません。例えばカザロリ枢機卿のモスクワ訪問のようなことです。

 しかしながら、私たちの信徒らは数名の司教が与えられることで狂喜乱舞するでしょう。九十パーセントの人々は深い安堵の息をつくでしょう。

 おお、そうです、ローマは反対しています。でも、五月五日の議定書は私たちに一人の司教を差し出したのです。私たちは決してその司教を受け入れません。ここスイスにおける、シオン教区の私たちの司教は、ラジオやテレビで、私たちが提示したすべての候補者たちをヴァチカンは拒否した、と言いました。ドン・ジェラール(Dom Gerard)、ポゼト(Pozzetto)神父、ラファルグ(Laffargue)神父ならローマは受け入れるかもしれません。しかし、私たちの候補者は、誰を提示してもローマは拒み、拒み、拒み抜くでしょう。デ・サヴェンゼムはというと、まるでローマの一員であるかのように異議を唱えるのです!

 あなた方の役割は秘跡を与え、信仰を説くことになります。あなた方は兄弟会に仕えることになるのです。ローマは、私の背後に兄弟会があったために、私だけを相手取っていました。兄弟会は正当な団体です。聖伝を力強く支えるため、あなた方の間にしっかりと一致を保って下さい。諸々の主要な決定をするのは、総長の意向次第となるでしょう……。

 教皇様の認可なしで司教になるということは、それ自体、離教ではありません。教皇ピオ十二世以降、中国の司教たちのために離教となっただけです。

 ローマは怒り心頭です。デ・サヴェンゼムはラッツィンガー枢機卿のFAX番号を教えてくれました。ローマは霊的エイズに罹ってしまっています。ローマにはもはや天主の恩寵はありません。ローマの免疫システムは停止してしまいました。ローマが信仰を失っていないと言えるのか、私には疑問です。やがて来るはずの制裁に関していうならば、不愉快なことは時とともに少なくなります。謙遜な人々にはわかるでしょう。私たちの行動に反対するのは聖職者です。

 信仰の証人たち、殉教者たちは、常に信仰と権力の狭間で、どちらかを選択せざるを得ませんでした。私たちはジャンヌ・ダルクの試練の時をふたたび生きているのです。ただ、私たちは、数ヶ月間の不愉快なことではなく、二十年もの間、続いてきたことなのです!

ルフェーブル大司教

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イエズスの至聖なる聖心に聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り

2012年06月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会は、昨日より私たちの主イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日までノベナを行っています。イエズス・キリストの聖心の祝日には、以下の
イエズスの至聖なる聖心に聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り
を唱えます。これは、1992年に最初になされ、1994年にも繰り返されたものです。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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イエズスの至聖なる聖心に聖ピオ十世司祭兄弟会を奉献する祈り



 おお、イエズスの聖心よ、我らは御身が聖ピオ十世会及びその全ての使徒職事業を統治(しろし)めし給う愛の王なることを、厳かに宣言し奉る。おお、愛の王よ、我らを統治(しろし)めし給わんことを、伏して乞い願い奉る。

 おお、主イエズスよ、実に御身の聖心によりて、我らの心の王にしてかつ中心たり給え、また、我らのあらゆる活動の息吹かつ焦点たり給え。そは、我らの内に、我らによりて、我らの全活動が、ただ御身の統治を打ち立てるを求め、目指さんがためなり。

 ゆえに、おお、イエズスの聖心よ、聖ピオ十世会総長の王かつ友なる聖心よ、総長は、パレ・ル・モニアルにて御身が約束し給うた格別の恩寵を、とりわけ彼がために謙遜にされど緊急に求め奉る。彼をして、御身のあわれみに満ちた聖心の、実り豊かかつ従順な道具として、いと善き父、見識ある師、賢明なる裁き手とならしめ、御身の精神及び愛を行く手に掲げ、輝かしめ給わんことを。おお、イエズスよ、今よりは、彼ならで、御身ご自身が、御身の司祭らをまったき正義の道に導き給わんがため、御身の聖心のすべての炎と甘美をば、彼が心の内に置かしめ給え、

 御身は、その最も偉大なる宝の数々で司祭らを豊かに富ませ給い、御身の利及び、御身のいつくしみ給う信徒らの救霊を司祭らに委ね給いし。願わくは、司祭らの、王かつ友たり給え。おお、イエズスの聖心よ、司祭らをして、信徒らのための生ける模範、地の塩、世の光とならせ給んことを。彼らをして、その深遠なる内的生活によりて、いまだ囲いの外に留まる者らのために沸き溢れる天主の命の泉とならせ給わんことを。


 聖職者の元后、使徒の元后なるマリアを通し、我らをして、霊と真理における第二のキリスト、信徒らを照らし暖めるたいまつ、雇われ人あるいは生温き者にはあらずして、熱心なる司祭ならしめ給わんことを。御身が聖マルガリタ・マリアに厳かに約束し給いし如く、御身の栄光のため、カトリック信者の堅忍のため、未信者らの救霊のため、我らを聖ならしめ給え。我らの義務及び責務の超自然的理解と同じく、天主のみいつ、司祭職の特別な恩寵の曇りなき知識を、我らすべてに下し給え。

 マリアの悲しみに満ちたけがれなき御心を通して、御身の司祭らに、御身のあらゆる賜物、ミサの聖なる犠牲、ことに祭壇にて御身がましまし給うことの崇高さを、日々ますます悟るを得る恩寵を与え給え。御身のおん父、また我らのおん父にてまします御者の栄光のため、御身が彼らに望み給う聖なる奉献を司るにふさわしき者ならしめ給え。


 彼らの心を唯一事、すなわち司祭職を聖ならしめんとの思いで満たし給え。カトリック司祭職の復興のため、ことに召し出しを惹起(じゃっき)せしめんため、召し出しを受けたる者らの養成のため、御身の司祭職の生贄の精神を我らの内に保ちつつ、堅き意志と活力もて働く恩寵を、我らすべてに下し給わんことを。この司祭職の生贄の精神をば、そを失いし者、そに不忠実なる者らの内に、ふたたび甦らせ給え。


 この目的のため、我らは、聖ピオ十世司祭兄弟会の会則をことに共同生活ならびに共同の祈りにおいて、厳粛に守らんと約束し奉る。おお、イエズスよ、ついには御身の神的愛のかけがえなき遺産として、当会会員らをまことに受け取り給うと同時に、我らの不忠実、不熱心、司祭及び牧者としての欠点を赦すとともに、我らの羊らの罪、ことに我らの聖性と熱心の欠如のゆえに、我らがあやまちにより、彼らが犯したる罪をも赦し給え。おお、善きイエズスよ。


Cor Jesu, parce sacerdotibus tuis, parce populo tuo!  おお、イエズスの聖心よ、御身の司祭ら、御身の民を、赦し給え!使徒聖トマよりもさらに善きことをなせと、我らの手のみならず、司祭としての魂をも、御身のとうとき御傷、御かたわらに置くを命じ給え。いつの日か、そして永久に、彼処(かしこ)において、我らが住まいを打ち立てるを得んことを。

おお、イエズスの聖心よ、マリアを通して、我らの内に、我らによりて、み国の来たらんこと!


CONSECRATION OF THE PRIESTLY SOCIETY OF ST. PIUS X TO THE SACRED HEART OF JESUS

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