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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十四章 二つのピラミッド

2011年12月31日 | カトリックとは
第五十四章 二つのピラミッド

私はとても体が弱く、少女だった頃は頻繁に病気にかかりました。私は病床にあった時はいつでも、修道女はアダムとイブが原罪を犯したので、人間は苦しみ、死ななければならないと言いました。誰も免れることは出来ません。人間の本質は損なわれ、民族の間には憎しみがあり、国の間には戦争があります。貪欲、怠惰、誇り、そして嫉妬はどこにでもあります。

このように、原罪による限界があります。ああ、私は何年、何百回と不平をこぼしたことでしょう。私は、悪魔の声に耳を傾けて果物を食べたにイブを非難しました。アダムとイブの二人は、世界のすべての不幸や苦しみの根源でした。今、人類は天主様と争い、天主様と人間の間に、誰も飛び越えられない隔たりを作っています。何という悲劇でしょう!しかし、私はアダムとイブが罪を一度犯しましたが、私が何回罪を犯したのかと自分に問問い質したことがあります。答えは無数です。間違い無く私は彼らを責める資格がありません。

誰がこの混乱した状況から私を導くことが出来るでしょう?ある夜に、私はゲッセマネの園にやって来ました。何という夜の深さ!雲が重く、月の光は薄暗いです。すべてが暗闇の中にあるように見えました。傍らの川は、ゆっくりとざわめきました。まるで、彼らが何か恐ろしいことが起きているのを知っていたかのように。しかし、小さな流れよ、なぜあなたは3人の使徒に、イエズス様が悲しみのあまり死んでしまいそうだったことを教えなかったのですか?緑色の岩を見てください。それはイエズス様の血の汗で赤く染められています。イエズス様は、彼らが共に祈っていたかどうかを見るために、最愛の弟子のところに行ったり来たりしました。何と落胆したことでしょう!彼らがこの重要な時期にぐっすり眠っている間、イエズス様は一人ぼっちでした。誰も一緒ではありませんでした。私は、イエズス様が御父である天主様に祈っておられるのを、殆ど聞くことが出来ませんでした。その声は恐怖に震えましたが、依然として「フィアット」(そうなりますように)と言われました。キーワードである「フィアット」は、イエズス様がとても苦しむ必要があるとお分かりになるほど、極めて多くの人間の罪が犯されたことを思い出させます。それは、アダムとイブからこの世の終わりの末代まで犯され続けた無数の罪を考えるときです。

天主様が選らばれた救世主を待ち望んでいたダビデの家系に連なる人々の裏切り、天主様の最愛の人による否定、天主様が選ばれた司教や司祭の不忠実、私たちの祝せられた御母であるマリア様、イエズス様の聖心に対する恐るべき冒涜、殺人、そして私自身の罪は、驚異的なピラミッドを形成します。このピラミッドは、イエズス様を逆様に押してしまっています。それはあまりにも重く、イエズス様が御自分の血を犠牲にし、ええ、この庭で苦しんで十字架上で死ぬことを余儀無くされました。イエズス様は御自分の全ての苦しみを以てこの世を贖い、私たちのために天国への門を開けて下さいました。それ以来、私たち罪深い生き物は、御父である天主様を私たちのお父さんと呼ぶ資格を持ちました。何という特権を私たちは持っていることでしょう!私たちは、失ったものよりもはるかに多くを得ています。「幸せな原罪」は、私たちに救い主をもたらしました。

イエズス様御自身が昼も夜も聖櫃の中に真にましますよりも、この世に尊い贈り物があるでしょうか?私たちはこれ以上の不平を言ったり、心配することはありません。私たちの人生は喜びと幸福に満ちています。この世は単に涙の谷であるばかりではなく、天国への準備のための予備校です。ここで天主様を愛する練習をし、全ての美徳を練習し、そして私たちは天国に行く準備が出来るように自分自身を聖くします。

 すべての人間は、煉獄かこの世の苦しみのいずれかを通して、天国に登る前に自分自身を浄化しなければなりません。アビラの聖テレサが「苦しむか死ぬか」と言った時、彼女は正しかったのでした。時間は地獄や天国ではなく、この世に存在しています。私たちは時間を持っているので、私たちのこの世の苦しみには終わりがあります。それは永遠ではありません。時間のために、私たちは次から次へと自分たちの苦しみを捧げることが出来ます。私たちは、自分たちの手に魔法の杖を持っているのです。何であろうと、私たちが天主様への愛のためにすることで私たちは益を得ますし、私たちは天主様を喜ばせることが出来ます。ですから、私たちは浄化のピラミッドを登ってみましょう。私は、「天主様のエレベーター」に乗るのに、小さき花の聖テレジアを模倣したいと思います。私はイエズス様に、私を肩の上に載せるか、腕の中に私を抱き抱えるようにお願いします。イエズス様がとても鮮やかな雲と共に天に登られる時、何と美しいことでしょう。天主様、いつかあなたが私をお呼びになる時、天国への道であなたの腕の中に私を抱き抱えて下さるように祈ります。アーメン。
二〇〇四年九月二十二日


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十三章 繭から飛び出す

2011年12月30日 | カトリックとは
第五十三章 繭から飛び出す

 私は小さい子供の頃から、蚕を飼うのを楽しんでいました。中学校で学んでいた時は、朝に何匹かの蚕と数切れの桑の葉をかばんの中に入れ、授業の合間、あるいは昼食の時に、何枚かの葉のえさをやったものです。日が経つにつれ、蚕はとても速く成長しました。蚕は2週間毎に脱皮し、合計で3回脱皮しました。脱皮する間は物を食べませんでした。

それぞれの脱皮後に、蚕は自らの皮を脱ぎ捨てます。体はますます透明となり、そして絹を分泌し始めて自分自身の周りに繭を紡ぎます。最後に、蚕は蛾へと変わり、繭から出て卵を産み、そして死にます。蚕の一生は非常に興味深いです。それは何らかの形で天主様の創造の謎を少しばかり表しています。

私は蚕の一生と、私の人生を比較したいと思います。私も人生の中で、3回の脱皮がありました。一回目は一九四九年の私の洗礼です。イエズス様の苦しみと死は、私に天国への門を開け、私をあわれな罪人から天主様の子へと変えました。

二回目に、天主様はイエズス様の証人として、聖母の誕生日である一九五五年九月八日に刑務所で生まれるように私をお選びになりましだ。それは、私の人生で最も幸せな時間でした。私の二十六年間の投獄中、聖母は御自分の胸に私を抱き寄せ、とても親切に私を見守って下さいました、聖母の御加護の下に、私は悪人のののしりを聞きませんでした。私が聞いたのは、聖母が私を寝かしつけるために子守唄を歌っていた優しい御声でした。私が見たものはただ、聖母マリアの優雅で威厳のある御顔でした。イエズス様の十字架上の最後の御言葉に耳を傾けましょう。イエズス様は、マリア様の御手と御心に全人類を託されました。もし、空が落ちるか地球がばらばらになったとしても、安らかに母親の胸の中で眠っている赤ちゃんは、何にもおびえません。

天主様は、これら全ての重要な歳月を通じて、私に無限の恩寵をお与え下さいました。私は自分の信仰を保つ一方で、共産主義者の長年にわたる洗脳を経ても、私の心はまだ単純で影響を受けないままでした。私は自分を迫害しているすべての人々を許します。おそらく、レジオ・マリエでの私の最初の日から、私は人々、特に宣教師を助けるための大きな熱意を受けてきました。天主様の御加護の下に、憎しみ、疑い、または嫉みのどれもが今まで私の霊魂に触れたことはありません。私の第二の人生のこの部分は、私が自分の心を挙げて天主様に近づくように助けてくれました。確かに、天主様は御自分のはしための謙虚さをお考えになり、私の最大の奇蹟を与えて下さいました。
天主様の御慈悲は限りが無く、そして私が自分の時間や労力を浪費することを御ゆるしにはなりません。天主様の御節理は、私が何度も癌を患うことを御ゆるしになりました。それが私の第三回目の脱皮です。自分の癌の病気により、天主様は私を友人や親戚から離れるようにされ、私に徹底した霊的な黙想のための時間を与えて下さいました。この黙想で、私は人の体に癌があることが恐ろしいことではなく、人の霊魂に癌があることが恐ろしいと気付きました。天主様は、私が暗い谷を通り、火の海を飛び越えるように助けて下さいました。今、何の恐ろしいことがあるでしょう?もし、私に天主様への信仰があれば、天主様には何も不可能なことはありません。

私は何を恐れるのでしょうか?癌の苦しみは、この世の天主様の煉獄です。私は家族の魂を救うため、失った時間を購うため、そして煉獄で魂を救うためにこの苦しみを用いました。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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私たちの主イエズス・キリストの御降誕

2011年12月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕の御慶びを申し上げます。今年、多くのお祈りとサポート、援助、応援、本当にありがとうございます。

 こちらマニラでは、クリスマスにはほとんど司祭一人で三つのミサ聖祭を捧げました。真夜中のミサ聖祭の間は、バラン神父様が告解を聴いていてくれました。

シャザル神父様はソウル、マック神父様は、コタ・キナバル、バラン神父様はタナイとバギオ、ヘラ神父様はレイテで、クリスマスのミサ聖祭を捧げました。


 クリスマスには、マニラで、日本の方が一名洗礼の恵みを受けました。日本の聖ピオ十世会では今年、4人目です。天主様に感謝します!! 日本からは11名の方々がマニラに来てくださいました。マリア様に感謝します!!


 マニラでは7名の男性が、ただ今、霊操の黙想会に与っています。12月26日から31日まで。

 一昨日は、総長第二補佐のネリ神父様がフィリピンに着かれました。

 カガヤン・デ・オロは最近、台風で大きな被害を受けました。聖ピオ十世会の信徒の方々も被害にあい、ファイファー神父様がカガヤン・デ・オロにて、援助活動中です。


 愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、来年の1月2日から30日の霊操に入ります。お祈りをよろしくお願いいたします。

以上、近況報告でした。

愛する兄弟姉妹の皆様に善き祝福された新しい2012年をお祈り申し上げます。天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十二章 東方のルルド –佘山(シェシャン)

2011年12月29日 | カトリックとは
第五十二章 東方のルルド –佘山(シェシャン)

佘山の聖母のバシリカは、一八六三年に佘山(シェシャン)(北京語の発音)の上に建てられました。それは清朝時代に上海教区が教会の災難を免れるように助けて下さった聖母に感謝の意を示すために建設されました。一八七一年に教会は再建されてその規模は拡張され、それは上海の主要な教会となりました。オープンニングミサは、その年の五月一日及び二十四日にランギヤ司教(Adrien-Hyppolyte Languillat, 郎懐仁)により司式されました。一八七四年に教皇ピオ九世は、毎年五月に巡礼者としてそこに行った人に全免償を与えました。元の古い聖堂は一九二五年に解体され、そして新たな大聖堂の建造を始めました。完成するまでに十年以上かかりました。一九四六年、この大聖堂は教皇ピオ十二世によって小バシリカであると宣言され、一九四八年に教皇大使リベリ大司教(Antonio Riberi, 黎培理)によって献堂されました。それは極東初のバシリカと呼ばれていました。何千人ものカトリック教徒が中国各地及び世界中から巡礼に来ています。上海教区のカトリック教徒は、一九五〇年代に一つの慣習を始めました。彼らは、聖母の月である五月とロザリオの月である十月、そして毎月の第一土曜日か、または特別な意図のために祈る必要があった時は、いつでも佘山(シェシャン)の大聖堂に行きました。最初に三聖亭、特に聖母亭の前に跪いて、私たちをお守り下さるように聖母に祈り、私たち罪人を憐れんで下さるように天主様にお願いしました。

佘山(シェシャン)の聖母は、私の守護聖人であり、私の生涯は彼女の保護の下にあります。私は高校生だった頃、頻繁に佘山(シェシャン)へと巡礼に行きましたが、とりわけ一九五二年のレジオ・マリエの事件後に私が学校に行くことが出来なかった時はそうしたのを覚えています。その期間、私は天主様に祈るように佘山(シェシャン)に行くための時間が沢山ありましたし、しばしばそこで私は三日間の黙想をしました。何回かの黙想は、張希斌神父様が指導されました。私はそこから無限の恩寵を得ました。私が長期の労働と拷問生活の下で自分の信仰を保つための強さを持っていたのは、そのためでした。私がひどい試練に直面している間、私は失望し、殆ど打ちひしがれてしまいました。御自分のマントの下に私を保護され、死の谷の中をずっと導いて下さったのは聖母でした。私はアメリカに来て以来、私は二回中国に戻りました。

私はそこに到着する度に最初にする重要なことは、巡礼のために佘山(シェシャン)の大聖堂に行くことでした。私は初めて、漁船からやって来た多くの信者に出会いました。彼らは漁網をしまうと、家族や子供たち、そして年配の人を自分たちの船で旅をしました。旅の途中、彼らは聖母の連祷を唱え始め、次にイエズスの聖心の連祷、そして聖ヨゼフの連騰を唱えました。彼らが山の上の半分まで辿り着いた時、誰もが非常に敬虔に聖母亭の前に跪きました。何人かは、全く自分の膝の痛みを気にせずに岩の上に跪き、次から次へとロザリオの祈りを唱えました。そこから彼らは、十字架の道を辿って山の頂上まで登りました。彼ら信者は一年中船の上に住んでおり、非常につつましくて単純な生活を送っていましたが、彼らは自分たちのカトリックの信仰に熱心でした。とても幼い子供ですら、「主の祈り」を暗唱出来、同様に「めでたし」を大きな声でよどみなく祈ります。彼らは、佘山(シェシャン)に行くために丸一日漁を諦めますが、彼らが「私たちは天主様に祝福されています。収入は異教徒たちよりも少ないですが、私たちの生活は彼らよりも平安で意義があります」と言うように、お金のことを気にしません。

 私は、ここアメリカで多くの信者に会い、彼らは佘山(シェシャン)にフランスのルルドのような泉があるかどうか私に聞きました。私は「ありません」と言いました。そこで、彼らはまた「あなたは佘山(シェシャン)で自分の目で聖奇蹟を目撃したことがありますか?」と聞きました。私は「ありません」と答えます。「では、佘山(シェシャン)はどうしてそんなに国内外の多くの信者を巡礼へと引きつけることが出来るのか」私はそのことを繰り返し考えました。これまで、佘山(シェシャン)には未だ泉がありません。一つの理由は、聖母の時がまだ来ていないからかもしれません。もしかしたら将来ある日、山に泉が現れるかもしれませんが、私たちはそれはいつになるか分かりません。

 他の理由は、佘山(シェシャン)には奇跡の水の源はありませんが、脱力草と呼ばれる多くの病人を治す薬草の一種が生えているということです。この薬草は山のふもとで販売され、多くの病気の巡礼者はそれを購入して家に持ち帰り、煎じてお茶として飲みます。弱くて病気な人は直後に回復します。有名な医師である呉雲瑞は、熱心なカトリック教徒でもありました。彼はそのような薬草から止血治療法を発見し、効果は非常に良好でした。前にも言いましたように、私は目撃してはいませんが、佘山(シェシャン)には多くの奇跡があり、私は肝臓や肺の癌から回復した何人かの患者に会ったことがあります。彼らは聖母に感謝の意を示すために戻って来ましたが、彼ら患者が自分たちの治癒の証拠を出すために、病院に行くことが出来なかったことを非常に残念に思います。その一方で、中国には宗教の自由が無く、信者や司祭は立場の低い人々であったため、たとえ彼らが病院で検査を受けたとしても、医者は確実に進んで彼らが奇蹟によって癒されたかどうかを証明する認定書を与えようとはしないのに、どうして証明されることが有り得るでしょうか?

聖母は、未だ公に知られていない数多くの奇跡を私たちに与えて下さいましたが、世俗的な名声を気にしません。佘山(シェシャン)の大聖堂に行ったことがある信者は皆、はっきりとこのことを知っています。私たちの天の御母は、私たち一人一人の面倒を見て下さり、わたしたち、特に佘山(シェシャン)に行って聖母を訪問する者の願い事を、決して拒んだことはありません。そのことで、聖母の母親の心はこれらあわれな中国の人々、またはどんな哀れな人をも愛して止みません。私たちの涙を拭き、私たちの重荷を軽くし、そしてカルワリオへの道を歩き続けるように強めて下さるのは聖母です。聖母は、私たちが彼女の息子のために苦しんだことを御存じですので、飛び抜けて寛容です。聖母はこの世でさえも、私たちに報いて下さいます。どのようにでしょうか?私は労働改造所で、薬や医者の無い時に重病に罹りましたが、私は何度か奇跡的に私たちの天の御母によって癒されました。

 一九九八年に上海に帰った時、私は一つの奇蹟を耳にしました。張朴橋という名前の一人の信者がおり、彼には一人の四歳の子供がいて、生まれた時からずっと耳が聞こえず喋れませんでした。ある日、彼等一家はこの子供を連れて佘山(シェシャン)に行って聖母に礼拝し、一人の王という地下教会の神父に出会いました。子供の父親は、子供を抱いて神父に対して言いました。「神父様、どうか祝福を」王神父は子供の額の上に十字を切って言いました。「父と子と聖霊の御名によりて、アーメン」突然、この子供は口を開いて「ママ」と呼びました。そこで、周囲の信者は皆、「佘山(シェシャン)の聖母が奇蹟を起こした、奇蹟だ!奇蹟だ!」と大声で叫び始めました。この家族が再び王神父を探した時、王神父はもう視界の中にはいませんでした。この神父と私は長年の友人です。私が奇蹟のことを彼に尋ねた時、彼は言いました。「それは確かに私ですが、私が起こしたのではなく、聖母の御取次によるものです。マリア様がその子を癒されました」上海教区の范忠良司教は、人を遣わせて病院に行かせ、その子供のカルテを調査させました。その結果、子供は耳と口が生まれつき不自由であると記録されていました。今は聞いたり、話したり出来ます。このことは、既に范司教の許可を得ているので、広く宣伝することが出来ます。

実際に、佘山(シェシャン)の聖母を通して起こった数々の奇跡があります。ひっくり返されない石を残さない位、中国共産党は教会を迫害していますが、教会は一日一日と持ちこされています。無数の殉教者は天国に昇りました。多くの信者の種が植えられました。いつの日か、それらが聖母の御取次によって豊かな実りになると私たちは信じています。



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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十一章 一つの石は千の波を起こします

2011年12月28日 | カトリックとは
第五十一章 一つの石は千の波を起こします

1950年代には、私の周りに住む多くの将来の殉教者がいました。その中で、張希斌神父様が18年の刑を言い渡され、最も苦しみました。張神父様の分野は哲学や論理であり、囚人の間には少なからずの学者と教授がいました。彼らは張神父様を尊敬したばかりではなく、神父様の良い模範のために改宗を望んで洗礼を受けました。張神父様は、囚人の牢屋で彼らに洗礼を授けたと私に語りました。

 一九七一年、刑務官はあらゆる宗教に反対を示すために、特別な洗脳学習を組織しました。この学習は、主に龔司教様と張神父様を狙っていました。龔司教様は国際的な名声を博していましたので、彼らは「毛沢東思想とマルクス・レーニン主義」について何か発言するように強制はしませんでした。彼らは張神父様に砲火を集中しました。共産党の刑務官は、いわゆる唯物論やマルクス・レーニン主義の専門家を集めましたが、実際には左翼の政治について何も知りませんでした。確かに、彼らは中国共産党によって支配されていました。彼らは常に偽りを述べる特別な権利を持っており、彼らは自分たちが好む話を作り出しましたが、最も邪悪な行為は、幹部が何人かの犯罪者に彼らと働くように説得したことでした。張神父様が私たちのカトリックの宗教の真実を話した時、そのうちの一人が警告無しに彼のところに来て、神父様の心臓を打とうと木の板を取り出しました。何度も何度も、神父様がほとんど気絶するまで全力で激しく打ちました。これは十数回繰り返されました。そして、このような洗脳学習は9ヶ月間続きました。最後に、最も顕著な出来事がやって来ました。ある共産党の管理人は、龔司教様に詰問しました。「おまえは、自分のカトリックの教えについてどう思うか?」司教様は立ち上がり、「全く変わりません」と言いました。これを聞いて、管理人は「全てのカトリック教徒は立ち上がれ!」とヒステリックに叫びました。張神父様は最初に立ち上りました。続いて、何人かのカトリック教徒が立ち上がりました。その後、洗礼を待っていたしていた一部の人が立ち上がり、その後に張神父様を尊敬していた人もそうしました。それから、より多くの人が立ち上がりました。看守は狼狽し、どう扱えばいいか分かりませんでした。彼は大声で叫び続けるだけでした。「おまえたちの名何人かは、確実に処刑される。おまえは厳罰を受けるだろう。待っていろ!」この九ヶ月の結果はどうでしたでしょう?神父様は微笑んで言いました。「より多くの人々が洗礼を受けました。牢獄であっても、本当にすばらしかった。私たちは自由を失いましたが、まだ私たちには水がありました。人々はまだ自分の自由意志を持っており、何も彼らが真実を受け入れることを止められませんでした。実際、共産主義者が私たちの教会を攻撃すればするほど、より多くの人が改宗しました」

彼は自信に満ち溢れた司祭でした。彼の目は全生涯、聖ペトロのようにイエズス様に自分の目を注ぎ、海の上を歩き続けました。囚人の牢屋の中での宣教の仕事は、信じられないことでした。それぞれの重大な尋問の後、常に洗礼を受けることを望む人が数人はいました。神父様が言ったように、共産党員は私たちが宣教の仕事をするために助けたのです。しかも全ての看守が悪かったのではありません。何人かは密かに、牢獄の外に出るように神父様に依頼し、私たちの勇敢な司祭は、それを彼らに基本的で重要な真実について教育する機会として受け取りました。実際、神父様が、サウロがパウロになったと語ったようなケースがいくつかありました。

私は一九八三年に労働改造所から解放され、一九八五年に訪問のために上海に行きました。私は家に帰ると直ぐに私の友人が、張神父様が重病で上海の中央病院に滞在していたことを告げました。彼は一九五〇年以来深刻な心臓病を患っており、コラミンの注射による治療を受けていました。彼は常に自分の必要に応じて、自分と共にそれを持ち運んでいました。殆ど死んでしまう程ひどく胸部を殴られた後、彼の二尖弁と三尖弁が深刻な損傷を受けてしまい、彼の心臓の鼓動は非常に不規則でした。心拍数は時には一分で二百回以上にたちし、医者は彼の家族に彼の死に備えるように言い聞かせましたが、私が彼の病棟に足を踏み入れたある日、彼は元気に満ち溢れていました。彼は私の手を取り、言いました、「あなたは、朱樹徳神父が私のことで第一級の奇蹟を起こしたことを知っていますか?」私は嬉しさのあまり、飛び跳ねました。その後、彼は私にいくつかケーキや飴をくれて、言いました。「あわてないで。まず、あなたは何か食べなくては。そうしたら、私の話をしよう」私は答えました。「神父様、あなたはいつも私を子供のように扱います。私は五十歳を過ぎています。私はあなたに何が起こったか聞くのを待ちきれません」神父様は非常に直接的で率直でした。彼は私に詳しく自分の話をしました。「一週間前、この病院の心臓の専門家が他の病院の何人かの専門家に、私を繰り返し調査しに来るように招きました。彼らは全員同じ結果を得ました。全ての医者は私をあきらめていました。彼らが私の薬物療法を止めた時、私は自分の枕の下に朱樹徳神父の聖遺物を置いて、彼に祈りました。「もし、天主様が私に天主様のために再び働くことをお望みになるのでしたら、私に奇跡を起こして下さい」次の日、医者が私の部屋に来た時、驚いたことに私の心拍数はもう正常になっていました。彼らは私を調べるために、同じ医療機器を用いましたが、彼らは私の心臓に何の問題も見つけられませんでした。彼らはこの結果を進んで受け入れようとはせず、おそらく機器が誤動作していたと思い、病院の主任医師が他の病院から心電図の機器を借りるように依頼して調査しましたが、やはり結果は同じでした。医者が驚いたというのは、控えめな表現でしょう。彼らは、医学用語で私に何が起こったのか説明することが出来ないと語りました。その後、多くの看護士が私のところに来て、彼らのために祈るように私に頼みました。彼らは言いました。「神父様、あなたの天主様があなたを救われたことをはっきりと知っている;私たちのために祈ってください」最終的に、何人かの看護士は洗礼を受けました。

一九八九年に私が米国へ出発する前、私は彼に別れを告げに行きました。私の感情は、はるかに自分の表現能力を超えていました。確かに、私は出来るだけ早く中国を離れたかったのですが、まだ非常に多くの司祭、特に私の貴重な霊的指導者である張神父様がそこに留っていました。私は再び彼に会うか、話をする機会がないことを知っていました。彼と握手をしながら別れを告げるのに、どうして自分の涙を抑えることが出来たでしょう?彼の最後の言葉は、しっかりして力強いものでした。「あなたを待っている多くの十字架があるでしょう。私たちの仲間である信者、司祭、司教からの攻撃に備えなさい。いつの日か、おそらくあなたは破門され、信仰を失った人たちが良い人であると見做されるでしょう。どんな状況においても、自分の信仰を保ちなさい!私は天国であなたを待っています」

確かに、張神父様は熱意と霊的な知恵に富んだ司祭でした。彼は、将来をはっきりと見ることが出来た唯一の方でした。当時、私は本当に彼の言葉に困惑しました、今になって初めて、私は彼が何を言おうとしたのかに気が付いたのです。



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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第五十章 家族全員の殉教者

2011年12月27日 | カトリックとは
第五十章 家族全員の殉教者

教皇ヨハネ・パウロ二世は、一世紀か二世紀前に亡くなった百二十五人の中国の殉教者を列聖しました。今日、中国でカトリックの信仰のための宗教の自由はまだ無く、中国のカトリック教徒は、その信仰の為に捕われて死ぬことが続いています。私は、より多くの前世紀における殉教者が、最終的にはバチカンによって列福及び列聖されることを確信しています。

 私は異教徒の家族に生まれましたので、私が洗礼を受けた後に主任司祭は、ある熱心な家族に私の世話をするように頼みました。この家族の主は、上海にある聖ペテロ教会の教区民である沈多才さんでした。彼は電気会社の技師として働いていました。彼は4男1女をもうけました。一九五五年に大きな政治的な嵐が上海教区を覆い、沈さんは逮捕されました。彼らは自分たちの信仰を放棄するつもりはなかったので、息子である楽天と楽平、そして彼の一人娘である梨霞もまた逮捕されました。沈夫人は、彼女の夫と二人の息子、そして一人娘が逮捕された夜を、次のように回想しています。夫が連れ去られようとした時、彼女は熱心に説きました。「天主様を信じ、勇気を出して。私たちは天国で再び会いましょう」その時点から、沈夫人は経済や精神上の苦難の多くに耐えました。他の二人の息子である楽安と楽仁は、自宅で母親と一緒にいましたが収入は無く、親戚や近所の人の重圧はトラブルをもたらしました。沈夫人は彼女の悲惨な経済状況にもかかわらず、労働改造所にいる自分の家族のために、日用品を郵送しに郵便局へ行きました。受取人が労働改造所の「囚人」でしたので、彼女が小包を送ろうとする度に、郵便局の局員は絶えず彼女を侮辱しました。彼らは、沈夫人に小包を調べるために何度も開封するように要求しましたが、その侮辱にも拘わらず、彼女は限りの無い忍耐と勇気で、彼らに恐れを見せませんでした。このことで、郵便局員は彼女の忍耐強さと親切さに感動するようになりました。この自分の家族への完全な忠実さにもかかわらず、沈夫人はほかの母親に労働改造所に何を送るかを助言し出しました。例えば、朱樹徳神父様の母親は労働改造所に4人の子供がいましたので、朱夫人に付き添ってかけがえの無い支援をしました。

 一九六八年に文化大革命が始まってからは、「反革命分子」の家族は、常に深刻な攻撃の下にありました。彼らは公の場でレッテルを張られて引きずり回され、そして殴られました。家族が耐えていた物理的および精神的な拷問は、筆舌に尽くし難いものでした。激しい迫害のために多くが自殺しました。沈夫人と彼女の二人の息子は、文化大革命の犠牲者の中に入っていました。共産主義者は彼女の手の両方を縛って、昼夜と彼女に責め苦を与え、二人の息子も見逃しませんでした。年上で先天性の心臓病で苦しんでいた楽安は、責め苦を受けている間に心臓発作を起こして亡くなりました。沈夫人は断固として、自分の全ての悲しみと痛みを天主様と聖母に捧げました。彼女は革命を生き延び、後にアメリカに来て今もそちらにいる自分の末の息子である楽仁と住んでいました。一九八〇年になってからやっとのことで、およそ三十年後の刑期の後に、彼女の二人の息子である楽天と楽平は、労働改造所から釈放されました。肉親との再会の直後に、沈夫人は肝臓癌であると診断されました。私は彼女を訪れたとき、彼女は非常に穏やかで喜びに満ちていました。「私は天主様に全てを感謝します。共産主義者は、私が自分の信仰を否定するように強制するために、あらゆる方法を試みましたが、私は彼らの拷問には屈しませんでした。私は怖くはありません。今、私は二人の息子が戻ってくるのを見ました。私は安らかに死ぬように祈る他に、何も望みません」彼女が死んだとき、彼女はとても安らかでした。私は、天主様が彼女の苦しみに報いられたと信じています。

長男の楽天は、地下教会のカトリックの司祭でした。一九五五年に逮捕された後、彼は司教様が「反革命分子」であると批判することを拒否しましたので、労働改造所に留まりました。彼は、カトリック教徒が政府を否定しているのではなく、共産主義者がカトリック教徒を否定していると発言したので、飢えによる処罰を受けました。食べ物や水無しの七日間後、彼は耳、鼻、目、口、そして肛門から出血し始めました。看守は、最後の殉教者である張伯たち神父様が、自分の死によって多くの不信心者を改宗させましたので、彼が殉教者として死ぬのではないかと恐れました。楽天は水を与えられ、生きて家に帰されました。

 共産党は沈一家の家を取り上げ、残る四人の家族を、総面積百平方メートルの狭い部屋に置きました。共産主義の罪を贖うために、楽天は自宅で毎日数回のミサを捧げました。彼らが滞在する部屋は、居住場所となるようには設計されていませんでした。そこは三階建ての建物の屋上にあるテラスから、粗雑に改築されました。そこを訪問するために、私は古くて倒れそうな階段を上り、一段毎に、まるで階段が壊れるかのような騒しくきしむ音がしました。自分たちのカトリック信仰のために奪われた彼らの美しい家と比較すると、屋根裏部屋は生き地獄でした。しかし、沈一家に不満はありません。屋根裏部屋は屋根の上に位置していましたので、下に住んでいた家族からの料理の煙が立ち込めていました。煙を吸い込んで数年後、楽天は喀血し、病院の緊急治療室で静かに亡くなりました。

 沈家の一人娘の名前は梨霞で、洗礼名はテレサでした。信仰の為に青海省まで流され、そこで乳癌であると診断されました。梨霞は自分の痛みを素晴らしい御恵みと共に耐えました。多くの信者は、彼女が自分の痛みを天主様の賜物として受け入れたことに心を打たれ、彼女を上海教区の小さな白い花と呼びました。彼女の癌の痛みへの忍耐は、何人かの異教徒を改心させました。

 もう一人の息子である楽平は、屋根裏部屋に住んでおり、四つの骨壷が置かれていました。遺骨は彼の母親、楽天、楽安と梨霞のでした。彼の父親の亡骸は全く見付かりませんでした。そうでなければ、五番目の骨壺があったでしょう。五人は皆、信仰の為に死んだのでした。屋根裏部屋は、葬儀場のように見えました。楽平は収入が無く、親戚は皆、彼を見捨てていました。もちろん、彼には骨壷を墓地に置くために費用を払う余裕はありませんでした。私が楽平に、墓地を探して骨壺全部を埋葬するべきだと提案すると、彼は同意し、とうとう墓地を探し当て、家族四人の骨壺を埋葬しました。楽平もその死後にそこに埋葬されました。

 楽平がこの世を去る前、上海で戸籍も仕事も無いままに屋根裏部屋に留まりました。戸籍がなかったので、食料と交換するための食料配給券を手に入れることは出来ませんでした。当時、全ての日用品は、配給券によって供給されていました。百グラムの油や小麦粉を買うのに、同じ価値の配給券が要求されました。どうしたことか、楽平は全く心配しませんでした。彼は授業料無しに英語を教え、彼の教え子がくれる食料で生活しました。彼は英語を教えると同時に、教理を教えました。彼の教え子が食料をくれる度に、楽平は乏しい食料を自分の近所のおばあさんと分けるか、またはおじいさんとビタミン剤を分けました。この人は、いつも他人を気にかけ、自分自身のことは気にかけませんでした。彼が亡くなる数ヶ月前、その両足はすで象の足のように腫れていましたが、なお自転車に乗って、お年寄りの家まで食べ物を届けました。どうして、私たちが彼を愛さずにいられるでしょうか?

沈一家は聖なる家族でした。彼らは上海のカトリック教徒の誇りでした。彼ら家族の物語は、歴史に記録されるべきです。家族全体でカトリック信仰の為に死に、そして彼らはいつの日か、ローマで列福されることになるでしょう。実のところ、沈さんが遠く離れた青海省の労働改造所で、どの様に亡くなったかは未だに謎です。労働改造所の看守は、彼がそうであったという証拠もないままに、肺炎で死亡したと家族に伝えました。何年か後に、労働改造所から戻って来た「囚人」が涙ながらに、何が起こったのかを楽平に語りました。冬のある雪の夜、沈氏は目を覚ますと、小便をするために自分の眠っている場所から外に行きました。衛兵は脱出を試みたと考え、彼を撃ちました。事実、意図的にその孤立のために選ばれた労働改造所は、冬には何キロもの雪で囲まれています。ですから、誰もが脱出しようと思っても、そこには生き残るための術は無いでしょう。飢死や凍死だけが、起こり得る結末でした。しかし、天主様は私たちの尊敬すべき殉教者に、起きたことを御ゆるしになりました。沈さん、どうか私たちのために祈って下さい。

 沈一家は長い間、私が弱くて混乱し、そして落胆していた時に、私を導いて下さいました。私は毎日、彼らの天主様への愛を言葉だけではなく、行いで模倣したいと思います。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十九章 クレネのシモンがしたように人の尊厳を意に介さずに

2011年12月26日 | カトリックとは
第四十九章 クレネのシモンがしたように人の尊厳を意に介さずに

ナザレのイエズスは、死を宣告されました。カルワリオで十字架の上で処刑されようとしていた人たちとの行列がありました。行列は馬に乗ったローマ人の百人隊長に率いられていました。両側に2人ずついた四人の兵士は、イエズス様の処刑を引き受けて見届ける必要がありました。イエズス様は行列の前の近くにおられました。前日の夜に無数の殴打によってひどく傷付き、尊い御体は傷やあざで覆われ、血が地面に流れていました。総督の兵士たちは、イエズス様の紫色のローブを身体から引き裂き、彼自身の上着を再び彼に着せ、そして、彼のあざだらけなずたずたの肩に十字架を置きました。十字架の梁は六十キログラム程の重さがありました。完全に疲れ切っていたにもかかわらず、イエズス様はこの重荷を背負わなければなりませんでした。そして、彼は刑場に向かってエルサレムの通りを進んでいかなければならなかったのです。

イエズス様は実際、長い断食と失血により疲れ切っていました。彼は十字架の重さで倒れました。その後、ユダヤ人たちはイエズス様が途中で死ぬかもしれないと恐れ、ちょうどそばを通りかかったある人に、十字架を刑場まで背負うことを強制しました。イエズス様に続き、彼と共に処刑されようとしている2人の強盗がいました。

それを見ていた群集がいました。ある者はイエズス様を知っており、彼を奇跡のために尊敬していましたが、その中のある者はこれまでイエズス様が救世主であるとすら信じていました。おそらく、枝の主日には棕櫚の枝を切り落として、それを道に沿って敷き詰めて何度も何度も「ダビデの子にホザンナ」と叫んでいましたが、今彼らはイエズス様が詐欺師であることが証明され、そして彼はそのために死刑を宣告されたと告げられたのです。これらの人々の愛は憎悪となり、尊敬は軽蔑となり、そして彼らはイエズス様が死刑になるのを見るようにと急ぎ、嘲りと愚弄、そして呪いと共にイエズス様についていきました。

群衆の中にいた信心深い女性がいました。天主様の御子と侮辱と苦しみをずっと共にした私たちの御母であるマリア様、自分の布をイエズス様に渡したヴェロニカ、マグダラのマリア、そして何人かの他の女性です。「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫んでいた大勢の群集と比べ、イエズス様の側に立ったのはほんの僅かでした。

マリア様といつも共にいたヨハネを除くすべての使徒たちは、イエズス様を置き置き去りにして逃げました。彼らは、ラザロを生き返らせたり、五つのパンと魚を六千を超える人々に食べさせるようなイエズス様の無数の奇跡を見ていたものの、イエズス・キリストと苦しみと恥辱を分かち合うための十分な勇気を持っていませんでした。人間の本質はなんと弱いことでしょう!

クレネのシモンは誰でしょう?なぜ、彼は進んでゴルゴタの丘へ向かう途中のイエズス様と重い十字架を背負ったのでしょうか?それは私にとって五十年以上にわたる謎でした。中国語と英語の両方の祈りの本では、彼が田舎からからエルサレムへの旅行者であるといわれています。おそらく、彼は以前にはイエズス様を知りませんでした。彼はその日に何が起こったか、知らなかったのではないでしょうか?ローマの兵士たちが十字架を運ぶように強いた時、彼らはシモンに拒否する時間を与えませんでした。彼はそれが何であったか気付く前に、十字架はもう彼の肩にありました。行列に付き添っていた誰もが、それに触れようとはしませんでした。十字架は不名誉の印だったからです。お金のために何でもするような分別のない兵士でさえ、自分自身はそのような行いに似つかわしくないと考えていました。シモンは物理的な重荷があったばかりではなく、キリストの侮辱をも分かち合ったのでした。

最初、シモンは進んで十字架を背負ったのではありませんでしたが、彼がイエズス様を見つめた時、イエズス様の優しさと忍耐によって心を打たれました。彼の虚弱な体は傷とあざで覆われていたものの、彼の表情は穏やかでした。シモンがイエズス様と十字架を背負うとすぐに、無数の恩寵が彼と彼の家族に注がれました。聖マルコは、シモンがよく知られていたローマの信者である「アレキサンダーとルーファスの父」(マルコ15:21)であることに触れています。天主様の聖心は、イエズス様への愛を示すために何かした人、特にカルワリオへ道の途中で重い十字架を背負った人を忘れることはありません。

ピラトは非常にはっきりと、イエズス様が何も悪いことを行っていたことを知っていましたが、彼は世論を恐れ、天の怒りよりも皇帝の不興を恐れていました。私の人生も同じように、天主様が真実と人間の尊厳のどちらかを選ぶように私にお尋ねになられたことが、何度かありました。私の前に二つの道があり、一つは広くて楽な人生を送り、多くの人々から名声を受けますが、この道は災いに私を導くでしょう。多分、私は自分自身で聖人であると思う一方で、私は自分の好きなことを行うことが出来ます。もう一つははとても狭い道です。私たちの祝福されたイエズス様のように、私は誤解され、さらに何人もの司祭から非難されて、そのうちのある者に、「今、あなたは悪魔で、教会の外にいます!」と言われました。実際には、それが天国への道であり、私は盲目的にそれに従っているのではありません。数年前、黙想会の後に、私は伝統的なカトリックの教えに真実を見出しました。真実は真実であり、それは決して変わることはありません。私が再び見出したのは、私が洗礼を受けた時に私が何人かの司祭(後に殉教した人々)から受け入れたものと全く同じ伝統的な信仰です。私は人々が何と言おうとも、進んでそれを守ります。

 天主様は、十字架を背負うクレネのシモンとして私を御取りになりました。それを受け入れなければなりません。十字架とロザリオで編まれた私の人生は、何と祝福されていることでしょう。それはとげだらけのように見えますが、その天辺には素敵な香りのきれいなバラが付いています。イエズス様とマリア様を愛することを教えて下さったのは、イエズス様とマリア様です。それは霊魂の救済を以て報いられます。私の夢でさえ、私は大声で言います。「イエズス様、マリア様、私はあなたを愛します。多くの霊魂を救って下さい!」すべての栄光は、全能の天主様に帰せられます!

二〇〇四年の聖金曜日


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十八章 これはおとぎ話ではありません

2011年12月25日 | カトリックとは
第四十八章 これはおとぎ話ではありません

あなたは、何隻かの漁船に何が起こったのかという面白い話を知りたいですか?読んで下さい。それは一九九九年聖母の被昇天の祝日で、中国の南部の江蘇省で起こりました。そこに住んでいる信者のほとんどは漁師です。そこには家はなく、あるのは漁船だけです。魚を捕るのは、何人かの使徒のように彼らの人生です。彼らは単純な生活を送っていますが、また非常に信心深いです。

 それより以前の一九九五年八月十五日、彼らはミサを捧げる司祭を彼らが借りた汽船に招きました。数百人の信者がミサに与り、多くの照明とキャンドルで歌って祈りました。夜になると、人々は遠い距離から聖歌が聞こえ、彼ら信者が何をしているかを非常にはっきりと見ることが出来ました。突然、強い光があちらこちらで点滅し、巡視船がそこにやって来ました。巡視船が近づくにつれ、サイレンが「ウー!ウー!ウー!」と鳴りました。

 警察官は何枚か写真を撮り、そして去っていきました。ミサが終わってから直ぐに、司祭は信者の家に行きました。二人の警官が入って来て司祭に言いました。「おまえは法律で禁止されたことをした。我々は証拠を持っている。おまえは逮捕されている」彼らは司祭に手錠をかけ、後に公然とミサを捧げただけで3年の刑を下しました。

この司祭は誰でしょう?彼は七十歳のパウロ神父様です。信じられるかどうかわかりませんが、彼はこれまで信仰の為に五回逮捕されました。

  一九九九年までに、八月十五日の為に神父様はこれらの経験から学び、一隻の大型の汽船を使う代わりに彼らは長さ約二十メートルで幅六メートルのメインボートを持っていました。二百二十人以上がボートの中にひしめき合いました。司祭と祭壇はこのボートにあり、周りには四隻の小型のボートがありました。ミサに与った人は五百人近くだったに違いありません。ミサは、非常に小さなフラッシュライトを使用して捧げられましたが、猛暑と魚の悪臭のために多くの虫や蚊が引き寄せられて、司祭の顔の上に止まりました。それは、ミサを捧げる一方で、非常に忍耐強く、かつ静かに立っていなければならない時でした。四艘の小型ボートには、全く明りがないという合意がなされました。信者は沈黙を守り、司祭が暗闇で行っていたことに続くように試みました。最も感動的な部分は、司祭が信者に御聖体を配られた時で、彼は侍者とこちらのボート、またそちらのボートに移る必要がありました。非常に多くの人々が跪き、司祭はチボリウムを持って非常に弱い明りの下で、慎重にボートからボートに乗るのを余儀無くされました。時々、彼らは行ったり来たりする巡視船の音を聞きました。警察は何の光を見たり、何も聞いていないので、典礼を妨げませんでした。素晴らしく神秘的な犠牲が静かに五百人の前で捧げられていると、誰が想像出来るでしょう?

数年前、私がパウロ神父様に会った時。私は彼に言いました。「あなたは長年の間、警察とかくれんぼをしています。多く逮捕した後も警察はあなたを変えられませんでした。このような状況下では、天主様は常に勝者です。あなたは私の最高の模範です」中国のため、そしてパウロ神父様のために祈りましょう!

二〇〇三年九月八日。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十七章 天主様は二十六年を御返しになります

2011年12月24日 | カトリックとは
第四十七章 天主様は二十六年を御返しになります

アメリカ合衆国で落ち着いてから、私は以前知っていた何人かの司祭を探しました。エイダン・マグラス神父様は、間違いなく私の最も親しい友人でした。私は十五歳の頃から彼を知っていました。彼は半世紀以上も私の世話をして下さいました。今、私は彼に会って、自分の長い苦しみの歳月について語りたくてたまりませんでした。私の五番目の兄は、マグラス神父様がアメリカのグリーンカードを与えられたので、彼は二年ごとに米国に来る必要があると私に言いました.神父様は一九九一年に姉と私が滞在していたところを探し当てました。一九五一年以来私たちは神父様に会っていませんでしたが、彼は私たちを見た途端、私に言いました。「あなたは美玉、霊名はローズ、そして最年少の一人です」それから彼は姉を指して、「あなたは美珍、マグダレナ」と言いました。彼の簡単な言葉は、私たちをとても感動させました。彼は四十年間私たちに会うか、便りを耳にしたことすらありませんでしたが、いとも簡単に私たちの名前を呼び、最年少が誰であったかを正確に知っていました。私たちが彼の心の中に常にあったことは、言うまでもありません。私たちの最後と現在の出会いの間に何が起こったかを考えると、それは最もエキサイティングな再会でした。

 彼は続けました。「私は二番目と四番目の兄に会ってきました。マグダラのマリア、あなたは二番目の兄とまったく同じように見えます。四番目の兄アウグスティヌスは、彼が香港にいたときにマッケルロイ神父を訪ねました。そして、現在のあなたの家族の両方がここにいます。それはあなたのための天主様の計画です。カトリックの歴史の証人として、次世代のために何かを残すために、あなたは自分の過去について書かなければならないことを忘れないで下さい。あなたは肩に大きな責任を背負っています。ちょうどその時、私たちは肉体的にきつい仕事のために、毎日八時間立ったままセント・ビンセンシオ・ア・パウロのお店で働いていました。その上、私たちは家事をしなければなりませんでした。毎日、私たちは死ぬほど疲れていました。どうして、誰もがこのような状況下でものを書くエネルギーを持っているでしょう?私はすでに医学的な問題がたくさんありました。神父様の言葉は、苦難に満ちた存在であるもう一つの負担という火を付けるマッチのようでした。私は彼に非常に正直でした。「私はかろうじて生計を立てることが出来る程度です。何かを書くどころではありません。過去は過去のことです。それは、天主様の目の前に書かれています。なぜ、私たちがそれを全て書き留める必要があるのでしょう。私たちは共産主義者の刑務所にいたときに劣らず、未だに苦しんでいます」マグラス神父様はとても謙虚な司祭でしたので、辛抱強く私の苦情に耳を傾けて私を全く咎めませんでしたが、それでも私たちに書くことを主張しました。この機会に、彼は一つの方法を用いました。次は、彼が自分のアプローチを変えました。何であれ、彼はあきらめるつもりはありませんでした。

 神父様は九十歳以上でしたが、フィジー諸島、台湾、およびマレーシアとどこにでも飛んでいき、そして彼はアメリカに来る度に私を訪れるようになりました。私は言いました。「あなたがそれほど高齢ならば、多分あなたの年間飛行マイル数は、ギネス世界記録を破ることが出来るでしょう。あなたが中国でNo.1の犯罪人でなければ、すでに中国に戻ってきたでしょう。あなたは龔司教様より大分前に逮捕されました。中国共産党があなたを逮捕した時、中国共産党は大きく躍進しました。あなたは一九五〇年代で最も有名な人物でした」神父様は急に笑い出しました。「私は中国、そして上海へ戻って、あなたの震旦女中を見たいです」

 一九九八年に神父様が私の家に足を踏み入れた時、彼はしばらくの間私を見つめ、そして私を暖かく抱きしめました。「何て綺麗な金髪の娘!」私は一本の毛もない禿げた頭を見せるために、無言でかつらを取りました。神父様は私の頭をやさしくなで、私の頭の上に涙をこぼしながら愛情を込めて言いました。「可愛いローズ、私はあなたが再び苦しんでいることを知っています。がんを患って手術を受け、今は化学療法を受けています。聖母へ全ての苦しみを捧げなさい。これは私たちの御母を喜ばせる最高の贈り物です。あなたは獄中で二十六年間苦しみました。安心なさい。聖母はその二十六年間をあなたに返して下さいます」これらの言葉は何と感動的だったことでしょう!私はさらに六年か十六年、または二十六年を生きるか気にかけませんでした。実際、私の手術は癌の後の段階に来たのです。癌細胞はすでにリンパ腺に転移しており、その段階で私ほど深刻な症状でなかった多くのがん患者は相次いで死にました。非カトリックの二人の医師は、彼らの医学的知識によれば、手術後七年という長時間を私が生き伸びられたのを説明出来ないと言いました。何と慈悲深い天主様でしょう!天主様はその僕に奇蹟を行ってきました。どうして、私は天主様に感謝の意を示さずにいられるでしょうか?今、私は仕事から解放されて時間が沢山あり、書かないことを弁解する余地は有りません。

マグラス神父様は、二〇〇〇年のクリスマスにアイルランドのダブリンで亡くなりました。その夜、彼は三回連続でミサを捧げました。彼はミサを捧げ終わった途端に心臓発作を起こし、二時間後に亡くなったのです。「親愛なる神父様、私はあなたが私にするように望んだことを決して忘れません。私は自分の人生の最後まで書き続けるでしょう。あなたが私の最初の英語の記事 'Human Suffering Is a Spiritual Joy'(人間の苦しみは、霊的な喜びである)を読んだ時のことを、私は覚えています。あなたはどんなに興奮されたことでしょう。それは私の表現能力を超えていました。あなたは多くのレジオ・マリエの会員に配布するコピーを数百部を作りました。私は、あなたが頻繁に天主様に自分の苦しみを捧げ、私たちの祝福された御母を愛するように求めたことを決して忘れません。私は今、そして永遠にそういたします」

やってくる二十六年、過ぎ去る二十六年
二十六年がやって来て、二十六年が過ぎ去ります
二〇〇七年の今年は中間点です
過ぎ去った二十六年で
もし私が屈するのならば
共産主義者は常に私たちを外に出すように
門を開けました
私たちはいつでも外に出られます
実際には外に出ています
物質的な世界から
世俗的な名声、豊かさから
それは天主様との完全な交流です
二度目の二十六年が過ぎ去れば
私は完全に愛という牢獄の虜になります
私は自由意志と全生涯を捧げました
外に出ましたが、私は天主様の心の中にいます
三度目の二十六年には、自分に何が起こるか分かりません
どんなにやって来ようとも過ぎ去ろうとも
天主様は最後の最後まで常に私と共におられます!


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十六章 癌の狂想曲

2011年12月23日 | カトリックとは
第四十六章 癌の狂想曲

私は一九九七年四月十七日、生体検査で乳癌を患っていることが分かりました。医者は、私の癌が後期段階にあったので、すぐに手術を受ける必要があると言いました。私はその時点で保険に入っていなかったので、私はすぐに治療を受ける余裕がありませんでした。私は途方にくれ、何をすべきか見当もつきませんでした。私は癌を患っていたものの、働き続ける必要がありました。さもなければ、私は生計を立てることが出来ませんでした。私は病院を去った後、私が行った最初の場所は教会でした。癌を患っていることは私のせいではありませんでした。天主様がカルワリオの道中を同行するように私をお選びになったのは、とてもはっきりとしていました。天主様と一緒に苦しみ続けるのは私の特権でした。苦しみは天主様の特別な贈り物です。最良の方法は、「フィアト」、「デオ・グラチアス」と言うことです。私は、もし苦しみが宝くじであるならば、私は何度も何度も当たりくじを引きたいと天主様に何千回と言いました。宝くじはお金としか関わりがありません。それは天主様の御恵みと比較することは出来ません。天主様は海の上を歩くよう私にお求めになりました。聖ペトロが出来たのですから、私も出来ます。ポイントは、私の目が天主様に注ぐのを保ち、その他の物を無視することでした。
 天主様にとって不可能なことはありません。天主様は、私に現実を知ることを通して真実を示しました。診断後四ヶ月間、私の店の誰もが私の深刻な病気を知りませんでした。私はいつものように働き、他の人のように決まった仕事を行って、服を選び出してぶら下げ、その上にタグを付けました。私は一日に三百着以上の服を掛けました。私は不器用に生まれ、何でもすることが遅かったのです。今、私は自分のエネルギーが減って具合が悪いと感じたとき、どうして私が速く物事を行うことが出来たでしょう?私の上司は冷淡でした。私の遅い進み具合は彼女を混乱させました。ほぼ毎日、彼女は私に対して声を上げました。「どこかが悪いの?あなたは他の人とペースを保つことが出来ません。このまま行けば、新たな人手を雇わなければならないでしょう」

 夏の盛りの湿気と暑さの中で、並び替えの部屋にはエアコンも扇風機もありませんでした。私は服を一つずつ掛け、私の顔は膨らみ、脚は腫れました。がんのしこりは私が背負う十字架でした。毎日、私は自分の苦しみのためにさまざまな意向を持っていました。今日、私は煉獄の憐れな人々の霊魂を救うために私の仕事を捧げました。三百着の服は三百人の魂を救うためでした。翌日、私は罪人の改心、そして自分と家族の痛悔のためにそれをしました。このように、天主様の無限の御恵みと共に、私は自分の仕事が以前の様にとても耐難くはないことに気付きました。時には、それは慰めやより簡単なことであるように見えました。

 七月末に私の保険は提出され、私は八月二十二日に手術を受けました。私のがんは体中に広がっていたので、手術は八時間以上かかりました。私は天主様に祈りました。「今が私の苦しみの終わりでしょうか?あなたが私に多くをお与え下さるとは思いません。私はあなたと議論することは出来ません。あなたは私の天の父です。あなたは私を愛し、そして見ておられます。私はただ、あなたと一緒にいるようにして下さることを願っています。なぜ、私はあなたを愛さないというのでしょうか?」天主様は私をからかわれているのではありませんでした。

 私は手術後には危機が去ったと思いましたが、そうではなく、私は手術から数日後に、化学療法を受けるように私に求める通知を受け取りました。私は義母に言いました。「今、自分のピザにさらに二つのトッピングを追加しています。明日、私は化学療療法を受けます」義母は泣き出して言いました。「なぜ、あなたの苦しみには終わりがないように見えるの?」「天主様が私を愛しているから」

聖書の中の小さな子供は、私によい例を与えてくれました。彼はわずか五つのパンと二匹の魚しか持っていなかった時、彼は自分自身のためにとっておかず、イエズス様に捧げました。彼は、イエズス様が、彼とこれら多くの人々を養えることを信じました。私も同じ様にすることが出来ました。私は、自分の守護の天使に、小さな籠に私の5つのパンと2匹の魚を入れるように頼みました。私の守護の天使が私の手を取って、イエズス様に向かって歩き、「主よ、彼女の捧げものをお受け取り下さい。どうか、助けを渇望している多くの霊魂が受け取れるように、彼女の苦しみの花を祝福して下さい」化学療法は患者にとって恐ろしい苦しみですが、天主様はあなたが耐えることが出来るよりも重い十字架を与えることはありません。私の経験で、いくつかの予想外の救済と慰めは、私が受けた苦しみの後に来て、そしてそれは報われるのもので、しかも心温まるものであることが分かりました。天主様の御恵みにより、私は化学療法の八つのセッションを受けました。私はそれらを受けて、それほどには酷くはないことが分かったので嬉しく思いました。

私は自分の癌の過程で、天主様の呼び出しへの準備が出来ていました。最初、私は最も信心深く清らかな瞬間に私をお呼びになるよう、天主様に祈りました。私は自分の守護の天使に、自分の手を取って天国への赤い絨毯を歩くように願いました。私は天主様の御顔を見るのに、年配の女性ではなく、片方の手に小さなお花の籠を持った女の子であることを望んでいました。私が歩くにつれて、私はあちらこちらに花を播いて、自分の感謝と愛情を天主様、そして聖母マリア様に示すでしょう。化学療法のセッションは、実にこの世の煉獄です。誰もがそれを恐れています。ですが、それが天主様の御摂理であるならば、誰もそれを避けることは出来ません。かわいそうに!患者の多くは進んで天主様に苦しみを捧げません。それは実に途方もない無駄です。もし、彼らが文句を言わずにそれを単に受け入れるならば、それは霊魂の救済のための宝になります。その苦しみは非常に現実的でしたので、私は彼ら癌患者のためにそれを捧げました。私は、彼らは苦しんでいたものの、彼らが自分たちの霊魂にがんを持っていないようにと祈りました。彼らの苦しみを通して、彼らはおそらく、苦しみの本当の価値が何であったか実感したでしょう。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十五章 親密な友人

2011年12月22日 | カトリックとは
第四十五章 親密な友人

何千人もの友人の中から、懇意な友人を見つけるのはとても困難です。私は、多くの人が同じ気持ちを分かち合うものと信じています。この問題はカトリック教徒の間では簡単に解決されても、この物質的な世界で親友を見つけることは切実な問題となっています。天主様が、私たちのそれぞれに、守護の天使をお与え下さったことを、私たちはどの位考えるでしょう?この守護の天使は、実に私たちと昼夜を過ごす真の親密な友人です。

私が逮捕されてから1年後、政府はその邪悪なイデオロギーに私を降伏させるように、私を一人で閉じ込めました。人を隔離することは、話す相手や、読み物、そして勿論テレビやラジオ無しに、人を暗い部屋に閉じ込めることを意味します。その目的は、何もない4方の壁に顔を向けつつ、自分の過ちを反省させることでした。私は音楽、映画、そして公共の活動を愛した活動的な若者でした。彼らがこの完全に暗い部屋に私を閉じ込めた時、私は完全に失われました。私が出来たのは、この試練を通じて私を助けて下さるように天主様にお願いすることでした。自分の守護の天使が、昼夜私の仲間としていてくれたので、私はとても恵まれていました。半年暗い部屋に閉じ込められている間、私はしばしば自分の守護の天使と交信しました。私が忍耐と降参の狭間で苦しんでいた時、自分の守護の天使は思い出させてくれました。「あなたはこの人生のドラマで、自分の役割を演じています。私はあなたの歴史を書き記しています。あなたは教会の神秘体に属しています。天国の勝利の教会があなたを見ており、あなたのために取り次いでいます。戦いの教会は、迫害を受けている天主様の証人を心配しています。煉獄の霊魂は彼らの頭を上げ、あなたを見ています。彼らは、あなたが耐えて、彼らの早い救いの為に苦しみを捧げるように祈ります」私の守護の天使の指導の下に、私は天主様が常に私と一緒であると感じ、そして私は天主様の教会と一体となりました。私が祈りの最中に気を取られたとき、私が天主様にお祈りを捧げる前に、私の祈りを完璧にしてくれるように守護の天使に頼みました。私が罪を犯した時、私は自分の痛悔を喚起するように自分の天使にお願いしました。それから先、私の守護の天使は、私の親密な友人となりました。

私はまた、田舎で道に迷った時の出来事についてお話ししたいと思います。一九七五年に、私は自分の十五年の刑期が満了となった時、私はお茶畑で雇われました。ある日の朝八時、私はお茶を買いに丘を越えていました。私は道が余りにも単純なので、道に迷うのは不可能であると考えました。丘を越えるのに三十分かかりました。戻る時に、私は二時間後でも丘の上をさまよっていました。次から次へと丘がありました。何かが間違っていると次第に気が付きつつ、私がさまようにつれて道は狭くなる一方でした。始めのうちは、十分な時間があったので私は非常に落ち着いていました。日が暮れた後、私は不安になり、疲れてそして空腹でした。私は無力でしたので、唯一出来たのは、岩の上に座ってロザリオの祈りを唱えることでした。冷たい風が吹いており、オオカミが吠えていました。もしオオカミが来れば、私は無防備になるでしょう。このように死ぬことは全く無意味でしたので、自分の守護の天使から助けを求める時でした。守護の天使にこの状況から私が抜け出すように頼みました。約二十分で、私が近づいて一人の男の人が近付いてくるのを見ました。私は彼が自分の守護の天使かと思いました。彼は私を見て驚き、とても親切に言いました。「どうして、一日のこの時間に、まだここにいるんだい?夜にはオオカミか、強盗のどちらかがここにやって来る。坂を駈け降りたほうがいい。そうすれば、茶畑まで続く道を見つけるから」この男の人が現れなかったら、私は確実に丘の上で死んでいたでしょう。

これらすべての年に、私は自分の為に取り次いでくれるように、自分の守護の天使を呼び出してきました。飛行機に間に合わせるためかミサに与る為に、私が朝早く起きるように間覚まし時計を設定する必要は全くありませんでした。私がしたのは、前の晩に自分の守護の天使に祈ることで、彼はいつも私のリクエストに答えてくれました。試してみて下さい!例として、ファティマを見てみましょう。私は、ポルトガルには独自の守護の天使がおり、三人の羊飼いに現れて祈るように教えたことを知っています。私は中国にも守護の天使がいると思います。守護の天使が、私の故郷の迫害されている教会を決して忘れないようにと、私は毎日彼に祈ります。どうか、義の為に迫害された人々のために祈って下さい。間も無くカトリック教会が中国で栄え、誰もが自由に信仰出来るように祈りましょう。守護の天使よ、我等の為に祈り給え!

十一月のために
煉獄の火が激しく燃えています。
すべての魂は心配そうに待ち望んでいます。
絶えることのない祈りと続いていく痛悔を。
聖母が天国で待っています!


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十四章 導く光

2011年12月21日 | カトリックとは
第四十四章 導く光

私は私の高校時代にユーゴーの「レ・ミゼラブル」何回も読みました。私が最も感動したのは、どのように教区の司祭が沢山の食物で囚人をもてなしたかです。食事をした後、その荒くれ者は司祭の銀細工をいくつかを盗みました。その後、捕えられた彼は、同じ司祭のところへ送り返されました。これを見て、司祭は泥棒に言いました。「私はあなたにこの銀細工全部を差し上げました。なぜあなたは、ここにいくつか置いていくのですか?」警官がこれを聞いたとき、警官はその人の肩から手を放しました。

 主イエズス・キリストは、赦すことが愛の最高の行為であることを教えて下さいました。ですから私は、自分の時間を無駄に過ごす生活の中で、先に述べたその司祭から学ぼうとしました。冬には物凄く寒かった碭山果樹園で、苦難を忘れることは不可能です。同じ部隊内で、労働改造所の仲間が盗みにより刑を受けました。彼女は、これまで自分の家族から殆ど何ももらえず、気温が零下三十度に下がる中で、政府から支給された綿入りのジャケットしか着ていませんでした。ジャケットは彼女を寒さから守ることが全く出来ませんでした。私は二着のウールのセーターと、一着のベルベットのセーターがありました。この特別な雪の日には、つららが木の上からぶら下がり、それは水晶の宮殿のように見えました。早朝、皆が、彼女が自分のジャケットの下に余分なウールのセーターを着ているのを見ました。このような報せは大きく広まり、噂話が始まりました。「彼女は全く小包を受け取ったことがない。どこで彼女はそのセーターを手に入れたの?」他の人は、「もし、彼女が盗んだり、誰かを騙したのでなければ、セーターを得るために何か悪いことをしたにちがいない」と言いました。また、他のおせっかいな女の人が割って入りました。「このセーターは胡美玉のものです。私は彼女が以前にこれを着ているのを見ました」そして、彼女はこのことを調査するように管理人に報告しに行きました。

 その同じ日の終わりに、話をした人が来て、言いました。「今夜、私たちはあなたのセーターに関わる検討会を開きます」率直に言いますと、私は自分のセーターが無くなったことを考えもしませんでした。私が労働改造所の宿舎に戻ったとき、私は自分の小包をチェックするために走り寄り、セーターが本当に消えていたことが分かりました。セーターを失くしたことは確かに私を落ち込ませましたが、この予想外の出来事に関わっていたことが残念でした。今夜の検討会で私は何を言いましょうか?私はセーターは自分の物ではないと言った場合に彼らが自分の物を見せるように求めたら、私は何をするべきでしょうか?一方で、私がはいと言えば、彼女は確実に有罪とされます。彼女の服役中に繰り返される不正な行動は、彼女の刑期の年の延長を引き起こすかもしれません。では、私は何をすべきでしょうか?二人の共産党の管理人は、その日の夕食後にグループにやってきて、脅すように話を聞きました。「彼女のセーターはおまえのものか?」私は「はい」と答えました。「なぜ、彼女はおまえのセーターを着ている?」私は、皆が息を殺して私の返答を待っていたことを察しました。 ある人は心配しているように見えましたが、またある人はこの女の人の不幸に喜んでいました。私は出来るだけゆっくりと答えました。「彼女は非常に一生懸命働いています。もし、彼女が寒い朝にセーター無しで虫食いを調べるために果樹園に行けば、合併症と共に悪性のインフルエンザに罹るかもしれません。私は医者で、これは予防しなければならないことを知っています。ですから、彼女が単に必要でしたので、私は彼女に自分のウールのセーターをあげました」二人の管理人は長い間、言葉を失ってそこに立っていました。気まずい沈黙の後、そのうちの一人はつぶやきました。「胡美玉、次に他人に物をやる時は、その前に事務室に報告して許可を求めることだ」そして彼は群衆を向き、官僚的な口調で話しました。「これからは、お前たちが事務室に誰かを報告する時には、全てを明らかにするように。さもなければ、冤罪で無実の人間を断罪することになる」

数日後、私はトイレで彼女に会いました。彼女は目に涙を浮かべて言いました。「私はあなたの親切を忘れることが出来ません。あなたが私を庇わなかったら、私の刑期は重くなったでしょう」私は真剣に、そして心をこめて彼女に言いました、「私もまた非難されるべき人です。あなたの横で寝ていた私は、あなたを暖かさを保つのに十分な衣類を持っていなかったことが分かった時、世話をしませんでした。どういうことか分かりますか。それは、他人のための私の愛が非常に浅かったことを示しています。これからは、何か必要な時は、持ち主に聞かずに取ってはいけません。それは道徳的に間違っています。今、あなたが私にお礼を言うことを期待してはいませんが、あなたが自分の悪い習慣を直すことを心から願っています。その時から、彼女は自分の盗み癖を止めて、正しく道徳的な行為をし、他人を助けるのを好むようになりました。私たちが一九七二年に去る時、彼女は私に言いました。「あなたは私の人生の中で先生であり、あなたは本当に私を教育してくれました。私は非常に若い時から盗みを始めました。母が私を殆ど諭そうとはせず、鞭や杖で私を叩きました。でも、私の体の痛みは、私の心の痛みと比べて重くはありませんでした。私は心の温かさを知らずに冷淡に育ち、長年の間罪に深く沈んで良心に欠けていました。あなたの良い模範は、私の目を開け、真善美を知るように教えてくれました」

ところが、当然のことながら、赦しと教育は万能ではありませんでした。上海で拘置所にいた時、私は治し様の無い盗み癖を持っていた泥棒と同じ牢獄内に入れられました。ティッシュペーパー、石鹸、歯ブラシや歯磨き粉と、彼女は殆ど全てを盗みました。彼女は文字通り、私の小包に手を入れて、私が持っていた物の殆ど全てを取ったのです。彼女は何も考えていませんでしたし、私の目の前で笑いました。私は何度も彼女と遣り合いました。「私の持ち物で必要な物があるのなら、私に知らせてちょうだい。そうすれば、私は必ずあなたにそれをあげます。自分で勝手に取らないで。ティッシュペーパーや石鹸だって、あなたはもうあなたのお母さんから十分に貰っているでしょう。どうして、私が持っているもの全部を取らなければいけないの?それがなければ、私がそれだけ困るかはっきり知ってるでしょう。それらは価値はないけれど、ティシュペーパー一枚だって10ドル札よりも貴重な時もあるんだから」残念なことに、彼女は長年にわたってその癖を変えませんでした。彼女の刑期は数回延長され、長い年月の後に釈放されました。彼女は家に帰って結婚し、二人の息子を持ちましたが、当然のことながら、息子たちはほとんど母親のように盗みへの傾きを育みました。彼らは順番に何度も投獄されました。罪の基礎は次の世代に受け継がれていました。自分の子供へと自分の罪を犯すことは、恐ろしく、悲惨で凶悪な罪です。私はとても悲しいです。最近、私はその家族について少し耳にしました。彼らは泥棒であるために非常に悲惨な生活を送り、豊かで幸せになる術はありません。天主様は正義です。天主様は天と地の両方で良い行いをする者に報いられ、さらにこの世で悪を行う者に罰をお与えになります。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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パリャラーニ神父様

2011年12月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 聖ピオ十世会イタリア管区の発表によると、今までイタリア管区長であり、日本にも何度か来られたパリャラーニ神父様はアルゼンチンの聖ピオ十世会の神学校校長に任命されました。

パリャラーニ神父様は、イタリア語は勿論、フランス語、英語を自由に使いこなしますが、これからはスペイン語を使うお仕事になります。司祭養成という責任ある任務に着かれます。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ胡美玉 著 『楽は苦に在り』 第四十三章 ピラトの前に立って

2011年12月20日 | カトリックとは
第四十三章 ピラトの前に立って

ポンシオ・ピラトの前に立ち、罪のないイエズス様は死を宣告されました。イエズス様は使徒たちに、同じように拷問と侮辱を謙遜に受け入れるように求められました。一九五八年に十五年の刑を宣告された時、そして労働改造所での看護人として働いた時に、私は自分の人生で拷問と侮辱の経験は僅かしかありませんでした。

 中国の労働改造所の人々は、医務室で働くことは労働改造所で最高の仕事だと言うでしょう。この職にありつくために多くの労働改造所の労働者は、自分の良心を失うことを犠牲にして、共産党員の看守を喜ばせるために彼らの最善を尽くしました。私は自分の26年間の投獄で、26年のうち20年を医療のポストで働くように配属されました。自分の強制的な監禁を振り返りますと、私はそれが簡単な生活であったとは言えませんでした。乏しい医薬品と貧弱な設備で、不安定な生活でした。2、3百人の労働者の命に責任を持つことは、簡単な仕事ではなく、大きい良心の重荷であり、肉体労働の負担よりもずっとはるかに、心配事が多かったのです。

カトリックの修道女である林シスターと私は、碭山の医療のポストに仕事を割り当てられていました。一般的に言いますと、同じ小隊で2人のカトリック教徒が一緒に働くように配置するのは、有り得ないことでした。当局は彼らのエージェントを持っており、その修道女は彼らの指示に進んで従い、一日に起きたことと私の行動を共産党の事務室まで報告する「矯正可能な囚人」であるというのが、共産党員の意見でした。スパイ活動は奨励されていました。

不十分な治療しか労働改造所では患者に施されませんでした。私たちが持っていたすべての薬の中で、ブドウ糖と抗生物質は最も貴重でした。この修道女は、通常は非常にまれにしか労働者の為にこの薬を使わず、共産党幹部とその家族のためにとっておきました。 病気の労働者のほとんどは、治療を受けることが出来ず、いわゆる病院に送られ、間も無く死亡しました。これが労働改造所の悲惨な人々の人生でした。

 休暇届にも問題がありました。共産党当局は言いました。「どんなに病気が重くても、もし熱か高血圧が朝に認められなければ、他の人のように外へ働きに出るべきである」最初、休暇届を発行するのは修道女の仕事でした。毎朝、彼女は承認を得るために、共産党の事務室へ全部の休暇届を提出しました。多くの労働者が彼女を好きではなかったどうかは分かりませんが、ある人は彼女は公平ではなく、賄賂を受け取ったと不平を言いました。一定期間の後、共産党の看守は、休暇届を担当するかどうか私に問いました。病人は休暇届を求めに、私のところに来ました。私は今、この新しい能力で、疲れた群れの世話をする羊飼いとして配置されたのを知りました。労働者は虐げられ、疲れて空腹であり、そして消耗していました。病人は惨めで孤独に見えました。治療や栄養は無く、話をする親戚もいませんでした。労働改造所の規則によると、午前中には発熱が無かった回復期の患者は、仕事に出かけなければなりませんでした。惨めな現実に直面し、どのようにして、彼らが生き残る手助けをするという私の責務を遂行するか考えました。医療室でこの新しい任務を引き受けた最初の日、私が病気の労働者を一人ずつチェックしました。私は、前任者の2倍であった十以上のケースが本当であるのを認めました。承認を受けるために休暇届の半券を事務室へ持っていくと、看守はあまりにも多く(10枚)を受け取った後、当り散らし出しました。彼は机の上を叩いて怒鳴りました。「おまえがやったことを見ろ!多くの休暇届を!おまえはわざとやった。野外作業を終わらせたくないのか?」私は動かず、恐れること無く立っていました。私は返答する術が分かりませんでした。私が黙っているのを見て、彼は私が言い負かされて、根拠を失ったと思いました。「おまえは、医療のポストにいたいと思っていないのか。肥料を運ぶために菜園に移りたいのか?」私は直ぐに、「そうです、私はそうしたいです」と答えました。良心的な医療人であることが出来なかったのならば、私はあきらめたほうが良いと思いました。私は、自分の自尊心、自分の幸福、自分の青春、自分の未来とあらゆる人間の尊厳の全てを失っていました。この労働改造所に来て、何か他に諦めるものがあるのでしょうか?この共産党幹部の前に立って、私は自分については多くのことを気にかけませんでした。天主様は御自身の計画を御持ちであるに違いありません。信じられないような話ですが、幹部は全ての休暇届を承認しました。
 
 物事は、最初の遭遇後には、それ程恐ろしくはありませんでした。看守が文句を言った時、私は、この人は高血圧のケースで、その人は心臓病のケースである等と辛抱強く説明しました。私は頻繁に言わなければなりませんでした。「ある病気の労働者は、重労働時に倒れてしまいがちです。彼らが果樹園で倒れたら、私たちは責任を負うでしょう。誰もが職場で死ぬのを許されないことを、あなたはとてもよくご存じです。私たちは、自分たちの能力と状況の限り、死を避けるべきです」ある労働者は、事務室のそばを通る時に看守が私に怒鳴るのを耳にして、心を動かされました。「美玉、あなたは私たちのために勇気を持っています。看守が怒鳴る時にあなたの髪が立っていなかったことに、わたしたちは気が付きました」彼らは、仲間内で言いました。「彼女は豹の胆を食べたに違いない」(豹の胆を食べた猟師は、豹のように恐れを知らないという中国のことわざがあります)他の人が私に言いました。「私は、あなたが私たちのために苦しんでいるのを知っています。もうこれ以上、休暇届を頼みません あなたをトラブルに巻き込むには及びません」私は答えました。「私はあなたの羊飼いです。もし、私があなたを守れないのなら、労働改造所での医療従事者の何が役に立つのでしょうか?カトリックは信仰を保つのに長けるだけではなく、他人に慈悲深くあることが前提です」

 私がちょうど洗礼を受けたばかりの頃、行いによる罪と怠りによる罪という二種類の罪があることを知っていました。もし、私たちが良いことを行う機会を見逃すことがなければ、私たちは悔い改める事が少なくなります。労働改造所では、良いことを行い、あわれな病人の仲間を助けるための多くの機会がありました。天主様の御恵みにより、私は機会を見逃すようにはしませんでした。私は、イエズス様の聖心を慰めるために、最善を尽くさなければなりませんでした。多くの共産党の看守は文盲でした。ある人はさらに基礎的な医学の知識を持っておらず、人間の温度や血圧を理解するための常識すら持っていませんでした。その一方で、一部の労働者は実際には重い病気ではなく、単に非常に疲れ疲れていただけでした。彼らは1日の休息が欲しいだけであり、それが私に休暇届を求めに来る理由でした。このような場合、私は彼らを拒否したことは全くありませんでした。私はいつも自分の方法を行うことは出来ませんでしたが、自分の善意を大切にしました。その修道女は、この過度の慈善という愚行のことで私の足を引張りました。

 以前、別の修道女が私たちに加わりました。彼女は投獄前は非常に良い修道女であり、上海の支部で煉獄援助修道会の会員でした。張シスターと彼女は言いました。彼女は心拍の増加という頻脈で、医務室にやって来ました。私は彼女のために2日間の休暇届を書き、私と一諸にいた修道女はそれを見て叫びました。「あなたは何の教訓も得ていません。あなたは自分の行いの結果を恐れていません。何故そう簡単に2日間の休暇届を書くのです?彼女がカトリックの修道女であることを知らないのですか?あなたは人が変に思ったり、疑うことを考えていません」そして、事務室に彼女は行きました、5分も経たずに、看守が彼女と一緒に戻ってきました。彼はぶっきらぼうに私に聞きました。「なぜ、張は働きに出なかったのか?」「張さんは頻脈で苦しんでいます。これは重い心臓疾患であり、もし病気が処置されていなければ、私が責任を負うことになります。彼はそのままで終わらせようとはしませんでした。「担当の人に頼んで、再度確認しろ」医者がすぐに来ましたが、たまたまその人は、林シスターに特に良い印象を持っていませんでした。彼女は鋭い言葉を持っていたことを知っていましたが、彼自身はあまり良好な医療知識を持っていませんでした。こうして、彼は正確な診断を与えることが出来ませんでした、私の張さんの病気の説明を聞いた後、彼は頷いて言いました。「まあ、理論的には彼女の心臓の問題がありますから、毎日軽い仕事が割り当てられるべきです」こうして、別の危機が去りました。

 別の例ですが、文さんという方が、野外で疲労により気を失いました。私はすぐに自分の薬箱から40ccの液体ブドウ糖を取り出し、彼女に注射を与えました。私は修道女の許可無くブドウ糖を使うことになっていませんでしたので、それが危険であると知りつつ、宿舎に患者を戻すために手押し車を取りに行きました。その後、私は良い弁解があることに考えつきました。それは緊急のケースでした、私は修道女に依頼する時間がありませんでしたし、命を助けることが自分の第一の任務でした。それにしても、六十五歳の患者の文さんはあわれな女性でした。彼女自身の投獄は感動的な御話です。彼女は、かつての中国大陸の統治者である蒋介石の海軍将軍石震疆の妻でした。中国大陸で共産党が権力を掌握する前夜(一九四九年四月)に、かつての政府は台湾に逃れました。彼女の夫は自分と一緒に台湾に行くように文さんと息子に求めましたが、文さんは躊躇しました。彼女は自分たちの家を離れることに消極的であり、上海のいくつかの不動産はひどいジレンマでした。状況は死活問題でしたので、彼女の夫は去り、文さんと彼女の息子は上海に留まりました。上海市は一九四九年五月に共産党に占領されました。次の年、文さんの夫は自分の家族が台湾に来るように、中国沿岸に何人かのエージェントを派遣しました。再び、妻と息子は自分たちの故郷である上海を離れることを拒否しました。共産党が中国大陸を掌握すると、間も無く虐殺と抑制がはびこり、それは彼らに災難が襲いかかった時でした。文さんは反革命分子の妻でしたので、一九五一年に逮捕されました。彼女は7年の刑を言い渡されました。7年は恐るべき口実でした。彼女は自分の死まで、労働改造所でそれからの32年を過ごさなければなりませんでした!

彼女の息子は十六歳の時、父親と関連した反革命的な背景の為に逮捕されました。文さんは、私が彼女に会った三十二年中の三十年、労働改造所にいました。私が一九八九年にアメリカへ出発する前、彼女の息子は、彼の母親が数年前に労働改造所で亡くなったと私に告げました。そして、彼女が人生の終わりに私の親友のテレサによって洗礼を受けたことは、本当に天主様の御摂理でした。彼女の洗礼名はマリアであり、イエズス様の御母のように、不平無しに激しい苦しみを受け入れました。この親切な女性の文さんが、どうか安らかに眠りますように。


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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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天主様に感謝します

2011年12月19日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、如何お過ごしでしょうか?

 天主様のお恵みで、大阪の1聖伝のミサには、2月16日の金曜に23名、17日土曜は26名が、東京のミサ聖祭には、18日の主日に31名、19日の月曜に4名が与りました。

 天主様に感謝します!!

 ただ今、準備中ですが、イタリアで最近、50人以上の知識人(司祭、教授ら)がサインした教皇様への嘆願書をしばらくしたら愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。第二バチカン公会議の疑問点を13点選び抜いて教皇様に質問しています。


 ローズ・フーさんの手記も日本語訳が完成しました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。日本語訳をして下さった愛する兄弟には、たいへん感謝します!!


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】