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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】同性の人々の結合の祝福についての質問に対する教理省の回答(2021年3月15日付)

2023年12月28日 | カトリックとは

【参考資料】同性の人々の結合の祝福についての質問に対する教理省の回答(2021年3月15日付)

Responsum of the Congregation for the Doctrine of the Faith to a dubium regarding the blessing of the unions of persons of the same sex, 15.03.2021

同性の人々の結合の祝福についての質問に対する教理省の回答

提出された以下の質問に対して:
「教会は同性の人々の結合に祝福を与える権能を有するか」

回答:

解説

いくつかの教会の状況において、同性の人々の結合を祝福する計画や提案が進められています。このようなプロジェクトの動機は、同性愛者を迎え入れ、寄り添いたいという誠実な願望によることが少なくありませんが、彼らに対しては、「同性愛の性向を示す人々が、自分の人生における天主の意志を理解し、完全に遂行するために必要な援助を受けることができるように」信仰の成長の道が提案されています[1]。

そのような道では、天主の言葉に耳を傾けること、祈り、教会の典礼行事に参加すること、そして愛徳を実践することが、自らの歴史を読み解いた上で、自由と責任をもって自らの洗礼の召命に従うという決意を維持するに際して、重要な役割を果たすことができます。なぜなら、「天主はすべての人を愛しておられ、教会も同じ」[2]で、あらゆる不当な差別を拒絶しているからです。

教会の典礼行為の中でも、「準秘跡」には特別な重要性があります。「これらは秘跡に似た聖なるしるしであり、特に教会の執り成しによって得られる霊的な種類の効果を表します。それによって人は秘跡の主な効果を受ける心構えができ、生活のさまざまな場面が聖化されるのです」[3]。「カトリック教会のカテキズム」は、「準秘跡は秘跡のように聖霊の恵みを授けるものではありませんが、教会の祈りによって人が恵みを受け、それにこたえるための準備をさせてくれるものです」(1670番)と明確に記しています。

「祝福」は「準秘跡」の範疇に属しており、準秘跡によって教会は「天主を賛美するよう私たちに呼びかけ、天主の保護を懇願するよう私たちを励まし、私たちの聖なる生活によって天主のあわれみを求めるよう私たちに勧めます」[4]。加えて、準秘跡は「秘跡の一種の模倣物として制定されており、祝福は何よりも教会の執り成しによって達成される霊的な効果のしるしです」[5]。

その結果、祝福を特定の人間関係に対して呼び求めるとき、準秘跡の性質に適合させるためには、参加する人々の正しい意向に加えて、祝福されるものが、被造物に刻まれ、主キリストによって完全に啓示された天主の設計に従って、恩寵を受け、それを表現するように客観的かつ積極的に秩序づけられていることが必要です。したがって、教会によって与えられる祝福の本質と一致するのは、それ自体でそのような目的に奉仕するよう秩序づけられている現実だけです。

この理由で、同性の人間の間の結合のように、婚姻外(すなわち、それ自体で生命の伝達に開かれた男と女の解消できない結合の外)での性行為を含む関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえ安定した関係であっても合法的ではありません[6]。このような関係には、それ自体で評価し感謝すべき肯定的な要素が存在しますが、その肯定的な要素は、創造主の計画に秩序づけられていない結合の文脈の中に存在するのですから、このような関係を正当化して、教会の祝福の正当な対象とすることはできません。

さらに、人に対する祝福は秘跡と関連しているため、同性の結合の祝福を合法的なものとみなすことはできません。なぜなら、同性の結合は、婚姻の秘跡で結合した男と女の上に呼び求める婚姻の祝福[7]を模倣したもの、あるいは類似したものであろうと考えられますが、実際には、「同性愛の結合が、結婚と家族に関する天主の計画と似ているものだとか、あるいは類似しているものだとか、みなす根拠はまったくない」[8]からです。

したがって、同性の人々の間の結合の祝福を違法とする宣言は、不当な差別の一形態ではなく、またそのように意図されたものでもなく、むしろ教会が理解する典礼儀礼の真理と秘跡の本質そのものを思い起こさせるものです。

キリスト教共同体とその司牧者たちは、同性愛の傾向を持つ人々を敬意と思いやりをもって迎え入れ、教会の教えと一致しながら、彼らに福音を完全に宣べ伝えるための最も適切なやり方を見いだす方法を知るよう求められています。同時に、共同体と司牧者たちは、同性愛の傾向を持つ人々のために祈り、彼らに寄り添って、彼らのキリスト教信仰の旅路を共にする[9]という教会の真の近しさを認識し、真摯に心を開いて教えを受けるべきです。

提出された「質問」(dubium)に対する回答は、教会の教えによって提案されたような、啓示された天主の計画に忠実に生きようとする意志を表明する、同性愛の傾向を持つ各個人[10]に与えられる祝福を排除してはいません。むしろ、彼らの結合をそのようなものとして認める傾向のあるあらゆる形態の祝福を無効と宣言しています。この場合には、実際には、祝福は、上述の意味において、そのような各個人を天主の保護と助けに委ねるという意向ではなく、啓示された天主の計画に客観的に秩序づけられていると認めることができない選択や生き方を認可し、奨励するという意向を表明することになるのです[11]。

同時に教会は、天主御自らが、この世で巡礼する子どもたち一人一人を祝福してやまないことを思い起します。なぜなら、天主にとって、「私たちは、私たちが犯すことのできるすべての罪よりも、天主にとって大切な存在だからです」[12]。しかし、天主は罪を祝福なさらないし、祝福なさることも不可能です。天主が罪深い人間を祝福なさるのは、罪深い人間が、自分が天主の愛の計画の一部であることを認識し、天主によって変えられることを認めるようになるためです。天主は実際、「ありのままの私たちを受け入れ、ありのままの私たちを見捨てることはありません」[13]。

上述の理由から、教会は、上記のような意味での同性の人々の結合を祝福する権能を有していないし、有することもできません。

教皇フランシスコは、本省次官に与えられた謁見の席において、上記の「質問に対する回答」(Responsum ad dubium)と付属の「解説」の公表について報告を受け、これに同意を与えました。

2021年2月22日、使徒聖ペトロの教座の祝日に、ローマにて、教理省より。

ルイス・F・ラダリア枢機卿(イエズス会)
長官

✠ ジャコモ・モランディ
チェルヴェーテリ名義大司教
次官

_______________________

【注】
[1]フランシスコ、使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris laetitia)、250番
[2]司教シノドス、「第15回通常総会最終文書」、150番
[3]第二バチカン公会議、「聖なる典礼に関する憲章」(Sacrosanctum Concilium)、60番
[4]ローマ儀式書、教皇ヨハネ・パウロ二世の権威で公布され復興された聖なる第二バチカン・エキュメニカル公会議の教令から、「祝福について」、一般緒言、9番
[5]同上、10番
[6]「カトリック教会のカテキズム」、2357番
[7]実際、婚姻の祝福は天地創造の記述までさかのぼり、男と女に対する天主の祝福は、実りある結合(創世記1章28節参照)と相補性(創世記2章18-24節参照)に関連している。
[8]フランシスコ、使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris laetitia)、251番
[9]教理省、書簡「同性愛の問題 同性愛者の司牧的ケアについて」、15番参照
[10]「祝福について」には実際、主の祝福を呼び求めるべき状況が延々と列挙されている。
[11]教理省、書簡「「同性愛の問題 同性愛者の司牧的ケアについて」、7番
[12]フランシスコ、2020年12月2日の一般謁見、祈りに関するカテケージス、祝福
[13]同上


マラウイのムトゥンブカ司教「フィドゥチア・スプリカンス」を無視するように訴える

2023年12月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
マラウイのマルティン・アンウェル・ムトゥンブカ司教(カロンガ司教区)は、2023年12月24日に聖アンナ教会でミサの説教で「フィドゥチア・スプリカンス」を全て無視するように訴えました。
日本の司教様たちが、アフリカの司教さまたちに続きますように祈りましょう。







参考資料、聖伝の典礼暦による2024年のカレンダー

2023年12月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例の参考資料、聖伝の典礼暦による2024年のカレンダーができております。ミサを行う聖堂で配布しています。

今年はイエズスさまが冒瀆されたことを踏まえて、御聖体に対する信心をさらにいや増して償いをする、という意向により、御聖体の黙想と礼拝をテーマに選びました。

ミサに来ることができない方でご希望の方々がいらっしゃいましたならば、お送りいたしますので、御連絡下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父












私たちの主イエズス・キリストの御降誕の喜びを申し上げます

2023年12月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御降誕の喜びを申し上げます。

大宮では、12月24日の主日ミサに来られた方は、子供達も入れて合計107人でした。9時の歌ミサの直後に新しい聖堂に集う私たちの共同体を聖母の汚れなき御心に奉献しました。最後に加わった方々をふくめると日本に常駐する司祭たちの名前も含めて352人のお名前を聖母に委ねました。
12月25日の夕方午後6時半からの御降誕祭のミサに来られた方は、子供達も入れて合計74人でした。私たちはとても幸福でした。

大阪では、12月24日の夕方の主日ミサに来られた方は、子供達も入れて合計41人でした。12月25日の真夜中のミサにも41人が参加されました。10時半の御降誕祭のミサに来られた方は、子供達も入れて合計65人(大阪での参加者の新記録)でした。幼きイエズスさまに接吻する行事では、感動で目に涙をためてされる方もおられました。

日本各地では、交通事情やお仕事や時間帯のために、聖伝のミサに来たくても来ることができなかった方々が多くいらっしゃいました。聖伝のミサを捧げる聖ピオ十世会の司祭が増えることを祈りましょう。

たくさんの心のこもったクリスマス特別献金もありがとうございます。12月25日の大宮でのミサは特にクリスマス献金をしてくださった方々・恩人・友人の方々のためにお捧げいたしました。多くの祝福が豊かにありますようにお祈り申し上げております。

2023年もお恵みの年でした。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの叙階30周年を皆様に祝っていただき、大きな贈り物も戴き心から感謝いたします。聖ピオ十世会日本としては、関東地方の大宮に常設の聖堂を持つことができ、主の御降誕を愛する兄弟姉妹の皆様のともに祝い、心から幸福に思います。この聖堂のために、アジア管区長のサマース神父様、ドモルネ神父様、信徒会長、多くの愛する兄弟姉妹の皆様からのご協力とご支援を戴きました。心から感謝いたします。特に大阪の兄弟姉妹たちが、聖伝のミサのため、聖ピオ十世会の教会のためなら、大阪も東京も関係ない、と非常に寛大なご協力をしてくださいました。ほんまありがとう。仕事いっちゃんええと思う。めっちゃええわ。ごっつええで。どうもおおきに。

2023年12月18日にローマの教理省が発表して、教皇フランシスコが認可した「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)という同性カップルを祝福することについての宣言が、世界中で多くの人々にショックを与えています。超えてはならない一線を越えてしまったからです。これは多くの人々の目を覚まさせ、自問自答させました。なぜここまで来てしまったのだろうか?何が原因だったのだろうか?と。

元教理省長官だったゲルハルト・ミュラー枢機卿は「フィドゥチア・スプリカンス」を厳しく批判し、同性愛カップルの「祝福」は「冒涜」に当たり、この宣言は「自己矛盾」に陥っていると指摘しました。カザフスタンのペタ大司教とシュナイダー司教も、この宣言はカトリックの教理と実践に直接かつ深刻に矛盾していると批判しました。イギリスの約500名の司祭たちも反対の声を上げました。クリスマスが終わり、これからもっと多くの反対が出てくると考えられます。

特にアフリカの様々なカトリック司教評議会は、カメルーン、ガーナ、ナイジェリア、マラウイ、ザンビアなど、公式にこの文書を適用しないことを発表しました。フランス語圏であるカメルーンは、祝福する (benedicere) が語源からして「よく言う」「良いと認める」「承認する」ことを含むので、罪の関係を祝福することはできないとさえいいます。なぜアフリカの司教たちはローマに対して続々とダメ!絶対ダメ!と言う力があったのでしょうか?元フランス語圏アフリカ諸国の教皇使節だったルフェーブル大司教が天から介入しておられるのかもしれません。次期教皇はアフリカから出るようになる(?)かもしれません。

日本のカトリック司教たちが、カトリック司祭たちが、教会の変わらない信仰と教えと実践に従った声を聞くことができますように!そのために幼きイエズスに祈りましょう!

では、愛する兄弟姉妹の皆様、主イエズス・キリストの良き降誕節をお過ごしになり、聖なる良き新年をお迎えください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父

【報告:12月24日主日】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at today's masses in Tokyo. The total number of attendees at today's masses in Tokyo was 105 including children.

09:00 mass
M: 33 (incl. 8 children)
F: 35 (incl. 10 children)
Total: 68 (incl. 18 children)

11:30 mass
M: 22 (incl. 0 child)
F: 19 (incl. 2 children)
Total: 41 (incl. 2 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 54 (incl. 8 children)
F: 53 (incl. 12 children)
Total: 107 (incl. 20 children)

【報告:12月25日】
Dear Father:
Shown below are the number of attendees at Christmas' mass in Tokyo. The total number of attendees at today's mass in Tokyo was 74 including children.

M: 38 (incl. 8 children)
F: 36 (incl. 10 children)
Total: 74 (incl. 18children)





アフリカのカトリック司教団、同性の結合の祝福を行わないと言明:ガーナとナイジェリアのカトリック司教団「同性愛の関係は天主の法と自国の法律に違反する」

2023年12月26日 | カトリック・ニュースなど

アフリカのカトリック司教団、同性の結合の祝福を行わないと言明

African Catholic bishops say no same-sex union blessings

アフリカのカトリック司教団、同性の結合の祝福を行わないと言明
2023年12月22日15時00分

ガーナとナイジェリアのカトリック司教団、同性愛の関係は天主の法と自国の法律に違反すると主張

ナイジェリアとガーナのカトリック司教団は、教皇フランシスコが最近、特定の状況下で司祭が同性の結合を祝福することを認めると宣言したにもかかわらず、そのような儀式を認めるのを拒否すると宣言した。

ナイジェリア・カトリック司教協議会(CBCN)とガーナ・カトリック司教協議会(GCBC)はいずれも、それぞれ水曜日と木曜日に別々の声明で、同性愛の結婚を祝福することは天主の法と教会の教えに反すると主張した

「ナイジェリア・カトリック司教協議会は、結婚に関するカトリック教会の教えが変わらないことを、天主の民全体に保証する。したがって、教会の教えには、同性の結合や活動を祝福する可能性はない。それをするならば、天主の法、教会の教え、私たちの国の法律に反することになる」と、同協議会は述べた。

人類の生存を脅かすものとして同性愛に反対してきたガーナの司教団もまた、「私たちは、司祭が同性の結合や結婚を祝福することはできないことを繰り返して表明したい」と述べた。

バチカンの教理省が月曜日に発表した文書は、ローマ・カトリックの司祭が「ケースバイケース」で同性カップルを祝福することを奨励している。しかし、その手順が異性間の結婚の秘跡に取って代わることを目的としたものではなく、通常の教会の儀式や典礼の際に行われるものでもない、ということが強調された。バチカンによれば、この宣言は、「天主はすべての」タイプの人々を「歓迎する」が、そのような祝福は「不規則な」状況や関係を正当化するものではないということを反映したものである。ローマ・カトリックの教理によれば、祝福とは、司祭や役務者が、ある人物や人々を保護したり、好意を寄せたりするよう、天主に対して求めることである。

この文書の公表は、世論の憤慨と論争を巻き起こし、英国の司祭のグループまでもが反対を唱えた。木曜日、英国のカトリック聖職者会は500人の司祭が署名した書簡を発表し、教会の伝統的価値観を「変えることはできない」と主張した

カトリックの教義は、同性に惹かれることは罪ではないが、同性愛行為に及ぶことは罪であると教えている。教皇フランシスコは2013年に教皇に就任して以来、教会がLGBTQの人々をさらに歓迎するようにさせるように踏み出してきた。

ガーナとナイジェリアの司教団体は、反同性愛の立場を維持する一方で、教皇が最近、同性婚の祝福を認めたことは解釈を誤っていると主張した。

「宣言によれば、祝福は誰にでも与えられるものの、それは人々が求めることができる祈りのことを言っている。罪の状態にある人々にとって、その祈りはその人々を回心へと導くためのものである。したがって、同性の関係にある人々のための祈りは、彼らの生き方を正当化するためのものではなく、彼らを回心の道へと導くためのものである」とGCBCは述べている。

ガーナとナイジェリアの法律は、程度の差はあるものの、LGBTQの結合を犯罪としている。

ナイジェリアの同性婚禁止法(2013年)は、有罪となった者に14年の禁固刑を課している。アフリカで最も人口の多いこの国で、同性婚の挙式を執行したり、挙式の証人になったり、挙式に参列したりした者は、10年の禁固刑に処される。8月には、同国のデルタ州で行われた同性結婚式に出席した100人以上の同性愛者とされる人々が警察に逮捕された。

ガーナの国会議員たちは最近、同性愛に関する法律を強化する動議を全会一致で可決したが、アムネスティ・インターナショナルのような人権団体は、これは同国の憲法に謳われている公民権を侵害しているとして非難している。

米国のカマラ・ハリス副大統領とフランスのクリズーラ・ザカロプールー国際パートナーシップ担当大臣は、ガーナをはじめとするアフリカ諸国に対し、同性愛者の権利促進で欧米に倣うよう促した。


ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

2023年12月26日 | カトリック・ニュースなど

ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

バチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」の声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを知る必要がある。

Cardinal Müller tells Pope Francis: Blessing homosexual couples is ‘impossible’ and ‘blasphemy’

ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

「祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものである。この秩序は、一つの肉体となるよう呼ばれている男と女の性的差異に基づいている。創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある」。

アンドレアス・ヴァイルツァー

米東部標準時間2023年12月21日(木)

(LifeSiteNews)―ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、論争を呼んでいるバチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia Supplicans、FS)に反対して回答を発表し、同性愛カップルの「祝福」は「冒涜」に当たるとし、同文書は「自己矛盾」に陥っていると述べた。

今日、4カ国語で複数の報道機関に発表された長い反論の中で、ミュラーは、「結合やカップルを祝福することの難しさは、同性愛の場合に特に明白である」と説明した。
「聖書において祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものだからである。この秩序は、一つの肉体になるように呼ばれている男と女という性的差異に基づいている」。
「創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある」。
「これを踏まえて、忠実なカトリック信者はFSの教えを受け入れることができるか」とミュラーは自問した。
「キリスト教信仰における行いと言葉の一致を考えると、司牧的な方法であっても、そのような結合を祝福することは良いことだと受け入れることができるのは、そのような結合が客観的に天主の法に反していないと信じる場合にのみである」。
「教皇フランシスコが同性愛の結合は常に天主の法に反すると断言し続ける限り、彼はそのような祝福は与えられないと暗に断言していることになる。したがって、FSの教えは自己矛盾に陥っており、そのためさらに明確化する必要がある」。
「教会は、一つのことを祝福しつつ、別のことを教えることはできない。なぜなら、アンティオキアの聖イグナチオが書いているように、キリストは『仰せられるとその通りになった』教師であり、キリストの肉と言葉を切り離すことはできないからである」。

12月18日(月)、バチカンは、非常に論争を呼んでいる文書「フィドゥチア・スプリカンス」を発表することで、メディアの大炎上を引き起こした。この文書は、以前は禁じられていた同性カップルの「祝福」を一定の条件のもとで認めるように見える一方で、その祝福はカトリックの道徳的教えと矛盾しないと主張している。それ以来、カザフスタンのペタ大司教やシュナイダー司教マリアン・エレガンティ司教カルロ・マリア・ヴィガノ大司教ら複数のカトリック司教が、熱い論争を呼んでいる新しい宣言への批判を表明している。フェルナンデス大司教が署名し、教皇フランシスコが認可した、この教理省(DDF)の宣言は、ドイツ、オーストリア、スイスの異端的な司教たちに歓迎された。同時に、マラウイザンビアカザフスタンの司教は、「フィドゥチア・サプリカンス」に対応して、それぞれの教区で同性カップルの「祝福」を禁止した。

マリアン・エレガンティ司教

マラウイの司教たち

ザンビア

以下は、バチカンの宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)に対するゲルハルト・ミュラー枢機卿の回答の全文である。

母なる教会の唯一の祝福は、私たちを自由にする真理である。宣言「フィドゥチア・スプリカンス」に関する注釈

ゲルハルト・ルートヴィヒ・ミュラー枢機卿

祝福の司牧的意義に関する宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans、FS)をもって、教理省(DDF)は、カトリック教会の教えにおいて前例のない断言を行った。実際、この文書は、同性カップルを含む婚姻外の性的関係で生きているカップルを司祭が祝福すること(典礼的ではなく私的に)は可能である、と断言している。これらの声明に対して司教、司祭、信徒から出された多くの質問は、明白でありかつ曖昧でない回答を得るに値する。

この声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを見てみよう。

この文書は、この省【教理省】の枢機卿・司教総会では審議も認可もされなかったが、この文書が提案している仮説(あるいは教えなのか)が新たなものであること、また、この文書が主に教皇フランシスコの司牧的教導権に基づいていることを認めている。

カトリックの信仰によれば、教皇と司教たちは、キリスト教人間学の基本原則を尊重しつつ、一定の司牧的な強弱をつけることができ、啓示の真理を、例えば社会教理や生命倫理の分野のように、各時代の新たな課題について創造的に語ることができる。しかし、このような革新物は、使徒たちによって天主の言葉としてただ一度だけ教皇や司教たちに啓示されたことを、超えることはできない(啓示憲章[Dei verbum]8番)。事実、FSの結論を支持する聖書のテキスト、あるいは教父や教会博士のテキスト、あるいは教導権による過去の文書は存在しない。

さらに、私たちが見ているものは発展したものではなく、教理的に飛躍したものである。なぜなら、教理の発展とは、新しい説明が少なくとも暗黙のうちに啓示に含まれており、何よりも教義上の定義と矛盾しない場合にのみ言えることだからである。そして、さらに深い教理の意味に到達するという教理の発展は、長い成熟期間を経て、徐々に起こったに違いないことである。実のところ、この問題に関する最後の教導権の宣言は、教理省によって3年近く前の2021年3月に発表された「回答」(responsum)の中で出されたものであり、この「回答」はこれらの結合を祝福する可能性を断固として否定している。このことは、罪深い状況で生きている人々のための公的な祝福にも、私的な祝福にも当てはまる。

FSは、以前の2021年の文書と矛盾することなく、新しい教理を提案することをどのように正当化しているのだろうか。

まず第一に、FSは、"2021年の教理省の「回答」と祝福に関する伝統的で有効で義務である教えとの両方が、婚姻外の性的結合の場合のように、天主の法に反する状況での祝福を認めていない"ことを認識している。このことは、秘跡に対してだけでなく、FSが「典礼的」と呼ぶその他の祝福に対しても明らかである。これらの「典礼的」祝福は、ローマ儀式書(Rituale Romanum)に見られるように、教会が「準秘跡」と呼んでいるものに属する。この二つのタイプ【秘跡と準秘蹟】の祝福においては、祝福と教会の教えとの間に一致がなければならない(FS9-11番)。

したがって、福音に反する状況の祝福を受け入れるために、教理省はこれまでにない解決策を提案する。つまり、祝福の概念を広げるのである(FS7番、FS12番)。これは次のように正当化されている。「祝福の意味をこの観点だけに(すなわち、秘跡と準秘跡の『典礼的』祝福に)矮小化してしまう危険性も避けなければならない。なぜなら、秘跡を受ける際に求められるのと同じ道徳的条件を、単なる祝福にも期待することになるからである」(FS12番)。つまり、罪のうちに生きる人々の旅路に司牧的に同行するために、秘跡的な祝福を超えた祝福、新しい祝福の概念を必要とするのである。

さて、現実には、このように秘跡を超えて拡張することは、「ローマ儀式書」で認可されている他の祝福によって、すでに行われている。教会は、秘跡を受ける場合と同じ道徳的条件を祝福に要求はしない。例えば、罪深い状況を捨てたくない悔悛者が、福音の教えを理解してそれに従うための光と力を主が与えてくださるよう、個人的な祝福を謙虚に求めることができる場合である。この場合、新しい種類の「司牧的」祝福を必要とはしない。

では、ローマ儀式書で理解されている祝福が、すでに秘跡で与えられる祝福を超えているのであれば、なぜ「祝福」の意味を広げる必要があるのだろうか。その理由は、ローマ儀式書で考えられている祝福は、「法や福音の精神に反しない事物、場所、状況」(ローマ儀式書を引用したFS10番)に対してのみ可能だからである。そして、教理省が克服したいと思っているのはこの点である。なぜなら、教理省は、同性の関係のような、法や福音の精神に反する状況にあるカップルを祝福したいと考えているからである。教会が既存の準秘跡に「新しい準秘跡」を加えることができる(第二バチカン公会議「典礼憲章」[Sacrosanctum Concilium]79番)のは事実だが、罪を矮小化するような形で、特に信徒をも惑わすようなイデオロギー的色彩の強い文化状況の中では、その意味を変えることはできない。そして、この意味の変更が、まさにFSで起こっているのであり、FSは、教会が理解してきたような秘跡や祝福のいずれにも関連しない、新しい祝福のカテゴリーを発明している。FSが言うには、これらは典礼的ではない祝福で、民間信心に属するものである。そうすると、3種類の祝福が存在することになる。

  1. a)秘跡に関連する祈りであり、その人が秘跡を受けるにふさわしい状態にあるよう願うか、あるいはその人が罪から立ち返る力を受けるよう願う。
  2. b)ローマ儀式書に含まれているように、またカトリックの教理が常に理解してきたように、祝福は、たとえ罪のうちに生きている人であっても、その人に対して行うことができるが、「法や福音の精神に反する事物、場所、状況」(ローマ儀式書を引用したFS10番)に対しては行うことができない。したがって、例えば、中絶した女性を祝福することはできるが、中絶クリニックを祝福することはできない。
  3. c)FSが提案する新しい祝福は司牧的祝福であり、典礼的あるいは儀式的祝福ではない。したがって、「儀式的」祝福やタイプ「b」祝福の制限はない。「儀式的」祝福のように、罪のうちにある人に適用されるだけでなく、福音に反する事物、場所、状況にも適用され得る。

この「c」タイプの祝福、すなわち「司牧的」祝福は新奇なものである。典礼的なものではなく、むしろ「民間信心」に基づくものであるため、福音的な教理を損なうことはないとされ、道徳的規範やカトリックの教理と一致する必要もない。この新しい分野の祝福についてどんなことが言えるだろうか。

第一の観察は、FSが引用した聖書のテキストにも、過去の教導権の声明にも、この新しい用法の根拠がないということである。教皇フランシスコが提示したテキストも、この新しいタイプの祝福の根拠を与えていない。すでにローマ儀式書による祝福(タイプ「b」)は、司祭が罪のうちに生きる人を祝福することを認めているからである。そして、フランシスコが言うように、このタイプの「祝福」は、刑務所や更生保護グループにいる人にも簡単に適用できる(FS27番に引用されている)。これに対して、革新的な「司牧的」祝福(タイプ「c」)は、フランシスコが言うことを超えている。なぜなら、婚外関係のような天主の法に反する現実にこのような祝福を与えることができるからである。実際、このタイプの祝福の基準によれば、中絶クリニックやマフィアグループを祝福することさえできる。

このことは、第二の観察へとつながる。つまり、伝統的な言葉の使い方に反するような新しい用語を発明するのは危険だ、ということである。そのような手続きは、権力の恣意的な行使を生む可能性がある。この場合、祝福には独自の客観的な現実があり、そのため祝福の本質に反する主観的な意向に合わせて勝手に再定義することはできないというのが事実である。ここで、「不思議の国のアリス」のハンプティ・ダンプティの有名なセリフが思い浮かぶ。「ぼくが言葉を使うとき、その言葉はぼくが選ぶとおりの意味になるんだ。それ以上でもそれ以下でもないよ」。アリスはこう答える。「問題は、あなたが言葉にそんなにいろいろな意味を持たせることができるかどうかよ」。するとハンプティ・ダンプティは言う。「問題は、言葉と自分のどちらが主人かっていうことだよ。それだけだ」。

第三の観察は、「典礼的でない祝福」(FS34番)、すなわち何者をも制裁することを意図しない「司牧的」祝福(タイプ「c」)の概念そのものに関するものである。
この祝福は、ローマ儀式書が考えている祝福(タイプ「b」)とどのように違うのだろうか。その違いは、祝福の自発的な性質にあるのではない。自発的な性質の祝福は、タイプ「b」の祝福ですでに可能である。なぜなら、「司牧的」祝福はローマ儀式書で規定されたり認可されたりする必要がないためである。民間信心における違いでもない。なぜなら、ローマ儀式書による祝福は、対象、場所、人への祝福を求める民間信心にすでに適合しているからである。革新的な「司牧的」祝福は、法や福音の精神に反する状況を祝福するために、「特別にこのために」(ad hoc)作られたように思われる。

このことにより、私たちは、この「司牧的」祝福の対象について、ローマ儀式書の「儀式的」祝福とは区別されるという第四の観察に移る。「司牧的」祝福には、福音に反する状況も含まれ得る。ここでは罪深い人が祝福されるだけでなく、カップルを祝福することによって、祝福されるのは罪深い関係そのものであることに注目されたい。ところで、天主は、ご自分に真っ向から反対している関係、ご自分に向かって秩序づけられていない関係に恩寵を送られることはあり得ない。婚姻外の性交渉は、性交渉として、人々を天主に近づけることはできず、したがって、天主の祝福を受けるために開かれることはあり得ない。したがって、もしこの祝福が与えられたとすれば、その唯一の効果は、それを受ける人々やそれにあずかる人々を混乱させることであろう。彼らは、天主が祝福できないものを祝福したと思うだろう。この「司牧的」祝福は、司牧的でも祝福でもない。フェルナンデス枢機卿が、後にInfovaticanaに寄せた声明の中で、祝福されるのは結合ではなく、カップルであると述べたのは事実である。しかし、これは言葉の意味を空しいものにすることである。なぜなら、カップルをカップルとして定義するものは、まさにそのカップルが結合していることだからである。

結合やカップルを祝福することが困難であるのは、同性愛の場合に特に明白である。なぜなら、聖書において祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものだからである。この秩序は、一つの肉となるよう呼ばれている男女の性的差異に基づいている。創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある。もう一度言うが、「結婚とは決して比べることのできない結合のうちに生きる」(FS30番)人々を祝福することが問題なのではなく、結婚とは比べることのできない結合そのものを祝福することが問題なのである。新しい種類の祝福がつくり出されたのは、まさにこの目的のためである(FS7番、12番)。

テキストの中には、これらの祝福を正当化しようとする議論がいくつか登場する。第一に、罪人に責任を負わせるのを軽減する条件があり得るかである。しかし、これらの条件は、関係そのものではなく、人のことを言っている。また、祝福を願うことは、その人たちが現在の条件で実現できる可能な善いことであるとも言われている。これはあたかも、祝福を求めることがすでに天主と回心への扉を開くことであるかのようである。これは、自分自身のために祝福を求める人には当てはまるかもしれないが、夫婦として祝福を求める人には当てはまらない。後者は、祝福を求める際に、暗黙的にせよ明示的にせよ、自分たちの関係そのものを天主の前で正当化しようとするが、その関係こそが、彼らを天主から遠ざけていることに気づいていない。最後に、関係には肯定的な要素があり、それらは祝福され得ると主張されるが、これらの肯定的な要素(例えば、一方が他方を病気で助けるなど)は、性行為の共有が決定的な特徴である関係そのものにとっては二次的なものであり、これらの要素はこの関係の本質を変えることはない。それはいかなる場合にも天主に向けられるものではあり得ないことは、すでに教理省の2021年の「回答」で述べたとおりである。中絶クリニックでさえ、肉体的苦痛を防ぐ麻酔科医や、中絶しようとする女性の生命計画を守ろうとする医師の願いなど、肯定的な要素が存在する。

第五の観察は、この革新的な「司牧的」祝福の内的矛盾に関するものである。典礼的でない祝福、つまり、キリストと教会の教えを公式に代表していない祝福を与えることは可能なのだろうか。この質問に答える鍵は、その儀式が公式に認可されたものなのか、それとも自発的に即興で作られたものなのかということではない。問題は、祝福を与える者がキリストと教会の代表である司祭であるかどうかである。FSは、福音に反する状況に置かれている人々の祈りに司祭が加わることは問題ないと断言している(FS30番)が、この祝福において司祭は単に彼らの祈りに加わるのではなく、むしろ関係そのものに天主の賜物が降ることを呼び求めるのである。司祭が司祭として行動する限り、司祭はキリストと教会の名において行動する。さて、この祝福の意味をキリストの教えから切り離すことができると主張することは、教会が行うことと教会が言うことの間に二元論を仮定することである。しかし、第二バチカン公会議が教えているように、啓示は切り離すことのできない行いと言葉によって私たちに与えられ(「啓示憲章」[Dei Verbum]2番)、教会の告げ知らせは行いと言葉を切り離すことはできない。この文書が民間信心を助長することで好意を示したいと思い、教理に反する象徴的な行いに最も影響を受けて騙されやすいのは、まさに素朴な人々である。なぜなら、彼らは行いの教理的内容を直感的に把握するからである。

このことを踏まえて、忠実なカトリック信者はFSの教えを受け入れることができるだろうか。キリスト教信仰における行いと言葉の一致を考えると、司牧的な方法であっても、そのような結合を祝福することは良いことだと受け入れることができるのは、そのような結合が客観的に天主の法に反していないと信じる場合にのみである。教皇フランシスコが同性愛者の結合は常に天主の法に反すると断言し続ける限り、そのような祝福は与えられないと暗に断言していることになる。したがって、FSの教えは自己矛盾であり、さらなる明確化が必要である。教会は一つのことを祝福し、別の違うことを教えることはできない。なぜなら、アンティオキアの聖イグナチオが書いたように、キリストは「仰せられればそのとおりになった」教師であり、誰もキリストの肉と言葉を切り離すことはできないからである。

私たちが問うたもう一つの質問は、合法的な結婚と共存しているものがあったり、パートナーが変わることが珍しくなかったりするこうした結合を、司祭が祝福することに同意できるかということだった。FSによれば、司祭は、典礼的でなくかつ公式な「司牧的」祝福でこれを行うことができるという。これは、司祭がキリストと教会の名において行動せずに、これらの祝福を与えなければならないことを意味することになる。しかし、これでは司祭が司祭として行動していないことを意味することになる。実際、司祭は、キリストの司祭としてではなく、キリストを拒否した者としてこれらの祝福を与えなければならなくなる。実際、その行為によって、これらの結合を祝福する司祭は、その結合を創造主へ至る道として提示する。したがって、司祭は、創造主の計画に反して、また、キリストの私たちのための死――この死は創造主の計画を成就することを意味する――に反して、汚聖的で冒涜的な行為を犯すことになる。教区司教もこれにかかわっている。地方教会の牧者として、教区司教にはこれらの汚聖的な行為を防ぐ義務がある。そうしなければ、司教はこれらの汚聖的な行為の共犯者となり、兄弟たちを信仰において固めるというキリストから与えられた使命を否定することになるからである。

司祭はすべての人に天主の愛と善意を告げ知らせ、また罪人や弱くて回心が困難な人を助言と祈りで助けるべきである。このことは、天主が罪に対してそれほど多くを要求なさってはいないと、人を惑わすような自らが発明したしるしや言葉で彼らに提示することとは、まったく異なるのである。何故なら、そうすることで、思い、言葉、行いの罪が私たちを天主から遠ざけるという事実を隠しているからである。

天主の聖なるみ旨に客観的に反する罪深い生活状況には、公的にだけでなく私的にも、祝福はない。そして、キリスト教の教理を勇敢に擁護する者たちが、"具体的な人物の救いよりも、律法主義的に自分たちの道徳的規範を満たすことに関心がある硬直した者"という烙印を押されるのは、健全な解釈の証拠ではない。なぜなら、イエズスは普通の人々にこう言っているからである。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。私は心の柔和なへりくだった者であるから、くびきを取って私に習え。そうすれば霊魂は休む。私のくびきは快く、私の荷は軽い」(マテオ11章28-30節)。かの使徒はそれをこう説明している。「その掟は難しいものではない。天主から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者のほかに、(いったい)誰が世に勝てるだろうか」(ヨハネ第一書5章3-5節)。偽りの人間学が、男と女の結婚および家庭と子どもたちという天主の制度を弱体化させている今、教会は、教会の主にしてかしらであるお方の言葉を思い出すべきである。「狭い門から入れ。滅びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。


2023年のクリスマスのミサの予定をお知らせいたします。

2023年12月21日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年のクリスマスのミサの予定をお知らせいたします。

 12月23日(土) 【大 宮】11:00 ミサ聖祭、ミサの直後に聖体降福式

 12月24日(日) 【大 宮】09:00 歌ミサ
(ミサの前に潅水式「アスペルジェス・メ」があります。ミサの直後・司祭の退堂前に、私たちの聖堂に集う信徒の方々を聖母の汚れなき御心に奉献する祈りを更新します。)
             11:30 読誦ミサ
(大変申し訳ございません。この主日は、ミサの直後に、夕方のミサのために大阪に参りますので、祝別などは出来かねます。ご希望の方々は、翌日のミサのあとでお願いいたします。ご理解をありがとうございます。)
        【新大阪】18:00 歌ミサ
(一人の子供が初聖体を受ける予定です。お祈りください。)
             21:00 グレゴリオ聖歌による御降誕の朝課
             24:00 主の御降誕のミサ聖祭

 12月25日(月)【新大阪】10:30 歌ミサ
         【大 宮】18:30 歌ミサ
(ミサの前に、生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受ける予定です。お祈りください。)

 12月26日(火)【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月27日(水)【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月28日(木)【修道院】07:15 ミサ聖祭
 12月29日(金)【修道院】07:15 ミサ聖祭

 12月30日(土) 【大 宮】11:00 ミサ聖祭、ミサの直後に聖体降福式
 12月31日(日) 【大 宮】09:00 歌ミサ
(ミサの直後・司祭の退堂前に、カトリック教会の習慣に従って「テ・デウム」を歌いましょう。)
             11:30 読誦ミサ
(大変申し訳ございません。この主日は、ミサの直後に、夕方のミサのために大阪に参りますので、祝別などは出来かねます。ご希望の方々は、翌日のミサのあとでお願いいたします。ご理解をありがとうございます。)
        【新大阪】18:00 歌ミサ

新2024年

 1月01日(月) 【新大阪】09:00 歌ミサ【時間が早まっています。ご注意ください。】
(ミサの前に、カトリック教会の習慣に従って"Veni Creator"を歌いましょう。)

         【大 宮】16:00 歌ミサ【午後4時です】
(ミサの前に、カトリック教会の習慣に従って"Veni Creator"を歌いましょう。)

 1月02日(火) 【大 宮】10:30 歌ミサ

【加筆しました】2023年のクリスマスから年末、新2024年のミサの予定をお知らせいたします。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


アスタナの聖マリア大司教区(カザフスタン)同性愛カップルの祝福を公式に禁止

2023年12月21日 | カトリック・ニュースなど

アスタナの聖マリア大司教区、同性愛カップルの祝福を公式に禁止

Archdiocese of Saint Mary in Astana officially prohibits blessings of same-sex couples


2023年12月18日に教理省が発表し、教皇フランシスコが認可した宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)に関するアスタナの聖マリア大司教区の声明。

聖座の宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)の明白な目的は、「不規則な状況にあるカップルや同性カップルを祝福する可能性」を認めることです。同時に、この文書は、そのような祝福は「彼らの立場を公式に有効なものとしたり、結婚に関する教会の永年の教えを何らかの形で変更したりすることなく」行われると主張しています。

この文書が同性カップルの「結婚」に許可を与えていないという事実によって、不規則な状況にあるカップルや同性カップルを祝福する許可そのものに存在する大いなる欺瞞と悪に、牧者や信徒が目をつぶってはなりません。このような祝福は、天主の啓示と、カトリック教会の二千年にわたって途切れることのない教理と実践に直接かつ深刻に矛盾しています。不規則な状況のカップルや同性カップルを祝福することは、至聖なる天主の御名を深刻に乱用することです。なぜなら、この御名が、姦淫や同性愛行為という客観的に罪深い結合に対して祈願されるからです。

それゆえ、聖座のこの宣言に含まれる声明文の中で、いかなるものも、最も美しいものであっても、このような祝福を合法化しようとするこの努力から生じる広範囲に及ぶ破壊的な結果を最小限に抑えることはできません。このような祝福によって、カトリック教会は、理論上ではそうでないとしても、実際上では、グローバリズム的かつ天主を恐れぬ「ジェンダー・イデオロギー」の宣伝者となってしまうのです。

使徒たちの後継者として、また、私たちの司教聖別式の際の「使徒たちの時代以来、教会において常に、かつあらゆる場所で守られてきた聖伝に従って、純粋かつ完全な信仰の遺産を守る」という荘厳な誓いに忠実であるように、私たちは、アスタナの聖マリア大司教区の司祭と信徒が、非正規の状況にあるカップルや同性カップルの祝福をいかなる形であれ受け入れたり、行ったりすることを戒め、禁じます。もはや罪を犯さず、公然の罪深い状況(例えば、教会法的に有効な結婚外での同棲、同性の人々の間の結合など)に終止符を打つという堅い意向を持つ、心から悔い改めた罪人は皆、祝福を受けることができるのは言うまでもありません。

使徒聖パウロがアンティオキアで初代教皇を公に戒めた言葉を借りれば、私たちは、誠実な兄弟愛と十分な敬意をもって、教皇フランシスコに対し、非正規の状況にあるカップルと同性カップルの祝福を許可することによって、「福音の真理に従って正しく歩んでいない」(ガラツィア2章14節参照)と述べます。それゆえ、司教団体主義の精神により、私たちは教皇フランシスコに、非正規の状況にあるカップルと同性カップルを祝福する許可を取り消すよう求めます。それは、カトリック教会が、天主のみ旨を知り、それを果たすことによって永遠の命を得ようと心から願うすべての人々のために、「真理の柱であり基」(ティモテオ前書3章15節)として、はっきりと輝くことができるようになるためです。

2023年12月19日、アスタナにて

+アスタナの聖マリア大司教区首都大司教、トマシュ・ペタ

+アスタナの聖マリア大司教区補佐司教、アタナシウス・シュナイダー

(source)

Photo: Pope Francis, flanked by Auxiliary Bishop Athanasius Schneider (left), and Archbishop Tomash Peta (right), visits Our Lady of Perpetual Help Cathedral in Nur-Sultan, Kazakhstan, 15 September 2022. (Photo by FILIPPO MONTEFORTE/AFP via Getty Images.)

 


聖ピオ十世会総長のコミュニケ:教理省が発表した宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)について

2023年12月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

聖ピオ十世会総長のコミュニケ

Communiqué from the Superior General of the SSPX

聖ピオ十世会総長のコミュニケ
2023年12月19日

私を愛する者は掟を守り、他人にもそれを守らせる。

私たちは、「不規則な状況にあるカップルと同性のカップル」に対する祝福の問題に関して、教理省が発表した宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)に落胆しています。特に、この文書は教皇自身が署名したものだからです。

この宣言は、そのような非合法な結合の祝福と、男女間の結婚の祝福と【を同一視すること】の混乱することを避けるように、と称してはいますが、混乱することもつまずき与えることも避けてはいません。この宣言は、教会の役務者が罪深い結合に天主の祝福を呼び求めることができると教えているだけでなく、そうすることによって、実際にはこれらの罪の状況を強めているのです。

そのような「祝福」を呼び求めることは、これらの人々のために、典礼外の枠組みで、「彼らの人生と彼らの関係において、真であり、善であり、人間的に価値あるものすべてのものが、聖霊の現存によって与えられ、癒やされ、高められる」よう求めること以外のなにものでもありません。

しかし、根本的に無効の結合において生きている人々に、この同じ無効の結合が何らかの肯定的な価値を持ち得ると信じさせることは、最悪の欺瞞であり、また、これらの迷った霊魂に対する最も深刻な愛徳の欠如です。公然たる罪の状況に善なるものがあると想像するのは間違っていますし、そのような状況で生きているカップルを天主が祝福することがおできになると主張するのも間違っています。

疑いないことですが、天主の先行的な御あわれみは、すべての人を助けることができます。また、すべての人は、天主が差し出してくださる救いを受けるために回心へと呼ばれているということを、信頼して見出すことができます。また聖なる【カトリック】教会は、正当に祝福を求める罪人に対して、決して祝福を拒むことはありません。しかし、この祝福とは、霊魂が成聖の恩寵の状態で生きるために罪を克服するのを助ける以外の目的のものではありません。

したがって聖なる教会は、どのような個人でも、たとえ異教徒であっても、祝福することができます。しかし、教会は、どのような場合でも、それ自体で罪である結合を、その中にある善なるものを奨励するという口実のもとに祝福することはできません。

私たちがカップルを祝福するとき、私たちは孤立した個人を祝福するのではなく、必然的にカップルを結びつける関係を祝福します。しかし、私たちは、本質的に悪であり、つまずきを与える現実を贖う【善いものとする】ことはできません。

これらの祝福を司牧的に進めようというこのような励ましは、実際には、何と言われようとも、道徳律と相容れない状況を組織的に受け入れることになるのは避けられません。

残念なことですが、このことは教皇フランシスコの主張と一致しています。教皇は、人々に「彼らがまだそこまで成熟していない、あるいは彼らができない、そのやり方で[1]」行動するように強要する者たちの態度を、「表面的でナイーブ」と定義しています。

この考えは、聖寵の力をもはや信じず、十字架を否定しており、誰に対しても罪を避けるように助けません。その考えは、真の赦しと真のあわれみを、悲しいほど無力な恩赦【アムネスティ:全て(罪の事実さえ)を記憶せずに消滅させる】に置き換えます。これは霊魂の喪失とカトリック道徳の破壊を加速させるだけです。

教理省の文書に、いかなる複雑な言い回しや詭弁的な飾り立てがあろうとも、これらの祝福の本質的かつ明白な現実を隠すことはできません。そういったものは、本質的に罪の状況にあるこれらの結合を強め、他の人々がそれに従うことを奨励することにほかなりません。これは、単に、カトリックの結婚の代替になっていくことでしょう。

実際、それは天主の御旨に従って徳と清さと愛徳とのうちに生きるために必要な、超自然のことに対する信仰の深い欠如、天主の聖寵と十字架の力に対する信仰があまりにもないことを明白にしています。それは、天主の敵であるこの世の精神にゆるやかに足並みを揃える自然主義的かつ敗北主義的な精神です。これは、第二バチカン公会議以来、教会内外の革命に奉仕してきた自由主義的で近代主義的な位階階級の側が、この世に対してさらに降伏し、服従することです。

信仰と聖性の守護聖人である童貞聖マリアが、聖なる教会を助けに来てくださいますように。特に、この混乱に最もさらされている人々、すなわち、新しいバビロンの中で、道徳律を思い起こさせる基準も導き手もなしに、成長することを余儀なくされている子どもたちを守ってくださいますように。

総長ダヴィデ・パリャラーニ神父
2023年12月19日、メンツィンゲンにて

[1]教皇フランシスコ「リスボンでのイエズス会士とのインタビュー」、2023年8月5日。


ローマ:教理省、同性または未婚のカップルの祝福を認可

2023年12月20日 | カトリック・ニュースなど

ローマ:教理省、同性または未婚のカップルの祝福を認可

Rome: The DDF Authorizes the Blessing of Same-Sex or Unmarried Couples

2023年12月19日

2023年12月18日(月)、教理省(DDF)は、教皇フランシスコが同日署名し、司牧的愛徳という理由から、「不規則な状況にある」カップル、言い換えれば、未婚のカップルあるいは離婚して再婚したカップルや、同性のカップルの祝福を認可する宣言を発表した。

教理省は、このかなり長い文章の中で、フランシスコの教えに依拠することによって、特に5人の枢機卿の「ドゥビア」(dubia、質問)に対して教皇が出した回答――奇妙なことに、この文章に2度登場している――に依拠することによって、この決定を正当化しており、「ペトロの後継者に仕える道具」の行為として、その行為を正当化している。

その点について、ビクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿(あだ名はトゥーチョ)は、自分の文章には、「革新主義的な」――これは「聖伝ではない」とも訳せる――性格を認めている。彼は祝福に新しい「司牧的」意味を与えようとさえ考えて、「典礼的観点と密接に結びついた祝福の古典的な理解を広げ、豊かにすることを可能にする」と述べているが、このことは何よりも彼の無知を示している。

つまずきを与える文章

この文章のつまずきを与える性質を指摘することが重要だ。この文章は、意味上のもがきがあるにもかかわらず、教理省が以前に行った決定に反対しているように見える。この決定は2021年2月22日付のもので、抜け穴を残さないような説明をつけて、そのような祝福の可能性を否定した。ちなみに、それは、フランシスコによって認可されている決定だった。

つまずきは、たとえ教理省が結婚との類似を避けるために慎重だったとしても、信者に、新聞に、そしてカトリック信者ではない人々に引き起こした結果が、「教会は同性カップルの祝福を認可している」という肯定的な結果だという事実にある。教理省が定めようと試みているような区別は一切ない。

しかし、教皇庁がこの結果を予期していなかったということはあり得ない。したがって、教理省は、定義によれば、堕落する機会、すなわち罪を犯す機会となるつまずきの全責任を負っている。信者の一部であろうとなかろうと、多くの人々の考えでは、この発表は、教会がこのような罪の状況を何も付け加えずに受け入れているという言い方の一つであることは絶対に明らかである。

効果のない区別

この結論に至る論拠は、典礼的祝福と典礼的でない祝福との区別だ。前者が除外された場合、後者は第39段落に列挙された以下の条件の下で受け入れられる。「この祝福は、シビルユニオンの儀式に付随して行われるべきではなく、それに関連して行われるべきでさえありません。また、結婚式にふさわしい服装、身振り、言葉を用いて行うこともできません」。

しかし、問題はその区別そのものにあるのではなく、典礼的であろうとなかろうと、悪いもの、不道徳なものであってはならない「祝福の対象そのもの」にある。中絶を希望する女性が司祭に、すべてがうまくいくように祝福してほしいと頼んだ場合、司祭は彼女に祝福を与えなければならないのだろうか。この宣言の条項によれば、その返答は「イエス」であるように思われる。しかし、良識ある人なら誰でも、この女性がこの罪を犯すのを避けるように助けるという目的以外には、祝福を与えることはできないと理解している。

たとえ同性愛者であっても、結婚せずに同居している人であっても、司祭は「すべての人」を祝福することができるというのは、その通りだ。同様に、告解室では、正当な理由で司祭が一つのケースあるいは他のケースで赦しを拒否した場合でも、司祭は、悔悛者を励まして彼に照らしや強さの恩寵を求めるために、彼を祝福することができる。

しかし、「カップル」を祝福する場合、その祝福の対象そのものは、カトリックの教理が断罪しているこの非合法な結合だ。そして、宣言の第40段落で、この祝福において「何も合法化する意向はありません」と言うのは、良く言えばむなしい願いであり、悪く言えば偽証である。なぜなら、祝福される人々の目にも、彼らの周囲の人々の目にも、それは合法化だからだ。

典礼的でない祝福という偽りの安全策

第37段落では、5人の枢機卿の「ドゥビア」(dubia)に対する回答が用いられている。この回答は、「ある状況においては司牧的慎重さの一部となり得る決定が、必ずしも規範となるべきでありません」という事実を強く主張している。教理省は、第38段落で次のように結んでいる。「この理由から、不規則な状況にあるカップルの祝福のための儀式を提供したり、推進したりすべきではありません」。

第37段落が説明するように、教皇にとっての危険とは、「耐え難い詭弁に至る」こと(「愛のよろこび」(Amoris laetitia)第304段落による)だ。しかし、ヨゼフ陳枢機卿は、5人の枢機卿の「ドゥビア」に対するフランシスコの回答に関する解説の中で、すでにそのような主張に反論している。

フランシスコがこれらの祝福のための正確な規則を望んでいないという事実について、この中国人枢機卿は「司牧上、納得できない」と主張している。「教会は、このような重要な問題において、人々を明確な規則もなくそのままにし、個人の識別を信頼することができるのだろうか。このようにして、霊魂にとって非常に危険な詭弁という混沌が発生するのではないだろうか」。

その件に関して、ある疑問が浮かぶ。教理省は、オランダ語圏ベルギーの司教たちやドイツの司教たちなど、そのような典礼的定式文をすでに公布している司教団や司教たちに撤回を求めるのだろうか。詭弁による混乱はすでに始まっているのだ。

結論として、「愛のよろこび」の革命的な文章をその最終的な結末へと至らせるこの宣言は、すでに予想されていたことではあるが、深い分裂の種を持ち込み、教会に計り知れない害をもたらすことになるだろう。私たちが希望できることとは、宣言に対して多くの反対の声が上がることによって、宣言の作者たちが、これを早く理解することです。

(Source : Saint-Siège – FSSPX.Actualités)


明日の水曜日、金曜日、土曜日は、四季の斎日で、聖伝によれば大小斎を守る日です

2023年12月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今週の水曜日(明日です)、金曜日、土曜日は、四季の斎日で、聖伝によれば大小斎を守る日です。義務では無くなってしまいましたが、できる方は私たちと一緒に大小斎を守りましょう。

来週の主日12月24日には東京では、私たちの信徒の方々とその家族を聖母の汚れなき御心に奉献します。お祈りください。ご家族の方々を含めて、ただいま、311名の方々にマリア様の特別なご保護とお恵みを祈って、奉献する予定です。





【訃報】ワリエ神父様のお母さまが先程、帰天されました

2023年12月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ワリエ神父様のお母さまが、お亡くなりになりました。その霊魂が安らかに憩われんことを。愛する兄弟姉妹のお祈りをおねがいいたします。

トマス小野田神父




【参考情報】アタナシウス・シュナイダー司教による聖母の汚れなき御心のための全世界的な霊的十字軍

2023年12月18日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アタナシウス・シュナイダー司教様が、全世界に呼び掛けて12月8日付で「聖母の汚れなき御心の名誉のための世界的な十字軍」を起動されました。

この目的は、世界的な教会の危機を克服するために、聖母に取次をこい願うためです。

これに参加するためには、毎日ロザリオの祈りを唱えて、初土の信心をすること、とされています。

詳しくは、次をご覧ください。

The Confraternity of Our Lady of Fatima - 2024 Worldwide Crusade in Honour of the Immaculate Heart of Mary

【https://www.livefatima.io/wp-content/uploads/2023/12/Japanese.pdf】

Worldwide Crusade in Honor of the Immaculate Heart of Mary - OnePeterFive

Worldwide Crusade in Honor of the Immaculate Heart of Mary

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


イエズス・キリストは慰めをお与えになる。カトリック司祭を通して、カトリック聖伝のミサを通して私たちを慰め、悲しみを喜びに変える。

2023年12月16日 | お説教・霊的講話

イエズス・キリストは慰めをお与えになる。カトリック司祭を通して、カトリック聖伝のミサを通して私たちを慰め、悲しみを喜びに変える。

2023年4月30日 復活後第三主日説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2023年4月30日、御復活後第三主日です。
先週私たちは、主イエズス・キリストが良き牧者であるということについて一緒に黙想しました。

主は、この地上で、良き牧者として、羊である私たち人類に、(1)真理の御言葉を教え、(2)罪の赦しを与え、(3)慰めを与え、(4)ご自分を十字架のいけにえとしてお捧げになりました。

今日の福音を見ると、良き牧者である主が、どれほど偉大な慰め主であるかということが分かります。何故なら、主は使徒たちにこう言われたからです。引用します。「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。(…)あなたたちも今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」引用を終わります。

今日は、私たちに慰めを与える良き牧者イエズス・キリストについて黙想いたしましょう。
なぜ、私たちには慰めが必要なのでしょうか?どのような慰めが必要なのでしょうか?
イエズス・キリストは現代の私たちにどのようにしてご自分の慰めをお与えになろうとされるのでしょうか?

【1:私たちの苦しみ】
人間は元来、苦しむためには創られてはいませんでした。苦しみとは、永遠の愛である天主に、自由を乱用して背いた堕天使たちのためのもの、つまり天主に歯向かって謀反を起こして天主を永遠に憎しみ、悪魔となった天使たちのためのものでした。

ところで人間は、犬や猫のようなご飯を食べてそれで満足する動物ではありません。天主は、無限の愛で、ご自分の似姿と肖像によせて人間をお創りになりました。つまり人間は天主の最高の無限の喜びを天主とともに分かち合うことができる存在として創られたのです。

人間の体の完璧な構造や器官や感覚、これは喜びと幸せを敏感に感じ取るようにできていました。しかし罪を犯したがために、天主の愛の計画は破壊されてしまいました。罪のために人間は、疲労を感じ、病気を患い、痛みを感じるようになりました。

人間の心はいわば繊細なハープのように、天主のやさしい御手に触れて、美しい喜びのメロディーを奏でることができるようにできていました。しかし、天主よりも被造物を愛して罪を犯したがために、被造物の乱暴な手は人間の心をかき乱してしまいました。冷たい忘恩や裏切りによって人は傷つき、妬みや恨みに心を痛め、いじめや嫌がらせに涙し、悪意や憎しみに悩み、騙しや疎外に苦しみ、孤独に悲しみ、死別に泣き崩れるようになってしまいました。

人間の霊魂は、天主の愛を深く知り愛し、味わい、崇高な喜びを楽しむことができるように創られていました。人間の知性は永遠の天主の神秘を深く理解して、そして人間の意志は天主を強く愛する力が与えられていました。しかし罪を犯したために、霊魂は麻痺してしまい、悲しみに落ち込み、知性は暗み、記憶は衰え、意志は弱くなってしまいました。

人間は生まれた時から涙を流し、幼年期も青年期も、そして大人になっても、労苦と失意に取り囲まれています。失敗と幻想を味わいます。老年には、孤独と力の衰え、後悔と死の苦しみを受けなければなりません。これらの全ての苦しみの原因は罪です。罪のために人間は苦しみ悲しむ存在となってしまいました。

人間は悲しみと苦しみの重荷を一人で担ぐにはあまりにも弱く、友人や相談相手が必要です。手を差し伸べて引き起こしてくれる、励ましの声をかけてくれる、勇気づけてくれる、そして悩みを聞いてくれる友の心がなければなりません。私たちの悲しみを和らげてくれる方がいなければなりません。しかも、罪という根本から生じた苦しみを和らげてくださるような方は、一体どこにいるのでしょうか?

【2:主は私たちの苦しみを慰める】
人間の苦しみを本当に慰めてくださる方は、イエズス・キリスト以外にはありえません。主こそ、上っ面ではなく心底からの慰めの与えぬしです。良き牧者である主は私たちの苦しみをまた悲しみを深くよーくご存じです。主は私たちを慰めようとしてこう言われます。主の言葉を引用します。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう。」(マテオ11:28)引用を終わります。

イエズス・キリストの来られる前は、人間にとって苦しみとは屈辱的なことでした。悲しみは恥ずかしいことでした。病気は苦痛でした。嘆きは虚しい叫びでした。しかし、主は苦しみとは何かを教えようとして、公生活の最初からこう言われました。引用します。「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。(…)悲しむ人はしあわせである、かれらは慰めをうけるであろうから。(…)正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。」(マテオ5:3, 5 & 12)引用を終わります。

私たちのこの世での苦しみはあまりにも多く、悲しみはあまりにも深く、癒されることができないかのようにさえ思われていました。しかし主はこう言われます。「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。」主は悲しみを喜びに変えられます。主には不可能なことがありません。

イエズスとともにイエズスのために苦しむことには、計り知れない価値があります。主に捧げられた苦しみは罪を償い、聖寵を勝ち取り、功徳を積み、永遠の栄光の巨大な重さとなるからです。聖パウロはこう言います。引用します。「私たちが受ける短く軽い患難は、はかりがたいほど大きな永遠の光栄を準備する」(コリント後4:17)と。聖ペトロもこう言います。引用します。「キリストの苦しみに与れば与るほど喜べ。そうすれば、あなたたちは、光栄のあらわれのとき、喜びに喜ぶ。」(ペトロ前4:13)引用を終わります。苦しみの超自然的な意味を知るのは、私たちにとってはなんと大きな慰めでしょうか。

しかも、苦しみや悲しみは、イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストのために捧げるのならば、栄光の原因にさえなるということを教えるために、言い換えれば、私たちの労苦の持つ価値がどれほど大きなものであるかを教えるためには、主は苦しみや屈辱を、十字架の死に至るまで、喜んで受け取られ、光栄ある復活に変えてくださいました。私たちにも同じことが起こると模範を示すためです。苦しむ私たちにとって、何という慰めでしょうか。

【3:主はご自分の弟子たちを特別に慰める】
いま申し上げたことは単なる理論ではありません。イエズスの愛の初穂です。イエズスがこの地上で生活を送っておられた時のことを福音に従って少し振り返ってみましょう。主は、特別の憐れみ深い愛で、弟子たちを慰めたことが分かります。特に病の人々に対する主の同情は深く、多くの病人を癒されました。たとえばカファルナウムの王官の病気の子供を、主は「あなたの子は生きている。行きなさい!」(ヨハネ4:50)と言われて癒しました。イエルザレムの羊門のそばのベザタという池で、三十八年来病気になやんでいる男を主は癒しました(ヨハネ5:6)。

主は、愛する人の死によって悲しみに沈む人々を慰めようと、ご自分の全能の力で死者を生き返らせもしました。ヤイロの一人娘の手をとり「子どもよ、目をさませ!」とお呼びになると、死んでいた娘はすぐにおきあがりました(8:50)。ナイムの寡婦の一人息子に「青年よ、私がいう。起きよ!」とおおせられると、死人は起きなおりました(ルカ7:11-17)。死んだラザロ(ヨハネ11:33-38)の時にも同情の涙を流された主イエズスは、目をあげて祈り「父よ、私のねがいをききいれてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたが常に私の願いをききいれてくださることを、よく知っています」と言って祈ったのちに、「ラザロ、外に出なさい」とおよびになってラザロをよみがえらせました。

そればかりではありません。主はさらにご自分の弟子たちをやさしく励まします。ある日弟子たちが少数で貧しく力が無いのを悲しんでいるのを見て、主は彼らを励ましてこう言われました。「おそれるな、小さな群れよ。あなたたちにみ国をくださろうというのは、あなたたちの父のおぼしめしである。」(ルカ12:32)と。

世の終わりにはおそろしいことが続いて起こるだろうと話された時には、弟子たちを励まして主はこう言われました。「こういうことが起りはじめたら、あなたたちは身を立てて頭をあげよ。あなたたちの救いは近づいたのだから。」(ルカ21:28)と。

主が、これから御受難に入り、御父のもとに行く時が来たと知ると、愛する弟子たちにこう言って慰めます。「心をさわがせることはない。天主を信じ、そして私をも信じよ。(…)私は帰ってくる。私がいる所に、あなたたちもいさせたいからである。(…)私は、あなたたちを孤児にしてはおかない、また帰って来る。」(ヨハネ14:1,4, 18)

主は、御聖体を制定して、御聖体において世の終わりまで私たちとともにとどまり、慰め主である聖霊を送ることを約束されます。主は、御受難の真っ最中であっても、ご自分のことを忘れて悲しむ人々を慰めます。重い十字架に押しつぶされながらもエルサレムの婦人たちを慰めます。十字架に付けられながら罪を痛悔する盗賊を励まし、主と共にいる喜びを告げます。主は右にいる痛悔する盗賊にこう言われました。「まことに私はいう。今日あなたは、私とともに天国にあるであろう」(ルカ23:43)と。一人取り残される聖母には、ヨハネを息子として、またヨハネには聖母を母としてお与えになりました。全てをご存知の主は、私たちが天国の幸せに至るために最も必要なものをお与えになろうとしておられます。

【4:良き牧者であるイエズス・キリストの業を続けるカトリック司祭】
主はたとえ昇天されても、私たちを孤児にしようとはされませんでした。何故なら、御聖体においてとどまられ、聖霊を教会に送り、カトリック司祭を創ったからです。
イエズス・キリストの代理として苦しみを慰める司祭の使命とは、どれほど崇高で美しいことでしょうか。イエズスの聖心に倣って、司祭は愛する兄弟姉妹たちの苦しみをよく知らなければなりません。とりわけ罪の結果として苦しみと悲しみとが人類を飲み込み、深く潜んでいることをよく理解しなければなりません。それと同時に、イエズスと一致して捧げられた苦しみの本当の価値を司祭は深く知らなければなりません。

イエズスの聖心と同じ憐れみ深い心、イエズスのような親切と同情と忍耐に満ちた心、貞潔で純潔な心で、司祭は苦しむ霊魂たちに接しなければなりません。イエズスがなさったように、悲しむ心に超自然の喜びを与える必要があります。人間的な慰めではなく、天主から出る超自然の慰めです。イエズスの聖心からの超自然の慰めです。人間の与える慰めではなく、聖心から流れ出る喜びと希望を伝えるのです。イエズスの聖心と親密に一致しているからこそ伝えることができる慰めです。
カトリック司祭が教えるべき教えは、主の御教えの真理です。天主から教えられた真理です。司祭が与える罪の赦しは、イエズス・キリストの与える赦しです。司祭は、イエズス・キリストのペルソナにおいて聖変化を行い、罪の赦しを与えます。ですから司祭が与えるべき慰めも、イエズス・キリストの超自然の慰めでなければなりません。

ではどうしたら司祭はそんなことができるのでしょうか?その秘訣は、聖伝のミサです。
(1)聖伝のミサは、つまり、カトリック教会が二千年の間捧げ続けてきた使徒継承のミサ聖祭は、十字架のいけにえの再現です。もっと正確に言うと、十字架の犠牲を私たちの目の前に秘跡的に現存化させること、それがミサです。聖伝のミサには十字架の犠牲とまったく同じ無限の価値があります。私たちが日々犯す罪の赦しを受けさせ、罪の傷をいやす効果があります。聖伝のミサでは、私たちは罪人であることを認め、罪の結果苦しみを受けていることを受け入れます。
(2)また聖伝のミサでは、司祭は叙階の秘跡を受けたイエズス・キリストの代理です。イエズス・キリストのペルソナにおいてミサ聖祭を執行する者です。司祭は集会の座長ではありません。ミサ聖祭のとき、司祭は信徒に対面しません。キリストのほうを向きます。司祭も信徒も、同じく十字架上のイエズス・キリストを向きます。司祭も信徒も、天国に向かって巡礼を行う旅人だからです。私たちは地上のことではなく天国を目指しているからです。司祭は、イエズス・キリストと信徒との仲介者として、その中間に立ちます。聖伝のミサではイエズス・キリストが中心だからです。イエズス・キリストを目指しているからです。
(3)また聖伝のミサでは、御聖体がイエズス・キリストのまことの御体であるとして礼拝されています。跪いて礼拝し、イエズス・キリストを唯一のまことの天主、私たちの王であると認めて、主にあわれみをこい願います。つまり、イエズス・キリストからの超自然の恵みを懇願します。

しかし1970年にミサが新しくなって、(1)ミサは十字架のいけにえの再現つまり秘跡的な現存化ということから、主の晩餐の記念、あるいはその再現つまり上演あるいは叙述になってしまいました。(2)また新しいミサとは、主の晩餐を記念するために集う、司祭を座長とする神の民の集会とされました。つまり人間が中心になってしまいました。(3)新しいミサでは御聖体がイエズス・キリストのまことの体であるというよりはシンボルであるかのようになってしまいました。そこでミサをこのように説明する人がいます。「パンとぶどう酒を共に食し、共に飲むことによって信者のひとりひとりがキリストの体につらなり、ひとつの共同体として交わりの中に入れられていることを確認する儀式」と。つまり別の言い方をすると、プロテスタントの聖餐式の概念と置き換わってしまったのです。これはあるカトリック教会のウエブサイトからの説明を引用しました。
その結果、新しいミサに与っているうちに、残念ながら多くの方々は、私たちが罪人であるということの意味、主の十字架と私たちの苦しみの価値、御聖体が何であるか、司祭とは何であるか、などがますます分からなくなってしまいました。

私自身、昔、何十年も前のことですが、こんな愚痴を聞いたことがあります。贈り物として大きな十字架像を受けるのは縁起が悪い、とか、あるいは病気の自分に「苦しみをお捧げしてくださいね」という人がいたが、なぜキリストは私の病の苦しみを直してくれないのか。などと言う愚痴です。そのようなことを聞くと、主の十字架の左につけられた盗賊の言葉を思い出します。「『あなたはキリストではないか。では、自分とわれわれを救ってくれ』といって悪口をあびせた」と、聖ルカにはあります。
ですから、カトリック司祭が、私たちにイエズスの聖心からの慰めを与えることができるようになるためには、どうしても聖伝のミサ聖祭が必要です。

【5:遷善の決心】
愛する兄弟姉妹の皆様、罪のゆえに私たちは苦しみ悲しんでいます。罪人である私たち人間には超自然の慰めが必要です。まことの天主だけが私たちに与えることができる、喜びと希望と平和の慰めが必要です。
主の御復活によって、主の死を悲しむ弟子たちの悲しみは、喜びに変わりました。また、涙の谷にいる私たちの苦しみも、あっという間に終わりを告げ、義人の苦しみは永遠の無限の喜びに変わります。この喜びは、イエズス・キリストだけが私たちに与えることができます。主は、これを司祭を通して与えることをお望みです。

教会は、聖伝のミサを通して、使徒継承のミサを捧げる司祭たちを通して、この超自然の慰めを与え続けてきました。霊魂たちがこの地上での苦悩の末に、ついに永遠の幸せの命に生まれる時、母なるカトリック教会は喜びに満たされます。その時、私たちの心は喜び、その喜びはもはやうばわれることはありえません。

良き牧者イエズス・キリストの聖心の憐れみ深い愛を感謝いたしましょう。主に祈りましょう。主の聖心に倣う多くの聖なるカトリック司祭たちを私たちにお与えてくださいますように祈りましょう。日本から多くの聖伝の司祭たちが生まれ出ることをこい求めましょう。

最後に聖母に祈りましょう。5月は聖母の月です。司祭たちが十字架のもとに聖母とともに立ち留まりますように、また司祭たちが聖伝のミサを忠実に守りますように聖母の御取り次ぎを求めましょう。
「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる。(…)あなたたちも今は悲しんでいるが、ふたたび私があなたたちにあうとき、あなたたちの心は喜び、もうその喜びはあなたたちからうばわれることはない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


殉教者ヴェロナの聖ペトロ:信仰の大切さ、信仰がなければ、私たちは天主に嘉されることができない

2023年12月15日 | お説教・霊的講話

殉教者ヴェロナの聖ペトロ:信仰の大切さ、信仰がなければ、私たちは天主に嘉されることができない

2023年4月29日(土)修道院でのミサの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さま。
今日は殉教者ヴェロナの聖ペトロの祝日を祝っています。

ヴェロナの聖ペトロは、カタリ派の異端の両親のもとに生まれました。子どもの頃から、周りがカタリ派という異端者の人々でいっぱいでした。しかし、聖ペトロは幼い時から純粋なカトリック信仰を守っていました。

七歳の時に叔父さんからこう聞かれました、「お前は学校で何を習っているのか?」。すると、脅しやあるいはおべっかあるいはその他のいろいろな脅迫にもかかわらず、ペトロは答えました。「私は使徒信経を習っている。我は天地の創造主、全能の父なる天主を信じ…」。そしてどのようなことも、ペトロの信仰を揺らがせることはできませんでした。

のちに1221年、若いペトロは、聖ドミニコ会に入会し、そしてドミニコ会の会士としてロザリオや…そして信仰を深く学び、ついには異端審問者として働くことになりました。ついに、ミラノでカタリ派の異端者の手によって殺害され、殉教します。

ヴェロナの聖ペトロの御影(ごえい)には、ドミニコ会の服を着て頭に剣(つるぎ)が刺さったままの姿を見ることができます。最後に幼い時から守り続けてきた使徒信経を唱えながら死んだ、そして自分の血で地面には「我は信ず、クレド」と書いて殉教した、と伝えられています。

今日私たちは、このヴェロナの聖ペトロを祝いつつ、信仰がどれほど大切であるかということを確認しなければなりません。なぜかというと、信仰がなければ、私たちは天主に嘉されることができないからです。

信仰は私たちが将来確実に知り確実に喜ぶことができる永遠の真理を、既にこの地上のうちから見ずに知ることだからです。信仰は私たちに天主の権威を以って教えられたことであって、私たちがその信仰のうちのこれとこれとこれをと、自由に選ぶことができません。天主の権威を信じるがゆえに、主が啓示された教えられたすべてをそのまま全部ひっくるめて、信じなければなりません。これが聖なる信仰です。私たちが守らなければならない信仰です。

つい最近、聖ピオ十世会の総長パリャラーニ神父様は私たちに手紙を書いてくださいました

「信仰を守らなければならない。特に聖ピオ十世会は、この信仰を守る戦いにおいて、み摂理的に特別の役割を果たすように招かれている。その信仰を守るためには、私たちはすべてをしなければならないけれども、特に心の清さを守らなければならない。なぜかというと、私たちは、純粋に天主の高みまでいかなければならないので、それ以外の被造物によって私たちを汚してはならないから。もしも私たちが心を清めれば清めるほど、イエズス・キリストのほうに向けば向くほど、私たちの心は準備されてますます信仰を清めることができ、主を見奉ることができ、その神秘を深めることができる。そしてその結果私たちの生活もますます主のみ旨に適ったものとなることができる。そしてそうなればなるほどますます信仰を深めることができる。」と教えています。

「しかし、もしもそうでないならば、私たちの信仰が表面的なものであるとするならば、リップサービスに過ぎないならば、あるいは私たちの生活さえを変えるものでない表面的にとどまってしまったのならば、信仰はあっという間に薄れてしまって気がつかないうちに背教にまでいたってしまうかもしれません、知らない、と。そして信仰が薄くなればなるほどますます私たちの生活も乱れてしまう、その悪循環に陥ってしまう。」と、総長様は警告しています。

今日はぜひ、ヴェロナの聖ペトロの御取り次ぎを求めましょう。私たちの信仰が決して表面的なものではなくて、私たちの生活を変えて、清めるものでありますように。ヴェロナの聖ペトロが、自分の家族・親族に、脅迫やその影響を受け付けずに信仰を守り通したように、私たちもこの世の誘(いざな)い・世俗の精神・近代の考え方に染まらずに、私たちの生活を変える聖伝の信仰を守り続けることができますようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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