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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

本当の謙遜とは?ファリザイ人の祈りは何が良くなかったか?

2021年07月31日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年8月1日は聖霊降臨後第十主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


自発教書「トラディチオニス・クストデス」は何故出されたのか?その神学的な背景

2021年07月30日 | お説教・霊的講話
2021年7月25日(主日)聖霊降臨後第9主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
 
愛する兄弟姉妹の皆様、
 
今日は、最近のモートゥー・プロプリオについて:トラディチオニス・クストデスについてお話したいと思っています。これについては、聖ピオ十世会総長パリャラーニ神父様が、皆さんにとても美しい手紙を書きましたので、是非それをお読み下さるようにお願いします。
 
この自発教書は、教会の歴史にとって非常に重大な出来事でした。
 
典礼の戦いにおける「停戦が終わった」ということです。また「戦いが始まった」ということです。
 
教皇フランシスコは、この最近のご自分の自発教書によって、ベネディクト十六世教皇様の「スンモールム・ポンテフィクム」のすべてのカギ括弧付きの「譲歩」を取り除くことを決定されました。
 
⑴では一体、なぜこのようなことが起こるのか?その背景をまず申し上げさせてください。
 
⑵そしてその次に、一体その理由は何なのか?を説明申し上げます。
 
⑴背景
聖ピオ十世会が今でも執行している、聖伝のラテン語のミサ、そして皆さんが私たちの会場で与っているこのミサは、全世界において、カトリックの普通にどこでも捧げられているミサでした。典礼の中では最も古い、最も歴史のある典礼です。
 
ミサの中の最も中心的な『カノン』と言われる部分を見ると、使徒聖ペトロに由来する、と言われる最も重要なものです。全世界で殉教者を生み出し、聖人を生み出したミサです。日本に来た聖フランシスコ・ザビエルが、この地で捧げていたミサです。また、日本のキリシタンたち、あるいは殉教者たちが皆、例外なく与っていたのがこのミサです。また150年前に日本に再宣教に来られたフランス人の宣教師たち、また多くの外国人の神父様たちが捧げていたのもこのミサです。
 
すべての時代における、全世界における、普通に捧げられていたミサです。カトリックのミサです。
 
聖ピオ五世教皇様は、1570年に「Quo Primum」という勅令を発表して、「すべての司祭はこのミサを、聖伝のミサを行なわなければならない義務がある」と公布しました。何故かというと、この聖伝のミサこそが、カトリック教会のすべての信仰を完全に表明しているからです。ですから聖ピオ五世教皇様は、『永遠に有効な法』として勅令を出して、「全ての司祭は、このミサを捧げる義務と、自由と、特権がある。このミサを捧げる限り、どのような良心の呵責もあり得ない」と、言っています。
 
ところが、1969年、突然、第ニバチカン公会議の結果として、プロテスタントの牧師たちと協力して作り出された、無から創造された「新しいミサ」というものが出来上がりました。
 
多くの司祭や修道士たち、また修道会も、このミサを拒否しようとしました、望んでいませんでした。
 
検邪聖省の長官であった、教皇様の代理であったオッタビアーニ枢機卿、またバッチ枢機卿は、連名で教皇パウロ六世に手紙を書いて「新しいミサが、ミサのいけにえに関するカトリック教会の教えから、教義から逸脱している、はるか遠くに離れている」ということを指摘して、教皇様に「このミサをやめるように」と懇願しました。しかし、この警告の声は無視されました。
 
教会法上、昔ながらの聖伝のミサが廃止されたり、禁止されたことは一度もありませんでしたが、しかし、力ずくで、新しいミサが全世界に押し付けられてしまいました。
 
2007年7月7日、前教皇ベネディクト十六世は、「実は、この聖伝のミサが一度も廃止されていなかった」ということを確認しました。「どのような司祭でも、この聖伝のミサを捧げる自由があって、どのような信者でもすべての信者が自由に参加することができる」としました。「このミサを立てるのに、司教様の許可はいちいちいらない」と言いました。これによって、世界中で特に若い人たちが、このカトリック教会の宝を発見することに繋がりました。
 
同時にベネディクト十六世教皇様は、「第二バチカン公会議は、聖伝の『継続』として、『続き』として理解されなければならない」と言っていました。私たちはこれに対して「いや、それはあり得ない。それは幻想だ、それは不可能なことだ」と言い続けてきました。
 
そして遂に今年の7月16日、教皇フランシスコ聖下はモートゥー・プロプリオを出しました。『トラディチオニス・クストデス』これによって教皇は、聖伝のミサの可能性を、最小限にしました。そして非常に厳格に、「ラテン教会には新しいミサだけであって、もしも聖伝のミサがあるとしたら、それは遂には彼らが新しいミサを捧げるために過ぎない」と言われました。非常に厳しい自発教書でした。
 
しかし、聖伝から離れるということは、カトリック教会を放棄することです、捨ててしまうことです。しかし、フランシスコ教皇様は、教会の聖伝を放棄して、それをやめて、第二バチカン公会議だけを皆が飲み込むように望まれていました。
 
⑵では第2の点、一体なぜ、そんなことを教皇様が言われるのでしょうか?何で急にこの時期に?教会には他にもたくさん問題があるのではないでしょうか?
 
コロナ禍の中で、実は教会は世界中で、少なくとも15ヶ月以上閉鎖されていました、ミサにも与れない、秘跡にも与れない、司牧的なケアもない、という方が全世界でたくさんいらっしゃいます。その中でも、コロナ禍の中でも、教会を開いてミサがある、秘跡がある、というのは聖伝の共同体だけです。
 
なぜ教皇様はそのような共同体のことを問題にされるのでしょうか?なぜ、まだカトリックの信仰をまだ信じている少数の人々のことを気になさっているのでしょうか?問題視されるのでしょうか?
 
例えば、昔カトリックの国だったカナダでは、今カトリックの教会が多く放火されています。火で焼かれています。フランスでもそうです。世界中で色々な所で、虹の典礼とか、同性愛の典礼とか、普通に行われています。パチャママもあります。それは問題がないようです。
 
何千・何万・何十万人・何百万という方々が、カトリック教会を去っています、信仰を捨てておられます。ベネディクト十六世教皇様は、「今、大陸全体から信仰が消滅しつつある」ということを、「それこそが今一番の問題だ」と仰っていました。
 
また現在では、アメリカ合衆国や南アフリカなどの大都市では、暴動とか、無政府状態が出現しつつあります。こういうのは本当の問題などではないのでしょうか?
 
でもなぜ教皇様は、今ラテン語のミサを閉鎖させようとされているのでしょうか?なぜ教皇様はそんなにラテン語の聖伝のミサのことが嫌いなのでしょうか?
 
これは、一つの理由しかありません。神学的な理由です、信仰の理由です。
 
聖伝のミサというのは、反エキュメニズムだからです。聖伝のミサは、宣教的であるからです。十字架によって私たちを統治する王として、主イエズス・キリストの王権を宣言しているからです。
 
それに対して、新しいミサというのは、エキュメニカルであって、私たちの主の王権を宣言するものではないからです。どんな宗教でも良いのだ、という考えに基づいているからです。現世では「キリストは王ではない」あるいは「なる必要はない」と思っているからです。
 
私たちの捧げている聖伝のミサと、そして新しいミサ、これは「単なる二つの典礼の戦いではありません。これは、カトリック教会およびキリスト教的生活についての二つの異なる対立した概念、つまり、お互いに絶対に譲れない概念、そして相容れない概念の間の戦いなのです。聖アウグスティノの言葉を借りれば、この二つのミサは、二つの国を打ち立てた、と言えるでしょう。つまり、『全時代のミサ(聖伝のミサ)』はキリスト教の国を打ち立てたのであり、『新しいミサ』は人間中心主義的で世俗の国を打ち立てようとしているのです。」 (パリャラーニ神父)
 
「このミサ、つまり私たちのミサは、本当に、私たちにとって、福音にある高価な真珠のように、持ち物を全部捨てる覚悟があるもの、持ち物を全部売る覚悟があるものでなければなりません。このミサのために自らの血を流す覚悟のない者は、このミサを捧げるに値しません! このミサを守るためにすべてを捨てる覚悟のない者は、このミサにあずかるに値しません!」。(パリャラーニ神父)
 
「聖ピオ十世会には、現在、狼狽し、混乱しているすべての霊魂を助ける義務があります。第一に、私たちには、トリエント・ミサは決して地上から消えることはない、という確証を彼らに提供する義務があります。これは、絶対に必要な希望のしるしです。さらに、司祭であれ、信徒であれ、私たち一人一人は、彼らに温かい助けの手を差し伸べなければなりません。…このようにしてのみ、私たちは本当に霊魂たちを愛し、教会への愛を示すことになるのです。」(パリャラーニ神父)
 
最近、聖伝を知った人たちは「今、選ばなければなりません。... ミサの聖なる犠牲(いけにえ)は、教義的・道徳的な教えの全ての最高の表現であるからです。それゆえ、それは、カトリックの信仰をその全体において選択するか、否かを。それを通して、十字架と犠牲と普遍的な王権を持つ私たちの主イエズス・キリストとを選択するか、どうかです。それは、主のいと尊き御血を選択し、十字架につけられた御方に倣い、完全で厳格で首尾一貫した忠実さによって、最後まで主に従うか否かを選ばなければならない、ということです。」
 
愛する兄弟姉妹の皆様、聖伝のこの尊い宝を、天主の御助けと、御力によって、守り続けることができますように、マリア様にお祈り致しましょう。
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




人間の命に関するカトリック教会の教えを、もう一度確認しましょう。人間の生命は「受精の瞬間に始まる」

2021年07月28日 | お説教・霊的講話

2021年7月22日(木)痛悔女マグダラの聖マリアのミサ
(マーチ・フォー・ライフ東京)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマーチ・フォー・ライフのためにミサに与って下さり、心から感謝します。

教会の名誉のために、またお母さんの胎内に生きている赤ちゃんたちに代わって、心から感謝の気持ちを申し上げます。

今日は、人間の命に関するカトリック教会の教えを、もう一度確認をしたいと思っています。

【人間の命の始まり】
聖にして母なるカトリック教会は、人間の生命が「受精の瞬間に始まる」と教えています。受精した卵子が母親の胎内に着床する前からすでに、自律的・独立的に生きて、行動しています。医学的には、受精後18日目に既に、心臓が心臓として動き始め、20日目にはすべての神経系が完成している、ということが分かっています。

つい最近の海外のニュースによると、「ドイツの議会は、生後6日目のニワトリの胚を『痛みを感じる』という理由で、ニワトリを7日後以降は殺すことを禁止する法律を可決した」とのことです。この法案は特に、オスのヒヨコの胚を殺すことを禁止しています。何故ならオスのヒヨコは卵を産んだり、十分な肉を生産したりすることができないので、すぐ殺されているのだそうです。もしも生後6日目のヒヨコに痛みを感じることができるならば、人間の胎児がどれほどの痛みを感じることができるでしょうか!?

カトリック教会のカテキズムは、伝統的な教えを繰り返して、次のように述べています。

[2268] 第5戒は、直接的かつ意図的な殺人を重大な罪として禁じています。殺人者と殺人に自発的に協力する人々は、天に復讐を叫ぶ罪を犯しています。

乳児殺し、兄弟殺し、親族殺し、配偶者の殺害は、自然の絆を断ち切るという理由から、特に重大な罪です。優生学や公衆衛生への配慮は、たとえ公権力によって命じられたとしても、いかなる殺人も正当化することはできません。

[2270]人間の生命は、受胎の瞬間から絶対的に尊重され保護されなければなりません。人間は、その存在の最初の瞬間から、人としての権利を有するものとして認められなければなりません。その権利の中には、すべての罪のない存在の生命に対する侵すことのできない権利(生命権)があります。

[2271] 初代教会以来、教会はあらゆる人工妊娠中絶を道徳的な悪であると断罪してきました。この教えは変わっておらず、今後も変わることはあり得ません。直接的な中絶、つまり、目的や手段として意図的に行う中絶は、道徳に著しく反しています。

[2272] 中絶に正式に公式に協力することは重大な犯罪です。教会は、人間の生命に対するこの犯罪に、破門という典範的な刑罰を課しています。「中絶をやり遂げた人は、"罪を犯すこと自体による"破門(自動破門)を受けることになります。教会は、中絶という罪の重さ、死に追いやられた無実の子供に対して、そして両親や社会全体に対してなされた、取り返しのつかない害を明確に指摘しています。

[2274]胚は受胎の瞬間から人間として扱われなければなりません。従って、他の人間と同じように、可能な限りその完全性を守り、世話をし、癒されなければならない。

「使い捨ての生物学的材料として利用されることを目的としたヒトの胚を生産することは不道徳である」。(CDF, Donum vitae I,5.)

【中絶の影響】
堕胎によって、人間の赤ちゃんは最も安全な場所で拷問され、殺害されます。これは残念ながら日本だけではなく、世界のほとんどの国で起こっていることです。

この恐ろしい現実を口にするのは極めてはばかられますが、しかし、どのようなことなのかを申し上げるのを許してください。

生まれる前に胎内から子供を取り出すということは、次のような意味を持っています。

洗礼を拒否することで、子供たちに天国への道を閉ざすことです。

これは、子供たちにとって拷問であって、体の一部を盗むことであって、切断することであり、操作することです。

それは罪のない赤ちゃんの殺害であって、そしてまた体の残りの部分を廃棄することであって、子供に対する冒涜です。

これは、あらゆる場合において子供の権利を侵害すること、さらには、体の一部を使い捨ての生物学的材料として販売、利用することに繋がります。

【罪のない市民に対する戦争】
最後に、中絶は罪のない赤ちゃんに対する邪悪な戦争です。中絶は、私たちが愛すべき胎児に対する攻撃だからです。不当な侵略戦争よりもはるかに邪悪です。特に第二次世界大戦後に戦争を放棄した日本では、最も安全で守られた場所で、私たちの子供、市民、家族、同国民を、敵としてあたかも虐殺しているということを意味しています。

しかも、私たちが直面している戦争は、今まで日本が過去体験した戦争よりも、もっと残酷です。母親の胎内にいる赤ちゃんたちは、自分を守る方法がないからです。人間として認められずに、生きることを拒否されているからです。赤ちゃんたちにとって、助けを求める場所はどこにもないからです。一体誰が、強大な軍隊をもって赤ちゃんたちを守って下さるのでしょうか? 

最後には天主が、旧約でなさったように、この邪悪を厳しく罰し給うことでしょう。その時、私たちは、何百万人の罪ない子供たちの流された血を償わなければならないことでしょう。

【結び】
最後に、私たちはファチマの聖母に、私たちの国と世界のために、真の平和を求めてお祈り致しましょう。そして私たちと私たちの未来の世代への憐れみを、特に乞い願いましょう。

こんな声が聞こえてきます。「あぁ、もう手遅れではないでしょうか?もう元にはもどらないし、既に死んだも同然ではないでしょうか?もう腐りかけています。」

いえ、しかし今日の福音を見て下さい。死んで4日経って悪臭を放っていたラザロを、イエズス様は生き返させました。イエズス様の憐みと全能には限りがありません。

聖女マグダレナ・マリアの御取次ぎを願って、この日本を生き生きとした生ける体として復活させて下さるように、この戦争を終わらせて下さるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


世界に、この人間の世界に最初に成立したのは、宗教と婚姻です。この二つともとても神聖なものです。

2021年07月28日 | お説教・霊的講話

2021年7月17日(土)ピオさんとテレジアさんの婚姻のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ピオさん、テレジアさん、ご両家のご家族の皆様、そしてご親族とご友人、知人、同僚の皆様、今日は、この二人が天主の祭壇の御前で、多くの祝福を受けられたことを心からお慶び申し上げます。

ここにいらっしゃる兄弟姉妹の皆様と、婚姻の神秘について黙想したいと思います。

【1:婚姻は、天主と人間との愛による一致の前兆】
天主は愛である、と使徒聖ヨハネは断言しています。天主は愛するがゆえに、私たち人間を無から創造されました。
私たちの周りにいる、動物たちや様々な植物、全宇宙の秩序は、唯一の知的で全能の御方が必ず存在している、ということを示しています。私たちはこの究極の根拠、私たちの存在の究極の根拠を、「天主」と呼んでいます。

私たちが今、ここに、こうやって生きて存在している理由は、たった一つです。それは、私たちが、私たちを創造して下さった真の天主をこの地上で知り、そして愛して、仕え、そうすることによって、永遠に天主と共に幸せであること、天主の命と一致をすることです。これこそが宗教の役割です。

カトリック教会の有名な聖アウグスチヌスという聖人はこう言っています。「御身は私たちを御身(天主)に向けて創り給い、私たちの心は御身のうちに憩うまで不安である。」fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.
「人間の霊魂は、あなた(天主)に向かわない限り、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされているだけである」と。

私たちの霊魂はいつも天主と、私たちを創造された御方と一致することを求めています。

この愛の天主は、婚姻をも、結婚をも作りました。婚姻は、アダムからエワが作られたその最初に制定されました。エワがアダムの脇腹から造られるやいなや、二人は聖なる絆によって一つになりました。聖書にはこうあります、「だからこそ、男は父母を離れて、女とともになり、二人は一体となる」(創世記2章24節)。これが婚姻です。

世界に、この人間の世界に最初に成立したのは、宗教と婚姻です。この二つともとても神聖なものです。

【2:婚姻の目的】
では、婚姻の目的とは何でしょうか?

婚姻の主要な第一の目的は、子孫の繁栄とその教育です。婚姻というのは、両者の「同意の交換」に成り立っています。つまり、夫と妻が互いに与え合って、互いに受け合う契約(相互の同意)によって成立します。この契約によって、夫と妻とは「婚姻行為」のための相手の体に対する権利をお互いに与えるのです。

聖パウロはこう言っています。「妻は自分の体を随意にすることはできぬ、妻は夫のものである。同様に夫も自分の体を随意にすることはできぬ、夫は妻のものである。互いに拒んではならぬ。ただ合意の上で、祈りに従事するためにしばらくやめても、再び共になるがよい。それはあなたたちを誘うサタンを肉欲に乗じさせないためである」(コリント前書7章4-5節)。

婚姻というのは本質的に、子どもの出産のためですから、婚姻の行為のこの自然の結果を妨害することは許されません。生命の伝達を故意に拒否することは許されません。ですから聖パウロはこうも言っています。「みな婚姻を尊び、寝床をけがすな。淫行者と姦通者は天主に裁かれる」(ヘブライ13章4節)。

そこで、教会はこう教えています。「婚姻から生ずる第一の善は、子どもである」と。そして、子どもには教育が必要です。良いカトリックの教育が必要です。両親は、子供たちに霊的な生命、超自然の命を伝えなければなりません。そのために、幼児洗礼、信仰教育を、言葉と行ないと模範とで伝えて下さい。

【3:不可解消性】
婚姻の目的を達成するために、家族という共同生活を始めなければなりません。ですから、婚姻は本質的に生涯にわたって続きます。夫婦のどちらかが死によってこの世から取り去られるまで続きます。それ以外には解消はできません。取り消すこともできません。先ほど読んだ福音にも、イエズス・キリストはこう断言しています。「人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。

何故でしょうか?何故かというと、子どもの教育という善のために、この二人の共同生活が終わりまで続くことが必要だからです。何故かというと、子どもたちは両親を長い年月にわたって必要とするからです。子供がたとえ大きくなったとしても、忠実という良い模範を必要としているからです。全生涯にわたって一緒に暮らす両親の良い模範が、子供に必要とされているからです。

ですから、婚姻から生じる第二の善があります。これは、相互の援助です。互いに助け合うということです。「主なる天主は仰せられた、『人間が一人きりでいるのはよくない。私は、彼に似合った助け手を与えよう』」(創世記2章18節)。この二人が忠実である、ということによって、年ごとに、ますますこの夫婦の友情関係が深まります。愛情が深まります。

【4:婚姻は、秘跡として高められた】
それだけではありません。私たちの主イエズス・キリストは、自然の契約である婚姻を、「秘跡」として、高貴なものとして高められました。ですから、カトリック信者にとって婚姻の秘跡とは、洗礼を受けていない方々の婚姻とは異なっています。何故ならこれは、秘跡となっているからです。

「秘跡」(sacramentum)というのは、自然なものではなくて、超自然で神聖なもの(sacrum)ですから、天主からの特別の力と、光と、恩寵とが保証されています。

私たちはこの秘跡としての聖なる婚姻を、聖なるものとして取り扱わなければなりません。家庭において、犠牲と祈り、聖性と純潔の雰囲気を保ってください。

ですから、婚姻から生じる第三の善は、秘跡(神秘)です。どういうことかというと、カトリックの婚姻における一人の男性と一人の女性の結合は、キリストとキリストの花嫁である教会との結合、つまりキリストとカトリック教会とが一体である、ということを示している神秘です。

キリストとカトリック教会は、神秘的な婚姻を通して、一つのキリストの神秘体となっています。これが、私たちの婚姻のモデルです。何故かというと、このキリストと教会の結合は、天国において永遠に続き、幸せなものとなっているからです。決して解消されません。

同時に、これは御恵みを与える源でもあります。何故かというと、キリストと教会の結合は、最も聖なるもので、最も純潔で、すべての聖なる愛の源だからです。この結合の実りは、夫婦を聖なるものとするだけではなくて、数多くの子供たちを与え、祝福します。ですから聖なる家庭から、多くの、数えきれないほどの聖人・聖女が生み出されて、そして天国に生み出されました。

聖パウロはこう言っています。
「キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐこと(これは洗礼のことです)と、それに伴う言葉によって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった。そのように夫も妻を愛さねばならない」(エフェゾ5章25-28節)。

キリストが教会を愛したように、夫も妻を愛して下さい。

旧約時代、世の最初に、アダムの開かれた脇からエワが造られました。それと同じように、教会は十字架のキリストの開かれた脇腹から生まれました。そしてキリストは十字架の上で、教会と結合しました。十字架上のキリストの聖心から流れ出た水と血は、洗礼と御聖体を表しています。十字架の下に佇む聖母は、教会全体を表しています。十字架こそが、本当の愛の神秘の中心です。ですから、多くの諸聖人を最も豊かに生み出す神秘的な婚姻の場所です。

ですからこそ、すべてのカトリック信者にとって、ミサ聖祭が婚姻の恩寵を受けるに最も適切なやり方です。

【5:最後に】
婚姻の秘跡の効果が、死に至るまで全生涯にわたって豊かに溢れるほど与えられるように、次のことを二人に提案したいと思っています。二つあります。

【十字架】一つは、十字架です。今日結婚された七月は、キリストの尊き御血に捧げられた月です。十字架の上で私たちの主イエズス・キリストは、御血を流されます。聖心を開いて、最後の御血を流されました。是非、この家庭の中心に十字架像、イエズスの聖心の御影(ごえい)を飾ってください。辛い時や、苦しい時、喜びの時、あるいは悲しみの時、どうぞ私たちのためにここまで愛された主キリストをご覧になってください。そして、主から愛されている、ということをよく知ってください。苦しい時の大きな慰めとなるでしょう。

【祈り】第二は、祈りです。家庭で毎日祈りを捧げてください。一緒に祈る家庭は、一緒に団結する家庭です。短い祈りだったとしても、毎日祈ってください。天主に忠実であり、互いに忠実でありますように、祈りを捧げてください。特にロザリオの祈りを愛して、家庭で祈ってください。マリア様にたくさんお祈りください。マリア様がたくさんこの家族を、家庭を祝福してくださると確信しております。
最後に、聖パウロの言葉を以て、この話を終わりたいと思います。
「兄弟たちよ、妻は、主にしたがうように、自分の夫にしたがえ。キリストがその体でありそれを救い給うた教会のかしらであるように、夫は妻のかしらである。教会がキリストに服従するように、妻はすべてにおいて夫にしたがえ。夫たちよ、キリストが教会を愛し、そのために命をあたえ給うたように、あなたたちも妻を愛せよ。…あなたたちは、おのおの自分の妻を自分のように愛せよ、妻もまたその夫を敬え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちは、この世の為だけではなく、永遠の命の為に生きている。

2021年07月28日 | お説教・霊的講話

2021年7月8日(木)ヨゼフさんの葬儀ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、そしてご親族の皆様、ご友人の皆様、今回は、心からご愁傷様です。

今日簡単に、この時間を借りて、どうやって私がヨゼフさんと出会ったか、そしてヨゼフさんが信仰にお目覚めになられたか、という話をしたいと思います。

私が最初に出会ったのは、ヨゼフさんがマリアさんと一緒にニューヨークから日本に戻られた、東京のミサの事でした、9年前の事でした。

その後、決して欠ける事なく、熱心にミサに通われておられました。マリアさんと一緒にミサに与っておられました。

そしてある日、芦屋の美味しい有名なパン屋さんで一緒にお食事会を招かれた時に、信仰の話を致しました。そして「是非、洗礼を受けたい」と。

ヨゼフさんはさすがに、メガネの会社の社長であったので、それにふさわしく、「人生が一体何の為にあるのか?何の為に生きているのか?運命とは何か?人との出会いとは何か?なぜ私たちはこの世に生きているのか?」という事を深く、鋭いビジョンがあったようです。

そして「私たちは、この世の為だけではなく、永遠の命の為に生きている。私たちは偶然ここに存在しているのではなくて、目的を持って生きている。今ここで、永遠の為に、尊い価値の為に生きている。」そしてその事をはっきりと確信されておられたようでした。

そして私に、洗礼を受けたい、という話をして下さって、2016年のクリスマスに洗礼を受けて、『ヨゼフ』という名前を受けました。

その後も変わる事なく、ミサに一生懸命与られて、そしていつも変わる事のない笑顔と、忍耐強い姿を見せて下さいました。今のようにコロナのようなものがなかったので、ミサが終わると食事を一緒にしたり、お話をしたりと、思い出があります。

遂に透析をされるようになって、そして遂に数日前、車椅子におられたまま、何か眠るように、霊魂を天主様の身元に返された、という話を聞きました。永遠の復活を待ち望んで、眠りにつかれました。この世の終わりに、もう一度、永遠において復活する為に。

では私たちも、このヨゼフさんのように、なぜ私たちはこの世に生きているのか?この私たちの存在の生きている意味とは何か?という事が深く分かる事ができますように、イエズス様とマリア様にお祈りしたいと思います。そしてこの亡くなった霊魂、ヨゼフさんの永遠の安息の為にもお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


天主の正義を宥める唯一の方法は、ミサ聖祭。天主の聖子が流される血を、聖父に捧げて、代わりに罪の償いとして、宥めの血を御捧げすること

2021年07月28日 | お説教・霊的講話

2021年7月17日(主日)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(大阪)

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心の御前で、讃美と感謝と礼拝、罪の償いを御捧げ致しましょう。

聖書によると、罪の無い人の命を奪ってしまう殺人は、天に復讐を呼び求める罪であるとされます。

約70年前の7月13日、日本で中絶を合法化する法律が作られ、多くの罪の無い子供たちの血が流されました、流され続けています。

これらの血は、天に復讐を求めています。

天主の正義を宥める唯一の方法は、ミサ聖祭。天主の聖子が流される血を、聖父に捧げて、代わりに罪の償いとして、宥めの血を御捧げすることです。

しかし、それも十分に捧げることができなくなれば、あるいはソドマとゴモラのようになってしまう危険があります。私たちは厳しい罰を受けて償いを捧げなければならなくなります。

イエズス様とマリア様の無限の功徳と御憐みを乞い求めましょう。

ソドマとゴモラに、もしも10人の義人さえいれば、その町は助かったはずです。


エメリッヒ・ヤインドル神父(聖ピオ十世会)は十人兄弟の三男(25才)で2021年6月26日にザイツコーフェンで司祭に叙階、故郷で初ミサを行いました

2021年07月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年7月10日、素晴らしい夏の日に、クランバッハ・アム・ヴェヒセル(ニーダーエスターライヒ州[低地オーストリア州])で初ミサの大きなお祝いが行われました。
この小教区のエメリッヒ・ヤインドル神父は、十人兄弟の三男(25才)で、2021年6月26日にザイツコーフェンで司祭に叙階され、故郷で初ミサを行いました。遠方からも多くの信者が駆け付けました。

司祭の兄であるアンドレアス・ヤインドル神父(長男で、現在は聖ピオ十世会のドイツの神学校の教授)は、弟のミサで説教をして、キリストの代理としてミサの聖なる犠牲(いけにえ)を捧げ、秘跡を執行する権限を与える司祭という聖職の重要性を強調しました。新司祭に向かって、司祭は天と地の橋となる、この橋の役割を果たすためには、司祭自身が天主との密接な関係を持たなければならず、そうすることで初めて天主と人との仲介者となることができると、兄は先輩の司祭として説教しました。

OGPイメージ

Heimatprimiz von P. Emmerich Jeindl in Krumbach, NÖ

Am 10. Juli 2021, einem strahlend schönen Sommertag, fand in Krumbach ...

District of Austria

 

 


ヴィガノ大司教「この恐ろしい時代の荒廃に直面して、位階階級の背教と教会の体の苦悩に直面して、私たちは悲観的になったり、絶望やあきらめに屈したりすることはできません。」

2021年07月26日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「私たちは教会の受難の証人となるように、十字架のふもとに立つ」

―現代カトリック信者の義務

Carlo Maria Viganò: “To stand at the foot of the Cross, as we witness the Passion of the Church” – The Duty of Catholics today

親愛なる「Duc in altum」の友人の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が、私の記事「教皇が病院にいる間に」[【日本語訳は、ヴィガノ大司教の記事の下に掲載してある】をきっかけに、この寄稿文を送ってくださいましたので、ここでご紹介します。大司教に感謝申し上げるとともに、大司教の言葉をお借りして、「試練の時に私たちに力を与えてくださるよう聖霊にお願いしつつ、謙遜に祈りましょう」。
***

In hac lacrimarum valle
この涙の谷に

親愛なるヴァッリ博士、

若き日のヨゼフ・ラッツィンガーが行った有名なラジオ黙想から取ったイメージを使ってあなたが書かれた、教会の状態についての考察、また、カトリック信者が、ただ死ぬだけの瀕死の現実を抜け出して、もっと闘争的でゲリラ的な新しい次元へ「移行」することについての考察を読んで、私は感動しました。

この「移行」は、キリストの神秘体から出て行き、過去を失ったことを嘆き現在にうんざりしている人々の心の中に作られた、人間的でユートピア的な現実へと向かう移行ではありません。なぜなら、もしこれが私たちの誘惑であるならば、私たちは教会そのものへの裏切りを犯すことになり、私たち自身を教会から引き離し、その結果、教会だけがその成員に保証する私たちの救いを排除することになるからです。

この矛盾をよく考えてみてください、親愛なるアルド・マリア、もしもそうであれば、不変のカトリックの教導権に忠実であることを誇りにしていると宣言している人々は、私たちが皆、exsules filii Evae(ちくたく[逐謫:追放]の身なるエワの子)であること、そしてこの涙の谷をgementes et flentes(泣き叫びて)進んでいることを思い起こすことはなく、まさに[偽りの]オアシスを構築していることになってしまいます。

教会は終了していませんし、これからも終わりません。私たちが知っていることは、主がご自分の群れの牧者として置かれた人々によって、まだ生き残っているわずかなカトリックの人々が、あれでもかこれでもかと解体されるのを私たちが目撃しているというこの恐ろしい危機が、神秘体の悲しみに満ちた受難であり、神秘体の埋葬を示すということです。これは御摂理が定めたように、神秘体はすべてにおいて自らの天主なるかしら【キリスト】を模倣しなければならないのです。

ですから、それもエルザレムの暗い空の下、ゴルゴタで起こりました。そのとき、天主の御子が十字架に上げられたのを見て、このナザレト人の短い幕あいが終わったと信じる人たちがいたのです。しかし、悲観主義、恐怖、日和見主義、あるいは公然の敵意から、教会の死の響き音を冷笑的に観察する人々とともに、教会とそのすべての成員を待ち受ける復活の、必要にして不可欠な前提であることを知っているにもかかわらず、その苦悩の前でうめき、心が裂けるような思いをする人々もいます。死の響き音は恐ろしいものです。それは、用意日(Parascere)の不信の沈黙と、それに伴うサタンの世界支配を貫いた主の叫びのようなものです。「Eli, Eli, lamà sabactani!」(わが天主、わが天主、なんぞわれを捨て給いしや!)。

私たちはキリストの叫びを聞き、一方で教会はうめきます。私たちは、槍や棍棒、酢を浸した海綿のついた葦を目にし、群衆の下品な侮辱、最高法院(サンヘドリン)の挑発、衛兵への命令、敬虔な婦人たちのすすり泣きを耳にします。

さあ、親愛なるヴァッリ博士、今日、私たちは教会の受難の証人となるために、十字架のふもとに立たなければなりません。立つとは、直立し、静止し、忠実であることを意味します。至聖なるマリアとともに、悲しみの御母―stabat Mater dolorosa(悲しみの御母はたたずみ給う)―は、主が聖ヨハネという人を通じてまさに十字架のふもとで私たちの母として与えてくださり、そのことよって私たちは、その同じ最愛の弟子とともに、主の御母の子どもとなったのです。受難の痛みがキリストの神秘体において更新されるのを見るという苦悩の中にあっても、私たちは、この最後の荘厳な時の儀式によって、贖いが成就されることを知っています。

ご托身になった天主の御子によって成し遂げられた贖いは、贖われた人々においてその神秘的な一致を見いださなければなりません。御父は、私たちみじめな罪人を贖うために御独り子の犠牲を喜んで受け入れられたように、受難の苦しみが教会や個々の信徒に反映されるのを見守っておられます。このようにして初めて、まことの天主にしてまことの人であるイエズス・キリストが人間の名によって成し遂げられた贖いのみわざは、私たちを協力者かつ参加者とすることができるのです。私たちは、自分の知らない計画の受動的な対象者ではなく、むしろ、私たちの天主なるかしらの模範に従って、私たちの救いと兄弟の救いの能動的な主役なのです。このことによって、私たちは事実上、司祭なる民であると言えるでしょう。

この恐ろしい時代の荒廃に直面して、位階階級の背教と教会の体の苦悩に直面して、私たちは真に悲観的になったり、絶望やあきらめに屈したりすることはできません。

私たちは、新しい大司祭たちが唾を吐きかけ、新しい最高法院が罵り、悪態をついている十字架のふもとに、聖ヨハネと御悲しみの童貞とともにいるのです。一方で私たちは、司祭階級の指導者たちが率先して主を死なせようとしていた人々であることを思い起こします。ですから、教会の受難の時に、彼らの霊魂の盲目さがもはや理解することできないものを嘲笑するのが、まさに彼らであることは、驚くべきことではありません。

祈りましょう。試練の時に私たちに力を与えてくださるよう聖霊にお願いしつつ、謙遜に祈りましょう。かつてキリストにしたように、今日、鞭を振り回し、いばらの冠を教会の頭に押し付け、釘を打ち込み、教会の脇腹に傷をつける人々のために、祈り、償い、断食を増やしましょう。また、黙って見ている人々、あるいは見て見ぬふりをしている人々のためにも祈りましょう。

祈りましょう。泣く人々のために、ハンカチを出して【受難で】醜くなった【教会の】顔を拭く人々のために、しばらくの間【教会の】十字架を担う人々のために、墓や遺体を包む布、貴重な油を用意する人々のために。「Exspectantes beatam spem, et adventum gloriae magni Dei, et Salvatoris nostri Jesu Christi―偉大な天主であり救世主であるイエズス・キリストの幸福と希望と光栄の現れを待ちつつ」(ティト2章13節)。【バルバロ訳と1節のずれあり】

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年7月14日
司教教会博士聖ボナヴェントゥーラの祝日

【参考文献】
While the Pope is in the Hospital…
教皇が病院にいる間に…

by アルド・マリア・ヴァッリ

教皇が病院で療養している間(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの回復を祈っています)、カトリック教会の健康状態について、類推によって考察するのは、まさに自然なことです。

現在、「右」からも「左」からも多くの分析がなされていますが、教会の診断結果は「昏睡状態」という恐ろしいものです。教会に行く人々の数が減りつつあり、召命が劇的に落ち込んでおり、永遠の命や復活を信じる人々の数は減り続けています。信仰のイロハも知らない人々が日に日に増加しています。これは、最も深刻な危機であって、教会人が犯した性的スキャンダルや金銭的スキャンダルによる危機よりもはるかに深刻です。ドイツの「シノドスの道」のようなある種の現象は、生命力が残っている証拠ではなく、むしろ苦悩している体に鞭打ちを与えているだけです。

少し前に、私は「Come la Chiesa finì」(教会はどのようにして終わるのか)という題名のパンフレット(一部はエッセーで、一部はディストピア的小説)を書きました。でも今となっては、「ディストピア的」という形容詞は不要だと言えるでしょう。周りを見渡せば分かることですが、教会は終わりつつあります。殻はあっても中身はもうありません。また、「Roma senza papa」(教皇のいないローマ)という記事も書きました。

この記事で私が論じたのは、誰が実際の教皇なのかという教会法上の問題を超えて、事実上(de facto)ローマには教皇がいないということです。なぜなら、教皇は自分の仕事(兄弟の信仰を固めること)をずっと前にやめてしまい、国連や政治的に正しい(politically correct)人道主義の所属司祭(チャプレン)のようになってしまったからです。思想にレッテルを貼るのが好きな人々は、私を教皇座空位論と非難しました。実際には、私がここで空虚(空位)とみなしているものは理【ことわり:教皇が教皇としてある理由】であって、信仰以前の問題なのです。

私が「教会は終わった」と理解するようになったのは、数カ月前のある主日、新型コロナウイルス感染症におびえる一人の教区司祭が、説教中にこう言ったのを聞いたときでした。「除菌ジェルやソーシャル・ディスタンスがあるのはありがたいことです。しかし、私たちの人数が少なければ少ないほど良いのです」。これは認証と言ってもいいでしょう。神学校に何年も通い、おそらく教皇庁立神学学校にも通っていたと思われる教区の牧者である一人の司祭がこのような考えを表明した場合、それは教会が終わったことを意味しています。以上、証明終わりです。

皆さんは反論するでしょう。「しかし、あなたは一つのケースについて話しているのであって、一般化することはできません」と。その通りです。しかし、私の見解では、この教区司祭は、端的に言って、あまりにも残酷なほど鈍くて誠実だったのです。他の人々は甘い言葉をかけようとしますが、彼らが考えていることの本質はこうです。彼らは聖水よりも除菌ジェルを信じ(聖水は実際、撤去されました)、ご聖体の奇跡的な力よりもソーシャル・ディスタンスを置くことを信じ、天主のみ言葉【キリスト】よりも技術科学委員会の指示を信じているのです。何か付け加えることがあるでしょうか? 証明終わりです。

もちろん、キリストに属する教会は終わることができず、すでに生まれ変わっています。以前よりも小さくなり、隠れるようになり、迫害されるようになり、自由になり、真実に近いものになっています。しかし、今まで私たちが理解し生きてきた教会は終わりました。生まれ変わろうとしている教会は、ローマ教皇庁の位階階級や司教協議会、各省とは何の関係もありません。その教会という船は難破して沈みました。聖霊に支えられて生まれ変わろうとしている教会は、信仰の奇跡、すなわち「spes contra spem」(希望に反する希望)【望みなきときにもなお望みを捨てず(ローマ4章18節)】であり、この世との関係において完全な逆らいのしるしです。

次の言葉を使うのをお詫びしますが、この生まれ変わった教会は、少しゲリラのような存在です。なぜなら、組織化されておらず、しばしば目に見えないためです。教会はそこにありますが、ほとんど、あるいは全く見ることのできず、見られたいとも思っていません。教会は、古くて新しい方法で炎を燃やし続けています。教会は、聖伝と、愛から来る創意工夫を組み合わせています。教会は、公式文書や政策、司牧的な計画を見て、落胆します。実際、教会はこのすべてを無視しています。なぜなら、今そこから来るのは信仰への攻撃であるものだけだと知っているからです。教会は真理に渇いているため、命を与える水の源に直接行き、自ら隠れて迫害されているごく少数の牧者たちの周りに集まるのです。

今日、私たちに求められている回心は、罪に対して「いいえ」と言い、天主を選ぶという日常的なものを超えて、私たちが教会について考え方そのものに関係しています。つまり、これまで知っていたすべてのものを捨てて、小さなもの、隠れたもの、迫害という旗の下に、新しい次元に入っていくのです。

新型コロナウイルス感染症という現象が加速させましたが、そのプロセスはすでに進行していたのです。私に関する限り(これは私の考えがどのように発展したかを説明するためだけに言っているのであって、私のケースが典型的なものであると考えているわけではありません)、転換点は「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)で起こりました。何度も言ったり書いたりしていますが、あの文書に背教が織り込まれていることに気づいたとき、ベールが剥がれ落ちました。私は「正規の」カトリック信者であることをやめて、「ゲリラ的な」カトリック信者になりました。

事態がベルゴリオ後にどうなるかは分かりません。もちろん、すでに弱体化している教皇の権威が、現教皇職で致命的な打撃を受けたことは知っています。その昔、私たちはこう言いました。「Roma locuta, causa finita」(ローマは語れり、一件落着せり)と。ローマが、というよりも教皇が、認識できかつ認識された権威を持っていた時代でした。今、私たちはこう言えるでしょう。「Roma locuta, quis curat?」(ローマは語り、誰が気にするのか?)と。その答えは、「誰も気にしない」です。教皇の声は数ある中の一つであり、最も権威のあるものの一つでさえもないのです。私はベルゴリオに責任を負わせているのではありません。ベルゴリオは長い鎖の最後の輪に過ぎません。実際、逆説的ですが、ベルゴリオには、この問題を公にしたという「功績」があります。フランシスコのことを「ハッピーアワー教皇」(papa da aperitivo)と呼んだ人がいると聞きました。【ハッピーアワーとは、飲食店でアルコール飲料の割引販売を行う時間帯】いい定義のように思えるかもしれませんが、実際にはひどいものです。教皇の声が、バーに座っている人々から私たちが集めることのできるものに例えられるかもしれないとしたら、それは教皇の権威が死んで埋葬されていることを意味します。では、それを復活させることができるのは誰でしょうか? また、どのようにしてでしょうか?

そこで、ここに記したのは、教皇が入院している間に、「Duc in altum」の親愛なる友人の皆さんにお伝えしたいと思ったちょっとした考えです(もう一度、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの回復を祈っています)。

初出「Dum in altum」2021年7月7日


私たちの行動の原理は「愛」です。何故かというと、私たちは聖父を、天主を父と呼ぶ養子の霊を受けたからです。「恐れ」によって行動するのでありません。

2021年07月26日 | お説教・霊的講話

2021年7月17日(主日)聖霊降臨後第8主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

1つお知らせがあります。来たる金曜日、スポーツの日、大阪でマーチ・フォー・ライフがあります。普通でしたならば金曜日は夕方のミサですけれども、今週の金曜日は特別に朝の10時半から、国民の祝日ですので午前中にあります。

14時半に大阪の市役所の前に集合して、15時から御堂筋をマリア様と共に、聖母行列マーチ・フォー・ライフを行ないます。皆さんたくさん多くの方々がいらっしゃる事を待っております。

特に、声なく、罪なく、最も安全な場所で命を落としている私たちの兄弟姉妹の為に、このお祈りを、マーチ・フォー・ライフを捧げたいと思っています。どうぞいらして下さい。7月23日金曜日です。

今日、聖福音でイエズス様は例えを話しました。
「もう、お前に管理職を任せておく事はできない。さぁ、今までの会計報告を出しなさい。」

これは、いつの日か同じ事を私たちも言われます。私たちもほんの何十年かの間だけ、この世の管理を任されました。そしてある時、主の御摂理によって、最も良いと思われる時に、主は私たちに、「さぁ、これで管理職も終わりだ。会計報告を出しなさい」と言う時が来ます。その時の為に、私たちは与えられた力を使って、永遠の準備をしておきましょう。

福音では特に「施しをしなさい」と言っています。「私たちに委ねられた一時のかりそめの力を使って、その財産を使って、能力を使って、必要とされる人を助けなさい。」あるいは「私たちに負い目のある人を許しなさい」と教えています。「そうする事によって私たちは、天国に友人を作る」と。

私たちの行動の原理は「愛」です。何故かというと、私たちは聖父を、天主を父と呼ぶ養子の霊を受けたからです。「恐れ」によって行動するのでありません。

この世の人は私たちを、なんとか奴隷のようにさせようとして、恐れをもって、恐怖心を押し付けようとします。もしかしたらこれから色々な不安や恐れを皆さんが抱くように仕向けられるかもしれません。あるいはもうそうしているかもしれません。

何も恐れないで下さい。私たちは、この地上での儚い人生は天国の為にあるからであって、私たちが畏れる方はただ一つ、私たちを永遠のゲヘンナの火に、地獄の火に落とす人だけを畏れなければならないからです。

つい最近、ベネディクト十六世のスンモールム・ポンティフィクムが廃止された、キャンセルされた、とニュースを聞かれたと思います。

何も恐れないで下さい。2000年間の使徒から伝わってきた教会の宝が、いきなり禁止されたり、悪いものになったりする事はあり得ません。

教会の掟というのは、教会の法律というのは、教皇様が風見鶏のように意見を変えて動くものではありません。「霊魂の救い」の為にあるものです。

ですから、15年前に教皇様が「全く自由だ」と言ったのが、それも15年も経たない内に、「そうではない」と言う事はできないからです。もしもそうであるならば、じゃあ、その『そうではない』と言ったその権威は、またあと5年後に否定されるかもしれない。一体どうしたら良いのか?どこに権威があるのか?ということになってしまいます。

そのキャンセルしたその理由は、「何故かというと、教会での一致を保つ為だ。」
しかし、新しいミサほど、色んな形があって、何でも許されていて、一致のないものはありません。パチャママもあれば、フォークダンスのミサもあれば、何でもあります。

しかし、聖伝のミサこそが、2000年の間カトリック教会を全世界において一つにまとめてきたものです。

今そのスンモールム・ポンティフィクムも、14年の間で、多くの若者たちが信仰を取り戻して、召命が沸き起こり、そして唯一生き生きとしている信仰を保っているのが、聖伝のミサを捧げているコミュニティや教会です。聖伝のミサではない他の教会では徐々に信仰を失っています。

そして唯一、その信仰を保っている所を安楽死させようと、動物園に押し込めて、そしてそのまま息絶えさせようとする事は、本当に教会の霊魂の救いの為のものなのでしょうか?

何も恐れないで下さい。聖ピオ十世会はもちろん、聖ピオ五世教皇様が列聖して、「永久に有効である。永久に、どのような司祭であっても、全ての司祭がこのミサを捧げる義務と、自由と、特権を持っている」と言ったこのミサを捧げ続けます。天主の御恵みによって。

ですから、何も恐れないで下さい。そして私たちはいつも主の為に、この主に与えられた私たちのこの地上での能力を使って、できるだけ善の為に施しをして、そして天に友人を作る事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


一度教皇様によって列聖された聖伝のミサ聖祭は、他の教皇様でもこれを廃止する事ができない

2021年07月26日 | お説教・霊的講話

2021年7月17日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(大阪)

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心の御前で、讃美と、感謝と、礼拝、罪の償いを御捧げ致しましょう。

昨日7月16日付けで、フランシスコ教皇様が、スンモールム・ポンティフィクムをキャンセルする、という自発教書を発表されました。

聖伝のミサは、教皇聖ピオ五世が、「全ての司祭が、これを捧げる義務と、自由と、特権とを持っている」と、永久に宣言したこのミサ、そしてベネディクト十六世が、「どのような司祭でも、自由に、特別の許可なく、捧げる事ができる」と言われたミサ。

しかし「これからは、新しいミサだけが教会の唯一の声であって、司教はそれを特別に許可する事もできるし、制限する事もできる、聖伝のミサには司教の許しが必要だ」という、いわば権力の濫用が行なわれました。

スンモールム・ポンティフィクムから14年間の間、多くの特に若い人たちが、聖伝のミサの事を知り、多くの霊魂がそれに養われ、聖伝のミサを捧げる修道会では、あるいはその教会では、召命が、聖なる家族たち、信仰の復興など、素晴らしい実りを見てきました。

カトリック信者たちは、この「聖伝のミサという魚が欲しい、宝物が欲しい」と、世界中で望むようになりましたが、与えられたのは「石」でした。

私たち聖ピオ十世会はもちろん、使徒から受け継いだこの信仰の遺産を、変える事なく、天主の御助けを以って、捧げ続けていく決心です。

何故かというと、一度教皇様によって聖別されたこのミサ聖祭は、列聖されたミサ聖祭は、他の教皇様でもこれを廃止する事ができないからです。

私たちは、イエズス様の聖心がいつも私たちを守り、祝福して下さる事を確信しているので、何も心配する事ありません。全てこの世の色々な出来事を、ますます聖心が愛される為に御捧げ致しましょう。


聖母は私たちの母で、私たちに、子供である私たちに、いつも衣服を着せて下さり、私たちを保護して下さる

2021年07月26日 | お説教・霊的講話

2021年7月16日(金)カルメル山の聖母の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はカルメルの聖母の記念を行なっています。

では、カルメルの聖母というのは一体何なのか?何で今日この日に、記念を行なうのでしょうか?

聖地のパレスチナのカルメル山には、キリスト教の共同体が住んでいました。その共同体は主に隠遁者で、お祈りの生活をする人々でした。しかし修道会として特に形を取ったのは、12世紀、聖ベルトルドという聖人のおかげでした。西洋の西方の共同体のやり方を適用しました。

そしてこの修道会が教皇様によって認可されたのが1221年、教皇オノリウス3世によって認可されました。何故かというと、1221年の7月15日と16日の間の夜、マリア様が教皇オノリウス3世に現れて、「このカルメル会の修道会は私の会だから、認可するように」と命じたからです。

しかしイスラム教の迫害がひどくなり、カルメル会の修道者たちは聖地をパレスチナを出ざるを得なくなりました。そしてヨーロッパに渡ってきました。しかし残念な事に、ヨーロッパでもこのカルメル会の修道会の迫害はありました。

その時に、第6代カルメル会総長聖シモン・ストックにマリア様が現れました。時に1251年7月16日、今日の事でした。
そして聖シモン・ストックにカルメルの茶色のスカプラリオを与えて、「特別の保護の印として、これを着るように」と命じました。

そしてカルメル会の聖母を祝うのは、7月16日となりました。マリア様がいつも守って下さる、という印です。

特にこのマリア様の約束によれば、「このスカプラリオを着て死ぬ者には、その死んだその直後の土曜日に、マリア様はその霊魂を天国に連れて行く、煉獄から天国に連れて行く」と約束されました。

ヨハネ二十二世教皇は、これを「本当のものである」と確認して、そして1908年頃、祭礼典礼聖省もこれを確認しました、「これは本当の事である。」

ではカルメル会の聖母の、私たちにおける意義とは何でしょうか?

「マリア様は私たちの母で、私たちに、子供である私たちに、いつも衣服を着せて下さり、私たちを保護して下さる」という事です。このスカプラリオは、その目に見える印です。マリア様は、迫害を受けているマリア様の子供たちを守り、愛します。

ですから、私たちもお祈り致しましょう。聖伝のカトリックの教えを信じ、カトリックの聖伝のミサを捧げ続ける共同体がいつも守られますように、私たちにはいつもそのミサの場所が与えられて、ミサを捧げる司祭たちが与えられて、召命が与えられて、そしてできるならばそれを続ける健康も与えられて、そして私たちが安心してマリア様を通して、イエズス・キリストの聖心をお愛しする事ができますように、祈りと、讃美と、感謝を捧げる事ができますように、その特別の保護を乞い求めましょう。

そして遂に、この世を御旨によって去らなければならない日が来ましたら、それはもしかしたらすぐ来るかもしれませんが、その時には、マリア様から特別に愛された子供たちとして、私たちを愛する聖父のその懐の元に行く事ができますように、早くその光栄に与る事ができますように、マリア様の特別の保護と御助けを求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2021年7月25日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for July 25, 2021

2021年07月25日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!
--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年7月22日(木)23日(金)24日(土)25日(主日)のミサの予定を確定します。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
 7月23日(金)  10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭 15:00よりマーチフォーライフ
 7月24日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭
 7月25日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図 )
7月22日(木)【うみの日】ミサが二回捧げられます。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live : https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
【この日は例外的に修道院ではミサがありません。ご了承ください。午後にはマーチフォーライフがあります。

7月25日(日)主日ミサが三回捧げられます。
午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live : https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。

【名古屋】 主日のミサが捧げられます。
名古屋においては、次の場所と日時に聖伝のミサを捧げる予定です。
聖伝の典礼を信徒の皆様に体験していただくためにも愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。場所:愛知県名古屋市中村区名駅南1-3-14 石原ビル6階
日時:7月25日(日) 16:30 ロザリオ及び告解  17:30(午後5時半) ミサ聖祭【ミサの時間が早くなりました。ご注意ください。】

Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I would like to confirm the Mass schedule for the weekend of July 25, 2021.

Mass schedule in Tokyo:
July 22 (Marine Day)
09:00 - Sung mass Facebook live : https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 - Low mass

July 25
09:00 - Sung mass Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo
Map: http://g.co/maps/nxeh5

Mass schedule in OSAKA:
Fri, July 23: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30 👈 Attention to the Mass time! 
Sat, July 24: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, July 25: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Mass schedule in NAGOYA:
Location : Ishihara building 6th floor, Mei-eki-Minami 1-3-14, Nakamura-ku, Nagoya.
All of you are heartily welcome!
Sun, June 27: Holy Sacrifice of the Mass at 17:30. 👈 Attention to the Mass time!





エルサレムの崩壊は、現代のカトリック教会への警告です|Sermon about the tears of Our Lord Jesus on Jerusalem

2021年07月24日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年7月25日は聖霊降臨後第九主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第九主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


素晴らしい天気に恵まれて、第2回大阪マーチフォーライフが行なわれました

2021年07月23日 | プロライフ
アヴェ・マリア・インマクラータ!
 
愛する兄弟姉妹の皆様!
 
素晴らしい天気に恵まれて、第2回大阪マーチフォーライフが行なわれました。
 
御堂筋をファチマのマリア様とともにロザリオを唱えながら歩きました。天主様とマリア様に感謝いたします。
 
参加された愛する兄弟姉妹の皆様、ドモルネ神父様に感謝いたします。
 
警護に当たってくださった警官の方々に感謝いたします。
 
来年はさらに多くの方々とマーチができることを期待いたします!
 












聖ピオ十世司祭会総長からの手紙 自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」の発表を受けて

2021年07月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」の発表をうけての聖ピオ十世司祭会総長から手紙が発表されました。日本語の訳をご紹介いたします。

Letter from the Superior General of the Priestly Society of Saint Pius X, in the light of the publication of the motu proprio “Traditionis Custodes”

聖ピオ十世司祭会総長からの手紙

自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」の発表を受けて

「このミサ、つまり私たちのミサは、私たちにとって、本当に福音にある高価な真珠のように、持ち物を全部捨てる覚悟があるもの、持ち物を全部売る覚悟があるものでなければなりません。」

親愛なる聖ピオ十世司祭会の会員および友人の皆さん、

自発教令「トラディチオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)とそれに添えられた書簡は、いわゆる聖伝主義の運動に激変をもたらしました。私たちは、極めて論理的に、次のことを指摘することができます。つまり、曖昧さと幻想と努力しても不可能ということに満ちた「継続性の解釈学」の時代は根本的に終わったこと、その時代は袖の一振りで脇に追いやられたということです。このような明確な措置は、聖ピオ十世会に直接影響を与えるものではありません。しかし、私たちが今の状況を深く考察するきっかけとしなければなりません。そうするためには、一歩離れて、古くて新しい問いを自らに問いかける必要があります。トリエント・ミサが50年たっても、いまだに不和のリンゴ【争いの種。ギリシャ神話から】であるのはなぜなのか、と。

まず第一に、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)は、天主の御国とサタンの国との戦いという、これまでに存在した戦いのうちで最も激しい戦いを、時を超えて継続するものであることを忘れてはなりません。この戦いは、カルワリオにおいて、私たちの主の勝利によって最高潮に達しました。主がご托身されたのは、この戦いのためであり、この勝利のためでした。私たちの主の勝利は十字架とそのいと尊き御血を通してであったため、その延長戦も衝突と対立が特徴となることは理解できます。すべてのカトリック信者は、この戦いに呼ばれています。私たちの主が「地上に剣を持って」(マテオ10章34節)きたと言われたとき、主はこのことを私たちに思い出させてくださいました。主の贖罪の犠牲による罪への決定的な勝利を完全に表現しているミサが、それ自体で逆らいのしるしである、ということは、驚くべきことではありません。

しかし、ミサが、教会自体の内部で逆らいのしるしとなってしまったのはなぜなのでしょうか? その答えは単純で、また、ますます明らかになっています。50年たって、その答えを裏付けるさまざまな要素が、事情を熟知しているカトリック信者の間で明らかになりました。つまり、トリエント・ミサは、第二バチカン公会議から生まれた教会論とは絶対に相容れないキリスト教的生活の概念、ひいてはカトリック教会の概念を、表現し伝えているからです。この問題は、単に典礼的なもの、美的なもの、純粋に技術的なものではありません。この問題は、教義的なもの、道徳的なもの、霊的なもの、教会学的なもの、典礼的なものすべてなのです。一言で言えば、教会生活のすべての面に例外なく影響を及ぼす問題です。それは信仰の問題なのです。

一方には、「全時代のミサ」があります。このミサは、この世に逆らい、勝利を確信している教会の紋章旗です。なぜなら、その戦いは、罪を滅ぼし、サタンの国を滅ぼすために、私たちの主がなさった戦いの継続に他ならないからです。主は、ミサによって、またミサを通して、カトリックの霊魂たちを主の陣営に引き入れられ、主の十字架と勝利の両方を彼らに分けてくださるのです。これらのことから、犠牲の精神と揺るぎない超自然的な希望という二つの要素を特徴とする、基本的に戦闘的であるキリスト教的生活の概念が導かれます。

他方には、パウロ六世のミサがあります。このミサは、この世と調和しながら生きることを望み、この世の要求に耳を傾けるという教会の承認を受けた表現です。このミサは、最終的には、もはやこの世と戦う必要のない教会を表しています。なぜなら、このミサには、もはやこの世を非難するものは何もないからです。ここにあるのは、もはやこの世に教えるべきことがない教会です。なぜなら、この世の権力に耳を傾けているからです。ここにあるのは、もはや私たちの主の犠牲を必要としない教会です。なぜなら、罪という概念を失ったがゆえに、もはや贖うべきものがないからです。ここにあるのは、もはや私たちの主イエズス・キリストの普遍的な王権を回復する使命を持たない教会です。なぜなら、この教会は、より自由で、より平等主義的で、より環境に配慮した、より良い世界を、純粋に人間的な手段によってこのすべてを、この地上に創造するのに貢献することを望んでいるからです。教会の聖職者たちが自らに与えたこの人間中心主義的な使命は、典礼に適合しなければならず、必然的に、同じように人間中心主義的で、聖なるものという概念を空虚にした典礼となるのです。

過去50年間のこの戦いは、7月16日に非常に重要な出来事として現れたのですが、単なる二つの典礼の戦いではありません。これは、カトリック教会およびキリスト教的生活についての二つの異なる対立した概念、つまり、お互いに絶対に譲れない概念、そして相容れない概念の間の戦いなのです。聖アウグスティノの言葉を借りれば、二つのミサは二つの国を打ち立てたと言えるでしょう。つまり、「全時代のミサ」はキリスト教の国を打ち立てたのであり、「新しいミサ」は人間中心主義的で世俗の国を打ち立てようとしているのです。

全能の天主がこのようなことをお許しになったのですから、それは、さらに大きな善のためであるのは確実です。第一に、トリエント・ミサを知るという身分不相応な幸運を得て、それから利益を得ることができる私たち自身のためです! 私たちは宝を持っていますが常に感謝しているという訳ではなく、おそらくその宝を保存しているのは大部分、単なる習慣からかもしれません。貴重なものが攻撃されたり、軽蔑されたりすると、その真の価値がよく分かり始めます。7月16日の公式文書の厳しさによって引き起こされたこの「衝撃」が、私たちのトリエント・ミサへの愛着を新たにし、深め、再発見するのに役立ちますように! このミサ、つまり私たちのミサは、本当に、私たちにとって、福音にある高価な真珠のように、持ち物を全部捨てる覚悟があるもの、持ち物を全部売る覚悟があるものでなければなりません。このミサのために自らの血を流す覚悟のない者は、このミサを捧げるに値しません! このミサを守るためにすべてを捨てる覚悟のない者は、このミサにあずかるに値しません!

今、カトリック教会を揺るがしているこれらの出来事に対する私たちの最初の反応は、こうあるべきです。カトリックの司祭として、またカトリックの信徒としての私たちの反応は、深くなければならず、弱々しく時には絶望的な論評ではなく、もっと広範囲に及ぶものでなければなりません。

私たちの主がトリエント・ミサに対するこのような新たな攻撃をお許しになったからには、主は別の目的をお考えになっていることは確実です。ここ数年、多くの司祭や信徒がこの聖伝のミサを発見し、このミサを通して霊的・道徳的な新しい地平に出会って、そのことが彼らの霊魂の聖化への扉を開いたということを疑う人はいません。

今回のミサに対する措置は、これらの霊魂たちに、彼らが発見したもののすべての結果を引き出させることになるでしょう。つまり、彼らは今、選ばなければなりません。彼らの使うことのできる識別の要素を全て用いて、情報を熟知したすべてのカトリック信者の良心にとって必要なことを選択しなければなりません。

多くの霊魂たちは、自らの信仰に影響を及ぼす重要な選択に自らが直面していることに気づくことでしょう。なぜなら、もう一度言いますが、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)は、教義的・道徳的な教えの全ての最高の表現であるからです。それゆえ、それは、カトリックの信仰をその全体において選択するかいなかということ、それを通して、十字架と犠牲と普遍的な王権を持つ私たちの主イエズス・キリストとを選択するかどうかなのです。それは、主のいと尊き御血を選択し、十字架につけられたお方に倣い、完全で厳格で首尾一貫した忠実さによって、最後まで主に従うか否かということなのです。

聖ピオ十世会には、現在、狼狽し、混乱しているすべての霊魂を助ける義務があります。第一に、私たちには、トリエント・ミサは決して地上から消えることはないという確証を彼らに提供する義務があります。これは、絶対に必要な希望のしるしです。さらに、司祭であれ、信徒であれ、私たち一人一人は、彼らに温かい助けの手を差し伸べなければなりません。なぜなら、自らが享受している富を分かつことを望まない者は、本当は、それを所有するに値しないからです。このようにしてのみ、私たちは本当に霊魂たちを愛し、教会への愛を示すことになるのです。なぜなら、私たちが主の十字架のために、そして主がその犠牲を通して公に表明された巨大な愛のために、勝ち取るすべての霊魂は、主の教会のために、そして主の教会を活気づける愛徳のために、真に勝ち取る霊魂となるからであり、この愛徳は、特に今の時代、私たちのものでなければなりません。

これらの意向を私たちがお委ねするのは、御悲しみの聖母に対してです。私たちは、聖母にこそ祈りをお捧げします。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストの犠牲(いけにえ)と主の十字架上の勝利という神秘を、聖母ほど深く理解しておられるお方はいないからです。主の苦しみと凱旋にこれほど密接に関わってきたマリア以上の人は存在しません。聖母の御手にこそ、私たちの主はカトリック教会全体を委ねられたのです。したがって、カトリック教会で最も貴重なもの、すなわち、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)という私たちの主イエズス・キリストの証しが委ねられているのは、聖母なのです。

2021年7月22日、聖マリア・マグダレナの祝日に、メンツィンゲンにて。
総長ダヴィデ・パリャラーニ神父

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