Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アマゾン・シノドスについての聖ピオ十世会総長のコミュニケ(報道発表)

2019年10月31日 | 聖伝のミサの予定

アマゾン・シノドスについての聖ピオ十世会総長のコミュニケ(報道発表)
Communiqué of the Superior General of the Society about the Synod on the Amazon
2019年10月29日 FSSPX.NEWS

以下の手紙が、聖ピオ十世会の全ての会員に送られました。

2019年10月28日、使徒聖シモンとユダの祝日に、メンツィンゲンにて

愛する聖ピオ十世会の会員の皆さん、
最近のアマゾン・シノドスでは、恐るべき場面が目撃されました。嫌悪すべき偶像崇拝の儀式が、新しい、かつ考えられない方法で、天主の聖所内において行われたのです。その後、この騒々しい会議の最終文書は、カトリック司祭職の聖性を攻撃し、教会の独身性の廃止および女性助祭の設置の両方を推進しているのです。まことに、私たちの敬うべき創立者、マルセル・ルフェーブル大司教が、公会議で最初期から働いていると特定していた背教の種が、新たなる効果を持って腐敗した実を生み出し続けているのです。

インカルチュレーションの名によって、異教の要素が天主の礼拝にますます入り込んでおり、私たちは再び、第二バチカン公会議の後の典礼が、どれほどこれ[異教]に完全にふさわしいのかを理解することができます。

これらの出来事への対応として、私たちは第三会員を含む聖ピオ十世会のすべての会員に対して、祈りと償いの日を守るよう呼びかけます。なぜなら、私たちは、聖にして母なる教会の聖性へのこのような攻撃に無関心なままではいられないからです。11月9日の土曜日に、すべての修道院などの施設において、大斎を守るよう求めます。私たちは、すべての信者を同じことに招き、私たちも子どもたちに祈りと犠牲を捧げるよう励まします。

2019年11月10日の主日には、聖ピオ十世会のすべての司祭が償いのミサを捧げ、すべてのチャペルにおいて、祈願祭の典礼から取られた諸聖人の連祷が、天主に教会を保護してくださるよう願うべく、また、そのような行為が教会にもたらすのを避けることができない罰から教会を容赦してくださるよう願うべく、歌われ、あるいは唱えられます。私たちは、すべての司祭の友人たちに、教会を愛するすべてのカトリック信者と同様に、同じことを行うよう要請します。

このようなこと行うのは、決して偶像的でも汎神論的でもない、私たちの主イエズス・キリストによって創立された聖なるローマ・カトリック教会の名誉が理由です。

総長ダヴィデ・パリャラーニ神父


アマゾン・シノドスで行われた偶像崇拝の償いのミサと諸聖人の連祷が行われます。東京:11月3日(主日)償いの大小斎(11月9日)

2019年10月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アマゾン・シノドスでは、偶像崇拝が天主の神殿の中に入り込んでしまいました。シノドスの最後の文書では、司祭の独身性を放棄させ、女性助祭の作ろうとし、司祭の聖性に攻撃が加えられました。第二バチカン公会議の種は成長し、その実りをますますつけようとしています。インカルチュレイションの名前で、異教の要素が天主の礼拝儀式に入り込もうとしています。

母なるカトリック教会の聖性に対する攻撃に、私たちは無関心でいることはできません。聖ピオ十世会は、総長の意向で、これらに対する祈りと償いの業に励みます。

とりわけ、11月9日には、聖ピオ十世会の会員は償いの大小斎を捧げることになりました。

11月10日(主日)には、司祭会員は償いのミサを捧げ、それぞれの教会あるいは小聖堂またはチャペルでは、諸聖人の連祷を歌うあるいは唱えることが決められました。これは、ローマで起こったことにより当然受けなければならない罰を容赦してくださるように乞い願い、カトリック教会を保護してくださるように懇願するためです。

友人の司祭の方々、カトリック教会を愛するすべての方々も同じことをされるようにご招待いたします。

東京では、償いのミサを一週間繰り上げて11月3日(主日)に捧げます。ミサの直後の御聖体降福式では、いつもの聖母の連祷の代わりに、諸聖人の連祷を行います。多くの愛する兄弟姉妹の皆様のご参加をお願い致します。

大阪では、11月10日(主日)の夕方のミサで、償いのミサを行います。(ドモルネ神父様が来日されます。)

聖母の汚れなき御心よ、我らを憐れみ給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ブラジルの引退司教クラウジオ・ウミスは、アマゾン・シノドスが第二バチカン公会議の結論であると説教

2019年10月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ブラジルの引退司教クラウジオ・ウミス(Cláudio Hummes)は、アマゾン・シノドスが第二バチカン公会議の結論であると説教で説明しました。
その意味で、聖ピオ十世会の総長と同じ考えです。
第二バチカン公会議については、これからまた、その本当の姿を後に深く見ていきましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父








ブラジルの引退司教アスコーナ・エルモーソは、アマゾンのパチャママ(母なる大地)は、聖母マリア様ではないと説教で説く

2019年10月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ブラジルの引退司教アスコーナ・エルモーソ(José Luís Azcona Hermoso)は、アマゾンのパチャママ(母なる大地)は、聖母マリア様ではないし、教皇フランシスコもパチャママとして提出したことを説教(これで三回目)で嘆きました。



アマゾン・シノドスでは、母なる大地(パチャママ)は語られましたが、ブラジルのアパレシーダの聖母や、グァダルーペの聖母については何も語られませんでした。
今年の5月には、ブラジルの大統領によってブラジルが聖母の汚れなき御心に奉献されましたが、それも無視されました。


聖母よ、我らを憐れみ給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父





教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマス Quas Primas」- キリストの御国におけるキリストの平和 -

2019年10月27日 | カトリックとは
教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマス Quas Primas

一、問題の提起

 教皇になってまもなく(Quas primas post initum Pontificatum)、私は全教会の司教に最初の回勅を送り、人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘しました。

 人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がったのです。そして、個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。

 私達が追求しなければならないのは、「キリストの御国におけるキリストの平和」です。私もこの点に関して、及ぶ限り力を尽くすことを約束しました。世界にキリストの平和を回復し、確立する最上の手段は、主に支配を委ねるよう努力することであると私は思っています。

 それでも人々のうちに、キリストおよび唯一の救いの道である教会に対する関心が芽生え、或いは盛んになってきたことは、よりよい時代への明るい希望を私の心の内に起こしました。これは救い主の支配を踏みにじり、その王国から追放されていた人々が、再び服従の義務につく準備をし、急いで帰ってくる印です。

 聖年を通じて行われた数々の忘れがたい出来事は、教会の創立者であり王である主に、輝かしい栄光を誉れをもたらしました。

 布教展覧会が催され、人々は教会が花婿の王国を地の果てまで拡大するため、不断の努力を傾けているのを目撃し、非常な感動を覚えたのです。そして宣教師たちの不屈の努力と犠牲によって、多くの国々がカトリックになったのを眺めると共に、まだ主の救いと慈しみの統治に服していないところがあることも知りました。

 また、聖年の間に、司教や司祭の引率でローマに来た人々は、ただ一つの目的、すなわち、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の墓と私の前で、キリストへの忠誠を誓うために来たのです。そして私が六人の証聖者、および童貞女を、その英雄的な徳を立証して聖人の位に上げたとき、キリストの王国の上に光が注がれたと感じました。聖ペトロ大聖堂における荘厳な列聖宣言の後、感謝の祈りを唱える信者の群が「キリストよ、御身は栄光の王なり!Tu Rex gloriae, Christe!」と叫んだとき、私の心は言いようもない喜びと慰めに満たされました。天主を離れた人々や国々が妬みと不和にあおられ、滅びと死に向かって急ぐときも、天主の教会は聖なる男女の家系を絶えずキリストのために、生み育てています。この地上の御国で忠誠と従順を示す人々を、天国の永遠の幸福にキリストは招きます。

 それに、この祝いの年は、ニケア公会議から数えて千六百年目にあたりましたので私は記念の催しを行うように命じ、私自身バチカンの大聖堂でこれを行いました。それは特別に喜ばしいことです。というのは、ニケア公会議は信ずべきカトリック教義の一つとして、御一人子が御父と一体であることを、公言し、決定した上、使徒信経に、「その国は終わることなし cuius regni non erit finis」という言葉を付け加え、キリストの王としての権威を確認したからです。

 この聖年は、キリストの王国を称える数々の機会を提供してくれました。ですから、多くの枢機卿、司教、信者がた個々の、或いは連盟の願いをいれて、私達の主、イエズス・キリストの王たる尊厳を祝う特別の祝日を典礼に加えて、この聖年を完結するのは、教皇権に相応しいことだと思います。

 尊敬する司教、司祭の皆様、このキリストの王位こそ私の大きな喜びであり、これについて少しお話ししたいと思います。私がキリストの王位について語ることを全て信者にわたりやすい方法で説明して下さい。そうすれば、私の宣言しようとする祝祭日が毎年祝われ、現在も将来も豊かな実りをもたらすことになるに相違ありません。

二、教義の解説、王たるキリストの支配権

1 キリストの王位の2つの意味

 キリストは、全てのつくられたものに優る、最高の地位を占めておられますから、比喩的な意味で「王」として称えられるのは、かなり以前からの習慣です。

 この意味で、キリストは「王として人々の知性を支配する」と言われます。これは、その知性の鋭さや知識の広さのためばかりではなく、キリストが真理そのものであり、すべとの人間がその真理をくみ、心から受け入れねばならないからなのです。

 キリストはまた「王として人々の意志をも司っておられる」のです。それは、キリストが、御自分のうちに聖なる天主の意志と人間としての完全に正しい意志を合わせて持っておられるため、ばかりでなく、キリストが霊能を持って、私達の自由意志をもっと高い行いに向かわせ動かしているからです。

 キリストが私達の心の王であると言われるのは、「一切の知識を越える愛」(エフェゾ3:19)そのものであり、主の慈悲と温良が、全ての人を引きつけているからです。まことに、イエズス・キリストほど強く広く愛された人間は今まで存在しなかっただけでなく、これからも存在しないでしょう。

 しかし、もし一層深く考えるなら、王の称号と権能は、比喩だけではなく、本来の意味で、人としてのキリストに属することを認めなければなりません。というのは、御父から「権力と栄光と御国」(ダニエル7:13ー14)を与えられているということは、人たるキリストについてだけしか言い得ないからです。つまり、<天主の御言葉>として見れば、御父と一体であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるからです。

2 聖書からの証明

 キリストが王であることは聖書の至る所に現れています。彼こそヤコブから出た統治者であり(民数4:19)、聖なる山シオンを統べる王として御父に任命され、全ての国民を遺産として与えられ、地の果てまでもその領土とされた御者(詩編2)です。また婚宴の賛歌は将来のイスラエルの王を最上の富と権力をもつ王と称え「おお天主よ、御身の王座はとこしえに続き、御身の王国の杖は正義の杖なり」(詩編44:7)と歌っています。これと似た句は他にも沢山見いだせます。

 もっとはっきりキリストの君臨が示されている句を見ましょう。主の王国は境が無く、正義と平和によって栄えると詠まれています。「彼の世、正義が栄え、深い平和があるだろう、彼は海から海まで、川から地の果てまで治めるだろう」(詩編71:7ー8)。

 預言者の証言もこれに劣らず沢山あります。まず、よく知られているイザヤの預言を挙げましょう。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた。その肩に王の印があり、その名は霊妙、顧問、大能の天主、とこしえの父、平和の君と唱えられる。彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を、法を正義を持って今もいつまでも固め強められる」(イザヤ9:6ー7)。他の預言者たちもイザヤと同様なことを言っています。エレミアはダヴィドの家から出る「正しい枝」が「王となって世を治め、栄え、公平と正義を世に行う」(エレミア23:5)と預言し、ダニエルもまた、天上に天主がお築きになる王国を告げています。「これはいつまでも滅びることなく、・・・立って永遠に至る」(ダニエル2:44)と。また少し後の章では、次のように言っています。「私はまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が雲に乗ってきて、日の老いた者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを給い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、無くなることが無く、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13ー14)。ザカリアは慈しみの王が「ロバに乗る、すなわちロバの子である子馬に乗る」と言い、エルザレムに入るにあたって、群衆が彼に向かって「正しい者、救い主」と叫ぶだろうと預言しています(ザカリア9:9)。後に福音史家によって、これが全うされたことが認められました。

 旧約聖書の中で見いだしたキリストの王位についての教えは、新約聖書のうちに一層はっきり教えられ、認められています。

 例えばお告げの史実に簡単に触れると、大天使はマリアに向かって子を産むことを告げて、その子は「主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は無窮のもの」(ルカ132ー33)と言っています。

 なおキリストも御自ら王としての権能について話しています。すなわち、義人と悪人の永遠の報いと罰について群衆に行った最後の説教の時、また、ローマ総督の公の質問にお答えになった時、また御復活の後使徒たちに全ての国民に教え、それに洗礼を授ける使命をお与えになったときなどです。このような機会にキリストは自分が王であると言われ(マテオ25:31ー40)、その称号をはっきりと示し(ヨハネ18:37)、天においても地においても、一切の権能が自分に与えられていることを荘厳に宣言されました(マテオ28:18)。特に最後の言葉は、彼の権能の偉大さと王国の無窮の広さを物語るものです。ですから、聖ヨハネが「地上の王の君」(黙示録1:5)を見て、「その上衣と股とに<王の王、主の主>という名が書かれていた」(黙示録19:16)と言ったのも不思議ではありません。御父が「万物の世継ぎにお定めになった」(ヘブレオ1:2)のは、このキリストなのです。キリストはこの世の終わりに「全ての敵を父なる天主の御足の下に置かれるまでに支配される」(コリント:25)のです。

 <すべての国に広がるべき、地上のキリストの国>であるカトリック教会が、毎年種々の典礼を使って、その創立者を、王、主、或いは諸国の王として一つの心をもって称えてきましたが、これも上述の聖書の教えから見れば当然でしょう。

 昔から詩篇を詠うとき儀式の中でキリストの王位を表す様々な称号を使ってきた教会は、今なお公式の祈りや、ミサ聖祭を捧げるとき、毎日これを用いています。この王たるキリストを絶え間なく賛美する点では東方典礼も私達の典礼と完全に一致しています。やはりこの場合においても「祈りの法は信仰の法」を示すのです。

3 キリストの王権の根拠

 主のこの尊厳と権能が何に基づくかと言うことをアレキサンドリアのチリロは次のようにはっきり示しています。すなわち「キリストが全被造物の上に主権を有しておられるのは強奪によって獲得したり、譲り受けたものではありません。御自らの本性と存在とによって、御自分のものなのです」(ルカ聖福音書注解)と。キリストの主権は位格的結合に基礎をおいています。従って天使や人間はキリストをただ天主として礼拝するのみでなく、人としてのその支配にも服しなければなりません。人たるキリストはその威嚇的結合によって全被造物の上に権力を獲得されているからです。

 しかし、私達に一層大きな喜びと慰めを与える考えがあります。キリストが生まれながらの権利だけでなく、救い主として獲得された権利によっても私達を支配すると言うことです。救い主にどれほどの恩を被っているかを忘れたものは次の言葉を思い出していただきたいものです。「あなたたちが・・・贖われたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、傷もなくしみもない子羊のようなキリストの貴い御血による」(ペトロ前1:18ー19)。

 私達はもはや自分自身のものではありません。なぜなら、キリストが私達を「高値で」(コリント:20)買われたからです。そして私達のからだも「キリストの肢体」(コリント:15)なのです。

4 キリストの王権の本性

 ここでキリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。贖い主の普遍的支配権については既に引用した聖書の箇所がはっきり証明しております。

 またイエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。福音書は主が法を既にお立てになったということを伝えていると言うよりもその法を定めたイエズスの姿を私達に示しています。その掟を守る人々はイエズスに対して自分たちの愛を示し、様々の形でその愛のうちに留まると言われています(ヨハネ14:15ー15:10)。

 また(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。

 それから、(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。

 しかしこの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。先に挙げた福音書の引用がこのことを十分に証明していますが、キリストは自らの行いによってそれを確証されました。当時はユデア人だけでなく使徒たちでさえ、メシアはイスラエルの自由を回復しその王国を再建するだろうと言う誤った期待を持っていました。イエズスはその様な空しい意見や希望を排斥されたのです。群衆が歓呼して取り囲み、イエズスを王にしようとした時も主はその栄誉を振り切って身を隠し群がる人々から逃げれられました。

 そして最後にローマ総督の前で自分の王国がこの世のものでないとはっきり宣言されました。

 その国に入るには生活を改めて準備し信仰と洗礼によらなければならないと福音書は言っています。その洗礼は外的な儀式ではあっても内的な再生をしるしもたらすのです。つまりキリストとその王国はただサタンと暗闇の力にだけ対立しています。そしてこの王国の国民は、富と地上の事物からの離脱、心の柔和、正義に対する飢え渇きを持つだけでなく、自分を捨て十字架を担って行かなくてはならないのです。

 キリストは御自分の御血で教会を贖い取られ、また人類の罪のために自分自身をいけにえとして捧げられ、常に捧げ続ける司祭なのです。ですから主の王職は贖い主と司祭の性格を帯びるのではないでしょうか。

 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。

 というのはキリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。それにもかかわらずこの世で生活された間は、主はこの支配権を行使されませんでした。そしてこの世の事物を所有したり管理したりすることをあえて望まず、それを所有者に当時も今も委ねておられるのです。「天上の王国を与えるものは、地上の王国を奪おうとされない Non eripit mortalia, qui regna dat caelestia」(御公現の賛歌より)。

 こうして贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。

 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。

 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。

 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。

 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。

 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。

「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。

5 その王国から生じる効果

 人間が公私両生活において、一度キリストの王権を認めるならば、信じがたいほどに社会は真実の自由、秩序と静穏、調和などの恩恵で満たされるのです。例えば主の主権は元首や為政者の人間的権威に宗教的な意味を与え、市民の服従の義務を高めるに違いありません。

 使徒聖パウロは妻は夫のうちにキリストを敬い、奴隷は主人のうちにキリストを崇めるよう命じましたが、人間として崇めるのではなく、ただキリストの代理者であるから服従するようにと忠告しました。「あなたたちは高く買われたのである。人間の奴隷にはなるな」(コリント:23)。なぜなら、キリストによって贖われた人が人間に服属するということは道理に適っていないからです。

 もし正しく選出された元首や為政者が支配権は自分のものではなく天主である王の命令によってその代理者としてこれを行っているに過ぎないのだという確信に満たされるなら、これらの人たちは必ずその権威を敬虔に賢明に行使するに違いありません。また法律を作成しそれを実施するうえにも共同善と国民の人間的尊厳を忘れることはないでしょう。そうすれば反逆の原因もなくなり静穏な秩序が確立され、社会が繁栄するでしょう。その場合には、国民が元首や為政者のうちに天主であり人であるキリストの姿と権威とを見るようになるのですから、元首や為政者が同じ人間であり、たとえ不適任で非難すべき点があるのが分かっても、それだけの理由で服従を拒むようなことはなくなります。

 更に一致と平和については一般に次のことが言えるでしょう。王国が広がり人類全体に及ぶようになれば人類も一致の絆を一層自覚するようになるに違いないでしょう。この自覚があれば、数々の闘争は予防され、全くその跡を絶ってしまうか、少なくともその過激さはなくなるでしょう。

 ですから、もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ十三世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。

「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

三、王たるキリストの祝日の設定

 全ての人々の上にこれらの祝福が豊かに実り、また、キリスト教的社会のうちにそれがいつまでも続くためには、救い主の王としての尊厳が出来るだけ広く認められなければなりません。

 このためには王であるキリストの特別な祝日を設けるのが一番良いでしょう。なぜなら、人々の心に信仰を起こさせ、内的な生活の喜びを感じさせるようにするには、教会のどんな公文書よりも信仰の奥義を毎年くり返して祝うほうが効果があるからです。そういう公文書が、信者の中でも比較的学識のある少数の人にしか理解されないのに反して、祝日はすべての信者を励まし教えます。書き教えるのはただ一度だけでしょうが、祝日は毎年、いいえ永久に語り続けるのです。文書は主に知性に働きかけるのみですが、祝日は知性と心、つまり人間全体によい影響を与えるのです。人は肉体と霊魂から成り立っています。従って目に見える盛大な祝日によって感動させられ、内的刺激を与えられるのです。そして様々の美しい儀式を通して天主の御教えを一層豊かにくみ入れ、自分のものとし、霊的生活の完成に役立てるようになるでしょう。

1 新しい祝日の制定は珍しくない

 時代の流れのうちに、このような祝祭日がキリストの民の必要に応じて次々と設定された来たことは歴史が教えています。例えば信者が一般的な危険にさらされ、これに対抗する力が必要となったとき、或いは忍び寄る異端の誤りを防ぐため、或いはまた、信仰の奥義や天主の恵みに対する尊敬を強めるために必要なときなどです。

 それで、キリスト教とがひどく迫害された初代教会の時代に殉教者に対する信心が行われ始めたのです。聖アウグスチヌスは「殉教者を祝うことが殉教への励ましとなるためである」といっています。また後に証聖者、童貞女、更に、寡婦に対して典礼による祝祭が始められました。これも各人に必要な徳を信者が熱心に求めていく上に非常に大きな効果をもたらしました。しかしそれより一層豊かな実りを生じたのは聖母マリアの種々の祝日を設けたことです。その結果人々は天主の御母、身近な代願者に対する信心に大いに成長したばかりでなく、贖い主が十字架から与えた聖母を自分たちの母として、更に熱心に愛するようになったのです。聖母マリアや聖人達に対する公の正しい信心に由来する多くの祝福のうちでも特に著しいものは、教会が誤謬や異端からいつも完全に守られた来たことです。この点に関する天主の御摂理はただ感嘆するほかありません。天主は悪からでも常に善をお引き出しになります。天主は人々の信仰や敬虔さが弱められたり、カトリックの真理が誤った教えによって攻撃されるようなことさえ、たびたびお許しになりました。しかし常にその結果真理が新しい光を帯びて輝き、人々の信仰や信心は惰眠からさまされ、一段と強くなっていくのです。

 比較的近代になって教会暦に入れられた祝日も、同じような理由で起こり、同じような効果をもたらしています。御聖体の秘蹟に対する尊敬と信心が冷えてきたとき、御聖体の祝日が設けられました。これは荘厳な行列やそれに続く八日間の祈りによって、キリストを再び公に礼拝するように人々を促すためでした。またイエズスの聖心の祝日が設けられたのは、ヤンセニズムの暗さと陰鬱な厳格さに圧倒され、人々の心が冷たくなり、天主の愛と救いの希望を全く失ってしまったときでした。

2 世俗主義に反対してこれを設定する

 ですから全カトリック信者がキリストを王として崇敬することを私が定めたのも、現代的要求に応えるものであり、同時に社会を毒しつつある病害に対する特別な薬としたいからです。

 現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。

 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。

 そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。

 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。

 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。

 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。

 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。

 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。

 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。

 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。

 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。

3 その設定の準備

 この祝日の設定のために、前世紀の末以来、幸いにも準備がよく整えられてきました。ご存じの通り、世界各地でこの信心を裏付けるたくさんの本が種々の国語で書かれ、またイエズスの聖心への家庭奉献によって、キリストの主権と支配が認められてきました。今やこの美しい習慣に従って無数の家庭が聖心に奉献されています。家庭だけではありません。都市も国家もこの奉献を実行に移してきました。いいえ、全人類も至聖なる聖心に奉献されたのです。この奉献は千九百年の聖年にあたりレオ13世教皇によって行われました。

 また最近頻繁に行われている聖体大会も、人間社会に対するキリストの王権が荘厳に認められる上に大いに寄与しました。聖体大会の際には、各教区、地方、国家さらに全世界の人々が、秘蹟のうちに隠れてましますキリストを、こぞって尊敬し礼拝するために集まります。教会で一緒に説教を聞いたり、顕示された御聖体を公に礼拝したり、荘厳な行列を行ったりして、天主から王として与えられたキリストを皆共に称えるのです。不敬虔な人々は主が自分のほうにおいでになったとき、受け入れるのを拒みました。しかしキリスト教徒は今、そのイエズスを教会の沈黙の隠れ家からお連れして、歓呼のうちに町を歩み、全ての王的権能を再び主のものにしようとしています。これは天主から来る一つの息吹によるものと言えましょう。

 これらの計画を完成するために、まさに終わろうとしている聖年はこの上ない機会となりました。というのは、この聖年の間慈悲に富まれる天主は信者の知性と心に、あらゆる理解を超える天の祝福への招きと、成聖の聖寵を再び与え、またより高い賜物を望む新たな刺激を起こして正しい道を歩み続けるように強めて下さったからです。私に宛てられた数々の願いを見、或いはこの聖年に行われた様々なことを顧みるにつけても、キリストを全人類の王として祝う、特別な祝日を定める喜ばしい時がついにやってきたと考えられます。最初に述べたように、全ての聖人のうちで感嘆されるこの王は今年地上でも光輝溢れるみいつを称えられました。それはこの王の軍隊の一部が新たに聖人の列に加えられたからです。また、人々が展覧会の出品物から御国を発展させるための宣教師たちの事業や苦労を眺め、それらによってもたらされたキリストの勝利に感嘆したのも、やはり今年でした。そして今年はまたニケア公会議千六百周年を荘厳に祝うことによって、キリストの王国の基礎である、<人となられた御言葉>の御父との同一本性(consubstantialitatem)が裁可されたことを新たに記念しました。

 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。前任者ピオ十世が毎年更新することを命じた至聖なるイエズスの聖心に対する全人類の奉献の更新も、毎年この日に行うように定めます。しかし、今年に限り、それは今月31日に行います。なお当日、王たるキリストの誉れのため、私は教皇ミサを執行し、その奉献が私の前で行われるようにします。この聖年を閉じるにあたり、永久不滅の王であるキリストに私の心からの感謝を表すのに、これ以上ふさわしい方法はないと思います。この機会に私は全カトリック信者と共に、この聖年の間、教会、全カトリック信者に注がれた聖寵に対して私自身感謝の念を表したいと思います。

4 その設定の動機

 ところでキリストの王としての権威を間接に示し祝う祝日が他にもあるのにどうしてこれとは別に王たるキリストの祝日を制定したかということは、今さら説明する必要もないと思います。これについてはただ一つのことに注意すれば十分でしょう。すなわち、今までの主の祝日は全部その礼拝の対象、いわば素材的対象(対象そのもの)はキリストのペルソナですが、形相的対象(観点)は、キリストの王権と王の称号ではありませんでした。

 私がその祝日を日曜日にしたのは、ただ聖職者のみがミサ聖祭や聖務日課によって礼拝を捧げるのではなく、信者たちも参加することが出来るようにしたために他なりません。日曜日ならば信者たちは日々の仕事から解放され聖なる喜びの精神をもってキリストに対する服従を公に表明することが出来るからです。また他の面でも十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日ではないかと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

 尊敬する司教の皆様、そこで毎年その祝日の前に、各小教区で何日か特別に説教が行われるように配慮して下さい。これはあなたたちの義務です。そうすれば信者たちもその祝日の性質、意味、また重要性を聞いたはっきり分かり、天主である王の支配に忠実と熱誠を捧げるものにふさわしく自分の生活を律し、整えることだ出来るでしょう。

5 その祝日から生じる効果

 尊敬する皆様、私は今この書簡を結ぶにあたって、王であるキリストに対する公の崇敬から期待される教会と社会とに対する効果、個人に施される恵みを簡単に列挙してみたいと思います。

 まずこのように、キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。

 また国家は同様の自由を男女両修道会にも与えなければなりません。これら修道会は司教達の有力な助け手となって、キリストの王国を広げ、確立するために大きな働きをしています。というのは、修道者たちは聖なる三つの誓願を持って、この世の三つの欲望と戦い、一層完全な生活を公言することによって天主なる創立者が教会の印とされたあの聖性が絶えず人々の前に輝きを増し、認められるように力を尽くしているからです。

 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。

 キリストの王としての権威は全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上それは当然なのです。

 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。

私達の主キリストには、
(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして
(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また
(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、
私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。

 従ってキリストが人間の知性を支配するのはふさわしいことです。それで人間の知性は謙遜に啓示された真理と、キリストのみ教えに完全に従い、これを奉じなければなりません。

 そしてまた、キリストが意志をも支配するのはふさわしいことです。意志は、天主の法と掟に従わねばなりません。

 更にまた、キリストは心の王でもなければなりません。従って心のなすべきことは本能的な要望を捨てて全てに越えて天主を愛し天主だけを追い求めることです。

 また手足と身体においてもキリストを王としなければなりません。それらは道具であり、使徒パウロの言うように、天主のために正義の武器となって(ローマ6:13)、霊魂の内的聖化のために仕えなければならないからです。

 信者がこれらの真理をよく考えよく悟るようにすれば、人々はもっと容易に完徳に向かって進むでしょう。それで未信者たちが自分の救いのためにキリストの甘美なくびきを求めてこれを受け入れるように、また天主の慈悲によって信者となった私達もそのくびきを不承不承耐えるのではなく、かえって望みと愛と信心を持って担うように私は切に願っています。そして私達が天主の王国の法と一致した生活を営み、その実りを溢れるばかりに受け、キリストによって忠実な良い僕のうちに数えられ、天上の王国においてキリストと共に永遠の幸いと栄光に与ることが出来ますように、私は切望しています。

 主イエズス・キリストの御降誕の大祝日が間近に迫っているこの時にあたり、尊敬する皆様、この書簡を父の愛の印として受け取り、天主の恵みをもたらす教皇掩祝をお受け下さい。私はこの掩祝を愛の心をもって聖職者の皆様、ならびに信者の皆様に送ります。

 聖年の1925年12月11日

ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目

ピオ十一世教皇


POPE FRANCIS IN JAPAN 2019 テーマソング替え歌

2019年10月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
POPE FRANCIS IN JAPAN 2019 テーマソング替え歌

Keep the Holy Faith 〜 時のしるし 〜
Lyrics:

はるか時のかなた 見えない天主 ぼくらを愛して 全てを創った!
地獄の苦しみから ⼈を救おうと 人となって生き 血を流された!
とわの生命のにために 我が罪を悔やんで泣こう!
主の声を知らせて きっと出会う真理 めぐりあう愛の天主に

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.

ぼくも主と歩く この十字架の道を 何度もくじけて あきらめそうになるけれど
どんな坂道でも 震えた夜も いつかたどり着く 光がさす⽅へ
同じ時の中 ただ⼀度の⼈⽣で
マリア様に祈るよ 聖母とつないだ⼿を ⼆度と離さないで

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.
Keep the Faith with the help of God.

We keep the Faith We keep the Faith We keep the Faith.
Keep the Holy Faith ʻcause Jesus is God.
Protejamos toda la Fe Protejamos toda la fe Protejamos toda la Fe.
Keep the Faith with the help of God.
Keep the Faith with the help of God.


願わくは、教皇様が、キリストの代理者として、
三位一体の天主、イエズス・キリスト、母なる教会、罪、霊魂の救い、天国、地獄、超自然の生命、天主への信仰・礼拝・希望・愛徳、御聖体、十字架、秘跡、イエズス・キリスト、来世、天主教の話をされますように!

二酸化炭素、森、水、海、動物、命、つながる世界、夢、未来、自然環境、地球村、母なる大地、温暖化、環境保全、平和、人権、貧困、人間に対する信仰・希望・愛、自由・平等、兄弟愛、民主教ではなく。



教皇の最も重大な使命は「イエズス・キリストから、使徒を通して私たちに伝えられた超自然の信仰の遺産を、私たちに、後世へと伝える事」、永遠の命を得るために必要な信仰を教えること。

2019年10月24日 | カトリックとは
2019年10月14日(月)殉教者教皇聖カリスト1世のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月14日、教皇殉教者聖カリストのミサをしています。

そこで今日は、

⑴聖カリスト教皇様の生涯を垣間見て、

⑵教皇様の務めというのは一体何なのか?簡単に黙想する事にしましょう。

⑶そして、11月に来られる教皇様の訪日の為にたくさんお祈りをする、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1点は、教皇聖カリストはどういう人か?という事を簡単に申し上げます。

ローマの出身のローマの人で、アントニヌス・ヘリオガバルス(Antoninus Heliogabalus 203年 - 222年)というローマ皇帝の元で教皇になりました。


信徒会長が作って下さっているミサ典書にも書かれていますけれども、四季の斎日の日付を確定した方で、「使徒継承の大小斎を、この日に守る」という事を決めました。「年に4回、水・金・土」と。「そしてこの大小斎は、全てのカトリック教徒が守らなければならない」と定めました。

そしてトランステヴェレの聖マリア大聖堂を建設しました。また、アッピア街道にあった墓地も拡張しました。多くの司祭、殉教者をそこで葬る為です。そこでそこにある墓地は、今では聖カリストのカタコンベと呼ばれています。

司祭殉教者であった、カレポディウスという殉教者の遺体を見つけ出さなければならない、という事を霊感を受けて、そしてこの聖人の遺体を発見しました。そしてこの遺体を埋葬する為の墓地を造り、そしてカレポディウスの墓地という名前が付けられました。

教皇として特に主だった事として、墓地を造ったり、あるいは四季の斎日の断食の日を決めたのみならず、多くの人をカトリックの信仰に導きました。特に有名だったのは、ローマの最高役職の執政官であったパルマチウス(Palmatius)という有名な人で、彼をカトリック信者へ導き、洗礼を授けました。また元老院の議員であったシンプリチウス(Simplicius)にも、洗礼を授けました。また特にローマで有名だったフェリックス(Felix)とブランダ(Blanda)と言う人々にも洗礼を授けました。

しかしこのローマのエリートたち、指導階級に洗礼を授けたという事で、その怒りを買った聖カリスト教皇様は、ついに投獄されて、足に枷をはめられました。そしてその教皇様が、聖カリストが洗礼を授けたこの元老院、あるいは議員、あるいは著名な人々も、遂には殉教する事になります。

牢獄にいて、ただその苦しみを捧げていたのみではありませんでした。牢獄にいて、ローマ兵士が、腫瘍で全身が覆われていて、とても苦しんでいたプリバートゥス(Privatus)という兵士がいたのですけれども、その兵士を哀れに思って、奇跡的に彼を癒します、治癒します。するとこの奇跡を受けたローマ兵士は、キリストのその力を知り、「洗礼を受けたい」と思い、そして回心します。遂に彼も殉教します。

ローマ教皇として、ローマの著名な人々を信仰に導いた、イエズス・キリストの教えに服従させたのみではありませんでした。更に12月の四季の斎日の土曜日に、教皇として5年間在期間の間に、5回叙階式を行ないました。その叙階式の間に合計すると、16人の司祭を叙階し、そして4名の助祭を叙階、そして8名の司教も聖別しました。

牢獄に閉じ込められていたカリストは、多くの苦しみを捧げていましたが、特にひどかったのが、食べ物が与えられなかった為に、その飢えと渇きでした。そして体はますます弱り果てて、遂に井戸の中に捨てられて、そしてローマ皇帝アレクサンドルの元で殉教します。西暦222年の事でした。

この遺体はすぐに探されて、カレポディウスの墓地に埋葬されたのですけれども、しかし後に、自分が造ったトラステヴェレの聖マリア大聖堂の主祭壇に、聖遺物が移されました。1960年には、カレポディウスの墓地にあった、その元々の聖カリストの墓地が発見されました、「確かに、ここに埋葬されていた」と。

⑵では、イエズス・キリストの信仰をローマのエリートたちに、指導者たちに伝えて、彼らをイエズス・キリストに服従させて、そしてイエズス・キリストに従うようにさせ、そして使徒たちから伝えられた使徒継承の教えを、特に大斎小斎の教えを規定した、その聖カリストは私たちに、教皇の務めというのは一体何であるという事を、何と教えているでしょうか?

聖ペトロはイエズス様から、「兄弟たちの信仰を固めよ」と命令を受けました。

教皇様の最も重大な使命は、「使徒たちから伝えられた、イエズス・キリストから伝えられて、そして使徒を通して私たちに伝えられた信仰の遺産を、そのまま、イエズス・キリストが教えたまま、私たちに伝えて、それを解説して、それを説明して、そして私たちに伝えるのみならず、後世へとそれを伝達する事」です。

イエズス・キリストは使徒たちに言いました、「全世界に行って、私の教えた事を教えよ。聖父と聖子と聖霊との御名によりて、洗礼を授けよ。もしも信じて洗礼を受けるならば、救われる。しかしそうでないならば、滅ぼされる。」

全世界に行って教皇様は、イエズス・キリストの教えを伝える事を、教える事を命令されました。イエズス・キリストは私たちに何を教えてきたでしょうか?

イエズス・キリストは私たちに、天主が在す、全ての人類を創った唯一の愛に在す天主が存在して、その天主は私たちの父であって、共通のお父さんであって、私たちを子供として愛しておられる。そして愛するがあまりに聖子を、天主聖子をこの世にお与えになった。

「与えた」という事はどういう事かというと、私たちがそれを自由に、必要な時に、私たちがそれを楽しむ事ができる、という事で、全く私たちのものとされた。

どのようにされたかというと、私たちを愛するがあまりこの聖子は、私たちの人間本性を取って、この世で生活されて、私たちの代わりに御血を十字架の上で流されて、そして贖いをされた。

「友の為に命を与えるほど大きな愛はない。」イエズス・キリストは私たちの為に、御自分の命を与えられた。そしてこの世の終わりまで、私たちを愛するが為に留まり給う。そして私たちの為に、天国の門をもう一度開いて下さった。超自然の命、天主の命への参与の特権を下さった。

聖パウロは言います、「私は、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストしか伝えない、教えない。私の宣教するものは、十字架に付けられたイエズス・キリストだけだ。その他のものは塵芥だ」と。

なぜかというと、私たちはイエズス・キリストのこの十字架のいけにえによって、天主の三位一体の養子となったからです。天主三位一体が、私たちの霊魂に特別にお住みになろう、私たちの心をその宮殿として、皇居として、私たちの霊魂に住み給う、そして私たちのこの地上の生活から既に、天国への喜びを始めよう、と思われたからです。

イエズス・キリストは私たちに、超自然の命を、永遠の命の事を教えて下さいました。ですから、「貧しい者は幸いなるかな。天の国は彼らのものである。」「私の為に迫害を受ける者は幸いなるかな。喜べ、彼らの報いは天国では最も大いなるものである」と仰いました。

イエズス・キリストの教えはまさに、この地上での事ではなくて、「私たちが天国に行く為に、その為に、天主がどれほどお愛しになっているか」という事に尽きます。

この事を見ると、イエズス様は、人となった天主は、イエズス・キリストが私たちに教えて、そして使徒から教えられた信仰の遺産というのは、環境問題の事ではないという事が分かります。あるいは小さき者が差別されているとか、あるいは人権問題という事ではないという事がよく分かります。

イエズス様の教えたものは、天主の権利です。私たちは天主に、三位一体に、この世を創り、私たちを愛して下さっておられる、極みなく愛して下さっている天主を父として、それをこの愛を信じて、私たちは天主を礼拝する義務がある。その天主を知り、礼拝し、この天主に希望し、天主を愛する義務がある。私たちの義務について、天主を愛する義務について、十戒について、教えられました。愛の掟について教えられました。

そこで、教皇様の務めは明らかです。
聖パウロも言う通り、「全てを、キリストにおいて復興させる。全てを、キリストにおいてもう一度秩序立てる。天主に向けて秩序立てる。贖いの業を完成させる。」
「私は、あなたたちの中にあって、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した。」
「実に、主イエズス・キリストを知るというすぐれたことに比べれば、その他のことは何によらず損だとおもう。私はかれのためにすべてを損する。そしてキリストを得るためには、すべてが芥だと思う。」
聖ペトロが言ったように「救いは主イエズス・キリスト以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」

⑶では、私たちは今回、どのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?

今ローマで、アマゾンのシノドスというのが行なわれていますが、色々な高位聖職者たちから、枢機卿あるいは司教たちから、警告の声があがっています、「そのアマゾンのシノドスに参加している人たちの発言は、カトリック教会の信仰の遺産ではない。別の宗教の教えであって、使徒継承の教えではない」と。

ですから私たちはまず、教皇様が、カトリックの信仰を、信仰の遺産を正しく私たちに伝えて下さる事ができるように、御恵みをお祈り致しましょう。

第2に、教皇様が日本に来られる時に、私たちは特に教皇様の為に、そして日本の方々の為にお祈り致しましょう。なぜかというと、「信仰」というのは、超自然の御恵みだからです。私たちがいくら説得しても、もちろん私たちはその信仰への準備をする事ができますけれども、しかし超自然の天主、超自然の生命、超自然の目に見えない三位一体の神秘、イエズス・キリストの神秘を、超自然的に信じる事は、これは天主の御恵みであるからです。ですからこの超自然の御恵みを日本の多くの方が受けるように、お祈りを致しましょう。教皇様が日本に来られるというのは、その御恵みを受ける良き機会となりますように。

そして最後に、ファチマでは子供たちにマリア様が色々なビジョンをお見せになりました。それを見た子供たちは、「教皇様の為にたくさん祈らなければならない」と理解しました。秋田でもマリア様は仰いました、「教皇、司教、司祭の為にたくさん祈りなさい」と。

特に10月はロザリオの月でもありますし、特にこの教皇様の来日の準備の為にも、教皇様の為に、たくさんお祈りをする事に致しましょう。聖カリスト教皇殉教者に、このフランシスコ教皇様の為に、特に御取次ぎを乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



カトリックの義化の効果:「成聖の恩寵」私たちの霊魂に常駐する聖寵があたえられ、私たちの霊魂は、天主の神殿となる。天主の友となる。功徳を積む事ができるようになる。天国の栄光の種を、成聖の恩寵として持つ。

2019年10月24日 | カトリックとは


2019年10月13日(主日)聖霊降臨後第18主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年10月13日、聖霊降臨後第18主日のミサです。明日もミサがあります。10時からです。祝日の為に少し遅くなり、10時から始まります。


「子よ、安心せよ、お前の罪は赦された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、私たちの主が本当になさった、歴史の一コマを福音書で読みました。

ある半身不随者が、友人によって担架に担がれて来て、そしてイエズス様の元に近寄って、「何とか治癒して頂きたい」と思ってやって来ました。するとイエズス様は、彼らの信仰を見て、彼らが思っていなかった、更にもっと良い事をされます、「お前の罪は赦された。子よ、心配するな。安心せよ。」

今日この事実を見て、「イエズス様が本当に罪を赦される」、これをカトリックの言葉で、義人とする「義化する」と言いますが、この事について、

⑴一体カトリックは、カトリック教会は何を教えているのだろうか?罪を赦す、「イエズス様は罪を赦す」というのはどうやって?罪を隠すのではないのだろうか?

⑵あるいは、「罪を赦す」というのは、どうやって赦すのだろうか?聖寵を私たちの中に注ぐ事によって、罪を赦されますが、それはどうやって行なわれるのだろうか?

⑶次にそれの結果、一体私たちの心にはどんな変化が起こるのだろうか?

特に今回は3つの変化を黙想して、これほどの素晴らしい事を私たちに行なって下さる、半身不随者だった私たちが罪を赦された、その事が行なわれた、私たちにも行なわれたという事を見て、天主を讃美して、そして聖パウロと一緒に、このような御恵みを、聖寵を下さったイエズス様に、イエズス様において下さった天主に、感謝したいと思っています。


⑴ではまず第1に、「罪が赦される」というのはどういう事なのでしょうか?カトリックの教えによると、罪が赦されるというのは、ただ罪が、私たちが罪人であるというのはそのままで、天主と人間との関係だけが変わって、でも私たちは変わらないという事なのでしょうか?

違います。イエズス様は、天主は、私たちの中に最高の奇跡を起こします。「私たちの罪が赦されて、私たちはもはや悪魔の奴隷ではなくなって、天主の子供となる」という大奇跡が、罪の赦しが行なわれる時に生じます。

ただ単に、私たちのそのまま残って、ピカピカのカバーで隠して、というのではなくて、本当に、私たちの霊魂がピカピカになります。

聖トマス・アクィナスによると、「私たちが『義化される』というのは、ちょうど例えば、壁が白いというのには、何かの『白さ』があって、これは白い。それと同じように(その「白さ」というのを哲学用語で、「形相」と言いますけれども)、私たちを義とする『形相』が、義とするものが与えられて、私たちは本当に、義となる。本当に聖となる。単なる、単に隠されるのではない。覆われるだけではない。内部から、本当にそうなるのだ」と教えています。

イエズス様は、「私が罪を赦す事ができないと思っているのか。ただ隠すだけだと思っているのか」と言って、この半身不随の人を治します、「起きよ。さぁ、床を取って家に帰れ。」

その時に、「治れ。お前は健康だ」と言って、本当はまだ体が動かないのに、「健康だ」と、名前だけ付いたのでありませんでした。本当に健康が与えられて、本当にシャキッと立って、家に帰ってしまったのです。

それと同じように、私たちの霊魂も、本当に健康になり、本当に聖となります。義とされます。

⑵一体これはどうやって起こるのでしょうか?

聖トマス・アクィナスによると、「聖寵」が、天主の御恵みが、聖なる恩寵が、私たちの霊魂に注入されて、この「聖寵」という超自然の御恵みが、私たちの霊魂を動かして、天主を信じるように、そしてまた罪を忌み憎むように動かして、そして私たちの霊魂は、その聖寵の助けに協力して、そして罪の赦しが行なわれます。罪の赦しが成立します。一瞬の間に。

そしてその私たちが罪を赦されると、聖寵の中でも特別に、「成聖の恩寵」と言われる、私たちが大罪を犯さない限り私たちを離れる事のない、私たちの霊魂に常駐する、いつも留まる聖寵が、恩寵が、私たちに宿ります。私たちに存在し始めます。天主の命への参与です。超自然の御恵みで、私たちを聖とする特別の御恵みです。

これを私たちが受ける事によって、私たちは罪の赦しが完成します。もはや罪人ではなくなります。本当に聖なるものとなります。

⑶では、この結果は何でしょうか?

今日を取り上げたいのは、3点あります。

1つは、まず「この御恵みが、いつも私たちに常駐する、常に存在する御恵みだ」という事です。そこでこのこれは、この私たちがこの聖寵を常に持っているという事は、言い換えると、「特別なやり方によって、天主聖父・聖子・聖霊、三位一体が、私たちの霊魂に住まわれる」という事です。

つまり、私たちの霊魂は、天主の神殿となる。天主がそこにいつも在し給う、御聖櫃になる。天主がそこに住まわれる、天主の王宮になる。公教要理では「神殿」と言います。そして私たちが天主三位一体のまどいの中に入って、そして天主をますますよく知り、天主を愛し、そして天主との親しい、緊密な生活を送る事ができるように変わります。

イエズス様は言いました、「もしも誰かが私を愛するならば、私の聖父は彼を愛するだろう。そして私たちは(つまり聖父とイエズス様は)、彼のところにやって来るだろう。そして彼のところに、私たちの住まいを造るだろう」と、聖ヨハネの福音書にあります。

天主聖父が私たちの、私の霊魂に居て、聖子も私の霊魂に居て、聖霊も私の霊魂に居る。「私はお前に留まり、お前も私に留まる」と言った、そのイエズス様の言葉が実現します。

「天主の神殿になる。」よく私たちは何度も聞きますけれども、しかし「天主の神殿」という事をよく考えれば考えるほど、ものすごい御恵みです。

何という友が、何というお客様が、何という方が、私の霊魂に来られるのでしょうか! 三位一体の、聖父・聖子・聖霊が、常に留まり給う。天主はこれほどまで近くに在す、という事です。

「私たちの霊魂に天主が居る」というのは、たとえ目に見えなかったとしても、そして霊的なものだったとしても、本物です。本当に、実際に、起こっている事です。

「天主が私たちの霊魂に居る」というのは、天主の遍在と言われていて、創造主として、被造物の全てのものを在らしめているが故に居るという、「天主の遍在」とは違うものです。これを更に超える、超自然の御恵みで、知的な人間と天主のみが、霊魂の最も奥深くに、特別なやり方で、その住処を造るという、特別な在り方を、天主様は私たちの霊魂にされるのです。

これは単に、「あぁ、今日は教皇様の為にお祈りをするから、教皇様の事を考えよう」とか、あるいは、「今日は、私はお母さんの為に、お母さんを特に慕っているから、私の心にお母さんがいつも居る」というような、そういうようなやり方ではなくて、本当の本当に、実際に、「天主三位一体が、私たちの心に住まわれる」という現実です。

これが第1の結果です。

第2は更に、天主が私たちの心に住まわれる、私たちの心を住処とするのみならず、「私たちを友として取り扱う」という事です。

イエズス様は既に使徒たちに言いました、「私はお前たちを、しもべではない、友と言う。」

公教要理によるとやはり、「成聖の恩寵によって私たちは、天主の友となる。」

聖トマス・アクィナスは言います、「でも友となる為には、何らかの平等性がなければ、友達とは言えないんじゃないか?また友となるには何か、特別の何か共通、共同に何かを持っていないと、共通に持ってないものがないと、友じゃないんじゃないか?」

「例えば、いくら好きだと言っても、ローソクを友だ、と言う事はできない。しかし天主と人間の間には、人間とローソクとよりも更に、無限の差があるにも関わらず、何で友となるだろうか?あり得ない。」

聖トマス・アクィナスは言います、「いや、天主は聖寵によって、天主の命に私たちを参与させて、私たちを罪人から本当に、天主の聖の高みまで上げて下さるので、ある意味で、確かに天主と人間では無限の差がありながらも、私たちに与えられた御恵みによって、ある平等性が与えられる。天主の命を生きる、『成聖の恩寵にいる』という平等性にまで高められるので、天主は私たちを友とされる。私たちは天主を友とする事ができる。友達とする事ができる。そして同じ天主の命を共通に持つので、本当の友情が成立する」と言います。

天主はどれほど良い御方で、どれほど私たちを高めて下さるのでしょうか。

ですから私たちは、友達の為ならば、一肌二肌、火の中水の中、もしも友達がこれを望むなら、どんな事でもやってやろうと思うではないでしょうか。友達から頼まれたら、拒めないのが日本男児ではないでしょうか。

ですからイエズス様も私たちを友として、私たちもイエズス様を友とするならば、イエズス様の事を、どれほど御望みの事を私の望みとし、イエズス様の嫌なものを私たちも嫌だ、と思うようになるのではないでしょうか。

イエズス様は言います、「もしもお前たちに命じる事をするならば、お前たちは私の友だ。もしも私を愛するならば、彼は私の言葉を守るだろう。」

第3には、「この成聖の恩寵によって、私たちは功徳を積む事ができる」という事です。
成聖の恩寵によって私たちは、功徳を積む事の「原理」を獲得します。これは何かと言うと、「天主の命」であって、「天主との友情」であります。

でもイエズス様も仰ったではないでしょうか?私たちはイエズス様から言われた事を全てやったとしても、当然やるべき事をやったのだから、一体何で功徳とかを、褒美をもらう事ができるだろうか?

聖トマス・アクィナスはこう説明します、「動物や、あるいは命がないものは、天主の法則によって、ただ考えもなく、自由意志もなく、ただそのまま動く。動物も本能によって、自由意志のないまま動く。しかし人間の場合には、理解して、自発的に、自由意志で、愛が故に、それを成すので、そこに私たちの功徳の、報奨を受ける理由が存在するのだ」と。

そして、私たちが持っているその「聖寵」というのは、「御恵み」というのは、「天国での御恵み」、「天国での報いの種」なのです。と言っても、種であったとしても、全く同じものなのです。ちょうどリンゴの木が、リンゴの実がたくさん成っているリンゴの木が青々と茂っていると、種は違うように思えても、でも同じリンゴであると同じように、私たちもその栄光の種を、聖寵として、成聖の恩寵として持っています。いつも持っています。そしてこの種がますます大きくなって、実を結んで、永遠にそれを楽しむ事ができるように、私たちがそれを育つようにとされています。

天主は私たちに本当に、この種を下さいました。

今、今日この黙想を提案するのは、カトリックの教えによると、「イエズス様が私たちを本当に義化する」という事です。

「私たちを聖として、そして三位一体が私たちの霊魂にいつも住まわれている。そして友となるほど高めて下さる。天主の命を私たちが永遠に受ける事ができるようにと、もうその下準備を、もう心の中に下さっている、既に天国が始まっている」という事です。

何という御恵みでしょうか。お祈りをする時に、「天主は私たちの心に居る」という現実を思えば思うほど、どれほどお祈りがしやすくなるでしょうか。「天国が私たちの心で、もう始まっている」と思うと、どれほどそれが近くに感じるでしょうか。

今日はファチマのマリア様の日ですから、最後に現れた日ですから、マリア様は最後に、とても御悲しみの顔で御現れになりました。これほどの愛を、天主が私たちに全人類に与えたにも関わらず、私たちを友として、永遠の命に引き寄せようとしたにも関わらず、聖寵を与えようとするにも関わらず、多くの人はそれを拒んでいます。信じない人、礼拝しない人、希望しない人、愛さない人。そして人類は罪を犯す事によって、天主を侮辱する事によって、ますますその心を悲しませておられます。

ですからこの御恵みが、癒しの御恵みが得る事ができるように、多くの罪人たちをマリア様の元に担架で運ぶ事ができますように、祈りの担架で運ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。

お祈りによって、私たちはこの聖寵を求める事ができます。ぜひ今日はこのマリア様に、私たちの天主の現存の神秘と共に、この御恵みが多くの方に与えられますように、お祈り致しましょう。

「子よ、安心せよ、お前の罪は赦された。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第14号】―ロザリオ-2020年の決心ー

2019年10月22日 | M.I.(無原罪の聖...
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第14号】

-ロザリオ-2020年の決心


愛する無原罪の聖母の騎士の皆さん!

102年前の本日MIが創立された記念日に、皆さんにまた言葉を伝えることができるのをうれしく思います。聖マキシミリアノ・コルベは無原罪の聖母のみを信頼したいと望んでMIを創立しました。なぜなら、聖母は、彼が自分の目の前で起きるのを見た天主と悪魔の霊的戦いすべてにおける勝利者であるからです。無原罪の聖母の騎士会が創立されてから、教会とこの世における霊魂をめぐる戦いは激しさを増してきています。悪魔は大惨事をもたらすのに残された時間をそれほど多く持っていないため、全軍を動員しており、圧倒的に優勢であるように見えます。

しかしながら、何世紀にもわたる教会の歴史、特にこの100年の歴史は、次の事実を確認しました。キリスト教の苦境が大きくなればなるほど、天の御母が地上の子どもたちにますます近づいてくださり、戦いにおいて導き、この戦闘において勇気づけ、戦いに必要な手段を与えてくださるということを。ですから、この200年において、マリアのご出現はそれまでのどの時代よりも数多く、またそれらには一つの共通点があります。それは、天の御母が眠れる子どもたちを目覚めさせ、状況の深刻さを彼らに警告し、汚れなき御心への信心をもって、「最後の薬」(ファチマ)として、「予告された艱難の時代に信者に残された唯一の武器」(秋田)として、彼らにロザリオをお与えになることです。

ロザリオは単なる人間的な祈りではなく、天主の御摂理によるご計画においては、それこそが聖母が聖ドミニコに委託なさった天の武器です。悪魔は何世紀にもわたってこの祈りが天に由来するという信仰を弱めようと、そしてロザリオの歴史の痕跡すべてを世に知られないようにしようと試みてきました。これによって、ロザリオはただ「祈りの姉妹たち」による純粋に人間的な祈りにすぎないとみなすべきだという偽りの信条に導かれた人々もいます。

それにもかかわらず、童貞聖マリアのいとも聖なるロザリオが天に由来することについての真理は、教皇たちによって幾度も強調されてきただけでなく、天によっても繰り返し強調されてきました。天はそのことをさまざまな聖人たちに明らかにし、さらにはコロンビアのラス・ラハスにある石に、その真理が消えないように「焼き付け」、すべての人がそれを見えるようにさえしました。そこでは、1754年に聖母がご出現になり、岩の上に、聖母がどのようにして聖ドミニコにロザリオをお与えになったかを示した実物大の絵が残されたのです。

いとも聖なるロザリオという武器は、キリスト教の歴史において、特に希望のないように思われる状況において、見事にその力を証明してきました。ロザリオはダヴィドの投石器にたとえられるダヴィドの武器です(ピオ十二世)。ダヴィドの投石器のように、特に困難な状況において、武器としてロザリオに信頼を置くには、カトリック信者のけんそんと天主への信頼が必要です。

私たちの保護の聖人である聖マキシミリアノは、ロザリオのことを騎士の剣と述べています。諸教皇はしばしば、いとも聖なるロザリオを「キリスト教の武器」と呼んできました。例えば、教皇ピオ十一世は、その回勅「イングラヴェシェンティブス・マリス」において、ロザリオを教会の最も力ある武器と呼びました。さらに同教皇は、ロザリオは、悪魔の力を追い払うために、聖なる生活を保持するために、聖徳の達成をしやすくするために、最後に人間の間の平和の手段として、最も力ある武器である、と確認しました。

ロザリオに心を込めて熱心に献身した数えきれないほど多くの信者たちが、ファチマで私たちに約束されたものを自ら経験してきました。それは、ロザリオが、この最後の時代において新たな効力を与えられていること、そしてロザリオがあれば解決できない問題はない、ということです。

しかしながら、しばしば使用される武器は鈍くなり得ますから、メンテナンスが必要です。この武器を「真新しく」にするためには、何回も何回も研ぎ澄まされなければなりません。私たちの多くは、疑いなく、ロザリオを祈る良き習慣を持っています。しかしながら、おそらく、気づかないうちに、ある種のルーチンワークになっているでしょう。いとも聖なるロザリオの効力にさらなる信頼と意識をもって祈るというよりも、祈らなければならないので祈っているのです。

聖ルイ・マリー・ド・モンフォールや聖マキシミリアノがロザリオについて書くとき、それは常に、十五玄義全体のことを指しています。そうでないときには、ロザリオの五玄義とか、あるいはロザリオの一部について、として書いています。聖ルイ自身は罪びとに対してロザリオ全部を祈るよう勧めていました。戦いにおいて兵卒が失われてきたとき、残された交戦中の軍隊は、数の減った兵卒の分も補うと同時に、勝利に到達するというさらに強い決意を示さなければなりません。それゆえに、私たちは、多くの人々が悪魔によって「失われ」たり、悪魔のわなに陥ったとき、勝利に到達するためにこれまで以上の熱意とこれまで以上の頻繁さをもってロザリオを祈るように呼ばれているのです。

そうは言うものの、武器が損傷を受けるだけでなく、戦士たちも弱ったり、敵の精神に染まったりすることさえあり得ます。教皇ピオ十一世は、その回勅でこう続けます。「マリアのロザリオによって、われわれは天主を嫌う者どもや宗教の敵どもをただ屈服させるだけではなく、この祈りはまた、われわれが福音の聖徳を追求するよう、われわれを激励し、元気づけるのである。ロザリオは、特にカトリック信仰を強めるであろう。なぜならば、聖なる諸玄義を黙想することは、天主によって啓示された真理へと精神を高めるからである」。

今の時代では、聖霊に関わる事柄へのある種の無関心や、キリスト教の教理を宣言することへの悲しむべき怠慢がしばしば存在するのですから、この祈りが私たちの時代にいかに有益なのかは指摘するまでもありません。ですから、ロザリオの祈りは私たちの永遠のものへの熱望を強め、またロザリオの最後の部(栄えの玄義)におけるキリストと御母の栄光を黙想は、私たちに天国を開いて示し、それによって私たちが永遠の父祖の国に到達するよう、私たちを励ますのです。

人々の心が、この地上の様々なわなに対する抑えの効かない中毒に燃え、またうつろう富と一時の楽しみに対して日ごとにますます強欲になる一方、ロザリオの祈りは、「盗人が盗むこともなく、虫もつかず」、変わらない天の宝に引き寄せるのです。

こんにち多くの人々の間でどれだけ愛が冷え、消えているかを考えてみてください。これらすべての人々は、私たちの救い主の御苦しみと死を、また苦しまれる御母マリアの御悲しみを黙想することで、愛を再び燃え立たせねばならないのではないでしょうか? この天主の愛から、隣人に対するより大いなる愛がかならず生まれるのです。なぜなら、失われてしまった子と天主との間の結びつきを回復させるために、主なるキリストがいかに御苦痛と御苦しみに耐えなければならなかったかということを黙想することは、隣人を愛する強い刺激を必ず与えるからです。

来るべき年は、特別な記念の年です。5月6日は、聖伝遵守の無原罪の聖母の騎士会が、私たちの創立者の当初の会則による再創立20周年を祝います。2020年10月の終わりには、カトリック聖伝を守る人々は、ルルドで聖ピオ十世司祭兄弟会の50周年を祝います。ですから、私は騎士の皆さん全員に、ロザリオの年を提案したいと思います。本日のMI創立記念日から一年後の聖伝の50周年記念日まで、私たちはMIにおけるロザリオの祈りを強化したいと思います。

騎士として、私たちがこの来るべき年にどのようにすればロザリオをもっと熱心に祈ることができるのかを、ここに示します。

もっと頻繁に祈ることによって:自分の職業上の義務に祈りをうまく組み入れことのできる限りにおいて、私たちは(詩編に対応する)ロザリオ全体をもっと頻繁に、すなわち十五玄義すべて[三環]を祈ろうと努めたいと思うべきです。私たちが共同体として祈るロザリオに加えて、日中に一環、または残りの部分を追加して祈ることで、これを行うことができます。ロザリオを毎日祈るという良き習慣をまだ持っていない人々は、この習慣を持つようにすべきです。

もっと意識していとも聖なるロザリオを祈るよう努力することによって:私たちは、私たちの祈るいとも聖なるロザリオを、特別な意向あるいは目的に関連づけることを常に望んでいます(一年の間に、総長が特別な意向を勧めてくださるでしょう)。この方法によって、私たちは、目的をもって自分の剣を使う騎士のようになるのです。もっと意識して祈ることということは、私たちが本当に諸玄義を黙想するということでもあります。

もっと信頼して祈ることによって:この祈りの力と聖母の多くの約束が何度もはっきりと明らかにされたことを思い出しましょう。私たちの確信を強めるために、ロザリオについて書かれたものを読みましょう。私たちにさらに強い信頼と信仰を与えてくださるよう聖母に願いましょう。

自分自身の環境の中で無原罪の聖母の騎士として:私たちには、さまざまな言語の良きちらし、パンフレット、ロザリオセットがあり、MIの事務局から取り寄せることができます。

いとも聖なるロザリオを特別に強調することによって:MIのニュースレターや雑誌において、私たちは、私たちのメンバーの中でこのいとも聖なるロザリオの祈りをより深め、新たに花開かせるよう導くため、この祈りを特別に強調していきます。

言うまでもないことですが、これらのことは、皆さんの寛大さに訴える提案に過ぎません。次のことを忘れないでください。私たちの聖性は、自分の習慣に応じて決まるのです! 騎士全員が今年、ロザリオを常に携帯し、一日の間出来る限り頻繁に自分の武器を使う習慣を身に着けることができますように。

聖なるロザリオの元后が、私たちにこれらの意向のために必要な恩寵を与えてくださり、また、この恩寵の年に皆さん全員に豊かな祝福を与えてくださいますように。

私の司祭としての祝福をもって
カール・シュテーリン神父
2019年10月16日、ワルシャワにて


【英語原文】
Letter No 14 to all Knights of the Immaculata - Rosary - Resolutions 2020
Father Director's Letter No. 14


Dear Knights of the Immaculata!

I am pleased to be able to say a few words to you again on the anniversary of the founding of the M.I. 102 years ago today. St. Maximilian Kolbe founded the M.I. because he wanted to trust in the Immaculata alone, since she is the victor in all the spiritual battles between God and the devil that he saw taking place before his eyes. Since the founding of the Militia Immaculata, the struggle for souls in the Church and in the world has intensified. As the devil does not have much time left to wreak havoc, he seems to have mobilized all his forces and to be overwhelmingly superior.

However, the history of the Church over the centuries, especially in the last 100 years, has confirmed this fact: the greater the plight of Christianity, the closer the Heavenly Mother is to her children on earth to guide them in battle, to encourage them in this combat, and to give them the necessary means with which to fight. Thus, in the last 200 years there have been more Marian apparitions than ever before, with one thing in common: the Mother of Heaven wakes her sleeping children, warns them of the seriousness of the situation and, together with the devotion to her Immaculate Heart, gives them the Rosary as their "last remedy" (Fatima), as the "only weapon that will remain for the faithful in the announced times of tribulation" (Akita).

The Rosary is not just any human prayer, but in the plan of Divine Providence, it is THE weapon of Heaven which Our Lady entrusted to St. Dominic. The devil has tried throughout the centuries to undermine faith in the heavenly origin of this prayer, to obscure all traces of its history. This has led some to the false belief that the Rosary should only be regarded as a purely human prayer of some "sisters of prayer".

Nonetheless, the truth about the heavenly origin of the Most Holy Rosary of the Blessed Virgin Mary has not only been emphasized time and again by the Popes, but by Heaven, which also revealed it to various saints and even "burned" the truth indelibly for all to see in stone, such as at Las Lajas, Colombia, where Our Lady appeared in 1754 and left a life-size picture on a rock showing how she gave the rosary to St. Dominic!

The weapon of the Most Holy Rosary has proven itself wonderfully in the history of Christianity, especially in seemingly hopeless situations. It is the weapon of David, comparable to his slingshot (Pius XII). As with David’s slingshot, it takes humility and trust in God on the part of Catholics to rely on the Rosary as a weapon, especially in difficult situations.

Our patron, Saint Maximilian, described the Rosary as the sword of the Knight. The popes have often called the Most Holy Rosary “the weapon of Christianity”. For example, Pope Pius XI in his encyclical Ingravescentibus Malis called the Rosary the most powerful weapon of the Church. Moreover, this same Pope confirmed that the Rosary is the most powerful weapon for the expulsion of diabolical powers, for the preservation of a holy life, for the easier attainment of virtue, and finally, as a means of peace among men.

Countless faithful who have devotedly and diligently adhered to the Rosary have experienced for themselves what was promised to us in Fatima: that the Rosary has been given a new efficacy for these last times and that with it, there is no problem we cannot solve.

However, a weapon that is often used can become blunt and therefore requires maintenance: this weapon must be sharpened time and time again to render it “fresh”. Many of us, undoubtedly, have a good habit of praying the Rosary. However, perhaps a certain routine has crept in imperceptibly. One prays it because it should be prayed, rather than praying the Most Holy Rosary with more trust and consciousness of the efficacy of its power.

When St. Louis and St. Maximilian write of the Rosary, they always mean all 15 mysteries. Otherwise they write of the five mysteries of the Rosary, or of the one part of the Rosary. St. Louis himself encouraged sinners to pray the whole Rosary. When the ranks are wearing out in a battle, the remaining warring forces must show an even greater commitment to attain victory while compensating for the loss of the worn-out ranks. Therefore, we are called to pray the Rosary with ever greater zeal and with ever greater frequency to attain victory when many have been “worn-out” or ensnared by the devil.

That being said, not only can the weapon suffer damage, but the fighters can also become weak or even be infected by the spirit of the enemy. Pope Pius XI continues in his encyclical: "With the Marian rosary we will not only prostrate the haters of God and enemies of religion, this prayer will also spur us on and warm us to a quest for the virtues of the Gospel. It will strengthen the Catholic faith in particular; for the contemplation of the holy mysteries raises the spirit to the truths revealed by God."

It is not necessary to point out how salutary this is in our day, when there is often a certain indifference to matters of the Holy Ghost and a regrettable boredom in the proclamation of Christian doctrine. The prayer of the Rosary will then strengthen our longing for immortal goods, and the contemplation of the glory of Christ and his Mother in the last part (the Glorious Mysteries) of the Rosary will openly reveal Heaven to us and thus spur us on to reach the eternal Fatherland.

And while the hearts of men burn with an unbridled addiction to the trappings of this earth and while they become greedier for frail riches and transient pleasures day by day, the prayers of the Rosary are drawn to the heavenly treasures "which no thief dares to possess, and which no moth consumes" and which will remain constant.

Consider the great extent to which love has become cold and extinct among many today! Shouldn't all these people be rekindled with love when they contemplate compassionately the sufferings and death of our Saviour and the sorrow of his afflicted Mother, Mary? From this love of God a greater love for one’s neighbour will necessarily follow; for the consideration of what Christ the Lord had to endure in pain and suffering in order to restore the lost filial bond with God necessarily gives a powerful impetus to love of one's neighbour.

The coming year will be a year of special anniversaries: on the 6th of May, the Militia Immaculata of Traditional Observance will celebrate the 20th anniversary of its re-establishment according to the original statutes of our Founder. At the end of October 2020, Catholic tradition will celebrate the 50th anniversary of the Priestly Fraternity of Saint Pius X in Lourdes. So I would like to propose a Year of the Rosary for all the Knights. From today’s founding day of the M.I. to the anniversary celebration of tradition in one year's time, we want to intensify the prayer of the Rosary in the M.I.

Here is how we, as Knights, can celebrate the Rosary more intensely in this upcoming year:

By more frequent prayers: as far as we can fit it in with our professional duties, we should want to try to pray the whole Rosary (Psalter) more often, that is, all 15 mysteries. We can do this by praying one or the other part during the day in addition to the Rosary which we may pray as a community. Those who do not yet have the good habit of praying the Rosary every day should acquire it.

By a more conscious effort to pray the Most Holy Rosary: we hope to always associate our Most Holy Rosary with a special intention/purpose (during the year, the Superior General will recommend special intentions to us). In this way we are like Knights who use their swords purposefully. Praying more consciously also means that we really contemplate the mysteries.

By more confident prayers: let us remember the many manifestations of the power of this prayer and the many promises of Our Lady; let us read something about the Rosary to strengthen our convictions; let us ask Our Lady for a greater trust and faith.

As Knights of the Immaculata in our own environment: we have good flyers, brochures and rosary sets in various languages, which are available from the secretariats of the M.I

By special emphasis on the Most Holy Rosary: in the newsletters and magazines of the M.I., we will give special emphasis to this prayer of the Most Holy Rosary in order to deepen this prayer in our ranks and to lead it to a new flowering.

It goes without saying that these are only suggestions that appeal to your generosity. Let us not forget: we are as holy as our habits! May every Knight this year make it a habit to always carry a rosary with him and to use his weapon as often as possible during the day.

May the Queen of the Holy Rosary grant us the necessary graces for these intentions, and may she richly bless all of you in this year of grace!

With my priestly blessing,
Fr. Karl Stehlin
Warsaw, on the 16th of October 2019



天皇陛下の即位の礼にあたり、天皇陛下のために、皇室のために、日本のためにお捧げ致しましょう。

2019年10月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2019年10月22日は天皇陛下の即位の礼にあたり、天皇陛下のために、皇室のために、日本のためにお捧げ致しましょう。

「天皇陛下のための祈り」は以下の通りです。

Oratio pro Imperatore

V. Dómine, salvum fac Imperatórem nostrum.
R. Et exáudi nos in die, qua invocavérimus te.

Orémus.
Quǽsumus omnípotens Deus, ut fámulus tuus Imperátor noster, qui tua miseratióne suscépit regno prǽesse, virtútum étiam ómnium percípiat increménta : quibus decénter ornátus, et vitiórum monstra devitáre, et ad te qui via, véritas, et vita es, cum Imperatóre Emérito, Imperatríce Emérita, Imperatríce cónsorte et prole imperiáli, gratiósus váleat perveníre. Per Christum Dóminum nostrum.
R. Amen.

天皇陛下のための祈

主よ、我等が天皇陛下を護り給え。
▲我等が主を呼び求め奉る日に、我等の願いを聞き給え。

祈願
全能なる天主、御憐れみによりて我が国の君主としての務めを与え給いし御身の僕(しもべ)なる我等が天皇陛下をして、天主よりあらゆる徳を受けしめ給わんことを乞い願い奉る。願わくは陛下に然るべき徳を備えしめ、悪を避けしめ、上皇、上皇后両陛下、皇后陛下、皇族方と共に、道、真理、生命にまします天主に至らしめ給わんことを。我等の主、キリストによりて願い奉る。
▲アーメン。

Prayer for the Emperor

V. O Lord, save our Emperor.
R. And hear us in the day that we shall call upon Thee.

Let us pray
We beseech Thee, almighty God, that Thy servant our Emperor, who in Thy merciful providence has been called to rule over this nation, may also receive from Thee an increase of all virtues: thus becomingly adorned may he avoid all evil doing, and, by Thy grace attain, together with the Emperor Emeritus and the Empress Emerita, the Empress consort and their Imperial offspring, to Thee, Who art the Way, the Truth and the Life. Through Christ Our Lord.
R. Amen.

Oración por el Emperador

V. Haz salvo al Emperador, Señor.
R. Y nos escucha en el día, Señor, que te invoquemos.

Oremos.
Solicitamos, Omnipotente Dios, que tu siervo nuestro Emperador. que por tu misericordia recibió el gobierno del país, también por ella reciba los aumentos de todas las virtudes ; con las que convenientemente adornado, pueda huir los monstruos de los vicios, y llegar, con el Emperador Emérito, la Emperatriz Emérita, la Emperatriz y la prole imperial, favorecido a Tí, que eres camino, verdad, y vida. Por nuestro Señor Jesucristo tu Hijo.
R. Amén.

Prière pour l’Empereur

V. Seigneur, sauvez l’Empereur ;
R. et daignez nous exaucer au jour que nous vous invoquerons.

Prions.
Accordez à nos prières, Dieu tout-puissant, que votre serviteur notre Empereur, qui, par votre miséricorde a reçu la conduite de ce pays, reçoive aussi l'accroissement de toutes les vertus ; afin que, revêtu de leur force, et saintement orné de leur éclat, il ait les vices en horreur, comme autant de monstres ; et qu'agréable à vos yeux par ses bonnes œuvres, il puisse enfin arriver, avec l'Empereur émérite, l'Impératrice émérite, l'Impératrice et les descendants impériaux, jusqu'à vous, qui êtes la voie, la vérité et la vie; par Christ, notre Seigneur.
R. Ainsi soit-il.






うそをつくこと: ブノワ・ワリエ神父様お説教(東京、大阪) 聖霊降臨後第十九の主日

2019年10月21日 | お説教・霊的講話
聖霊降臨後第十九の主日―うそをつくこと(2019年大阪、東京)
ブノワ・ワリエ神父様(聖ピオ十世会司祭)


「正義と真実の聖徳において、天主にかたどってつくられた新しい人を着なければならない。だから、偽善[うそ]を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章24-25節)

A.うそをつく五つの方法

聖トマス・アクィナスによると、人は通常の会話において、五つのやり方で天主の第八戒に反することがあります。



a.第一は中傷によってです。「中傷する者は天主を憎んでいる」(ローマ1章30節)。なぜでしょうか? それは、「良い評判は大きな富にまさる」(箴言22章1節)からです。しかし、中傷する者は、この良い評判を取り去るのです。「ヘビは沈黙のうちに噛みつく[bite]が、秘密のうちに悪口を言う[backbite]者もそれとかわらない」(伝道書10章11節)。それゆえに、もし中傷する者が、この良い評判を回復させないなら、救われることはあり得ません。

b.第二に、人は中傷する者に進んで耳を傾けることによっても、この掟を破ることになります。「汝の耳を茨で囲い、悪しき言葉を聞かず、口に扉とかんぬきをつけよ」(集会書28章25節)。

c.第三に、うわさ話をする者は、聞いたことを繰り返し話すことで、この掟を破ります。

d.第四に、甘い言葉を話す人々、お世辞を言う人です。「ああ、わが民よ、汝を祝された者と呼ぶ人々、その同じ人々が汝を欺くのである」(イザヤ3章12節)。

e.この掟が禁じていることの中には、あらゆる形のうそもあります。「どのようなうそもつかぬよう気をつけよ。そこからは、どんな善も生まれない」(集会書7章13節)。


B.なぜうそをつくことは禁じられているのでしょうか。


これには四つの理由があります。

1.第一には、うそをつくことは悪魔になぞらえられるのであり、それは、うそつきは悪魔の子と同じとされるからです。さて、人の話し方からその人の出身の地域や国が知れる、ということを私たちは知っています。そうであっても、ある人々は悪魔の種族に属しており、悪魔の子と呼ばれています。なぜなら、彼らがうそつきであり、悪魔は「うそつきであり、うその父」(ヨハネ8章44節)であるからです。

2.第二の理由は、うそをつくことは社会の荒廃をもたらすからです。人は社会の中で共に生きているのであり、互いに対して真実を言わないとしたら、社会生活はすぐに不可能になってしまいます。「偽善[うそ]を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。

3.第三の理由は、うそつきは、真実を語るという自分の評判を失うからです。うそをつく習慣のある人は、たとえ真実を述べても信じてもらえません。

4.第四の理由は、うそつきは自分の霊魂を殺すからです。なぜなら「うそつきの口は霊魂に死をもたらす」(知恵1章11節)からです。また、「あなたはうそをつく者をすべて滅ぼす」(詩篇5章7節)からです。


うそをつくことは、次の二つの場合、大罪となります。

a.信仰の問題でうそをつくこと。これは、教える者、聖職者、説教師にかかわることであり、ほかのあらゆる種類のうその中でも最も重い罪です。

b.隣人を不当に扱うためにうそをつくこと。「互いにうそを言うな」(コロサイ3章9節)。


**************************************

うそは社会で大変広範に行われており、カトリック信者の中でさえそうです。うそをつくことは簡単な逃げ道ですが、常に罪であり、重大な罪にもなり得ます。

しかし、天主に対する、そして隣人に対する私たちの崇高な立場と義務を忘れないようにしましょう!

「正義と真実の聖徳において、天主にかたどってつくられた新しい人を着なければならない。だから、偽善[うそ]を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章24-25節)


【英語原文】

Nineteenth Sunday After Pentecost – Lying (Osaka and Tokyo 2019)


“Put on the new man, who according to God is created in justice and holiness of truth. Wherefore, putting away lying, speak ye the truth, every man with his neighbor, for we are members one of another” (Ephes. IV. 24-25).


A. Five Ways of Lying

According to St. Thomas Aquinas, in ordinary conversation one may violate the 8th Commandment of God in five ways.

a. The first is by detraction: “Detractors are hateful to God.” Why? Because “A good name is better than great riches.” But detractors take away this good name: “If a serpent bite in silence, he is no better that backbites secretly.” Therefore, if detractors do not restore this reputation, they cannot be saved.

b. Secondly, one may break this precept by listening to detractors willingly: “Hedge in thy ears with thorns, hear not a wicked tongue, and make doors and bars to thy mouth.”

c. Thirdly, gossipers break this precept when they repeat whatever they hear.

d. Fourthly, those who speak honied words, the flatterers: “O My people, they that call thee blessed, the same shall deceive thee.”

e. The prohibition of this Commandment includes every form of falsehood: “Be not willing to make any manner of lie; for the custom thereof is not good.”


B. Why Lying is Forbidden

There are four reasons for this.

1. The first is that lying likens one to the devil, because a liar is as the son of the devil. Now, we know that a man’s speech betrays from what region and country he comes from; even so, some men are of the devil’s kind, and are called sons of the devil because they are liars, since the devil is “a liar and the father of lies.”

2. The second reason is that lying induces the ruinof society . Men live together in society, and this is soon rendered impossible if they do not speak the truth to one another. “Putting away lying, speak ye the truth, every man with his neighbor; for we are members one of another.”

3. The third reason is that the liar loses his reputation for the truth. He who is accustomed to telling lies is not believed even when he speaks the truth.

4. The fourth reason is because a liar kills his soul, for “the mouth that lies kills the soul.” And again: “Thou wilt destroy all that speak a lie.”


Lying is a mortal sin, in the following two instances:

a. To Lie in matters of faith. This concerns professors, prelates and preachers, and is the gravest of all other kinds of lies.

b. To lie to wrong one’s neighbor: “Lie not to one another.”[26]

**************************************

Lying is very well-spread in society, even among Catholics. It is an easy escape, but it is always sinful and it can be seriously sinful.

But let us remember our royal rank and our obligations towards God and towards our neighbor!

“Put on the new man, who according to God is created in justice and holiness of truth. Wherefore, putting away lying, speak ye the truth every man with his neighbor, for we are members one of another” (Ephes. IV. 24-25).

聖ピオ十世会 聖伝のミサの報告 2019年10月20日 Traditional Latin Mass in Japan, SSPX

2019年10月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

今回は、ワリエ神父様が日本にミッションに行かれました。私に代わって日本に言って下さった神父様には心から感謝します。ありがとうございます!

愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、マニラでミサを司式しておりました。ミサの間、聖霊降臨後第19主日の集祷分を祈りつつ、ラテン語の祈りにいつもながら感動しておりました。

出てくる3つの動詞がすべて、前置詞 ex- で始まっている。
同じ音の言葉や同じ母音が繰り返される。versa とか、-te, -re, ter, とか、sunt, -bus, など。

Omnípotens et miséricors Deus,
univérsa nobis advérsantia propitiátus exclúde :
ut mente et córpore páriter expedíti,
quæ tua sunt, líberis méntibus exsequámur.
Per Dóminum.

全能の憐れみ深き天主よ、
御慈悲をもって、われらにとってすべての[=uni-versa]妨害を[=ad-versantia]排除し給え[=ex-clude]。
精神と身体とがともに、重荷を取り除かれ[=ex-pediti]、
御身のことに、我らが自由な心で従わん[=ex-sequamur]がためなり。
天主として、(…)。

お説教では「新しい人を着る」「婚姻の服」について、三位一体の霊魂に住まうことである成聖の聖寵の状態について黙想を提案しました。

日本でのミサの報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日はシンガポールから、16年ぶり(?)にワリエ神父が東京にいらっしゃってミサを捧げて下さいました。

御説教ではうそをつくことにについて、天主の第8戒に反してしまう5つのパターンがあること、うそをつくことが禁じられている4つの理由があること、そして私たちはうそをつくことに逃げず、自分の天主と隣人に対する立場と義務を忘れないことが大事であることを教えて頂きました。

午後の霊的講話の第一部では、まず現在ローマで行われているアマゾンに関するシノドスの状況について説明して頂きました。いまこのシノドスでなされている議論、特に妻帯者を司祭に任ずる案を推しているグループがどのような目的を持ってそれを行っているか、そしてそれがいかにカトリック教会の伝統に反しており、そのような案が実行されることによってどのような悪影響が予想されるか等についてお話しくださいました。

第二部では福音史家聖ルカについて、彼の書いた福音書の特徴やその背景、特に彼の聖母に関する記述が恐らく聖母から直接聞いた話に基づいていることなど、「トリビア」のようなことも色々教えて頂きました。

霊的講話の後は聖霊降臨後第19主日の晩課を歌って終わりました。

今日の東京でのミサ・霊的講話・晩課の参列者数は下記の通りです。

ミサ
男: 28人(内、子供6人)
女: 32人(内、子供5人)
計: 60人(内、子供11人)

霊的講話
男: 15人(内、子供3人)
女: 10人(内、子供3人)
計: 25人(内、子供6人)

晩課
男: 4人
女: 2人
計: 6人


【報告】
今日のミサのお説教は第八戒のことを詳しくお話しいただきました。
自分は決して嘘をつかないというなら、それこそ大ウソつきだというブラックジョークもあったように思います。
正直でいることは霊魂を滅ぼさないためにも大切なことだと思いました。
お話しいただいたことはとても大切なことで、こういう話をきちんと聞く機会をいただけて、とてもよかったです。

霊的講話の前半では、アマゾン・シノドスのことに触れてくださいました。あまりに不気味でどう考えたらよいかわからず、できたら考えることすら避けたいと思うことでした。
お話を伺えて、だいたいどういうことかを少しわかるようになりました。これまで日本の教会で問題になっていたようなことを世界的規模でやりはじめたいとする人たちの行動の一つではと思いました。でも、単に日本の司教団で行うというのと、ローマで行うというのでは桁が違うことでしょう。

教会にいろいろな問題が起こっていて、そのために救われるべき人が教会に来られなくなるというのはとても悲しいです。でも、もしこの聖ピオ十世会のミサに与っていなかったら、私は、教会にいろいろな問題が起こっていることすら考えることを恐れたでしょう、正しく考える規範をどこに見つければよいかもわからないままにいたことでしょう。いつのまにかプロテスタント(近代主義・フリーメーソン)の考え方に汚染されていることすら自分でわからなくなっていたままだったことでしょう。それが現実に今起こっている恐ろしいことの一つだと思います。

「変わらないものがあるはずのところに、変わらせる動きが見えた。」でも、ワリエ神父様のお話は落ち着いていた内容で、これまでもカトリック教会はこのような動きの危機を乗り越えてきたこともわかりました。

また、教会というのは超自然のものなので、イエズス・キリストのものなので、ある日すべてをきれいになさる日が来るというお話が心強く思いました。

さらに、こういうことをよく知ることも大事だけれど、死んだ後にイエズス様にあったとき、教会にどういう問題があったかと聞かれるのではない、そうではなく自分がどうしたかを聞かれるというお話を心に留めました。イエズス様にお会いしたときにどれほどイエズス様をお愛ししたかを聞かれるのでしょう。

講話の後半は、ルカ福音書、聖ルカのことをおはなしくださいました。そのなかで善い盗賊の話に触れてくださいました。イエズス様と一緒に処刑された二人の盗賊のうち天国に行くことになった盗賊の方です。

このごろ、この善い盗賊のことを考えるときが時々ありました。
自分も罪を犯した人類のうちのひとりだということをわかるようになってきていて、それなら、目に見えないだけで本当はすでに十字架に架けられているようなものなのではないだろうかと、思ったことがありました。人間は、自分で自分が罪を犯していないと思っているかいないかにかかわらず、すでに生まれた時から罪を犯した者のうちの一人だというのが、カトリックでの人間観でそれが実際のところかもしれないととらえた時がありました。
そういう意味で、人間というのはすでに十字架に架かった者であり、最後の時イエズス様にむかってどのような思いをもつかが、その最後の息を吐いた後の運命になるのかなとおもいました。
私も今まさに十字架にかかっているようなものであるなら、この善い盗賊のようにイエズス様に向かって善い言葉を言えるような心を持ち続けていたいと思いました。

この善い盗賊は罪のゆるされる条件を満たしていたとのこと、ワリエ神父様はそれをお話しくださいました。ゆっくりそのことを黙想したいと思います。

ワリエ神父様、今日のミッションを本当にありがとうございます。




御聖体に対してこそ、これ程のひれ伏した礼拝がなければならないのに!

2019年10月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ

愛する兄弟姉妹の皆様、

ローマでのアマゾン・シノドスで、フランシスコ教皇様の参列のもと、裸の妊婦の木像をひれ伏して拝んだそうです。



アマゾン



日本

聖霊降臨後第十九主日 二級祝日 緑 ミサ聖祭 Latin-Japanese text of Traditional Latin Mass

2019年10月19日 | カトリックとは

聖霊降臨後第十九主日 二級祝日 緑 
ミサ聖祭 入祭文はキリストの御言葉である、キリストは身体と霊魂との救い主である。イエズスは、いつか、安息日に、ユダヤ人に向かって仰せられたように、人間の心身を癒やし給うたのである。洗礼を受けて、贖われたわれらは、天主によってつくられた人間に生まれ変わった。しかし、生まれ変わっただけではいけない。日と共に成長し、「完全な人間」にならねばならぬ。



Photo Credit


Photo Credit


Photo Credit

Dominica Decima nona post Pentecosten 聖霊降臨後第十九主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. 入祭文 詩篇 77ノ1
Salus pópuli ego sum, dicit Dóminus : de quacúmque tribulatióne clamáverint ad me, exáudiam eos : et ero illórum Dóminus in perpétuum. 私は民の救いである、と主は言い給う。どのような艱難の中でも、彼らは私に叫んだなら、私は彼らの願いを聞きいれる。私は、永遠に彼らの主となろう。
Ps. 77, 1. 詩篇77ノ1
Attendite, pópule meus, legem meam : inclináte aurem vestram in verba oris mei. 私の民よ、私の掟を聞け。私の口の言葉に汝らの耳を傾けよ。
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Salus pópuli ego sum, dicit Dóminus : de quacúmque tribulatióne clamáverint ad me, exáudiam eos : et ero illórum Dóminus in perpétuum. 私は民の救いである、と主は言い給う。どのような艱難の中でも、彼らは私に叫んだなら、私は彼らの願いを聞きいれる。私は、永遠に彼らの主となろう。
Oratio. 集祷文
Omnípotens et miséricors Deus, univérsa nobis adversántia propitiátus exclúde : ut mente et córpore páriter expedíti, quæ tua sunt, líberis méntibus exsequámur. Per Dóminum. 全能の憐れみ深き天主よ、御慈悲をもって、われらにとって[救いの]すべての妨害を取り除き給え。そして身体と霊魂とがともに重荷を取り除かれ、我らをして自由な心で御身のことに従わせ給え。天主として、(…)。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Ephésios. 使徒聖パウロの、エフェゾ人への書簡の朗読。
Ephes. 4, 23-28. エフェゾ  4ノ23-28
Fratres : Renovámini spíritu mentis vestræ, et indúite no vum hóminem, qui secúndum Deum creátus est in iustítia et sanctitáte veritátis. Propter quod deponéntes mendácium, loquímini veritátem unusquísque cum próximo suo : quóniam sumus ínvicem membra. Irascímini, et nolíte peccáre : sol non occídat super iracúndiam vestram. Nolíte locum dare diábolo : qui furabátur, iam non furétur ; magis autem labóret, operándo mánibus suis, quod bonum est, ut hábeat, unde tríbuat necessitátem patiénti. 兄弟たちよ、霊的な念(おもい)によって自分を新たにし、義とまことの聖徳において、天主にかたどってつくられた新しい人を着なければならぬ。だから、偽りをすてて、おのおの隣人に真実を語れ、我々は互いに肢体だからである。あなたたちは、怒(いか)っても罪を犯すな、日がかたむくまで怒りを保つな。悪魔に席を与えるな、盗人はもう盗むな、かえって、貧しい者に施すために、自分の手で何かよい仕事をして働け。
Graduale. Ps. 140, 2. 昇階誦 詩篇  140ノ2
Dirigátur orátio mea, sicut Incénsum in conspéctu tuo, Dómine. 主よ、願わくは私の祈りが、香のように御前に立ち上らんことを。
V/. Elevatio mánuum meárum sacrifícium vespertínum. V/. 私の両手を上げる[祈り]が、夕べのいけにえのように。
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 104, 1. アレルヤ、アレルヤ。詩篇 104ノ1
Confitémini Dómino, et invocáte nomen eius : annuntiáte inter gentes ópera eius. Allelúia. 主を告白せよ、その御名をこい願い、その御業を万国に告げよ、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secundum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。
Matth. 22, 1-14. マテオ  22ノ1-14
In illo témpore : Loquebátur Iesus princípibus sacerdótum et pharisǽis in parábolis, dicens : Símile factum est regnum cælórum hómini regi, qui fecit núptias fílio suo. Et misit servos suos vocáre invitátos ad nuptias, et nolébant veníre. Iterum misit álios servos, dicens : Dícite invitátis : Ecce, prándium meum parávi, tauri mei et altília occísa sunt, et ómnia paráta : veníte ad núptias. Illi autem neglexérunt : et abiérunt, álius in villam suam, álius vero ad negotiatiónem suam : réliqui vero tenuérunt servos eius, et contuméliis afféctos occidérunt. Rex autem cum audísset, iratus est : et, missis exercítibus suis, pérdidit homicídas illos et civitátem illórum succéndit. Tunc ait servis suis : Núptiæ quidem parátæ sunt, sed, qui invitáti erant, non fuérunt digni. Ite ergo ad exitus viárum et, quoscúmque invenéritis, vocáte ad núptias. Et egréssi servi eius in vias, congregavérunt omnes, quos invenérunt, malos et bonos : et implétæ sunt núptiæ discumbéntium. Intrávit autem rex, ut vidéret discumbéntes, et vidit ibi hóminem non vestítum veste nuptiáli. Et ait illi : Amíce, quómodo huc intrásti non habens vestem nuptiálem ? At ille obmútuit. Tunc dixit rex minístris : Ligátis mánibus et pédibus eius, míttite eum in ténebras exterióres : ibi erit fletus et stridor déntium. Multi enim sunt vocáti, pauci vero elécti. そのとき、イユズスはまた、かれらにたとえをお話しになった。「天の国は、自分の子のために婚宴をする王のようである。婚宴への招待者をむかえるために、王がしもべたちをおくったが、かれらは来ようとしなかった。そこで、ほかのしもべをおくって、"私は、婚宴の準備をすでにととのえ、牛も肥えたけものも屠って、準備したから、宴会に来るようにと招待者たちにいいなさい"と命じた。ところが、人々はそれを気にもかけず、一人は自分の畑に、一人は商売に行ってしまった。またほかの人はしもべたちをとらえて辱しめ、しかも殺してしまったので、王は怒って、軍隊をおくり、その人殺たちを亡ぼし、町をやきはらってしまった。それからしもべたちに、"宴会はすでに準備されたが、招待者は招待にふさわしくなかった。あなたたちは大路に行って、出会う人をみな宴会に招いて来なさい"と命じた。しもべたちは道に出て、出会う人をみな、よいも悪いも集めたので、宴席は客で一ぱいになった。客を見ようとしてはいってきた王は、一人が礼服をつけていないので、"友よ、あなたはどうして、礼服をつけずにここにはいったのですか?"ときくと、その人は答えなかった。そこで王は、給仕たちに、"この男の手足をしばって外のやみに投げ出せ。そこには嘆きとはがみとがあろう!"といった。実に、招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。
Credo  信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 137, 7. 奉献文 詩篇  137ノ7
Si ambulávero in médio tribulatiónis, vivificábis me, Dómine : et super iram inimicórum meórum exténdes manum tuam, et salvum me fáciet déxtera tua. たとえ困難の中を歩こうとも、主よ、御身は私を生かし給う、私の敵どもの怒りの上に御身の手を伸べて、御身の右手で私を救い給う。
Secreta. 密誦
Hæc múnera, quǽsumus, Dómine, quæ óculis tuæ maiestátis offérimus, salutária nobis esse concéde. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御稜威(みいつ)の御身の目に我らが捧げ奉るこの供え物が、われらにとって救いとなることを与え給え。天主として、(…)。
Præfatio de sanctissima Trinitate  序誦  三位一体と主日との序誦
Ant. ad Communionem. Ps. 118,4-5. 聖体拝領誦 詩篇  118ノ4-5
Tu mandásti mandáta tua custodíri nimis : útinam dirigántur viæ meæ, ad custodiéndas iustificatiónes tuas. 御身は、御身の掟が極めて守られるように命じ給うた。御身の義を守るために、私の歩みが導かれんことを。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Tua nos, Dómine, medicinális operátio, et a nostris perversitátibus cleménter expédiat, et tuis semper fáciat inhærére mandátis. Per Dóminum. 主よ、願わくは、御身の癒しのはたらきが、慈悲ふかく我らをして、われらの堕落から取り除かれ、かつ、御身の掟に常に愛着させ給え。天主として、(…)。


聖ピオ十世会のエコンの神学校の物語りは、1969年10月13日にスイスのフリブールで始まりました。

2019年10月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会のエコンの神学校の物語りは、1969年10月13日にスイスのフリブールで始まりました。

その日から、マルリ通りの「聖ドンボスコの家」と名付けられた借家に、9名の神学生たちがルフェーブル大司教のもとで司祭職の準備を始めました。

これは、全世界のカトリック教会に大きな影響を与える歴史的出来事の始まりであって、50年後の2019年10月5日の初土曜日に、この50周年を私たちは盛大に祝いました。

Fribourg - Jubilé du Séminaire Saint-Pie X

2019年10月5日、信仰の保護者であるブルギヨンの聖母の聖堂から感謝と記念の巡礼が始まりました。ここにはルフェーブル大司教とその神学生たちがよく祈りに来ました。

最初の9名の神学生の内の一人がベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教でした。

ブルギヨンの聖母のもとで、聖ピオ十世会を聖母の悲しみに満ちた汚れなき聖心への奉献を更新しました。

フリブールの教区長であるモルロー司教(Mgr Morerod)は、私たちが聖マウリチオ教会で司教荘厳ミサを聖伝のミサで捧げるのを喜んで許可されました。



50周年の記念ミサは、聖母の汚れなき御心の随意ミサでした。



ティシエ・ド・マルレ司教は、この神学校の開始が天主の御摂理に導かれていたことを説教されました。ルフェーブル大司教にとっては、自分が引退することを考えており、まさかこのような「大冒険」を始めるとは思いもよらないことでした。ルフェーブル大司教は、御摂理の後について行くのみでした。





司教荘厳ミサの終わりには、天主に感謝するテ・デウムを歌いました。

天主様に感謝!デオ・グラチアス!Deo gratias ! Ad multos annos !

Photo Credit

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】