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元クール司教区(スイス)の教区長ウォンダー司教「ここ(聖ピオ十世会の神学校)には教会のモデルがある。教会の指導者たちは聖ピオ十世会で行われている養成教育に立ち戻るのがよい。」

2022年01月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

ヴィトゥス・ウォンダー司教とのインタビュー

An Interview with His Excellency Bishop Vitus Huonder

2021年10月1日 聖ピオ十世会アメリカ管区

このインタビューは、2021年8月26日にスイスのヴァングスで、ルーカス・ウェーバー神父によって行われました。文章を修正・翻訳しなければなりませんでしたが、それでも可能な限り、話し言葉の形を維持するように努めました。

【問い】ウォンダー司教様、司教様は今年、司祭職50周年をお迎えですね。おめでとうございます。また、インタビューに応じてくださったことに感謝申し上げます。これで、私たちは、司教様のことをもう少しよく知ることができると思います。その50周年の機会ですので、もちろん、ご出身の(スイスの)グラウビュンデン州トルンでの少年時代に、司祭になりたいと思われたころのことを振り返っていただけますか。いかがでしょうか?

【ウォンダー司教】私は1942年、ベネディクト会修道院で有名なディセンティス(Disentis)から程遠くないトルン(Trun)に生まれました。私が洗礼を受けたのは、そこの、トルンの聖マルティン教会ででした。私はそこで信仰を得たと言えるでしょう。この頃、特に印象的だったのは、母と一緒に早い時間からミサにあずかっていたことです。私はまだ3、4歳の子どもでしたが、ミサに行くのが大好きでした。また、トルンからマリア・リヒトまで続く十字架の道行きも印象に残っています。この十字架の道行きをよく黙想し、心の奥底に刻みました。これらは、私を特徴づけた外側からの要素です。

私は幼い頃から、司牧者になりたいという強い思いを持っていました。単なる司祭ではなく、司牧者です。実際、そこで役務を果たしておられたのは、教区司祭で、司教代理でもある方でした。ごく早い時期に私にミサ仕えを始めさせてくださったのは、その方でした。7歳のときにはもう侍者をしており、26~27歳まで続けました。このことは私の信仰の第一歩であり、それは母に負うところが大きいと思います。母が、私の信仰教育に重要な役割を果たしてくれたのですから。

【問い】司教様の証言は、召命の目覚めのために、家庭内の教育と司祭との接触が重要であることを確認するものです。

【ウォンダー司教】はい、その通りです。それは、今日でも非常に重要です。

【問い】その後、学業、神学教育を経て、1971年9月25日に司祭に叙階されたのですね。この儀式について、どのような思い出がおありですか?

【ウォンダー司教】そこまでは、長い道のりでした。私が8歳の時に、一家はチューリッヒ州のタルヴィル(Thalwil)に引っ越しました。私はそこで小学校に通い、その後ディセンティスの高校に通いましたが、まだ司祭になりたいという望みを心の中に抱いていました。そして、さまざまな段階を経て、1971年9月25日に司祭に叙階されました。叙階式で特に印象的だったのは、もちろん、司教様の按手と両手の塗油でした。そのとき、この両手は聖なるいけにえのために聖別され、油を塗られたのだと実感しました。叙階式では、このことがとても印象に残っています。

【問い】司教様の司祭職の50年間に、私たちはいろいろなことが起こるのを見てきました。おそらく読者の皆さんは、司教様の豊かな経験の中から、2、3の逸話をお聞かせいただけると、うれしいのではないでしょうか。

【ウォンダー司教】司祭生活は全体として美しい経験です。これは強調しておきたいと思います。しかし、逸話があるとすれば、司教として、ある小教区での堅振式のとき、11歳か12歳の少年が式の後に私のところに来て、「僕は司祭になりたいんです」と言ったことを思い出します。司教が小教区を訪問することで、必ずしも司祭の召命が生まれるとは限りませんが、少なくともそれを強化するために重要であることを教えてくれたのです。私の司祭生活の中で、特にこの後期において、いつも印象に残っているのは、ミサを捧げるときです。典文の沈黙の間、そこにいる多くの若者が本当にこの沈黙に加わっているのを感じます。それがとても印象的です。11歳から15歳の若者たち…彼らの中でこの沈黙に対する理解がすでに深まっていることが感じられます。特にこの沈黙が、私たちを主の御苦しみと死に入り込ませるときに、です。そのことに私は毎回感動しています。

【問い】司祭の人生には間違いなく多くの経験がありますが、もちろん十字架や試練もあります。司祭としても司教としても、司教様の人生にそういったことが欠けていたわけではありません。このような十字架を背負い、試練を乗り越える力は、どこから湧いてきたのでしょうか?

【ウォンダー司教】まず、ミサの聖なるいけにえそのものからです。試練に耐えるために必要な力を常に見いだすことができるのは、そこです。そしてまた、祈り、特に教会の祈りによってです。私はいつもよく祈り、教会の祈りである聖務日課をとても忠実に守ってきました。そして、私が常に感じることができたのは、多くの困難な状況で、祈りがいかに私を支え、助け、強め、元気づけてくれるかということです。その困難な状況は、司祭の人生で、耐え抜くことができるための非常に重要な瞬間です。なぜなら、それは簡単ではないからです。さらにまた、兄弟的な関係を持つこと、同じ人生を生き、同じ道を歩む同僚を持つことも重要です。これらは司祭生活における強力な支えとなります。

【問い】お話しくださったことは、日々の生活に追われながらも、本当に祈りの生活を送るようにという司祭たちへの励まし、あるいはおそらく呼びかけのようにも聞こえます。司教様が強さを見つけられたのは、そこなのですね。

【ウォンダー司教】そうです。司祭は祈りの生活に忠実であることがとても重要だと、私は本当に強調しようと思っています。そうです。

【問い】司教としての標語は当然、「Instaurare omnia in Christo」、つまり、キリストのうちにすべてを刷新する、強化する、ということですね。これは、教皇聖ピオ十世と同じ標語ですね。なぜこれを選ばれたのでしょうか?

【ウォンダー司教】それは本当に、教皇聖ピオ十世とのつながりです。教皇ピオ十世が列聖されたのは、私が12歳の時、1954年のことです。カテキズムの時にもらった教皇の絵のことは、今でも覚えています。その絵の下に、この標語が書かれていました。それがとても印象的で、それ以来、ずっと心に残っています。1960年、61年、公会議の開催が発表されたばかりで、公会議の問題が騒がれていた頃、高校では公会議について、公会議に期待することなど、いろいろな議論があったのを覚えています。そして、みんなが「教会は自分自身を刷新しなければならない」などと言っていたのを、私は覚えています。私はこの標語で、彼らに答えてこう言いました。「そうだ、教会は自分自身を刷新しなければならないよ。でも、教皇聖ピオ十世の標語『キリストにおいてすべてを刷新する』に従ってね」。

【問い】その後、12年間クール教区の教区長を務められたのですね。教皇の決定でその職を去られるときが来たとき、つまり2年余り前のことですが、司教様は勇気をお出しになって、この聖ピオ十世会の修道院に隠棲することを決意されました。今日、司教様はこの選択に満足なさっていますか、それとも後悔なさっていますか?

【ウォンダー司教】確実に、この選択にはとても満足しています。どうしてこのようなことが起こったのかを知ることは、おそらく重要なことでしょう。なぜなら、そこには全体的な進化があったからです。まず第一に、司祭としてのごく初期に、私は聖ピオ十世会に結びついた信者と散発的な接触をしていました。しかし、それはあまり定期的な接触ではありませんでした。しかし、その時、私はすでに聖ピオ十世会のことを知るようになっていました。その後、聖伝を支持する運動、「ウナ・ヴォーチェ」ですべてが起こっていたのです。そしてついに、司教として、聖伝の信者たち、また司祭たちとも接触することを役立てることができたのです。聖ピオ十世会のメンバーの何人かが私を訪ねて来るのを受け入れもしました。私が彼らを知ったのは、そのときです。その後、ここヴァングスの学校を発見し、聖母像に冠をかぶせるよう招待されたこともありました。これは後のことで、2012年、2013年ごろのことです。

そしてもちろん、決定的だったのは、世界中の他の司教と同じように、聖ピオ十世会と対話する用意があるかどうかという要請が私にあったことです。これは2014年ごろのことです。私は「はい」と答えました。それは、特に私の心に近いものでした。そこで私は連絡を取り、この対話を始め、そこからこの問題についてより深い知識を身につけることができました。その後、聖ピオ十世会と聖伝に関するあらゆることに関わるようになり、「絶対にこの道を続けなければならない」と分かったのです。そしてついに、私は聖ピオ十世会との接触を深めなければならないと説得され、ヴァングスを司教引退の地に選ぶことで、そうしたのです。この選択は、教皇様にも歓迎されさえしました。教皇様は、ある司祭にこう打ち明けられました。「彼がそこで行っていることは良いことだ」と。

ですから今、私はここにいて、とても満足だと言わなければなりません。この宗教的な環境は、私を真に支え、名誉司教であっても熱心に信仰生活を送るのを助けてくれるのです。

【問い】司教様のお話を聞いていると、司教様は自分自身を進化させ、聖ピオ十世会との接触が増える中で、私たちを結びつける精神の類似性、私たちが共有し、司教様が生きたいと願う同じ信仰をますます認識なさるようになったと結論づけることができるでしょう。私は司教様を正しく理解したでしょうか?

【ウォンダー司教】まさにそうです、はい。しかし、忘れてはならないのは、私は青春時代をすべてこの信仰で過ごしてきたということです。1968年以降、確かに大きな変化がありましたが、その時私はすでに26歳か27歳でした。

【問い】…ということは、教会を揺るがし、司教様が目撃者となってこられた問題にもかかわらず、司教様は老齢になるまで、青春時代の信仰を実践的に維持することがおできになったのですね。

【ウォンダー司教】そうです! 忘れてはいけないのは、これらの変化が起こったとき、私たちはまだ若かったということです。私たちは若かったのです。教皇様に関しても、位階階級に関しても、私たちはとても確信を持っていました。目の前で起きていることは良いことだと考えていました。私たちは区別するすべを持っていませんでした。それ自体を見て、それ自体を勉強して…典礼、神学…それらは後からついてきたものなのです。当時、全面的な確信を持っていたからこそ、まだ問題の状態になっていなかったのです。年をとった今、私たちは多くのものを奪われたと、私は認めざるを得ません。まさに聖伝と接触、聖ピオ十世会と接触、聖ピオ十世会の関心事と接触しているからこそ、今、ますますそのことを実感しています。

【問い】それで、司教様は思い切って、ここヴァングスの聖マリア学院(Institut Sancta Maria)で、騒がずに、慎重に、ご自分の性格と完全に一致したことをしておられるようにお見受けします。司教様は公の場で宣言する必要はないとお考えでしたが、確信を持ってこれを実行され、こうおっしゃっているかのようです。「ここに私がいること、私の行いが、私の内的な信念と信仰の強さを証ししています」。

【ウォンダー司教】はい、間違いなくそうです。一方で、私は自分の信念を生き、信念を見せることが、とても重要だと思っています。しかし、他方では、この模範が、聖ピオ十世会の支えにもなっているという感覚が同会の中にあることも、私にとっては重要なことなのです。私は、聖ピオ十世会自体のためだけでなく、聖伝を探し求める司祭たちのためにも言いたいと思います。そうすれば、この模範が自分たちを強くしてくれるということが彼らに分かるでしょうから。もちろん、他のこと、会話などもあります。例えば、そういったものを通して、私は証しすることができます。しかし、何よりも、私の生き方そのものが証しとなることが重要です。

【問い】他の場所、他の団体を選ぶこともできたはずです。しかし、司教様は、聖ピオ十世司祭会のあるこの地を、お考えになって選んでおられます。

【ウォンダー司教】そうです、考えた上で選びました。そのことは、私があなたにお話しした進化を明確に示しています。また、この会は――おこがましく思われたくないのですが――この会は、私を必要としているかもしれないとも申し上げました。ですから、私はこの会を支援したいと思っています。これがまさに、私がこの選択をするときに、私を導いた思いだったのです。ほかにも理由はあります。若い人々がいる環境に自分がいられるのはいいことだと思います。少し元気になることができるでしょうし。私には歩くだけでも大変ですから、簡単だとは言えませんが。信仰がまだ若いという感じられる環境に入るということは、私にとって重要なことなのです。

【問い】霊的な面だけでなく、肉体的な面でもこの若さを求め続けておられるのは素晴らしいことです! 私は、このご決断に対して、司教様に感謝する機会を逃すわけにはいきません。なぜなら、私たち司祭や修道者の多くにとって、一人の司教が私たちと一緒にくつろぎ、私たちの活動を支援し、信仰に忠実であり続けるよう、その存在によって私たちを励まそうとしてくださっていることを知ることは、励みであるからです。ありがとうございます。

【ウォンダー司教】そう言ってくださると、とてもうれしいです。

【問い】司教様がここに来る選択をなさったことを、誰もが喜んでいるわけではありません。それは、あえて言わせていただくと、スイスのいくつかの教区では、否定的に受け取られています。もし、司教様がまったく別の、あるいは普通とは違う選択をしておられたとしても、おそらくもっと良い受け止め方をされていたことでしょう。この反応をどう説明なさいますか?

【ウォンダー司教】もちろん、これは聖伝の価値に関する、多くの現代人の一般的な反応です。聖ピオ十世会だけに当てはまることではありません。後者【聖ピオ十世会】にそれなりの利があるのは確かですが、本当に重要なのは聖伝の問題なのです。その問題の説明を見いだすのは難しいものです。一方では、おそらく教会の一部の信者を苦しめる歴史的な良心なのでしょう。なぜなら、彼らは、これが実際のところ、直近の時代までの自分たちの過去であることを知っており、その過去を取り除きたいと思っているからです。他方では、社会があまりにも変わってしまったため、「これは私たちの時代には全く合わない」と感じています。そのほかにも、いろいろな要因があります。ここスイスの教会では、私はいつも矢面に立たされてきました。多くのサークルで、私はいつも否定的な批判をされてきました。この観点からすれば、この反応は理解できるものでした。ですから、私が単に個人的な願望からここにいるのではなく、カトリックの司教として、母なる教会の前で、そして聖ピオ十世会の前で、聖伝に対する私の深い愛着を証しすることが、非常に重要な責務であると考えているためだというまさにそのことを、人々に知ってもらうことが重要なのです。私が聖伝を非常に重要視していることを、皆さんに知っていただかなければなりません。しかし、このすべてをもってしても、肯定的な反応を引き出すのに十分ではありません。なぜなら、この否定的な態度の原点には、他の要因があるからです。

【問い】司教様が私たちの中にいてくださることで、私たちに大きな励ましを与えてくださることは貴重なことです。司教様はおそらく、聖ピオ十世会の司祭たちの使徒職をどのように受け止めているかをお伝えくださることで、彼らを励ます言葉をお持ちではないでしょうか? さらに、聖ピオ十世会の司祭が、教区司祭に行うべき援助や、教区司祭と接触を図って聖伝の価値を教えることについて、どのようにお考えでしょうか?

【ウォンダー司教】まず何よりも、聖ピオ十世会自身の問題です。ここだけでなく、他の場所でも素晴らしい司牧活動をしていることを認めなければなりません。このようなカトリック学校が教区内にあることは、当時の私の夢でした。しかし、このような学校は、もはや私たちの地方では見られません。特にヨーロッパ、中央ヨーロッパについてですが、世界全体ではどうか分かりませんが、この地域にはもうないと言わざるを得ません。私は、このような学校を運営している聖ピオ十世会のことを祝福したいと思いますし、もっと一般的には、聖ピオ十世会の司祭が信者の近くにいることを祝福したいと思います。私たちはこのような牧者を必要としていますし、信者もこのような牧者を待っており、頼りにしています。

先日、ツァイツコーフェンの神学校を訪れました。司祭たちが受けている養成教育を見させていただきました。私はその時、校長先生にこうお話ししました。「ここには教会のモデルがあります。教会の指導者たちは、ここで、つまり聖ピオ十世会で行われている養成教育に立ち戻るのがよいでしょう。司祭や若者の教育においても、司祭の日々の司牧や共同体生活においても、これは非常に重要なことです。理想的には、司祭が一人のままになることがなく、司祭を支えてくれる小さな共同体の中にいることです。これらの要素はすべて、実際、今日の教会のモデルであり、教会自身をどのように刷新するかを教えてくれます。これが、私が聖ピオ十世会について申し上げたいことです」。

他の司祭について言えば、最近の若い司祭の多くは、聖伝に憧れていると思いますね。これは単純に観察できることです。私はその理由を知ろうと探ることはしませんが、聖伝に対する願望、つまり、全時代のミサに対するこの願望があることには気づいています。私はこの司祭たちに、この聖伝の感覚の中で生きてみようとするように、その証しをするように勧めたいと思います。恐れてはいけません。ただ、現状では問題に遭遇しなければならないでしょう。しかし、その問題で気落ちしてもいけません。なぜなら、そうすることで、おそらく50年、60年、70年後に報われる行為をすることになるからです。

【問い】共同生活に話を戻しましょう。この生活の中で、司教様が私たち司祭や、ここに勉強に通う若者たちと同じハウスにおられることも大きなポイントであるように思えますから。司教様が、共同の祈りのための時間厳守の模範であることは周知の事実です。一日のうち、司教様がチャペルで祈りに没頭しておられるお姿を、頻繁に目にすることができます。ですから、私たちは、司祭がその役務に実りをもたらすことができるためには、このように常に変わらないこと、このように規則正しいこと、そして霊的生活にもたらされるこのような配慮が、非常に重要であるということに同意します。

【ウォンダー司教】そうです! 司教が手本にならないとすれば重大な問題です。これは絶対に必要なことだと思います。そして、もし私がそこにいることができるなら、模範を示すことができることに、それは司教の義務の一部ですが、感謝します。祈りの生活は、私にとって常に重要な意味をもっています。それは司祭の生活、司教の生活を維持させるものです。また、信者の生活の支えにもなります。私は聖務日課の祈り、つまり教会の祈りが、特に好きです。チャペルで祝されし秘跡の前にいると、幸せな気持ちになります。祈りは、三位一体の天主への永遠の賛美を【天国に行く前に】前もって行っているようなものだと理解すれば、私たちは、きっと祈ることが好きになることでしょう。本当にそう実感すれば、もっともっと進んで祈りに行くのではないでしょうか。祈りによって、ミサによって、私たちはすでに永遠の中に足を踏み入れているのです。

【問い】ここで教育を受ける若者たちにとって、このような司祭、司教の模範を目の前にすることは貴重なことだと思います。このことは、彼らを教育するとともに、将来へ向けての準備となり、おそらくは司祭職への新たな召命を呼び起こすことにもつながるでしょう。このように、この学校では、教育の領域で聖ピオ十世会の成し遂げた仕事をご覧いただくことができるのです。私が司教様のご返事を理解するならば、そのご返事から、司教様が、聖ピオ十世会が使徒職において学校も重視することは当然であり、また重要であるとおっしゃる点について、私たちの意見と完全に一致しておられるものと推論します。

【ウォンダー司教】それはとても重要なことです。それは選択肢にすぎないのではなく、まさに優先事項だと言えるでしょう。もし私たちが目標に到達するならば、しかし、もしここで教えられているような信仰で若者を教育せず、学問だけでなく(これも重要ですが)、特に宗教教育、宗教の知識、そして特に宗教の実践を身につけるためでないのなら、召命はなくなるでしょう。なぜなら、司祭の召命がやって来るのは、そこ【宗教教育・知識・実践】からなのですから。それは非常に重要なことです。そして、このことが、残念ながら私たちの世界、ヨーロッパに欠けているものなのです。

今日の不満は、司祭があまりにも少ないということですが、事態がここまでになった理由の一つは、真に宗教的な教育がおろそかになっていたこと、少なくともこの宗教性が生徒に深く浸透できない形で伝えられていたということにあります。まず申し上げたいのは、教育が信仰の核心に迫っていないということです。このため、私は司祭会に心から感謝し、司祭の皆さんには、このしばしば困難な仕事に、これまで以上の新たな喜びを持って取り組んでいただければと思います。なぜなら、子どもや若者を教育するのは簡単なことではないからです。もちろん、そのことは、私がごく身近にいる今、いっそう強い印象を私に与えています。

【問い】司教様は、ここの若者たちが真の教会の精神を受けていることを証しすることも、おできになりますか? 私たちの会は、実際、しばしば離教的な態度や意向を持っていると非難されます。言い換えれば、この仕事が、何世紀にもわたって教会が常に望んできたことであり、今日もなお望んでいることだと、本当に確証することがおできになりますか?

【ウォンダー司教】もちろん、私自身がこの教育による恩恵を受けていますから、よりいっそう証しすることができます。そして、もし誰かが、私がそのとき、離教者の共同体の一員であり、そこでそれらの理論を採用したと主張するならば、私はその人に反論しないわけにはいかないでしょう。当時は、そのような教育を受けることはごく普通のことだったのです。ある点では、私たちの教育はもっと厳しかったのです。まず第一に、私たちには毎日ミサがありました。これは皆の義務でした。この国の子どもたちのように、頻繁に親に会いに行くことはできませんでした。ですから、私の時代の体制は、実際、もっと厳しかったのです。このため、ここで行われていることは、極めてシンプルにカトリック的であり、他の人もシンプルにカトリック的であると考えるべきだと、私は躊躇することなく言えるのです。

また、離教だという非難に関しては、逸話があるのですが、私が教皇様と、聖ピオ十世会のことに関しても何度も接触してきたことはご存じでしょう。離教の問題が持ち上がったとき、教皇様は何度かこうおっしゃいました。「ここは離教の共同体ではない」と。教皇フランシスコ自身が、私的な謁見の際にそうおっしゃったのです。この話題に何度も立ち戻る人々、あるいはこの誤った非難に苦しむ人々を安心させるためにも、ついでに指摘しておくことにします。

【問い】司教様、私たちを確証してくださってありがとうございます。今は引退した司教として、ここヴァングスにお住まいですが、何もしておられないのではなく、まだまだ活発に活動されているのですね。今はどんなことをなさっているのですか?

【ウォンダー司教】これらは、どちらかというと控えめな活動ですが、何よりも祈りと毎日のミサです。このことは、すべての司祭にとって非常に重要ですが、司教にとってはなおさらです。また、生徒たちとの交流もあります。限定的な接触と言えるかもしれません。生徒の告解を聞くこともありますし、カテキズムの授業を訪問したり、自分で宗教の授業をしたりすることもあります。めったにないことですが、そういうこともあります。そして、このハウスの司祭たちと共同生活をしているので、彼らと話をすることもあります。時には講演をすることもあり、聖書にどっぷりと浸かる機会にもなっています。私はこの時間をとても大切に思っています。聖書を非常に重視していますし、さらに言えば、聖書についての博士論文を書いたこともあるほどです。このように、小さな仕事から、時には修道院でミサを捧げたり説教をしたりすることもあります。ここでも、ときどき説教をします。このような活動で、私は忙しくしています。

【問い】司教様は、ここヴァングスでは、毎日ミサも捧げておられますが、もっぱら聖伝のローマ典礼でなさっていますね。この聖伝の典礼を捧げるようになられたのは、どうしてでしょうか?

【ウォンダー司教】もちろん、新しい典礼と聖伝の典礼をよく研究しました。この研究は、私に重要な違いを教えてくれました。例えば、司祭にとって非常に重要な祈りなど、あるテキストが短くされたり、廃止されたりしていることです。今、私は聖伝の典礼にあるこれらの祈りによってのみ生きることができるのです。これらの祈りは司祭を強め、特に信仰を強化し、さらにはミサで自分の賜物を強化することは明らかです。人は真に天主の御前、イエズスの御前にいるのであり、単に共同体の前にいるのではありません。私が聖伝の典礼で再発見できることのすべて、それはとても貴重で、言ってみれば、大きく時を超えているため、もう後戻りしたくないのです。

【問い】司教様のご発言から、もはやノブス・オルドを捧げることを全く望んでおられないと結論付けてもよいでしょうか。

【ウォンダー司教】もう捧げたくありません。私はもう、ノブス・オルドを捧げることはできないと感じています。なぜなら、あなたが聖伝のミサに浸っていると、もう他のことは何もできないと感じるようになるところにまで来ているでしょうから。【私も同じです。】

【問い】感情や美意識からだけでなく、信仰からですか?

【ウォンダー司教】そうです、信仰の深遠さからです。私はいつも言っているのですが、私たちの持つ典礼は信仰宣言であり、信仰宣言は簡単に脇へ追いやられることはあり得ないのです。もし、私が司教として使徒信経を祈るのをやめたら、どう言われるでしょうか? 信者は私について何と言うでしょうか? 彼らは私にこう言うでしょう。

「いったいどうしたのですか、そんなことあり得ないことです!」。私たちは聖伝の典礼が、特に年月の重みや、この成熟を持つがゆえに、信仰宣言でもあることを忘れてはなりません。彼らは、信者がこの信仰宣言を脇に置くように要求することはできません。

【問い】司教様、司教様の笑顔と出会う人々への優しさは、いつも人々の心を打ちます。どのようにして、若い心と魂の均衡を保っておられるのでしょうか?

【ウォンダー司教】おっしゃっていることは、とても重大です。この若い心、これは本当に信仰から来るものです。また、特に主との絶え間ない接触から来るものです。ですから、そのことが、私が重要視している理由です。私はすでに生徒たちに何度も言っていますが、皆さんがイエズスと良い関係、友情の関係を持つことが重要なのです。そのためには、救い主の絵、主の良い絵、美しい絵があることが重要です。そして、この絵を何度も何度も見て、まるでそこに主がおられるかのように主を見ていれば、他の人と一緒にいても、常に主との対話が保たれるでしょう。そしてそのことが、皆さんがイエズスと非常に個人的な関係を持つのを助けるでしょう。そのような関係は、常に美しいもの、啓発的なもの、人を幸せにするものなのです。

【問い】司教様がそこに注意しておられるのは美しいことです。毎朝、司教様がミサをお始めになり、詩篇の言葉の「われ天主の祭壇に上らん、わが若さを喜びで満たし給う天主のもとへ」(Introibo ad Altare Dei. Ad Deum Qui laetificat juventutem meam.)を唱えられるときに、そう思います。

【ウォンダー司教】その通りです!

【問い】これは、すでにご高齢の司教であっても、嘘ではないのですね?

【ウォンダー司教】(司教は笑う)司教は嘘を言ってはいけません。常に真実を語らなければなりません。

【問い】司教様の司教紋章は別にして、司教様はとても質素な方で、ここで同僚に囲まれてお暮らしですね。スイスの大きな教区の元司教でありながら、公の場に姿をお見せにならないのはどうしてでしょうか?

【ウォンダー司教】詩篇には、繰り返し強調されている、非常に重要な部分がいくつもあります。それは、すべてははかないものであること、常に心の中で死を思っていなければならないことであり、司教の栄光も、存在するものである以上は、やはり過ぎ去るものなのです。ですから、職務に就いているときでさえも、いつかは終わること、そのときには、別の方法で物事を整理する必要があること、全く別の方法で主の前に立つことになることを、絶え間なく思い起こすのは良いことです。この思いはこれまでずっと私の中にあって、常に自分に、「今行っていることが一番美しくても、いつ終わるか分からない」と言い聞かせているのです。そして、司教の義務は、いつか、教皇様から、あるいは、主ご自身からのお呼びによって、終わるのです。この思いを常に心に留め、それを貫かなければなりません。別の見方をすれば、自分の信仰、自分の神学、自分の聖書の知識をさらに深めるのに専念するために、重荷を捨てることができるということも、好ましいことです。これは一人の元司教の人生の美しい面です。物事の良い面でもあるのですから。人生も同じです。主が私たちをお呼びになる日、主が私たちに「時が来た」とおっしゃる日に、私たちは仕事を離れる用意がなければなりません。知恵の書は、実にうまく、こう言っています。「この世には、すべてに時があり、それぞれ時期に、すべてが天の下を過ぎ去る」(集会書3章1節)。同様に、司教職にも時があり、司教職を引き継ぐ時、名誉司教の時もあるのです。

【問い】こうして、司教様は教区司教としての尊厳と責任を離れられましたが、司教様が常に司教でいらっしゃるのは確かですから、その意味で、司教様は常に教会で活動しておられます。司祭や信者が、司教様を訪ねたり、助言を求めたり、たぶん困難な状況を少し明確にしたりするために、ここに来ることが非常に多いと聞いています。秘密を漏らさずに、そのような人々にどのような言葉をかけられますか?

【ウォンダー司教】ああ、そうですね、そういう人々の多くは、実生活や教会で起こっていることなどで困難に遭遇しているから来るのです。ほとんどの場合、彼らを安心させ、この方向に進むべきだ、自分の信仰や信念を手放してはならない、などと言わなければなりません。ほとんどの人は、励ましの言葉や支援の言葉を必要としています。また、単に司教は今何をしているのか、どうなっているのかを確認しに来る人もいますし、その後、日常的なことを話すような軽い会話もあります。しかし、ほとんどの場合、これらの人々は自分の霊魂のための霊的な助けを求めており、私は司教として、この仕事に真剣に取り組む義務があるのです。司教というものは、牧者のように振る舞う必要性を常に感じます。それが仕事の一部です。私たちは牧者なのですから。このため、年齢を重ねても、何らかの形でこの司牧の機能を行使できることは、実際ありがたいことなのです。これもまた、天主からの御恵みです。

【問い】司教様が、ここヴァングスに来られる選択をなさったからこそ、このハウスに住む多くの霊魂たちの間でも、すべてが可能になったのです。司教様は、今でも教会の公式な位階階級の機関、すなわちバチカンと連絡を取り合っておられるのではないでしょうか?

【ウォンダー司教】もちろん、一定の接触を維持する努力はしています。しかし、当然ながら、職務にある司教で、その使命のために時々ローマに行かなければならない司教よりも、名誉司教の方が連絡を維持するのは難しいのです。ですから、少なくはなっていますが、可能な限り、ローマの関心を維持するように努めています。実際、司教であることは変わりありませんし、司教として、ある意味、教会の生活に対する責任を常に背負うのです。

【問い】教会が直面している危機を踏まえ、教会の近未来をどのように見ておられますか?

【ウォンダー司教】私は、明らかに私たちの地域の危機を判断することしかできません。アフリカの状況は分かりません。アジアはどうなのか分かりません。しかし、私がここで繰り返したいのは、聖伝という古い価値観に立ち戻る限りにおいて、私たちは危機を脱することができるということです。それなくして、私たちは前に進めないのです。多少の改善はあっても、それは未来がなく、失望を残すだけでしょう。彼らは、危機の原因がどこにあるかを認識して、それを根本から攻撃するというのではなく、司祭の数が十分ではない、信者はそれに耐えなければならない、などと言うだけでしょう。

【問い】教会の最高権威の側からでさえ、そのしるしは、聖伝という源流に立ち戻ることを本当に示唆するものではありません。ごく最近、教皇フランシスコは自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)を発表し、それによって聖伝の典礼に従ったミサの挙行を大きく制限しています。教皇は、聖伝の典礼を、ほとんど完全に阻止しようとしていると考えざるを得ません。この文書についてどう思われますか?

【ウォンダー司教】このことが私に非常に大きな影響を与え、私を悲しませ、そうです、泣かせたことは想像できるでしょう。まさかこんなことになるとは思ってもいませんでした。原因は何なのか分かりません。もし私がまだ教皇様とよく連絡の取れる職務にある司教であれば、この措置によって影響を受けた人々から、もっと情報を得るようお願いするでしょう。これによって影響を受けた非常に多くの人々がいます。司祭だけでなく、影響を受けている信者、子ども、若者、家族です。聖伝には数多くの家族がいると、私は言うことができるからです。教皇様のアドバイザーたちは、自分たちがこの人々に何をしているのか分かっているのでしょうか。彼らはこの家族に何ということをしているのでしょうか? だめです、これは非常に悲しいことです。司教である同僚の皆さん、特に枢機卿である同僚の皆さんに、このこと全体を、起きたことを再考し、必要な要望をもって教皇様にアプローチするよう、心からお願いします。これは単なる教会法ではなく、教令なのですから、それが、この方々の義務です。それは信仰の核心に触れるものです。信仰の核心です。ですから、こういったやり方で、信者の信仰の核心を攻撃することは、単に良くないというだけではありません。そこから良いものは何も生まれません。

【問い】それが信仰の核心に関わることであれば、人間、霊魂、カトリック信者だけでなく、教会そのものにも影響を与えると言われるのですね。

【ウォンダー司教】それは教会そのものに関わることです、そうです。なぜなら、結局のところ、教会はこの信仰によって生きているからです。

【問い】信仰は教皇が自由にできるものではありませんし、教皇のものでもありません。

【ウォンダー司教】そうです、信仰は与えられたものであり、それはまた、すべての権威の上にあります。むしろ、すべての権威は、信仰の権威に服従します。そして、すべての権威は、この点(つまり、自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」)に関して等しく、主にお答えしなければなりません。このような条文を採択する際に、引き受ける責任がいかに大きいかを理解しなければなりません。

【問い】この文書による措置は、たとえそれが暗示されているように見えても、信仰によって動機づけられたものではなく、むしろ教会の一致に対する懸念によって動機づけられたことが明らかであるように思われるのです。教皇は、この自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」を通して、教会の一致を促進することを望むことができるでしょうか。

【ウォンダー司教】この理由付けはおかしいと思います。なぜなら、カトリック教会では、常に多様な典礼が共存してきたことを、私たちはよく知っているからです。この多様性によって、教会の一致が脅かされることはありませんでした。教会の一致の問題は別のところ、つまり、信仰への、信仰への忠実さにあるのです。私は、今日、教会の一致が脅かされているのは、ほとんどの場合、神学者たちの中でさえ、私はあまりはっきりと言いたくないのですが、忠実さ、主への信仰への忠実さが存在しないか、あるいは薄れてしまっているという事実によるものだと信じています。繰り返しますが、信仰は私たちの主から、それを伝えた使徒たちを通して与えられており、この信仰が私たちに義務づけられているのです。さて、これが今日の教会に大きく欠落しているものであり、一致を脅かすものなのです。

【問い】司教様は今、重大な点を指摘されているところです。私たちの会も、事態を同じように見ています。信仰の後に、そして信仰から流れてくるのは、道徳的な問題です。教会に不満を持つ多くの現代人は、教会をこのような道徳的な問題に矮小化しようとしています。司教様は司教として、カトリックの道徳的原則を勇敢に守ってこられましたが、そのためにマスコミからの多くの反対キャンペーンにさらされてこられました。今にして思えば、このことをなさったのを後悔しておられますか、それとも、このことは今日的な問題だとお思いですか?

【ウォンダー司教】いいえ、後悔はしていません。それどころか、いつの日か主の御前に立ち、このことについてどうしたかと問われることの方が気になります。私が言ったりしたりしたことを、主にお話ししなければならないのですから。例えば、私は信仰の基本である聖書に基づいて教え、天主のみ言葉、天主の啓示を知ろうとしました。このように伝えようとしたからこそ、私は自信と落ち着きを持っていられるのです。確かに、政治的なこと、公衆道徳のことなど、あらゆることの進化は別の方向に進んでいますが、だからといって、私たちは、道徳的生活について聖書が語ること、啓示が語ることを絶え間なく思い起こすことを免除されるわけではありません。なぜなら、それは信仰から来るものだからです。例えば、聖パウロの書簡には、常に教えの部分があり、それは信仰に関するものですが、そこから生き方、言い換えれば道徳を推論して導いています。このように、生き方は信仰から流れてくるのです。聖パウロはそれを非常に重要視し、すべての書簡で、私たちが信仰に適合して生きなければならないと繰り返しています。このことは、今の世がもう一度学ばなければならないこと、もう一度考えなければならないことです。その場合、ある種の発展はもう望めなくなります。このため、たとえ古めかしいと非難されようとも、勇気と忍耐が必要なのです。よく「中世だ」と言われます。ある日、ある信者がこう言ったんです。「司教様は中世に留まっている」と。このことは、中世の時代ではありません。このことは、単に私たちの信仰の結果なのです。ですから、それは継続しなければなりません。私は彼にこう言いました。「私は何も後悔していませんし、特に司教である私の同僚たちに、この方向で働くようお願いします」。

【問い】9月25日、司教様は金祝をお迎えになります。その翌日、スイス国民は「すべての人のための結婚」を導入する法案について投票箱で投票するよう要求されます。言い換えれば、同性同士の自然に反する結合は、天主によって制定された男女間の結婚の秘跡と同じレベルに位置づけられるべきだということです。社会の進化をどのようにとらえ、どのように対抗すればよいのでしょうか。

【ウォンダー司教】まず、私たちの信仰が、そのような進化に「はい」と言うことを常に禁じていることは明らかだと言わなければなりません。このことは、もちろん、私たちが相応に公的な生活の場に身を置き、その進化を防ぐためにできる限りのことをしなければならない、ということです。これは難しいことですが、すべてのキリスト信者は、その信仰を義務づけられています。信者が自分の信仰を真剣に受け止めているならば、すべてが天主の法に反している、ということを断言しなければならないのです。

今日、天主の法はもはや真剣に受け止められておらず、自然法もまたそうであり、法が存在せず、時代遅れの神学者の想像の実とみなされている、ということがまったく明らかになっています。しかし、私たちの信仰は私たちの確信であり、天主の法に反するものは自然法にも反するのです。私たちは、公的な場を含め、相応に行動し、そのような発展が社会を奈落の底に落としてしまうことがないように、力を尽くさなければなりません。もうそれ以上は言えません。

【問い】もっと気分のいい話に移りましょう。司教としてのご経歴やご自身の経験を通じて、ますます多くの若者が、召命でも、聖伝へと、全時代のミサへと、教会の永続する信仰へと向かいつつあることを指摘されていますね。これが本当に司教様の観察なさったことですか?

【ウォンダー司教】すぐに観察しなければなりませんが、それは、聖伝には若い人が多く、家族連れも多いということです。言い換えれば、聖伝は若いのです。このことは、私たち司教、つまり教会の指導者の責任をより一層重くするものです。なぜなら、ここで何かが起こり、それが成長していることは否定できません。この動きは―それ以外には考えられませんが―聖霊の働きの下にあるということです。これは、人間の働きではなく、聖霊の働きなのです。聖伝についてほとんど知らない若い司祭たちが来ていることを考える限り、疑問が生じます。どうしてその司祭たちがそこに来ているのでしょうか? 私の唯一の説明は、天主の霊がここで働いておられるということです。ですから私は、これらの人々をこう励ましています。たとえ司祭候補者で、今後非常に困難な状況に置かれるとしても、この道を歩み続け、聖霊に忍耐と、とりわけより深い理解を与えてくださるようお願いするように、と。なぜなら、これらの信仰の真理に対する理解が深まれば深まるほど、信仰はさらに強固なものとなるからです。そして、さらに確信と力をもって働くことができるようになるのです。

【問い】聖パウロは、「信仰は聞くこと【宣教】による」と言っています。ですから、私たちには、それを言葉や証しを通して聖職者に伝えるという仕事があります。

【ウォンダー司教】そうです、これこそがすべての説教の目標です。そして司祭は、特にこのテーマについて、その責任を目の前に突きつけられているのです。

【問い】聖ピオ十世会の多くのミサ・センターで、コロナウイルス感染症対策が顕著なこの時期、ますます多くのカトリック信者が公式の小教区からやって来て、聖伝を発見し始めたのを見ることができました。おそらくその理由は、秘跡を受けるのを厳しく制限することになった、この対策を扱う牧者たちの対応に、信者たちがしばしば失望したからでしょう。信者たちは、私たちのチャペルやハウスで秘跡を受けたいと思ってやって来ており、彼らの多くは、この機会に、その小教区で受けた信仰の知識がいかに少なく、自分たちの信仰についていかに無知であったかを思い知ることになったのです。司教様は、このことが、教会とカトリックが陥っている危機を説明する一つの要因になっているとお考えですか? これもまた、信仰の危機でしょうか?

【ウォンダー司教】そうです、これはあなたが思っておられる意味での信仰の危機であり、信仰が深く教えられていないことが分かるのです。カテキズムでは、特にカテキズム教育においてですが、残念ながら、この50年間、私たちはこのようにその教育がなされていないのを目の当たりにしてきた、と私は言わなければなりません。この信仰を深く伝達することは、数多くの小教区や、教えられるはずの数多くの教育機関で、もう行われていません。このような信仰に対する無知は、そこから生まれるのです。そのため、カテキズム、つまり、カテキズム教育という目的のための指導が、非常に重要なのです。そして、私はそこで、聖ピオ十世会において、また他の聖伝の運動においても、カテキズム教育が非常に真剣に受け止められ、非常に真剣に教えられていることを指摘しなければなりません。このような環境で信仰が高まっているのは、そこから生まれるのです。私たちが再び信仰を完全に教えることが絶対に必要なのです。人に喜ばれるような、あるいは、人に喜ばれるような印象を与えるような特定のテーマだけでなく、本当にその深さにおいて、そのすべての幅においてです。

【問い】司教様、本日していただいた証言と、その中にある励ましに対して、本当に感謝申し上げます。司教様が、信仰に満ちて、この信仰の伝える証言をされ、また司教として働くことができるということに満足されながら、救い主がお望みになる限り、長生きされるよう願っております。

【ウォンダー司教】本当にありがとうございます。あなたの願いが本当に実現するよう希望します。天主に感謝!


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年01月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計105人でした。大阪では24人でした。

今日は、風と海に命じて支配するイエズス・キリストを黙想しました。大嵐も津波も台風も全ての自然現象は、イエズス・キリストの支配下のもとにあります。全ては、イエズス・キリストの無限の愛のもとに動いています。生命も死もイエズス・キリストが支配しています。主は、私たちを決して見捨てることはありません。主は弟子たちに言われます。「なぜ、おそれているのか。信仰うすい者よ」

"主よ、私の信仰を強めてください。主に信頼します。主により頼みます。主の憐み深い愛に委ねます。私が、主を悲しませることだけを恐れるようにさせてください。それ以外のことについては、恐れる代わりに、私の信仰をいや増してください。"

【報告:東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 105, including children.

09:00 mass
M: 20 (incl. 3 children)
F: 26 (incl. 7 children)
Total: 46 (incl. 10 children)

11:00 mass
M: 15 (incl. 5 children)
F: 19 (incl. 3 children)
Total: 34 (incl. 8 children)

12:30 mass
M: 15 (incl. 0 child)
F: 15 (incl. 1 child)
Total: 30 (incl. 1 child)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 8 children)
F: 58 (incl. 11 children)
Total: 105 (incl. 19 children)

photo credit


嵐を鎮める奇跡|カトリック教会の不可崩壊性から「聖座空位主義」 は間違っているのです。

2022年01月29日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年1月30日は御公現後第四主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御公現後第四主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


全州(韓国・湖南)の七人の殉教者の墓地(致命者山)に巡礼

2022年01月29日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ

愛する兄弟姉妹の皆様、

韓国の湖南地方の最初の使徒ら、七人の殉教者の墓地を写真でご紹介いたします。
この墓には、福者パウロ尹持忠(1759年 ~ 1791年)、福者ヨハネ柳重哲(1779-1801年)、福者ルガルダ李順伊(1782-1802年)など七人の墓です。





岩がゲッセマネで祈る(左上を向いて)キリストのように見える。

同じ岩が聖母のシルエットのように見える。

尊い殉教者たちよ、我らのために祈り給え!


家族についての説教(3)没薬:結婚の第三の善、すなわち子どもを生むという義務と名誉

2022年01月26日 | お説教・霊的講話

家族についての説教(3)没薬

ドモルネ神父さま 2022年1月23日

はじめに

教皇ピオ十二世は、三人の博士たちの三つの贈り物を、キリスト教の結婚の三つの善に、例えました。前々回の主日に、私は、黄金について、お話ししました。黄金は、結婚の第一の善、すなわち夫婦の貞節を表します。夫婦の貞節は、夫婦の結びつきの堅固さと美しさを、保証するものです。前回の主日には、香について、お話ししました。香は、結婚の第二の善、すなわち婚姻の秘跡を表します。婚姻の秘跡は、家庭生活を、絶え間のない祈りに変える、恩寵の源です。今日は、没薬について、お話しします。没薬は、結婚の第三の善、すなわち子どもを生むという義務と名誉を表します。

1.没薬は子どもを象徴する

まず、次の質問をしてみましょう。教皇ピオ十二世が、家族の子どもたちを没薬に例えたのは、なぜでしょうか? 没薬とは、昔、特に死者の遺体を保存するために使われた樹脂です。没薬のおかげで、エジプトのミイラに見られるように、遺体を何世紀にもわたって保存することができたのです。

家族の没薬は、子どもたちです。家族は、子どもたちを通して、自らを保存し、永続させ、新たにしていくのです。子どもたちは、両親やその先祖から続く存在です。子どもたちは、身体的特徴や、道徳的特徴など、両親やその祖先の一部を、自分たち自身の中に持っているのです。教皇ピオ十二世は、こう述べています。「子どもたちは、先祖の生ける鏡であり、先祖がよみがえったかのようなものです。(中略)皆さんが、皆さんの子どもたちの中に見ることができるのは、しばしば、夫婦それぞれの先祖と同じ身体的や、道徳的特徴をもって、よみがえり、活動している、ということです。特に、皆さんの先祖の信仰、名誉、聖徳の伝統がよみがえるのを、見ることができるのです」。

2.没薬の苦さ

没薬は、苦い物質です。この点でも、没薬は、子どもを象徴しています。皆さん全員、子どもの世話や教育が、時に困難で、過酷で、苦いものであることを、ご存じでしょう。親は、子どもに食べさせ、服を着せ、住まいを与え、その世話をしなければなりません。両親は、子どもを教育しなければなりません。教育というのは、文学や歴史、数学などの学問を、子どもに学ばせることではありません。教育とは、まことのもの、善きもの、高貴なもの、美しいものを選び、偽りのもの、罪深いもの、ゆがんだもの、醜いものを拒むように、子どもに教え、子どもを訓練することです。子どもを教育するということは、子どもが、聖徳を実践し、天主から与えられた良い資質を伸ばすのを、助けることです。子どもを教育するということは、子どもが自分の欠点や弱点を正す手助けをするということです。この教育という仕事には、たくさんの分別や、忍耐力や、粘り強さが必要です。そして、これが、より一層必要であるのは、子どもというのは、しばしば、両親が自分のためにしてくれることのすべてに気づかず、それほど感謝の気持ちを示さないからです。大家族について、教皇ピオ十二世は、こう述べています。「子どもたちという美しい冠から生じる、避けられない心配事に立ち向かうには、勇気や犠牲、時には英雄的資質さえ、求められます。特に、生活費が高く、家庭が裕福でない場合は、なおさらです」。

3.没薬は保存する力をもつ

しかし、教皇ピオ十二世は、すぐに、こう付け加えました。「没薬のもつ、保存する力は、その苦味から来るものです。子どもの世話や教育の仕事は、夫婦、家族、そして国家の団結を、保存するのです」。

 子どもを育てるという仕事は、夫婦の結びつきを守ります。子どもの数が多ければ多いほど、離婚の危険性が低くなることは、よく知られています。

 子どもを教育するという仕事は、家族を、内側からの崩壊の危険から守ります。教皇ピオ十二世は、こう述べています。「教育という仕事は、家族を毒し、崩壊させる要素、たとえば、自分勝手さ、絶え間のない快適さの追求、意図的に数を制限した子どもの、誤った、堕落した教育などから、家族をまもるのです」。しかしまた、教育という仕事は、喜びの源となることで、家族を守ります。ピオ十二世は、こう述べています。「健康で、たくさんの子どもを持つための両親の努力は、天主の見守るなか、家庭で花開き、喜びと、相互の励ましあいの源となるのです」。詩篇125篇第5節で、聖霊はこう言われます。「涙のうちに種をまく人は、喜びのうちに刈り取る」。

 子どもを教育するという仕事は、国を保存するのです。これはあたりまえです。特に避妊や中絶をすることで、子どもを欲しがらない国は、消滅する運命にあります。まず、人口が減るからです。次に、今いる人々の道徳的な質が、自分勝手さや、肉欲や、残虐さへと、沈んでしまうからです。最後には、国の維持と発展に、大きく貢献できたはずの人々が、生まれなかったり、殺されたりしてしまうからです。例えば、1948年以来、日本では、公表された数字で、約三千万人の赤ん坊たちが中絶されました。その中には、偉大な宗教的指導者や、政治的指導者になる資質を持った人が、どれだけいたことでしょうか? 科学や文学、農業、工芸、技術の分野で、素晴らしい才能を与えられた人たちが、どれだけいたことでしょうか? 天主のみが、ご存じです…。公式の数字によると、この2年間で、およそ2万人が、新型コロナウイルス感染症のために死亡し、29万人の赤ん坊たちが、中絶されました。日本の存立にとってより危険なのは、新型コロナウイルス感染症でしょうか、それとも、妊娠中絶でしょうか?

結論

親愛なるカトリックのご夫婦の皆さん、締めくくりにもう一度、教皇ピオ十二世の言葉を、引用させてください。「キリスト信者の家族においては、子どもは、天主からの贈り物として、細心の注意を払って守るべき宝として、望まれ、歓迎されるのです」。


家族についての説教(2)香:婚姻の秘跡

2022年01月26日 | お説教・霊的講話

家族についての説教(2)香

ドモルネ神父さま 2022年1月16日

はじめに

先週の主日には、教皇ピオ十二世が、三人の博士たちの三つの贈り物を、結婚の三つの善に例えたことを、お話ししました。夫婦の黄金とは、夫婦の結びつきの堅固さと美しさを保証する、婚姻の貞節のことです。夫婦の香とは、二人の婚姻の秘跡のことです。今日は、このことについてお話しします。

1.聖人たちの祈りの象徴としての香

まず、この教皇が、なぜ、香を、婚姻の恩寵に例えたのかを、ご説明しましょう。

香とは、燃やされる香料で、その煙は、天に立ち上ります。黙示録によると(黙示録8章4節)、香は、聖人たちの天主への祈りを意味します。ここで、「聖人たち」というのは、天にいる聖人だけでなく、成聖の恩寵の状態にある、すべての霊魂を意味しています。「祈り」というのは、私たちがひざまずいて唱える祈りだけでなく、それがどんなにありふれたものであっても、天主をお喜ばせしたい、そして、永遠の命に到達したい、という願いを持って行う、あらゆる行為を、意味しています。主は私たちに、こう命じられました。「だから、いつも警戒し、そして祈れ」(ルカ21章36節)。聖パウロは、このように教えています。「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにも、すべて天主の栄光のために行え」(コリント前書10章31節)。

ですから、「聖人たちの祈り」とは、成聖の恩寵の状態にある人々が、天主をお喜ばせしたい、そして、永遠の命を得たいと願って行う、あらゆる行為を意味するのです。そのような行為は、目に見えない香のように、彼らの霊魂から、絶えず、天主に向かって立ち上るのです。

2.夫婦の香=婚姻の恩寵

教皇ピオ十二世は、キリスト信者の夫婦に対して、婚姻の秘跡が二人の香である、と語っています。なぜ、そうなのでしょうか? それは、結婚生活および家庭生活の全体を、絶え間のない祈りに変えるのは、婚姻の秘跡による恩寵だからです。夫婦が、あらゆる行為を天主の栄光のために行うことができるのは、その夫婦の霊魂に存在する、婚姻の秘跡による恩寵によるのです。教皇ピオ十二世の言葉はこうでした。「この香は、皆さんの生活全体をかぐわしい香りで満たします。また、この香は、皆さんの日々のわざを、たとえそれが、どんなにたわいない行為であっても、それによって、天国で天主の直観を獲得することのできる行為にしてくれるのです。この、目に見えない、真の香が、恩寵による超自然的な生活なのです。洗礼によって与えられ、悔悛によって新たにされ、ご聖体によって養われる、この恩寵が、婚姻の秘跡によって、特別な形で、皆さんに与えられるのであり、この婚姻の秘跡において、皆さんは、皆さんの新しい義務に応じた、新しい助けを受けるのです」。

3.婚姻の秘跡

洗礼を受けた人同士が結婚するとき、その結婚は、契約であるだけでなく、秘跡でもあります。秘跡とは、霊魂において、恩寵を生み出したり、増やしたりするために、私たちの主イエズス・キリストが制定された、外的なしるしです。したがって、秘跡には、二つの側面があります。秘跡は、外的なしるしであり、また、恩寵の源でもあります。

キリスト信者の夫婦の結びつきは、外的なしるしです。それが、目に見える形で表しているのは、キリストとキリストの教会との結びつきという、目に見えない現実です。キリスト信者の結婚が、解消されえないものであるのは、キリストとキリストの教会との結びつきが、解消されえないものだからです。キリスト信者の結婚が、一人の男と、一人の女の間でしか、成立しえないのは、キリストはただひとりであり、キリストによって設立された教会も、ただ一つだからです。キリスト信者の結婚が、生涯続く結びつきであるのは、キリストとキリストの教会との相互の愛が、永遠に続くものだからです。

キリスト信者の夫婦の結びつきは、恩寵の源です。教皇ピオ十二世の言葉は、次のとおりです。「キリスト信者の家庭が、秘跡の上に成り立っていることを、思い起こしてもらいたいと思います。これが意味するのは、婚姻は、ただ単なる契約ではなく、あるいは、人生における重要な日を記念するための儀式や公的行事であるだけではない、ということです。それどころか、婚姻は、その本来の意味における、超自然的な生活に関する宗教的行為なのです。結婚生活を聖化し、夫婦としての義務を果たし、その困難を克服し、その約束を守り、その理想を最も完全に実現するのに、必要かつ有用な、あらゆる恩寵、あらゆる助けを、天主から得るための永久の権利が生じるのは、このためなのです。キリスト信者の結婚を、キリストと教会との、解消され得ない結びつきの永遠の象徴、という尊厳にまで高めることで、天主は、これらの恩寵をお与えくださることを、約束されたのです」。

そして教皇は、キリスト信者の夫婦を喜びと勇気で満たす、次の言葉を付け加えました。「したがって、キリスト信者の家庭は、それが理論においても、実践においてもキリスト的であるならば、それは聖性を保証するものである、と、私は断言することができる」。

4.信仰の違いによる婚姻障害

今までの話によって、カトリック信者が、洗礼を受けていない人と結婚することを、なぜ教会が禁じているのかが、お分かりいただけたと思います。これは、信仰の違いによる婚姻障害、と呼ばれています。教会は、これによって、カトリック信者個人の自由を侵害しているのではなく、むしろ、信者が正しい選択ができるように、助けているのです。教会は、洗礼を受けていない人と結婚するカトリック信者に対する、あらゆる危険、困難、短所を、よく承知しています。教会が、重大な理由によってそのような結婚を許さざるを得ない場合、それを許すことができるのは事実ですが、しかし、教会は、非常に不本意ながら、それを許すのです。

結論

今日の結論として、三つのことを述べたいと思います。

・ まず、洗礼を受けていない人との結婚を考えている若い皆さんへ。相手の人に、カトリック信者になってもらい、その後、カトリックの結婚をするように説得するために、祈り、そして、できる限りのことをしてください。もし相手の人がカトリックになりたくないのなら、結婚しないで、仲の良い友人でいてください。だれか他の人を探してください。

・ 次に、配偶者が洗礼を受けていないカトリック信者の皆さんへ。皆さんの配偶者をカトリックの信仰に導くために、忍耐と辛抱をもって、祈り、そして、あらゆる努力をしてください。皆さんの結婚が秘跡になるのですから、皆さんの配偶者の救いのため、また皆さん自身のための行いをしていることになるのです。

・ 最後に、婚姻が秘跡であるカトリック信者のご夫婦の皆さんへ。教皇ピオ十二世の感動的な言葉を通して、もう一度だけ、言わせてください。「皆さんは、結婚生活を聖化し、夫婦としての義務を果たし、その困難を克服し、その約束を守り、その理想を最も完全に実現するのに、必要かつ有用なあらゆる恩寵、あらゆる助けを、天主から得るための永久の権利を受けたのです」。皆さんは、願えば願うだけ、これらの恩寵を受けることになるでしょう。


シプリアン・トマシュ・コレンド神父【元フランシスコ会司祭】の公開書簡「聖ピオ十世会司祭会では、真の聖伝の宝と健全なカトリックの教えが、霊魂の救いのために守られ、変わることなく公に宣言されている」

2022年01月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど


2021年11月12日 コレンド神父の書簡

(2021年、公会議後のフランシスコ会を去って聖ピオ十世会に合流したポーランドの修道者の一人、シプリアン・コレンド神父は、以下の公開書簡を書きました

尊敬する管区長様

私はこの書簡を、大変な苦痛を感じながら書いています。しかしそれと同時に、自分自身の救いを害さずに今の良心の状態を続けることは耐えられない、と思いながらしたためております。この一年近く、私が修道会に入ったときの理想が薄れ、司牧や典礼の実践がかえって悪魔のような歪みになっているのを目の当たりにしてきたのです。

長年、私は自分の聖伝主義は自分が働く環境に適合しており、また信者の霊的な利益のために信者が覚えておくべき道であると信じてきました。私は自分の役務を通して、信者を以前の状態からカトリックの聖伝へと進化するように移行させたいと思っていました。アタナシウス・シュナイダー司教やロベール・サラ枢機卿など、少数の伝統的な高位聖職者の声が、支援、慰め、道しるべとして役立つような錯覚に陥っていたのです。しかし、…私は大きく間違っていました。なぜなら、これらの高位聖職者たちは、一貫して疎外されているからです。

私は、教会をめぐる闘争には気づいていましたが、教会をこの世に適応させようとする病的な試みから生じた誤謬が、どれほど浸透しているかには気づいていませんでした。ポーランドの教会は、私にとって避難所であり、(まだ)健全な霊的組織であるかのように見えました。しかし、「試練」という現実は、全く違うものであることを見せました。コロナウイルス感染症の操作の時は、「多くの人のひそやかな思いが明らかにされる」時期です。

教会の歴史に関心を持つ信者にとって、その診断は明らかです。19世紀と20世紀の教皇たちの警告の努力、例えば、ピオ九世とレオ十三世が教会に対する悪魔の計画を説明するために発表した「アルタ・ヴェンディータ」(Alta vendita)の指示に関する異常なほどの無知があります。
ミラーリ・ヴォス」(Mirari vos)、「パッシェンディ・ドミニチ・グレジス」(Pascendi Dominici gregis)(1)(2)(3) 、「クァンタ・クーラ」(Quanta cura)、「シラブス」(Syllabus)などの回勅や、近代の誤謬に対抗するための他の回勅も無視されました。しかし今日でさえも、それらを正しい文脈で読み、何を指し、何を断罪しているのかを理解することは難しくないことです。

もちろん、これはずいぶん単純化されていますが、現在の教会の状態の源泉は、数十年前に教導権によって明確に断罪された哲学の流れや神学の誤謬が、教会に浸透していることにあるのは確かです。修辞的な質問です。今でこそ有名なこの従順は、当時どこにあったのでしょうか?

ポーランドの状況では、教会の危機は、政治的変化の歴史と密接に結びついています。聖職者、特に位階階級の間では、(共産党の秘密情報機関との協力に関して)審査が行われなかったため、少なくとも疑わしい資質を持った人々が最高の地位にいました。このような状態は、聖職者の道徳的水準の長年にわたる低下を引き起こし、今日では、不幸にも多数の部下が倒れたことに直面して、位階階級が妥協的な態度を取ることですべてが閉ざされているのです。一方、教理への攻撃もありました。これは、神学研究の自由の口実の下で公開された、あからさまに非カトリック的な内容に対して、発言を許し、対応しないことによるものです。

今日、私がはっきりと見ることができるのは、ポーランドの教会が、あらゆる近代主義的な考えを実行しようと努力していることです。一方、私は、このような状態を受け入れない、管区内で唯一の存在であるという感覚を持っています。なぜなら、何の抵抗もない沈黙や無言の批判は、最終的に受け入れることを意味するからです。私は多くの同僚と、しばしば非常に兄弟的な関係にあるため、共通の信仰と基本的な問題への感受性の欠如が隠されることはないでしょう。したがって、この一年間に私の人生に起こったすべてのことが、私をより大きな必要性のある状態に置いているのです。

教会の現在の悲劇的な状況は、異端の司教たちの言うことを聞き入れて自らの救いを危険にさらしたアリウス派の危機と比べる以外にはありません。

このすべてに対して、良心を壊す全体主義的な主張の原則が、誓願を立て、位階階級のシステムに身を置いてきたすべての人に適用されました。彼らは、教会の文書に照らして明らかに断罪されていること、価値のない、有害なことをするように人々に命じています。このような権利を主張する位階階級は、これまでも、今も、そしてこれからも、天主こそがすべての教会法の誓願を最終的に受け取るお方であることを忘れているのです。

尊敬すべき司祭の一人が、かつて私にこう言いました。「あなたの管区長や司教が、あなたと一緒にあなたの最後の審判に行くかどうか考えてみてください。彼らはあなたの弁護者あるいは共同被告(co-defendants)になるでしょうか? 彼らはそこにいないでしょう!」。

信仰に反する誤謬を積極的に実行することが、天主をお喜ばせする従順でしょうか? 理性を働かせ、トミスト的なアプローチに戻るということがなければ、まもなくドイツの修道院におられる管区長の方々は --- もちろん「最大の従順の徳」の下に --- 同性愛者の結合を祝福するようになるでしょう!

甘く考えないようにしましょう。これらの悪魔のようなニュースは、数年のうちに、私たちの教区、特にオポーレの教区にやって来るでしょう。現在の状況にある教会のスキャンダルを止めることはできないと私は考えています。

私の状況を打開する唯一の方法は、聖ピオ十世会司祭会(SSPX)に加わることです。同会では、真の聖伝の宝と健全なカトリックの教えが、霊魂の救いのために守られ、変わることなく公に宣言されていますから。

それ以外の道は本物ではなく、再び良心の呵責にさいなまれることになると思われます。これは感情に流された決断ではありません。近代主義やプロテスタント化が支配的な中で、そのような【感情に流された】決断があったかもしれませんが。教皇たちの回勅や教会博士たちの著作を読み、何カ月にもわたって考えた末の決断です。教会の問題に関する私の個人的な研究は、修道生活な養成教育の初期にまでさかのぼりますが、確かにこの決断の基礎となるものです。

十分認識して行動することで、私に可能な唯一の反応は、聖なるもの(sacrum)に向けられたあらゆる破壊的行為に積極的に参加する修道会を去ることだと確信しています。それは、「霊魂の救い―最高の法」という一般的な条文から、この場合は私自身の霊魂の救いに従うことからも生じるものです。

私は、聖ピオ十世会のおかげで真の従順について学びましたが、今日の公会議後の司祭たちの頭の中では、聖ピオ十世司祭兄弟会は不従順的で、不従順と同義とさえみなされています。しかし、この聖徳を正しく理解して果たすのは、結局のところ同会であることが判明したのです。

また、神学校からトミズムが執拗に排除される理由も理解できました。ピオ十世が近代主義の特徴的な症状を見たのは、【近代主義の】トミズムとの戦いの中であり、トミズムの排除は、おそらくは、教会の究極の目的、すなわち霊魂を救うという使命から完全に離れた無反省な従順を教会に導入するためのものだったのでしょう。

聖ピオ十世司祭兄弟会は、私がほとんどいつも心の中で感じていたことを声に出して発言しました。謙虚さと知恵、明晰で、トミズム的な、つまり問題に対する現実的なアプローチです。ルフェーブル大司教は、今日、特別な弁明の言葉を必要としていません。なぜなら、大司教の事業は、自らを擁護し、実を結んでいますから。流布されている否定的で不公平なスローガンを乗り越えることができる人なら、誰でも簡単にそれを知ることができます。

公会議の決議の影響についての大司教の懸念は、年を追うごとに正しいことが分かってきています。結局のところ、「時は真理の尺度」です。

(ポーランドの)司教様方が、最も敬虔な信者たちが聖ピオ十世会のチャペルへ大脱出することを防ごうと、教区の聖伝の司牧の聖務部門[ポーランドにおけるスンモールム・ポンティフィクム(Summorum Pontificum)の聖務のための名前]を創設するという事実そのものが、この仕事が天主に由来しているという、もう一つの証拠です。

初ミサの直前、私信メールのやり取りが宛先ではない人々によって公開され、その中で、超近代主義的な修道女会に対して私が手による聖体拝領を拒否していたことから、私は圧力(というより脅迫)にさらされることになりました。私の道が、管区の道とまさに分かれようとしていると悟ったのが、そのときだったのは確かです。個人的な理由ではなく、司祭の手が触れることができる最も重要なもの、つまりご聖体、に対する考え方がまったく違っていたためです。そのとき、聖ピオ十世会を知っていたならば、私の決断を早め、従順を受け入れる時の良心の痛みから解放されていたのに、と思います。

私は、無知の犠牲になっている神父様方や兄弟の方々を攻撃するつもりはありません。それにもかかわらず、私は、すべての司祭が、教会の状態について、教会が導くべき超自然的な目標について、常に考えなければならないと信じています。主イエズスのご聖体における現存に対する信仰の覚醒、あるいはその消滅は、すべての司祭にとって最も関心のある対象であるはずです。

小教区に移ってから、問題に気づかない同僚たちのいる環境の中で、私は一つの選択をしました。つまり、悪名高い良心の侵害を受け入れるか、「いいえ」と言って、信念不動の司祭たち(なぜなら、私はカトリックの聖伝の司祭たちをそのようにみなしているからです)の共同体に加わるかです。もちろん、この決断を私の中でしばらく熟成しなければならなかったため、その後に、実行の段階に移りました。聖トマス・アクィナスの教え、知性の判断、良心の声に照らせば、「善悪の判断は好きにすればよい、しかし規則は守らなければならない【たとえ悪であっても、規則通りにその悪を為すべきである】」という文言に従って行動することに、私は決して同意することはできません。

この意味での従順から、どんな価値あるものが得られるのでしょうか? もしこの「従順の徳」が明らかに「信仰の徳」を殺してしまうのであれば、神学上の徳とどのように一致するのでしょうか? 理性に反する態度とは、従順が信仰、希望、愛に隷属しているのが見られない場合のことです。既にカトリック信仰から逸脱しているのが明らかな位階階級の手中にある受動的な道具であることを受け入れることが、果たして徳であり得るでしょうか?

霊的な面から見れば、状況は明らかです。ポーランド大司教座は、手による聖体拝領を信者に勧めていますが、これはルターの弟子であるマルティン・ブツァーのガイドラインを実行したもので、彼は16世紀に、ご聖体におけるイエズスの現存への信仰から離れるための規則を策定しているのです。この事実だけで、司祭は良心と教会法の一般条文に基づいて、これらの慣習に参加することを拒否するよう誘導されるはずです。新型コロナウイルス感染症に関する疫学的脅威をもって、手による聖体拝領の推進を正当化することは、控えめに言っても、知性への攻撃です。このことは、医学界によって明確に繰り返し実証されています。

手による聖体拝領の実践の歴史を引用しても意味がありません。もっとも、この話は近代主義者が自分たち流にすでに書いたものであり、カトリックの信仰に対する最も重要な濫用と脅威を無視したものであると思えます。

ですから、状況を見極める労を惜しまない人々には、これが教会でサタンが行っていることだということがすぐに分かるのです。教会で、主の御体とクリスマスのウエハースとを実際に区別することのできない人々が特権的に扱われていることを、他に何と呼べばよいのでしょうか?

私の修道の道の初めから、聖母の明確な導きにより、この実践を観察する機会が与えられました。初めて遭遇したのは、ドイツからの巡礼団によるトシェブニツァの野外ミサの時です。とても驚いたのは、礼拝の気配が全くないことです。ご聖体の摂取の後、彼らはすぐに、お互いに冗談を言い始めました。この現象は、聖体拝領でお受けするお方の偉大さを認識していないことと関係があるのは明らかで、よく観察する必要があると思いました。その後の観察でも、最初の観察とあまり変わりませんでしたが、それが適切で価値のあるものとして提示された人々を、私は全面的に責めるつもりはありません。

統計がいくつかあります。米国では、この恥ずべき慣習が導入されてから20年後、約70%のカトリック信者が、ご聖体における救い主の現存を信じなくなりました。

司牧の観点から言えば、私は、拝領者の手から目に見える小片が救い出されたことの目撃者であり参加者でした。私が見たのは、司祭の前で主の御体の残りを教会の床に振り落とす人々でした。言うまでもないことですが、悪名高いことに動きはそろっていない上、主の御体を不敬に扱っていたのです。

「私の聖なる子は、自分が地面に投げ出され、汚れた足で踏みつけられるのを見るでしょう」―キトでの聖母の出現。

そして、この慣習を正当化する理由を教父学に求めようという絶望的で誤った試みをしても、それが変わることはないでしょう。とにかく、すでにピオ十二世によって考古学の誤謬として断罪されたものなのです。長年にわたって、私は神学校でこう言って良心を眠らせてきました。「神学生として、修道者として、私に何ができるのだろうか? 私に残されているのは、自分の小さな持ち場に忠実であることだ」。しかし、今日、司祭として、私は、沈黙することによって、教会に不敬冒涜を導入する道具となるようなやり方はできないことを理解しています。私たちには、この世で、主の御体ほど尊いものはないのです。

私たちは、すべてにおいて聖フランシスコの真似をすることはできませんが、聖なる秘跡に敬意を払うことについては確実にできますし、そうしなければなりません。【聖フランシスコの】「修道会全体への書簡」、特に次の箇所は、いつも私にどれほどの励ましを与えてくれたことでしょうか。

「わが兄弟なる司祭の皆さん、モーゼの律法に書かれていることを思い起こしてください。主の御裁きで外面的なことまで犯した者が、いかにあわれみを受けずに死んでいったか、ということを。誰であれ、天主の御子を踏みつけ、自らが聖化された契約の御血を冒涜し、恩寵の御霊を侮辱する者は、どれほど大きくて悪しき罰に値することでしょうか。なぜなら、使徒が言うように、キリストの聖なるパンを他の食物や物と区別せず、見分けもつけずに、価値のないものを食するか、彼がふさわしくても、むなしく、ふさわしくないやり方で、食することによって、人は天主の小羊をあなどり、汚し、踏みつけるからです。何故なら、主が預言者を通して語られるように「天主のみわざを裏切って行う者には呪いあれ」だからです。また、本当にそれを心に留めようとしない司祭たちを、彼はこう言って非難されます。彼らはあなたの祝福を呪うだろう。(…)もはや死に服することなく、永遠の栄光のうちに生き、天使たちが見たいと切望するお方を、自分の手で触れ、心と口とで迎え入れ、他の人々に与える者は、どれほど聖なる者で、正しい者、ふさわしい者でなければならないでしょうか(略)」。

私は長い間、この箇所が手による聖体拝領の実践に対抗して、共同体に浸透しているに違いないと思っていました。なぜなら、この問題に関する聖フランシスコの見解を理解するのに、偉大な聖書解釈学に頼る必要はないからです。もちろん、清貧の人(Poverello)【聖フランシスコ】の心には、「天からのパン」に関して、これを行うよう私たちに告げるのが、位階階級そのものであったので、恐れはおそらくなかったのでしょう。司祭がご聖体におけるイエズスの現存への信仰に関心がないのであれば、このことは霊魂の救いにとって大きな打撃となります。

もちろん、手による聖体拝領の推進が、私の決定の唯一の理由というわけではなく、氷山の一角です。本当の病は、教会の強制的なプロテスタント化であり、司祭職からその独自性を奪っていることです。

この状況は、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum pontificum)によって変えることができたはずですが、私たちの管区では完全に無視されました。しかし、結局のところ、ベネディクト十六世の明確な意志は、ピオ五世のミサの挙行に戻ることだったのです。

私は神学校で、ある講義の最初に、教会における「完全主義者のグループ」の価値のなさ、不必要さ、有害さについての講師の見解に同意する必要があったことを記憶していますが、これは管区の司祭の間にある一般的傾向を明確に示していると思います。

私は、多くの時間をかけて、"全時代のミサ"【聖伝のミサ】を学びました。このミサには、私自身、信者時代にこれにあずかった時に覚えた言いようのない神聖な感覚を思い出しながら、心の中でずっと捧げたいと思っていたのです。それは、私の大いなる喜びでした。しかし、今日、私は、気まずい質問を避けながら一人で隠れてミサを捧げなければなりません。あるいは、この典礼の完璧さと偉大さで私と信条を同じくする、ごく少数の友人たちのためにミサを捧げることを余儀なくされています。

私は、全時代のミサだけを完全に捧げたいのです。このミサは、ノブス・オルド・ミサとは全く異なる霊的実在物であり、両方の典礼を捧げた人しか、その不一致を理解することはできません。オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿による「簡潔な批判的分析」教皇パウロ六世への手紙)(その一)(その二)()のすべてが完全に理解でき、かつ明白になりますし、新しいミサの創造者の意図が最もよく要約されています。「これら全ての省略は聖体における主の現存のドグマを信ずることを暗黙のうちに否定することを、きわめて強調することしか役に立たっていない。」

推し進められた共同司式ミサといったものと、全時代のミサを挙行することの差は、本当に衝撃的なものです。ノブス・オルド・ミサ全体でどれほど礼拝の身振りが剥ぎ取られているか、新しいミサ典礼でどれほど多くの祈りが削除されているか、祭壇の向きを裏返すことがどれほど神聖な感覚に影響を与えているかが、お分かりになるでしょう。オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿の言葉は明確です。「新しい典礼はその見返りとして、かつてなかったほどの霊的危機の時代に於いて棄教・背教の境界線をうろつき今や教会の組織に毒を入れ、教会の教義・礼拝・道徳・規律の一致を崩そうとして教会の破壊を企てているものどもを全て喜ばすだろう。」

若い司祭たちが、プロテスタント流に若者を取り込もうと、教会に楽しさや明るさを持ち込もうと、善意いっぱいで取り組んでいるのを見ると、本当に悲しくなります。結局のところ、教会にアトラクションを求める人はいないのです、そんな人々は世間にいるのですから。聖なるもの(sacrum)こそが、私たちが教会に求めているものであり、これは、人間が"capax Dei"である、つまり、天主に開かれているという事実の本質です。人間には霊魂があり、天主を知って愛することを望むという事実のゆえに、人間は恩寵の中でより高いレベルの生活に入ることができるのです。全時代のミサだけが、この天主への充足と、自分の人生の天主への真の方向づけを与えてくれるのです。

私の神学校教育は、二つありました。私自身は、真理を発見するために、教会の歴史や聖伝主義者の立場についての研究を使用していました。例えば、クモール(Kumor)神父の有名な教会史の教科書は、第二バチカン公会議で生じた問題の核心を、二つの文章で退けています。

この公会議が招集されたのは、フランス革命のスローガンや以前に断罪されたあらゆる誤謬を教会に植え付けるためではなかった。そうではなく、第五のマリアの教義【全ての聖寵の仲介者】を定義するとともに、共産主義に反対するため -- それこそが、聖霊からの本物の霊感 --- だった。。

マルセル・ルフェーブル大司教の態度について、進んで公然と発言し、判断する人々の能力は、どれだけのものでしょうか? 講義で聞いた意見は、たいていは実質的な論証に裏打ちされたものではありませんでした。第二バチカン公会議の経過について、聖職者の一般的な知識はどのようなものだろうか、と問うことができるでしょう。普通の司祭は、そのとき何が起こったのか、また、裏にはどんな駆け引きがあったのかを【本当に】知っているのでしょうか?

聖ピオ十世の「パッシェンディ・ドミニチ・グレジス」(Pascendi Dominici gregis)(その3)の言葉は、以下のように、どれほど時宜を得たものだったことでしょうか。

「(中略) この問題に関して、即座に行動に出ることが、必要不可欠なこととなっています。それはなによりも、誤謬に与する者が教会の公然の敵の中だけでなく、きわめて恐れかつ嘆くべきことに、教会のただ中においても見出され、そして表立っていないだけに、なおさら一層質(たち)が悪いという事実によります。」

私は耳にしたことがありますが、公会議文書の論争と有害性を否定しようとする試みは、なんと矛盾していたことでしょうか。ある講義では、講師は、公会議を告発するのは偽りの証拠による、と私たちを説得しながら、この講師の別の講義では、宣教精神の破壊の原因として、K・ラーナーによる「無名のキリスト教徒」の概念を引用して【正当化して】いました。

もちろん、教会の問題は、いくつかの大きな誤謬、さらには、何百もの小さな誤謬で構成されており、公会議はその誤謬に対して扉を開いたにすぎませんでした…残りは、実際には教会の敵によって行われました。教義的な道と司牧的な道の間にある悲劇的な乖離は、私たちの時代の特徴的なしるしであるとともに、弱さのしるしでもあります。

この統合失調症がどのようなものかを、WSDアントニアヌム(ポーランドの神学校)の教授の一人が「女性の司牧者」による礼拝について語った言葉で表現してみましょう。「私は、まさに、自分がしてはいけないと教えたことをしていたのです」。

教会は、第二バチカン公会議で始まったわけではなく、このような背教の事例に対して、過去の教皇たちは警告していたのです。すべては回勅「ミラーリ・ヴォス」(Mirari vos)で述べられています。
「あらゆる新奇なことは普遍的教会に害を及ぼす… 正式に定義されたことがらの何一つと言えど、削除されたり、変えられたり、あるいは増し加えられたりすることは許されず、また意味あるいは言葉上のいかなる変更も受け付けない。」

この内容や似たような内容を知っていながら、教会で起きていることに批判的でない人々を理解するのは難しいことです。聖職者の間では、第二バチカン公会議の有害性についての認識が高まっていますが、公然とこの問題を提示し、このイベントを悪と呼び、教会の失敗と呼ぶことは、教会の構造の中では常に破門状態のような結果をひきおこします。聖職者が制裁を受けずに済ませることのできる第二バチカン公会議に対する優しい批判は、「公会議を誤まって解釈する」可能性を認めることだけです。しかし、それには、常に公会議の教父たちを導くとされる刷新の理念を全面的かつ熱心に評価することと、以前の教会との、幻想的な「連続性の解釈法」を強調すること、が伴います。

神学入門の講義の一つの中で、尊敬する管区長様は、ヨハネ・パウロ一世のメーソンのリストというテーマを提起されました。何という希望の光りが私のこころに差し込めたことでしょうか。「この人は知っている」と私は思いました… しかし、その次には何があるのでしょうか? 知っているという事実だけで、悪と対立のために来たこれら不幸な高位聖職者たちの教会内の活動について考察することから私たちは解放されるのでしょうか?

見かけ上のマリア信仰を維持するために、修道会は、いわゆるメジュゴリエのご出現を宣伝していますが、メッセージの冒頭でゴスパ(Gospa、クロアチア語で聖母のこと)が「すべての宗教は平等で、救いはどの宗教でも達成できます」と述べたときに、その欺瞞性が明らかになりました。

しかし、この欺瞞的な現象について本を書いたり、巡礼を企画したりする司祭たちを叱責する人はいません。おそらくそのためでしょうか、教会が認可した啓示や、教会の現状を完全に反映した衝撃的な内容は、私たちの目から消えています。

キトの聖母の言葉が、私には非常に印象に残っています。

「社会のすべての層に浸透した後、メーソンの諸セクトは、非常に狡猾に家族の中にその誤謬を広めるでしょう。(中略)しかし、そのときにも、教会と聖なる司祭たちを支持する修道会(複数)、すなわち霊魂の救いのためにエネルギーと無私の熱意をもって働く隠された美しい霊魂たちが存在することでしょう。邪悪な者たちは、彼らに対して残酷な戦争を仕掛け、中傷し、侮辱し、嫌がらせをし、彼らの義務の遂行を思いとどまらせようとするでしょう(中略)

私の至聖なる子のご聖体の聖心への愛と、惜しみなく注がれた尊き御血への愛と、ご受難と死の深い苦悩と痛みへの愛から、ご自分のしもべたちをあわれんでこの恐ろしい時代を終わらせ、司祭たちの精神を刷新する一人の高位聖職者を教会に送ってください、と(中略)熱心に祈りなさい」。

もちろん、これらは私的な啓示であり、救いのために必要なものではありませんが、考える材料にはなります。これらは、こう尋ねざるを得ません。それは誰なのか、と。

共同体に入ることで、私は確かに司祭や奉献生活者を理想としました。しかし、私にとって聖徳、献身、兄弟愛の模範となる多くの偉大な修道士、特に司祭以外の修道士に出会ったという事実は変わりません。また、多くの尊敬すべき講師や指導者の方々も、私の大切な思い出の中に残っています。彼らとの別れを思うと残念でなりませんが、最も親密な兄弟関係と私の司祭職としての責任とを天秤にかけることはできません。

私が終生誓願を立てたとき、それが理性の使用を排除した絶対的な行動という意味での誓願でないことは明らかでした。全てにおいて最も重要なことは、教会法の法典を締めくくる文章であることは、私にとって明白で論理的なことでした。私は聖伝の精神に則って司祭職を追求することを選択しなければなりませんが、明らかに誓願を破るという犠牲を払わなければなりません。

私は自問自答しなければなりませんでした。修道院に留まることで、終生誓願で約束された永遠の命が私に保証されるのでしょうか? それは疑わしいと思います。

現代の偉大な神秘家であるピオ神父は、カプチン会の公会議後のアジョルナメント(現代化)について聞いたとき、「聖フランシスコは、彼の子らを認めないでしょう」と述べましたが、まだピオ神父は「改革」がどこまで進化するのかを知りませんでした。

創立者の遺産を無駄に使っていたとしても、フランシスコ会の会員になるだけで自動的に自分の救いが保証される、と考えるのはファリザイ主義です。

私たちの多くは、司教服を着た女性を含むエキュメニカルな礼拝を特別に(ad hoc)依頼したある司教の行動を密かに批判していました。ある大司教の声明を読んで、私たちは驚きました。彼の無反省なエキュメニズムは、カトリック教会を傷つけるものですが、伝説的で、管区内で高く評価されていました。その声明の中で、彼はカトリックの教えに反する見解を表明したのです。

修道院の房の静けさの中で、個々の司教の考えや活動を聞いて、彼らの信仰の欠如や世論に自分をさらさないための病的な試み、極端な近代主義、相手を使徒継承の教会と同等だと正当化するプロテスタントとのエキュメニズムなどを、何度見たことでしょうか。

国際的宗教フォーラムの期間中、私たちは、同性愛の行動に遭遇したとき、すなわち天に復讐を叫ぶ罪の機会を探す修道士たちに遭遇したときに、つまずかないように、それについて聞いたことが何回あるでしょうか。それにもかかわらず、非常に多くの人々にとって最大の問題とは、これらすべての神学的かつ道徳的なつまずきのための治療法として、聖伝に戻ろうとする人々のほうなのです。

私たちは病気の症状を目の当たりにし、しかも多くの人がそれに十分に対応しているにもかかわらず、診断を下すことを恐れているのです。悪は、正しい人の無作為を第一の糧とするのです。

私は自分に特別な聖性があるとは思っていません。神学校で、私よりはるかに優れた謙遜さ、禁欲主義、敬虔さを持つ同僚に出会ったことを、よく承知していますから。しかし、私がそれを受けるにはふさわしくない理由により、真の聖伝を発見する恩寵を得たのは私であり、この事実を前にして、私は無関心なままでいることはできなくなりましたし、無関心でいたくもありません。退会は、私の人生で最も難しい決断であることは確かです。修道会に入会することよりも、司祭に叙階されることよりも、ずっと難しいことです。しかし、退会は、今でも、召命という、教会でキリストにお仕えするという、同じ恩寵の実りなのです。

聖母の側からのものだと私が感じる特別な励ましは、私の行動に自信を与えてくれますし、争いとは無縁の性格の私が、非常に困難な道に踏み出していく力と能力を与えてくださるのは、御母からなのです。

「コロナウイルスの役務」のほぼ一年間は、決して無駄な時間ではなく、私は、教会の状況を的確に判断してくれる多くの素晴らしい人々に出会いました。

主が私の道に用意してくださった非常に多くの素晴らしい霊魂たちに、和解の秘跡と導きをもって奉仕することができたことを、天主に感謝申し上げます。

修道会の中で私が裏切り者、従順を放棄した者とみなされるであろうことはつらいことですが、私自身が陥っている不満足状態と絶え間ない危機の状態を、これ以上続けないためには、この代償を払うしかありません。私は、管区から嫌な思いをさせられたことはありませんし、個人的な利益や長上からの自由を求めているわけでもありません。そのような声が上がるかもしれないため、そう申し上げています。しかし、私は、教区や他の管区あるいは他の修道会に去るのではないという事実を強調します。実際、環境を変え、個人的な関係や年功序列の縛りから解放されること以外には、何の変化もないでしょう。それでも、私は、近代主義の高位聖職者たちや、司祭として抵抗すべきことから、圧力を受けることでしょう。

修道会を去ることは、自分の召命を救うという決断です。叙階された後、受けたものを浪費したり隠したりすること以上に悲劇的なことがあり得ますか? 結局のところ、私たちは、御聖体におけるイエズス・キリストの現存に対する信仰の喪失のすべてに責任を負うことになるでしょう…。天主と、聖なるいけにえから流れる恩寵を、深く探し求めているのに、天主について…カトリックについて、司式司祭が演じるパフォーマンスしか受けない霊魂たちを失うことに対して、私たちは責任を負うことになるでしょう。

例えば、パチャママのような悪魔的礼拝の教会への導入、いわゆる難民を装った欧州の組織的なイスラム化に対する高位聖職者たちの対応、教理の絶対的な弛緩、「ラベンダーマフィア」、バチカンの最高レベルでのルターの栄誉など、私は多くの問題を手付かずのままにしています。これらも、確かに私の決断に貢献しています。

今日、イエズスに忠実であり続けるための唯一の道は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の道、つまり、教会の周辺部のどこかにいて、自らを苦しめる問題の輪郭を明確にし、それによって熱心な信者の意識を目覚めさせることです。それにもかかわらず、聖ピオ十世会への離脱の道は、教会法的に融和的な離脱の道ではないことは承知しています。

あらゆる異端者や反対者に会い、安易な救いの約束で悪口屋を欺くのは、公会議後の教会の持つ真の強迫観念です。イスラム教やユダヤ教の「記念日」を導入し、宗教改革をたたえ、同時に悪の根源としてカトリックの聖伝と闘うことも、そうです。しかし「"はい"は、"はい"、"いいえ"は、"いいえ"」と言う能力を失ってしまっているのなら、これも問題ではありません。

教会および司祭職の状態や、私が経験した司牧的イベントを総合的に考察すると、臨界点を超えたという例えが心に浮かびます。ですから、私はもう、そのような教会の役務者でいることはできません。すべての問題を総合して、私が理解したのは、自分が、より大きな必要性に迫られている状態、すなわち、教会法の最後の条文「霊魂の救いは、常に教会の最高の法でなければならない」を引き合いに出す資格を持つ状態にある、ということです。

それにもかかわらず、私は、この釈明文を理解していただくこと、あるいは少なくとも事実に基づいて読んでいただくことと、私の感受性と自分自身の救いへの関心を尊重してくださることを期待しています。私は、ヴィトゥス・ウォンダー司教様の例を挙げたいと思います。司教様は、教皇フランシスコの同意を得て、引退後を聖ピオ十世会の修道院で過ごしておられます。

結論として、私は次の言葉を使います。

「この世にならわず、かえって天主のみ旨とは何か、天主のみ前に、善いこと、嘉せられること、完全なことは何かをわきまえ知るために、考え方を改めて自分を変えよ」(ローマ12章2節)。

敬具
A.M.D.G.(より大いなる天主の栄光のために)
シプリアン・トマシュ・コレンド神父

source: piusx.org.pl/zawsze_wierni/artykul/2994

 


カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年01月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日(2022年1月23日)東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計98人でした。大阪では22人でした。準非常事態宣言や気象の影響で、ミサに来ることが難しくなられた方々もおられたようです。
「全能永遠の天主よ、御あわれみをもって、われらの弱さを見給え、かつ、われらを保護するために御身の御稜威の右手を伸べ給え!」(今日のミサの集祷文より)

ところで、聖ヨハネによる福音では、カナの婚礼のあと、イエズスの母親について言及されるのは、十字架の足元の描写(ヨハネ19:25-29)まで待たなければなりません。主の公生活の最初と最後です。

【ただし唯一の例外があります。それは、パンの増加の奇跡を行った後で、カファルナウムの会堂で「ユダヤ人たちは「私は天からくだったパンだ」とイエズスがおおせられたことについて不平をいい、「あれはヨゼフの子のイエズスではないか。私たちはかれの両親も知っている。それなのになぜいま、"天からくだった"などといい出したのか」といいあった」(ヨハネ6:41-42)と、イエズスの「父母」について言及がなされているところです。】

十字架の足元の描写は次の通りです。「イエズスは、その母と、愛する弟子とがそばに立っているのをごらんになり、母に、「婦人よ、これがあなたの子です」とおおせられ、また弟子には「これがあなたの母です」とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。」(ヨハネ19章)

聖母と共に、十字架の足元に立つ、主の「愛する弟子」は、全ての弟子たちの典型と言えます。御自分が「愛する弟子」に「これがおまえの母だ」と言いながら、聖母がカルワリオにおいて、現在と未来の全ての弟子たちの母親となったことを宣言されました。

オリゲネスは次のようなことを言っています。聖母の御子はイエズスしかいない。ところで、イエズスは聖母に「これがあなたの子です」とおっしゃったのであって、「これ"も"あなたの子です」とは言われなかった。従って、主はあたかも「これが、あなたがこの世に生んだ子(イエズス)です」と言われたかのようだ。聖パウロが言うように「もう私ではなくキリストが私のうちに生きておられる」(ガラチア2:20)からだ。第四の福音を深く理解するためには「第二のヨハネ」にならなけれならない。聖ヨハネのように、キリストが自分のうちに生き、聖母が自分の母とならなければならない。【以上がオリゲネスの主張の内容です。】

さて、聖ヨハネが私たちに伝える「キリストの十字架上でのお言葉」は、御自分に関する預言の成就、預言されたメシアとしての言葉でした。

「聖書を実現するために「私は渇く」とおおせられた。」

「イエズスは酢をうけて「すべてはなしとげられた」といい、おん頭を垂れて息を引きとられた。」

同じように、主が「婦人よこれがあなたの子です」「これがあなたの母です」と言われたことも、究極の預言の成就でした。だからその直後に「それからイエズスはすべてをなしとげたと知り」という言葉があると考えられます。

「イエズスの愛しておられた一人の弟子」

聖ヨハネと全ての「ヨハネ」たちにとって「これがあなたの母です」という言葉がイエズス・キリストのメシアとしての業の究極の成就であったということを別の方法で主張する方もおられます。ご紹介します。(La Maternité spirituelle de la Mère de Jésus dans saint Jean par F. Quiévreux によります)

聖ヨハネは自分の名前を出さずに、自分のことを「イエズスの愛しておられた一人の弟子」とか「愛する弟子」とか「ほかの弟子一人」、「イエズスが愛しておられたもう一人の弟子」などと表現しています。この「イエズスの愛しておられた一人の弟子」は、14回にわたって言及され、そのうち10回が御復活のときまで言及されています。以下は言及の回数です。

洗足式(一回)[13:23]
ペトロの否み(二回)[18:15,18:16]
十字架(三回)[19:26,19:27,19:27]
復活(四回)[20:2,20:3,20:4,20:8]
1 + 2 + 3 + 4 = 10 です。

ところで、これで三角形を作ると、その真ん中にある言葉が「ヨハネ19:27」となります。

[13:23]
[18:15,18:16]
[19:26,19:27,19:27]
[20:2,20:3,20:4,20:8]

つまり「弟子には「これがあなたの母です」とおおせられた」という部分です。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 98, including children.

09:00 mass
M: 19 (incl. 3 children)
F: 22 (incl. 3 children)
Total: 41 (incl. 6 children)

11:00 mass
M: 17 (incl. 4 children)
F: 17 (incl. 4 children)
Total: 34 (incl. 8 children)

12:30 mass
M: 13 (incl. 0 child)
F: 16 (incl. 2 children)
Total: 29 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 7 children)
F: 52 (incl. 9 children)
Total: 98 (incl. 16 children)


2022年1月23日のカトリック聖伝のミサの予定 Traditional Latin Mass on January 23rd, 2022, SSPX Japan

2022年01月23日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--
愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(これは「トリエント・ミサ」「ラテン語ミサ」とも言われています)にご招待します。

2022年1月23日(主日)のミサの予定です。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【しばらく大阪での主日のミサは午後6時30分からです。】

 1月23日(日) 18:00 ロザリオ及び告解  18:30 ミサ聖祭

 1月24日(月) 06:30 ミサ聖祭

【東京】 東京ではミサの会場を入谷ホールに変更してミサを捧げる予定です。ご注意下さい。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』Mass Location (Iriya Hall 3F)-2021.pdf

1月23日(主)主日のミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

【「暁の星の聖母」修道院】
修道院では平日(火曜から金曜まで)は毎朝7時15分から聖伝のミサを捧げています。
月曜日の朝ミサは今のところ修道院ではお休みになっております。土曜日は原則的に修道院で午前11時からミサが捧げられます。

東京では、1月末までのミサの会場は次のようになっていますので、ご注意ください。

1月23日(日):入谷ホール3F ☚Σ(・ω・ノ)ノ!
1月30日(日):曙町会館

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I would like to reconfirm the Mass schedule for January 23rd, 2022. In Tokyo, the Mass venue will be at Iriya Hall [!].

January 23rd, Sunday
 
Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
 
Mass location:
Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)
Map and directions: Please see the pdf file.

Jan 23rd(Sunday) Sunday within the Octave of the Nativity at 6:30pm

Jan 24th(Monday) at 06:30 am  

*****Holy Masses at Stella Matutina Priory*****
On weekdays (Tuesday to Friday), holy Masses are offered at 7:15 am at the Priory.
There will be no mass on Monday morning at the Priory for the time being.
On Saturdays, normally the Mass will be offered at the priory from 11am.

 


カトリック教会だけがもつ権威[教導権] |カトリック教会は天主を起源、創立者と するので、その教えは聖であり、人間に よって変更することはできません。

2022年01月22日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年1月23日は御公現後第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御公現後第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【再掲】聖アグネスの祝日「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」

2022年01月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、このブログの誕生日でもあります。16周年です。時が経つのは早いものですね!これからも宜しくおねがいいたします。

フランスの聖ピオ十世会のシスター会にて修練期を過ごしているシスター・エスペランス(アグネス)は、今年の白衣の主日に初誓願を立てる許可がおりたとのことです。お祈りください。

今日は2017年1月21日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月21日(土)殉教者童貞聖アグネスのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年1月21日、童貞殉教者聖アグネスの祝日を祝っています。今日いつものようにミサの後に御聖体拝領の感謝の祈りを致しましょう。その後には1月の恒例の踏み絵に対する冒瀆の償いの儀式を致しましょう。

この聖アグネスの祝日には特に、今アグネスさんが修道女になろうとしてフランスに行っている行っているのでその彼女の為に、またアグネスの霊名を持つ全ての方々の為にお祈り致しましょう。

今日は日本には特別の訪問(フルーガー神父さま)がいらっしゃいます。「さぁ、花婿がやって来た。さぁ、起きて迎えに行け」という福音のこだまのようです。

“Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.”
「私はこの方に許嫁となった。この方だけに契りを守っている。この方だけに心を全て与えている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今申し上げた言葉は、聖アグネスが言った言葉を聖務日課が引用していた言葉でした。今日朝課という聖務日課の中で、この言葉をAntiphonaで唱えました。聖アグネスのこの祝日はまさにこの言葉に要約されているようです、「私は、天主であるイエズス・キリストと婚姻している、許嫁である。だから私の心も体も全てイエズス・キリストのものである。イエズス・キリスト以外の者には誰にも渡さない。」

そしてその教会は、イエズス・キリストの花嫁である教会は、この聖アグネスの言葉を取って、「その通りだ。」私たちも教会のイメージですから似姿ですから、私たちもアグネスに倣って、キリストの花嫁である教会の後に従って、「同じように聖アグネスのようになるように」と招いています。あたかも今日のこのミサは、婚姻の許嫁をする者の為のミサであるかのようです。花婿を待ち望む童貞たちのようです。

今日はこのミサの黙想では、聖アグネスの殉教の、どのような殉教したのか、一体何があったのか、その殉教を見たのちに、

第2に、教会はミサをどのように作っているのか、ミサの構造はどうなっているのか、

最後に、私たちはその殉教を見てどのような遷善の決心を取らなければならないか、何を考えるべきか、という事を黙想したいと思います。

今日はフルーガー神父様をお迎えに行かなければならないので、公教要理は残念ながらする事はできません。そこでお説教の時間を5分、公教要理の時間を5分間長く頂きたいと思っています。

聖アグネスは、昨日祝った聖ファビアノ教皇様殉教者は250年1月20日に亡くなりました、そして聖セバスチアノは280年1月20日に亡くなりました、そしてその10年ほど後に3世紀の終わり頃、1月21日にローマで亡くなりました。明日はやはり「勝利」という名前を持つヴィンセンシオの殉教者の祝日で、教会は私たちにこの「殉教」の意味について深く考えさせてくれます。ちょうど今日、日本では遠藤周作の小説に基づく『沈黙』という映画が公開される日ですので、殉教という事について私たちも深く黙想する事が相応しいと思います。

「アグネス」という名前は実は、これはギリシャ語から来ています。「アグネー αγνή」というのは「純潔」とか「潔白」という「ピュア」という意味なのです。そして「アグネー αγνή」というのは女性形ですけれども、「アグノイ αγνοί」となるとこれは男性形です。そこから来たのですけれども、ラテン語では「アニュス“子羊”」の女性形という風に理解されました。実際に聖アグネスが亡くなった8日の後に、栄光に輝くアグネスがお父さんお母さん両親たちの前に現れて、家族の前に現れて、その周りには童貞たちの一団に囲まれて、そしてその近くにはそのアグネスのもとには真っ白い純白な子羊がいた、というのを見ています。

カトリック教会でもこの8日後に、聖アグネスの第2の記念というものがあります。ですから聖アグネスは同時に「メスの子羊」、そして「純潔」という2つの意味を持っている、聖アウグスチヌスもその事をよく知っていて、その2つの意味について話しています。

今日伝統によると、純白の羽毛を教皇様が祝福して祝別して、その今日祝別された毛糸からその羽毛を使って、大司教様が着るべきパリウムいう特別の飾りがあるのですけれども、それを作る伝統があります。

聖アグネスの御墓の上に、コンスタンティノローマ皇帝は教会を建てました。そしてこの聖アグネスはあまりにもローマで有名な童貞殉教者であったので、色んな教父たちが聖アグネスの栄光についてたくさん讃美の事を記録を残しています。聖ヒエロニモとか大聖グレゴリオ、聖アンブロジオ、聖アウグスチヌノ等々書き残しています。

では聖アグネスはどのような殉教をしたかというと、その記録とその教父たちの証言によると、こういう事が起こりました。

若い13歳のアグネス少女は、学校の帰りに男の子と会いました。男の子はシンフロニウスというローマの市長の息子で、もちろんお父さんの権威もありますし、お金もありますし、どこかの貴族のボンボンの男の子だったに違いありません。そこでアグネスを見て、あまりにも美しい、可愛い、きれいな子だ、という事で一目惚れをします。そしてこの近くに行って、「さぁ、君の名前は何て言うのか?僕と一緒になろう、結婚しよう。さぁ、ここにとっても貴重な贈り物を与えよう」と、高価な贈り物を与えようとします。するとアグネスはそれを見て、「立ち去って下さい、死の食べ物よ。私はすでに許婚がいます。Disede a me, pabulum mortis, quia iam ab alio amotore praeventa sum! 」

このローマの市長の息子シンフロニウスは非常に驚いて、その拒絶にびっくりしました。そして怒りました。するとアグネスは説明します、「私は既に私の主イエズス・キリストから指輪をもらって、きれいな宝石の付いた指輪を貰って、既に許嫁となっている者です。イエズス・キリストは私に既に、手には、そして首には、そして耳飾りも、もう値の付けられる事ができないほどの貴重な宝石で私の身を飾ってくれました。Dexteram meam et collum meum cinxit lapidibus pretiosis, tradidit auribus meis inaestimabiles margaritas.」

「そして私には許嫁の冠りも下さいました。私はイエズス・キリストを愛しています。その御母は童貞であって、その御父様は女を知りません。私はそのイエズス・キリストの素晴らしい音楽の部屋に入り、そしてキリストを愛します。もしも私がキリストを愛する時、私は貞潔を守ります。私がキリストに触る時、私は純潔となります。私はキリストを受ける時、童貞でい続ける事ができます。Amo Christum, in cuius thalamum introibo, cuius mater virgo est, cuius pater feminam nescit, cuius mihi organa modulatis vocibus cantant: Quem cum amavero, casta sum; sum tetigero, munda sum; cum accepero, virgo sum.」

「私の体は既にその御体と一致しています、1つになっています。その御血を受けた私の頬は赤くなっています。その方と私は既に婚約の契りを結びました、許婚の契りを結びました。この方だけに私は私の約束を契りを守ります。私はこの方だけに私の心を全て与えました。Iam corpus eius corprori meo sociatum est, et sanguis eius ornavit genas meas.Ipsi sum desponsata. Ipsi soli servo fidemm, ipsi me tota devotione committo.」

非常に怒ったシンフロニウスは、「俺がただのそこらの汚い、薄汚いガキだと思っているのか!」と思って、そのアグネスを父親の前に訴えます、「この女はけしからん!殺してしまえ!」

すると子供からの訴えを聞いた父親は、ローマ市長の最高の力を使ってアグネスを辱しめようとします。そこで口にする事も汚いできないような罪の家に送り出します。体を汚してしまう、お金の為に汚してしまう女性たちがいるような所にアグネスをやってしまいます。するとアグネスはそれに答えて、「私の傍にはいつも私を守って下さる天使がいます。 Mecum enim habeo custodem corporis mei, Angelum Domini.」と言ってそこに連れられます。

その罪の家に不潔の家に入れられたアグネスは、汚らしい男たちから嫌がらせをされるところですが、すると眩い光が輝いて、アグネスを触ろうとする人、或いは何かをしようとする人々の目をくらましてしまって、皆何も見えなくなってしまいました。そしてアグネスに近寄ることが何もできません。

それを知らされた裁判官は、ローマの裁判官は怒って、「これは魔女だ!魔法を使っている!火あぶりにしてしまえ!」と宣決を下します。そしてアグネスは火の、メラメラと燃える轟々と焚かれる木の中にくべられます。するとアグネスは感謝の祈りをします、「全能の御父よ、その聖なる御身の御子によって私はあなたに讃美致します、あなたにお願い致します。御恵みによって私は心のない汚い暴君の凶悪から守られました。そして私は、罪を犯す汚らしい不潔の罪を犯すというその機会を、汚れを逃れた足で踏みつけにしました。さぁ見て下さい御父よ、御身の御子によって私はその御子の傍に今から参ります。私はこの御子を愛しました。この彼のみを探し求めました。そしていつもその主イエズス・キリストだけを求めています。さぁ、今から行きます。感謝致します。讃美致します」と祈ると、これからさぁアグネスは命を捧げようとすると、火が消えてしまったのです。

Omnipotens adorande colende tremende Pater Domini Nostri lesu Christi benedico te : quia per filium tuum unigenitum evasi minas hominum impiorum : et spurcitias diaboli impoluto calle transivi. Ecce et nunc per sanctum spiritum rore coelesti perfuso focus iuxta me moritur : flamma dividitur : et ardor incendii huius ad eos a quibus in me ministratur effunditur. Bendico te Pater praedicande : qui etiam inter flammas intrepidam me ad Te venire permittis. Ecce iam quod credidi video. Quod speravi iam teneo. Quod concupivi complector. Te confiteor labiis et corde, totis visceribus concupisco. Ecce ad te venio vivum et verum Deum : qui cum Domino nostro lesu Christo Filio tuo et cum Spiritu Sancto vivis et regnas semper et in cuncta saecula saeculorum. Cunque complevisset orationem : ita omnis ignis extinctus est : ut nec tepor quidem incendii remaneret.

それを見たアグネスはもう一度讃美の声をあげて、「全能の天主御父よ、御身の御子によって御身を讃美致します。私の周りにあったあのメラメラと轟々と燃える火は消えてしまいました。でも私の心は御身の愛に燃えていて、そして御身の事をいつも望んでいます。私は天において御身と一致しています。私がいつも愛し、全ての心を込めて愛したその方と一致しています」と讃美しました。

それを見た裁判官は非常に怒って、この火を消してしまったと思われるそのアグネスを呼び寄せて、「首を切ってしまえ!」として、剣で首をはねられて殉教の冠を戴きました。それが今日の事でした。

今日このミサでは特に、御聖体拝領の時にこの聖福音で読まれた、「さぁ花婿がやって来た。さぁ準備ができているか。さぁ外に出て主を花婿を迎えなさい」と言うその童貞たちの言葉を聞かせます。ちょうどその聖アグネスが殉教して、そしてその御墓に、その聖アグネスの御墓の近くでこのミサをしていた人たちは、まだ迫害の当時でした。そしてカタコンベでミサをしていました。カタコンベですから地下です。光もそんなにありません。ろうそくが暗い光でミサに与っていた事でしょう。

まだその当時は3世紀の当時は、キリスト教の厳しい迫害、殉教、殉教、殉教、多くの方々が殉教していたその時代で、しかしローマの市民たちは或いはローマ帝国の他の異教徒たちは、不潔と、邪悪と、もう見るに見られない乱れた生活を送っていました。キリスト教徒だけが迫害されて、そして「キリストを信じる」と言うが為に命を失っていった時代で、その当時キリスト信者たちは、「主の来臨は近い」と思っていました、それを信じていました。ですから御聖体拝領をしたその直後に、「さぁ、」このミサの聖体拝領の歌を聞いた時に、「あぁ、さぁさぁ、主は来た。迎えに出なさい」と言った時、その聖アグネスのその御墓のすぐ近くのカタコンベでこの祈りを聞いた時に、キリスト教信者たちは「あぁ、私も聖アグネスのようになりたい。私はもう聖アグネスのように同じ事を繰り返したい。私の体はイエズス・キリストの御体と一致している、この1つとなっている。その御血は私の頬を赤くしている。私はイエズス・キリストだけに心も体も与えた。彼だけに仕える。この世のものと、悪と、邪悪は何でもない。そのようなものは踏みつけだ」と、「さぁイエズスよ、私はいつもあなたと一緒になって、さぁ迎えに出ます。いつも準備ができています」というその言葉を聞いた時に何と感動して、感謝の祈りを、聖体拝領の感謝の祈りを捧げた事でしょうか。

聖アグネスの殉教のあらましはこうですが、私たちはそこからどのような事を黙想しなければならないのでしょうか。私の思うには、聖アグネスは私たちに2つの事を教えていると思います。この2つの事から後に遷善の決心を立てましょう。

まず1つは、「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えています。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、聖アグネスが踏みつけたものです。

ところが別の声は、例えば古の蛇は、ちょうどエヴァを誘ったように別の事を言うかもしれません。
「そんな事はない。そんなに苦しんでそこまで苦しんで、一体何の役に立つのか。お前がそんな事を言っているから他の人は苦しんでるよ。お前が『いい』と言えばこのシンフロニウスも楽しいじゃないか。悪を、そのシンフロニウスの言うようにしてやれば彼も望みが果たされるし、お前も楽な生活ができるし、それでいいじゃないか。一体拒んで何の役に立つのか。それが隣人の為に何かしてやるのがキリスト教じゃないのか。それが愛ではないのか。隣人を助けてやればいいんじゃないのか。キリストの為にというのはいいんじゃないか。」

つまり、罪や罪の汚いものを踏みつける代わりに、「あぁ、踏んだ方が良いよ。踏みなさい、踏むが良い、踏むが良い、踏みなさい。キリスト様というのはその踏まれる為に生まれて来たのだから。その為に、弱いお前の為にお前を許す為に生まれて来たのだから。そしてその為に十字架を担いだのだから、だから踏めば良い。」ちょうど古の蛇がエヴァに「主の言葉を信じなくても、お前はそれに逆らった方が良いよ」と言っているかのようです。

ちょうど、遠藤周作の『沈黙』のロドリゴが聞いた、“キリスト”と言われる人の言葉のようです。実際、遠藤周作の沈黙の中では、踏み絵を「踏まない」と思っているロドリゴに“キリスト”の声が聞こえた、という場面が出てきます。いわゆるカギ括弧付きの“キリスト”は、「さぁ、踏むが良い。踏んで私を背教するというしるしを見せなさい、そして他の人を助けてあげなさい。」あたかも善も悪も全く同じであるかのように、どんな事も良い事であるかのように。

イエズス・キリスト様はこう言います。「もしも人々の前で『私の味方だ』と宣言する者は、私も御父の前で『私の味方だ』と言おう。もしも人々の前で私を否む者は、御父の前で『私も知らない』と言おう。お前の事は知らない、さぁ出て行け!」

しかしロドリゴの“キリスト”は違います。あたかも全ての人は何をやっても救われているかのように、全ての人は何をやっても、何を信じても、キリストを否定しても、公に侮辱しても、「それでも許されて皆天国に行けるよ。皆幸せな生活ができるよ。主は無限に憐れみだから何をしても良いんだよ。正義もへったくれも無いよ。成聖、聖なるものというものも無いよ。真理とか、善とか、天主、キリストというものも無いよ、踏んだら良い、さぁ何でもやって良い。」

「いえ、」聖アグネスは、カトリック教会は、違う事を教えました、「いや、私たちはキリストを踏む事はできません。罪と、罪の機会と、悪と、偽りを踏まなければならない。蛇を踏まなければならない」と。

第2に、聖アグネスの祝日を黙想した後に思った事は思う事は、「蛇は沈黙をしている」という事です。蛇が沈黙するという事と、天主がある意味で沈黙しているという事は違う、という事です。

蛇は、『罪』とか『罪が何であるか』という事に沈黙します。
「何でも良い、何でもやりなさい」と。
或いは蛇は、『天主様の聖寵がある』『超自然の御恵みがある』という事について何も言いません。
「この世の為に一体何の役に立つのか。この世で面白おかしく楽しくこの世で生活する為に何の役に立つのか。」この世の事だけを話して、『天国の事』や『永遠の事』や『永遠の命』について沈黙します。『超自然』については沈黙します。『真理』という事について、『天主』とか、『地獄』とか、『イエズス・キリスト』、『イエズス・キリストが本当に何を言ったのか』という事については沈黙をします。その代わりに話す事は何かというと、「あぁ、自分で善とか悪を決めれば良い。You decide.君が決めなさい。」
あたかも、「善と悪の知識の木の実から取って、自分で好きなようにすれば良い」と言った蛇であるかのようです。

遠藤周作は、「キリスト教というのは何か与えられた服であって、自分と合わない。だから自分と合った服を着たかった。自分で合った服をしたかった」と、どこかで言っているのを読んだ事があります。ちょうど「自分で決める、自分で善と悪を決めるキリスト教」の事を考えていたようです。

蛇は、「客観的な罪」とか、「客観的な善がある」という事について沈黙しているという事に気が付きます。

ところで、天主様もある意味で沈黙しています。なぜ沈黙しているか、どういう意味で沈黙しているかというと、天主様が、私たちがいくら天主様に、「主よ、私にこうして下さい、助けて下さい」と言ってもその答えがすぐ、直後に、答えが来ないからです。私たちはあたかも天主様が自動販売機のようで、お金を入れてボタンを押すと、ガチャン。コカコーラが欲しいからコカコーラ、ガチャン。ホットコーヒー、ガチャン。そういう意味では、天主様はいくら押してもボタンを押しても、お祈りをしてもお祈りのお金を入れても、ボタンを押してもすぐ答えは出ません。天主様は自動販売機ではありません。私たちの召し使いでも奴隷でもありません。コンピューターでもなくて、ボタンを押したからすぐにDeleteとか、Startとか、それもスイッチを入れたらすぐコンピューターのように計算してくれるわけではありません。

天主は私たちの「主」ですから、主として答えます。私たちが、「奇跡を起こして欲しい!さぁ、やって!」と言ったから、「はいはい、ご主人様!はい、分かりました!魔法のランプ」とやるのではなくて、主が、一番私たちの良いと思った事を、最大の善になる事を、私たちにとってとても良いという事を、主の一番良いと思ったやり方で、思った方法で、思った時に、思ったものを、私たちに下さるのです。

聖アグネスにもそれを下さいました。私たちにも下さっています。一番良いものというのはもちろん、「永遠の命を受ける為に一番良いもの、私たちが聖徳を、そして信仰の為に一番善となるものは何か」という事をよく知った全知全能の御父がそれを計らって下さって、私たちに答えて下さるのです。決して沈黙をしているのではなくて、私たちに聖寵の御恵みと、助けと、或いは摂理によって助けて下さっています。

たとえ私たちにとって何か一見苦しみであるかのように思われても、辛い事であるかのように思われても、全ては私たちの主を愛する者の為にとっては善となるように、計らって下さっているのです。究極的な善の為に計らって下さっています。

しかし天主は、イエズス・キリストについては沈黙を守りません。真理については話しています。真理というのは何かというと、「善と悪の知識の実の木ではなくて、別の木を取れ、別の木の実を取れ。」イエズス・キリストが天主が私たちに教えてくれるのは、「十字架の木を取ってイエズス・キリストに従え」という事です。そしてもしも例えそれがイエズス・キリストの最も最高の選ばれた弟子聖ペトロであっても、「あぁ、十字架とかそのような物は無いようにして下さい!」と言ったとき、主は「サタン、退け!Go!」とおっしゃいました。私たちは、十字架の道を取ってどうしても天国に行かなければなりません。

聖パウロは言います、「キリストを着よ」と。私たちが自分で自分の好きなキリストを作るのではなくて、「イエズス・キリストを着るように。」

既に与えられています。変えなければならないのはキリストではなくて、私たちの方です。私たちがキリストの服を着る事ができるようにならなければなりません。

ではどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私は3つを提案します。

1つは、私たちにとってはいつでも、「私たちにとって踏み絵を踏んでしまう、或いはイエズス様を踏んでしまう危険がある」という事です。

聖アグネスのように、いつも罪と罪の機会と悪を踏みつけにした、私たちの心も体もいつも清いままであった、と言う事ができれば何と幸せな事でしょうか。しかし残念ながら、私たちは何と惨めで、弱々しく、私たちの力だけに頼って、或いはイエズス・キリストを選ぶ代わりに自分を選んでしまったり、バラバを選んでキリストを踏んでしまったり、或いは天主を踏んでしまって人間を選んでしまったり、罪を踏む代わりに従順を踏んでしまったり、そして本当は選んではいけない被造物を選んでしまったりした事がどれほど多かった事でしょうか。

聖パウロは言います、「立っている者は倒れないように気を付けよ。震えおののきながら私たちの救いを全うせよ。」

イエズス会の、長く働いていたイエズス会の特別な訓練を受けたフェレイラ管区長、日本を代表する責任者であったとしても、5時間の穴釣りの後にもしも背教してしまったとしたら、私たちはどれほど恐れなければならないのでしょうか。私たちがそれに耐え得る、という事が一体誰が言える事ができるでしょうか。イエズス様の御恵みがなければ、一体誰が耐え忍ぶ事ができましょうか。

私たちはですから、マリア様の汚れなき御心の中に避難所として入る事を提案します。マリア様は言いました、「私の汚れなき御心は避難所であって、天主へと導いている道です、道となるでしょう。」
ですから私たちはマリア様の汚れなき御心の中にいつも入り込む事に致しましょう。

第2に、「天主様の憐れみ」という事です。憐れみというのは、ただ罪も正義も関係なく、聖徳とか天主の正義とかを排除した、ただただ何でも許されるというのが憐れみではありません。主の憐れみというのは、憐れみを受ける為にはまず、私たちが自分の罪や、弱さや、或いは悪、自分の犯した罪を認めなければなりません。罪を自己正当化する事が憐れみではありません。そしてその罪を悔い改めるところに、主が赦しの憐れみと、私たちが主の元に立ち戻って来る事ができる為の憐れみがあります。ですから憐れみはただの憐れみではなくて、御恵みが必要です。主の御恵みを以って初めて、主の憐れみを受ける事ができます。

ファチマのマリア様は1929年6月13日、トゥイという所でシスタールチアにビジョンを見せました。十字架に付けられたイエズス様の上に聖父、聖霊が、そしてイエズス様の福音側にはマリア様が、汚れなき御心のマリア様が立っておられます。そして十字架の所には2つの文字が単語が描かれていました。イエズス様の右手には「御恵み、聖寵」、そして左には「憐れみ」でした。

もしも私たちが主の憐れみを受けようとするならば、たとえ罪を犯してしまったとしても、主の元に立ち戻ろうとするならば、この「聖寵」と「憐れみ」の2つが必要です。それはファチマのマリア様が私たちに教えてくれます。

最後に、私たちは聖アグネスと共に、いつも罪と罪の機会を踏む為に、マリア様に無原罪の御宿りのマリア様にお願いしましょう。マリア様は最初からこう約束されました、第2のエヴァとして、蛇の頭を踏む方として、罪を踏みにじる方として、汚れない御方として、私たちに与えられました。聖アグネスに倣う為にも、無原罪の聖母マリア、ファチマの聖母マリアの汚れなき御心に行く事に致しましょう。

「私は彼の許嫁となった。この方だけに契りを守り、この方だけに心を全て与えた。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

【聖アグネスの聖務日課による殉教の記録は、例えば、Joan Mueller著 A Companion to Clare of Assisi, Life, Writings, and Spirituality に、ラテン語と英語の対訳であります。】




ヴィガノ大司教:私の同僚の司祭たちはモーゼのような敬虔な恐れをもって聖なるトリエント・ミサに近づいていただきたい。聖伝のミサは、寛大で英雄的な、天主と隣人への愛に燃える人々のためにある。

2022年01月18日 | カトリック・ニュースなど

来たれ、われら拝もう:ヴィガノ大司教、すべての司教、司祭に聖伝のミサを捧げるよう呼びかける

Venite Adoremus: Archbishop Viganò Calls on All Bishops and Priests to Offer the Traditional Mass

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年1月14日

【解説】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、聖伝のローマ典礼の完全復活を求める最も熱烈な呼びかけを発表しました。大司教は、典礼革命についての個人的な経験を紹介しています。大司教は、長い間忘れていた、古い典礼で育てられた若いころの思い出を語ります。しかし、司祭生活の始まりのとき、革命家たちは、大司教が「偽りの儀式」と呼ぶもの【新しいミサ】を、その代用物としました。セオドア・マカリック元枢機卿に関する内部告発証言の後、身に危険が及ぶため隠れる必要に迫られ、古いミサの発見に至ったと語ります。この発見が、大司教の司祭としての霊魂に大きな変化をもたらしたと詳述しています。…

「私が司教職や司祭職にある兄弟たちに理解していただきたいと思うことは、人は直感的に神聖なものを感じ取るがゆえに、ミサは本質的に神聖なものだということです。人は文字通り、この世の喧騒から遠く離れた天国に、至聖なる三位一体と天の宮廷の前に連れて行かれるのです。それは愛の歌であり、ちょうど母親が息子に飽きずに接吻をするように、花嫁が夫に飽きずに「愛してる」と言うように、しるし、敬意、聖なる言葉の繰り返しは決して無駄ではないのです。そこではすべてが忘れ去られます。なぜなら、そこで語られ、歌われるすべてのことは永遠なるものであり、そこで行われるすべての身振りは永続するものであり、歴史の外にありながらも、高間の部屋(Cenacle)、カルワリオ、そしてミサが捧げられる祭壇を一致させる連続体(continuum)の中に完全に入り込んでいるからです。」…

これに対し、大司教は、パウロ六世の下で作られた儀式について、こう述べています。
「もし私が「会衆に向く」(versus populum)テーブルを見れば、そこにはルター派の祭壇やプロテスタントのテーブルが見えます。もし私が最後の晩餐の制定の言葉をナレーションの形で読めば、クランマーの「共通祈祷書」の修正物とカルヴァンの礼拝が聞こえます。もし私が改革されたカレンダーに目を通せば、疑似改革の異端者たちを取り消した同じ聖人たちが削除されていることに気づきます。また、歌についても同じことが言えます。英国やドイツのカトリック信者ならぞっとするでしょう。つまり、教会の丸天井の下で歌われる、私たちの司祭を殉教させ、「教皇主義者の迷信」を軽蔑して聖なる秘跡【ご聖体】を踏みつけた人々の賛美歌を聞けば、カトリックのミサと公会議の偽物の間に存在する深淵を理解できるはずです。」

そして、同僚の司教や司祭に課題を出しています。
「私は、私の同僚たちに、考えられないようなことを思い切ってしていただきたい」。…

大司教は彼らに「聖なるトリエント・ミサは、カトリック司祭職の唯一の救いの錨」ということを思い起こさせ、長上からの報復を恐れるそのような良き司祭たちに問いかけます。
「皆さんは、天主をお喜ばせしたいのでしょうか、それとも皆さんを天主から遠ざけている者を喜ばせたいのでしょうか?」と。…

大司教は「聖なる犠牲を、あわれな『集会の座長』としてではなく、むしろ『キリストのしもべ、天主の奥義の管理者』(コリント前書4章1節)として捧げることの意味を発見」するよう彼らを励ましています。…
ヴィガノ大司教様、今回は改めて同僚の司教と司祭の真の牧者でいてくださることに、改めて感謝申し上げます。彼らを、「ad altare Dei」(天主の祭壇に)導いてくださることに感謝申し上げます。
ブライアン・M・マッコール


DILECTA MEA
わが愛

聖なる使徒継承のミサを自ら禁じてしまっている皆さんは、そのミサを捧げたことがおありですか? 典礼の教座(cathedrae)の高みから「古いミサ」について憤る皆さんは、その祈り、その儀式、その古代にして神聖なる身振りを黙想したことがおありですか? 私自身については、この数年間に、これについて何回も尋ねられました。なぜなら、私自身、このミサを幼い頃から知っていたにもかかわらず、また、まだ子ども用の短ズボンを履いていたほど幼かった頃にミサの侍者をし、司式司祭への応答を学んだにもかかわらず、ほとんど忘れ、何もできなくなってしまっていたからです。

「Introibo ad altare Dei.」(われ天主の祭壇へ上らん)。冬、学校に行く前に、氷のように冷たい祭壇の階段にひざまずいたこと。夏の暑い日、侍者服を着て汗を流したこと。そのミサは、1968年3月24日に私が司祭に叙階された時のミサであったにもかかわらず、私は忘れてしまっていたのです。その後まもなく、教会から最も貴重な宝を奪い、その代わりに偽物の儀式を押し付ける革命の兆候を、人々がすでに察知していた時代でした。

さて、かのミサは、私が司祭になったばかりの最初の数年間で、公会議の改革によって取り消され、禁止されました。このミサは、遠く離れた恋人の笑顔、行方不明の親族のまなざし、鐘や友人たちの声のする主日の音のように、遠い記憶として残りました。しかし、それは郷愁や若さ、教会への献身がまだ残っていた時代の熱意と関係するものでした。その時代には、誰もが、第二次世界大戦の余波と共産主義の脅威から、世界が刷新された霊的な勢いをもって回復すると信じたがっていたのです。私たちは、経済的な豊かさが、私たちの国(イタリア)の道徳的、宗教的な再生と何らかの形で結びつくと考えたがっていたのです。

1968年の革命、占領、テロ、赤い旅団、そして中東の危機にもかかわらず、です。こうして、【私がしてきた】何千もの教会に関する仕事と外交に関する仕事に関与する中で、実際には未解決のまま、何十年にもわたって「一時的に」脇に置かれていた何かの記憶が、私の記憶の中で結晶化したのです。それは、私たちに向けて天主だけがなさる寛容さをもって、辛抱強く待ち望まれていたものだったのです。

米国の高位聖職者たちとローマ教皇庁によるスキャンダルを非難することを私が決定したことは、いろいろなことを考える機会となりました。私の大司教および教皇大使としての役割についてだけでなく、あの司祭職の霊魂 -- 最初はバチカンでの、最後は米国での奉仕がある意味で不完全のまま残ったあの司祭職の霊魂を、私の役割というよりも私が司祭であるということについて、別の光の下で、もう一度考察するように導きました。

そして、それまで私がまだ理解していなかったことが、明白に予想外の状況によって、私にとって明らかになりました。私の身の安全が脅かされそうになったとき、私は自分の意志に反して、教皇庁の宮殿から遠く離れて、ほとんど隠れて生活しなければならないことに気づきました。その時、今日私が一種の修道生活の選択と考える、その祝福された隔離が、私に聖なるトリエント・ミサを再発見させてくれたのです。私は、その日のことをよく覚えています。カズラの代わりに、アンブロジオ典礼のカッピーノ(cappino)【ダルマチカの首の周りに置かれるストラ】とマニプルをつけた伝統的な祭服を着ました。約50年の時を経て、あのミサ典礼書の祈りが、まるで直前に唱えたかのように、再び私の口から発せられた時の恐れを思い出します。ローマ典礼の詩編「Judica me, Deus」(天主よ、われを弁護し給え)の代わりに、「Confitemini Domino, quoniam bonus」(主に感謝せよ、主は良き御者なり)【詩篇117篇1】。「Munda cor meum ac labia mea.」(わが心と口を浄め給え)。この言葉は、もはや侍者や若い神学生の言葉ではなく、司式司祭の言葉であり、再び、あえて言えば「初めて」、至聖なる三位一体の御前で捧げた私の言葉なのです。なぜなら、司祭は本質的に他者のために――天主と隣人のために――生きる人であることは事実ですが、もし司祭が自らのアイデンティティーの自覚を持たず、自らの聖性を培わなければ、その使徒職は、響きわたるどら【コリント前書13章1節】のように不毛であることも同様に事実なのですから。

このような内省は、全時代のミサを捧げるという恩寵を受けたことのない人々には感動を与えず、あるいは見下しさえ起こさせることを、私はよく承知しています。しかし、同じことが、恋に落ちたことのない人々や、愛する者が最愛の人に向ける熱意や貞節な喜びを理解できない人々、あるいは、彼女の瞳に夢中になるという喜びを知らない人々にも起こるのではないかと、私は想像しているのです。鈍いローマの典礼専門家、仕立てた聖職者の服を着て胸十字架をポケットに入れた高位聖職者、「コンチリウム」や「チヴィルタ・カットリカ」の最新刊をそれと分かるように持っているローマの教理省の顧問は、昆虫学者(昆虫を研究する学問)の目で「聖ピオ五世のミサ」を見て、自然主義者が葉脈や蝶の羽を観察するように、そのペリコーペ(pericope)【朗読用の聖書の一節。ギリシャ語で「切り取り」の意味】を吟味しています。まるで、生体をメスで切り開く病理学者のような無菌状態で、それを行ってはいないのではないかと思うことも時折あります。しかし、最低限の内的生活を持った司祭が古代のミサに近づけば、その司祭がそれまでそのミサを知っていようとも、初めて知ったのであっても関係なく、まるで時間の外に出て天主の永遠に入っていくかのように、その構成された尊厳のある典礼に深い感動を覚えるのです。

私が司教職や司祭職にある兄弟たちに理解していただきたいと思うことは、人は直感的に神聖なものを感じ取るがゆえに、ミサは本質的に神聖なものだということです。人は文字通り、この世の喧騒から遠く離れた天国に、至聖なる三位一体と天の宮廷の前に連れて行かれるのです。それは愛の歌であり、ちょうど母親が息子に飽きずに接吻をするように、花嫁が夫に飽きずに「愛してる」と言うように、しるし、敬意、聖なる言葉の繰り返しは決して無駄ではないのです。そこではすべてが忘れ去られます。なぜなら、そこで語られ、歌われるすべてのことは永遠なるものであり、そこで行われるすべての身振りは永続するものであり、歴史の外にありながらも、高間の部屋(Cenacle)、カルワリオ、そしてミサが捧げられる祭壇を一致させる連続体(continuum)の中に完全に入り込んでいるからです。司式司祭は、理解しやすいようにとか、愛想よくとか、最新に見えるようにとかを気にかけながら集会で演説するのではなく、むしろ天主に向かって話しかけるのです。天主の御前では、キリスト信者の祈り、多くの霊魂の喜びと悲しみ、赦しと慈悲を求める人々の罪と欠点、受けた恩寵への感謝、親愛なる故人への哀悼の念を身に帯びることのできる特権に対する、限りない感謝の感覚だけが存在するのです。人は一人でありながら、時空を超えた無数の霊魂と密接に一致していることを実感します。

使徒継承のミサを捧げるとき、私は、殉教者の聖遺物によって奉献されたこの同じ祭壇で、多くの聖人たちや何千人もの司祭たちが、私が言うのと同じ言葉を使い、まったく同じ身振りを繰り返し、同じお辞儀と同じひざまずきをし、同じ祭服を着ていることを思い浮かべます。しかし、何よりも、聖なるいけにえを捧げることによって、私たちすべてが同化された私たちの主の同じ御体と御血でご聖体を受けるのです。全時代のミサを捧げるとき、私は教理が私たちに教えていることの真の意味を、最も崇高かつ完全な形で実感します。

「キリストに代わって」(in persona Christi)行うことは、定式文を機械的に繰り返すことではなく、次のように自覚することです。すなわち、私の口が、救い主が高間の部屋でパンとぶどう酒に発し給うたのと同じ言葉を発しているということであり、また、私がホスチアとカリスを御父に奉挙するとき、キリストが十字架上で御自らなさったいけにえを繰り返すということです。また、ご聖体を受けることにより、犠牲となったいけにえを摂取し、天主ご自身を食することであり、私は会食(パーティー)に参加しているのではない、ということです。ですから、全教会が私とともにあるのです。つまり、私の懇願する祈りに自らを一致させようとする「凱旋の教会」、煉獄での霊魂の滞在を短くするためにその祈りを待つ「苦難の教会」、日々の霊的な戦いにおいて自らを強める「戦闘の教会」です。しかし、もし私たちが信仰をもって告白するように、私たちの口が本当にキリストの口であり、私たちの奉献の言葉が本当にキリストの言葉であり、私たちが聖なるホスチアとカリスに触れる手がキリストの手であるならば、私たちは自分の体を清く汚さずに、どのように尊重すべきでしょうか? 天主の恩寵にとどまるために、これ以上の動機があるでしょうか? 「Mundamini, qui fertis vasa Domini.」(主の器を持ち運ぶ者らよ、身を清めよ)(イザヤ52章11節)。そして、次のミサ典礼書の言葉とともに。「Aufer a nobis, quæsumus, Domine, iniquitates nostras: ut ad sancta sanctorum puris mereamur mentibus introire.」(主よ、願わくは、われらより罪を遠ざけ、清い心をもって、至聖なる所に入らせ給え。)

神学者たちは、これは通常の教理であり、儀式に関係なくミサはまさにその通りである、と言うでしょう。私はそれを合理的に否定はしません。しかし、トリエント・ミサを捧げるときは、聖人と福者にちりばめられた贖いのわざの途切れることのない連続性を常に思い起こさせますが、同じことが改革された典礼では起こらないと、私には思われるのです。

もし私が「会衆に向く」(versus populum)テーブルを見れば、そこにはルター派の祭壇やプロテスタントのテーブルが見えます。もし私が最後の晩餐の制定の言葉を叙述(ナレーション)の形で読めば、クランマーの「共通祈祷書」の修正物とカルヴァンの礼拝が聞こえます。もし私が改革されたカレンダーに目を通せば、疑似改革の異端者たちを取り消した同じ聖人たちが削除されていることに気づきます。また、歌についても同じことが言えます。英国やドイツのカトリック信者ならぞっとするでしょう。つまり、教会の丸天井の下で歌われる、私たちの司祭を殉教させ、「教皇主義者の迷信」を軽蔑して聖なる秘跡【ご聖体】を踏みつけた人々の賛美歌を聞けば、カトリックのミサと公会議の偽物の間に存在する深淵を理解できるはずです。

言語については言うまでもありません。ラテン語を最初に廃止した者どもは異端者たちであり、彼らは会衆に典礼をよりよく理解させるという名目で、会衆を欺き、啓示された真理に異議を唱え、誤謬を伝播させてきました。ノブス・オルド(Novus Ordo)【新しいミサ】では、すべてが不敬です。すべてはつかの間のものであり、すべては偶然であり、すべては偶発的であり、可変的であり、変化しやすいものです。永遠なるものは何もありません。なぜなら、信仰が不変であるように、天主が不変であるように、永遠は不変であるからです。

聖伝の聖なるミサには、もう一つ強調したい点があります。それは、過去の聖人たちや殉教者たちと私たちを一致させることです。カタコンベの時代から最近の迫害まで、たとえ屋根裏や地下室、森や納屋、あるいはバン(貨物自動車)の中であっても、司祭が聖なるいけにえを捧げる場所はどこでも、多くの信仰の英雄的証人と神秘的に交わり、その即席の祭壇には聖三位一体の視線が注がれており、祭壇の前にはすべての天使の大群がひざまずき、煉獄にあるすべての霊魂は祭壇の方を見つめているのです。このことにおいても、特にこのことにおいては、聖伝が、いかに世紀を超えた解消され得ないつながりを作り出すかを、私たち一人一人が理解することができるのです。それは、その宝を用心深く管理することだけでなく、その宝がもたらす試練に、死に至るまで直面することにおいても、です。この考えがあるならば、非常識な教令による現在の暴君の傲慢さは、私たちのキリストへの忠誠心を強めさせ、自分たちが全時代の教会の不可欠な一部であると私たちに感じさせるものであるはずです。なぜなら、「良き戦い」(bonum certamen)【ティモテオ後書4章7節】を戦う準備ができていなければ、勝利の勲章を手にすることはできないからです。

私は、私の同僚の司祭たちに、考えられないようなことを思い切ってしていただきたいのです。聖なるトリエント・ミサに近づいていただきたいのです。それは、アルバのレースやカズラの刺繍を喜ぶためでもなく、その教会法上の正当性や一度も廃止されたことがないという事実についての単なる合理的な確信からでもなく、むしろモーゼが燃える柴に近づいたときのような敬虔な恐れをもって、です。私たち一人一人が、最後の福音の後、祭壇から降りてくるとき、そこで至聖所に遭遇したために、ある意味で内的に変容させられていることを知るのです。私たちが司祭職の本質を理解することができるのは、その神秘的なシナイ山においてこそなのです。つまり、司祭職とは、何よりも自分自身を天主に捧げることであり、より大いなる天主の栄光と霊魂の救いのために、いけにえであるキリストとともに自分のすべてを捧げ物とすることです。この捧げものは、ミサから力と活力を引き出す霊的な犠牲であり、大司祭のために道を開くための自己放棄です。主の模範に倣って自分の意志を無とし御父のご意志にお委ねするという真の謙遜のしるしであり、同じ信仰告白と同じ典礼を共有する聖人たちとの真の「交わり」の身ぶりです。ですから、何十年もノブス・オルドを捧げてきた人たちだけでなく、とりわけ若い司祭や最前線で奉仕する人々に、この「体験」をしていただきたいと思います。聖ピオ五世のミサは、不屈の精神、寛大で英雄的な霊魂、天主と隣人への愛に燃える心の持ち主のためにあるのですから。

私は、今日の司祭の生活には、千の試練やストレス、世との戦いの中での孤独感、長上の無関心や排斥、黙想や内的生活や霊的な成長を妨げるじわじわとした消耗があることをよく承知しています。また、私は、この四面楚歌の感覚、つまり、自分が嵐の中を一人で船のかじ取りをしなければならない船乗りのような立場にいるということが、聖伝主義者や進歩主義者の特権ではなく、主と教会に自分の命を捧げ、それぞれの不幸、経済問題、司教との誤解、同僚からの批判、信者の要求などを抱えたすべての人の共通の運命であることも、さらによく承知しています。また、十字架の聖ヨハネの暗夜と同じように、天主の現存と童貞マリアの同伴が消えてしまうような孤独の時間もあります。「Quare me repulisti? Et quare tristis incedo, dum affligit me inimicus?」(なぜわれを見捨て給うか、なぜわれは敵の虐げに遭って悲しみ嘆いているのか?)。悪魔がインターネットとテレビの間で陰湿に獲物の匂いを嗅ぎつけるとき、「quærens quem devoret」(食い荒らすものを探し)【ペトロ前書5章8節】、裏切りによって私たちの疲れにつけ込んでくるのです。このような場合、私たちの主がゲッセマネでそうだったように、私たちも皆、直面するのですが、サタンが攻撃しようと欲するのは私たちの司祭職に対してであり、ヘロデの前にいるサロメのように説得力をもって自らを提示し、洗者の首という贈り物を私たちに要求してくるのです。「Ab homine iniquo, et doloso erue me.」(不正な邪な人々より、われを解き放ち給え)。この試練において、私たちは皆、同じです。なぜなら、敵が勝ち取ろうと欲する勝利は、洗礼を受けた人々のあわれな霊魂に対するものだけでなく、私たちがその塗油を受けた司祭なるキリストに対するものでもあるからです。

このため、今日、かつてないほど、聖なるトリエント・ミサは、カトリック司祭職の唯一の救いの錨なのです。なぜなら、そのミサにおいて、司祭は毎日、聖三位一体との親密な一致という特権的な時間に生まれ変わり、そのミサから、罪に陥らず、聖性の道に沿って進み、自分の役務に直面するための健全なバランスを再発見するために不可欠な恩寵を引き出すからです。このすべてが単なる儀式的、美的な問題として片づけられると考える人は、自分の司祭召命について何も理解していないのです。なぜなら、「全時代の」聖なるミサは――それは常に敵対者【悪魔】によって反対されてきたように、本当にそうなのですが――、誰にでも自分を差し出す都合のよい恋人ではなく、むしろ、主と同じように嫉妬深い貞淑な花嫁なのです。

皆さんは、天主をお喜ばせしたいのでしょうか、それとも皆さんを天主から遠ざけている者を喜ばせたいのでしょうか? 問題は、その根において、いつも同じです。キリストの優しいくびきと、敵対者の奴隷の鎖のどちらを選ぶかということです。その答えは、皆さんも、皆さんから隠されてきたこの巨大な宝に驚嘆し、聖なる犠牲を、あわれな「集会の座長」としてではなく、むしろ「キリストのしもべ、また天主の奥義の管理者」(コリント前書4章1節)として捧げることの意味を発見する瞬間に、はっきりと明快に出てくることでしょう。

ミサ典礼書を手に取り、友人の司祭に助けを求め、変容の山に登ってください。「Emitte lucem tuam et veritatem tuam: ipsa me deduxerunt, et adduxerunt in montem sanctum tuum, et in tabernacula tua.」(御身の光明と真理とを送り給え。それらが、われを導きて主の聖なる山の方、主の幕屋に至らせるであろう)。ペトロ、ヤコブ、ヨハネのように、皆さんはこう叫ぶでしょう。「Domine, bonum est nos hic esse」(主よ、私たちがここにいるのはよいことです)(マテオ17章4節)。あるいは、司式司祭が奉献唱で繰り返す、次の詩篇の言葉とともに。「Domine, dilexi decorem domus tuæ, et locum habitationis gloriæ tuæ.」(主よ、われは御身の住まいと、御身の栄光のとどまるところを愛する)(詩篇25篇8節)。

ひとたびそれを発見すれば、主がもはや皆さんを「しもべ」ではなく、「友人」と呼ばれるようになったことを、誰も皆さんから取り去ることはできないでしょう(ヨハネ15章15節)。誰もそれを放棄するように皆さんを説得し、反抗的な心が生み出したその混ぜ物の入ったものに満足することを強いることはできないでしょう。「Eratis enim aliquando tenebræ: nunc enim lux in Domino. Ut filii lucis ambulate.」(元あなたたちは闇であったが、今は主において光である。したがって光の子として歩め)(エフェゾ5章8節)。「Propter quod dicit: Surge qui dormis, et exsurge a mortuis, et illuminabit te Christus.」(これがために、「眠る者よ、起きよ、死者の中から立ち上がれ。キリストはあなたを照らすであろう」と言われている)(エフェゾ5章14節)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年1月2日
Sanctissimi Nominis JESU
イエズスの至聖なる御名

https://rumble.com/vsj4kh-dilecta-mea-about-the-holy-apostolic-mass.html

https://rumble.com/vsj9m5-dilecta-mea-a-propos-de-la-sainte-messe-apostolique.html

https://rumble.com/vsiyg7-dilecta-mea-sulla-santa-messa-apostolica.html

https://www.marcotosatti.com/2022/01/15/vigano-cuando-temia-por-mi-vida-redescubri-la-misa-tradicional/


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka, SSPX Japan

2022年01月16日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御公現後第二主日、今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。大阪では24人でした。このお恵みを天主に感謝いたします。

御公現後第二主日には、カナの婚礼のことを福音で読みましたが、マリア様が第二のエワであることにも思いをはせました。

カナの婚礼には「ユダヤ人のきよめのために準備されている三、四斗入りの石がめが六つあった」(ヨハネ2:6)とありますが、聖ヨハネの福音には「ぶどう酒」という単語が六回でてきます。(ヨハネ2:2,9,10、4:46)あたかも六つの石がめに入れられた水がすべてぶどう酒に変わったことを強調するかのようです。

聖ヨハネによる福音の最初は、創世記と似ていることが指摘されています。創世記は「はじめに」という言葉から始まりますが、最後の福音も「はじめに」ということばで始まります。

創世記では自然界の天地創造の七日のことがまず語られます。聖ヨハネも超自然による新しい創造の七日のことを語っているかのようです。洗者聖ヨハネが「私はそのはきもののひもをとく値打ちもない」と宣言したのが一日目で、カナの婚礼で最初の奇跡を行い栄光をお示しになったのが七日目です。超自然の恵み、新しい聖寵の世界の始まりのことです。

説明します。

創世記と同じ言葉「はじめに」で始まるヨハネの聖福音は、「第一日」として、御言葉に「生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いた」「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた」といって光について語ります。創世記も第一日では光りが創られることが語られます。福音では、洗者聖ヨハネの「私はそのはきものの、ひもをとく値打ちもない」という宣言と共に「これらのことがあったのは、ヨハネが洗礼をさずけていたヨルダンの向こうのベタニアであった」で第一目が終わります。

第二日は「翌日」(ヨハネ1:29)という言葉から始まります。二日目では、洗者の水での洗礼を授けていることが語られます。創世記でも二日目に水について語られます。福音では二日目はイエズス・キリストに関する洗者の証言で終わります。「私は、霊が鳩のような形で天からくだり、かれの上にとどまるのを見た。…私はそれを見、そして、かれこそ天主のみ子であると証明した」と。

第三日は「その翌日」(ヨハネ1:35)で始まります。「ヨハネのことばをきいてイエズスについてきた二人」のこと、二人のうちの一人だったアンドレアは自分の兄弟シモンをイエズスのところにつれてきたことが語られます。三日目に三人の弟子たちがイエズスに出会うのです。この弟子たちは、実りをもたらす木々にたとえられるかもしれません。

第四日は「翌日、イエズスは、ガリラヤのほうに出発するつもりだった」(ヨハネ1:43)で始まります。四日目は次のイエズスの言葉で終わります。「まことにまことに、私はいう。あなたは、天がひらけて、天主の使いたちが人の子の上にのぼりくだりするのを見るだろう」とおおせられた。創世記では、四日目に、目に見える天について、つまり太陽と月と星々の創造について語られます。

第七日は、「それから三日目に、ガリラヤのカナに婚礼があったので、イエズスの母もそこに来ておられた」(ヨハネ2:1)で始まります。創世記では七日目にヤーウェは休まれますが、アダムとエワがエデンの園で誘惑を受けることも語られています。

イエズスは聖母のことを「母よ」とは呼びかけずに「女よ」(第二のエワとして)と呼びます。カナでは、聖母はイエズスの母ではありましたが、まだ人類の霊的な母ではありませんでした。聖母は十字架のもとで「母」として弟子に与えられます。
「それが私とあなたとになんのかかわりがありましょう Quid mihi et tibi est ?」という表現は、新約聖書ではここを含めて六回使われています。共観福音書で五回でてきますが、すべて悪魔や悪魔に憑かれた人が、イエズスを拒んでいう言葉として使われています。
実際イエズスは、カナアンのある女の頼みを拒むような態度をとったこともありました。頼まれてもイエズスは一言もお答えにならず、弟子たちには「私は、イスラエルの家の、迷った羊のために来ただけだ」と答え、ついにこの女に「子どものパンをとって小犬にやるのは、よくないことだ」とさえ言われます。しかし最後には祈りにお答えになりました。(マテオ15:21-28)

これについては、別の機会が与えられましたら続きを書きます。以上のことは、La Maternité spirituelle de la Mère de Jésus dans saint Jean par F. Quiévreux (1952)を参考にしました。

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 113, including children.

09:00 mass
M: 21 (incl. 5 children)
F: 26 (incl. 4 children)
Total: 47 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 21 (incl. 6 children)
F: 24 (incl. 6 children)
Total: 45 (incl. 12 children)

12:30 mass
M: 11 (incl. 1 child)
F: 15 (incl. 1 child)
Total: 26 (incl. 2 children)

Total of 3 masses (excl. 5 people who participated in multiple masses)
M: 51 (incl. 12 children)
F: 62 (incl. 11 children)
Total: 113 (incl. 23 children)


カナの婚礼は聖母が私たちの母であることを予告しています|聖母は祈りによる全能者と呼ばれます

2022年01月15日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年1月16日は御公現後第二主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御公現後第二主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ヴィガノ大司教:霊的な戦いに直面し霊的な武器が必要。各地で人々は公にロザリオを唱え始めている。人間の力だけでは脅威に立ち向かうことはできない。

2022年01月13日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の全世界ロザリオ十字軍のためのメッセージ

Message of H.E. Mons. Carlo Maria Viganò for a World Crusade of the Rosary

【訳者の言葉】
秋田の聖母は、第3のメッセージ(1973年10月13日)でこう言われました。
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」(少し間をおいて)
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
 悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナル【枢機卿】はカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
 勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから。・・・」
(さらにつづけて)
 ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。

イエズス・キリストは、御自分の十字架によってこの世の贖いをなしとげました。洗礼を受けることによって、聖寵の秩序を回復することができるようになりました。しかし、反キリストの勢力は、数百年前から、全世界におけるカトリック教会の権威に取って代わる別の世界権威を作ろうとしています。それが新世界秩序(New World Order)です。これに対抗するために、ヴィガノ大司教は全世界ロザリオ十字軍(World Rosary Crusade)にすべての人を招いています。ヴィガノ大司教は、聖母の招きに答えるかのように、ロザリオの祈りを勧めています。

2022年1月7日
マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人と敵の皆さん、私たちは、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教から、今起きている霊的な戦いに参加するための以下のお招きをお受けしましたので、大いなる喜びをもって発表します。どうぞお読みください。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の全世界ロザリオ十字軍のためのメッセージ

Memorare, piissima Virgo Maria,
a sæculo non esse auditum 
quemquam ad tua currentem præsidia,
tua implorantem auxilia,
tua petentem suffragia
esse derelictum.

Sanctus Bernardus

慈悲深き童貞マリア、
御保護によりすがりて、
御助けを求め、
あえて御取り次ぎを願える者、
一人として棄てられしこと、
世に聞こえざるを思い給え。
聖ベルナルド

二年にわたる嘘と欺瞞の末、グローバリストの寡頭政治に服従させられた人類は、リヴァイアサンの尾による最後の一撃を目の当たりにしています。真実が多方面から明るみに出て、多くの人々の詐欺と裏切りが明らかになる一方で、リヴァイアサンは、基本的自由の制限や、脅迫に屈しない人々の隔離、反対者の犯罪化を正当化するための「健康緊急事態」の名の下に、私たちを強制的に奴隷にするための不条理な法律をますます義務付けることによって、その怒りを噴出させたがっているように見えます。
【注:リヴァイアサンは、旧約聖書に出てくる海の巨大な怪物(レヴィアタン)に由来する表現で、巨大で凶暴で強力な共和国を比ゆ的に例えている】

私たちは、この戦いの霊的な次元を理解しています。その戦いでは、実験室で作られたウイルスが、新世界秩序(New World Order)が長い間、細部にわたって計画してきた、あのグレート・リセットを実現させ、キリスト信者としての私たちのアイデンティティーの痕跡をすべて、そして宗教が社会に与えてきた文明と文化の遺物も、一緒に消し去ることになろうとしているのです。

また、私たちは、当局者たちが自らの役割を裏切る際に関与しているのは、国家の運命を左右する人々だけでなく、カトリックの位階階級もいて、キリストの教会をグローバリズムのイデオロギーのしもべに変えようとしているということも理解しました。私たちは、「ディープ・ステート」と「ディープ・チャーチ」が、天主と人間に敵対し、地上に反キリストの国を打ち立てるために同盟を結んでいることを、落胆しながら見てきたのです。

童貞聖マリアがファチマの幼い牧童たちに、地獄の苦しみと地獄に落ちた霊魂たちを見せようとお望みになったように、私たちも、グローバリストのエリートが地上に作りたがっている、地獄のような社会のモデルを見せられているのです。それは、天主がおられず、真理もなく、善もない社会であり、そこでは、死、憎しみ、不信仰、悪徳、罪が支配し、被造物が創造主に反抗するのです。

そのような霊的な戦いに直面したとき、霊的な武器が必要となります。このことは、何千人ものカトリック信者、特に男性によって理解されており、彼らは、世界各地で祖国解放のために公にロザリオを唱え始めています。これらの賞賛に値する勇気ある動きは、キリスト教の復興と信仰の再生の始まりであり、同時に、天主の御母に対する荘厳な崇敬の行為でもあります。

人間の力だけでは、迫り来る脅威に立ち向かうことはできません。このため、祈りに依り頼み、人類の敵【悪魔】と戦うために童貞聖マリアが私たちに与えてくださった無敵の武器をもって、天主の御助けを求めることが、いかに重要でかけがえのないものであるかを、私たちは理解しなければなりません。

私は、至聖なる童貞の力強い取りなしによって、解き放たれた悪の勢力に対する天主のご介入と勝利を獲得するために、全世界ロザリオ十字軍(World Rosary Crusade)に参加してくださるよう、すべての人をお招きします。私の願いは、ロザリオ三環(三つの"冠")の祈りを唱えることによって、皆さん全員の願いと一つになります。

世界のすべての国、すべての都市で、私たちの祈りの叫びが、確信をもって大声で、天に上げられますように。艱難に捕らわれた子どもたちのように、私たちは、私たちの母の足元に身を投げ出し、母が私たちの願いを聞いてくださるという確信をもって、母に祈り求めます。聖ベルナルドの次の言葉を、私たちの祈りとしましょう。「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取り次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え」。

家庭で、教会で、街の通りで、街の広場で、ひざまずいて祈りましょう。私たちは皆、聖なるロザリオの童貞の御助けを必要としていることを認識し、地獄の混沌に対抗する天主の秩序をたたえ、十字架のふもとで私たちに母として与えられ、歴史を通して常にそうしてくださったように、母として私たちを愛し助けてくださる聖母に、すべての望みを置くのです。

この十字軍に小さな子どもたちも同行させ、その無垢さが天を動かしますように。高齢者と病人もまた私たちと一致し、私たちの主イエズス・キリストのご受難と一致して、苦しみを捧げますように。悪魔は子どもたちの祈りと苦しむ人々の償いを恐れます。なぜなら、悪魔は、清さと犠牲において、自分を打ち負かし給うたキリストの姿を見るからです。

私たちの心からの祈りが、あらゆるところに響き渡りますように。私たちはすべての恵みの仲介者にお願い申し上げましょう。私たちの世界の破壊、私たちの自由の破壊、私たちのアイデンティティーの破壊、私たちの愛情の破壊を、終わらせてくださいますように。

童貞聖マリアよ、私たちは御身に懇願いたします。私たちの目を開いてくだい。絶望の淵、憎しみ、社会的対立に追いやられることなく、私たちの体と霊魂を攻撃するために分裂の種をまく人々におもねることがありませんように。

私たちは、御身に請い願います。遺伝子血清が子どもたちに及ぼす影響を知らずに躊躇している親たちの心を照らしてください。医師たちに、患者を治療し、冷笑的で効果のないプロトコルを実行させないでください。国の政府、地方自治体、すべての秩序の管理者たちを動かして、共通善のために働き、モラルのない独裁者たちに従わないようにしてください。

私たちは、御身に懇願いたします。権力と金銭への渇望に目がくらみ、天主に対する、そして御子が十字架上で贖い給うた人々に対する最も重大な犯罪の共犯者となっている人々を回心させてください。

私たちは、御身にお願い申し上げます。主がご自分の群れを託され、すべての霊魂についての説明をお求めになるであろう司牧者たちを回心させてください。

そして、このことが実現するように、私たちの罪と諸国家の公の罪の赦しを懇願いたします。悔い改めと、あなたの天主なる御子に対してもう罪を犯さないという決意があってこそ、私たちの祈りが聞き入れられるという望みを持つことができるのですから。

ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみを垂れてこれを聴き給え、これを聴き入れ給え。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

In Epiphania Domini
2021年1月6日
主の御公現の祝日

[1] The words are the beginning of the Memorare prayer of St. Bernard of Clairvaux: “MEMORARE, O piissima Virgo Maria, non esse auditum a saeculo, quemquam ad tua currentem praesidia, tua implorantem auxilia, tua petentem suffragia, esse derelictum. Ego tali animatus confidentia, ad te, Virgo Virginum, Mater, curro, ad te venio, coram te gemens peccator assisto. Noli, Mater Verbi, verba mea despicere; sed audi propitia et exaudi. Amen.

聖ベルナルドの祈りは、日本語では次の通り。「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取り次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみを垂れてこれを聴き給え、これを聴き入れ給え。アーメン」。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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