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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年6月30日聖霊降臨後第3主日 東京で聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告

2019年06月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月21日にはアメリカの聖ピオ十世会の神学校で5名の新司祭が誕生しました。



 6月28日イエズスの聖心の祝日にはエコンの神学校で6名の新しいカトリック司祭が生まれました。

 6月29日使徒聖ペトロとパウロの祝日には、ドイツのツァイツコーフェンの神学校で、2名の新約の司祭が叙階されました。



 6月29日は、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの叙階26周年でもありました。多くのお祈りをよろしくお願いいたします。

 今日6月30日には東京で聖伝のミサがありました。報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

遅くなりましたが、御ミサの報告をお送り致します。

6月21日(金) ゴンザガの聖アロイジオ のミサには11名、
6月22日(土) 聖パウリノのミサには22名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!

金曜日のお説教ではその清さで有名な聖アロイジオの生涯を黙想しました。
天使のような純潔さを持つアロイジオは好奇心を制するために三年間務めていた城の王女の顔も見ず、聖カロロ・ボロメオから初聖体を受けたのちからは一層天主様への愛を深め、貞潔を誓いました。
ゴンザガの聖アロイジオは大好きな聖人の一人です。自分とはあまりにもかけ離れた徳をお持ちの聖人ですが、聖人のお取次ぎによって、世界が、特に日本に純潔のユリが咲き乱れますように!と祈りました。

土曜日は聖パウリノの生涯を黙想しました。
愛すべきはイエズス・キリストのみ!!と、司祭の模範ともいうべき生涯を送られました。
聖パウリのの取次ぎによって、今月末に司祭に叙階された新しい神父様が、聖なる司祭になられますように!!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日はオーストラリアのヴィクトリア州タイノンからラファエル・デュ・シャゾ神父が初めて東京を訪問して、イエズスの聖心の荘厳祭のミサを挙げ、聖体降福式をし、午後には信者のために霊的講話をしてくださいました。

ミサの御説教では、天主のなさることは全て天主ご自身に充満している愛に基づいており、世界の創造も、イエズス・キリストの御托身も、罪を犯した人類の贖いも、すべて天主が人間を愛徳に呼び戻すために計画されたこと、そのためには聖ヨハネの目の前で槍に貫かれて開かれたイエズス・キリストの聖心に対して、私たちも自らの心を開き、愛徳をお返しせねばならないこと、そしてイエズスの聖心を貫いた槍が私たちのための天国への道となったように、私たちもあらゆる道具を天主を愛するために使うべきこと、など教えて頂きました。

ミサ後の聖体降福式の後、聖心の大祝日に指定されている「人類の忘恩に対する償いの祈」を皆で唱えました。

午後の霊的講話では、旧約の典礼規則と新約の典礼規則を対比して、微に入り細にわたる旧約の典礼規則も、真の大司祭であり、同時に真のいけにえであるイエズス・キリストによって捧げられる真のいけにえであるミサ聖祭のしるしに過ぎないこと、また典礼規則というものは人がその好みによって選ぶものではなく、旧約では天主からモーゼ等を通じてイスラエルの民に与えられたものであったように、新約では聖霊からカトリック教会を通じて与えられたものであること、そして、それら個々の規則の意味を色々議論したり説明したりする試みはあるものの、典礼というものは本質的にはイエズス・キリストという花婿と教会という花嫁の間に交わされる愛の会話であって、いくらその全ての意味を究明しようとしても尽きることがない、というお話しをしていただきまし
た。

その後、聖心の八日間中の主日の晩課を歌い、解散しました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 20人(内、子供4人)
女: 24人(内、子供3人)
計: 44人(内、子供7人)

今日の霊的講話の参加者数:17人

今日の晩課の参加者数:6人

聖体降福式の時の讃美を、ラテン語・日本語・英語・フランス語・中国語・韓国語でご紹介いたします

2019年06月26日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
聖体降福式の時の讃美を、ラテン語・日本語・英語・フランス語・中国語・韓国語でどういうかをご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Laudes Divinae 聖体降福式の時の讃美 Divine Praises Divines louanges 讚美天主 천주찬미
1. Benedictus Deus. 1. 天主は、讃美せられさせ給え。 1. Blessed be God. 1. Dieu soit béni ! 1. 讚美天主。 1. 천주는찬미받으소서.
2. Benedictum Nomen Sanctum eius. 2. 天主の御名(みな)は、讃美せられさせ給え。 2. Blessed be His Holy Name. 2. Béni soit son saint Nom ! 2. 讚美天主聖名。 2. 천주의거룩하신이름은찬미받으소서.
3. Benedictus Iesus Christus, verus Deus et verus homo. 3. まことの天主、まことの人なるイエズス・キリストは、讃美せられさせ給え。 3. Blessed be Jesus Christ, true God and true Man. 3. Béni soit Jésus-Christ, vrai Dieu et vrai homme ! 3. 讚美耶穌基利斯督真是天主又是真人。 3. 천주이시며사람이신예수그리스도는찬미받으소서.
4. Benedictum Nomen Iesu. 4. イエズスの御名(みな)は、讃美せられさせ給え。 4. Blessed be the name of Jesus. 4. Béni soit le nom de Jésus ! 4. 讚美耶穌聖名。 4. 예수의이름은찬미받으소서.
5. Benedictum Cor eius sacratissimum. 5. イエズスの至聖(しせい)なる聖心(みこころ)は、讃美せられさせ給え。 5. Blessed be His Most Sacred Heart. 5. Béni soit son Sacré-Coeur ! 5. 讚美耶穌至聖之心。 5. 지극히거룩한예수의성심은찬미받으소서.
6. Benedictus Sanguis eius pretiosissimus. 6. イエズスのいと尊き御血は、讃美せられさせ給え。 6. Blessed be His Most Precious Blood. 6. Béni soit son précieux Sang ! 6. 讚美耶穌寶血。 6. 예수의지극히보배로운성혈은찬미받으소서.
7. Benedictus Iesus in sanctissimo altaris Sacramento. 7. いと尊き聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは、讃美せられさせ給え。 7. Blessed be Jesus in the Most Holy Sacrament of the Altar. 7. Béni soit Jésus-Christ au Très Saint-Sacrement de l'autel ! 7. 讚美耶穌在至聖之聖體聖事 7. 제대위의지극히거룩하신성사안에참으로계신예수는찬미받으소서.
8. Benedictus Sanctus Spiritus, Paraclitus. 8. 慰め主なる聖霊は、讃美せられさせ給え。 8. Blessed be the Holy Ghost, the Paraclete. 8. Béni soit l'Esprit-Saint Consolateur ! 8. 讚美師保聖神。 8. 위로자이신성신은찬미받으소서.
9. Benedicta excelsa Mater Dei, Maris sanctissima. 9. 天主の御母(おんはは)聖マリアは、讃美せられさせ給え。 9. Blessed be the great Mother of God, Mary Most Holy. 9. Bénie soit l'auguste Mère de Dieu, la très Sainte Vierge Marie ! 9. 讚美至高至聖瑪利亞天主之母。 9. 거룩하신성모지극히위대하신마리아는찬미받으소서.
10. Benedicta sancta eius et immaculata Conceptio. 10. 聖マリアの原罪の汚れなき御宿(おんやど)りは、讃美せられさせ給え。 10. Blessed be her holy and Immaculate Conception. 10. Bénie soit sa Sainte et Immaculée Conception ! 10. 讚美聖母至聖而無玷之始胎。 10. 마리아의무연시태는찬미받으소서.
11. Benedicta eius gloriosa Assumptio. 11. 聖マリアの栄(はえ)ある被昇天は、讃美せられさせ給え。 11. Blessed be her glorious Assumption. 11. Bénie soit sa Glorieuse Assomption ! 11. 讚美聖母蒙召升天。 11. 마리아의영광스러운몽소승천은찬미받으소서.
12. Benedictum nomen Mariae, Virginis et Matris. 12. 童貞にして母なる聖マリアの御名(みな)は、讃美せられさせ給え。 12. Blessed be the name of Mary, Virgin and Mother. 12. Béni soit le nom de Marie, Vierge et Mère ! 12. 讚美童貞聖母瑪利亞之名。 12. 동정이시요, 모친이신마리아의이름은찬미받으소서.
13. Benedictus sanctus Ioseph, eius castissimus Sponsus. 13. 聖マリアの浄配なる聖ヨゼフは、讃美せられさせ給え。 13. Blessed be Saint Joseph, her most chaste spouse. 13. Béni soit saint Joseph, son très chaste Époux ! 13. 讚美聖若瑟聖母之淨配。 13. 마리아의지극히정결하신배필요셉은찬미받으소서.
14. Benedictus Deus in Angelis suis, et in Sanctis suis. 14. すべての天使と聖人とにおいて、天主は、讃美せられさせ給え。 14. Blessed be God in His Angels and His Saints. 14. Béni soit Dieu dans ses Anges et dans ses Saints ! 14. 讚美天主於其天神及諸聖人中,至於世世。 14. 천신들과성인들가운데서천주는찬미받으소서.

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、旧典礼のミサ、ラテン語ミサ)の報告 SSPX Traditional Latin Mass in Japan

2019年06月26日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪ではいつもの通り聖伝のミサをささげることができました。土曜日には聖体降福式も行いました。学生たちが三人で侍者をしてくれました。ありがとう!おおきに!

東京では、御聖体の荘厳祭を行いました。日本では、御聖体が軽んじられ、その前でひざまづくことさえも事実上禁止されており、御聖体拝領もほぼひざまづいて口ですることはできません。そのような中で、少なくとも私たちは、御聖体をひざまづいて礼拝し、感謝し、償いを捧げようと努力しました。

東京では二人の生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受けました。ペトロ君とパウロ君です。

東京では来る主日にもミサ聖祭があります。さらに7月7日の主日には別の二人の兄弟たちが洗礼を受ける予定です。お祈りください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、感想を書きました。

ミサについて
この日の祝日の聖人であるノラの聖パウリノの生涯を、聖アンブロジオや聖アウグスティノと同時代人だったことや、聖アンブロジオと同じように政治的に統治する立場から改宗して地位を捨て、司祭、司教となり、人々のためにつくしたその生涯を黙想しました。

また遠くから若い人たちが来てくれて侍者をしてくれたことは、ミサに活気をもたらし、将来への希望も与えてくれました。デオ・グラチアス!

ブログの投稿について
小野田神父様、【霊魂らの救いは最高の法(新教会法典1752条)Salus animarum suprema lex. 「違法」とはどういうことか】という、素晴らしい投稿をしてくださって、ありがとうございます。

人間として生まれたからには、霊魂の救いがないならば失敗の人生です。
成功した人生とは、霊魂の救いを得ること、すなわち天の国を勝ち得た人生、聖三位一体と一つになることのできた人生のことです。

この霊魂の救いを得るために、ローマ・カトリック教会が存在しているのですから、全能永遠の天主なる私たちの主イエズス・キリストご自身であるご聖体の前にひざまずかないなど、まともな神経があれば考えられないことです。日本の伝統に従えば、土下座しなければならないはずです。

手による聖体拝領や聖体奉仕者の導入、聖体拝領用パテナの廃止など、ご聖体に対する敬意に欠ける材料には事欠きません。それどころか、私には冒涜しているとしか思えません。

新典礼が導入されて以来約50年にして、ここまで変わってしまったのですから、どこかで読んだ言い回しに似た表現を使えば、当時と今とを一度に見比べたとすれば、何も知らない普通の感覚の未信者でも、その変わりぶりに驚くことでしょう。これが2000年の伝統のある同じローマ・カトリック教会なのか、と。
まさに神父様がお書きになった、聖パウロの次の言葉が想起されます。
「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラチア1:8)

聖パウロが「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ」と書いたからには、将来そのようなことが、教える側から起こされると見通していたのかもしれません。当時から誤謬を教える教師が現れていたようですが、この言葉はまさに現代の私たちに当てはまるのではないでしょうか。

どのような地位にある人であっても、使徒時代以来の教会の聖伝として、不可謬の教えとして受け継がれてきたことに反することを定める権利はないはずで、それを受け入れなくても、決して従順に反するのではありません。霊魂に害を与えることは、従順に受け入れる対象にはならないからです。それが分かっていたからこそ私たちは、引退教皇ベネディクト十六世が、トリエント・ミサ(聖伝のミサ)は決して廃止されておらず司祭なら誰でも自由に捧げることができるとした2007年の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」をお出しになる前から、安心して聖ピオ十世会の聖伝のミサにあずかってきたのです。

しかし、イエズス様がこのような悲惨なことが起こるのをお許しになっていることを考えると、ますます自らの信仰を固めることと、霊魂の救い=天の国を勝ち取ることを考えていない人々に信仰を伝えることに取り組まなければなりません。そのためには、イエズス様の聖心から来るすべての恵みの仲介者である聖母マリア様により頼むしかありません。

ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身により頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられしすべての人々のために祈り給え。聖マキシミリアノ・マリア・コルベ、われらのために祈り給え。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 23人(内、子供6人)
女: 32人(内、子供3人)
計: 55人(内、子供9人)

今日の洗礼式後のパーティーの参加者数:26人

【報告】
ブログにアップして下さった、ヴィクトール・パシクニック神父様のカトリック司祭への道のりの動画を拝見致しました。
言葉は分かりませんでしたが、神学校に入られて、着衣式から初ミサまでドキュメンタリーのように編集されていて素晴らしかったです。
動画だけでも、天主様の御摂理の美しさ、司祭職の美しさを感じる事ができたように思います。

マリア様が、その汚れなき御心に奉献する事を特別の要求されているロシアでの200年ぶりのカトリック司祭が、聖ピオ十世会の聖伝のカトリック司祭で、
そしてその方のロシアでの初ミサは、聖母の汚れなき御心の随意ミサが捧げられたというのも、マリア様が本当にロシアを愛していらっしゃって、ロシアの回心を心から御求めになっている表れのように感じました。

そのマリア様の御望みが1日も早く実現する日が来ますように、教皇様が全世界の司教様と一致して、ロシアを聖母の汚れなき御心に奉献して下さいますように、
また私たちの祖国日本の回心の為に、日本の司教様も一致してマリア様の汚れなき御心への日本の奉献の更新をして下さいますように、
私たちができる事を、マリア様の汚れなき御心への信心を、初土の信心を、初金の信心を、ロザリオを、祈りと犠牲を、日々御捧げしていく事ができますように!

遂にはマリア様の汚れなき御心の凱旋によって、天主三位一体の至聖なる御名が永遠に讃美せられますように!!

【報告】【東京】
Ave Maria Immaculta!

ご聖体の荘厳祭のごミサをありがとうございました。
ご聖体はカトリック信仰の中心、ご聖体のうちにまことに在しまし給うイエズス様を荘厳に礼拝させていただきましたことを、深く感謝申し上げます。

祭儀はご聖体降福式も行われいつもより少し長い時間でしたが、たくさんの信徒の方々と一緒に、心より礼拝させていただきました。

ご聖体は屠られたイエズス様というミサの生贄をあらわすということをお話しいただいて、ファチマで天使が子供たちにご聖体にたいして犯されている侮辱を償い礼拝するやり方で、この日はいつもよりもっと特別に熱心にご聖体の御前にて償いの祈りを捧げさせていただくことができたように思います。お導きをありがとうございます。

お説教で、ご聖体に対してどれほどの侮辱がなされているか償いをしなければならないこと、天主を信じない人の代わりに罪の赦しを願わなければならないことを、お話しいただきました。

また天使があらわれた時、『空中にご聖体とカリスがあらわれた』というのは、イエズス様が屠られている十字架の生贄の再現であるのがミサだ、カトリックの真理だということを示されたものだと、お話しいただきました。ミサとはイエズス様が御自分の御体と御血を人間の罪の償いのために捧げることにあり、この神秘を黙想することにある。という言葉も覚えて置かなければならない言葉だと思いました。

聖ピオ十世会が正式に認可された会憲には、聖ピオ十世会の霊性はミサ聖祭であり、ここに聖ピオ十世会の司祭の存在理由があるとのお話に、あらためて小野田神父様が聖ピオ十世会の司祭として東京でごミサを捧げてくださいますことに感謝致しました。

小野田神父様は、日本全体で正式に公式にミサの中での跪きと舌でのご聖体拝領を事実上禁止する発令が出された時に、それはおかしいと私にはっきりと言ってくださった唯一の司祭様でした。

ラテン語のトリエント・ミサを捧げることができて特別にそのミサを捧げてくださったその他の司祭様に直接自分たちの気持ちを訴えても、ひとことも何もおっしゃってはくださいませんでした。もちろん、所属する修道会の方針に決して反してはならないというお立場からであったことも理解いたしました。そしてなんとも哀しく無力感に陥ってしまいました。

そのような経緯を経てきているので、この伝統的な聖伝のミサという大切な宝がこれからも世界の各地の教会から消え去らないように尽力してくださるのは、やはり聖ピオ十世会の司祭様だと感じております。博物館にあるような死んでしまった文化的遺産としてなどではなく、生き生きとしている宝物の本物のミサを守ってくださることを、そしてこれからもきっと守り続けてくださると信じております。

このようなミサに与らせていただく値打ちもない者である私ですのに、お恵みによりこうしてこの上ない幸福に招いてくださいますことを天主さまに感謝申し上げます。

聖伝のミサを違法ミサだという人がいるとすれば、それは2000年近く捧げられてきているミサの中で行われているイエズス様の犠牲の生贄を否定していることになると思います。それは、もう一度イエズス様がなさったことを有罪に決めつけるようなことかなと思います。

(カトリック教会の中心はミサでもあるので)本当のミサが有罪判決を受け、死刑にしろ!死刑にしろ!殺せ無くせとユダヤ人が冒涜の言葉を吐いていたとのと同じように、聖伝のミサはもうカトリック信者によって違法だとかそれに与ってはいけないとか侮辱され辱められ貶められ迫害を受けているかのように思います。

意味もなく無視されたり、ミサに与ることを禁止されたり、色々嫌がらせを受けたり、ご聖体への侮辱冒涜がエスカレートするなど、どんなにかカトリック信仰の真髄であるミサとご聖体は、近年苦しめられてきたことでしょうか。(小野田神父様は、たくさんの方からご聖体への不敬への訴えに耳を傾けていることを、お話しくださいました。)

私は何も事情を知らなかった頃は、昔のミサというのがあって今とは違うミサだということさえ知らなくて、カトリック教会はもう死なんとしているのかしらと感じていたのでした。私も本当は、一度、エルサレムから離れたエンマウスの旅人のように、教会から離れて歩き出していました。

でも、そういったことは、みな、聖書に書かれて預言されていたことではなかったかと、イエズス様がエンマウスの道で二人連れの弟子に語ったように、私にもある日心の中で、イエズス様は語ってくれました。教会にもどって、しばらくは教会に戻れたことを喜ぶだけでしたが、やがて聖伝のミサに与りご聖体が割かれて跪いて舌で拝領したときに、わたしの目は開けて、このミサにはイエズス様がいらっしゃってイエズス様はこのミサと一緒に御受難の時でいらっしゃるのだと、感じられました。

それだから私は聖伝のミサにずっとほとんど与らせていただいています。イエズス様のお苦しみを思いマリア様のお悲しみを思い、ただ十字架のもとに佇んでご一緒に苦しみ悲しむことしかできないとしても。戦闘するカトリック教会のために最前線で働いている真の司祭魂を持つ神父様達のため、何もたいしたお手伝いできないとしても。

私などこういうことを申し上げる資格もなく、聖ピオ十世会の司祭様達はどれほどの迫害と御苦難を耐え忍んでこられていらっしゃることでしょうといつも感謝をしております。ルフェーブル大司教様がどれだけ大変な思いをされて聖伝のミサを今の時代につないでくださったかのお説教を拝聴しながら、あらためて感謝申し上げました。

カトリック教会は、イエズス様が人間の罪の償いの犠牲を捧げてくださるのをなんとか止めさせようとしている悪魔の策略には、けっして嵌(はま)ってはいけないと思います。

これはきっと信仰の問題なので、目に見えない超自然のいのちのことに関係しているので、多数決で決めることでもないし時代とともに変わってしまうことでもないでしょう。たとえ迫害を受けてもたとえいろいろな嫌なこと面倒なことがあっても、このミサは守られなければならない大切なものであるという理解が、もっとたくさんの方に広まっていきますようにと願っています。

この日は、可愛らしい双子の男の赤ちゃんの洗礼式も執り行われて、本当に素晴らしい一日でした。長々と個人的な想いを申し訳ありません。小野田神父様、ご聖体の荘厳祭のごミサをありがとうございました。

ファチマの聖母、我等のために祈り給え
秋田の聖母、我等のために祈り給え
ロザリオの聖母、我等のために祈り給え

現代の教会の危機に対して、一体どう考えたら良いのか?天主様が私たちに求めていらっしゃるものは?ラザロの復活の4つのステップ

2019年06月26日 | お説教・霊的講話
2019年5月19日(主日)ドモルネ神父様霊的講話

「現代の教会の危機に対して、一体どう考えたら良いのか?天主様が私たちに求めていらっしゃるものは?ラザロの復活の4つのステップ」

同時通訳:東京信徒会長

金曜日の晩に、小野田神父からご連絡がありまして、「主日になったら霊的講話などをしたらどうですか?」と突然言われました笑。それは非常に良いのですけれども、準備をする時間があまりありませんでした。f(^_^;)

「conference」という名前に値するかどうか分かりませんが、「現代の教会の危機に対して、一体どういう風な見方をしたら良いのか?」という事について、ちょっとお話をさせて頂きたいと思います。

「今の教会の危機」というのは、非常に大変なものなのですけれども、それがなぜ大変なものかというと、「教会で一番権威を持っていらっしゃる教皇様、あるいは司教様という方たちが、いわゆる『近代主義』という異端に毒されているまま、教会を指導していらっしゃる」という事にあります。

ですからこういう難しい時に、私たちが一体何をしたら良いのか?何をする義務があるのか?それで、「もう混乱して、何をして良いか分からない」と、混乱に引きずられてしまうのを避ける、という必要があります。

そこで、この現代の危機を現実的に、具体的に、どういう風に見るか、私たちが一体何ができて、何をしなければいけなくて、天主様は私たちに何を期待していらっしゃるんだろうか、という事をお話したいと思います。

まず自分の考えから話したいと思いますけれども、フランスのジャン・バニエ(Jean Vanier)という方がいらっしゃって、その方の思想をお話したいと思います。

今、私たちの戦っている戦いというのは、レベルが二つあります。

まずこの二つある内の、「低いレベル」という事からお話したいと思いますけれども、黙示録の中にも出てくるのですが、「警戒して、死にかけている残りの者を強めよ。」(黙示録3章2節)という言葉にあります。

もう一つ「高いレベル」の方というのは、高いレベルで戦いが起こってるんですけれども、これはイエズス様がマルガリタ・マリアに仰った言葉で、「敵の存在にも関わらず、私が統治する」と「私が治める」と仰った言葉す。

そしてまずこの低い方のレベルで、「警戒して、死にかけている残りの者を強めよ。」という方の言葉からお話したいと思います。

まず私たちの、教会の危機で何を私たちはその低いレベルでしなければいけないかと言うと、「カトリックの文化の中で、私たちが出来る範囲で、それを保存して、そのままにして、それであるいは再建設する」という事です。

そして具体的にそれをお話し致しますと、私たちが何を保存しなければいけないかと言うと、それは「教会の教え」です。

その教会の教えというのは、イエズス様から教会が教えて頂いたもので、それは歴代の教皇様が伝えてこられたものですから、この「教会の教え」というものを、私たちは保存していかなくてはいけません。

ですから私たちは、この「カトリックの信仰」というのを持ち続けていかなくてはいけません。それから「モラル」というものも同じですが、モラルというのはカトリックの信仰から出ているからです。

二次的には、ですからこの信仰を保存して、私たちが保存していく為に何をしなければいけないかと言うと、教会ですとか、修道院ですとか、こういうミサのセンターですとか、というのを造っていって、正しいカトリックの教えが伝わっていくようにしなくてはいけません。

このミサをしているミサ会場、例えばここですけれども、何をするかと言うと、秘跡を行ないますし、後はカトリックの伝統に従った典礼を行ないます。

もう一つは、当然ですけれども、私たちは死んでしまう者ですから、私たちが亡くなった次の世代にこのカトリックの信仰を伝える為に、学校というのを建設できればしたいと思います。あと学校というのは召命の為にも非常に重要です。司祭であれ修道者であれ、召命というものの多くは、その学校を出た人から来ますので、学校というのは非常に重要です。

それからもう一つの目的というのは、私たちのこの信仰を広める、それは例えばカトリックの人ではない方にも広めるという事ですから、こういうコンファレンスであるとか、パンフレットであるとか、ウェブサイトであるとか、色々手段はあると思いますけれども、カトリックではない方、あるいはノブスオルドのミサに行っていらっしゃる方に、現代の危機について教える、という、こういう我々の信仰を広める、という事があります。

皆さん経験からご存知だと思いますけれども、お知り合いの中に非常に良い方がいらっしゃって、本当に良い方なのですけれども、その信仰について、「本当の信仰」というのを学ぶチャンスを与えられなかった人というのがいます。ですからこのような、世の中に良い方がいらっしゃって知識の無い方がいらっしゃるので、もしも私たちが「伝統的カトリック信者なんだ」と言って部屋にこもってしまったら、その素晴らしい良い人たち、その知識のない人たちに、誰が知識を伝える事ができるでしょうか。

繰り返しになりますけれども、私たちの目的、できる事というのは、「カトリックの文化を持っていて、保存していく」という事です。

ただ具体的に考えますと、現実的に考えますと、私たちに反対している勢力というのは、私たちよりもずっとずっと強い勢力です。世界の政府というのを見てみますと、大抵は現代的な民主主義、それはフリーメイソンの影響を受けているのかもしれませんけれども、そういうところであるか、間違った宗教をあげている政府から成っています。ですから国家のトップの方というのは、カトリックの信仰が広まる事に賛成されるわけではありません。

近代的な民主主義というのが非常に得意としているのは、その民主主義を、近代的な民主主義を、自分自身を守るという事です。ですから私たちのように違う人が来て、「敵だ」と思ったら、その敵を禁止するような法律を作ってしまう、というのは非常に簡単です。

またその宗教的な社会という意味で、宗教の側を見ても、今の状況は非常に大変になっています。教皇様、それから枢機卿のほとんどの方、司教のほとんどの方は、近代主義的な方になっています。

教皇様を選ぶというのは枢機卿で、枢機卿を選ぶ方は教皇様です。ですからこの繰り返しになりますので、近代主義というのがずっと繰り返し、繰り返し、続いていく事になって、我々の入り込む余地がありません。ですから人間的な目で言いますと、これを変えるようなチャンスは無いと言えます。

それから聖伝を守っている方というのはどれぐらいいるかと言うと、世界では本当に小さい、ごく少数のグループです。ですから、我々が人間的に持っている道具というのは、非常にちょっとしかないですから、世界の動きに影響を与えるというのは、普通に考えれば不可能です。

このような状況で天主様は私たちに、一体何をしろと仰るのでしょうか?

ではこの低い方のレベル、先ほど言いました低い方のレベルで言いますと、天主様が私たちに求めていらっしゃるのは、「私たちが出来る範囲で、そのまま保存して、キープしていきなさい」と仰っています。ですから私たちの戦略というのは、「既にあるものを持ち続けて、そのままキープしていく事」という事です。

ですから私たちは、このような事に関しては、良き資料を持って動かなくてはいけません。私たちが「伝統・聖伝を持っている聖伝の主義者だ」と言って、私たちが何でもやったら全て成功するわけではありません。

ですから良き資料を持って、例えば私たちの何かのグループだとか、学校だとか、何かを経営していくとか、という事に関しても、よく考えて行動しなくてはいけません。

ですから私たちが例えば、その民主主義のルールに従って、選挙によってこの国を変えてしまう、というのは不可能だと思われます。

同じように、「私たちが教会を全部変えなければいけない」というのは、教会にいわゆる正式に入って行って、その中から、下からだんだんだんだん上がって行って、遂には教皇まで達して変えるというのは、不可能だと思います。私たち、まぁ世界の経験から言いますと、このように腐敗したシステムの中に自分から入っていくと、自分が腐敗してしまうというリスクがあります。

では、私たちは何もしないで黙っていろと言っているのでしょうか?

そういうわけではありません。そういうわけではありませんが、幻想を持って、「何でもできる」と思ってはいけません。どこにいても、私たちの主イエズス・キリスト、王たるイエズス・キリストの為に戦わなくてはいけません。そして私たちの出来る範囲で、良い事ですとか、良い法律ですとか、良い考えを促進しなくてはいけません。例えば「マーチ・フォー・ライフ」というのがあったらこれは、良い事であれば是非参加して下さい。私たちの出来る範囲で、近代主義、良くない近代主義があれば、それに反して私たちは対して戦っていきます。

しかしながら、私たちがいつも忘れてはいけないのは、天主様が私たちに求められている事というのは、「自分自身の信仰を守る」という事です。「家族の信仰、それから私たちの周りの人の信仰を守る」という事、「これが第一だ」という事です。

この低いレベルにおける私たちがやるべき事というのは、何かすごい事を成し遂げるわけでも何でもなくて、非常に謙遜なものですけれども、でもしなくてはいけない事です。人間的な言葉、人間的な考えで言うと、私たちのいる状況の出口はありません、解決法もありません。

この高い方のレベルで言いますと、「王たるキリストと悪魔の間の戦い」が起こっています。

人間の歴史というのは、この創世記を皆さんご存知だと思いますけれども、「私は、お前(蛇)と女との間に、お前の末と女の末との間に、敵対を置く」(創世記3章15節)と言われたそれが、その「人間と悪魔の戦い」が、これが人類の歴史です。

そしてこの戦い、高いレベルの戦いにおいては、「我々は勝利する事ができる」というのはもう知っています。イエズス様は私たちに、「世界の終わりまで、あなた達と共にいる」と仰いましたので、勝利がある事はもう私たちは知っています。「地獄の門は教会には勝たない」と仰いましたので、私たちもそれをよく知っています。そしてイエズス様は、「私はすでにこの世界に勝利した」と仰いました。

ですからこのレベルでは、最後、「一番最後の勝利というのは、私たちのものである」という事は分かっています。

しかし、この勝利というのは一体どうやって起こるのでしょうか?

まず最初の要素というのは、「天主様は、小さい信者のグループを使って、その業を御始めになる」という事です。この小さい集団から御始めになります。

ノアの時代では、旧約のノアの時代には、世界の全ては腐敗していたので、ノアとその家族8人ですけれども、この8人から世界を作り直されました。

そしてもっと時代が下りますと、アブラハムという人がいましたけれども、アブラハムの他は皆異教徒でした。ですからこのアブラハムから選ばれた民をお作りになりました。

ギデオンの時は、300人の兵隊が、もっともっとたくさんの兵隊に勝利する、という事がありました。

マカベオの軍隊も、本当に少ない人たちが大きい軍に勝つ、という事がありました。

ですからこれまでの歴史を見てみますと、天主様のいわば戦略というのは、「小さいグループの信者を使って、その最後の大きな勝利を得る為に、その小さいグループのやっている小さい行動をお使いになる」という事です。

ですから私たちも、数が少ないというだけで恐れてはいけません。歴史を見ると、数が少ないというのは恐れる事ではない、という事が分かります。天主様にとっては、数が少ないというのは問題ではありません。

天主様がこういう事をなさるというのは、おそらく、その小さいグループが最後に勝利を得た時に、「私たちが勝ったぞ!」というのではなくて、勝てないはずの小さいグループが勝ったのは、「天主様の力で勝ったのである」と「栄光は天主にあるのである」という事を御示しになる為であろうと思います。

カトリック教会を再興復興するというのは、これは奇跡であるはずで、奇跡でしかあり得ません。この奇跡、どんな奇跡が必要かというと、これはいわば「復活」が必要です。

今の市民的社会ですとか、教会の社会を見てみますと、私たちは死んでいるわけではないですけれども、精神的に「腐っている」と言わざるを得ません。世の中を見て、たとえば性的なモラルが大変な事になっているとか、天主様が軽蔑されているとか、それから近代主義に毒されたような教えが広まっている、という事を我々は世の中に見ます。これはまぁ腐っているという事です。

ですからこれを解く為には、私たちは天主様からの奇跡が必要です。それは「復活の奇跡」と呼べます。

では福音を見て、この「腐っている人を復活する」という話があったでしょうか?

それは、「ラザロの復活」の話を見なくてはいけません。ですから私たちは、このラザロの復活を見る事によって、天主様が今、私たちのこの危機にある教会を救う計画を持っていらっしゃるのが似ているのではないか、という風に考える事ができると思います。

ラザロの復活に関しては、4つのステップがあります。

まず第1のステップというのは、イエズス様がマルタに御話になります。
そしてマルタに仰るのは、「あなたの兄弟はよみがえるだろう」と、そして「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きて私を信じる者は永久に死なぬ。あなたはこの事を信じるか?」(ヨハネ11章24~27節)という風に仰います。

そして、マルタはここで信仰の告白をします、「そうです、主よ、あなたがこの世に来るべき御方、天主の子キリストである事を信じます」(ヨハネ11章27~28節)という信仰告白をします。

第2のステップというのは、イエズス様が、このラザロが埋められているお墓の前に来て、「その石を取りなさい」と仰るところです。

イエズス様は、ここで注意しなくてはいけないのは、自分で石をお取りになったのではありません。他の方に、「この石を取りなさい」と仰いました。

第3のステップというのは、イエズス様が奇跡を御自分でなさいます。
そしてこの奇跡というのは、イエズス様が、「ラザロ、起きなさい」と言われます。そうするとラザロが起き上がって来ます。そしてこれは、イエズス様が御自分の、天主としての力でなさった事です。

最後に4つ目のステップで、イエズス様は、「ラザロを行かせなさい」という風に仰います。そしてイエズス様がなさったのは、周りにいる人に、「この埋められていたラザロに、お風呂に入れてあげて、食べ物をやって、飲ませてやって、ちゃんとしてやりなさい」という風に仰います。

そしてラザロはこの後、自分のその社会の中に、元の所に戻っていきます。

ですからこの「4つのステップ」というのが、今の教会の危機から出る、我々がそこから脱出する方法であると思っています。

ですから教会の事を考えますと、イエズス様はマルタに、「私が復活で、私が命だから、私がこれをできると思うか?」という風に仰ったのですから、イエズス様は私たちに、この教会を復活するのをイエズス様が、イエズス様が「できる」と仰っているのを、私たちが信じるかどうか、聞いていらっしゃるという事です。

「本当に最終的に勝利するのは、イエズス・キリスト御本人である、という事を、あなたは信じますか?」と私たちに仰っています。

そしてマルタが、「その通りです。あなたは生ける天主の子ですので、私の兄弟をよみがえらせる事ができます、そう思います」と言ったように、私たちもその信仰を持たなくてはいけません。

ですから天主の御意志に関して、私たちは、「いや、そうじゃないんじゃないか」とか、疑いを持つという事は許されてはいません。悪の勢力というのが、人間的に言えば世界を支配しているのですけれども、それについて私たちが腐ったり、そういう事を考える事は許されていません。

私たちは、「天主は善い方でいらっしゃるので、私たちを必ず天国に導いて下さる」という事を信じなくてはいけません。

私たちはこの例えば、「天主が最後に勝利される」というのは、頭では信じていても、実際には信じていないという事があります。例えば私たちが会う人の中には、「いや、世界今の世の中は大変ひどい」と「もう怒りを感じる」と「とんでもない」と「嫌な事ばっかりだ」と仰って、周りの人にも「嫌な事ばっかりだ」と、周りの人にもそのような影響を与える人がいらっしゃいます。

私たちの心の中では、平静と喜びをいつも持っていなくてはいけません、「勝利に行けるのだ!」という喜びを持っていなくてはいけません。

先ほどの第2のステップでは、ラザロの墓の石を、イエズス様はそこにいる方に、「この石をどけなさい」と仰いました。そしてこの石を人がどけた後に、イエズス様は奇跡をなさいました。

ですから、この教会の危機を救うという奇跡をされる前には、イエズス様は私たちに、「この石をどけなさい」と仰っています。そして「この石をどけなさい」というのは一体どういう事でしょうか?

それは、「お祈り」ですとか「犠牲」を私たちがする事によって、「奇跡の御恵みを頂く」という事だと思います。

これは一般的な事ですけれども、ある御恵みに関しては、「私たちが天主にお願いすれば、頂ける」という御恵みがあります。なぜこういうようになっているかと言うと、「私たちが、その頂いた御恵みの良さが本当に分かる為」にこういう風になっています。

先ほどの3つ目のステップというのは、イエズス様が、「ラザロ、起きなさい」という、その奇跡自体であります。

先ほど申しましたように、現代の教会の危機を見てみますと、人間的な解決法があるのではなくて、天主の手による解決しかあり得ません。“Church「教会」”というのは、ピラミッドのようなもので、権威というのは上から下に降りてきます。

教会という社会は、一番下の者が一番上の人を変えるのではなくて、上の人が下を治めるようにできています。ですからもしも、「一番上が腐敗してしまった」という時、これを直せるのは下ではなくて、その上に唯一人おられる、「イエズス・キリスト」以外にはあり得ません。

そしてこれは実際どうやって起こるかと言うのは、これは天主様の秘密です。例えば私たちが想像するに、パウロがダマスコに行った時のように、教皇様がある日回心されるのか、という事を想像する事はできます。イエズスの聖心に従ったような教皇様が選ばれるのかもしれません、そういう想像もできます。ですからもしこういう方が、今の枢機卿たちの心を見てみると、もしそういう人が選ばれた、という事であれば、これは奇跡と言わなくてはいけません。そしてどんな事が起こるか私たちに分かりませんが、天主様に「そういう奇跡を下さい」とお願いしなくてはいけません。

最後の4つ目のステップというのは、周りの方に、「このラザロが生き返ったので、この巻いている服を取ってあげて、食べ物、飲み物をあげなさい」と言われたところです。

そしてこれは何を意味しているかと言うと、その奇跡が起こった時に、私たちがしなければいけない仕事、具体的に言うと、教会を再建したり、神学校を再建したり、学校を再建したりして、世の中にその正しいカトリックの影響が復興されるように、私たちがしなければいけない事を示しています。

ですから今お話しましたように、この二つのレベルを区別して考えるのが大事だと思います。

ですから低いレベルの方で言いますと、じゃあ日本にいて何をするかというと、今ここにあるように、ミサの会場をどうしていくかと、良くしていく事を考えなくてはいけません。もし天主様が御望みであれば、来年の1月か何か分かりませんが、日本に修道院ができる事でしょう。それに従って、その法人を作るとかいう仕事もまた出てくるでしょう。その神父様の泊まられる修練院ですとか、それから教会の物件、不動産を探すという仕事もあるでしょう。それから教会を建てるかもしれません。「私たちの出来る範囲で、カトリック信仰を広げる」という仕事があります。

皆さんのお友達か同僚かと色々お話をされて、このカトリックの信仰を広めるという仕事があります。例えばコンファレンスを組織して、そのカトリックの信仰を広めるという事もあります。例えばリーフレットを作って、カトリックの信仰を広めるという事もあります。ウェブサイトを作るという事もあるでしょう。

ですから私たちは、私たちのカトリックの信仰を証する為に、このような色々な事をしなくてはいけません。そして私たちはそれで何をしているかと言うと、「まだ正しいカトリックの信仰を知るチャンスがなかった良い人たちに、それを伝える仕事をする」という事です。

そこでは先ほど申しましたように、私たちは良き資料を持って動かなくてはいけません。私たちは必ず成功する、と約束を頂いているわけでありませんから、思慮深く動かないと、全部失敗してしまうかもしれません。

そして高いレベルの方で言いますと、天主様から、この「教会が復興する」という奇跡を頂かなくてはいけません。まず最初に、固い信仰を持っていなくてはなりません、「こんなに大変な危機が起こるという事は、それは教会がその後により輝き、大きなものとなるという、その為である」という事を信じなくてはなりません。

そしてこのような奇跡をお願いする為に、私たちができる事は、お祈りですとか犠牲をその為にお捧げするという事ができます。現代は具体的に話しますと、「聖母の汚れなき御心に対する信心」というのが私たちに与えられています。「5回の第1土曜日の信心」というのが例えばあります。またロザリオ、「聖なるロザリオを唱える」という信心もあります。各月の最初の、「初金の信心」というのもこれに付け加えられます。皆さんができる範囲内において、「お祈りですとか犠牲を捧げる」というのもこれに付け加えられます。

私たちは何よりも、「忍耐強く」なくてはいけません。天主の御時間ですから、もしこの危機があと50年続くのでしたら、50年待ちましょう。

ですから私たちは悲観主義を避けなくてはいけません、「もうだめだ」とか「悲しい」とか、そういう事を避けなくてはなりません。

私たちはまたその反対に、「慢心」を避けなくてはいけません、「私たちが世界を変えるんだ」というのは避けなくてはいけません。

ですから私たちがすべき事というのは、「私たちができる事を、単純に、いつもして行く」という事で、「栄光だけは、天主に帰属させます」という事です。

ドモルネ神父様 質疑応答 2019年5月
(これはドモルネ神父様の個人的な意見として発言されました)
同時通訳:東京信徒会長


質問者Fさん:今のフランシスコ教皇様は Amoris Laetitiae とかありますが、聖ピオ十世会の立場から見たら、ベネディクト教皇様とくらべてどう言えるのか。そのトラップ、罠(見かけは聖伝を大切にするようだけれども実は聖伝を潰そうとする罠)をかけようとしない、という点ではマシだと言えるでしょうか。


ドモルネ神父様:お二人を比べますと、やり方は二人の教皇様はすごく違いますけれども、結果としては同じ事ではないかと思います。
前の教皇様、ベネディクト十六世についてお話しますと、第二バチカン公会議の時に、近代主義者であっただろうというのは確かですけれども、外面的には伝統的なものも保存されたという方ですので、多くの人々が混乱に陥る事になりましたので、ある意味ではより危険であったと言う事ができるかもしれません。
ですからベネディクト十六世教皇のされたかった事というのは、いわば私たちSSPXを誘惑すると言ったら変ですけれども、外面的には「その古い典礼をそのまま保存できるから、一緒になってやりましょう」という事を言っていたように思います。
ですからベネディクト教皇様のなさろうとした事は、おそらくその一方では非常に近代主義的な事をされていたわけですから、その正反対の聖ピオ十世会に対して、「こんな伝統的な事も私はOKするんだ」と、「左から右まで全部OKするんだ」という事を見せようとされたように思います。
それに比べてフランシスコ教皇というのは、伝統的なところは全然ない近代主義的な方です。この現在の教皇様というのは、ある意味では非常に論理的な方で、第二バチカン公会議で決まった事をそのまま推し進めて、突き進めて行こうとされています。

この「近代主義」というのは一体何なのだ、という事を分かりやすく言うと、これは「進化するもの」という事です。
ですからフランシスコ教皇様、現在の教皇様がやっていらっしゃるのは、今の教会を進化させようと、別の言葉で言うと、違うところに持って行こうという風にされています。
そして今の教皇様の考えていらっしゃるその問題というのは、教会には既に色々組織があります。その組織というものは、そんなに簡単に動くものではないという事です。
ですから今の教皇様がやっていらっしゃるのは、一番とんでもなく近代主義的なところと、我々のように一番反対に伝統的なところを両方捕まえて、教会を揺らして何とか動かして新しい所に持って行こうとしていらっしゃるようです。
ですから、現在の教皇様が聖ピオ十世会に非常に好意的であるというのは、おそらくその好意的である事によって、教会全体を自分の思うように動かせるから、という手段として使っていらっしゃるようです。ある人が仰るのには、「聖ピオ十世会がやっている、こういうミッションの仕事というのを教皇様が見て、『これは良い』と仰っている」という人もいます。
人間的に言いますと、このフランシスコ教皇様というのは、事務室の中で仕事をやっているような方があまり好きではないようです。ですから聖ピオ十世会のこのミッションの仕事というのには、何か好意を持っていらっしゃるようです。
ですが、これによって教皇様が、我々の「伝統的な信仰を守る」という仕事を指示して下さっているかというと、全然そうではありません、誤解してはいけません。

これは私の個人的な意見です。(^^;)

ですから、私の個人的な意見としては、お二人の教皇様は違う方ですけれども、結果として同じという事です。

他に何かご質問はありますか?

ありがとうございました。

2019年5月19日(主日)復活後第4主日のミサ 聖霊はこの世に対して3つの事を教える、『罪』について、『正義』について、そして『裁き』について

2019年06月25日 | お説教・霊的講話
2019年5月19日(主日)復活後第4主日のミサ 大阪
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月19日、主の御復活後第4主日のミサを捧げております。

今日もこの御ミサの後のいつもの感謝の祈りの後に、聖母行列があります。
今日は小さなお友達が来れなかったようなので、簡単なおやつはなしに、マリア様の聖母行列を行ないたいと思っています。

聖母行列の後、皆さんのお昼が終わった後に、アメリカでのシスター達にお見せした、簡単なミッションのスライドショーをお見せしたいと思っています。その他にも、いくつかのスライドを皆さんにお見せしたいなとも思っています。
その後で一緒に主日の晩課を唱えましょう。

明日は朝6時半からミサ聖祭があります
明後日の火曜日から、今週は毎日ミサがあります。夕方の18時からです。
土曜日はいつもの通り10時半ですが、来週の主日に夕方18時からミサがあります。


“Cantate Domino canticum novum, quia mirabilia fecit Dominus.”
「主に新しい歌を歌え。なぜなら主は、不思議な業を行なったから。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は主の御復活後第4主日で、公教会は既に、「主の復活された」という事から、「主が昇天されて、聖霊を私たちに送って下さる」という事の準備をさせようとしています。

そこで今日司祭が入場するやいなや、「主に新しい歌を歌おう」と歌います。
なぜかというと、新しい讃美の歌の理由は、「不思議な業を行なったからだ」と。

不思議な業とは何でしょうか?

聖霊の私たちに行なう業です。この世において、そしてカトリック教会において、主の真の教会において、そして私たちの霊魂において行なう不思議な業、「その為に私たちは、新しい歌を歌おう」とミサが始まりました。


⑴では教会の精神に従って、今日のミサで歌われている「不思議な業」について黙想してみます。

⑵その次に、特に私たちの霊魂に為される業を黙想して、

⑶次に最後に、では私たちは今日何をしたら良いのか?その遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1に、教会はミサのテキストを以て、聖霊の真の働き、不思議な御業を説明します。

まず集祷文では、「私たちの、信徒の、信じる者の心を一つにまとめる。イエズス様が知られ、愛され、敬われ、そして私たちの霊魂が救われる、というその一つの事によって結ばれ、イエズス様が真の天主である、真の救い主である、イエズス様の教えにこそ救いがある、イエズス様の十字架にこそ私たちの命の復活がある、永遠の命がある、という事に、真理において一つにまとめる。」

ですから、「その聖霊の助けによって一つにまとまった私たちの心が、主が私たちに望む事を望ませる、約束された事を望ませるように」と願っています。

そして、「私たちがこの世の大海原、この世の色んな辛い事や悲しい事、事件だらけの大海原の中で、私が碇を天に上げて、イエズス様のいらっしゃる天にしっかりとくっ付いている事ができますように」と祈っています。これも聖霊の働きです。

聖パウロは聖霊の働きについて言います、「まず完璧な、最高の、最善の贈り物は、天からだ。つまり聖霊である。天主の賜物、聖霊である。私たちを光の子とする為に、光の天主から、光の聖父から来る」と言います。

「そして私たちを新たに生まれさせてくれる。私たちがいつも喜んでいる事ができるように、私たちの本当の幸せの為に、聖霊は私たちの心に、イエズス様の心を与えてくれる。」

「すると、この聖霊の働きによって私たちは、聞くに早く、熱心に、そして話すに遅く、そして怒るのも遅く、忍耐をもって、私たちが私たちの霊魂を救う事ができるものを受け入れる事ができるようにさせる。なぜかというと、人間の怒りには救いがないから。本当の正義は天主にある。本当の聖徳は天主から来る」と言っています。

私たちの中には、「きく」というとても美しい名前を持っている方がいらっしゃいますが、聖霊は私たちにこの事を促しています。

更にアレルヤ唱では、「天主の右の手は(つまり聖霊は)、私たちに勝利を与え、私たちを高める、私たちを導く、私たちを教える」と歌っています。

そうやって聖霊の働きについて準備をした後に、イエズス様が御口ずから、私たちに聖霊の事を言います、「私が、聖父の元に行く。そうする事をお前たちは今悲しんでいるけれども、お前たちにとっては良い事だ。なぜかというと、聖霊がお前たちに与えられる唯一の条件は、私が天の聖父の元に行く事であるから。しかし聖父と私はお前たちに、聖霊を送る、慰め主を送る。そして聖霊はこの世に対して、3つの事を教える、『罪』に対して、『正義』に対して義について、そして『裁き』について。」

「罪」というのは、「この世が、イエズス様を真の救い主として受け入れ、信じない事、イエズス・キリストの立てるその教会を受け入れない事」によって、この世は罪に定められています。

「義」について「正義」について、つまり「聖徳」についてとは、「唯一本当の聖徳、本物の聖なるもの、正義、義であるという事は、イエズス・キリストにのみある。その他にはあり得ない。なぜかというと、イエズス・キリストこそ、真の天主の聖子、天主聖父から遣わされた真の救い主、道・命・真理であるから。復活であるから。誰もイエズス・キリストの元を通らずには、天主聖父に行く事はできないから。イエズス・キリストこそ真の牧者、良き牧者であるから。」

そして聖霊は更に、イエズス・キリストにのみ正義、聖徳があるという事のみならず、「この世は、イエズス・キリストを受け入れない所は、滅びる裁きを既に受けている。イエズス・キリストを受け入れない所では、誤謬と、そして暗闇によって、どうしてもうまくいかない」と、「その事を聖霊が教えてくれる」と言います。

聖霊は、この世についてのみこれを教えるのではなくて、カトリック教会を通じても、それを教えます。教会の教導権を以てそれを教えます。不可謬の教導権を以て教えます。そして教会の、イエズス様の立てた秘跡について、秘跡を通して霊魂をこれを教えます。特に秘跡を通して、私たちの霊魂に働きかけます。

洗礼によって私たちは、聖霊の神殿となりました。

堅振を受ける事によって、イエズス・キリストの軍人となり、証人となりました。そして証し人となりました。

聖霊は、イエズス・キリストをマリア様の御胎内に宿す時に、イエズス様の御人性を造られましたが、それと同じく御聖体の聖変化にも、聖霊は働きかけます。御聖体はまさに、教会の中において、聖霊が働いて造られます。

あるいはイエズス様は復活の後に弟子に仰いました、「聖霊を受けよ。お前たちが赦す罪が全て赦され、赦されない罪は天国でも赦されない。」私たちが告解の秘跡を、悔悛の秘跡を受けるのも、聖霊の働きです。

こうやって私たちに聖霊は、秘跡を通しても、教会を通して働きかけようとします。そしてキリストの神秘体として一つにまとめようとします。


⑵では第2の点に、では私たちはどうしたら良いのでしょうか?この教会の精神に従って、聖霊を受ける準備をする、イエズス様の御昇天と聖霊降臨の準備を、どのようにしたら良いでしょうか?

あぁ、愛する兄弟の皆さん、聖霊は私たちの心に「来たい、来たい」と思っています。そしてイエズス様もその為に、秘跡を通じて聖霊を与えようとされました。教会の教えを通じて、聖霊の教える通りに、唯一の聖徳を、イエズス・キリストを与えようとしました。

しかし、時にはしばしば、非常に多くの場合、私たちの心は頑固で、聖霊を受け入れようとしません。聖霊からの導き、あるいは息吹を、促しを受け入れようとせず、耳を閉ざそうとしています。なぜかというと、私たちの罪の為です。私たちが「天主に仕える」と思いつつも、しかしイエズス様が御望みの、聖霊が御望みの通りに仕えるのではなくて、しばしば私たちの思いの通りに、天主こそが私に仕えるかのように思っているからです、行動してしまうからです。残念ながら。

残念ながら、シュテーリン神父様がよく仰る、例を挙げるのは、「例えば朝起きる時に、アラームの時に、スヌーズ機能を使う」と。「またちょっと後で、」「明日、」「後で、」「5分の後、後で、」「ちょっと待って、」あるいは、「これをやるけれども、でも自分のやりたいようにやる。」イエズス様の御望みのままにできない、罪の為にできない、自分の事でいっぱいだ、という事で、聖霊を受ける事ができないでいます。

私たちは熱くもなく、生ぬるく、そして優柔不断で、決心が付いていません。


⑶一体、私たちは最後に、どのようにではしたら良いでしょうか?聖霊を受ける為に、私たちはどのようにしたら良いでしょうか?

私たちにとって、このような惨めな弱い私たちにとって、イエズス様は聖霊のイコンを、聖霊の生ける生き写しを、私たちの母として下さいました。マリア様です。マリア様を通して、聖霊の浄配を通して、マリア様を通して、私たちに聖霊を送って下さるようにお祈り致しましょう。

私たちが受ける事ができない聖霊の息吹も、聖霊からの、「あぁ、そうだったのか。あぁ、こうすれば良かったのか。あぁ、今まで私は気が付かなかった。あぁ、そういう事だったのか。あぁ、聖霊の導きとはこうなのか。イエズス様の御望みはこうなのだ。私はこういう風にすれば良いのだ」という事が、今まで気が付かなかったような事も、私たちがもっと聖徳に前進する為に必要な事も、マリア様が私たちに取り次いで下さるはずです。

なぜかというと、マリア様こそが聖霊に、一切、「嫌だ!」「明日!」「ちょっと待って!」と仰らなかった方です。「はい。仰せの如く我になれかし。我は主の婢女なり。」いつもそう仰っていた方ですから、「御覧下さい、今、さあどうぞ。」

ですから今日特に、マリア様にお祈り致しましょう。私たちがマリア様に倣って、唯一の救い主である天主イエズス・キリストをますます愛する為に、聖霊の導きを充満に受ける事ができますように、更に私たちのみならず、自分のみならず、私たちの周りの方々、お友達や、仕事の同僚、この家の周りの隣人の方々、日本の全ての人々、世界中の全ての人々が、マリア様を通して、聖霊の導きを、光を、慰めを受ける事ができますように、そしてイエズス様を受ける事ができますように、特にこの今日の聖母行列でお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年5月2日(初木)秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ「多くの人々がマリア様を通してイエズス様と聖父に捧げられるのを待っている涙」

2019年06月25日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年5月2日(初木)秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
小野田神父 説教

「次に、弟子にこう言った、『汝の母を見よ』。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、巡礼者の皆さん、今日は秋田のマリア様を崇敬して、悲しみのマリア様の随意ミサを行なっています。9月15日のミサです。

今日この御ミサでは、マリア様の涙、その意味を黙想して、そして私たちに一体何を求められているか、という事を黙想しましょう。

そして最後に遷善の決心を立てましょう、この黙想会をどのように、この巡礼をどのように過ごしたら良いか、の決心を。

マリア様は、単なるイエズス様の信者の内の一人ではありません。天主の御旨によって特別に選ばれた、イエズス様と最も一致して、第二のエヴァとして、私たち人類の救いの為に、イエズス様と共に贖いの業を達成すべき選ばれた方です。

「第二のエヴァ」という事は、「私たちの、天主の御恵みの命において私たちを生み出す母となる、全て贖われた人々の母となる方」という意味です。その為に、私たちを贖う為に、イエズス様と共にマリア様は苦しみを受けました。

イエズス様は御血を流されましたけれども、マリア様は苦しみの涙を流されました。マリア様の苦しみは、贖いの、イエズス様と共に私たちを贖う苦しみでした。マリア様は十字架の下で、その贖いの業の意味をよくご存知でした。

そこで私たちの為に、救霊の、全人類の贖いの為に、イエズス様と共にそれを、自分の苦しみを捧げておられました。そこでそれを確認するかのようになった言葉が、「汝の子供を見よ。“Ecce filius tuus.”」聖ヨハネを通して、全ての人々はマリア様の子供として宣言されました。

そしてヨハネにも言いました、「汝の母を見よ。“Ecce mater tua.”」

聖ヨハネを通して、イエズス様は今でも十字架の上から、2000年前の十字架の声を、ミサを通して響かせています、「汝の母を見よ。」

マリア様は、私たちに超自然の命を与える本当の母となりました。ただ母親のような存在だけではありません。マリア様を通して、マリア様を母として、私たちは超自然の命に、天国に行く為の命が与えられました。

これがカトリックの教えです。「汝の母を見よ。」

ところで、マリア様は、この私たちがイエズス・キリストの贖いの業を無駄にしているのをご覧になって、イエズス・キリストの愛の御業が無にされているのを見て、同時に悲しみの涙を流されています。天使が最初にメッセージで、マリア様の涙の苦しみの意味を話した時に、その事を言及しました、「一人でも多くの人々が、マリア様を通して、イエズス様と聖父に捧げられるのを待っている。その為の涙だ。」

では、私たちは一体どのような事が要求されているのでしょうか?

私たちは、マリア様を母として、超自然の母としてこれを認めて、そしてイエズス様とマリア様がなさった御業の、贖いの業に協力する事です。

どうして協力したら良いでしょうか?

それは、「イエズス様とマリア様の苦しみに、私たちの苦しみを添えてマリア様を通して捧げる」事です。私たちの日常の生活の苦しみは全て、超自然の意味がある、という事を自覚して、それを捧げる事です。特に「多くの霊魂の回心の為に祈る」事です。それをマリア様が望んでおります。

「この世の人々は聖父を悲しませている。罪を以て悲しませている。もしもこれ以上罪が続くならば、罪の赦しが無くなってしまうだろう。私は御子と共に、聖父を慰める霊魂を、祈りと犠牲を以て慰める霊魂を求めている。」これが、マリア様が涙を流して訴える、私たちへの呼びかけです。

今日、5月2日は聖アタナシオの祝日でもあります。聖アタナシオはまさに、『アタナシオ信経』と言われる聖三位一体の信経を唱えた方でもあり、また「イエズス・キリストこそが真に天主の子である。天の聖父と同一実体である(この「実体」というのは「本質」という意味で、「天主聖父と同じ本質を持つ」という意味ですけれども)のである。聖父と聖子は全く同一の天主である」という事を、ニケア公会議の宣言を、信仰宣言を強く最後まで訴えた方です。

アレキサンドリアの司教であり、そして46年間、その司教をお持ちの間、30年間これの為に苦しみました。しかしこれによって、「イエズス様こそ、真の私たちの救い主である」という事の信仰を保った方です。

聖アタナシウスの御取り次ぎを願いましょう。私たちがイエズス様とマリア様の贖いの業に協力して、マリア様を通して、私たちの苦しみを捧げる事によって、祈りを捧げる事によって、多くの人が真の天主、天主聖父と同一の天主であるイエズス・キリストに導かれますように、この巡礼をお捧げ致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのか?「教皇の不可謬の特権」についてどう考えるべきか?

2019年06月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

巡礼者の小道さんの「 「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して」という記事を拝見しました。

巡礼者の小道さんは、デイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の意見の対立を、「頭」と「心」の乖離と表現しています。

つまり、「現代カトリック教会のありのままの姿の現実」と「その現実から目を背けたくなるような心」との対立です。

「マキャリック」「ビガーノ大司教の証言」「中国・バチカン暫定合意」という醜い情報と、それらの情報は「フェイク・ニュース」「虚偽」であるに違いないとしたい心情との断絶です。

「教皇の不可謬の特権」に反しているように見える現実に目を向けることと、「教皇は不可謬であるから、すべてが正しいはずである、正しくなければならない」という心の思い・理論との対立・乖離です。

アタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等は現実に目をつぶることが出来ずに発言した。
しかしそのような発言は、聖霊が、教導権を通し、教皇を通し、教会を正しく導かれるという大原則とどのように両立できるのか?
アームストロング師やB神父様のように、教皇フランシスコが何をしようとも何を言おうとも、教皇の教説の言うこと為すことはいかなることであれ全て正しい、と強く擁護することが理論上、正道ではないのか?
この現実と理論の間の乖離・相剋は、どう説明できるのか?
私の理解が正しければ、これが巡礼者の小道さんの疑問です。

これは、巡礼者の小道さんだけの疑問ではなく、多くの方々の疑問でもあります。

【第一の陣営】

アームストロング師やB神父様のように「心」の側に立つ第一の陣営の「保守派」の方々は、次の前提の上に立って主張しています。

■「真正なるカトリック教徒」であるためには、教皇の不可謬性を信じなければならない。それがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。
教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、必ず真理であり良いものでなければならない。

ところで、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、教皇によって認可されたことだ。

■だから、
「第二バチカン公会議は神の御心のうちに開催された会議であり、過去の公会議との完全なる連続性の内にあり、信頼に値するものである」と信じなければならない。

従って、
第二バチカン公会議の教えと実践は、ヨハネ二十三世からフランシスコに至る教皇らによって認可を受けたものである限り、必ず真理であり善でなければならない。

もしも教えや改革に問題がありうるとすれば、それは第二バチカン公会議の教えの正しい理解をしていなかったか、或いは、正しい適用をされていなかったからだ。


【第二の陣営】

ところで、ある一部の人々は、いわば「頭」の側のことを直視し、現実を見つめようとします。第二の陣営としましょう。【しかしこれはアタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等の立ち位置ではありません。念のため。かれらは第二の陣営と別の立場を取っています。


第二の陣営にいる人々は、アームストロング師やB神父様と同じ前提からスタートします。

■「真正なるカトリック教徒」であるために、教皇は不可謬性を信じるがゆえに、信仰をもって教導権および教皇の全ての教説の正しさを信じ、「地獄の門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じなければならない。

教皇は不可謬だから、真の教皇によって認可されたこと(教皇の発言・主張・行動)は、全て必ず真理であり、全て必ず良いものでなければならない。

しかし、
■第二バチカン公会議以後の全ての教えや改革や革新的なことは、単なる「正しい理解をしていない」ことでもなく「正しい適用をされていない」ことでもない。第二バチカン公会議の教えのそれ自体に、必ずしも真理ではないこと・善ではないことが存在している。第二バチカン公会議の教えや改革には問題がある。

従って、
■間違っている第二バチカン公会議のようなものを認可した教皇らは、真の教皇ではあり得ない。

この陣営に属するような人々を、セデヴァカンティスト、教皇聖座空位主義者と呼んでいます。

教皇聖座空位主義者と呼ばれる人々によれば、真の教皇はピオ十二世が亡くなって(1958年)以降存在しない、とされます。つまり現在に至るまで、教皇聖座は空位だ、ということです。

【これら二つの陣営は、信仰に反する主張に陥っている】

しかし、この両者の結論は教会の危機に対する答えたろうとするものですが、両者とも信仰に反するものとなっています。

何故なら、「保守派」の結論は「第二バチカン公会議の教えそのものは良いものでなければならない」ですが、しかし実際は第二バチカン公会議の新しい教えや実践(たとえば、信教の自由、エキュメニズム、女性の侍者、諸宗教の共同の祈り)は、第二バチカン公会議以前には教導権によって排斥され、間違っていると断罪され続けてきたものだったからです。

何が「正統」か、何が「異端」か、どこまで「許される」か、どこまで「行き過ぎ」か、これらについてはカトリック教会が過去、不可謬の判断を下しています。私たちは、自分の意見ではなく、カトリック教会の不可謬の教えにそのまま従うまでです。

羊たちはみな、羊飼いを認めながら、羊飼いのやっている悪しきこと(教会が過去に断罪したこと)に従うことは出来ないのです。

また、「聖座空位論」の結論は「第二バチカン公会議以後の教皇らは真の教皇ではない」ですが、教会の本質的な特徴(教会の不可崩壊性(indefectibility)、使徒継承性、可視性など)を否定することになるからです。

【二つの陣営の誤りの原因】

この両者の立場における誤りの原因は、「教皇の不可謬性」のドグマを誤解しているところにあります。

教皇の不可謬性を正しく理解するなら、「真の教皇は、不可謬権を行使しようと特別に行動を起こす時、悪しき教えや実践を認可することが出来ない」となります。

何故なら、第一バチカン公会議によって規定された教皇の不可謬権の行使のためには条件が付けられていて、教皇の不可謬権とは教皇において恒常的に現実態において機能しているカリスマ(得能)ではないからです。

キリストが聖ペトロとその後継者らに与えた「誤りから守られるという」特権は、「地上でつなぐ、あるいは、地上で解く」時に機能するように与えられたからです。「地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう。」(マテオ16章)

アタナシウス・シュナイダー司教は、教皇の不可謬性を正しく理解されております。

ところで、いかなる教皇も過去50年にわたり不可謬権を行使しようとしませんでした。

第二バチカン公会議を開催し閉会した教皇らは、第二バチカン公会議を司牧公会議として、いかなる教義決定をもすることを避けました。従って、第二バチカン公会議は不可謬性を帯びることがない公会議となりました。

第二バチカン公会議のような公会議は以前にはありませんでした。つまり世界中の司教たちが教皇とともに集いながら、いかなる教義も定義しようとせず、誤謬を排斥しようともしなかった公会議です。

第二バチカン公会議の新しい教えや実践を含めて、教皇の全ての教えと実践とを、区別せずに、それら全てに不可謬性を拡張し延長しようとすることによって、二つの謬った態度が結果しました。

一方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は悪であると考えることは出来ない、とする態度。

他方で、第二バチカン公会議の新しい教えと実践は、真の教皇に由来しない、とする立場です。

ところで、

(教皇が認可したことなので)第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は全て正しく良いことに違いない、とする態度、あるいは

(第二バチカン公会議以後の新しい教え(エキュメニズム、プロテスタントと同じような典礼など)は間違っているので)それを認可するような教皇は本物の教皇ではない、とする態度、

それしかないのでしょうか?

私たちは、どう考えたら良いのでしょうか?

この問題の解決のために、ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』を推薦します。

TRUE OR FALSE POPE?
Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors
By John Salza and Robert Siscoe



私たちは、教皇の不可謬性とは何かを正しく理解しなければなりません。

確かに、天主の御摂理が許可したことにより、天主の真の教会は今まで体験したことがなかったような苦しみを経験しています。キリストの神秘体の受難です。

ちょうど、聖金曜日に十字架の上で私たちの主イエズス・キリストが死の苦しみを受けたように、キリストの神秘体であるカトリック教会も流血の苦しみを受けその姿は変わり果ててしまいました。しかし、真の教会のまま残ります。

しかし、教皇座空位論を信奉する人々は、カトリック教会の傷を、癒やすために告発すると言うよりは、馬鹿にしあざ笑い不信を呼び起こさせるために告発します。

教皇座空位論者は「これが本当の教会ではあり得ない!」「天主が真の教会にこのようなことが起こることを許すわけがない!」と主張するために、告発します。


【いろいろある教皇座空位論】

教皇座空位論とは、1970年代に作られた新しい間違いです。しかし、教皇座空位論者らの間で、互いに理論がバラバラで(何故、いつ、どうやって教皇の職務を失うのか、など)、またその主張の内容(どの教皇から真の教皇ではないのか、など)もバラバラです。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは、教皇となる前から異端者だったので、真の教皇ではない、とされます。

別の教皇座空位論は、公会議後の教皇らは、有効に教皇として選ばれて真の教皇たちだったけれども、公の異端を唱えることによって、教皇の職を失った、と主張します。

ある教皇座空位論によれば、異端の罪によって、教皇は自動的に教皇職を失う、とします。

他の教皇座空位論は、真の教皇は異端に陥ることがあり得ない、と言います。

ある教皇座空位論によると、公会議後の教皇らは「質料的に教皇」だった(法的に教皇職についているだけ)が「形相的な教皇」ではなかった(本物の実際の教皇ではなかった)とされます。

他方で、そうではなく、全く教皇でもなんでもなかった(「教皇コスプレ」)、と主張する教皇座空位論もあります。

ある教皇座空位論者は、パウロ六世は新しいミサを全世界に正式に公式に押しつけた、と主張しますが、そうではなかったと言う別の教皇座空位論者らもいます。

第二バチカン公会議後にできた新しい叙階の秘蹟、司祭叙階や司教聖別の典礼様式や形相は、無効だと主張する教皇座空位論者もいれば、それに同意しない論者もいます。

第二バチカン公会議を特別教導権による不可謬の行為だったと主張する教皇座空位論者もいれば、そうではなく、第二バチカン公会議は通常普遍教導権の力によって不可ビュうだった、とする教皇座空位論者もいます。

ある教皇座空位論者によると、最後の真の教皇はピオ十二世だったと信じています。別の教皇座空位論者は、1878年レオ十三世から「反教皇」が出た、と言います。

教会の不可崩壊性(indefectibility)を守るために、自分たちの「教皇」を「コンクラーベ」で選んだ教皇座空位論者らもいます。

【教皇座空位論者らの共通点】

互いに矛盾しているいろいろな教皇座空位論がありますが、教皇座空位論者らに共通していることは、だれが真の教皇でだれがそうでないかというのは、(教会の公式な判断に委ねるのではなく)カトリック信徒個人が自分で決めることだ、とする態度です。

何故このように違うのでしょうか?何故なら、教皇座空位論とは、プロテスタント主義(自由解釈・個人解釈)の誤りの基礎を持っているからです。

教皇座空位論には、主に3つの議論があります。

1)最近の教皇らは異端者だったので、真の教皇ではありえない。

2)第二バチカン公会議以降、教皇とされてきた人々は、真の教皇であればすることができないことを行ったので、真の教皇ではありえない。

3)パウロ六世によって認可された新しい司教聖別の典礼様式は無効である。従って、新しい典礼様式によって司教聖別された司教ら(ベネディクト十六世、フランシスコ)は、真の司教ではない。従って、彼らは真の教皇ではない、何故なら司教ではないものがローマ司教ではあり得ないからだ。

最初の「異端者なので」と、第三の「真の司教ではないので」という議論は、「何であるか」という存在の理由によって、教皇ではないと主張します。

第二の「真の教皇であればすることができないことを行ったので」という議論は、行動の理由によって真の教皇ではないと言います。

ジョン・サルザとロバート・シスコウ共著の『教皇は本物か偽物か?』TRUE OR FALSE POPE? Refuting Sedevacantism and Other Modern Errors by John Salza and Robert Siscoe は、この三つの議論に答えます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

NOUS VOULONS DIEU 私たちは天主を求める、私たちは天主が欲しい

2019年06月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は洗者聖ヨハネの祝日です。

聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な、洗者聖ヨハネの賛歌 Ut queant laxis resonare fibrisのリンクをご紹介します。

今日は、ヨーロッパで、特にフランスで巡礼の時に良く歌う歌「NOUS VOULONS DIEU 私たちは天主を求める、私たちは天主が欲しい」という歌をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!



NOUS VOULONS DIEU
REFRAIN

Bénis, ô tendre Mère,
Ce cri de notre foi ;
Nous voulons Dieu, c’est notre Père,
Nous voulons Dieu, c’est notre Roi! (Bis)

1. Nous voulons Dieu ! Vierge Marie,
Prête l’oreille à nos accents
Nous t’implorons, Mère chérie,
Viens au secours de tes enfants !

2. Nous voulons Dieu ! Car les impies
Contre son nom se sont ligués,
Et dans l’excès de leurs furies,
Ils l’ont proscrit, les insensés !

3. Nous voulons Dieu dans la famille
Dans l’âme de nos chers enfant
Pour que la foi s'accroisse et brille
A nos foyers reconnaissants.

私たちは天主を求める

優しき聖母よ、祝福し給え、
この私たちの信仰の叫びを。
私たちは天主を求める、天主は私たちの父、
私たちは天主を求める、天主は私たちの王!(二回繰り返す)

私たちは天主を求める! 聖母マリアよ、
私たちの声に耳を傾け給え
私たちは御身に乞い願う、愛する母よ、
あなたの子らを助けに来給え!

私たちは天主を求める! 邪悪な者どもは
天主の聖名に反して、同盟を組んだ、
彼らの激怒のあまり、
愚か者らは天主を禁止した!

私たちは天主を求める、家庭において!
私たちの愛する子供らの霊魂において
信仰が成長し輝くために
私たちの天主に感謝する家庭において

イタリア語版



Noi vogliam Dio, Vergin Maria,
benigna ascolta il nostro dir,
noi t’invochiamo, o Madre pia,
dei figli tuoi compi il desir.

Chorus: Deh benedici, o Madre, al grido della fe’,

noi vogliam Dio, ch’è nostro Padre,
noi vogliam Dio, ch’è nostro Re.
noi vogliam Dio, ch’è nostro Padre,
noi vogliam Dio, ch’è nostro Re.

Noi vogliam Dio nelle famiglie
dei nostri cari in mezzo al cor;
sian puri i figli, caste le figlie,
tutti c’infiammi di Dio l’amor.

Noi vogliam Dio in ogni scuola
perché la cara gioventù
la legge apprenda e la parola
della sapienza di Gesù.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio nell’officina
perché sia santo anche il lavor;
a Lui dal campo la fronte china
alzi fidente l’agricoltor.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio nella coscienza
di chi l’Italia governerà!
Così la patria riavrà potenza
e a nuova vita risorgerà.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, dell’alma è il grido,
che a piè leviamo del santo altar.
Grido d’amore ardente e fido,
per tua man possa al ciel volar.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, l’inique genti
contro di lui si sollevar.
E negli eccessi loro furenti
osaron stolti Iddio sfidar.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, Dio nella scuola,
vogliam che in essa la gioventù
studi la santa di lui la Parola,
miri l’ immagine del buon Gesù.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, nel giudicare
a Dio s’ispiri il tribunal.
Dio nelle nozze innanzi all’altare,
Dio del morente al capezzal.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, perché al soldato
coraggio infonda nel guerreggiar,
sì che a difesa del suo amato
d’ Italia sappia da eroe pugnar.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, quest’ almo grido
echeggi ovunque in terra e in mar,
suoni solenne in ogni lido,
dove s’ innalza di Dio l’ altar.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, le inique genti
rigettan stolte il suo regnar,
ma noi un patto stringiam fidenti,
ne fia chi osi più Iddio sfidar.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

Noi vogliam Dio, nei tribunali
egli presieda al giudicar.
Noi lo vogliamo negli sponsali,
nostro conforto allo spirar.

Chorus: Deh benedici, o Madre...’,

英語版



We Want God, Oh men, ungrateful
The Supreme Father, The Redeemer
The Foolish Laugh at the Faith
In Vain They Rise Against the Lord Bless,

Oh Virgin, the Proclaiming of Our Faith
We Want God, Who is our King
We Want God, Our Father
We Want God, Who is our King
We Want God, Our Father

モスクワからローマへと ヴィクトールのカトリック司祭への道のり Von Moskau nach Rom

2019年06月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年、聖ピオ十世会のドイツの神学校ツァイツコーフェンでは6名の聖ピオ十世会の司祭が誕生しました。その内のもう一人がヴィクトール・パシクニック神父(Pater Victor Pasichnik)です

かれのモスクワでの初ミサの動画を中心に、なぜカトリックに改宗したのか、なぜ聖ピオ十世会を選んだかの動画「モスクワからローマへと ヴィクトールのカトリック司祭への道のり Von Moskau nach Rom – Victors Weg zum katholischen Priestertum」が公開されたのでご紹介します。ドイツ語です。



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

霊魂らの救いは最高の法(新教会法典1752条)Salus animarum suprema lex. 「違法」とはどういうことか

2019年06月22日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「違法」とはどういうことかを考えてみます。

●法に従うということは、もちろん、カトリック信徒にとって大切なことです。人間の定めた法であっても、正当な長上が定めた法は、天主の代理者として定めたものだからです。

ところで「違法」というのは「法」に反していることですが、天主の法と、人間の規定(長上の命令・禁止・指示・手続きなど)とが、矛盾していた場合、どちらに従わないと「違法」となるのでしょうか?

例を挙げて考えてみます。

中国では現在子供を二人より多く産むことが禁止されています。もしも中国人のカトリック信徒が天主の掟に従い、3人目以降こどもを生むことは「違法」でしょうか?
もちろん違います。それは善いことで、合法です。

もしも、中国のカトリック信徒が、国法に従うために堕胎をしたら、あるいは人工的に産児制限をしたら、これは「合法」でしょうか? いえ、罪であり、違法です。

天主の法と、人間の規定(長上の命令・禁止・指示・手続きなど)とが、矛盾していた場合、私たちは天主の法に従う義務があります。

●イエズス・キリストも、法とは人間の善のためにあることを教えています。たとえ天主の法であってもそうです。

「安息日に、イエズスは麦畑をお通りになった。弟子たちは空腹だったので、麦の穂をつんで食べはじめた。すると、ファリザイ人がこれを見て、「あなたのお弟子は、安息日にしてはいけないことをしています」といったので、イユズスは、「ダヴィドが、供のものといっしょに、空腹だったときにしたことを、あなたたちは読んだことがないのか。かれは、天主の家にはいって、司祭たち以外の人は、かれもまた供のものも食べてはならない供えのパンを食べた。また安息日に司祭たちが神殿で安息を破っても罪にはならないと律法にしるしてあるのも、読んだことはないのか。私はいう。神殿よりも偉大な者がここにいる。"私がのぞむのは、あわれみであって、いけにえではない"とはどういう意味かをあなたたちが知っていたなら、罪のない人を咎めることはしなかったであろう。じつに、人の子は安息日の主である」とお答えになった。」(マテオ12章)

「イエズスがここを去って、かれらの会堂におはいりになると、片手のなえた人がいた。そして人々は、イエズスを訴えようとして、「安息日に病気を治してもいいのですか?」とたずねた。イエズスはかれらにむかって、「あなたたちの中に、一匹の羊をもっている人がいて、羊が安息日に穴におちたら、ひき上げないでおくだろうか?人間は羊よりもはるかにすぐれたものである。だから、安息日に善を行なうのはよいことだ」とおおせられ、そしてその人にむかって「手をのばせ」とおおせられた。その人が手をのばすと、治って、もう一方の手と同じようになった。」(同)

イエズスのなさったことは、一見、外見上は「違法」でした。しかし、中身は善であり、「合法」でした。

●日本でも、おなじようなことがありました。福知山線尼崎脱線事故が起こったとき、道路交通法を「違反」してまでも、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られました。

しかし、事故を起こした列車にJR西日本の社員2名が乗車していたのですが、この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤していました!

救助活動をしたら「違法」「規則違反」となるのでしょうか?「命よりも規則が大事」なのでしょうか?!

上司から禁止されたとしても命を大切にするのが、法の精神です!

命の危険を見ながら助けないものは、犯罪に問われます。たとえば自殺をしようとしている人を見て止めなければ、自殺幇助罪に問われます。あるいは、自動車事故を起こしたにもかかわらず、負傷者を救護せずその場を去ることは、救護措置義務違反の罪に問われます。

●もちろん、自分の司教区の司教や教区の司祭の命令や指示に従うことは当然良いことであり、カトリック信者はそうすべきことです。

しかし、自分の司教区の司教、教区の司祭の命じられることが、教皇の命じられることと矛盾していたら、どちらに従うべきでしょうか?


具体的に言えば、例えば引退教皇ベネディクト十六世は、すべてのカトリック司祭は聖伝のミサ(トリエント・ミサ)を捧げることが自由にできる、一度も禁止されたことがない、とされましたが、ある司教がそれは今でも禁止されているとおっしゃって事実上禁止する場合、カトリック信者はどちらの「法」に従うべきでしょうか? 

もしもベネディクト十六世に従ったがために、ある司祭が自分の司教様から処罰を受けたら、それは司祭が「違法」ミサをしたからでしょうか?

また或る司祭が、ベネディクト十六世に従って聖伝のミサを捧げたが為に、自分の司教様からミサを捧げることが禁止されたとしたら、これに従わなければならないのでしょうか、それともベネディクト十六世に従い続けることが出来るのでしょうか?

聖ピオ十世会は、聖ピオ五世の勅令「クォー・プリームム」に従って、すべての司祭が義務的に捧げるべきであり、捧げる自由を永久に持つ聖伝のミサを捧げ続けていたが為に、非難されるようになりました。法的に一度も禁止されたことがなかったにもかかわらず、聖伝のミサが事実上禁止されたとされたからです。

●あるいは、もしも、教皇様の発言がイエズス・キリストの教えと矛盾している場合、私たちはどうしたらよいのでしょうか?

たとえばある日、ある教皇がイスラム教にもなかなか良いところがあるのでイスラム教徒はカトリック信者に改宗する必要はない、とおっしゃったとします。

私たちの主が使徒たちにおっしゃったことは聖書にもありますのでご存知のことと思います。
「あなたたちは、全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼をうける人は救われ、信じない人は亡ぼされる。」(マルコ16章)
「まことにまことに、私はいう。水と霊とによって生まれない人は、天の一国には、はいれない。」(ヨハネ3章)
初代教皇の聖ペトロも言います。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(使徒行録4章)

この場合、カトリック信者はどちらの「法」に従うべきでしょうか。
もちろん、天主に従わなければなりません。

●新しいミサの時、カトリック信仰と反することが実践され、教えられている。

日本では、ミサ中は「立つ」「座る」を基本的な姿勢とする、日本ではパンとぶどう酒の聖別の時「立ったまま手を合わせる」、と規定されています。

御聖体には、あたかもイエズス・キリストが現存していないかのように、突っ立っていることが要求されています。跪くことは事実上禁止されています。

エキュメニズムの名目で、諸宗教の行事を取り入れることが勧められています。禅もあるし、プロテスタントとの合同礼拝も可です。「あっちこっちのミサ」もあります。

インカルチュレーションの名目で、カトリックとは全然関係の無いことがミサにおいて行われています。

大阪ではサンダルが祭壇に奉献されておかれたし、バンブーダンスもあります。

これは「合法」ミサなのでしょうか? 

司教様がしても良いと言ったことは、カトリック信仰に反しても全て「合法」なのでしょうか?

しかし、教会法は、私たちのカトリック信仰を守らせるためにあり、信仰のための奉仕のためにあります。

教会法にはこうあります。
「霊魂らの救いは最高の法である」(新教会法典1752条)
Salus animarum suprema lex. CIC (1983), can. 1752

●だれかがカトリック信仰に違反することを行わせるなら、私たちにはそれに従ってはなりません。

聖パウロはこう言っています。
「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)

倹邪聖省のオッタヴィアーニ枢機卿はパウロ六世教皇にこう報告しています。
「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」

ベネディクト十六世が言ったように、今のカトリック教会は「沈没しつつある船」のようです。「全ては順調ではありません!」

カトリック信仰を守るためにすることは「合法」であり、これに反することは「違法」です。

永遠の救霊のためにすることは「合法」であり、これに反することは「違法」です。

「天主をおいて、あなたたちに従うことが、天主のみ前に正しいことかどうかは、あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」(使徒行録4章)


2019年5月18日(土)殉教者聖ヴェナンチオのミサ 聖ヴェナンチオがどのような殉教者であったのか

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月18日(土)殉教者聖ヴェナンチオのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年5月18日、聖ヴェナンチオ殉教者のミサをしています。

今日このミサの後に、ミサの後の感謝の祈りの後に、聖体降福式があります。

この聖体降福式は特に、今世界中でテロリズムで罪のない人たちが攻撃されていますが、特に日本の国が守られますように、そして日本で、日本に聖ピオ十世会の修道院が、司祭が常駐しますように、一刻も早くそれが実現しますように、特にお願いしたいと思っています。どうぞ御聖体降福式に与って下さい。

とても良いニュースがあります。明日、主日のミサが10時半からここであります。
そして私たちの御恵みを日本中にマリア様を通してお願いする為に、聖母行列もあります。たくさんの方が聖母行列に参加するように祈っています。マリア様がますます愛されますように、そしてマリア様を通してイエズス様が、多くの日本の人々の心に行きますように、世界中の人々の心に行きますように、お祈りしましょう。

明日主日のミサがあります、朝10時半です。聖母行列にお友達を連れて来て下さい。

更にもっと良いニュースがあります。5月は、4月28日から1ヶ月間、ほぼ毎日のようにここでミサがあるようになりました。来週もまた、明日の主日から毎日、次の月曜日まで毎日ミサがあるようになりました。

キンボル神父様という聖ピオ十世会の神父様が、「大阪で毎日ミサを捧げる」と仰って下さって、「休暇で来る」と仰っています。ですからどうぞ皆さん与って行って下さい。


「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちに留まる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は聖ヴェナンチオ殉教者のミサをしています。

⑴簡単に聖ヴェナンチオがどのような殉教者であったのかを黙想して、

⑵今日この聖ヴェナンチオが私たちに何を訴えているのか、

⑶私たちは何をしたら良いのか、

を黙想致しましょう。


⑴聖ヴェナンチオをというのは、イタリアのカメリーノという、イタリア半島があるとすると、ローマの反対側のアドリア海の方にある小さな村に生きていた、3世紀に生きていた15歳の少年でした。

ちょうどその当時、ローマ皇帝デキウスという皇帝が残酷で、3年間ローマ皇帝として統治しましたが、その3年間の間に起こった出来事です。

聖ヴェナンチオはカトリック信者、キリスト教を信じているという事で、残酷な拷問を受けました。まず最初に鞭打たれました。ローマの鞭打ちは残酷で有名です。15歳の少年、「カトリックだ」、中学3年生、「カトリックだ」、残酷にローマの兵士たちから鞭打たれました。息絶え絶えに、血をダラダラと流しましたが、しかしヴェナンチオは死ぬ事はありませんでした。全てをイエズス様に捧げておりました。

それでも息の根が尽きなかったのを見て、今度は燃える松明を持って、ヴェナンチオを焼こうとします。しかし不思議な事にその火は、ヴェナンチオに火傷を与えませんでした。燃やそう燃やそうとしても、ヴェナンチオは苦しむばかりでしたが、息は絶えずに命はそのまま保たれています。

今度は、15歳のこの子供を逆さ吊りにして、下には火を焚いて、煙をボウボウと出させて、息もできないうちに逆さ吊りにしました、窒息死させようと。ゴホゴホとヴェナンチオは非常に苦しんでいましたが、それでもそれを耐え忍んでいました。それを耐え忍ぶどころか、今度はイエズス・キリスト様の事を、「真の救い主だ!皆はこれを信じるように!」と、イエズス様の御説教をし出したのです。

それを見て非常に怒ったローマ皇帝は、最終兵器を取り出しました。飢えたライオンたちでした。

ヴェナンチオがそこに横たわって、獰猛な唸り声を上げて腹を空かせたライオンたちをヴェナンチオの元にやります。本当ならばあっという間にこれを食い尽くして裂きちぎってしまうところでしたが、そのライオンはあたかも子猫のように、あるいは子羊のように、ヴェナンチオの前に座っておとなしくしているだけで、何の害も与えませんでした。

ヴェナンチオは更にこれを機会に、皆にイエズス・キリストの事を説教します、「イエズス・キリストこそ本当の救い主だ!十字架に付けられて復活した、私たちの罪の償いをして下さったイエズス・キリスト以外に救いはない!イエズス・キリストを信じるように!イエズス・キリストにこそ命がある!」

そしてとうとう怒った刑吏等は、そのライオン等を外して、そして彼の首を切り、殉教を果たしました。250年、聖ヴェナンチオは15歳の時でした。

そこからその時から、特にイタリアでは聖ヴェナンチオを尊敬して、記念して祝っていました。カメリーノの元司教であった教皇クレメンテ10世が、彼を正式にローマの世界中の典礼暦に入れます。今でもその墓は、カメリーノの聖ヴェナンチオの教会にあります。


⑵彼の勇敢な、拷問に耐え忍んでイエズス・キリストの愛に留まった、この彼の殉教は私たちに、一体何を教えているのでしょうか?

聖ヴェナンチオはもしかしたら、まだ若いから、15歳だから、「まだ人生を楽しみたい」と言う事もできたかもしれません。あるいは、「ちょっとだけ、今回はちょっとだけ妥協して、今度別の機会に、後で殉教すれば良い」あるいは、「今回はちょっとだけで妥協したふりをして、そして生き延びよう」あるいは、「何とかするように」という誘惑を受けたかもしれません。

しかし彼は、「いや、私はイエズス・キリストを信じる。イエズス・キリストの為に全てを捧げる。イエズス様の望みのままに。決してイエズス様を否定したくはない。イエズス様に従いたい」と、寛大な心でイエズス様に応えました、その御恵みに応えました。

そこでイエズス様は、いかなる害も彼に、苦しんだけれども、しかし命をそのまま保たせる事ができるようにしました。

イエズス様は言います、「私の愛に留まれ。私に留まれ。そうすれば私も留まる。もしも私に留まるならば、多くの実を結ぶだろう。私はぶどうの木であり、お前たちはその枝だ。私の聖父は農夫だ。私が、良く実を結ぶように伐採するだろう、剪定するだろう。そして苦しむかもしれないが、多くの実を結ぶだろう。ただ私に留まれ。」

聖ヴェナンチオは、イエズス様に留まりました。そして多くの実を結びました。


⑶では、私たちは何ができるでしょうか?聖ヴェナンチオのように15歳の若い子供ができたのならば、私たちに一体何ができるでしょうか?

イエズス様は私たちに、日々小さな殉教を送って下さいます。朝起きる時から、目覚まし時計が鳴った時から、あるいはご飯を食べる時から、おしゃべりをする、あるいはお祈りをする、あるいはインターネットのニュースを見る、あるいはその他仕事をする、友人との関係、あるいはその他日々の生活で、私たちは「イエズス様の御旨、イエズス様が御望みである」という事と、あるいは「イエズス様を否定して、自分の思い通りにやったらどうか」という誘惑、そして私たちは、どちらかを取らなければなりません。

イエズス様に「はい」と言って、殉教の精神で、「イエズス様を否定しろ」という誘いの声を、「いや、嫌だ!」と言うか、あるいはイエズス様を否定して「ちょっとこのぐらいなら。また後で。あぁ、少しぐらい」と言うか。

イエズス様は私たちに言います、「私はぶどうの木だ。お前たちは枝だ。私に留まれ。私の愛に留まれ。そうしたら私はお前たちと共にいる。私がいなければお前たちは何もできない。しかし私に留まるならば、何でも祈れ。私はお前たちがそれを受ける事ができるように、聖父に祈ろう。もしも私から離れてしまえば、お前たちは枯れて、集められて、燃やされてしまう。つまり地獄に落ちてしまう。私に留まれ。」

今日は聖ヴェナンチオの特別のその寛大な殉教の心を、その模範を見て私たちも、日々の小さな殉教をする寛大な心を乞い求めましょう。

マリア様にお願いしましょう、「マリア様、私たちがいつもイエズス様と共に留まっている事ができますように、マリア様の御取り次ぎによりて、マリア様に倣って、日々の殉教を達成する事ができるように、私たちに寛大な心を取り次いで下さい。」

イエズス様にいつも「はい」と言う事ができますように、マリア様に倣う事ができますように、お祈り致しましょう。


「私に留まれ。そうすれば私は、お前たちと共に留まる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年5月18日(土)ドモルネ神父様御説教 “Ecce” “Fiat” “Magnificat”

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月18日(土)殉教者聖ヴェナンチオのミサ ドモルネ神父様御説教
同時通訳:東京信徒会長

今日は、小野田神父様から短い御説教をするようにお願いされました。ですから、これから致します。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は土曜日ですので、皆さん御存知の通り、土曜日というのは聖母マリア様に捧げられた日ですので、聖母マリア様の聖性について少しお話ししたいと思います。

私たちは天主様によって創られましたけれども、それは永遠に生きる為、それから永遠の幸福を享受する為に創られました。これが私たちの言う、「天国に行く」という意味です。

ただ、天国に行く為には、完全でなくてはいけません。「完全」というのは、「罪の無い状態」で「成聖の状態」にあるという事です。

この「罪から逃れている」という事は、原罪の頃から私たち人間にはできない事となりました。例えば知性ですとか、意志ですとか、情欲に負けるという事なので、これは私たちに天主様の助け無しにはできない事になっています。

それから、「天主様と一緒に永遠の平和になる」という事なのですが、これは私たち人間の性質からできる事ではありません。天主様は御自身で存在しておられますけれども、私たちは創られてのみ存在しています。天主様の生きておられる「生」というのは、私たち人間が何歳まで生きたというその「生」とは、全然違う性質のものです。ですから、私たちが天主様とその「生」を一緒にするというのは、私たちができる事ではなくて、天主様が私たちにそれを分けて下さらないと、できる事ではありません。

ですから、この「成聖への道」というのは、基本的には天主様が私たちに働きかけて下さるという事になります。ですから「聖人になる」という事なのですが、一体どうすれば良いのでしょうか?

私たちは何をしなければいけないかと言うと、「私たちの中に働いている天主様の働きに、共同で参加する」という事をしなくてはいけません。ですから別の言葉で言いますと、天主様が私たちを聖化して下さる、というのに同意して、協力しなくてはいけません。

では、その天主様が私たちの霊魂の中で行なって下さる事に協力して、一緒にする、という事は一体具体的にどうすれば良いのでしょうか?

それはどうしたら良いかと言うと、「聖母マリア様のなさった事、教えて下さる事を真似する」という事です。福音の中には、聖母マリア様が話された言葉で、三語なのですけれども、「天主様のなさるようにして下さい」という言葉が記録されています。この三語というのは、指示でもありますし、モットーでもありますし、戦争の時に「行くぞ!」という勝利の宣言でもあります。

・“Ecce”
・“Fiat”
・“Magnificat”

“Ecce”“Ecce ancilla Domini”「我は主の婢女なり」という言葉と、
“Fiat”“Fiat mihi secundum verbum tuum”「こうなりますように(仰せの如く我になれかし)」という言葉と、
“Magnificat”“Magnificat anima mea Dominum”「私は天主の働きを讃美します(我が魂は主を崇め奉る)」

この三語です。


“Ecce”というのは、「見て下さい。天主様に自分を捧げる」という事です。例えば体ですとか精神ですとか、自分の持っているもの全てを捧げるという事です。この“Ecce”というのは、私たちが天主様に全部自分の、先ほど言ったような体とか精神とかを捧げる事ですけれども、制限なしに、それは利己的な事なしに、「元々天主様のものですから、お返しします」という意味で捧げる、という事です。

“Ecce”と言う事によって、「天主様が準備していらっしゃるものは、何でもそのまま受け入れます」という宣言です。この“Ecce”という言葉の元にあるのが、「謙遜の心」です。


“Fiat”というのは、それに続いてEcceに続いて、「こうなりますように」という事ですから、「天主様の意志が、そういう風になりますように」という事です。

Ecceという言葉で、私たちが「天主様に捧げます」という事ですけれども、“Fiat”というのは、その後で私たちが、「天主の御意志をそのまま受け入れます。受け入れる準備があります」という言葉です。

“Fiat”というのは具体的には、「そうなりますように」というのは何かというと、1つには、「天主様の意志が何であるかというのを分かる」という事です。そして「それを喜んで受け入れて」、「それをすぐに行なう」というこの3点です。

こういう天主様の御意志がどうやって私たちに伝わるかと言うと、十戒もそうですけれども、私たちの身分に従った義務、それから人生の間に起こるような色々なイベントによって、楽しい事も楽しくない事も、天主様からの意志が私たちに伝わってきます。

天主様の事を受け入れる、という事ですけれども、私たちの事を天主様が愛していらっしゃる、それから私たちが天国に行く事を望んでいらっしゃる、というのが福音にもありますし、これは非常に明らかな事です。

また、私たちが“Fiat“と言って、「その天主様の仰る事は何でも受け入れます」という時には、なぜそうするかというと、「天主様は無限に賢い、賢明な方でありますので、私たちの為になる事をして下さる」という事を知っているからです。

それからもう一つ、“Fiat”と言って、私たちが「そのようになりますように」と言う時は、その私たちがそれをできる理由は、「天主様が私たちに、その内的な力を下さる」という事を知っているからです。

ですからこの“Fiat”というその元にあるのは、「天主様の力、知性、良さを信じている」という事にあります。


それから三つ目の“Magnificat”というのは、「天主様に栄光がありますように」という事ですけれども、これは私たちの心の持ちようの事で、「どんな事が起こっても、いつもそう考えている」という心の持ちようの事でもあります。

例えば、私たちがここに存在しているというのは、天主様の贈り物です。それから、毎日生活している、というのも天主様の贈り物です。私たちが天国に行ける、というのも、イエズス様が来て、地上に来て、十字架に架かって下さった、というのも全て、天主様の贈り物という事になります。

ただ一つ、天主様が私たちに下さらないものというのがありまして、これは「天主様の栄光」というのは、私たちに下さるものではありません。ですから、私たちにこんな素晴らしい事を天主様がして下さったのですけれども、その“Magnificat”という事で、「天主様に栄光がありますように」と言うのは、天主様に栄光をお返しして、私たちに慢心が起こらないように、誇りが起こらないように、という意味があります。


ですから私たちは天国に行きたいのですけれども、その為には天主様が私たちにして下さる働きに協力していかなくてはなりません。そしてその一番具体的な方法は、このマリア様が仰った“Ecce”と“Fiat”と“Magnificat”の三つの言葉を実行している、という事にあります。

ですからこの御ミサの間は、聖母マリア様が私たちにこの三つの言葉、聖母マリア様の言葉を深く私たちが理解できて、それを実行する事ができるようにお祈り致しましょう。ですからこの地上でこの三つの言葉を私たちが何度も言って、遂には天国で、マリア様と一緒にこの言葉が言えるようになりましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年5月4日(初土)秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 私たちも聖ヨハネのようにマリア様を私たちの霊魂に受け入れる

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月4日(初土)秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 

小野田神父 説教


「次に、弟子に向かって言った、『汝の母を見よ。』すると弟子は、聖母を自分の家に引き取った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する巡礼者の皆さん、遂にあっという間に、巡礼の最後の日になってしまいました。最後の締めくくりとして、マリア様の汚れなき御心の随意ミサを行ないましょう。

この地上での短い、あっという間の生活を、本当に価値のあるものとして、永遠の価値のあるものとして、喜びに満ちて、幸せに満ちて、そして私たちの身の回りに溢れる苦しみや悲しみを喜びに変えつつ、魔法のように変えつつ、そして更に永遠の喜びに入る、という霊的な生活、天主の命に与る事の重要さを、その必要性を、その大切さを、私たちはこの巡礼中に黙想する御恵みがありました。


では一体どうしたら、この霊的生活に対する強い望みをますます掻き立てて、「あぁ、もっと霊的生活を深めたい、心を高く上げていつも天主の命を生きていたい」と思う事ができるでしょうか?

その秘密は、マリア様にあります。なぜかというとマリア様は、この御生涯の間、一瞬の瞬間も例外なく、霊的生活の真髄を頂点を生きていたからです。最初の御受胎の、聖アンナの御胎内にいるその瞬間から天に上げられるまで、いつもこの地上の生活は、霊的生活の、天主の命との生活をフルに充満に生きていました。

では一体、この霊的生活をますます高める為にどうしたら、天主に対する知識を、また自分が一体どのようなものである事を深く知る事ができるでしょうか?なぜかというと、知れば知るほど、一致する事ができるからです。

秘密は、マリア様にあります。なぜかというと、マリア様は真の天主イエズス・キリストを、一番よく知っているからです。イエズス様が真の天主であり、イエズス様の教えからの生活を30年間、目の当たりにして来られました。そして公生活も常に近くで、共にしてこられました。被昇天の後には、公教会をいつも守ってくれました。

では一体どうしたら、私たちの事を深く知る事ができるでしょうか?

マリア様が、私たちが一体どのようなものであるか、という事を教えてくれます。

ではどうしたら、私たちは天主の現存において、天主の御旨にいつも適ったものとして生きる事ができるでしょうか?

マリア様が、その模範を示して下さいます。「ご覧下さい、私は主の婢女です。私の願いは、主の御旨を果たす事です、それだけです。御望みの通り、御望みのままに、御望みの事を、御望みのだけ、主の御旨を果たしたい。御旨のままになりますように。」この御生涯生きてこられたマリア様こそ、私たちのモデルであり、模範であり、またマリア様こそ、私たちにその事ができる御恵みを勝ち取って下さいますその方です。

どうしたら、では私たちは天主の御旨に、天主の命を生きる事ができるように、祈りの生活に、祈りをいつも絶えずする事ができるでしょうか?

マリア様が手伝って下さいます。ファチマの子供たちは、このマリア様のおかげで、あっという間に祈りの生活の高みに入りました。

では私たちはどのようにしたら、良い生活の規則を作って、それをただリップサービスだけではなくて、それを紙の上に書くだけではなくて、それを実行する事ができるでしょうか?

マリア様が、私たちの弱さを手伝って下さいます。

では私たちはどうしたら、隣人に対して、その隣人との生活を聖化する事ができるでしょうか?

マリア様が手伝って下さいます。


では一言で言うと、私たちは今日どのような決心を立てたら良いでしょうか?

イエズス様の十字架の言葉を聞いて下さい、「汝の母を見よ。ここに、あなたの霊的な、天主との命を養う母がいる。この母こそ、皆さんと私を超自然の命に生み出した方であり、養って下さる方であり、成長させる方であり、守って下さる方であり、導いて下さる母である。この母を受け入れなさい。」

私たちも聖ヨハネのように、マリア様を私たちの家に、私たちの霊魂に、私たちの日常の生活に、受け入れましょう。

今日は初土曜日です。どうぞこのミサを初土の信心として、その一つとしてお捧げ下さい。


「『汝の母を見よ。』すると弟子は、その時から母を聖母を、自分の家に受けた。」

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


苦しみの玄義黙想(2019年5月3日 秋田巡礼にて サマース神父様)

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義黙想(2019年5月3日 秋田巡礼にて サマース神父様)
同時通訳:小野田圭志神父


『苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

とても傷付きやすい状態における私たちの主が、ゲッセマニの園に於いて祈っているのを見ています。ゲッセマニの園にてこそ、イエズス様は一番苦しまれました。主はゲッセマニで、人類の全ての罪を御覧になりました。アダムとエヴァの罪から、人類の最後の人の犯す罪まで。
私たちの主は、全ての罪の、一つ一つの、全ての悪を、邪悪さを、御自分の身に背負います。そしてそれと同時に、御父にその苦しみを取って下さるようにともお祈りします。
私たちは、私たちの犯した罪の悔悛の御恵みを、より大きな悔悛の御恵みを乞い求めましょう。



『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

私たちの主は鞭打たれましたが、普通このような事を受ければ、人は死んでしまいます。しかしイエズス様は、人類の肉欲の罪を償う為に、肉体で苦しみを受けます。私たちの貪欲、貪食、あるいはその他の邪淫の邪欲の罪を償う為に。私たちの主は、私たちがこの世での快楽よりも、罪の償いと鞭打ちを求めるように、求めています。
イエズス様が鞭打たれるその肉体をご覧下さい。そして罪を再び犯さないように、御恵みを求めましょう。



『苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

死刑執行人らは、イエズス様の御頭に茨の冠を押し被らせます。茨の一つ一つが、イエズス様の御頭に突き刺さるのを見て、私たちは考えによる罪と、傲慢の罪を思い起こさせます。私たちは頻繁に、罪人であるという事を忘れ、また傲慢によって他人を簡単に裁いてしまいます。イエズス様は罪が無かったにもかかわらず、他の人々の裁きを受けました。謙遜という最も大切な徳を求める御恵みを乞い求めましょう。



『苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

イエズス様は、十字架の重荷を自ら担いで、非常に難しい立場に置かれながら状況に置かれながらも、自分の死の処刑の場所に向かっています。口にする事もできないほどの痛さにも関わらず、イエズス様は心では喜びと平和に満たされていました。イエズス様は御自分が死へと向かって歩いているにも関わらず、私たちの救いの為に、人類の救霊の為に、御自分のこの地上での生涯の目的、私たちを愛するが為にこれを歩いているからです。

私たちが日常の義務を果たす、日常の十字架を担おうとする時に、私たちの主に倣って歩もうとする心はほとんどありません。もしも私たちが十字架の価値を、そしてその十字架が私たちをどれほどイエズス様に近付けるか、という事を知れば知るほど、私たちも十字架をますます喜んで幸せに担わなければなりません。



『苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

私たちの祝されたマリア様、聖母マリア様は、十字架の梺に立ち留まっておられます。イエズス様は、「マリア様こそ、イエズス様に従う全ての人々の母である」と宣言します。マリア様は、イエズス様の命令であれば、どのようなものでも従う準備と覚悟ができていました。マリア様は御子によって、十字架の功徳を全て、私たちに分配する使命を受けました。そしてマリア様は、御子の苦しみを受けたのをご覧になって、どれほど苦しまれた事でしょうか。
この一連を捧げて、マリア様に対する信心をますます深めるよう御恵みを乞い求めましょう。

2019年5月3日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【5】完徳に至るための外的手段

2019年06月18日 | お説教・霊的講話
2019年5月3日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【5】
「完徳に至るための外的手段:「生活の規則」と、「隣人との関係を聖化する」」
同時通訳:小野田圭志神父


完徳に至る手段の最後の部分です。

この前回と前々回で私たちは、内的な手段を見ました。今日は、残った4つの外的な手段について見てみましょう。ところが時間の関係で、4つのところを2つに集中して、絞ってお話し致します。

外的な手段の内の最初は、「霊的指導」、次に「生活の規則」です。第3に「霊的読書」、それから「隣人に対する関係を聖化する」それが第4です。

この内で一番説明が必要とされると思われるものは、「生活の規則」と、「隣人との関係を聖化する」という部分だと思うので、ここについて特に重点的にお話をします。


その規則、「生活の規則」というのは、言ってみれば時間割とか、あるいはどのように1日を過ごすかについてです。よくこうある人がですね、「このようなスケジュールを与えられたけれども、これはちょっときつすぎる、何かロボットのようだ」という不平を聞く時があります。

罪というのは、私たちの生活をカオスというか混乱に混沌に陥れて、無秩序にしますが、御恵みは私たちを秩序正しくして、規則正しくして、整理整頓させて、美しく秩序立たせます。

アダムとエヴァの最初の仕事は、そのエデンの園をきれいに秩序立てる事でした。ところが原罪が入って来た為に、更にその秩序が破壊されて、混乱されて、そして耕すのさえも難しくなりました。

ですからカトリックの考えでは、「秩序正しい、規則正しい」ものは、「御恵みのシンボル」であって、「無秩序で混乱している」ものは、「罪のシンボル」です。

「生活の規則」というのは、私たちの生活に規則を与えて、秩序を与えて、そしてそれに位階、段階を付ける事です。私たちに与えられた時間は限られているので、この限られた時間をどれほど有効に使って、自分を、そして他人を聖化するか、その為に一番大切なものは何か、という事を秩序立てます。

そこで修道院とか、あるいは神学校などでは、修練院などでは、どのような家でも時間割があって、何時に起きて、何時に何をして、何を、何を、という事が決められています。

ですから一般の家庭においても、生活の規則として時間割が与えられるのは、とても良い事です。もう既にそれが決まっていれば、「この時間はこれをする事に集中する時だ」「これはこの時だ」と既に分かっているので、その為に準備をする時間を作る事ができます。

イエズス会の若い聖ヨハネ・ベルクマは、この事をよく分かっていました。神学生であったヨハネ・ベルクマはある時、もちろんそのどこの教会でもある事ですけれども、ちょっと迷惑な人もいました。そしてこのちょっと迷惑な人は非常に敬虔な人で、「自分は信心家だ」と思っていたので、「レクリエーションをする時間などもったいない」と思っていました。そこでこの彼はですね、聖ヨハネ・ベルクマ神学生に、「ご飯を食べたら今リクリエーションで、他の神学生たちと遊んで、ゲラゲラ遊んでいるけれども、もしも今君がこの瞬間死ぬとしたら、そんなゲラゲラ笑ってリクリエーションなどしてても良いのか?」すると彼はですね、この聖ヨハネ・ベルクマは、「もちろん私は、天主が与えられた今はこのレクレーションの時間だから、レクリエーションをして、そしてこれがレクリエーションが終わったら勉強に入る。だからその天主様から命じられた事をしながら、遊びながら死ぬのは、私の本望だ」と答えたそうです。

仕事の時間、レクリエーションの時間、休息の時間など、ちゃんと決められていれば、私たちは時間を無駄にする事がありません。そうする事によって私たちは、この規則を付ける事によって私たちは、自分の気分で自分の何をするかを決める、という誘惑から守られる事ができます。例えば、「あぁ、今日はお祈りしたくないなぁ」とか、あるいは「今、仕事をしたくないなぁ」「今、他の人と一緒におしゃべりしたくないなぁ」という誘惑から守られて、「今はこれをする時間だ。だからする。」

既にこの時間割を作った時に、これは天主様に捧げられているので、朝起きた時から寝るその瞬間まで、全て、天主様に捧げられた超自然の価値を持つ事になります。もちろんこの最初からこれだと決めて不可能な計画を立てる事はできませんので、最初に大体の計画を立てて、それを機能するようにうまく調整していかなければなりません。例えばよくある事では、黙想会の時に生活のスケジュールを立てて、これを指導司祭に見せて、「この通りに生活しよう」と思っています。祝福を受ける、という事があります。

では、どのような生活の規則を立てるものが良い質のものなのでしょうか?

それはですね、「強い規則」であって、しかしそれと同時に「柔軟性」がなければなりません。というのはどういう事かというと、「私たちの力の限り、私たちの許されている限りそれを守る」という事です。そしてそれと柔軟性があるというのは、「私たちのコントロールを超えたところの出来事が起こった場合には、それに合わせて、そしてその翌日からは時間通りにする」等という事です。

例えば司祭は、日常の生活のスケジュールがあって、「今からこの時に御説教の準備、何とかかんとか」とするのですけれども、ところがある方は私たちの事を考えずに急に亡くなってしまったり、あるいは病気になってしまったりするので、私たちはそのスケジュールを置いて病人の元に行かなければなりません。ですからそのような時にはすぐにそちらに向かって、大切な方に向かって、そしてそれが終われば、また元の生活に戻ります。

それから、その質の高さというのは、まず重要なものを一番大切なものとして置いて、あまり重要でないものは下に置きます。したがって「お祈り」とか、「天主への礼拝」を最優先させなければなりません。といっても、その最優先させるから一番長いというわけではなくて、「一番良い時に、一番最高の時に、それをする」という事です。お祈りの時間が短くて、そして仕事の、例えばお料理とかお掃除の時間が6時間とかで長かったら、お祈りが蔑ろにされている、というわけではありません。

「一番良い時間」というのは、大体普通は「朝」です。朝、私たちは仕事が効率的にできますし、多くの事をたくさんできます。教会でもつい最近までは、ミサは夜する事は禁止されていました。朝、一番良い時に、一番最高の時に、ミサが行なわれます。なぜかというと、一番最優先のものだったからです。

まず天主、次に私たち、そして隣人に対して時間を使います。天主を愛して、天主を愛するが故に、隣人と私たちを愛するという事です。もしも私たちが例えば、司祭が15時間16時間隣人の為にこう走り回って、こう色々隣人の愛徳の為にこう力を尽くして、そしてお祈りの時間は15分しかない、自分自身の為には15分しかないとしたら、これは問題があります。ですから天主様に捧げるのは、まず「朝と夜」の、「最初と最後」、そしてその日常の各瞬間、時間に、ほんの短い間を、天主様に心を上げる時間があれば良いです。

そして時間割があるという事によって、無為な、何もしていない無駄な時間を防ぐ事ができます。子供たちをたくさん育てた両親たちは口を合わせて言うのは、「子供たちにいつも健全な、何をすべきかという事を時間割を作っていて、無為に時間を過ごさせる事がないようにする事だ」と言っています。

イエズス様も七つの悪魔についてお話をします。その人は自分の家をきれいにして、「きれいにする」つまり「自分の霊魂から悪魔たちを追い払う」という事です。ところがこの人は家をきれいにして、空っぽにしたままで、何もそこを飾る事をしませんでした。そこで「同じ悪魔が戻って来て、家の中がきれいに空っぽになっているのを見て、他のもっと悪い悪魔たちを連れて来て、状態を更に悪くした」とあります。

まず睡眠時間があって、そして起きている時間を、どのようにして、何を、仕事をどのように有効に生産的にするかを考えます。そしてこのような計画がスケジュールができたら、それを司祭に見せます。もしかしたら司祭は、「あぁ、ここはこうした方が良いのじゃないか」とアドバイスするかもしれません。そしてそのようなスケジュールが祝福を受けたら、それに従って下さい。そのスケジュールに従う事によって、従順の功徳が積まれます。「私たちが自分で好きで選んだ」というよりは、「従順で行なった」という事には、より多くの価値と、より多くの功徳が含まれています。

カトリックの信者さんはその同じ仕事をするにも、秩序立てて、そして従順の徳によってするので特別の価値がありますが、他のそうでない場合には、同じ仕事をするにも自分の気ままによってやるし、そして自分の好みによってやるので、たとえ結果は同じでも、その功徳と価値は違います。


では次の道具に手段に移ります、「隣人との関係はどのように聖化するか」。
家族の一員で家族の人々であったり、あるいは知人友人であったり、あるいは全く知らない人々であったりするかもしれません。

私たちにとって第1の原理があります。それは、「天主様は私たちを聖化する為に、別の人間を使う事を選んだ。人間がある別の人間を聖化する、という事を天主様がお望みになる」という、別の言葉で言うと、「天主様は例えば、教皇様や司教様や司祭、あるいは修道士、修道女などを使って、私たちを聖化する必要はなかった。やろうと思えば別の事もやる事もできた」という事です。

つまり、「天主様は、その無限の知恵によって、人間を聖化する為に、別の人間を使って、例えば教皇様、あるいは司祭、あるいは司祭ではなくても一般の別の普通の人々を使って、それがその司祭も他の人も、それが悪い、完璧な手段でなかったとしても、それらを使って、私たちを聖化する事を御望みになっている」という事です。別の言葉で言うと、「私たちの霊魂は、この私たちの周りにいる方々が、たとえその方々が良い方であろうと悪い方であろうと、天主様からの御恵みを私たちが受ける為の機会となる」という事です。

私たちには選択の余地が与えられていない隣人たちがいます。例えば家族、私たちはその家族の中で生まれてきます。あるいは仕事で、あるいは義務で接するべき方々、あるいは隣人などは、私たちは選ぶ事ができないものです。

例えば家族の中で、あるいは親戚、親族、一族、あるいはそういうような血族の中で、例えば私たちは超自然的な徳を実行する機会が与えられています。例えば「忍耐」、あるいは「許し」、あるいは「堅忍」などです。私たちの家族のメンバーはともすると、非常にこう簡単に対応してしまいがちですけれども、しかし永遠の霊魂を不死の霊魂を持った隣人ですので、私たちはできるだけの愛徳をもって接するように努力します。

ところが、もしもその親戚などで、私たちの信仰に反対するような、あるいは私たちの信仰を危険にするような人があれば、私たちは少し距離を置きます。

また、婚姻結婚しているから、あるいは家族であるからという事で、私たちはその枠組みの中で霊魂を聖化していかなければなりません。ですから特に天主様は、婚姻を「秘跡」にまで高めて、特別の恵みを与えようと望まれました。

家庭生活についてはまた別の重要な話がありますけれども、今回は深く話す事を避けて、別のグループの人々に、特に知人やあるいは一般的な友人について話しましょう。

よく、「私は友達と一緒にこんな悪い事をしました。」
でも正確に言うと、悪い事をするのならば、そのような人は私たちの友達ではありません。

本当の友人というのは、私たちの霊魂の善を求めるので、私たちの霊魂を殺すような事を一緒にする人ではありません。

ですからよく昔から言われた事は、「あなたの事はよく分かりませんけれども、初めて会ったし、でもあなたのお友達はどういう人ですか?あなたのお友達が分かれば、私はあなたがどういう人か分かります。」

本当の友人というのは、互いにより高いものへと、高いものへと励まし合ったり、模範を示し合ったりして、上がっていくものです。

その良い友情の他にも、一般的な友達付き合いや、近所付き合いがあります。もちろんこれらも霊魂を聖化する為の良い機会になります。

多くの人々は、別の方の良い模範によって回心します。どのような物質的に恵まれた人でも、「あぁ、この人々は非常に幸せに見える。このような人々の良い模範がある。あぁ、この人たちは私が持っていないものを持っている。この何か私もそういうような霊的なものを欲しい。」そして回心へと導かれます。

初代キリスト教もそうでした。異教徒たちは喜びの理由がありませんでした。本当の喜びの理由がなかったのですけれども、キリスト教徒たちは心から幸せで、喜んでいて、幸福でした。その為に、「一体なぜそのようなのだろう?」と「彼らのようになりたい」と思いました。

司祭が色んな所に街角に立って説教するというのも宣教の一つですけれども、それだけではありません。皆さんの毎日の生活によって、他の人々が皆さんの幸せや喜びを見て、それを不思議に思い、憧れて、回心する、というケースが多くあります。皆さんがこの友人や同僚たちにお説教したりとか、あるいは叱ったり、あるいは「こうしなさい」と言う事によって回心するというよりは、皆さんが日常生活で信仰を実践して、信仰生活の愛徳によって、多くの人々が信仰に導かれます。

2000年前、一体なぜ異教徒がカトリックになったのだろうか?という事を考えると、「良い模範によって」という事が分かります。ですからそれは今でも有効です。家族であれ、家族でなかれ、人々と接する時に私たちは、自己聖化の多くの良い機会に恵まれます。

例外的に、例えば特定の不道徳な人、あるいは特定の罪に導くような人がいる場合には、「私はこの罪の誘いに打ち勝つにそれほど強くない」あるいは「それほどの自信がない」という時に、その罪の誘いから避ける為に、その人を避けなければならない、という時が例外的にあるかもしれません。しかし一般的には、私たちの隣人たちは聖化の機会です。

もちろん隣人たちは私たちに、良い聖化の機会を与えてくれますが、しかしカトリックの私たちも時々、「このような隣人たちから逃避してしまいたい」という誘惑もあります。「そういう煩わしい事を避けて、この日本の山の中に、カトリックの、しかも良い洗練されたカトリックだけの小さなコミュニティを作って、そこで私たちだけで、カトリックだけで平和に、何の混乱もなくひっそりと生活したらどれほど良いだろうか」という誘惑もあります。例えばトランプの壁を作ってですね、カトリックのコミュニティを守るという誘惑もあるかもしれません。私たちは一般の人々から隣人から嫌な事をされたり、こんな悪口を言われたりとか、いじめられたりとか、あるいは色んな事があるので、辛い事があるので、それから逃避して、「どこかにひっそりと籠もりたい」と思うかもしれません。

イエズス様は、「大きな都市の中で聖霊降臨の日に行って、宣教をして、イエズス様の話をして、洗礼を授けるように」と「広がるように」とお話しましたけれども、砂漠の真ん中にポツンと籠って生活をしろとは仰いませんでした。イエズス様は私たちが「世の光として、山の上に燦然と輝いて、他の人々を照らし出すように」と求められました。


霊的な生活というのは、私たちの肉体の命よりももっと命に満ちたものです。私たちがこの霊的な命を養わなければ、それについて知らなければ、それを無視するならば、私たちの肉体も養われないと、あるいは無視されると、病気になったり死んでしまったりするように、霊的な命も障害を受けたり、あるいは霊的な命がなくなってしまったりします。

そして霊的な生活は、私たちをして天主の命へと与らせてくれます。ですから霊的生活というのは、嫌だなぁというものではなくて、おそらくそうではなくて、むしろ天主様からの特別の贈り物として、宝物として、それを感謝して受け取って、それを育てていかなければなりません。

内的な、その道具として養うものとしては、「霊的生活を送りたい、増やしたい」という熱烈な望み、それから「天主に対する知識と自分に対する知識」です。それから「天主の御旨に一致しよう」とする事、そして「天主の現存に、天主の御前に生活する事」、それから「祈りの生活をする事」です。

それから「霊的指導」を受けて、また「生活の規則」を立てて、「霊的な読書」をしたり、あるいは「霊的な御話」を聞いたり、それから最後に、「隣人たちに、社会生活を聖化する」という手段によって、私たちは霊的生活をますます高めていく事ができます。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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