Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年3月6日 灰の水曜日ミサの前 「灰と灰をつける意味について」

2019年03月31日 | お説教・霊的講話
2019年3月6日(初水)灰の水曜日のミサ ミサの前の説明
小野田神父


今からミサが始まりますが、ミサが始まる前に、今行なった式を簡単に説明させて下さい。

この式は、初代教会が公の罪人に対して行なった式です。

「公の罪人」というのは例えば、大きな罪を犯した、スキャンダルを起こした、という人々に対して教会が、その罪の償いとして、「教会において御聖体を受ける事ができない」、そして四旬節のその最初の日に、司教様が彼らを呼んで、彼らに特別の償いの服を着せて、頭には灰を被せて、そして司教様と一緒に、教会の外に行きました。「これからは教会の門で跪いて、教会に入る事はできずに、復活祭まで聖木曜日まで入る事ができずに、教会の外で祈りをしなければならない。御聖体も拝領できない。」そして司教様から、「パンと水だけで罪の償いをせよ」と命じられました。

しかし、公の罪人でない一般の人々も、これを見て、「私も罪を犯した。主の前に罪を犯した」という悔悛の心で、罪の痛悔の心で、「ぜひ私にも灰を下さい」と願ったところから始まります。

特に有名なのが、シャルルマーニュです。ローマ皇帝であったにも関わらず、自分の配下の者を連れて、司教様に灰を授けて下さるようにお願いしました。公の罪人であるかのように、「罪人を憐れんでほしい」と主に願いました。そしてもちろん、「皇帝がするのであれば私たちも、」我も我もと、全てのカトリック信者がこれを受けるのが習慣となりました。そして現在これに至っています。

この祝別された灰は特別の恵みを、準秘跡として特別の恵みを持っています。なぜ私たちに死があるのか、苦しみがあるのか、というこれは、罪のせいです。アダムとエヴァは罪を犯した時に、この言葉を聞きました、「お前たちは塵であり、塵に戻るという事を覚えよ!」まさに、地上の楽園から追放されたアダムとエヴァは、灰の、人類最初の灰の水曜日を受けました。

もはや地上の楽園で永遠に永久に生きる事ができない、命の木の実を取る事も食べる事もできなくなったアダムとエヴァは、罪を犯した後に、悲しみと苦しみと、そして死を迎えなければなりません。この現実を、どうしても私たちが否定する事のできない、「罪による、罪の原因である死、悲しみ、苦しみ」という事を、教会は私たちに思い起こさせようとします。

しかしこの灰は同時に、祝福をもたらすものとなります。「十字架」という死、あるいは苦しみは、「救い」の元となりました。私たちも、罪の償いと、苦業と、断食と、そして寛大な愛徳の善業は、私たちに赦しと、祝福と、憐れみを勝ち取らせてくれます。

教会は私たちに、「謙遜であるように」と訴えています。それと同時に、「私たちのこの罪の償いが、あるいは断食が、あるいは苦業が、私たちの心と生き方を改革させる、より良くさせるものとなるように」と願っています。もしもこの罪の悔悛、罪を悔い改めようとする心がなければ、私たちの40日間の断食も意味の無いものとなってしまいます。ですから今日は謙遜に、灰を頂きました。

今日から始まる四旬節が、終わりまで実り豊かなものとなりますように、最後まで堅忍する事ができますように、復活の喜びをますます深く味わう事が、喜ぶ事ができますように、私たちの罪の償いと回心を、イエズス様にお捧げしましょう。

その為にも、マリア様に御取次ぎを乞い願いましょう。マリア様こそ、罪が無かったにも関わらず、御謙遜な方であり、罪が無かったにも関わらず、最も苦しまれ、そしてイエズス様の苦しみに一致された方であるからです。

では今からミサが始まります。

2019年3月1日(初金) 御聖体降福式での黙想と祈願

2019年03月29日 | お説教・霊的講話
御聖体の前での黙想と祈願
(2019年3月1日(初金)御聖体降福式にて 小野田神父様)

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心に、心からの礼拝と讃美を御捧げ致しましょう。

御聖体を深く信じ、心から愛し、礼拝する司祭、修道者たちがたくさん生まれますように。

日本の若い霊魂たちが、御聖体への信心に燃えて、イエズス様の聖心の愛を伝える聖なる司祭となりますように。

愛の、イエズス様の愛の秘跡である御聖体が、日本で敬われ、崇敬され、尊重され、礼拝され、多くの愛を受けますように。

日本の、日本で働くカトリック司祭が、イエズス様の御聖体を聖なるものとして、聖なるやり方で、この最も聖なるものを取り扱う自覚を持ちますように。

御聖体に対して、恐るべくもなされている侮辱、冒瀆、無関心を、礼拝によって償う御恵みを乞い求めましょう。

御聖体こそが、真の文明の土台にあります。御聖体の捧げられる祭壇を中心に、真の天主の愛に基づく文明が築かれます。

御聖体が蔑ろにされた所では、人間も蔑ろにされ、命も蔑ろにされ、野蛮と残酷が広がります。

ファチマの天使の第2の祈りを、3回唱えましょう。



2019年3月1日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ説教 「四旬節を超自然の精神ですごすために・・・」

2019年03月28日 | お説教・霊的講話
2019年3月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教


「至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年3月1日、初金曜日のミサを捧げています。

このミサの後に、いつもの通りミサの後の感謝の祈りが終わりましたら、初金の聖時間をお捧げ致しましょう。特に、日本で聖ピオ十世会の司祭が常駐、一刻も早く常駐する事ができますように、そしてその為に必要な物が全て与えられますように、そしてカトリック教会の為に、多くの司祭・修道者の召命が出ますように、特に日本から出ますように、お祈り致しましょう。

そしてこのミサは、マリアさん(仮名)のお母様が亡くなってちょうど30周年なので、マリアさんのお母様のマルガリタさんの為に捧げられています。

「イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサを初金で捧げている」という事と、この「ちょうどこの初金が3月の聖ヨゼフ様の月で始まっている」という事と、そして「あともう数日、来週の水曜日は、3月の最初の水曜日ですけれども、灰の水曜日で、四旬節が始まる3月6日だ」という事で、私たちは四旬節を聖ヨゼフの精神で、イエズス様の聖心の精神で過ごす事ができるように、その秘訣は何か?一番の、四旬節にとって一番私たちが心を留めなければならない点は何か?という事を黙想する事を提案します。

一言で言えば、「超自然の精神」であって、「超自然の希望、超自然の愛に根付いた四旬節を送る」という事を黙想する事を提案します。

イエズス様の聖心の信心の核心は、「天主は真理であって、愛である。真の天主は私たちを愛し給う。そして愛するがあまり、人となって、そして私たちを愛するがあまり、私たちの代わりに苦しまれた。私たちに超自然の命を与える為に。私たちはその超自然の愛を信じる。」

これこそに、カトリック教会の信仰の核心があります、“Credidimus Caritati”『私たちは天主の愛を信じた』

そして私たちが天主の愛を信じたが為に、天主を愛を以って、超自然の愛を以って愛し返す。特にこれは、「私たちの霊魂の救いと、隣人の霊魂の永遠の救いの為に生きる。愛されたそのお返しを、超自然の愛を以って返す。私たちの救霊の為に全力を尽くす。私自身と隣人の救霊の為に全力を尽くす事によって、天主を愛する。」

そして私たちの希望は、まさに「天国の福楽、超自然の幸せが私たちに約束されている」というそれを希望する、それを得るという事を希望する事にあります。この地上の善を遥かに超えるものを私たちは希望しています。

第2に、このまさに、この模範をこのこれを、イエズス様の聖心と聖ヨゼフは、私たちに実際、この地上での生活によって模範を示して下さいました。

聖ヨゼフの信仰、これは唯一の救い主、イエズス・キリストにありました。聖ヨゼフの希望も、イエズス・キリストを信じる事によって、超自然の命が与えられる事にありました。この地上での苦しみや貧困、悲しみ、辛い事は、超自然の報いと比べれば何でもないものであるからです。

そして聖ヨゼフは、超自然の愛に生きていました。イエズス・キリストを愛するが為に、この人生を捧げていました。

イエズス様も、その聖心の訴えはまさにこれです。ベネディクト十六世が書いた、『希望によりて、我々は救われた Spe Salvi』という回勅がありますが、その回勅の中にやはりある、共産主義を批判しながら、超自然の希望について言及している所があります。

それはどういう所かというと、「イエズス様は革命家ではなかった。イエズスはスパルタクスではなかった。」Iesus non erat Spartacus, nec proeliabatur pro politica liberatione, uti Barabbas vel Bar-Kochba.

たとえローマが野蛮な異教のものであったとしても、イエズス様は革命を起こそうとか、政治的な独立運動をしよう、という事を一言も仰らなかった。そうではなく、現実を天主の御旨として受け入れて、それに従っていて、それを捧げていた。イエズス様にとってこの最も大切なものは、ユダヤの民族主義ではなくて、超自然の生命で、真の宗教の、イエズス・キリストの確立する真の天主を、三位一体の天主を信じる事にあったから。」

ベネディクト十六世は、「ヨゼフ」という名前の付いた、あるスーダンで生まれたアフリカの女性に言及をします、ヨゼフィーナ・バキタ(Iosephina Bakhita)。この彼女は、つい最近列聖された女性です。

彼女は1869年頃生まれ、9歳の時に奴隷売買組織によって誘拐され、スーダンの奴隷市場で5回売り飛ばされ、流血するまで殴られたりするなど、奴隷として非常に乱暴な、残酷な取り扱いを受けました。幼かったにも関わらず、殴られ、叩かれ、暴力を受けて、そして傷だらけになって、売り飛ばされて、そして最後には、イタリア人の外交官の奴隷して、召使いとして売られました。体には生涯144の傷が付いていたそうです。

バキタというのは本当の名前ではなく、アラビア語で「運が良い」という意味の奴隷商によってつけられたニックネームでした。彼女は奴隷となった時にイスラムに改宗させられました。

しかし、このイタリアの領事はカトリックだったので、キリストの教えを教え、そしてヨゼフィーナは、「自分には、この地上の主人を超える本物の、本当の主がいる」という事を知ります。今までの恐ろしい主人たちではなく、生ける天主イエズス・キリストです。今までは自分を虐待し軽んじて、単なるモノ、奴隷としか見ていなかった主人しか知りませんでした。しかしヨゼフィーナは全ての主人を超える主を、極めて良き主を知るに至りました。自分を知り、愛し、創造された主を。

まさにここにこそ、私たちの信仰の核心があります。「この地上でどのような立場に置かれてあったとしても、私たちは、本当の主である天主、イエズス・キリストのしもべである」という事です。

そしてこの主人がイタリア人が、事情によってイタリアに帰らなければならなくなり、そして彼女もイタリアに行って、そして私の記憶が正しければ、カノッサの修道会に入会して、修道女となって、そして「イエズス様こそが真の主人である」として、そしてイエズス様に仕える者として、生涯を終え、超自然の命に生きました。

先ほども指摘したように、これもベネディクト十六世が同じ回勅で挙げた例ですが、イエズス様は革命家ではなかった、ユダヤがローマの属国であり支配下にあっても、政治的革命などや、政治的な独立運動を起こそうとはしなかった、と言及するところがあります。政治的な独立運動や民衆動員はイエズス・キリストの使命ではありませんでした。それにも関わらず、ある意味で、超自然のやり方を以って、ローマに打ち勝ったのです。

それは何かというと、遂にはイエズス様の弟子が、聖ペトロがローマで殉教して、ローマの教皇となる。そしてローマ帝国はカトリックに回心して、そして御自分の御国の、御自分が立てた教会のその首都を、その中心地をローマに置いて、そこから全世界に御自分の御国を発展させようとされた、超自然による、超自然のやり方によるどんでん返しであって、まさに天主様のなさる御業です。超自然の業です。

天主様は私たちに、「この地上のあらゆるものが手段であって、本当の目的は、超自然の生命であり、超自然の御国であって、超自然の信仰と超自然の愛を持たなければならない、そして私たちに超自然の希望を、特に永遠の生命の希望を持たすように」と招いておられます。この意味において私たちは、「共産主義や、あるいは社会主義などの社会革命などというものは、全く、カトリックの教えによれば本質的に邪悪であって、私たちのイエズス様の教えとは受け入れる事ができないものである」という事が分かります。

特にベネディクト十六世が指摘した所によると、革命家たちは、あるいは革命さえすれば、あるいは独立さえすれば、あるいは既存の社会制度を破壊さえすれば、全てはオートマチックに、全てはうまくいくと思っていたけれども、実際はそうではなかった。革命家は天主の立てたものを憎み、それを破壊しようとした、と(スペ・サルヴィ21番)。ここに革命家の核心的な、天主に対する憎しみがあります。ですから既存の社会秩序を破壊しようと、天主の残したものを取り除こうとしています。

これはイエズス様のやり方ではありません。私たちはですから、特にこの四旬節、イエズス様の聖心の教えに従って、聖ヨゼフの御生涯に倣って、イエズス様とマリア様に従ったその聖ヨゼフの謙遜な生活に倣って、償いの生活に倣って、そしてその超自然の信仰と希望と愛に基づいて、四旬節を送る事を提案したいと思います。

この超自然の生活を送れば送るほど、私たちはこの世界を、日本を、カトリック教会をますます聖なるものと、輝くものとする事ができます。そうでなければこの地上は、この世界は、混乱と苦しみだけに、あるいは幻想だけに陥ってしまう世界になってしまうからです。

マリア様に是非、この私たちがいつもこの超自然の見方を、超自然の信仰と、希望と、愛にいつも根差している事ができますように、特別の御恵みを求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年2月17日 七旬節の主日ミサ説教 「私たちはブドウ畑で働いていますか?」

2019年03月27日 | お説教・霊的講話
2019年2月17日(主日)七旬節の主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年2月17日、七旬節のミサを捧げています。

今日は14時から15時まで、このミサの後に小さな短い公教要理を提案します。そこでは、「イエズス様が御受難を受けるのには、その他の方法がなかったのか?」「なぜ御受難をするのが良かったのか?」という事を、聖トマス・アクィナスの説明によって色々黙想したいと思っています。
侍者の会も14時からあります。
15時からは晩課があります。今日は晩課の時間が1時間繰り上がっております、ご注意下さい。

3月の予定ですが、3月は色々な行事が予定されています。

まず、3月2日の初土曜日には、去年の12月に行なったように、サマーズ神父様がまた来日されて、初土のミサを捧げて下さいます。

3月3日の主日にも、いつものようにミサがあります。その日サマーズ神父様は大阪で夕方に今度ミサをするのですけれども、午前中は皆さんに御説教をここで捧げて下さるとの事です。

6日は灰の水曜日です。火曜日は私の都合があってミサはできないのですけれども、水曜日にはここで夕方に、灰の水曜日のミサをしようと予定しております。いらして下さい。

3月17日にも、いつものように第3主日のミサがあります。

秋田の巡礼があります。5月1日から4日です。是非、新しい日本の時代が始まるこの日に、その日に多くの方が、マリア様に日本の為にお祈り下さる事をお待ちしています。サマーズ神父様もその為に、他の用事をキャンセルして来て下さる、ともう飛行機の切符も買って、もう準備されています。皆さんも是非参加なさって下さい。


“Quid hic statis tota die otiosi? ”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「一体、何でお前たちは、ここにぽけっと突っ立って1日いるのか?私のブドウ畑に行け」と、今日福音の中で私たちの主がたとえを出して、最後の夕方の、あとほんの数分しか働かないような人たちを呼んで、「お前も行って働け」と言う、有名なたとえを読みました。

七旬節です。

そこで、私たちも公教会の精神に従って、イエズス様からの呼びかけを今日聞く事に致しましょう。教会は聖パウロを通して、またイエズス様を通して私たちに、「さぁ、お前たちも行って、私のブドウ畑で働け」と呼びかけています。もう最早、ぼけっと何もせずに、広場に突っ立って、携帯を見ている事はできません。私たちもこの主の招きに応えて、主のブドウ畑に行く事にしましょう。

では今日、教会の教えようとするプログラムは一体何なのか、ミサに沿って黙想する事を提案します。

⑴まず教会は、「私たちが罪人である」という事を思い出させます。

⑵ですから、罪人である私たちは一体何をしなければならないのか?

⑶そして、そうすると一体どんな事があるのか?

⑷そしてそのどんな事があるかについて、良い模範と悪い模範を見せます。良い模範は、今日の指定巡礼教会「聖ラウレンチオ」であり、悪い模範は、「古(いにしえ)のイスラエル人」でした。

⑸そして今日、教会と一緒に遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴第1のポイントは、「私たちは罪人だ」という事です。

これは司祭が、ここの祭壇の前に立ってミサを始めようとすると、とても聞き慣れた、しかし美しいメロディーが流れました、“Circumdederunt me…”「死の影が私を取り囲んでいる。死のうめきが取り囲んでいる。地獄の苦しみが私を取り囲んでいる。私を圧迫している」と。

これは、私たちの置かれている状況を示しています。私たちは罪人であって、死の周りに囲まれて、地獄へとまっしぐらに歩んでいる者です。


⑵そこで第2のポイントは、聖パウロとイエズス様の声を通して、教会は私たちを、「何とかするように」と招いています、「働け」と、「それに打ち勝つように、勝て」と、「地獄の圧迫に打ち勝て」と。

今日の家長、あるいはブドウ畑の主人は、イエズス様であり、天主三位一体です。それが「私たちの救霊」という、ブドウ畑で働くように招いています。その招きはこの例えのように、いつでもなされています。そしてその招きはどんな所でもなされています。しかし残念ながら、今まで私たちは、その声に耳を貸さないで来たかもしれません。

しかし今日こそは、それにその声を聞き取らなければなりません。決して遅すぎる事はないからです。たとえほんのちょっとしか働かなかったとしても、有効だからです。若い人も年寄りも、男も女も、お金持ちも貧しい人も、会社の社長もあるいは従業員も、同じく招かれています、イエズス様のブドウ畑で働く事を。

もしかしたら私たちは、「そんなに暇じゃない」と言うかもしれません、「一生懸命、日夜仕事をしている。」

ところで聖パウロも、聖パウロはこの事を競技場の例えで出します、「一体力士がどうやって訓練するかを見た事があるか。陸上の選手がどうやって鍛錬するか見た事があるか。」

ウェイトオーバーをしないように、あるいは、どうやったらより早く走る事ができるか、その為に研究して、それに必要なものの為に全て訓練する。陸上の競手が、懸垂をやって「あぁ、100回できた!」と、そのようなコーチがすぐにクビになってしまった、全てはより早く走る為に。水泳の選手でしたら、全てはより速く泳ぐ為に、訓練がプログラムされています。

ですから私たちの訓練は、では私たちの救霊の為に、一体どうしたらより良い結果が出るのか?そこがポイントになります。「ブドウ畑に働く」というのはまさにその事です。

フィリピンに行くと、暑い国ですので、子供たちも大人もビリヤードを外でやっていたりとか、あるいはギターを持って歌を歌っていたりとか、一生懸命バスケットボールをやっていたりとかしますが、あまり働いているように思えません。しかし彼らに聞くと、一生懸命やっています。

私たちの日常の生活も、イエズス様からの目によると同じかもしれません。一生懸命働いているかに見えていながら、実は救霊の為にあまり役に立っていない。


⑶第3の点はまさにそこです。一体私たちがブドウ畑で働くと、あるいはその訓練を鍛錬をすると、一体何が待っているのか?

「滅びぬ栄冠が待っている。永遠の栄光が待っている。」

そこで聖パウロは、企画を出します、「よく考えてほしい。オリンピックの選手は、小さい時から20何歳まで、その限られた間、全てを使って、その金メダルを取る為に一生懸命全てを犠牲にして、それだけに時間を使って、一生を使っている。野球の選手は、ホームランを打つ為に、勝利の為に訓練する。しかしその為に受けた勝利というのは、儚い王冠に過ぎない。しかも勝利を受けるのはたった一人だ。」

「しかしそれと比べると、私たちの努力をはるかに超える、とてつもない無限の、滅びる事のない栄冠が待っている。もしもこの儚いものの為にこれほどの努力をする人がいるならば、それよりもはるかに多いものの為に、私たちはどれほど努力をしなければならないだろうか。しかも誰でもそれを取る事ができる。だから鍛錬して戦え。目標を持って戦え」と励まします。


⑷そこで教会は、第4番に最後に、良い模範を見せます。それが聖ラウレンチオです。

聖ラウレンチオは助祭で、ローマで非常に有名な愛された、愛徳の聖なる聖人でした。ちょうど聖ラウレンチオは、最後まで罪を犯す事を拒否し、イエズス様だけを天主として礼拝しました。そしてその為に焼かれます。鉄板の上で焼かれて、半分焼かれて、あたかも「地獄の苦しみが周りを囲んだ」と言われているかのようです。しかしそれでもめげずに、「半分焼かれたから、もうちょっと半分焼いて」とお願いしました。全部焼いたら、「もう食べていいよ」と余裕を持って冗談を言いました。その聖ラウレンチオの忍耐と愛を、私たちにまず指定巡礼教会で見せます。

次に聖パウロは悪い模範として、イスラエルの人々を出します。

「イスラエルの人々も、モーゼにおいて、雲と海において紅海を渡りながら洗礼を受けた、エジプトから救われた、しかも天からの食べ物によって養われた。これは、洗礼を受けて御聖体によって養われている私たちのようだ。それにも関わらず滅びた。約束の地に行く事ができなかった。辿り着けなかった。その地に辿り着いたのはほんの少しだった。だから警戒せよ。気を緩ませてはいけない。」


⑸今日は、私たちはどのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?

私たちはまず、七旬節にあたって、「あぁ、そういえば私の時間の使い方は一体どうなっていただろうか?」と、「私たちは一日中何もせずに、救霊の為にをぽけっとして時間を使っていたのではないだろうか?」と黙想するのはどうでしょうか。「一体、『主のブドウ畑で働け』と言われながらも、行って働いただろうか?それよりもタブレットを持って、ブドウ畑に行かずに他の事をしていたかもしれない。」

あるいは、「私の究極の人生の目的は、一体何なのだろうか?『永遠の救い』というのは、どれほどの価値があるのだろうか?滅びない栄冠、栄光、無限の喜び、永遠の命、これが待っている。」

東京オリンピック、パラリンピックに出るという選手の話を聞く度に、どうぞ皆さん考えて下さい、「私たちも実は、ものすごい栄光の、栄冠の為に走っているのだ。」

第2に、今日は、聖ラウレンチオが苦しみの周りに取り囲まれながらも、勝利の喜びを得ていたように、私たちも死の苦しみに周りを取り囲まれながら、イエズス様、御聖体によってイエズス様という報いを既に受けて下さい。これは天国への勝利の前兆であって、味見です。最後の最後までこれを走り切り、そして勝利の冠を受ける事ができるように、イエズス様に求めながら御聖体拝領をなさって下さい。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう、マリア様は私たちの救霊を非常に母として望んでおります。私たちの救霊のみならず、日本の全ての方々の永遠の命の為にもお祈りなさって下さいます。ですから自分自身だけでなく、他の私たちの友人や多くの方々がこの七旬節から、この七旬節の御恵みによって、イエズス様へと導かれるように、マリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



2019年2月16日(土) ルルドの聖母御出現の随意ミサ説教 「ルルドのご出現と日本の非常に深い関わり」

2019年03月26日 | お説教・霊的講話
2019年2月16日(土)無原罪の童貞聖マリアのルルドにおける御出現の随意ミサ
小野田神父説教



聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月16日、聖母の土曜日ですが、随意ミサでもう一度、ルルドのマリア様の御出現のミサをしております。

今日このミサの感謝の祈りの後に、御聖体降福式を致しましょう。日本と世界の平和の為に、日本で聖ピオ十世会の修道院が確立される事ができますように、多くの召命が出ますように、またこの御聖体降福式の中で、マリア様への聖母の騎士としての奉献も致しましょう。

来月は3月の1・2・3・4と、初金・初土・主日・月曜日とミサがあります。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日、ルルドの聖母の御出現の随意ミサを捧げているので、

⑴ルルドでは一体どんな事があったのか?

⑵マリア様は一体、私たちに何を仰りたいとしていたのか?

⑶マリア様のお望みの為に、私たちは一体何をする事ができるのか?

⑷私たちは2019年の2月に、一体どのような遷善の決心を立てるのが良いのか?
を黙想致しましょう。


⑴皆さん、このルルドの話は非常に有名です。日本と非常に深い関わりがあります。これは、マリア様と日本がどれほど深く関わっているか、という事を雄弁に話す物語の一つです。

マリア様は、まだ日本が鎖国をしていて、キリスト教を迫害している1858年2月11日に、日本の建国記念日に、フランスのルルドで現れました。18回お現れになりました。2月11日から7月16日まで、この18回ご出現になった事を詳しく分析すると、最初の3回と、そして残りの15回に分けられて、そしてこの残りの15回は、ロザリオの15の玄義に相当する、という事が分かります。

マリア様がルルドで話された内容は、今日2019年2月16日に生きている私たちに、まさにピッタリと心に響きます。

ルルドでは聖ベルナデッタにお現れになりましたが、その聖ベルナデッタに修道女になるように、そして修道誓願を受けたのは何と、日本の再布告の為に日本をマリア様の汚れなき御心に奉献したフォルカード司教であって、その司教様をベルナデッタの元に引き寄せて、そして修道女として奉献させました。

世界中で司教様は何千人といました。ルルドでマリア様を見たこの乙女と、そして遠く
日本にまで行ったこの司教様を、一体なぜ天主様はここで引き合わせたのでしょうか?偶然ではありません。御摂理はそれを望みました。フォルカード司教様は実はアジアを去った後には、カリブ海にある西インド諸島のグアダルーペ島という所に司教として働くようになります。しかしその後フランスに戻りベルナデッタの元にいました。ベルナデッタが愛徳女子修道会に入会することを勧めました。天主はそうする事によって、日本との関わりを深く強調しています。


⑵マリア様が聖ベルナデッタを通して私たちに仰っている事は、いくつかあります。

その最初の言葉は、そのメッセージの内の核心の1つは、昨日の殉教者の聖ファウスティノとジョヴィタが私たちに伝えようとしたメッセージと同じです。つまり、マリア様は私たちに、幸せを約束する。ただしこの世ではなくて、後の世に、です。マリア様は1858年2月18日木曜日の三回目の御出現で初めてこのお言葉を口にします。
「私はあなたをこの世で幸せにするとはあなたに約束しませんが、しかし来世においてはそうします。」"Je ne vous promets pas de vous rendre heureuse en ce monde mais dans l'autre".

つまりマリア様は私たちに、永遠の至福の救霊を望んでおられて、その為に、天国からはるばる私たちの元にやって来た、という事です。「私たちの人生の究極の目的は、この世をエンジョイする事にはなくて、永遠の救いの為にある」という事です。

これは現代、非常に忘れられている真理です。「私たちの人生の目的は、永遠の命を得る事にある。私たちの報酬は、何億円の退職金をもらう事でも、何億円の給料をもらう事でもなく、この世の終わりに、最後に、天主様から、イエズス・キリスト様が私たちの為に勝ち取って下さった、一旦は失われたけれども御血を払って勝ち取って下さった、永遠の命を得る事にある。」「永遠の幸せ」という事です。

そしてそれをマリア様は私たちに約束して下さいます。この世での幸せはマリア様は約束するのは難しいかもしれないけれども、永遠の命は約束できる。これは私たち一人一人個人的に仰ったのではなく、「できるだけ多くの霊魂を救いたい」という母の心からでした。フランスのルルドの片田舎にお現れになりながら、マリア様は日本の、日本に住む多くの霊魂たちの救霊を考えていたに違いありません。

私たちはこの日本の、日本列島に、永遠の命を受ける為に作られ、生まれてきました。そして今、日本の地に太陽が上がるのも、そして雨が降るのも、これは「この地上での生活の後に、遂には永遠の命を得る」という目的の為です。日本の地に、是非とも正義の太陽であるイエズス・キリストが昇らなければなりません。イエズス・キリストによる御恵みが燦々と日本に降り注がなければなりません。永遠の命へと導かれなければなりません。マリア様はそれを私たちに、日本の全ての人々の為に望んでいます。

ルルドでマリア様は仰った事はまだあります、「償いをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。罪人たちの為にお祈りをしなさい。」(第8回目1858年2月24日水曜日)でした。"Pénitence, pénitence, pénitence. Vous prierez Dieu pour les pêcheurs. Allez baiser la terre pour la conversion des pêcheurs.".

これを見るとマリア様は、罪人たちが哀れで、この罪人たちを救いたい、イエズス・キリストを知らない、イエズス・キリストに対して罪を犯している人たちを救いたい、彼らを許したい、天国に導きたい、との母の心で溢れています。

それで私たちにお願いするのは、聖ベルナデッタを通して私たちにお願いするのは、「この彼らの為にお祈りして下さい。この罪人たちがイエズス・キリストを知って、永遠の命に導かれるように助けて下さい。その為に、彼らに代わって罪の償いをして下さい、痛悔をして下さい」という事です。

そしてもしもマリア様が、「私は、この地上での生活の喜びをではなく、後の世の幸せを約束する。イエズス・キリストの命を約束する」と言ったのが喜びの玄義であり、「罪人の回心の為に祈りをしなさい。償いをしなさい」と言ったのが苦しみの玄義に相当するならば、マリア様は最後に、1858年3月25日に、御自分の名前を明かして、「私は無原罪の御孕りです」"Que soy era l'immaculada Concepciou" (je suis l'immaculée Conception).と言われました。これは栄えの玄義に相当します。

マリア様は聖霊の生けるイコンであって、聖霊と全く同一の、聖霊と同じ事を考え、同じ事をなさる、聖霊のお望みのままに生活される方です。ですからマリア様は私たちに、聖霊の御恵みを自由に、豊富に、満ち溢れるほど与えて下さる事ができます。

ルルドのマリア様に対して非常に深い信心を持っていた、マリア聖人、聖母信心の深い聖人がいます。その中でも特にマリア様に狂ったようになっていたのが、マキシミリアノ・コルベ神父様でした。ルルドの聖母の熱狂的な信心家でした。そのコルベ神父様はポーランド人で、ポーランドで大活躍をしますが、しかしこのコルベ神父様をマリア様は、そのポーランドから日本に送られました。これはマリア様が、ルルドのマリア様が日本をどれほどお愛しされていたか、というその証拠の1つでもあります。

そのコルベ神父様は、「ルルドのマリア様の仰っている事の核心はこれだ」と言います。「私たちの一人ひとりの人生の目的は、イエズス・キリストを通して、私たちが天主の命を受ける事、天主のようになる事。そしてイエズス・キリストと一致する為には、私たちはどうしてもマリア様を通さなければならない。マリア様がないところでは、イエズス・キリスト様は通らない。」これがコルベ神父様の確信でした。

マリア様はご生涯の時にあまりにもご謙遜で隠れておられ、そして目立たない方であったので、天主はマリア様のそのご謙遜を、遂にはこの地上で、特に世の終わりには、大きく現そうと御計画です。マリア様は天主様の、天国での栄光の傑作であり、この世においては聖寵の御恵みの業の大傑作でもあるからです。かつてマリア様は恵みに聖寵に充ち満ちておられたように、マリア様を通してこの地上において聖寵の充ち満ちた溢れを与えようと御計画です。マリア様を通して。

イエズス・キリストという正義の太陽が昇る為には、どうしても暁が必要です。曙が必要です。その日の出の象徴が必要です。そのしるしが、前兆が必要です。明の星が必要です。マリア様という曙がなければ、マリア様という暁が、明けの星がなければ、正義の太陽であるイエズス様が昇る事ができません。

ですから、イエズス・キリスト様が知られて愛される為には、どうしてもマリア様が知られ、愛されなければなりません。なぜかというと、かつてイエズス様がこの世に来られた道がマリア様だったように、私たちの霊魂に至る道は、イエズス様が私たちの霊魂に来る道は、マリア様であるからです。また世の終わりに、イエズス様がこの地上に来られるその道も、マリア様であるからです。

マリア様だけが唯一、イエズス様へと辿る、最も安全で、確実で、完全な、汚れの無い、真っ直ぐな道であるからです。マリア様は救霊の敵に対して戦う最高の力を持っており、またマリア様は霊魂たち、罪人たちを天主の元に戻す憐れみの力を持っており、また私たちが天主に対する業を行なう為に、御恵みの力を最高度に持っておられるからです。

最後に、サタンは悪魔は、人類の救いの敵はあまりにも傲慢であるので、謙遜なマリア様によって踏み砕かれる事を、天主から罰せられる事よりもより多く恐れているからです。なぜかというと、悪魔の傲慢がそれを許さないからです。しかしマリア様は、サタンが悪魔が傲慢によって失ったものを、謙遜によって勝ち取りました。エヴァが不従順によって失ったものを、従順によって勝ち取りました。マリア様は天主の大勝利を、サタンに対する屈辱を与える為に、マリア様をどうしても使わなければなりません。それが御計画であり、御望みであるからです。

以上が、マキシミリアノ・コルベ神父様がいつも師と仰いでいて、そしてそのご自分のマリア神学を研究するのに参照とした、グリニョン・ド・モンフォールの分析です。


⑶では私たちは、特にルルドのマリア様のお言葉を聞いて、ルルドのマリア様から送られたコルベ神父様の言葉を聞いて、特にこれほど愛された日本に住む私たちは、一体どうすれば良いのでしょうか?

聖マキシミリアノ・コルベ神父様のその尊い志を、どうしても継いで行かなければなりません。コルベ神父様は、マリア様の勝利の為に、多くの霊魂をイエズス・キリストの元に、唯一の宗教、唯一の天主、唯一の救い主であるイエズス様の元に連れ導く事をお望みでした。マリア様を通して。

コルベ神父様においては、エキュメニズムを、あるいは他の宗教との一緒になって世界の平和を築く、という考えは全くありませんでした。元々の、コルベ神父様が創立した無原罪の聖母の騎士の究極の目的は、「マリア様を通して、プロテスタントも、仏教徒も、異教徒も、イスラム教徒も、無神論者も、全てイエズス・キリストを知らない人も、イエズス・キリストの敵も、フリーメイソンも、イエズス・キリストの元に、イエズス・キリストを愛する者として導き、そして彼らにも永遠の命へと導きたい」というマリア様の願いを続ける事でした。

その為にコルベ神父様は、聖マキシミリアノ・コルベは、日本の方にマリア様の事を知らせよう、知らせようと、その事だけに熱中していました。長崎の無原罪の園にルルドの洞窟を造ったり、不思議のメダイを作ったり、あるいは小さなパンフレットを作ってマリア様の事を知らせたりしました。これこそ、もしも日本人の救霊を、永遠の命の事を本当に考えているのであれば、これこそが本物の愛国心であって、本物の隣人愛であって、本当に天主を愛する者です。


⑷では、私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

是非、このルルドの聖母のお言葉を聞いて、「私たちにとって一番大切なのは、永遠の命だ。私とその隣人にとって、兄妹姉妹にとって、永遠の命へと導く事が最も大切な使命だ」という事を再確認致しましょう。そしてマリア様もそれを望んでおられる、そしてその為にマリア様は私たちを使う事をお望みになっている、という事を確認致しましょう。

第2には、「マリア様は私たちという道具がどうしても必要だ」という事です。
ピアノがなければ、ピアニストは音楽を奏でる事ができませんし、バイオリンの棒がなければ、いくら素晴らしいバイオリン弾きでもバイオリンを弾く事ができませんし、素晴らしい書道家も筆がなければ、インクがなければ、何も書く事ができません。マリア様も私たちを使って、霊魂を、多くの霊魂をイエズス様へと導こうと、永遠の命へと導こうとお望みです。特に日本で。

ですから、その道具となる為に、ルルドのマリア様の言葉を聞いて下さい、「罪人の為に、お祈りをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。」このこれが、私たちの心に導かれますように。

マリア様は御自分の事を知らせました、「私は無原罪の御孕りです。」
願わくは私たちも、マリア様の事を隣人に知らせる事ができますように。この御聖堂の入り口にはちょっとした、コルベ神父様のなさったような小さなパンフレットがあります、マリア様についての事です。私たちは別に、この聖伝のミサとか、信教の自由とか、あるいはエキュメニズムの問題点とか、あるいはこう三位一体の…等という難しい神学の論争点を皆さんに、あるいは隣人に、友人に説明し尽くす事はできません。あるいはしても、あまり効果がないかもしれません。

しかし、マリア様がどのような御方であるか、ルルドのマリア様はどういう方か、秋田のマリア様はどのような方か、あるいはグアダルーペのマリア様は何が起こったのか、ロザリオとは何か、あるいはスカプラリオとは何か、あるいはマリア様の特権、天主の御母とは何か、被昇天とは何か、無原罪の御孕りとは何か、あるいはマリア様は何で私たちの母なのか、等という事を簡単に説明する事は、どれほど霊魂、私たちの隣人にとって大きな利益になるでしょうか。マリア様を知れば知るほど、私たちはマリア様を愛するようになるからです。マリア様が私たちに知られれば知られるほど、イエズス様も知られる事になるからです。

ですから是非、マリア様の事を皆さん周りの方に知らせて下さい。もしも必要であれば、このパンフレットとか、マリア様に関するものを全部持って行って下さい。多くの方がマリア様を知って、愛する事ができますように。曙がなければ、正義の太陽が私たちに来る事ができないからです。

では、今日はルルドのマリア様に、特に日本の為に、日本に住む多くの全ての人々の為に、マリア様を通してイエズス様の御恵みがたくさんありますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2019年2月15日(金) イエズス・キリストにのみ信頼をかけていた殉教者聖ファウスティノと聖ジョヴィタ

2019年03月25日 | お説教・霊的講話
2019年2月15日(金)殉教者聖ファウスティノとジョヴィタの記念
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年2月15日、聖ファウスティノとジョヴィタ殉教者の記念を行なっています。
今日この御ミサの感謝の祈りの後に、いつものように終課を一緒に唱える事を提案します。

明日は10時半からミサがあります。いらして下さい。

3月は1・2・3・4日と続けてミサがあります。


「体を殺した後に、お前たちの霊魂をゲヘンナに落とすその方を恐れよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日、殉教者聖ファウスティノとジョヴィタのミサを行なっていますので、

⑴この殉教者がどういう方だったのか、

⑵そしてその殉教者を記念する為に、ミサは何を私たちに語っているかを黙想して、

⑶最後に今日、遷善の決心を取る事に致しましょう。


⑴殉教者聖ファウスティノとジョヴィタは、兄弟でした。北イタリアのブレシアという所で住んでいました。殉教録によると、西暦120年頃の2月15日の今日、殉教しました。

その殉教の前はどういう生涯をしたかというと、トライアヌス皇帝のローマ皇帝の時に迫害が起こり、そして捕まえられました。この兄弟は特に熱心で、恐れずにイエズス・キリストの事を宣教していました、「イエズス・キリストだけが唯一の救い主である」と。その熱心を見て、ブレシアの司教様はファウスティノを司祭に、そしてとジョヴィタを助祭に叙階しました。

しかし捕らえられた後には、拷問や、あるいは色々な処罰、体罰を与えられたにも関わらず、それを無傷で耐え忍びました。あまりにもびくともしないので、官吏たちは怒り、この二人を最初にはミラノに連れて行きました。ミラノにやっても何も害を受けないのを見て、次にローマに、そしてローマに連れて行っても、色々な拷問にも関わらず何の害を受けないのを見て、遂にはナポリに、だんだん南に連れて行くのですけれども、どうしても何ともなく、しかもイエズス・キリストを力強く信じ、その信仰を捨てないのを見て、結局ブレシアに送り返して、最後に首を切られて殉教します。それは約2000年前の今日の事でした。


⑵その殉教者を称える為に、教会はこの今日のこのミサを選びました。

入祭誦では、「義人たちの救いは、主にある」と始まります。ちょうど、「この二人が、イエズス・キリストにのみ信頼をかけていた」という事を、最初から宣言するかのようです。

そして書簡の時には、聖パウロの書簡ですけれども、あたかも私たちにこの二人が語りかけているかのようです、典礼の専門家の学者によると、そう聞こえると言います。あたかもこの二人の殉教者が、2000年の時を越えて日本の大阪にいる私たちに、「お前たちが光を受けた、その日の事を忘れてはならない。」

「光を受けた」というのは、すなわち「洗礼を受けた」という日の事です。「そしてそれ以後、お前たちは財産を奪われても、色々な目に遭っても、名誉を奪われても、イエズス・キリストを固く信頼してきた。そしてその大きな信頼を決して失ってはならない。なぜならば、その報いはとてつもなく大きいからだ。そしてその主は、すぐに報いを持ってやって来る」と、二人は私たちに言い聞かせているかのようです。

実際、ミサのこのすぐ後で、御聖体によってイエズス様は、私たちに報いを既に与えようと、世の終わりまで待ちきれずに、私たちの元にやって来ます。慰めと、そして喜びと、平和と、そして特別の御恵みを与えようとやって来ます。

もちろんこの世の終わりには、最後の審判の後には、私たちの目も見た事がない、耳も聞いた事のない、頭にも想像できないほどのとてつもない報いが、私たちが信仰の為に、迫害の為に失ったものと比較できないほどのものが、待っています。それを二人は、私たちに思い出させています。

書簡の後に福音では、今度はイエズス様が私たちに言います、私たちに慰めの言葉を語りかけます、「偽善者に気を付けよ。私たちは、恐れなければならない者はたった一人の方しかいない。人々を決して恐れてはならない。最後の裁きは、天主によって行なわれる。他の人が私たちを憎んだとしても、許さないと言ったとしても、拷問をしたとしても、そんなのは恐れるに値しない。」

「友よ、愛する友よ、これを聞け、お前たちに言う、恐るべき方はたった一人だ。私たちの体が殺されても、その霊魂を地獄の火に落とす事のできる、この力ある方だけを、最後の審判の時に裁きの時に、私たちを裁いて地獄に落とす事のできる全能の天主、この方を恐れよ。永遠の救霊の事を恐れよ。大罪を恐れよ。罪を犯す事を恐れよ。それ以外の事は全く恐れる事はない。主を罪によって傷付ける事だけを恐れよ。」

「もしも人々の前で私を宣言するものは、私はこの人の事を全ての天使たちの前で、そして聖父の前で宣言する、『彼は私の友だ。』誰も恐れる事はない。私が付いている」と仰るかのようです。


⑶では今日、私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちを裁くのは、私たちの永遠の幸せと永遠の不幸を、それを決定するのは、天主であるという事です。イエズス・キリストこそが私たちの救い主であり、守護者であり、そして裁き主であり、その人間は恐れるに値しないという事です。

私たちの最も大切なのは、命をたとえ落としてまでも、この地上での命を落としてまでも守らなければならないというものは、永遠の命であるという事です。

永遠の命を受ける為には、もちろん天主からの赦しが必要です。天主様からイエズス様から赦される為には、隣人を赦さなければなりません。

私たちが恐れるのは、最後の裁き主であるイエズス・キリストです。私たちが愛するべきは、イエズス・キリストです。そしてイエズス・キリストが私たちの全てで、このイエズス様を信じる事によって、私たちはこの信仰によって、生きなければならないという事です。

この、これを口で言うのは非常にたやすく、しかしこれを生きるのは、その通りに生きるのは、特別の御恵みが必要です。聖ファウスティノとジョヴィタ、それから殉教者の元后であるマリア様に、そして日本の聖なる殉教者たち、特に日本二十六聖人に心から寄りすがって、この主を恐れて、永遠の救いを全うする御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年2月1日(初金) 御聖体降福式での黙想 「御聖体の黙想」

2019年03月24日 | お説教・霊的講話
御聖体の黙想
2019年2月1日(初金)御聖体降福式にて 小野田神父


天地の創造主、全能の王、私たちの救い主、救世主、約束された救い主、復活してよみがえり、天主聖父の右に永遠に座し給う、私たちの最後の裁き主、イエズス・キリストが真に在す事を思いましょう。

私たちの目の前にいらっしゃいます。たとえパンの姿に見えようとも、全宇宙を支配し、歴史を支配し、動かしている、最高の、最後の審判者、最高裁判者、私たちに報いを与える、あるいは罰を与える事ができる、地上の全ての支配者の王の帝王も、その御前で従う、永遠の天主の御言葉が在し給います。心から深く礼拝致しましょう。

カトリックの信仰は私たちに、「御聖体こそ、イエズス様の真の御体である」と、2000年間叫び続けています。

しかしこの御聖体は現代、あまりにも粗末に扱われ、嘲笑いと、冒瀆と、冷淡の対象になっています。イエズス様の御聖体の信心を教えるべきカトリック司祭でさえも、御聖体の前で跪く事すら許そうとしません。

あたかも、全能の天主が在さないかのように。私たちはこの不信仰と、背信を、裏切りを、マリア様の聖寵の御助けを以って償いたいと思います。

愛の聖心。憐れみの聖心。優しさと仁慈に満ちた聖心。私たちの祈りを聞こうと、友のように聞こうと、私たちを慰めようと、私たちのすぐ横に、すぐ目の前にいらして下さいます。すぐ、こんなに傍に。

どうぞ、イエズス様の聖心に、愛の言葉と、そして信頼と、私たちの謙遜な願いを、御捧げ致しましょう。

たとえこの世では価値がないように思われる、イエズス様への愛の行ない、これこそが実は、本当の永遠の価値を持っています。これこそが、イエズス様を唯一お喜ばせする事ができる、功徳を積む事ができる、奇跡を起こす事もできる、超自然の永遠の価値を持っています。

何億何兆という天使たちが、その御稜威を見るのも畏れ多い、日々に絶え間なく讃美と礼拝を天使たちが捧げている最高の御稜威、天主の御言葉、人となった天主の御言葉イエズス・キリストが、私の友として、私のすぐ傍に、すぐ目の前に、真に在し給います。

「イエズス様、御身の愛の深さを悟らして下さい。」

ファチマの天使の第2の祈りを、3回一緒に唱えましょう。

教皇聖ピオ五世「トリエント公会議の公教要理」(ローマ公教要理)天主の十戒の部 第一章 十戒がすべての掟の概要であること

2019年03月22日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇聖ピオ五世のもとで出版された「トリエント公会議によって主任司祭たちのために作成された公教要理(Catechismus ex decreto concilii Tridentini ad parochos」は、インターネット上ではラテン語の原文はもちろん、英語The catechism of the Council of Trent)やフランス語で簡単に探して、読むことが出来ます。

別名ローマ公教要理(Catechismus Romanus)とも言われており、この題名でインターネットで検索するとより多くのものを見つけることが出来ます。

日本では、岩村清太(1931-)大東文化大学名誉教授が、素晴らしい日本語訳を作る労を取られました。秘蹟の部はすでに1966年2月に中央出版社から出され、使徒信経の部は1974年に、天主の十戒の部は1975年にそれぞれ精道教育促進協会から出版されました。残念ながら、第二バチカン公会議後の多くの新しい公教要理が出版され、その陰でこのローマ公教要理はしばらくすると入手不可能になってしまいました。また第四部の祈りの部については、出版されずじまいになってしまいました。

この名著・名訳が再版されることを長らく期待していましたが、日本のカトリック人口という小さな市場や、第二バチカン公会議の新しい教えによる過去の教えとの断絶というような風潮のもとで、再版が難しいだろうことがよく理解できます。

しかしこの公教要理はそのまま知らされずにいるにはあまりにも素晴らしいものなので、岩村清太教授の素晴らしい訳があるにもかかわらず、あえて別の日本語をできるだけ直訳でラテン語との対訳形式でご紹介いたします。天主の十戒の部分です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

De Dei praeceptis in Decalogo contentis ローマ公教要理  十戒の部 
Capitulum I Chapitre vingt-huitième — Des Commandements de Dieu en général 第一章
1 Decalogum omnium praeceptorum summam esse demonstratur 1 十戒はすべての掟の概要であることが示される。
Decalogum legum omnium summam et epitomen esse sanctus Augustinus 1 litteris commendavit: Cum multa locutus sit Dominus, duae tamen tantum tabulae dantur Moysi lapideae, quae dicuntur tabulae testimonii futuri in arca; nimirum, cetera omnia quae praecepit Deus, ex illis decem praeceptis, quae duabus tabulis conscripta sunt, pendere intelliguntur, si diligenter quaerantur ut recte intelligantur; quomodo haec ipsa rursus decem praecepta, ex duobus illis, dilectionis scilicet Dei et proximi, in quibus tota lex pendet et prophetae 2. Saint Augustin n’a pas craint de dire que le Décalogue est le sommaire et l’abrégé de toutes les Lois. Bien que Dieu eût fait pour son peuple un grand nombre de prescriptions, néanmoins Il ne donne à Moïse que les deux tables de pierre, appelées les tables du témoignage, pour être déposées dans l’Arche. Et en effet, il est facile de constater que tous les autres Commandements de Dieu dépendent des dix qui furent gravés sur les tables de pierre, si on les examine de près, et si on les entend comme il convient. Et ces dix Commandements dépendent eux-mêmes des deux préceptes de l’amour de Dieu et de l’amour du prochain, dans lesquels sont renfermés la Loi et les Prophètes. [1] 十戒はすべての掟の概要であり要約であると聖アウグスチヌスが書き称賛している。何故なら主は多くを話されたが、二枚の石版だけがモイゼに与えられ、この石版は契約の櫃の中におかれるべき「証拠の板」と呼ばれる1。実際、天主が命じ給うた他の全ては、もしそれらが正しく解釈されるように入念に調べるならば、二枚の石板に書かれたかの十の掟によっていると理解される。そのやり方で、さらにこれら十の掟自身も、全律法と預言者とがそれに基いている天主と隣人への愛というかの二つの掟によっている2。
2 Cur pastores maxime Decalogum diserte terere et explicare conveniat § I. — NÉCESSITÉ D’ÉTUDIER ET D’EXPLIQUER LE DÉCALOGUE. 2 何故司牧者らが十戒を学び説明するのが最高にふさわしいのか
Itaque, cum sit totius legis summa, pastores oportet in eius contemplatione die noctuque versari, non ut vitam suam modo ad hanc normam componant, sed etiam ut populum sibi creditum in lege Domini erudiant. Nam labia sacerdotis custodient scientiam et legem requirent ex ore eius, quia angelus Domini exercituum est 3 ; quod ad pastores novae Legis maxime pertinet, qui Deo propiores a claritate in claritatem transformare debent, tamquam a Domini Spiritu 4. Et cum eos lucis nomine nuncupavit Christus Dominus 5, propriae sunt illorum partes ut sint lumen eorum qui in tenebris sunt, eruditores insipientium, magistri infantium; et si quis praeoccupatus fuerit in aliquo delicto, ipsi, qui spirituales sunt, huiusmodi instruant 6.  Le Décalogue étant l’abrégé de tous les devoirs, les Pasteurs sont obligés de le méditer jour et nuit, non seulement pour y conformer leur propre vie, mais encore pour instruire dans la Loi du Seigneur le peuple qui leur est confié. Car [2] « les lèvres du Prêtre sont dépositaires de la science, et les peuples recevront de sa bouche l’explication de la Loi, parce qu’il est l’ange du Seigneur des armées. » Ces paroles s’appliquent admirablement aux Prêtres de la Loi nouvelle, parce qu’étant plus rapprochés de Dieu que ceux de la Loi ancienne, ils doivent [3] « se transformer de clarté en clarté, comme par l’Esprit du Seigneur. » D’ailleurs, puisque Jésus-Christ Lui-même leur a donné le nom de [4] « lumière », leur devoir et leur rôle, c’est d’être [5] « la lumière de ceux qui sont dans les ténèbres, les docteurs des ignorants, les maures des enfants ; et si [6] quelqu’un tombe par surprise dans quelque péché, c’est à ceux qui sont spirituels à le relever. » このように十戒がすべての法の概要なので、司牧者らは日夜これの観想を行い3、自分の生活をこの規範に合わせるのみならず、更には自分に委ねられた民(信徒ら)が主の掟について知識を持たねばならない。何故なら、「司祭のくちびるは知識を守り、司祭の口から人々は法を求めるからであり、何故なら司祭は万軍の主の天使だからである」4。これは、新約の司牧者(司祭)たちに最高にあてはまる。司祭らは天主により近く、主の霊によるように、栄光の輝きから輝きへと変えられなければならないからである5。また主キリストはかれらに光という名称をお与えになっているのであるから6、かれらが闇にいる人々の光となり、愚かな人々の導師、幼いものの教師となるべくするが7、彼らの固有の務めであり役割である。もしある人が過失を犯してしまったなら、霊的な人々こそがこのような人を教えるべきである8。
In confessionibus etiam iudicis personam sustinent, ac pro genere et modo peccatorum sententiam ferunt. Quare nisi suam sibi inscitiam, nisi aliis etiam esse fraudi velint, in eo sint necesse est quam vigilantissimi et in divinorum praeceptorum interpretatione exercitatissimi, ut ad hanc divinam regulam de quacumque et actione et officii praetermissione iudicium facere possint; et, ut est apud Apostolum, sanam doctrinam tradant 7, id est, quae nullum contineat errorem, et animorum morbis, quae sunt peccata, medeatur; ut sit populus Deo acceptus, sectator bonorum operum.  Au tribunal de la Pénitence ils sont de véritables juges, et la sentence qu’ils portent est en raison de l’espèce et de la grandeur des fautes. Si donc ils ne veulent ni s’abuser eux-mêmes, ni abuser les autres par leur ignorance, il est nécessaire qu’ils étudient la Loi de Dieu avec le plus grand soin, et qu’ils sachent l’interpréter avec sagesse, afin de pouvoir rendre sur toute faute, action ou omission, un jugement conforme à cette règle divine, et encore comme dit l’Apôtre [7] afin de pouvoir donner « la saine Doctrine », c’est-à-dire, une doctrine exempte de toute erreur, et capable de guérir les maladies de l’âme, qui sont les péchés, et de faire des Fidèles [8] « un peuple agréable à Dieu par la pratique des bonnes œuvres. » 告解の秘蹟においても、かれらは裁判官の立場にあり、罪の種類や程度について裁判を下す。従って、自分の知識の不足のせいで、自分自身が間違いたくない、あるいは他人を欺きたくないならば、天主の掟の熟練した解釈においてどれほど注意深くなる必要があるだろうか。それはこの天主の規範に従ってどのような行いについても職務の怠りについても裁くことができるためである。また、また聖パウロにあるように、健全な教え9、すなわちいかなる誤謬も含まず罪という霊魂らの病気が癒やされる教えを伝えるため、信者たちが天主に受け入れられて善業に熱心に従う民10 となるためである。
3 Quis Decalogi et legis naturae auctor sit § II. — DIEU AUTEUR DU DÉCALOGUE. 3 誰が十戒と自然法との制定者か
Iam vero in huiuscemodi tractationibus ea pastor sibi et aliis proponat, quibus legi parendum esse persuadeat. Inter cetera autem, quae animos hominum ad huius legis iussa servanda possunt impellere, illud maximam vim habet, Deum esse huius legis auctorem. Quamvis enim per angelos data esse dicatur, nemo tamen dubitare potest ipsum Deum esse legis auctorem. Cuius rei satis amplum testimonium praebent non solum ipsius Legislatoris verba, quae paulo post explicabuntur, sed infinita paene Scripturarum loca, quae pastoribus facile occurrent.  Mais dans ces sortes d’explications, le Pasteur doit rechercher, tant pour lui-même que pour les autres, les motifs les plus propres à obtenir l’obéissance à cette Loi. Or, parmi ces motifs, le plus puissant pour déterminer le cœur humain à observer les prescriptions dont nous parlons, c’est la pensée que Dieu Lui-même en est l’Auteur. Bien qu’il soit dit [9] « que la Loi a été donnée par le ministère des Anges », nul ne peut douter qu’elle n’ait Dieu Lui-même pour auteur. nous en avons une preuve plus que suffisante, non seulement dans les paroles du législateur que nous allons expliquer, mais encore dans une multitude de passages des saintes Ecritures, qui sont assez connus des Pasteurs. このような説明において、司牧者は自分にも他人にも、掟に従うべきであると説得させる理由を提既に示するように。さて、人々の心を動かしてこの掟に命じることに従わせ得る様々なことのうち、もっとも力があるのは、天主がこの掟の制定者であるということである。[この掟は]天使をとおして与えられたと言われているが11、天主御自身が掟の制定者であることは誰も疑うことができない。そのことの充分大きな証拠は、しばらく後に説明される立法者のことばのみならず、司牧者が容易に目にする聖書のほぼ無数の箇所である12。
Nemo enim est quin sibi a Deo legem in animo insitam esse sentiat, qua bonum a malo, honestum a turpi, iustum ab iniusto possit secernere; cuius vis et ratio legis, cum ab ea quae scripta est, diversa non sit 8, quis est qui ut intimae sic scriptae legis auctorem Deum negare audeat?  Il n’est personne en effet qui ne sente au fond du cœur une Loi que Dieu Lui-même y a gravée, et qui lui fait discerner le bien du mal, le juste de l’injuste, l’honnête de ce qui ne l’est pas. Or la nature et la portée de cette Loi ne diffèrent en rien de la Loi écrite, par conséquent il est nécessaire que Dieu, Auteur de la seconde, soit en même temps l’Auteur de la première. 実に、天主によって自分の霊魂の中に、それによって悪から善を、不義から誠実を、不正から正義を区別することができるような掟がおかれたことを感じないものはだれもいない。この掟の力および理念は、書かれた掟と異なるものではないので、心にある掟と同様に、書かれた掟の制定者が天主であることを、一体誰があえて否定するであろうか?
Hanc igitur divinam lucem, paene iam pravis moribus et diuturna perversitate obscuratam, cum Deus Moysi legem dedit, eam potius illustriorem reddidisse quam novam tulisse docendum est; ne forte cum populus audit legi Moysis derogatum esse, putet his legibus se non teneri. Certissimum enim est non propterea his praeceptis parendum esse, quod per Moysen data sunt, sed quod omnium animis ingenita et per Christum Dominum explicata sunt et confirmata. Il faut donc enseigner que cette Loi intérieure, au moment où Dieu donna à Moise la Loi écrite, était obscurcie et presque éteinte dans tous les esprits par la corruption des mœurs, et par une dépravation invétérée ; on conçoit dès lors que Dieu ait voulu renouveler et faire revivre une Loi déjà existante plutôt que de porter une Loi nouvelle. Les Fidèles ne doivent donc pas s’imaginer qu’ils ne sont pas tenus d’accomplir le Décalogue, parce qu’ils ont entendu dire que la Loi de Moïse était abrogée. Car il est bien certain qu’on doit se soumettre à ces divins préceptes, non pas parce que Moïse les a promulgués, mais parce qu’ils sont gravés dans tous les cœur », et qu’ils ont été expliqués et confirmés par Notre-Seigneur Jésus-Christ Lui-même. したがって、天主がモイゼに掟をお与えになった時、新しい掟をお与えになったというより、むしろ、すでに悪い習慣や古く染みついた堕落によって鈍らされていたこの天主の光を再びよりよく照らし出したのであったと教えるべきである。それは信者たちがモイゼの掟は廃止されたと聞く時、この十戒を守る必要はないと考えることがないようにするためである。これらの掟に従わねばならないのは、それがモイゼをとおして与えられたからではなく、すべての人の心の中に生来あるものであり、主キリストによって説明され確認されたからであることは明らかである。
4 Quomodo ad legem servandam ab ipso legis auctore populus excitari possit 4 どうしたら掟の制定者によって民が掟を遵守するように向けられ得るか
Iuvabit tamen plurimum, et ad persuadendum magnum habebit momentum illa cogitatio: Deum esse qui legem tulit, de cuius sapientia et aequitate dubitare non possumus, nec eius infinitam vim atque potentiam effugere. Quare cum per prophetas Deus iuberet servari legem, dicebat se Dominum Deum esse; et in ipso Decalogi exordio: Ego sum Dominus Deus tuus 9 ; et alibi: Si Dominus ego sum, ubi est timor meus? 10  Toutefois, (et cette pensée aura une grande force de persuasion), il sera très utile d’engager les Fidèles à se rappeler que Dieu Lui-même est l’Auteur de la Loi ; Dieu dont nous ne pouvons révoquer en doute la Sagesse et l’équité, Dieu enfin dont la Force et la Puissance sont telles qu’il nous est impossible d’y échapper. Aussi, quand Il ordonne par ses Prophètes l’observation de sa Loi, nous l’entendons dire: « Je suis le Seigneur Dieu. » Et au commencement du Décalogue: [10] « Je suis le Seigneur votre Dieu » et ailleurs: [11] « si Je suis le Seigneur, où est la crainte que vous avez de moi » ? 掟を制定されたのは天主であるという考えは大きな助けとなり、また大きな説得力をもっている。われわれは天主の英知や公正さを疑うことはできず、また天主の無限の力や能力から逃れることもできない。そのために天主は預言者をとおして掟を守るようお命じになったとき、ご自分は主なる天主であると仰せられ13。また十戒の冒頭でも、「あなたの天主である主は、私である」14と言明され、別のところでは「私が主であるのなら、私へのおそれはどこにあるのか」15とおおせられている。
  1 Quaest. 140 Lib. 2 sup. Ex. [1] Matth., 22, 40. (1) 出エジプト31章18節, 第二法の書9章10節参照
  2 Mt 22 [2] Mal., 2, 7. (2) マテオ22章40節参照
  3 Mal 2 [3] Cor., 3, 18. (3) 詩編1章2節参照
  4 2 Cor 3 [4] Matth., 5, 14. (4) マラキアの書2節7章
  5 Mt 5 [5] Rom., 2, 20. (5) コリント人への後の手紙3章18節参照
  6 Gal 6 [6] Gal., 6, 1. (6) マテオ5章14節参照
  7 2 Tim 4 [7] 2 Tim., 4, 3. (7) ローマ人への手紙2章19-20節参照
  8 Ex 20 [8] Tit., 2, 14. (8) ガラツィア人への手紙6章1節参照
  9 Ex 20 [9] Gal., 2, 14. (9) ティモティオへの第二の手紙4章3節参照
 10 Mal 1 [10] Exod., 20, 1. (10)ティトへの手紙2章14節参照
  [11] Malach., 1, 6. (11)ガラツィア人への手紙3章19節参照
    (12)たとえば出エジプト24章12節,イザヤ書33章22節など参照
    (13)レビの書18章2節5節、20章7節24節参照
    (14)出エジプト20章2節
    (15)マラキアの書1章6節




2019年3月の聖伝のミサの報告【聖ピオ十世会】SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2019年03月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
追加のミサの報告の頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ミサの報告をお送り致します。遅くなってすみません。

3月15日(四旬節の四季の金曜日)には13人、
3月16日(四旬節の四季の土曜日)には15人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

金曜日のミサのテーマは「罪の赦し」と「洗礼」である事は、書簡や聖福音、固有文から知る事ができます。
典礼や祝日に合わせてミサの全ての部分がその日教会の案内する精神に向くように定められていることを御説教を通して最近よくわかって来ました。
また、「40」と「38」の意味するところの解説も興味深かったです。

土曜日のミサではイエズス様の御変容を通して復活祭を暗示し、四旬節の断食や苦行は天主の聖なる山へ登るため。勝利するため、復活するための準備である事を黙想しました。予言を代表するエリアと、律法を代表するモーゼを証人にして御父がイエズス様を「私の子」と宣言された聖福音の場面から聖変化までは太陽のように輝くイエズス様がずっと心に残って感じられたようでした。

御聖体降福式でも、太陽のように輝くイエズス様を黙想しながら、マリア様と一緒に御聖体を精一杯礼拝しました。
ファチマの天使の祈りは好きですが、御聖体の前で唱えるこの祈りは特に大好きです。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
童貞聖マリア様の浄配、証聖者聖ヨゼフ様の大祝日おめでとうございます!!
ブログで初水のヨゼフ様の信心やヨゼフ様のノベナをご紹介下さった時に、とてもきれいな御影を一緒に掲載して下さりありがとうございます。

聖会の保護者であられるヨゼフ様の力強さが現われていて、後ろにマリア様も御謙遜にいらしていて、天使たちは「ITE AD JOSEPH」の文字を掲げていて、とても良い御影だなぁと思いました。大きな危機に陥っている現代のカトリック教会が聖伝へと再び回心する日を待ちわびながら、その中で私たちができるかぎりの事をする事ができますように、マリア様の道具としていつも天主様の御旨を果たす事ができますように、聖ヨゼフ様に特に御取り次ぎを乞い願いたいと思います。

今回のアウグスティヌス様のお話は、私の貧しい頭には最初は難しくて、本などを見てもなかなか頭に入らなかったのですが、小野田神父様の翻訳を読ませて頂いたりして、やっと何となく分かってきました…。

私たち人類に欠けているものが、二つをお命じになる事によって満たされる事をイエズス様は色々な福音によってお示しになって下さっている事を思うと、
ファチマのマリア様は、「祈り」と「犠牲」を捧げなさい、と仰って下さいましたし、
秋田のマリア様も、現代のカトリック教会の危機をお示しになりながら、私たちに残る武器は「ロザリオ」と「御子の残された印〈御聖体〉」だけです、と仰って下さいましたので、
四旬節、特にこの事を思いながら、四旬節の玄義の中に、神秘の中に深く入る事ができますように、イエズス様の素晴らしい完徳の模範に少しでも近づくことができますように、マリア様の御助けと御取次ぎを乞い求めたいと思います。


無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第13号】―無原罪の聖母を通じた召命ー

2019年03月20日 | M.I.(無原罪の聖...
無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第13号】

無原罪の聖母を通じた召命


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちは無原罪の聖母のものであり、聖母のご意志を行いたいと思い、聖母の望みが満たされ得るように出来る限りのすべてのことを行いたいと思っています。しかし、私たちの天の母の最も深いお望みは何でしょうか? 御子に対して出来得る限り多くの栄光を捧げること(聖マキシミリアノ・コルベは「ad maximam Dei gloriam―天主の最も大いなる栄光のため」と言いました)、出来る限り多くの霊魂を地獄の火から救い、彼らを天国に導くこと(ルルドやラ・サレット、ファチマなどでの聖母の緊急の訴えを見てください)です。

しかしながら、天主に対して最も大いなる栄光を捧げるための方法はただ一つしか存在せず、それは、祭壇上で日々更新される私たちの主の十字架上の犠牲を通じてです。ここにおいて、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちにおいてのみ、すべてのほまれと栄光が至聖なる三位一体に捧げられます。同じように、霊魂を贖い、彼らを天主のいのちへと戻す可能性はただ一つしか存在せず、それは、諸秘蹟という経路を通して霊魂たちの中に流れ込む私たちの主の御血を通じて、彼らを原罪という牢獄から解放し、すべての汚れから清め、浄化し、霊的な病から癒やし、光と天主のすべての宝で満たすことです。

私たちの主イエズス・キリストのご意志によれば、地上で贖いのわざを完成させ、天主にすべての栄光を捧げ続け、霊魂の中にキリストの御血を流し込むことができるのは、どのような人に限られるでしょうか? それは司祭です。それゆえに、そのあわれな迷える子供たちの救いに対して非常に熱心なかの童貞の汚れなき御心の中で最も大きな場所を占めているのは、司祭職です。私たちの元后の最も深いお望みは、御子の救いのみわざを継続させる人々を御子にお与えすることであり、それによって、司祭の人格を通して御子と親密に一致したこれらの道具によって、道であり真理でありいのちである御子の聖心の炎が地上のあらゆるところで燃え上がるようになるためです。

すべてのキリスト教徒が、堅振の秘蹟および隣人愛の掟によって、私たちの主をお助けして、霊魂たちの救いと地上での主の御国の拡張のために、すでに呼ばれているということを、私たちはよく知っています。また、すべての恩寵の仲介者である聖母が回心と聖化の恩寵を霊魂たちに注ぎ込むことができるように、私たちがその汚れなき御手の道具として自分を聖母に従わせることによってのみ、これを実行することが可能になるということも知っています。聖母は通常、その道具の助けによってのみ霊魂たちに恩寵を与えることがおできになるのですから、聖母は出来る限り多くの道具を持つことを非常にお望みになっています。

しかし、聖マキシミリアノは、良きカトリックの平信徒と司祭の違いは天と地の違いと同じだと言いました。なぜなら、平信徒は、助力の恩寵の道具、特に霊魂たちに対して真理といのちへの準備をさせ、心構えを持たせる恩寵の道具となることができるとしても、霊魂たちに対して、天主のいのちであり、永遠の光明であり、キリストご自身である成聖の恩寵を与え、回復させることができるのは司祭だけだからです。

それならば、至るところでこれらの天主の恩寵の分配者たち、「特にすぐれた」キリストの道具たちが増えるようにとの祝されし童貞のお望みは、いかに大きいものでしょうか。イエズスをこの世に与え、霊魂たちを聖化し、彼らをもう一人のキリストに変容させるというその使命を聖母が果たすことがおできになるのは、何にもまして司祭たちによってなのです。司祭たちがいなければ、彼らのために聖母が非常に祈り、非常に苦しみ、御子を犠牲となさったそれらの霊魂たち、聖母の愛する子供たちであるそれらの霊魂たちは、自分たちの母から永遠に離され、永遠に滅ぶという危険にさらされてしまうでしょう。

これが、聖母がすべての恩寵の仲介者という任務を果たそうと望んでおられる理由です。このすべての恩寵の仲介者としての任務は、特に、聖母が召命を起こされ、より高い生活へと呼ばれる寛大な霊魂たちに対して、ためらいや障害物を克服する光と力という恩寵によって、また司祭職への直接の準備という数えきれないほどの恩寵によって、聖母が受階者を司教の手を通して御子にお渡しになり、御子が本当にこの人をもう一人のご自分とされる祝福された瞬間にまで、なされるものです。まことに、「天主の御母である童貞は、熱心な愛によってすべての霊魂をお愛しになっているが、イエズス・キリストの生ける似姿である司祭を好んでおられる」(ピオ十一世)のです。

無原罪の聖母の騎士の本質は、霊魂たちを回心させ、聖化するために聖母をお助けするあらゆる努力を行うことです。すべての回心と聖化は、司祭のみが行うことのできるミサの聖なるいけにえおよび諸秘蹟を通してなされます。そうすると、聖母の道具である私たちが私たちの元后にもたらすことのできる最も高貴なる助けとは何になるでしょうか? 召命を目覚めさせ、そのあとそれを保持するための聖母の道具となることです!

ファチマで聖母は、なぜ非常に多くの霊魂が地獄に行くのかを説明なさっています。それは、彼らのために祈り、犠牲をする人が誰もいないからであり、聖母が、自分の祈りと犠牲を通して回心の恩寵をお与えになることのできる人を、誰も見つけられないからです。同じように、私たちは自問することができます。なぜ司祭や修道者がこれほど少なく、また聖なる司祭や修道者がもっと少ないのでしょうか? それは、無原罪の聖母が、自分の祈りと犠牲を通して聖母が召命を目覚めさせ、そのあとその召命を保持することのできる人を、誰も見つけられないからです!

これこそが、聖マキシミリアノが、騎士が司祭および修道者の召命のためにたくさん祈ることを繰り返し主張し、これらの奉献された霊魂たちを通して祝されし童貞が世界中に数え切れないほどの恩寵を注ぐことがおできになると説明した理由なのです。

それゆえに、聖グリニョン・ド・モンフォールが聖三位一体に対してこいもとめるためにその「熱心な祈り」によって大変素晴らしく表されたように、私たちの母に対して、私たち自身の緊急の呼びかけを行いましょう。それは、聖母が、危機にあるこの世に、まことの、数多くの「イエズスとマリアの使徒たち」を与えてくだされるようにするためです。私が思うには、召命のための出来る限りのすべてのことをする以上に、無原罪の聖母をお喜ばせすることはありません! さらに言えば、すべての騎士が無原罪の聖母を通して良きかつ聖なる司祭および修道者の召命を得るために熱意と粘り強さで祈るように努めることは、聖伝遵守のMIの最高権威である私たちの総長の明白なご意志です

2019年にあたって、無原罪の聖母への私たちの奉献を生きるために、従って聖母への奉仕におけるさらに熱心でさらに粘り強い道具になるために、この決心が提案されています。今日、私たちは、自分が聖母をお助けして地上でもう一人のキリストたち、すなわち良きかつ聖なる司祭たちを生み、かつ形作るための聖母の御手の道具になるほど素晴らしい方法は他にありえないことを学んでいます。そのためには、嵐のような本当の祈りに、すべての騎士が、これまで受けた非常に多くの恩寵に対する感謝のしるしとして、私たちの元后に捧げるべき犠牲が伴わなければなりません。そして、私たちがこれらすべての恩寵を受けたのは、まさに司祭を通してではなかったでしょうか?

もちろん、私たちは皆さんにこれを行うよう強制することはできません。それは、毎日の射祷以外には、皆さんが何かをするように義務付けられていないからです。しかし、この手紙を通して、聖母のために素晴らしいことを、最も素晴らしいことさえをも行うよう皆さんを招いておられる(聖マキシミリアノが非常にしばしば繰り返していたように、長上という手段を通じて私たちに対して常に話しておられる)無原罪の聖母ご自身の声を聞いてください!

ですから、私たちは騎士全員に、今年中、一日に少なくとも3回、次の祈願を繰り返すよう提案します。
「主よ、われらに司祭を与え給え! 主よ、われらに聖なる司祭を与え給え! 主よ、われらに多くの聖なる司祭を与え給え! 主よ、われらに多くの聖なる修道者の召命を与え給え! マリアによって!」。


聖母のためにさらに多くのことをしたいと望んでいる騎士に対しては、私たちは、これらの意向のためにロザリオ一連、またはロザリオ全環までも唱えるよう、そして一年中唱えるよう提案します。私たちはまた、5月と10月を特別に聖母に捧げることができます。特にこの意向のために、聖母のほまれにおいて祈りと犠牲を捧げるのです。

私たちは四旬節に入っていますから、私たちの四旬節の決心に、確実に悲しみに満ちた汚れなきマリアの御心に深く触れ、お慰めすることになる、この素晴らしい意向を付け加えましょう! これこそが、マリアの凱旋と、私たちの主の永遠の勝利の実現のために、私たちがさらに効果的に準備をする方法なのですから。

この四旬節が、皆さんにとって祝福された聖なる時間となりますように、
そして、皆さんに私の心を込めた祝福を送ります。
カール・シュテーリン神父
2019年3月13日、バイェジェ(ポーランド)にて


【英語原文】
Father Director's Letter No 13 to all Knights of the Immaculata

VOCATIONS THROUGH THE IMMACULATA


Dear Knights of the Immaculata!

We belong to the Immaculata, we want to do her will, to do everything possible so that her desires can be fulfilled. But what are Our Heavenly Mother's deepest desires? To give as much glory as possible to her Son (St. Maximilian Kolbe said: "ad maximam Dei gloriam - for the greatest glory of God"), to save as many souls as possible from the fire of hell and to lead them to heaven (see his urgent appeals in Lourdes, La Salette, Fatima etc.).

However, there is only one way to give the maximum glory to God, it is through the very sacrifice of Our Lord on the Cross, renewed every day on the altar. Here only through Christ, with Christ and in Christ is given to the Most Holy Trinity all honour and glory. Likewise, there is only one possibility of redeeming souls and giving them back the life of God, it is through the Blood of Our Lord which flows into souls through the channels of the sacraments, to deliver them from the prison of original sin, to cleanse them from all filth, to purify them and heal them of their spiritual leprosy, to fill them with light and all the divine treasures.

According to the will of Our Lord Jesus Christ, who alone is able to accomplish on earth the work of redemption, to continue to give God all glory and to shed the Blood of Christ into souls? The priest. Consequently, what most preoccupies the Immaculate Heart of the Virgin, so eager for the salvation of her poor lost children, is the priesthood. Our Queen's deepest desire is to give to her Son continuers of His work of salvation, so that through these instruments, intimately united with her Son through the priestly character, the flame of His Sacred Heart may burn everywhere on earth: the Way, the Truth and the Life.

We know well that every Christian is already called by the sacrament of Confirmation and the commandment of love for the neighbour to help Our Lord for the salvation of souls and the extension of His Kingdom on earth. And we also know that this can only be done if we submit ourselves to Our Lady as an instrument in her immaculate hands so that she - Mediatrix of all graces - can pour into souls graces of conversion and sanctification. And since she usually can only give her graces to souls with the help of her instruments, she desires so much to have as many as possible.

However, Saint Maximilian said that the difference between a good lay Catholic and a priest is the same as between heaven and earth. For if the laity can be an instrument of actual graces, especially graces that prepare and dispose souls to the Truth and Life, it is only the priest who can give and restore to souls the sanctifying grace, the Life of God, the eternal Light, the Christ himself.

How great, then, must be the desire of the Blessed Virgin that everywhere these dispensers of divine graces, Christ’s instruments "par excellence", may multiply. For it is through them above all that she can fulfill her mission to give Jesus to the world, to sanctify souls and to transform them into other Christs. Without them, those souls for whom she prayed so much and suffered so much and sacrificed her Son, those souls, her beloved children, would risk being eternally separated from their Mother, eternally damned.

This is why she wants to perform her office of Mediatrix of all graces, especially among generous souls, in whom she raises up the vocation, calls them to a higher life with graces of light and strength to overcome hesitations and obstacles, also numberless graces of direct preparation to the priesthood, until the blessed moment when she can present the ordinand to her Son who, through the hands of the Bishop, really makes him another Himself. Truly, "If the Virgin, Mother of God, loves all souls with an ardent love, she has a predilection for priests who are the living image of Jesus Christ" (Pius XI).

The essence of the Knight of the Immaculate is to make every effort to help her to convert and sanctify souls. All conversion and sanctification passes through the Holy Sacrifice of the Mass and the sacraments that only the priest can give. What, then, will be the noblest help that we, her instruments, can bring to Our Queen? To be her instruments to awaken and then preserve vocations!

In Fatima she explains why so many souls go to hell: because they have no one to pray and sacrifice for them, because Our Lady finds no one through the prayers and sacrifices of whom she can give the graces of conversion. Analogically we can ask ourselves: Why are there so few priests and religious, and even fewer holy priests and religious? Because the Immaculata finds no one through the prayers and sacrifices of whom she can awaken and then preserve vocations!

This is why Saint Maximilian repeatedly insisted that the Knights pray a lot for priestly and religious vocations, explaining that through these consecrated souls the Blessed Virgin can pour countless graces over the whole world.

Let us therefore make our own the urgent call upon our Mother that Saint Grignion so wonderfully expressed in his “ardent prayer”, to beg the Holy Trinity, so that she may give to the world in danger, true and numerous "Apostles of Jesus and Mary". I think that one cannot give more delight to the Immaculata than to do everything possible for vocations! It is moreover the express will of our Superior General, the supreme authority of the MI of traditional observance, that all the Knights strive to pray with fervour and constancy to obtain good and holy priestly and religious vocations through the Immaculate.

For the year 2019 the resolution was proposed to live our consecration to the Immaculate, thus to be more fervent and more constant instruments in her service. Today we are learning that we cannot be a better instrument in her hands than to help her to bear and shape other Christs on earth, good and holy priests. It should be a real prayerstorm accompanied by sacrifices that each Knight should give to his Queen as a token of gratitude for so many graces received - and did we not receive all these graces precisely through the priest?

Of course, we cannot force you to do this, because apart from the daily ejaculatory prayer you are not obliged to do anything. But please hear through this letter, the Immaculate herself who invites you (always speaking to us through the way of superiors as Saint Maximilian so often repeated) to do great things for her, even the greatest!

So we propose to all the Knights to repeat throughout this year at least three times a day the invocations:
"Lord, grant us priests! Lord, grant us holy priests! Lord, grant us many holy priests! Lord, grant us many holy religious vocations! BY MARY!"


To the Knights who wish to do more for her, we propose to recite a decade of the rosary or even a whole rosary for these intentions, and this throughout the year. We can also offer to our Queen the months of May and October in a special capacity, with the prayers and sacrifices we will make in her honour, especially for this intention.

And since we are in Lent, why not add to our Lenten resolutions this great resolution by which certainly the Sorrowful and Immaculate Heart of Mary will be deeply touched and consoled! This is how we prepare more effectively for her triumph and the achievement of Our Lord's eternal victory.

Wishing you a Blessed and Holy time of Lent
And blessing you with all my heart
Fr. Karl Stehlin
Bajerze, 13 March 2019

2019年3月、大阪では四季の斎日の金曜日、土曜日のミサを、東京では四旬節の第二主日のミサをお捧げしました

2019年03月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

今日は、聖ヨゼフの大祝日ですね!
大阪では四季の斎日の金曜日、土曜日のミサを捧げ、東京では四旬節の第二主日のミサをお捧げすることが出来ました。天主に感謝いたします。
ミサのご報告を頂きました。感謝して愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
聖ヨゼフよ、われらのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 25人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供5人)
計: 54人(内、子供9人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この日は特別に、ご聖体が光り輝く御復活のお姿に御変容されたイエズス様であることをおもいながら、窓から差し込む日の光に輝く真っ白いご聖体を深く跪いて礼拝し拝領することができました。

10日ほど前に灰をいただき、すでに四旬節に入っていて、何度かの大小斎を過ごしながらレントの第二主日を迎えました。四旬節に入って感じていたことは食べ物の誘惑というよりも、もっと違う何かでした。けれど、”天主のみ旨はあなたたちの聖化にある”という人生の究極の目的のことをお話しくださり、なるほどと感じられました。(聖徳とは何かという神父様の大阪でのお説教を読んで、人生の目的へ達するのは大変なことであって簡単なことでないと思いました。)

少しでもイエズス様のお示しくださったほうへ向かおうとしていると、妨げの力が内からとか外側からとかやってくるのが感じられることがあります。妨げの力は、ほんとうに厳しいです。

神父様は、「厳しいからこそこの道の終わりには何があるのかを知らされることが大切で、そのためにイエズス様はまだ復活体を持つ前だったにもかかわらず奇跡をおこなって、栄光の光り輝くお姿をお見せくださったのです」とお話しくださいました。それはいまこのミサの中でご聖体という真っ白い栄光のお姿を見せてくださるのと同じことだと教えてくださいました。

まだ、40日間の断食が終わっていないので(まだ人生の荒野を最後の道のりまで歩ききっていないので)、イエズス様の栄光を間近に仰ぐことはできなくても(堅忍してそのようにできるかどうかさえまだわからないとしても)、こうしてご聖体を礼拝し拝領させていただくことは、ほんとうに慰めで励ましです。

今日この聖福音が読まれるのは、いま歩んでいる道のりが厳しいものであればあるほどその道のりの終わった後にどれほど素晴らしいことが待っているかどれほど良いことが待っているかはっきり知るようにとのことなのですね。モーゼとエリヤも、主の栄光を見る前に40日間の断食が必要だったのであり、イエズス様も私たちへの模範のために荒野で断食をされたのであり、40日間の断食はこの世の砂漠のようなところを歩くための準備として必要だということをお聞きして、カトリック信仰をもってこの世を生きることの心構えを考え直しました。モーゼやエリヤがシナイ山(ホレブの山)に登るために荒野での断食が必要であったように、私たちも自分を少しでも聖化しようとするならその荒野での断食の態度が必要であることを教えられているのだと思いました。

三人の弟子たちが「主よ、私たちがここにいることは良いことです。イエズス様とモーゼとエリヤのために幕屋を作りましょう。」といったように、ご聖体拝領では自分のうちにイエズス様にお留まりいただけるように「このテントの中においで下さい」「私のなかに入り来てください」とお迎えすることにいたしましょうと教えていただいたことがうれしく、そのように心から望みそのように努めました。このことを記憶に留めて、いつもイエズス様と一緒にいることができますように毎日を注意深く過ごせたらとおもいます。

信仰をもって生きることの厳しさの中、昔のカトリック信者も主日ごとにマリア様のいる聖堂に集まり助けを仰いだことの表れが今日の指定巡礼教会の由来ですとのこと、私もマリア様に助けを求めました。自分にあまり枷を課していないだらしない私でしたが、残りの四旬節中だけでもいろいろ工夫して節制を課し償いを少しでもお捧げして、願わくは少しでも浄められた心で4月には復活のイエズス様に出会えますように努めたいと思います。

小野田神父様四旬節第二主日のミサをありがとうございました。

(四旬節に入って、この主日の日に気づかされたのは自然に沸き起こる感情を聖なる無関心でやり過ごすことも、一つの節制の形なのかもしれないということでした。それは、何かを食べたいとか飲みたいとかいうものを我慢するようなそういう辛さと似通ったものであるかもしれないと思いました。意識すればするほどそれが大きくクローズアップされてしまうところも似ているように思います。煉獄ではきっと、そういった自分の自然の感情が動き回っているままエントロピー的に落ち着くまで活発に動き回りいわば潜在していた感情も含めてあらゆる悲しみと喜びの変動がおこなわれてしまうのかもしれないと想像してしまいました。それは何かを食べたいという思いのように自分の気持ちをいらつかせるように思います。それでこの四旬節に一番努めなければならないと感じさせられたのは、聖なる無関心という自分の感情の望むことを無視して静かにするべきことに向かう態度だと思いました。この聖なる無関心をもって物事を静かに受け止めるということも、四旬節の断食と荒野での試練のなかの体験となるのかもしれないと感じました。私は、まだまだとても聖なる無関心などというような徳をもつことはできないけれど。

―「このテントの中においで下さい」とイエズス様に申し上げる―

私の浄められていない感情や欲求の数々によって自分の気持ちがあちこちに引っ張られていこうとするのを、この幕屋の中にいらしてくださるイエズス様が、静かに戻してくださることを願います。たくさんの欲や望みや虚栄心や自己満足や虚しい誇りこの世の考えなどのすべてに引っ張られていくのを感じても、自分の努力だけでは止められない時があることを痛感して、この聖なる御方によってだけ鎮められることができると思いました。それからマリア様がどれほどご謙遜であられたかを深く心に留めるようにしてこの四旬節すこしでも心を清めて過ごすことができますように、と祈りました。)

【報告】
Ave Maria Immaculata!
公教要理をありがとうございます。この日は、イエズス様がどうして断食をされたのか誘惑されたのはどうしてだったのかということを黙想しました。

私は、第一のアダムが「木の実を食べエデンの園から荒野に追放された」そして、第二のアダムであるイエズス・キリストが「荒野に行ってゲッセマニの園(オリーヴの園)に行きそれからご胎内の実を木に架けた」というところのお話が印象に残りました。
特に“ご胎内の実”というところが印象深く、神秘に包まれたその言葉を心に刻んできました。

あとでその部分を一人でゆっくり黙想しました。実を食べたことが罪の元となり死がもたらされた、一方そののち、マリア様のご胎内の実によって命がもたらされた、最初の命よりもっと素晴らしいいのちがもたらされた・・・。木に成っている実を勝手に食べてアダムに死がもたらされた、そののち、そしてマリア様のご胎内の実が木に架けられ、それをいただく(食べる)ものに復活のいのちがもたらされるようになる・・・。人間のいのちについての神秘が感じられました。

毎日何度も祈る天使祝詞の「ご胎内の御子イエズスも祝せられ給う」というフレーズがどうしても蘇ります。

だれも、十字架に架けられた御子の肉を食べなければ、新しいいのちに変えられることができない。けれど、そんなことを誰ができようかとほとんどのものが言った当時の人たちと同じように、主のみことばを理解しようとせず、御聖体をただのパンに貶めようとする力が、今も教会の中にも働いているのかもしれない。御聖体は食卓のパンに過ぎない、マリア様の胎の実ではない、人の子の肉ではないと、信仰を替えようとする力が働いているのかもしれない。

現代の日本のほとんどのカトリック教会のミサの中では、ホスチアに“大地の恵み労働の実り私たちの命の糧となるものです”、と呼びかけるようです。このように新しいミサ典書には記載され憶えてしまうのです。(私の記憶が間違っていなければ)。けれど、永遠のミサと列聖されたラテン語のミサ典書では、ご聖体に向かって一言も“労働のみのり”と呼びかけることをしてないように思います。むしろ救いのためのいけにえです。ご聖体は私たちの主の御受難の再現そのものを表しているので、私たちはご聖体のイエズス様に向かって自分の罪を告白して赦しを願い永遠のいのちを賜るよう願い、跪いて深く礼拝させていただきます。特にこの四旬節は、自分の罪を少しでも償うことができますよう努めて、赦しを願うにおいて心からの悔い改めができますよう心しなければと思ったのでした。

公教要理のお話から、確かにご聖体は清らかなパンであるけれど、そのホスチアはマリア様のご胎内の実が十字架の木に架けられてなった御受難の実でありいのちのパンだということを気付かせていただきました。私たちがいただこうとしている永遠のいのちは、マリア様がおられなければいただくことのできないものだということがよくわかったように思います。

マリア様はどれほどこのミサが替えられてしまうことをお悲しみになられていることでしょうか。

ミサが霊魂の救いのためのものとならなくなるとしたら、救いを求めてカトリック教会にやってくる自分の子供たちを救うことができなくなります。それは本当にマリア様への冒涜のように感じられます。聖伝のミサがけっしてなくなりませんようにと心から願います。聖母のけがれなき御心への信心によるマリア様への侮辱を償うために祈りと犠牲をお捧げするのはどうしてなのかを、また一つはっきりとわからせていただいたように思います。

あれれ、“荒野での断食”というのがこの日の黙想のテーマのような気がしたので、少しずれてしまったかもしれません。

聖アンブロシオによれば、イエズス様の荒野での40日間の断食は旧約の預言と律法を完成させるためにおこなわれたということでした。モーゼとエリアのそれぞれの40日間の荒野で断食をしてシナイ山ホレブの山に登ったことも関係しているとのお話に、この日の聖福音で読まれたことが思い出されました。

イエズス様が誘惑を受けられたのも私たちの模範となるためであったとのこと、たとえ洗礼を受けたとしても断食をしていても悪魔からの誘惑はやってきて身体を維持することへの過度の気がかりや虚栄心や高慢や権力欲などのすべての傲慢を助長させるよう働きかけてくることのですというお話に、しかと注意と準備を怠らず警戒をしなければと思いました。マリア様のご謙遜にわずかでも倣うことができますようにと思います。アダムの罪を償うための公生活を始める準備として荒野で断食をされたイエズス様を見習うことができますように、残りの四旬節に断食を心の断食も含めて頑張ろうと思いました。

小野田神父様、とても大切な公教要理のお話をありがとうございました。

四旬節の四十日と、ヨハネの福音第5章の三十八年来病気になやんでいる男(聖アウグスチヌスの解説)

2019年03月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖ヨゼフの祝日ですね!
さて四旬節の四季の斎日の金曜日には、大阪で聖伝のミサをささげました。そのとき福音では、ヨハネの福音の第5章を読みました。

「その時、ユダヤ人の祭があって、イエズスはイエルザレムにのぼられた。イエルザレムの羊門のそばに、ヘブライ語でベザタという池があり、そこに五つの廊があった。その中には多くの病人やめくらや足なえや中風の人がうずくまっていた。(かれらは水が動くのを待っていた。主の天使がたびたび池に下りて水を動かすので、水が動いて最初に飛びこむと、どんな病気でもなおった。)そこには、三十八年来病気になやんでいる男がいた。その男がそこに臥せているのを見られたイエズスは、それもずい分前からのことだと知って、「治してほしいか?」とおたずねになった。病人は、「主よ、水が動くとき、私を水に入れてくれる人がありません。私が行こうとすると、ほかの人が先におりてしまいます」といった。イエズスは、「起きて、床をとりあげて歩け」とおおせられた。するとその男はすぐ治って、床をとりあげて歩き出した。
ちょうど、その日は安息日だった。ユダヤ人は治った男に「今日は安息日だから、床をもつことはゆるされない」といった。すると男は、「私をなおしてくださった人が、"床をとりあげて歩け"とおっしゃったのです」と答えた。ユダヤ人が、「"床をとりあげて歩け"とあなたにいったのはだれだ?」と聞いたが、病人はその人を知らなかった。なぜなら、イエズスは、そこに押しよせていた群衆の中に姿をかくされたからであった。
その後、イエズスは、神殿でその男にあわれたとき、「どうだ、あなたはなおった。さらに悪いことが起らないように、もう二度と罪をおかすな」とおおせられた。その男は、自分を治してくださったのはイエズスだったと、ユダヤ人たちにいいに行った。」

それに関する聖アウグスチヌスによる説教を少しご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Quadragenarius numerus sacratus nobis in quadam perfectione commendatur. Notum esse arbitror Caritati vestrae: testantur saepissime divinae Scripturae. Ieiunium hoc numero consecratum est: bene nostis. Nam et Moyses quadraginta diebus ieiunavit 5, et Elias totidem 6 ipse Dominus noster et salvator Iesus Christus hunc ieiunii numerum implevit 7. Per Moysen significatur Lex, per Eliam significantur Prophetae, per Dominum significatur Evangelium. Ideo in illo monte tres apparuerunt, ubi se discipulis ostendit in claritate vultus et vestis suae 8. Apparuit enim medius inter Moysen et Eliam, tamquam Evangelium testimonium haberet a Lege et Prophetis 9. Sive ergo in Lege, sive in Prophetis, sive in Evangelio, quadragenarius numerus nobis in ieiunio commendatur.  40という聖なる数は、ある完成において私たちに示されている。あなたたちの愛徳に知られていると私は思うが、聖書はきわめて頻繁にそう証言する。断食がこの数で聖別されていると、あなたたちは良くしている。何故ならモイゼは40日間断食した(5)、エリアも同じ日数(6)、私たちの主にして救い主イエズス・キリストも断食のこの数を満たされた(7)。モイゼによって律法が意味され、エリアによって預言者が意味され、主によって福音が意味される。従って、主がその顔と衣服の輝きにおいて御自分を弟子らに示されたかの山において3人が現れた(8)。実に主はモイゼとエリアの間に、福音が律法と預言者によって証言をもつかのように、現れ給うた(9)。したがって、或いは律法において、或いは預言者において、或いは福音において、40という数は、私たちに断食において示されている。
Ieiunium autem magnum et generale est, abstinere ab iniquitatibus et illicitis voluptatibus saeculi quod est perfectum ieiunium: ut abnegantes impietatem et saeculares cupiditates, temperanter, et iuste, et pie vivamus in hoc saeculo. Huic ieiunio quam mercedem addit Apostolus? Sequitur, et dicit: Exspectantes illam beatam spem, et manifestationem gloriae beati Dei, et salvatoris nostri Iesu Christi 10. In hoc ergo saeculo quasi Quadragesimam abstinentiae celebramus, cum bene vivimus, cum ab iniquitatibus et ab illicitis voluptatibus abstinemus.  ところで、大きな一般的な断食とは、この世の邪悪と不正な邪欲を控えることであり、これが完全な断食である。それは「この世において、不敬虔と世俗の欲望をすてて、節制と正義と敬虔とをもって私たちが生きるため」である。この断食に使徒[聖パウロ]はどのような報いを加えているだろうか?続けてこう言う。「幸福な希望と、幸福な天主であり、私たちの救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれとを待ちつつ」(10)と。従って、この世において、私たちが善く生き、邪悪と不義の邪欲とを控えるとき、私たちはいわば「控え」の40日を祝う。
Sed quia haec abstinentia sine mercede non erit, exspectamus beatam illam spem, et revelationem gloriae magni Dei, et salvatoris nostri Iesu Christi. In illa spe, cum fuerit de spe facta res, accepturi sumus mercedem denarium. Ipsa enim merces redditur operariis in vinea laborantibus secundum Evangelium 11, quod vos credo reminisci: neque enim omnia commemoranda sunt, tamquam rudibus et imperitis. Denarius ergo qui accepit nomen a numero decem, redditur, et coniunctus quadragenario fit quinquagenarius: unde cum labore celebramus Quadragesimam ante Pascha; cum laetitia vero, tamquam accepta mercede, Quinquagesimam post Pascha. Nam huic tamquam salutari labori boni operis, qui pertinet ad quadragenarium numerum, additur quietis et felicitatis denarius, ut quinquagenarius fiat. しかし、この「控え」は報いが無いのではないので、「私たちはかの幸福な希望と、偉大な天主であり、私たちの救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれとを待っている」。この希望において、この希望についてが現実になるだろうとき、私たちは一デナリオの報いを受けるだろう。じつに、福音によると、この報いがぶどう畑で働く労働者らに与えられる (11)。このことをあなたたちは思い出してくれると思うし、ま粗野な人々と未経験者たちであるかのようにすべてを思い出させるべきではない。したがって、10(decem)という数字からその名を受けているデナリオ(denarius)は与えられる。そして40に加えられると50になる。そこから復活祭の前の40日〔四旬節〕を、労苦をもって私たちは祝い、復活祭の後の50日を、受けた報いとして、喜びをもって祝う。なぜなら、40という数に関わるこの善き救いをもたらすわざの労苦に、休息と至福の一デナリオが50になるように加えられるからだ。
5. Significavit hoc et ipse Dominus Iesus multo apertius, quando post resurrectionem quadraginta diebus conversatus est in terra cum discipulis suis 12; quadragesimo autem die cum ascendisset in coelum, peractis decem diebus misit mercedem Spiritus Sancti 13. Significata sunt ista, et quibusdam significationibus res ipsae praeventae sunt. Significationibus pascimur, ut ad res ipsas perdurantes pervenire possimus. Operarii enim sumus, et adhuc in vinea laboramus: finito die, finito opere, merces restituetur. Sed quis operarius perdurat ad accipiendam mercedem, nisi qui pascitur cum laborat? Non enim et tu operario tuo mercedem solam daturus es: non etiam afferes illi unde vires reparet in labore? Pascis utique cui mercedem daturus es. Proinde et nos Dominus in istis Scripturarum significationibus laborantes pascit. Nam si ista intellegendorum sacramentorum laetitia subtrahatur a nobis, deficimus in labore, et non erit qui perveniat ad mercedem. 5. このことを、主イエズス御自身もより明らかなやりかたでしるしとして行われた。主が、復活後40日の間、地上で御自分の弟子らと交わられたが(12)、40日目に天に上られ、10日が過ぎると聖霊の報いを送り給うた(13)からだ。これらは意味され、あるしるしによって現実それ自体が先取りされた。私たちはしるしによって養われるが、それは永続する現実それ自体に到達することができるためである。実に私たちは労働者であり、まだぶどう畑で働いている。一日が終わり、仕事が終ると、報い返されるだろう。だが、報いを受けるべく堅忍する労働者は、労苦しつつ養われる者ではなくて誰だろうか?実にあなたでさえも、自分の労働者に報いのみを与えるわけではない。あなたもかの労働者に、労働において力を回復させるものを与えるのではないか?あなたは報いを与えようとする者を養う。そこで主もまた、働いている私たちを、聖書のこれらのしるしによって養ってくださる。なぜなら、これらの神秘を理解する喜びが私たちから取り去られるなら、私たちは労働に疲れ、報いに到達する者は誰もいなくなるだろうからである。
Lex impletur in gemino praecepto caritatis. 法は愛徳で完成する
6. Quomodo ergo quadragenario numero perficitur opus? Fortasse ideo, quia Lex in decem praeceptis data est, et per totum mundum praedicanda erat Lex: qui totus mundus quatuor partibus commendatur, Oriente et Occidente, Meridie et Aquilone, unde denarius per quatuor multiplicatus, ad quadragenarium pervenit. Vel quia per Evangelium quod quatuor libros habet, impletur Lex: quia in Evangelio dictum est: Non veni solvere Legem, sed adimplere 14. Sive ergo illa, sive ista causa, sive alia aliqua probabiliore, quae nos latet, doctiores non latet; certum est tamen quadragenario numero significari quamdam perfectionem in operibus bonis, quae maxime opera bona exercentur in abstinentia quadam ab illicitis cupiditatibus saeculi, hoc est, generali ieiunio.  6. 従って、どのようにして40という数によってわざは完成するのだろうか?それはおそらくこうだろう。法は10の掟において与えられ、法は全世界に宣べ伝えられるべきであった。全世界は、東西南北という四つの部分に分かれる。そこから10のもの〔デナリオ〕が四倍されて40になる。あるいは、福音は4冊の書からなるが、法を完成する。何故なら福音にはこう言われているからだ。「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」(14)。先の理由によるのか、後の理由によるのか、あるいは私たちには隠れているが知者には隠れていない他のより本当らしい理由によるのか、確かなことは、40という数によって、善きわざにおける或る完成が意味されており、最高に善きわざは、この世の不正な邪欲を控えることによって、つまり、一般的な断食において成し遂げられる。
Audi et Apostolum dicentem: Plenitudo Legis caritas 15. Caritas unde? Per gratiam Dei, per Spiritum sanctum. Non enim haberemus illam ex nobis, quasi facientes illam nobis. Dei donum est, et magnum donum: Quoniam caritas Dei, inquit, diffusa est in cordibus nostris per Spiritum sanctum qui datus est nobis 16. Caritas ergo implet Legem, et verissime dictum est: Plenitudo Legis caritas. Quaeramus hanc caritatem, quemadmodum commendatur a Domino. Mementote quid proposuerim: numerum triginta octo annorum in illo languido volo exponere, quare numerus ille trigesimus octavus languoris sit potius quam sanitatis. Ergo, ut dicebam, caritas implet Legem. Ad plenitudinem Legis in omnibus operibus pertinet quadragenarius numerus: in caritate autem duo praecepta nobis commendantur. Intuemini, obsecro, et figite memoriae quod dico; ne sitis contemptores verbi, ne fiat anima vestra via, ubi grana iacta non germinent: Et venient, inquit, volatilia coeli, et colligent ea 17. Percipite, et recondite in cordibus vestris. Caritatis praecepta duo sunt a Domino commendata: Diliges Dominum Deum tuum ex toto corde tuo, et ex tota anima tua, et ex tota mente tua; et: Diliges proximum tuum tamquam teipsum. In his duobus praeceptis tota Lex pendet et Prophetae 18. Merito et illa vidua omnes facultates suas, duo minuta misit in dona Dei 19: merito et pro illo languido a latronibus sauciato, stabularius duos nummos accepit unde sanaretur 20: merito apud Samaritanos biduum fecit Iesus, ut eos caritate firmaret 21. Binario ergo isto numero cum aliquid boni significatur maxime bipartita caritas commendatur. Si ergo quadragenarius numerus habet perfectionem legis et Lex non impletur nisi in gemino praecepto caritatis; quid miraris quia languebat qui ad quadraginta, duo minus habebat? 使徒が言っていることも聞きなさい。「愛は律法の完成である」(15)。愛はどこからか?天主の恩寵によって、聖霊によってである。私たちはかの愛を、あたかも自分自身でかの愛を行っているかのように、自分から所有するのではない。天主の賜物であり、大いなる賜物なのだ。なぜなら「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(16)と言われるからだ。従って愛は律法を完成する。「愛は律法の完成である」とは極めて真実に言われた。私たちは主によって勧められているものとしてこの愛を求めよう。わたしが述べようとすることを記憶しなさい。かの病人において38年という数を私は解明したい。なぜこの38という数が健康の数というよりも病気に関わるのか。先に言ったように、愛は律法を完成する。すべてのわざにおける律法の完成に関わるのが、40という数である。しかるに、愛徳には、二つの掟が私たちに与えられている。どうかよく見て、わたしが言うことを記憶にとどめなさい。あなたがたがことばを軽蔑する者とならないように、またあなたがたの霊魂が、播かれた種子が発芽しない道、そして「空の鳥が来てそれを集める」と言われる(17)道とならないために。あなたたちの心の中に受け取って、据え付けなさい。主より与えられた愛の掟は二つである。「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"。"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」(18)。あのやもめも、素晴らしくも、自分のくらしの費用の全てである二レプタを天主の賽銭箱に入れた(19)。強盗に傷つけられたあの半死半生の人のために、宿屋の主人は、正当にも、治療代として二デナリオを受け取った(20)。イエズスは、正当にも、サマリア人たちのもとに二日の間留まられたが彼らを愛において固めるためだった (21)。それゆえ、この二という数で、何か善いものが示されているとき、特に二つの部分の愛が示されている。だから、もし40という数が律法の完成を意味し、律法が二つの愛の掟のもとにおいてのみ完成するのなら、この40に二足りない数をもった人が病んでいたからといって、あなたは何を驚くのか。
7. Videamus proinde iam quo sacramento iste languidus curetur a Domino. Venit enim ipse Dominus, caritatis doctor, caritate plenus, brevians, sicut de illo praedictum est, verbum super terram 22: et ostendit in duobus praeceptis caritatis pendere Legem et Prophetas. Inde ergo pependit Moyses quadragenario suo, inde Elias cum suo, hunc numerum attulit Dominus in testimonio suo.  7. 次に私たちは、この病人が主によって、どのような神秘によって癒やされたのかを見みよう。来られたのは、主ご自身、愛徳の教師、愛に満ちた方、また、ご自身についての預言されたとおり、「地上において御言葉を速やか行われる」(22)方である。そして、愛の掟の二つに律法と預言者がかかっていることを示した(マタ二二・40)。従って、モイゼは自分の40日によってこれ[愛徳の掟]にかかり、エリアは自分の[40日によって]これ[愛徳の掟]にかかる、主は自身の証言でこの数を捧げた。
Curatur iste languidus a praesente Domino; sed prius quid ei dicit? Vis sanus fieri? 23 Respondit ille hominem se non habere, a quo in piscinam mittatur. Vere necessarius erat illi homo ad sanitatem, sed homo ille qui et Deus est. Unus enim Deus, unus et mediator Dei et hominum, homo Christus Iesus 24. Venit ergo homo qui erat necessarius: quare sanitas differretur? Surge, inquit, tolle grabatum tuum, et ambula 25. Tria dixit: Surge, tolle grabatum tuum, et ambula. Sed Surge, non operis imperium fuit, sed operatio sanitatis. Sano autem duo imperavit: Tolle grabatum tuum, et ambula. Rogo vos, cur non sufficeret: Ambula? aut certe cur non sufficeret: Surge? Neque enim ille cum sanus surrexisset, in loco remansisset. Nonne ad hoc surrexisset ut abiisset? Movet ergo me etiam quod duo praecepit, qui illum iacentem duobus minus invenit: tamquam enim duo quaedam iubendo, quod minus erat implevit. この病人は現存する主によっていやされる。だが、主はまず何を彼に言うだろうか?「治してほしいか?」(23)である。彼は、自分を池に入れてくれる人がいない、と答えた。病人にはいやしてくれる人が必要だった。しかしかの人は、天主でもある。「天主は唯一であり、天主と人間との間の仲立ちも、人間であるキリスト・イエズスただ一人である」(24)。かくして、必要だった人がやって来た。なぜいやしは遅らされるのか。主は言う、「起きて、床をとりあげて歩け」(25)と。主は三つのことを語られた。「起きよ」、「床をとりあげよ」そして「歩け」である。だが、「起きよ」というのは仕事の命令ではなく、いやしのはたらきであった。そこで主は、いやされた人に二つのことを命じられる。「床をとりあげよ」と「歩け」である。あなたがたに尋ねる、なぜ「歩け」だけでは十分でなかったのか。なぜ「起きよ」だけでは十分ではなかったのか。彼はいやされて起き上がったとき、その場所に留まらなかった。この人が起き上がったのは、立ち去るためではなかったろうか。この横たわっている病人が二つのものを欠いていることをご覧になり、二つの掟をお与えになったのは私さえも感動させる。主は、いわばある二つを命じることによって、欠けていたことを満たした。
8. Quomodo ergo inveniamus in his duobus Domini iussis, duo illa praecepta significata caritatis? Tolle, inquit, grabatum tuum, et ambula. Quae sunt illa duo praecepta, fratres, recolite mecum. Notissima enim esse debent, nec modo tantum venire in mentem cum commemorantur a nobis, sed deleri nunquam debent de cordibus vestris. Semper omnino cogitate diligendum esse Deum et proximum: Deum ex toto corde, ex tota anima, et ex tota mente; et proximum tamquam seipsum 26. Haec semper cogitanda, haec meditanda, haec retinenda, haec agenda, haec implenda sunt. Dei dilectio prior est ordine praecipiendi; proximi autem dilectio prior est ordine faciendi. Neque enim qui tibi praeciperet dilectionem istam in duobus praeceptis, prius tibi commendaret proximum, et postea Deum; sed prius Deum, postea proximum. Tu autem quia Deum nondum vides, diligendo proximum promereris quem videas; diligendo proximum purgas oculum ad videndum Deum, evidenter Ioanne dicente: Si fratrem quem vides non diligis, Deum quem non vides quomodo diligere poteris? 27 

8. では、主のこの二つの命令のなかに、あの愛の掟が意味されたことを、どのようにして見いだすべきか?主は言われた、「床をとりあげよ」そして「歩け」と。この二つの掟がどのようなものか、兄弟たちよ、どうかわたしと共に思い起こしなさい。[二つの掟は]極めてよく知られているべきで、これは単に私たちが記念して心に浮かんで来るだけではなく、あなたがたの心から決して消されてはならない。常に天主と隣人を愛するべきであると考えなさい。"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を"、"隣人を自分と同じように" (26)。これら[の掟]を常に考え、これらを黙想し、これらを心に保ち、これらを行い、これらを実現しようとしなければならない。天主への愛は、掟の順序としては先であるが、隣人愛は行為の順序としては先だ。あなたに愛を二つの掟において命じるかたは、まず隣人を、しかる後に天主を[愛せよ]ではなく、まず天主を、次に隣人を[愛せよと]お命じになる。しかしあなたはまだ天主を見ていない。だから、隣人を愛することによって、天主を見るに値するようになるべきだ。隣人を愛することによって、天主を見るためにあなたは目を清める。ヨハネははっきりと言う「目で見ている兄弟を愛さない者には、見えない天主をどうして愛することができるだろうか?」(Ⅰヨハ四・二〇)と。

【この後、聖アウグスティヌスは、病の人は床によって担われ、床は病を癒やされた健康な人によって担われているから、互いに重荷を担い合えという隣人愛の掟を思わせる、そこで「床をとりあげよ」は隣人愛の掟を意味する。隣人愛は、天主へと向かっていくことだから「歩け」は天主への愛の掟を意味する、と続けています。】

5 - Cf. Ex 34, 28.
6 - Cf. 3 Reg 19, 8.
7 - Cf. Mt 4, 2.
8 - Cf. Mt 17, 1-3.
9 - Cf Rom 3, 21.
10 - Tit 2, 12-13.
11 - Cf Mt 20, 9-10.
12 - Cf. Act 1, 3.
13 - Cf. Act 2, 1-4.
14 - Mt 5, 17.
15 - Rom 13, 10.
16 - Rom 5, 5.
17 - Mc 4, 4.
18 - Mt 22, 37-40.
19 - Cf. Lc 21, 2-4.
20 - Cf. Lc 10, 35.
21 - Cf. Io 4, 40.
22 - Isa 10, 23; 28, 22; Rom 9, 28.
23 - Io 5, 6.
24 - 1 Tim 2, 5.
25 - Io 5, 8.
26 - Lc 10, 27.
27 - 1 Io 4, 20.
28 - Io 1, 18.
29 - 1 Io 4, 16.
30 - Isa 58, 7-8.


2019年2月3日(主日) 御公現後第4主日のミサ説教 シュテーリン神父様「マリア様の軍隊の有益さと、その必要性」

2019年03月18日 | お説教・霊的講話
2019年2月3日(主日)御公現後第4主日のミサ 
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


【小野田神父】
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2019年2月3日、御公現後第4主日のミサをしています。
今日は元アジア管区長、そして今は東欧管区の長であるシュテーリン神父様を迎えて、汚れなき聖母の騎士についてのお話を伺おうと思っています。
このミサの終わりに、いつものように感謝の祈りをしますが、その後に御聖体降福式、そして聖ブラジオのローソクによる喉の祝別があります。
それから神父様のお話が14時頃からあります。どうぞいらしてください。


【シュテーリン神父様】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会の総長様が私に、「汚れなき聖母の騎士の長として、このメンバーになった方々や、これから会員になろうとする方が、この会員として自覚を持って堅忍しますように、この仕事を、その会員としての仕事をやり続ける事ができますように、それを指導する」という事を、特別に総長様から任命を受けました。そこで今日、皆さんを訪問しております。

そしてここで、あるいは秋田で、皆さんの中には既に会員となった方がいらっしゃると思います。ですから私たちは、皆さんを起こしに来ました。そして同時に、全ての人々が、このマリア様の軍隊の有益さと、その必要性を理解する事ができるように、と招く為に参りました。

私は2002年にここ、まさにこの場所に来た事をまだ覚えています。その時皆さんに、コルベ神父様の業績について、仕事についてお話したのを覚えています。その時、聖伝の聖母の騎士会はまだ2年しか経っていませんでした、2歳でしかありませんでした。その時私は非常に自慢して、「その聖母の騎士には150名の会員がいる」と言いました。そして「ポーランドだけに存在している。」ところが現在では、10万名以上の会員を要しています。そして40の国々にその会員たちがいます。これは、マリア様がこれほどの大きい奇跡をなさって下さったという事を示しています。

マリア様だけが、世界中の人々に息吹を与えて、このマリア様の軍隊に入るという事ができるように、気持ちを立たせる事ができます。またこの聖母の騎士が導入されたところでは、どれほど素晴らしい結果や実りがあったかという事は、目を見張るばかりです。

学校で聖伝の聖母の騎士会が導入された所では、その校長先生や多くの先生たちが私にこう言っています、「生徒はこの会員になって、より寛大になった。より忠実になった。より従順になった」と言っています。

また家族のお父さんお母さんたちも、その事に気が付きました、「聖母の騎士に入ると、子供たちを教育するのが非常に簡単になった」と言います。現代、子供たちの教育は非常に大変です。ですからマリア様の援助が必要とされています。

それは学校のみならず、修道院や修練院や神学校でも同じ事を聞きます、「聖母の騎士会に入会した為に、神学生たちはもっと熱心になるし、もっと従順になっている」と教授たちは言っています。

また、歳をとった方々からもこんな事を聞きます、「神父様、私は聖母の騎士会の会員になってから、人生が変わりました。」私の母が、歳をとった母が私に言った事と似たような事を言っています。

母は94歳の時に、つまり2年前に会員になりました。「息子よ、私は今までずっと良いカトリック信者であると思っていた。ミサにも行っているし、お祈りもしている。ところが誰かがやって来て、『94歳になるにもかかわらず、あなたはまだ務めを果たしていません』と言ったのです。その人は、『マリア様は、あなたがマリア様を助けて、霊魂を救うのを助けるのを待っている』と言ったのです。私は人生の中で一度も、隣の人に行って不思議のメダイをあげたり、あるいはマリア様についての小さなパンフレットをあげる、という事を考えた事もありませんでした。」そして2年前から母は、電気自動車のような物に乗って、歩けないので、隣の家に行って、メダイを配ったり、マリア様のパンフレットを皆に与えて、マリア様の事を言っています。そのおかげで、「10名から15名の方が、今までミサに与るのをやめていたのが、ミサに来るようになった」と言っています。

これは私の言いたかった事は、「年は関係なく、マリア様の軍隊に入るのは、誰でも招かれている」という事です。

どれほど多くの老人の方々が私にこう言うでしょうか、「神父様、もう私の人生はもう終わりました。もう何の役にも立ちません。誰か私をピストルで撃って、地面の中に埋めるだけなのを待っています。そうしたらもう他の人の邪魔をしないで済むので。」ところが、「聖母の騎士になってから、色んな仕事が出てきました。そしてマリア様が私にくれた、悪魔へのものすごい武器があるという事に気が付きました。それは『犠牲』と『苦しみ』です。そして犠牲と苦しみなら私はたくさん持っています。私の体中はもう痛くてたまらないのですけれども、これを通して霊魂を救う事ができます。」

特に若い人々、青年たちに良い影響を与えています。若い人々はもっと寛大になって、たくさん与えようとしますし、そして戦おうという意志が出てきます。

ここにいらっしゃる若い人たちはどうか知りませんけれども、世界中での傾向は、若い人たちは何に対しても関心がありません。この世俗の若者たちのみならず、聖伝のミサに与っている若者でさえも、その気力がありません。ちょっとでもお説教が長くなると時計を見て、「まだか」という顔をします。そして少しでも宗教の話を長くすると、あくびをして大きな口を開けます。

共産主義者たちは、自分たちの陣営に多くの若者を引き寄せようと、色々なアジテーションや色々なビラを配ったりして、共産党員になるようにしたり、あるいはカリスマ運動や、あるいはその他セクトの人は、自分たちのセクトに入るように色んな勧誘活動をしますが、カトリックだけは寝ています。

特に若い男性に、「銃を持って戦え。撃て!」という事を教えるのは、とても興味がある事です。でもこの銃は殺す為ではなくて、回心させる為の銃です。弾丸、弾は「祈り」です。銃は「ロザリオ」です。そして皆さんが狙った、撃ったその相手は、多くの御恵みと聖寵を受けるので、回心するのです。

一言で言うと、聖母の騎士は、皆さん全ての為にあります。そしてポーランドから離れれば離れるほど、より多くの人が聖母の騎士に関心を持っています。オーストラリアの人々と日本人はとても大きな差があります。ロシアとアルゼンチンもすごい差があります。しかしそのような人々を皆マリア様は一つに集めて、同じ軍隊に属させています。

マキシミリアノ・コルベ神父様は生きている間、御生前中、400万人の会員を集めました。しかしこのコルベ神父様のやった事業の中で最も盛んなのは、ポーランドと日本です。ですから聖伝の聖母の騎士にとって、日本は極めて大切な場所です。歴史的な事情だけではありません。つまり長崎の無原罪の聖母の園は、歴史的な重要なモニュメントです。特にマキシミリアノ・コルベ神父様が回心させた多くの人々や兄弟たちや、そしてその与えた多くの祝福たちの事を考えると、第二バチカン公会議までずっとそれが続いていた事を考えると、霊的な意義があります。

皆さん、理解して下さい。この「聖母の騎士」というマリア様の軍隊は、他の団体とは違っています。なぜかというと、このマリア様の軍隊ほど、その色々な多様性があって、しかも色々な方々に、多くの方々に適応している、というものはこの聖母の騎士会しかないからです。

これを、この例を取って説明します。

まず第1に、天主様は私たちの永遠の命を、十字架の上で亡くなる事によって、その功徳を得ました。イエズス様が十字架の上で亡くなった時に、その御血は全ての人々、全人類を浄める価値があります。

ところで、イエズス様は私たちを強制しないので、それを望む人だけが、この恵みを受ける事ができます。では、自問自答して下さい。では、イエズス様はどうやってこの御恵みを私たちに下さるのでしょうか?

十字架の下に、マリア様が立っています。そして十字架の元に佇むマリア様に、イエズス様はこう命令して、任命します、皆さんの事を指して、「汝の子を見よ。」この瞬間にイエズス様は、御自分の勝ち取った功徳、贖いの恵みを全て、マリア様に与えました。

この功徳、この価値を、「御恵み」と言います。回心の御恵み、それから悪から出て善をする御恵みです。そして聖化の御恵みです。私たちをより聖なるものとして、天国に行くものとする御恵みです。

そしてマリア様はこの御恵みを受けて、私たちを母として愛しているので、これを与えようとしています。母は子供に、自分の持っているものを全て与えようと思っています。マリア様も同じです。ですからマリア様は、私たちの母親となりました。この地上での命ではなくて、天の命を私たちに与える、生み出す母です。でもマリア様がそれをする事ができるのは、私がそれを望んだ時に限って、それができます。マリア様は私たちを招いて、「私があなたたちの母としてある事を許して下さい。」もちろん簡単に、「はい、母となって下さい。母でいて下さい」と言う事はできます。

ところで、ただそんなに簡単ではありません。なぜかというと、母親というのは特別な存在であるからです。なぜかというと、母であるという事は、私たちが子供になる事ですから、子供は従順でなければなりませんし、お母さんを愛さなければなりません。マリア様は私たちに自由な回答を求めています。そして私たちが自由な回答をするか否かによって、マリア様が私たちの母となるかならないかが決まります。

この私たちの自由な回答というのは、自由な意志の行動でなければなりません。「私を自由に、マリア様の子供として与える」という行為です。この自由に、マリア様に私を、マリア様の子供として与えるという事を、「奉献」と言います。ですからマリア様は、この「奉献」がなされる、という事を非常に大切に思います。ミサにこの与る時に、ただこうやって自動的に与るのみならず、「一体、マリア様は私に何を望んでいるか」という事を考えなければなりません。ミサに与りながら、マリア様が一体何を皆さんに望んでおられるかという事を、黙想なさって下さい。

今日この午後、皆さんに是非説明させて下さい。私たちは天国に行く為に、天主を愛し、隣人を愛さなければなりませんが、この愛徳の掟をマリア様がどれほど実行するのを助けて下さるか、という事について話します。

そしてまた皆さんに是非この事を説明させて下さい。「奉献」という事によって、私たちはいつも「マリア様の子供である」という事を思い出して、自覚して、そしてその事を生活に実践させる事ができる、という事です。これこそが聖母の騎士です。

他のマリア様の色々なグループがありますが、このようなグループはエリートの集団です。そしてこのエリートたちから特別な多くの事が要求されています。レジオ・マリエとか、ブルー・アーミーとか、色々なマリア様の軍団があります。でもこのような、このレジオ・マリエとかブルー・アーミーに属するような人々は、カトリック信者のほんの数%です、2、3%ですが、でもマリア様は皆さん全てから、何かの参加を求めています。

これが今のお説教の最初に申し上げた事です。このマリア様が求めているこの参加する、軍隊に参加する事によって、私たちの聖化がどれほど易しくなるか、身分上の義務を果たす事がどれほど容易になるか、そして私たちがどれほど熱心になるか、という事がもう目に見えています。天主様がこれほど易しい、簡単な天国への道しるべを与えたという事は、素晴らしい事です。

ミサの時にどうぞ、「イエズス様がマリア様に与えたそれほどの大きな愛を、私たちにもお与え下さいますように」とお祈りして下さい。そしてマリア様にも、マリア様が御子イエズス様に持っておられたその愛のその大きな愛を、私たちにも与えて下さるようにお祈り致しましょう。

そしてマリア様に、「私たちのこの胸に来て下さって、イエズス様が一体どなたかを教えて下さい」と求めて下さい。

そしてこの聖変化の時には、マリア様にぜひ、「私たちの目をカッと開けさせて頂いて、今、一体何が起こっているかを理解させて下さい」と求めて下さい、祈って下さい。

そして特に御聖体拝領する時には、マリア様に私たちの心に来て下さって、マリア様の名前によって、マリア様のようにイエズス様を礼拝し、そして愛する事ができるように求めて下さい。最高の御聖体拝領というのは、マリア様のような御聖体拝領です。なぜかというと、マリア様が私たちの心にいて、イエズス様をマリア様のように受け入れて、マリア様のように愛して、マリア様のように保存して、そしてマリア様のようにイエズス様の命を生きる事だからです。

もしも皆さんが正しいやり方でするならば、マリア様への奉献という事は、私たちの人生を全く変えてしまいます。これこそ、この今日皆さんの為に、私がお祈りする御恵みです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年2月2日(初土) 御聖体降福式での黙想 「喜びの玄義 第4玄義」

2019年03月16日 | お説教・霊的講話
喜びの玄義 第4玄義の黙想
(2019年2月2日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)


『喜びの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母が潔めの式に与り、主を聖殿に捧げ給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、掟を守る徳をこい願わん。』

御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、15分間、ロザリオの15玄義の黙想を致しましょう。今日のテーマは自由に選んで下さい。今日は御潔めの祝日でもありますので、もしもお望みの方は、聖母が御潔めの式に与り、主を神殿に奉献し給いたるを黙想致しましょう。

イエズス様がお生まれになって40日後、今から2000年前、マリア様はヨゼフ様と一緒に、エルサレムの神殿にやって来ました。掟を守る為、モーゼの規定に従って生贄を捧げる為、一番いの鳩を捧げる為に。単純で、そして飾り気のない姿で、ヨゼフ様とマリア様は、イエズス様を抱きかかえて、律法を果たす為にやって来られました。

他方、神殿では、老人聖シメオンが、聖霊の導きに従って、救い主の到来を待っています。聖シメオンは聖なる、主を畏れる男で、聖霊によって、「主キリストを見るまで死なない」と約束されていました。祈りと犠牲、断食を以って、イエズス様の到来を準備してきました。何年も、何十年も。

それと時を同じく、アセル族の聖アンナ。若いうちに寡婦となって、何十年も祈りと断食をして、救い主の到来を待ち、また待ち望んできた、信心深い女性。

二人は、イエズス様が来られたのをすぐに認識します。私たちもその場にいます。その聖シメオン、あるいは聖アンナの、イエズス様との出会いを目撃します。

マリア様に抱かれたイエズス様を見つけた時の、シメオンの喜び、驚き。何はともあれ、マリア様に近付きます。マリア様に、イエズス様を見せてもらうように、抱かせてもらう事ができるように、お願いします。

「おぉ、今より、主のしもべを逝かせて下さい。なぜなら私の目は、御身の準備した救いを見たからです。4000年、人類の待望していたメシアをこの腕で抱いています。主の憐れみを受け取りました。この方こそ、この世を罪から救う方です。地獄の門に打ち勝ち、人類を天国に導く方です。御身が準備された救い主、異邦人を照らす光、イスラエルの栄光。遂に来られた、遂に御生まれになった、王の王、救い主。」

「マリア様、聖母の汚れなき御心、私も今日、御降誕から40日後、イエズス様を待ちわびて、この御聖堂にやって来ました。マリア様、御身の汚れなき御心は、イエズス様の御行動を全てその心に秘めて、全ての秘密をお持ちです。今日、司祭の手を通して、世の光であるイエズス様を、その象徴であるロウソクを受け取りました。イエズス様の御体を御聖体で受け取りました。マリア様、御身の御心を、イエズス様への愛を、イエズス様の深い知識を与えて下さい。マリア様が愛を込めてイエズス様をお抱きになっているように、イエズス様を愛を込めて抱く事ができるように許して下さい。その御恵みを与えて下さい。」

「イエズス様、イエズス様は極めて幸せそうにお見えになります。マリア様の元に居るのが一番好きなように見えます。いつもマリア様の元から離れたくないように思えます。御身を抱くのをお許し下さい。私もマリア様に抱かれる事ができますように、御身の横にいるのをお許し下さい。」


2019年2月2日(初土) 童貞聖マリアの御潔めの祝日 説教 「ローソクと行列、御潔めの祝日の意味」

2019年03月15日 | お説教・霊的講話
2019年2月2日(初土)童貞聖マリアの御潔めの祝日のミサ
小野田神父 説教


【ロウソク行列の前の説明】
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は童貞聖マリア様の御潔めの祝日です。ミサの前に、ロウソクの祝別と、ロウソク行列があります。

簡単に説明をします。
この「ロウソク」というのは、「イエズス様」です。そして今日私たちはシメオンとなって、聖殿において、主の、人となった天主の憐れみを受け取ります。このロウソクを持って、この御聖堂から出て、一周回ってからまた戻ります。それは、「この地上での、イエズス様と共にこの地上で生活して、天国にまた行くのだ」という意味です。
では儀式が始まります。

【説教】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の御潔めの祝日です。そこで、この御潔めの祝日の中に深く入る事に致しましょう。
この御ミサが終わりましたら、初土曜日ですので、短い御聖体降福式があります。そこで初土の信心を致しましょう。
またこのミサは特別に、亡くなったパウロさんの霊魂の為に捧げられています。

今日の御潔めの祝日には、2つの重大な、重要な要素があります。

1つは、御降誕から始まって、人類が救い主を迎え受けたという、人類が救い主と出会ったという事が、今日クライマックスになります。

御降誕の時には、救い主イエズス様、人となった全能の天主、救い主、約束されたメシアは、マリア様と聖ヨゼフ様、そして選ばれた野宿していた羊飼いたち、牧場の牧者たちに知らされました。少数の人々に知らされました。

御公現には、エルサレムがそれを知りました。光の町として輝いて、そして異邦人の人々も群れをなして、ラクダを連れて、お土産を持って、預言された通り、救い主を拝み、礼拝しにやって来ました。

そして今日、選ばれた民の熱心な人々に、そして私たちの手に、私たちの心に、救い主がお越しになります。そればかりではなく、私たちはその救い主を持って、教会の外を回りました。そして「救い主は真に生まれた。私たちの元にいる」という事を証して、また天国の象徴であるこの御聖堂に戻ってきました。入祭誦で、戻った時に入祭誦でこう歌いました、「教会の真ん中で、人となった天主の憐れみを、私たちは受けた。」

私たちがロウソクを受けたという事は、ちょうどシメオンがイエズス様を、神殿の真ん中で、救い主だと認めてマリア様の手から受けたように、「私たちは確かに、救い主を受けた。」そして行列の最中の時には、“Adorna thalamum”「だから私たちは主と一致した。天主イエズス様は私たちの花婿、私たちは花嫁で、イエズス様と私たちはこれでこの出会いを受けて、もう決して離れる事がないように、その花嫁の部屋をさぁ飾れ。そして王であるキリストを受ける準備をせよ、受けよ」と歌います。

そう歌いながら私たちは、この世の人々にイエズス様の光を照らしながら、人々に言います、「私たちの救い主は来られた。王であるキリストを受けよ。私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、私たちの寝室にイエズス様が入るように、それを綺麗に飾れ。」

ちょうどこの私たちがロウソクを受けたのは、また洗礼の時に受けたロウソクを思い出させます。教会は私たちに毎年1回、このロウソクの、御潔めのロウソクを受けさせて、「イエズス様を受けた」「イエズス様の花嫁になった」「イエズス様の子供になった」という事を思い出させます。「悪魔の支配の手から逃れて、天主の子供となった」という事を思い出させます。「そしてその事を世の人々に知らせるように」と招いています。

こうして今日私たちが書簡書で読んだ、マラキアの預言が実現した事を記念します、「支配者が来るだろう。すぐに来るだろう。そして契約の使者が神殿に来るだろう」という事を、「それが実現した」という事を私たちは記念します。確かにイエズス・キリストは、預言を全て成就された御方です。

第2の要素は、最初クリスマスの時には私たちは、「世の光であるイエズス様がお生まれになった」という事を祝いましたが、それは馬小屋で照らされていました。
そしてこの光は今度は御公現の時には、エルサレムを照らします。
ところが今日は、御降誕から40日後のお潔めの時には、光である新しい光、栄光の光の王であるイエズス様は、全世界を輝かせようと、全世界に光ろうと御望みになります。

そのイエズス様の光は、真の真理の光は、愛徳の光は、憐れみの光は、全世界を輝き出さなければなりません。これがイエズス様の御望みです。それがこの典礼の光がますます広がっていく様子を表しています。ですから私たちは今日、ロウソクをただ受けたのみならず、それを持ってこの世を輝かし出しました。

この2つの要素を見ると、私たちはどんな事を今日は思わなければならないのでしょうか?

よく考えてみると、イエズス様の御望みというのは、「御自分が真の救い主であるという事を世に知らせて、そして多くの人が、できれば全ての人が、その光を受け入れて、その光を認めて、天国にへと入る」そして「イエズス様が御血を流された全ての霊魂たちが、イエズス様を花婿として自分の寝室に迎え入れて、イエズス様をお愛しする、イエズス様を救い主として、その御血の潔めを受ける、その御血によって罪を赦される」それを御望みであるという事が分かります。「その真理の光が、愛の光が全世界に輝かされる」という事を御望みであるという事がよく分かります。

そしてその為にイエズス様は、私たちをお使いになりたいと思っているのです。つまり、私たちは道具にならなければなりません。

カトリックの司祭を見て下さい。カトリックの司祭は、単なる道具にすぎません。なぜ単なる道具かというと、カトリックの司祭がいくら逆立ちをしても、いくら何をしても、イエズス様の御恵みがなければ、何もする事ができません。いくら綺麗な話をしても、イエズス様の御恵みがなければ、人の心に響くところはありません。いくら綺麗な祭服を着て、いくら綺麗な言葉を話しても、御恵みがなければ、イエズス様が働かなければ、超自然の命を与えて下さらなければ、何もできません。ですから道具にすぎません。

しかしイエズス様は、この道具がなければミサをする事もできないし、道具がなければ洗礼を授ける事も、あるいはイエズス様の御言葉を伝える事も、あるいはこの道具がなければ、御聖体として私たちと共に居る事もできません。この道具を通して、霊魂を救おうと、永遠の命を救おうと思っています。ですからイエズス様は、非常に深い知恵を以って、この儚い人間というものを使って、永遠の命を救おうと御望みになりました。

もしもこの道具が、「イエズス様の仕事をするのが嫌だ!」と言えば、それによって永遠の地獄に落ちてしまう人が存在します。この道具が道具として使われるのを拒否したが為に、救われない人々もいるという事です。それにもかかわらず、その道具を使う事を御望みになりました。

もしも私たちが、「このロウソクを持って行くのは、ちょっと嫌だ」と言えば、その光を見ない人がいます。それと同じように、私たちに道具になるように御望みになっています。ちょうど私たちはピアノのオルガンのようです。イエズス様が演奏者ですから、素晴らしいオルガニストです。世界最高の音楽を演奏する事ができるオルガニストです。しかし素晴らしい最高のオルガニストも、オルガンがなければ何もする事ができません。どうしてもオルガンが必要です。どんなに安いものでも、鍵盤だけでも、最高の何百万円もするようなものでなくても、ちゃちなものでも必要です。

もしかしたら私たちは、道具としてあまりにも惨めで、みすぼらしくて、本当なら半音の黒い所が欠けていたり、あるいはちょっと音が外れている鍵盤もあるかもしれませんが、しかし最高のオルガニストであるイエズス様は、その音が外れているのもよく知っているので、どこが外れているか、どこが無いかを知っているので、あたかも最高のオルガンであるかのように弾く事が、演奏する事ができます。

イエズス様の能力は、どのような、この世の目から見るとスタンダードから見ると、「何でこんな道具を?」というようなみすぼらしいものを使って、最高の作品を、最高の結果を出す事ができるほどのアーティストであって、演奏者であって、そしてその道具を支配する事ができる使う事ができる有能な天主です。

しかしそれにもかかわらず、どうしても道具が必要なのです。唯一私たちに求められている事は、「道具となる」という事を、「イエズス様の御望みのままに使われる」という事をイエズス様が、ちょうど私たちが、典礼が要求するように、「さぁ、外に出て行列をしなさい」と言えば、「はい」と言って、そのままやったように、イエズス様が御望みのように、私たちがする、それだけが必要です。

いつも「道具である」という事を自覚していなければなりません。しかし私たちの本性はあまりにも自分中心なので、非常にしばしば、そしてすぐに私たちは「道具である」という事を忘れてしまいます。あたかも自分がやっているかのように、あたかも自分が中心であって、自分が、ピアノの演奏家よりもピアノの方が価値があるかのように、何の為に存在しているかを忘れてしまいます。ちょうど花瓶がお花の為にあるのだけれども、でもお花の事は全く忘れて、みすぼらしい花瓶が偉ぶっているかのようです。演奏者があまりにも素晴らしいという事を忘れて、半分壊れたようなオルガンが偉ぶっているかのようです。

しかし、私たちがいつも「イエズス様の道具である」という事を思えば思うほど、「素直であろう」と思えば、「従順であろう」と思えば思うほど、「イエズス様の御望みを叶わせよう」と思えば思うほど、私たちはその道具として素晴らしい結果を、多くの霊魂を光り輝かす事ができますし、そしてそれに感動を与える事もできますし、イエズス様へと引き寄せる事もできますし、イエズス様の平和と喜びを伝える事ができます。

つまり私たちは、「イエズス様の道具となる」というものすごい栄誉を持っている、という事です。考えてもみて下さい。もしも日本の特命大使として、日本の名前の為に、何か日本政府によって特別に依頼されて、任命されて外国に行って、あるいはトランプ大統領に会った、あるいは他の人と会った、「日本の特命大使です。政府からそれを受けてます。」何という名誉でしょうか。私たちはその大使として、特別の依頼を受けています。イエズス様の、王の王である救い主の大使として、この道具として、イエズス様の名前によって、イエズス様御自身を、私たちではなくイエズス様を輝かせるように、イエズス様を運ぶように。

もちろんミサの前に行列するのは簡単でしたが、「それを、私たちが天国に行く日まで、 イエズス様を持って、イエズス様の光と愛の炎を輝かせながら、この地上を歩きなさい。いつもイエズス様の道具である事を意識しなさい。」素晴らしい使命を与えられています。

今日、私たちはシメオンとなりましたから、このイエズス様を決して離す事なく、天国に行く日まで、この光を守らなければなりません。

その秘訣は、マリア様です。マリア様は終わりまでこのようになさいました。マリア様が私たちを助けて下さいますように、汚れなき御心のマリア様に、それができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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