Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 2月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】

意向:日本のため、日本におけるカトリック教会のため
実践すべき徳:天国を得たいという燃えるような望みと希望
守護の聖人:ルルドの聖母

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 2月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    2月2日(初金) 童貞聖マリアの御浄め(2級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ローソクの祝別式とローソク行列  ミサ聖祭

    2月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月11日(主) 五旬節の主日(2級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月12日(月) 証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者(3級祝日)白
            午前9時 ロザリオ及び告解 
            午前9時半 ミサ聖祭     ←時間が変更になりました

    2月16日(金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月17日(土) 四旬節の平日(3級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月25日(主) 四旬節第2主日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月26日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前6時 ミサ聖祭 ←時間が変更になりました

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    2月4日(主) 六旬節の主日(2級)紫  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    2月5日(月) 【日本】日本26聖人殉教者(日本固有 2級祝日)赤 
            午前7時 ミサ聖祭

    2月18日(主) 四旬節第1主日(1級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月19日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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「本質」とか「定義」という言葉の意味

2007年08月31日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、

 天主の不可変性について、カトリック教会はどのように考えているかで、

「創造主」ということは、天主の「定義」ではありません。天主の「本性」でも「本質」でもありません。創造しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。

あるいは、

「托身」ということは、天主の「定義」にはありません。天主の「本性」にも「本質」にもありません。托身しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。

と書きましたが、今回は「本質」とか「定義」という基本的な言葉の意味を見てみます。

【本質】

(1)この世界には何かが動き変化して存在しているということは確実で、感覚によって確認される現実です。これは<私>の心(あたま)の中でだけそう思っているだけではなく、<私>がそう思おうと思わないと、<私>のこころの外の現実としてあることです。

(2)例えば、ふとハエが飛んでいるのが見えた、犬が吠えているのが聞こえたとします。ハエは私にとって邪魔者でありうるさいものであり、犬は私にとっては、自分の飼っている大好きなペットなのかも知れません。ハエの研究をしている人にとっては研究対象であり、犬の遠吠えは研究の邪魔なのかも知れません。「誰にとって」という様々な観点から、いろいろな回答が出来るかも知れません。

(3)しかし、私たちが何を思おうが、どのような意見を持とうが、ハエはハエとのみ交尾をしてハエを生み、犬はその種を保ち続けます。では、この或るものにとって究極のところ何か?という問いをすれば、今ここでの例の答えはまさに「ハエ」であり「犬」です。この「何か?」に対する答えを「実体」といいます。そして、実体をあらしめて規定しているそれは、本質(essentia)といわれます

 ここで例を出します。

 例えば【例1】、アテネのアロペケ区の出身で、父ソプロニスコスと母パイナレテの子として生まれ、母は産婆で、妻はクサンチッペと言う悪妻であったこと。ポテイダイア(前433年―432年)、デリオン(前424年)、アムピポリス(前422年)の三戦闘に従軍し、評議会(Boule)の委員会だったとき提督たちが違法に一括裁判にかけられることにただ一人反対し(前406年)、サラミスのレオンを拉致する命令を無視して正義を守った(前404年)こと、前399年に刑死したこと。彼は何も書き残さなかったこと。・・・
 これはソクラテスという名前を持った男に起こったことです。

 【例2】1894年1月8日、ポーランドのドゥンスカボラで生まれたこと。コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、司祭となったこと。1927年にはワルシャワの近くに聖母の騎士修道院を創立し「聖母の騎士」という小冊子を発行したこと。1930年に来日し、長崎にて「聖母の騎士」誌の出版を開始したこと。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男の身代わりとなって1941年8月14日死亡したこと。

(4)しかし、いちいち言わなくても分かっていることがあります。それが「これは人間である」と言うことです。これが「実体」です。

 「これが何であるか?」ということと、「これが誰であるか?」ということは、全く別の答えを要求します。【例1】で、これは誰であるか? と問われれば、普通は(人類の歴史上に同じようなことをした人が他にいなければ)ソクラテス答えます。【例2】で、これは誰であるか? と問われれば、はやり普通は聖マキシミリアノ・コルベと答えます。

 しかし、山の中に猟に出て、熊に出会ったと思われた時、「あれは何だ? 人か? 熊か?」という「何か?」という問いも存在しています。この問いは「誰か?」という問いとは全く別のものです。繰り返しますが、「何であるか?」ということと「誰であるか?」「どのようであるか?」「どうあるか?」「いかにあるか?」ということは違うのです。

 「何か?」という問いの答え「実体 substantia」に対立するもの(=「誰であるか?」「どのようであるか?」「どうあるか?」「いかにあるか?」など)は、実体にたまたま偶然にそのような性質が有るという意味で「遇有」 accidentia とか、実体にそのような性質が付属・付帯しているという意味で「付帯性」ともいいます。


【定義】

(5)定義(definitio)とは、一般にそのものがそのうちに含まれる類にそれを限定する種差を加えることによって与えることが出来ます。

 例えば「人間とは何か?」という問いに対して、例えば人間の定義を与えようとすれば、人間がそれに含まれているその上のグループ(類)である「動物」と、そのグループに属するもの中から人間に固有の違い(種差)である「理性・論理をもつ」とを付け加えて、「理性的動物」ということが出来ます。

 従って、一般に定義されるものは何らかの類に含まれるものでなければなりません。

(実は、正確を期すと、天主はいかなる意味でも類にも含まれるものではありませんから、そしていかなる種差もないので、天主の「定義」はないのです。くわしくは『神学大全』第1部第3問第5項をご覧下さい。)

 人間が人間であるということは、お母さんの胎内で命を宿ったその瞬間から、最後の息を引き取って心臓が止まるまで同じ人間です。その人が何をしようが、何を着ようが、どのような国に生まれようが、背が高かろうが低かろうが、人間として変わることがありません。たとえ今、現に、実際に(=現実態において)言葉を話せない胎児であったとしても可能態において理性・論理を使うことが出来るものとして、人間は、人間の「本質」を持っているからです。そして「本質」とは、それ自体としては普遍性のエレメントにあるものです。


(6)ここでもう一つ別の考え方があります。ものの定義とは、そのものについて語られ述べたてられうる全ての述語を集めたものだ、とする考えです。

 これは「本質」ということを誤解し、形容矛盾なのですが「個物に特有な本質」があると考えてしまうことから由来します。たとえば、「ソクラテスの本質」ということは、通常は「ソクラテスにおける普遍的なもの、つまり<人>という種の本質」を意味します。しかし、この別の考え方によれば、「例えばプラトンやアリストテレスなどの本質から区別されたソクラテスという個体に独自な本質」ということを意味すると誤解してしまうことです。

 もちろん「人が真に誰であるかはその人の全生涯を通して語られる」という「誰か?」「どのようにあるか?」という、「何か?」とは全く異なる次元もあります。これは、例1、例2でも示された通りです。「あの人は勇敢だった、優しかった」と述語されることを全て述べたてる次元です。

 もしそのように誤解すると、「定義」という内容の答えとして、主語と述語との間でイコール関係が成り立つように「付帯性・遇有性」を全て答えればよい、とする考えることになります。

 ところが、或る個体にかんして知りうることすべてのことがらを集めつくすことは、私たちには不可能です。何故なら、例えばソクラテスはその生が終わった後でも、おそらく世の終わりまで影響を与え続けるでしょうし、ソクラテスに限らずいかに卑近な個体であっても、私自身であっても、それについて私たちが知っていることは、過去現在未来にわたってこの個体に起こった・起こることがらの全体から比べれば、僅かなものに過ぎないからです。ただ天主のみに完全に知られているだけで、私たちにはその個に属することがら全体から比べれば、問題にならないほど微々たるものです。

 もしも、これが「定義」 definitio だとすると、今、この世界にある個体の何かは、天主にのみ知られ、私たちには定義を与えることが出来なくなります。何故なら私たちにはイコール関係が成り立つような完全な述語を与えることが出来ないからです。

 例えば人間は数年前に月に行きましたが、それも人間の「定義」に入ることになります。もしそうだとすると、私たちは世の終わりまで、いえ、人間が人間であることを止める日がもしあるならその日が来るまで人間が何か分からなくなるでしょう。何故なら、今後、いかなることが人間に起こるか分からないからです。

 もしもこの考えを推し進めていくと、結局、個体は天主の個体に関する知の、この世界における具体化ということになってしまうでしょう。この地上にある個体は、天主の知のにおいてある「個体の知解内容」が「托身」したもの、天主のうちにある「本質」が、歴史的に生起し、天主の「本質」が歴史的に徐々に完成していく、という思想に陥ってしまうでしょう。ギリシアにはこれに似た考えがありました。プラトンのイデア論です。そして、この考えに従えば、一種のキリスト教的プラトニズムになってしまうでしょう。

 さらに、もしもこれが「定義」 definitio だとすると、人は何かをする度に定義が変わることになってしまいます。個体は歴史を通して「本質」の現実の絶え間ない過程にある、ということになってしまいます。

 つまり「ソクラテスの本質」に、ソクラテスの具体的生涯が属しそれを構成している、ということになってしまいます。例えば、ソクラテスは、あの時アテネで焼き鳥を食べた、あそこで水を100cc 飲んだ、などという些細な極めて具体的なことが「本質」に属することになってしまいます。

 更に推し進めると、ものの定義はコロコロ変わる、ということです。これはどういうことでしょうか? 「定義が変わる」ということは、普通に考えると「そのものが変わる」ということです。「定義が変わる」ということは、つまり全ては変わる・変化する・進化するということであり、変わらない真理は存在しないということになってしまいます。これは問題です。何故なら、真理は歴史によって徐々に進化するということなってしまうからです。

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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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天主の不可変性について、カトリック教会はどのように考えているか

2007年08月30日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 天主の不可変性について、もう一度カトリック教会が何をどのように考えているかを復習してみましょう。


(1)どのような結果であるにせよ、結果というのは原因に以前するものであるから、結果が存在するということは原因が先在することは必然です。

(2)ところで、この世界には何かが動き変化して存在しているということは確実で、感覚によって確認される現実です。これは<私>の心(あたま)の中でだけそう思っているだけではなく、<私>がそう思おうと思わないと、<私>の<こころ>の外の現実としてあることです。

(3)ところで、動き変化するということは、或る状態や場所から別の状態や場所に変わることですから、動き変化するということは、それへと向かって動き変わることが出来る状態(可能態)であるからこそ変わることが出来るのです。

(4)しかし、変わることが出来る状態であるというだけでは変わったことにはなりません。動き変化するということは、まだそうではないけれども動き変わることが出来る状態(可能態)から、それへと変わる結果の状態(現実態)へと変わることです。

(5)しかし同じものが同じ観点のもとで、同時に「まだそうではない」し「もうそうである」ということはできません。例えば、火は同じ意味、観点のもとで、現実に熱いけれども、同時に、まだ熱くないことはありえません。

(6)従って、同じものが同じ観点のもとで、同時に「現実態にある、動かし変化させるもの」であり「可能態にある、動かされ変化させられるもの」でもあるということはできません。従って、動き変化するということは、実際にそれへと変わる結果の状態にすでに現実にある(現実態)ものが、その変わることが出来るものを変える必要があります。つまり、動き変化しているものは、他者によって動かされ変化を蒙っているのです。

(7)こうして「動かし動かされ」という「可能態-現実態」の系列を遡ることが出来ます。しかしこの系列を無限にたどることは出来ません。何故なら、無限にすすむということは第一の何か動かすものが存在していないということだからです。もしもそうであるなら、今、変化して動いているものは無いことになるからです。そこで、他者によって動かされない第一の動かす究極の原因・根拠を措定しなければならなくなります。

(8)そしてこの動かされず第一に動かすものは、「在ることもあらぬ事も出来る可能性」(偶然性)に対する「無ければならない必ずあるべき」(必然性)原因であって、いかなる偶然・可能性をも排除した純粋な完成・現実態にあります。私たちはこれを天主と呼びます。

(9)従って、天主にはいかなる変化もありません。天主は不変です。

さて、

(A) 天主は天地万物を無から創造しました。

 「創造する」とは、天主がものごとの全存在を与えることです。ものごとは、創造されて初めてこの世に現実にあるようになります。その前はありません。「創造される」とは、「無い」から「ある」へと変化することです。ただし、創造による変化は、冷たいから熱いへと動くようなその基体を前提とするようなものではなく、これ無しにはいかなるものも有り得ない・実在し得ない、基体の存在も無かった、という絶対的な変化です。

 全ての被造物は、存在する前においては、何らかの被造的能力(内在する能力)において存在可能なものだったのではありません。ただ天主がそれらを「在る」へと産出することが出来たという意味において、ただ天主(という他者に内在する)の能力によってのみ、被造物は存在可能なるものだったのです。ものごとを存在に産出することは、全く天主の自由意志によるものでしたし、ものごとを存在のうちに保つこともまた天主の自由意志によります。

 被造物から見ると、「創造された」ということは、絶対依存の関係であり、最高度に実在的な関係です。

 しかし、天主から見ると、天主は天地万物を創造したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。天主は、この世の現実を創造する義務も必然性もありませんでした。創造しないことも可能であったし、また別の世界を創造することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、今、私たちがここにいる世界を自由に選んで、無から在るへと自由に創造しました。

 「創造主」ということは、天主の「定義」ではありません。天主の「本性」でも「本質」でもありません。創造しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。


(B) 今から2007年前、天主の御言葉は、托身し給い人間となりました。

 「托身する」とは、天主の第二のペルソナである御言葉が人間性を受容することです。

 これは人間本性から見ると、人間が天主性と合体したことであり、托身は、人類全体、さらに被造の世界全体に重大な実在的変化を生じさせました。

 しかし、天主から見ると、天主は托身したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、2007年前ベトレヘムで生まれることを自由に選んで、天主でありながら自由に人間性を取り托身しました。しかし、それによって天主の御言葉にも、天主三位一体にも、いかなる変化が生じることも在りませんでした。

 「托身」ということは、天主の「定義」にはありません。天主の「本性」にも「本質」にもありません。托身しようがしなかろうが、天主は天主であるからです。


(C)天主が人間となるということ、これはものすごい出来事です。 人類の歴史、いえ、被造の歴史における画期的な出来事です。真の天主が真の人間となったという、この信仰に、全キリスト教信仰は立っています。

キリスト教の核心とは何か? キリスト教創立以来、一貫して変わらない信仰箇条の本質は何か?


 しかし、天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ました。このことについて説明します。

 托身する(天主が人となる)とは、天主として永遠にあった・ある天主のペルソナが、時間的世界において人間本性を受容し、人間として存在し生活し活動することです。

 ところで、天主の三つのペルソナは、同じ一なる天主であり、その能力は等しく全能です。天主の三つのペルソナは天主の本性を共有しています。つまり本性の次元に属することは共有しうるのです。従って、聖子にできることは聖父にもでき、聖霊にも出来るはずです。つまり、聖子とは別のペルソナも、人間本性を受容するというはたらき(operatio)の主体となることが可能なはずです。何故なら、受容のはたらきの根源は天主の全能であり、天主の能力は自由だからです。

 つまり、天主は、聖父が人間となる、聖子が人となる、聖霊が人となるという三つの可能性に対して、共通に無差別に関わっており、この可能性の何れをも選ぶことが出来たはずだからです。聖父が人間となろうがならまいが、時間的世界のことがらに全く関係なく、聖父は聖父であり、また、聖霊が人間となろうがならまいが、時間的世界のことがらに全く関係なく、聖霊は聖霊であり、天主におけるペルソナの発出は永遠に行われているからです。天主の永遠の発出において、聖父、聖子、聖霊が関係し合うことと、そのうちのあるペルソナが托身することとは、全く別の次元に属する問題であるからです。(くわしくは、聖トマス・アクィナス『神学大全第三部第三問第五項』を参照のこと。)

 また、天主の三つのペルソナは、同じ一なる天主であり、天主の三つのペルソナは天主の本性を共有しています。つまり本性の次元に属することは共有しうるのですから、人間本性という本性の次元に属するものである限り、人間本性をも共有しうるはずです。従って、同一の人間本性を天主の三つのペルソナが共通に受容することも出来るはずです。受容された人間本性が本性の次元に留まる限り、これは不可能なことではありません。(『神学大全第三部第三問第六項』を参照のこと。)

 さらに、一つのことまでは出来るけれども、それ以上のことは出来ない、ということはその一つのことに限られた能力しか持たないことになります。しかし天主の能力は無限で、何か被造のものに限られることはあり得ません。従って、天主のペルソナは、その本性において天主そのものですから、天主のペルソナの能力も無限です。天主の能力が無限である以上、天主のペルソナはただ一つの人間本性を受容しうるのみならず、二つ以上の、いくつもの人間本性を受容しうるはずです。(『神学大全第三部第三問第七項』を参照のこと。)

 天主の立場からすれば、天主の能力は無限であり、その選びの可能性は無限です。しかしその無限の可能性の中から、天主の自由の意志に基づいて、三つのペルソナのうち特に、天主の第二のペルソナ、すなわち天主の聖子であり御言葉のペルソナが、ただ一つの人間本性、すなわちイエズス・キリストの人間本性だけを受容しました。この現実に選ばれた御托身は、天主の本能的にプログラムされていたものでもなく、天主が三位一体であるが故に可能になったことでもなく、天主の本性の必然性の結果によるのでもなく、天主の自由な意志に基づく天主のお恵みなのです。天主本性の全能の無限性を前提とする限り、特に聖子が托身する必然性はなく、また天主が人間なる必然性すらなく、全く天主の自由の行為であったのです。


 また、それと同時に、三位一体の本質は一でありますから、そのはたらきも一です。つまり、天主三位一体の三つのペルソナは、それぞれ個別にはたらくのではなく、常にはたらきを共にし、分かたれることもなく一緒に一つのはたらきをします。人間本性を受容するというはたらきは、天主そのものに由来します。従って、受容するというはたらきを起こすものは三つのペルソナ全体であって、そのうちの一つだけがはたらき、その他のペルソナははたらかないということはありません。天主の御言葉が人間となり給うたとき、依然として三つのペルソナが共にはたらいているのです。つまり三つのペルソナがはたらいて、一つのペルソナが人間本性を受容するようにしたのです。

 だから、公教要理にはこうあるのです。

84 「聖霊によりてやどり、童貞マリアより生まれた」という第三箇条は何を教えますか。

【答え】使徒信経の第三箇条は、天主の御ひとり子が、聖霊の御力によって、処女マリアの清らかな御胎内で、人間の体と霊魂をおとりになり、お生まれになったことを教えます。

85 御父と御子もイエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造に参与されましたか。

【答え】イエズス・キリストの御体の形成と御霊魂の創造には、天主の三つのペルソナが一緒に参与されました。

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トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会


【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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地球と宇宙について:トマス・クーン、ホイル、ローレンツ、ハッブル、ホーキングなどの言葉

2007年08月23日 | 私たちが今ここで生きている宇宙
アヴェ・マリア!

【参考資料】幾つかの科学者の言葉を引用します。

トマス・クーンThomas Samuel Kuhn, July 18, 1922 - June 17, 1996) の言葉

「月は黄道(ecliptic)の周りを太陽よりも早くそして太陽よりは少なく恒常的に移動する。平均して月は黄道(Zodiac)を27日半かけて一巡りする。しかしこの一周に要する時間は毎回平均して7時間ほど異なる。・・・新月は29日あるいは30日の間を経て起こるが、月の体系的な観察と研究を数世代することを求める複雑な数学的理論のみが、特定の将来の月(month)の長さを決定することができる。その他の困難は、月と太陽の平均周期の測定することのできない長さから由来する。」
(The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought pp. 46-47 より)

「しかしコペルニクス体系によるこの見かけ上の単純化は、これは新しい天文学の推進者が強調することがほとんど成功した虚偽宣伝の勝利であるが、大部分は幻想である。『天体の回転について』(De revolutionisbus)の最初の本においておよびコペルニクス体系の多くの近代的基礎的説明において提示された37個の円弧体系は、素晴らしく単純化された体系であるが、しかしそれは使い物にならない。これはプトレマイオス体系によって出される正確さと比較できるような正確さで惑星の位置を予言することはできない。」
(The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thought p. 169 より)

「コペルニクス体系は、プトレマイオス体系よりも単純でなければ、より正確でもない。」
The Copernican Revolution: Planetary Astronomy in the Development of Western Thoughtp. 171 より

(日本語訳:常石敬一訳『コペルニクス革命――科学思想史序説』紀伊國屋書店, 1976年/講談社[講談社学術文庫], 1989年)ISBN 4-06-158881-8)


フレッド・ホイル(Sir Fred Hoyle, 1915年6月24日 - 2001年8月20日)の言葉

「大空の2つの最も顕著な天体、すなわち太陽と月と(の正確な周期性を知ること)が、私たちがその他の惑星に行く前に、最大の困難の原因である。」
(Fred Hoyle, Nicolaus Cpernicus: An Essay on his Life and Work, 1973, p.53 as quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong p. 39)

「プトレマイオス体系の地球中心説(天動説)は、アリスタルコスの太陽中心説(地動説)よりも成功したものだったということを証明してきた。コペルニクスが出てくるまで経験はコペルニクスとは別のことを示していた。実にコペルニクスは、プトレマイオスと肩を並べる前は、長い年月の激しい闘いをしなければならなかった。最終的に、コペルニクスの説はプトレマイオスの説を遙かに上回るということはなかった。」
(Fred Hoyle, Nicolaus Cpernicus: An Essay on his Life and Work, 1973, p.5 as quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong p. 45)


ヘンドリック・アントーン・ローレンツ(Hendrik Antoon Lorentz, 1853年7月18日 - 1928年2月4日)の言葉

「短くいうと、あたかも地球は動いていないかのように全ては起こっている。」
("On the Influence of the Earth's Motion on Luminiferous Phenomena", 1886, as quoted in Arthur Miller's Albert Einstein's Special Theory of Relativity, p. 20 quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong p. 70)


エドウィン・パウエル・ハッブル(Edwin Powell Hubble, 1889年11月20日 - 1953年9月28日)

このような条件は、私たち(=地球のこと)は宇宙において唯一の位置、ある意味で中心にある地球という古代の概念に似た位置を占めているということを意味する。・・・この仮説は論破することができない。しかしそれは歓迎されない考えであり、現象を救うために最後の手段としてのみ受け入れられることである。従って、私たちはこの可能性を考慮しない。・・・特別に恵まれた場所(=宇宙の中心という位置)という歓迎されない位置は、どんな犠牲を払っても避けなければならない。・・・このような恵まれた位置は耐えられない。・・・従って、均一性(homogeneity)を復興させるために、そして唯一の位置という恐ろしさを避けるために、宇宙のゆがみによって補足されるべきである。それより他に逃れ道がないようである。」

(The Observational Approach to Cosmology, 1937, pp. 50, 51, 58, quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong p. 88)


□ ハッブルの後、人間の造った望遠鏡において、ありとあらゆる種類の興味深い対象と力とが発見されてきた。すなわちクェーサー(準恒星状天体)、ガンマ線、エックス線バースト、宇宙的背景の電子波放射(cosmic background microwave radiation)、銀河の広域な構造、そして星団(star clusters)である。世界中の科学者の驚くことは、新しい領域における新発見のそれぞれは、ハッブルの時と同じ情報を明らかにしている。つまり地球がそれら全ての中心に位置しているということである。クェーサーを専門とするオッタワ大学の宇宙物理学者 Yatendra P. Varshni の言葉を借りると「地球は正に宇宙中心にある。クェーサーの幾つかの天界の層(spherical shell)における配置は、地球にのみ関連している。これらの層は他の銀河やクェーサーから見た場合には無くなってしまうだろう。このことは宇宙論的原理もそれにともなわなければならないということである。またこのことは地中に固定された座標軸が宇宙における良き好まれる参照基準(preferred frame of reference)であるということである。従って、特殊相対性理論および一般相対性理論は宇宙論のために放棄されなければならない。」 (Yatendra P. Varshni, Astrophysics and Space Science, 43:3, 1976, p.8)
(Robert Sungenis' Galileo Was Wrong pp. 88-89)


スティーヴン・ウィリアム・ホーキング(Stephen William Hawking 1942年1月8日 - )の言葉

「宇宙はどの方向を私たちが見ても同じであるというこのこと全てが明らかなことは、私たちのいる位置が宇宙で何か特別な場所であるということを暗示しているように見えるかも知れない。私たちが他の銀河が私たちから遠くに離れつつあることを観察しているのなら、私たちが宇宙の中心に立っているにちがいないかのように思えるかもしれない。・・・しかし別の説明の仕方がある。宇宙は他の銀河から見られてもどの方向も同じように見えるのかも知れない、ということだ。これは既に述べたようにフリードマンの第二の前提である。私たちにはこの前提に賛成するあるいは反対する科学的証拠はない。私たちはただそれが慎ましい(modesty)からこう信じるだけだ。」
(A Brief History of Time, 1988, p. 42. quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong pp. 139-140)


ジョナサン・カッツ(Jonathan. I. Katz)の言葉

「今日に至るまで、数千のバーストを観測し、その反対を証明しようと誠実に多くの努力を払ったにもかかわらず、ガンマ線バーストの方向において均一でランダムな配布から外れることをまだ納得いく形で証明することができていない。」
(Jonathan. I. Katz, The Biggest Bangs: The Mystery of Gamma-Ray Bursts, The Most Violent Explosions in The Universe, Oxford U. Press, 2002. pp. 84. (sample file) quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong pp. 151)

「(ガンマ線)バーストの到達方向が均一に分配されていることは、私たちに次のことを語っている。つまり宇宙におけるガンマ線バーストの根源は天球層(sphere or spherical shell)にあり、私たちがその中心にいるということである。・・・しかしコペルニクスは私たちに、私たちが宇宙において特別の待遇を受けた場所にいないということを教えてくれた。つまり地球は太陽系の中心ではなく、太陽は銀河の中心ではない、などと続く。私たちがガンマ線バーストの配布の中心にいるということを信じる理由はないことになる。もしそうであって、私たちの観察器具が宇宙空間のバーストを充分に捕らえる能力を持っているのなら、バーストの配分は均一(isotropic)であってはならないことになる。しかしこれは観察事実に反している。もしも私たちの観察器具がそれほどの能力を持たないものだとすると、N ∝ S-3/2 の法則が保持されなければならなくなる。しかしこれは観察事実に反している。これがコペルニクスの二律背反である。
(Jonathan. I. Katz, The Biggest Bangs: The Mystery of Gamma-Ray Bursts, The Most Violent Explosions in The Universe, Oxford U. Press, 2002. pp. 90-91. (sample file) quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong pp. 150)

「天文学者たちはもはやより精密なデーターによってコペルニクスの二律背反が立ち消えになるとは期待していない。そのようなデーターは手元にあり、その意味することからは逃れられない。つまりデータは私たちがガンマ線バーストの根源の天球層の対称的配布の中心にいる、そしてこの配布には限界の縁(outer edge)がある、この縁を越えると、バーストの根源の密度はゼロまで減少する、と示している。」
(Jonathan. I. Katz, The Biggest Bangs: The Mystery of Gamma-Ray Bursts, The Most Violent Explosions in The Universe, Oxford U. Press, 2002. p. 111. (sample file) quoted in Robert Sungenis' Galileo Was Wrong pp. 152)

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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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【参考資料】自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の反応

2007年08月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

【参考資料】自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の反応

兄弟姉妹の皆様、
 Youtubeにこんな動画があるということを教えて頂きました。

ご参考までにどうぞ。

自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の反応

自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の反応その2
(ちなみにこれはものすごく浮かれてます。作った人もよっぽど嬉しかったのでしょう。)

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【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』


【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出
小さきものよ,われに来たれ
神との親しさ(6)
収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察 by ソルジェニーツィン
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「キリストにならいて」の「艱難の利益」

2007年08月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 今日は「キリストにならいて」の第一巻、第十二章「艱難の利益」の黙想を提案します。

12 艱難の利益
Cap. 12. De utilitate adversitatis.

1. 時々苦しみや艱難にあうのは、私たちにとって良いことである。そのときになると、自分がこの世をさすらう人間である、そしてこの世のどんなものも頼りにならないと、しみじみ反省する。時々、人から反対され、よい意向や行為が誤解され、または充分理解されないのも、よいことである。それは私たちを謙虚にし、虚栄心から守る役に立つからである。私たちは、人から軽べつされ、悪評をうけるとき、良心の内部的な証人として、もっと熱心に、天主を求めるものだ。
1. Bonum nobis est, quod aliquando habeamus aliquas gravitates et contrarietates, quia sæpe hominem ad cor revocant, quatenus se in exilio esse cognoscat, nec spem suam in aliqua mundi re ponat. Bonum est quod patiamur quandoque contradictiones, et male et imperfecte de nobis sentiatur, etiamsi bene agimus, et intendimus. Ista sæpe juvant ad humilitatem, et a vana gloria nos defendunt. Tunc enim melius interiorem testem Deum quærimus, quando foris vilipendimur ab hominibus, et non bene de nobis creditur.

2. 人は、人間から慰めを求める必要を感じないほど、つよく天主のうちに根を張らねばならない。善意の人は、苦しめられ、誘惑され、よこしまな考えに悩まされるとき、まず天主によりたのむ必要を痛感し、天主の助けなくしては、どんな善もできないのだとさとる。そのときこそ、悲しみ、嘆き、いま忍びつつある不幸を思って祈る。またそのとき、もはや、これ以上生きながらえるのを、つらいことだと感じ(コリント後1・8)、肉体の束縛をたちきって、キリストとともに生きるために(フィリピ1・23)死が来ることをのぞむ。またそのとき、完全な安らぎと、充実した平和は、この世にないことを、はっきりと知るのである。
2. Ideo deberet se homo totaliter firmare, et non esset ei necesse multas consolationes quærere. Quando homo bonæ voluntatis tribulatur vel tentatur aut malis cogitationibus affligitur, tunc Deum magis sibi necessarium intelligit, sine quo nihil omnino se posse testatur. Gemit et orat pro miseriis quas patitur. Tunc tædet eum diutius vivere, mortem optat venire, ut possit dissolvi, et esse cum Christi. Tunc etiam bene advertit securitatem et plenam pacem in mundo non posse stare.

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「キリストにならいて」第1巻ラテン語
11「平和を求めることと、奮発心に進むことについて」
14「性急な判断をさけるべきこと」
16「他人の欠点をしのぶことについて」

キリストに倣いて(第2巻 第1章より)
キリストに倣いて(第2巻 第2章より)
キリストに倣いて(第2巻 第5章より)
キリストに倣いて(第2巻 第6章より)
キリストに倣いて(第2巻 第7章より)
キリストに倣いて(第2巻 第10章より)
キリストに倣いて(第2巻 第11章より)

キリストに倣いて(第3巻 第3章より)
キリストに倣いて(第3巻 第4章より)
キリストに倣いて(第3巻 第5章より)
キリストに倣いて(第3巻 第6章より)
キリストに倣いて(第3巻 第7章より)
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聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈

2007年08月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 今日は、一九六二年の聖伝のミサ典書によると、聖母の汚れ無き御心の祝日です。

聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈


 いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民を御身の汚れなき御心に奉献し、そのすべてを御身の保護に委ね奉らんと欲す。

 願わくは聖母、慈しみの御まなざしもてわれらの心をみそなわし給え。

 ああ、人々真理にうとく、その心くらみ、罪の汚れに染み、諸国はまた互いに分かれて相争い、天主の霊威を傷つけ、御身の御心を悲しませ参らするなり。

 されどわれら日本国民は、ひたすらに光をしたい、平和をこいねがうものなれば、願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。

 願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
 かくて、われらは同胞、相互にたすけはげまし、諸国は正義と愛のきずなもて結ばれ、もって世界は、とこしなえに平和を楽しむにいたらんことを望む。
 願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。
 天主の聖母、われらのために祈り給え。
 キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
 祈願 全能永遠なる天主、主は童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは、御あわれみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン

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성 비오 10세회
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会


【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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教皇様ご自身が来たる待降節第一主日に聖伝のミサを捧げるそうです

2007年08月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 【参考資料】ベネディクト十六世教皇様ご自身が、来たる待降節第一主日に聖伝のミサを捧げるご予定だそうです。詳細は次の記事をご覧下さい。

El Papa celebrará la misa tradicional
El Papa oficiará una misa según el rito tridentino
El gesto dará gran solidez al mensaje del motu proprio de Benedicto XVI.


El papa Benedicto XVI podría celebrar en público una misa según el rito tridentino de San Pío V. Ello podría ocurrir en primer domingo de Adviento, es decir, cuatro semanas antes de la Navidad, e incluso podría darse en San Pedro.



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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

2007年08月18日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
 今月も兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 

(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ五世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、「トリエント公会議ミサ」「公会議前のミサ」(カトリック新聞の表現による)・・・などとも呼ばれています。)

■何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』

■何故なら、聖伝のミサは、ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡によって確認された通り、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭だからです。

■ 聖アルフォンソ・デ・リグオリの言葉
「ミサは教会でもっとも良いものであり最も美しいものである・・・悪魔は常に、異端者達を通してミサをこの世から取り除こうと常に努力してきた。そうすることによって彼ら異端者達は、反キリストの先駆者となった。・・・

S. Alfonso Maria de Liguori
Messa e officio strapazzati

     <2007年8月の予定>

【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

17日(金)午後5時半 証聖者聖ヒヤチント(3級祝日)白
18日(土)午前11時  聖母の土曜日(4級)白

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

18日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
19日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  聖霊降臨後第十二主日(2級)緑

     午後2時半  8月の霊的講話は、カトリック教養講座として、聖母の汚れなき聖心のミサ聖祭のグレゴリオ聖歌や、アベマリアなどの聖母のグレゴリオ聖歌の練習を予定しています。
     午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

20日(月)午前7時 教会博士大修院長聖ベルナルド(3級祝日)白
21日(火)午前7時 寡婦聖ヨハンナ・フランチスカ・フレミオ・ド・シャンタル(3級祝日)白

それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/


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聖ピオ十世会韓国のホームページ
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エキュメニズムの問題点の核心:イエズス・キリストが真の天主か否か

2007年08月14日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

 エキュメニズムの問題点の核心:イエズス・キリストが真の天主か否か


 創世の書には、主なる天主は蛇に向かってこう言われた、とある。
「おまえと彼女の間に、またおまえの子孫と彼女の子孫との間に、私は敵対をおこう。彼(ヴルガタ訳では彼女)は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとを噛むであろう。」

 天主が置いた敵対。救い主とサタンと間の敵対。キリストと反キリストと間の敵対。これには和解が不可能である。「対話」も「寛容」も「政治的配慮」もこれを解消することが出来ないだろう。

 救い主は生まれた。「みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。・・・ すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。・・・みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。」

 救い主が生まれて四十日後、シメオンはその子をだき、天主を賛美していった。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります。・・・この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」

 イエズス・キリストが真の天主か否か、ここに全ての核心がある。

 聖パウロはこう叫ぶ。「私、パウロは、自筆で、あなたたちに挨拶をおくる。もし主を愛しない者があれば、のろいあれ。マラン・アタ。」

 聖ヨハネはこう言う。「小さな子らよ、最後のときである。あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが、今や多くの反キリストがあらわれた。これによって、私たちは、最後の時が来たことを知る。・・・いつわりの者はだれか?イエズスがキリストであることを否定するものではないか?おん父とみ子とをいなむ者、それこそ反キリストである。み子をいなむ者はおん父を持たず、み子を宣言する者は、おん父をももっている。」

 イエズス・キリストが天主であることを否定するもの、彼は反キリストであり、いにしえの蛇の子孫だ。


 もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、カトリック教会は正しい真の宗教である。

 もしも、イエズス・キリストが真の天主であるなら、現行のエキュメニズム運動はイエズス・キリストを暗に否定することであり、全く虚しい。

 何故なら、現行のエキュメニズム運動は全ての宗教に同じ価値があるということを意味しているからだ。どんな宗教によってでも、救霊を非常にうまく達成することができるだろうということを意味しているからだ。「カトリック教会が唯一の教会でありそれだけが真理を所有し、カトリック教会だけがイエズス・キリストを通して人々を救霊に導くことが出来る」ということの暗黙の拒否だからだ。そのときイエズス・キリストの教会は単に便利なものではあったとしても、もはや必要不可欠なものではなくなってしまうからだ。

 しかし、真理はイエズス・キリストこそ真の天主であり、これを通さずには私たちは救われないということだ。だからこそ初代教皇である聖ペトロは、イスラエルの人々にこう言った。「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」


 もしも、イエズス・キリストが天主であることを知らないなら、政治的な理由により「対話」や「寛容」を試みている人々のことを私たちは、何も非難しようとは思わない。願わくは教皇様が、初代聖ペトロが言ったのと同じことを言われますように!「くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、聖霊のたまものを受けるでしょう。」

 しかし、イエズス・キリストが天主であることを知りつつ、それを暗に或いは公然と否定する人々が、あるいは私たちの主イエズス・キリストが天主であることを公然と説かなければならない高位聖職者たちが、イエズス・キリスト以外のものに祈り、希望しようにいう時、私たちは何と言えばよいのか。


「人類は、2つの相対立する陣営に別れている。この2つのうち、一方は真理と徳のために戦い、他方はそれの反対すべてのために戦っている。一方はイエズス・キリストの本当の教会であり、…他方はサタンの王国である。」(教皇レオ13世は、回勅 Humanum Genus )

「かくて2つの愛が2つの国を築いた。天主を蔑む自愛は地の国を、自己を卑しむ天主の愛は天の国を築き、前者は自らを誇り、後者は主において誇る。」(アウグスティヌス『神の国』第14巻28章)

 私たちは、イエズス・キリストが天主であることを知りながら、イエズス・キリストを否定することは出来ない。天主の御恵みと御助けによってそのようなことから私たちが守られますように!
聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れ無き御心よ、弱き我らを憐れみ助け給え!

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聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会


【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】1970년 개혁 이전의 로마 전례 사용에 관한 베네딕토 16세 교황 성하의 자의 교서 「교황들」(Summorum Pontificum)
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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【参考資料】シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書:第二バチカン公会議ですべきこと

2007年08月13日 | 第二バチカン公会議
アヴェ・マリア!

【参考資料】シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書

WHAT VATICAN II SHOULD HAVE DONE!
Bishop Sigaud's Letter to Cardinal Tardini
より

兄弟姉妹の皆様、
シゴード司教のタルディーニ枢機卿への意見書をご紹介します。

 シゴード司教(Archbishop Geraldo de Proenca Sigaud, S.V.D.
+Sep 5, 1999 Died
.)は、1959年8月22日付けの手紙で、第二バチカン公会議の準備のために次のような書簡をタルディーニ枢機卿に送った。それは第二バチカン公会議が何を討論すべきか世界中の司教様たちからその要望を知らせてほしいという要請に応えるためだった。


枢機卿様、

 私はこのお手紙を、来るべき公会議で討論されなければならないことについて私の意見を聞かれた枢機卿様の6月18日のお手紙に従順に答えるために書いています。・・・

 私が現在、祖国と世界の他の部分でのでのカトリック生活を考察すると、命のしるしである多くのことを見ることができます。そしてそれらはキリストの教会を愛するすべての霊魂たちにとって慰めの源です。しかし同時に、私は大きな危険信号であるしるしをも見ています。これらは重大であって、公会議の準備委員会によってそして後には公会議によって考慮されるべきだと考えています。

 私には、革命と呼ばれる原理と精神が聖職者とキリスト者たちに浸透しているのが見えます。ちょうどこれは、過去異教の原理と教えと精神と愛が中世社会に浸透していき、偽りの改革【ルターの宗教改革のこと】を引き起こしたのと似ています。

 多くの聖職者達は、もはや革命の誤りを見分けることを知らずそれに抵抗しません。中には革命を理想として愛し、それを喧伝し、それと協力し、自分の使徒職を邪魔するものもいます。彼らは革命の反対者たちを迫害し、その悪口を言います。極めて多くの牧者たちは沈黙を守っています。革命の誤りと精神に同化し、この精神をオープンに或いは隠れて励ますものもいます。これはジャンセニズムの異端の時代に牧者たちがしたのと全く同じことです。誤謬に対して立ち上がって反対するものは、同僚から迫害を受け、「非妥協主義者」とレッテルを貼られます。

 革命の理想で頭がいっぱいになった神学生たちが神学校を卒業して出てきています。それは聖なる都市であるローマでも同じことです。彼らは自分たちのことを「マリタン主義者」とか「テイヤール・ド・シャルダンの弟子」「社会主義カトリック」「進化論者」と自称しています。革命に反対して戦う司祭は、ほとんど司教となることがありません。しかし革命を支持する人びとは頻繁に司教となっています。

 私の意見として、教会は革命に反対する組織的な闘いを世界中で組織するべきです。これがなされるようになるかは私には分かりません。しかし、革命家たちはそのように行動しています。この組織化され体系化された全世界でのはたらきの例として、第二次世界大戦直後の同時的そして均等的な「キリスト教民主主義」の誕生があります。・・・


1 教会の敵

 教会とカトリック社会の、疲れを知らない敵【悪魔】は、既に六世紀にわたり道徳的闘いにおいて廃退させています。ゆっくりとしたしかし体系的な前進において、敵はカトリックの秩序、つまり天主の国をほとんど全て転覆させ破壊してしまいました。そしてその天主の国の代わりに、人間の国を創ろうとしています。この新しい国の名前は「革命」と言います。


 人間生活の秩序を造ろうとして、天主の無い・教会の無い・イエズス・キリストの無い・啓示の無い社会と人類、人間理性と官能と欲望と傲慢の上にのみ気づかれた社会を目ざしています。これに到達するため、既にあるものごとを根本的に引き倒し破壊し尽くし、教会の場所を占めなければなりません。敵は、勝利が近づいていると知っていると確信しているので、最近は極めて活動的になっています。しかしながら、多くのカトリック牧者たちは、これらの考察を、悪い想像から来た多くの夢物語であるかのように馬鹿にして拒否します。これは悲惨の数年前のコンスタンチノーポルの住民たちが取っていた態度でした。彼らは危険を見ようと望まなかったので目が見えなくなっていました。


A フリーメーソンのセクト

 全公会議の目は、フリーメーソンのセクトにむけられるべきです。フリーメーソンの哲学は啓示と対立していると宣言した教皇様の言葉、フリーメーソンをカトリック社会に反対する戦争の中心的武器であると告発した教皇様の言葉はまだ有効です。クレメンテ十二世がこのフリーメーソンのセクトのプログラムが何かを指し示しましたが、その結果を二百年後に見ることができます。このプログラムの幾つかの要素はまだ欠けています。しかしこれは偉大な知性と邪悪さとエネルギーと論理とで後押しされています。そして大きな速度で実現しようとしています。いまでは「人間の国」の建設にほとんど足りないものはありません。「地上の王たちの会合」において教会にはあと何年残っているのでしょうか? 「新世界秩序」を世界と信徒たちに強制するとはあと何年の後のことでしょうか?


 私は全世界的なカトリック秩序に反対する陰謀とその陰謀の来るべき勝利(天主が教会を奇蹟によって守り給わない限り、そして天主が私たちの疲れを知らないはたらきによってそのような奇蹟を準備し給わない限りおこるだろう勝利)に関することの極めて重大な証拠に枢機卿様の注意を向けたいと思います。

 この紙切【アメリカの一ドル紙幣のこと】を良くみると何が見えるでしょうか?



 右の丸の中に、広い荒野の上に立てられたピラミッドが見えます。ピラミッドは、磨かれた四角の石でできています。これらのシンボルの意味は、ラテン語で書かれた言葉によって与えられています。「新世界秩序」Novus Ordo Seculorum です。このピラミッドは、フリーメーソンによって敬われている人間たちによって構成されている新しい人類を意味しています。これらの人間たちは、天主によって創られましたが、宇宙の偉大なる建築家によって変化を受けました。ピラミッドのそこは、この新世界秩序の基礎が置かれた年を示しています。つまり1776年であり、アメリカ合衆国の誕生の年です。

 アメリカ合衆国は従って、この新しいフリーメーソン的な人類の基礎です。ピラミッドにはまだ幾つか石が欠如しています。新世界秩序はまだ完成されていません。しかしほとんど完成に近づいています。その間、仕事は遂行されるでしょう。ピラミッドの頂上には「神」が描かれています。創造主であるイエズス・キリストの聖父なる天主ではなく、グノーシス的な神、建築家です。これが三角形の中の目で表されています。これはグノーシス的なマニ教的二元論の領域であり、フリーメーソンのセクトの神学的基礎をなしています。この「神」は彼らの事業を承認しました。このことがピラミッドの上に書かれています。Annuit coeptis 彼はその事業を承認した。

 この寓話の意味は極めて明らかです。私たちにとって新世界秩序は、1959年前に私たちの主イエズス・キリストによって創立されました。ここで問題になっている新秩序は、1776年に始まり、その構成は創造された自然とは反対しています。この秩序はすぐに完成するでしょう。

 この問題は、教会にとって生きるか死ぬかの問題です。フリーメーソンの秩序は、カトリックの秩序とは対立します。極めてすぐに、フリーメーソンの秩序は全人類を覆うことでしょう。しかしそれにも関わらず、カトリック司教や司祭たちは、このことに気づいていません。そして多くの聖職者達はこれに沈黙を守っています。・・・
(後略)

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「奉献なしにはロシアは回心することができず、また世界も平和を持つことがない」

2007年08月11日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、
 カトリック新聞 2007年8月12日付(3919号)の第1面は、「世界から宗教者2000人 平和模索し共に祈る 比叡山宗教サミット20周年記念」の記事が掲載されています。

====引用開始====

1987年に行われた「比叡山宗教サミット」の20周年を記念し、「世界宗教者平和の祈りの集い」(主催・日本宗教代表者会議)が8月3日と4日、国立京都国際会館と滋賀県・比叡山延暦寺を会場として開かれ、海外18カ国からの代表を含め、約2000人の宗教代表者が集まった。・・・

 3日は「和解と協力」をテーマに国際会館で記念講演とシンポジウムを行った。オープニングで、内戦の傷跡が残るボスニア・ヘルツェゴビナと、被爆地である広島の子どもたちが登場し、「未来には7つの大陸がひとつになって、境界線がなくなったら素敵」など、平和への望みと、未来に望む地球の姿を絵とメッセージで表した。

 続いて日本の仏教、キリスト教、神道、新宗教などの各教派教団でつくる「日本宗教代表者会議」の議長を務める矢田部正巳神社本庁総長が歓迎のあいさつをし、教皇ベネディクト16世や国連のバン・キムン事務総長からのメッセージも紹介された。

 記念講演はキリスト教とイスラムから。教皇庁諸宗教対話評議会議長のポール・プパール枢機卿のメッセージを同事務局次長、フェリックス・マチャド神父が代読。「宗教は対立の中で対話させる責任がある」と訴え、小さなところから始める「相互尊重の文化」の促進を呼び掛けた。

 サウジアラビアのイスラム教徒、アブドゥーラ・アルレヘダン氏は、イスラムには寛容を表す伝統があることを説明、「アラーの慈悲は人種や肌の色にかかわらない、イスラムも平和の建設のために貢献できる」と語った。

 この後、各宗教代表者によるシンポジウムが行われ、カトリックからはナイジェリアのイグナティウス・カイガマ大司教が登壇、アフリカにおけるさまざまな対立・紛争の厳しい状況を説明、不公平な分配は大きな貧困を生むが、全体的な経済発展が安定を生み平和につながると訴えた。また時には宗教よりもサッカーへの熱狂が、人種や宗教を超えて国民を1つにすることも紹介した。


人質事件解決を

 3日の終わりには、今回のサミット参加者一同としてアフガニスタンの韓国人人質事件に関し緊急声明を発表。「希望なきところに希望を与える」宗教の本来的意義をもって早期解決を真摯(しんし)に願うと訴えた。

「対立と憎悪」から  「和解とゆるし」へ

 4日は、「諸宗教間の対話と協力―紛争和解から平和構築のために」「自然との和解と共生―宗教者は地球環境保全のために何ができるか」という2つのテーマに別れフォーラムを開催した。そ後、比叡山延暦寺に移動し、根本中堂前広場で「世界平和祈り式典」を開いた。

 ワールドピースベルアソシエーションから各国の硬貨などで鋳造された「平和の鐘」が贈られ、その除幕式が行われた。新しい鐘の音に合わせ参加者一同は一致協力して平和のために働くよう祈念した。
 各宗教による祈りがささげられ、最後は参加者たちが折った海と陸を表す青と白の折鶴で透明な球体を満たし、平和な地球の象徴とした。まとめに「比叡山メッセージ」が読み上げられ、「民族と宗教の違いが敵・味方を峻別する装置に追いやられる」世界において、「対立と憎悪」を「和解とゆるし」に変えていけるよう、いっそう働くことを一同で誓った。

====引用終了====

【コメント】
 私たちは、この世界は罪によって傷つき、罪のために本当の平和が破壊されていることを知っています。何故なら、罪こそは天主に反対する戦争であるからです。

 人類はかつて天主なき統一世界を夢想してバベルの塔を創り天にまで到達しようとしました。結果は失敗でした。人類の分裂が更に深まっただけでした。

 天主は、2007年前に、私たちのために本当の世界統一を始めました。新しい世界秩序を打ち立てました。新の平和への道を教えました。私たちはこれに従わなければ新の平和を得ることができません。これがキリストの唯一の神秘体です。つまりカトリック教会です。

 しかし全世界ではカトリック教会の警告を無視して、例えば堕胎という戦争が「人権」として世界中が合法化されています。メキシコでもそうなりました

 真理の宗教を知らない方々が、真の天主であるキリストを知らずに祈る、これはどうしようもありません。しかし、カトリック教会の指導者が「サッカーへの熱狂」が「国民を1つにする」と喜んでいるのには、何と言えばいいのでしょうか? 

 ピオ十一世教皇様は、回勅『モルタリウム・アニモス』のなかで、すでにユートピア的統一宗教を夢想する人々のことを警告していました。ピオ十一世は、ユートピア的エキュメニズム推進者の主張を次のように引用します。

 『たとえ最も古くからの論争であれ、教義の違いであれ、今日までこれらの教会を分裂し続けているものは、忘れ取り去らねばならない。更に別の教義上の真理とともに、共通の信仰の確かな基準を提示し、築き上げなければならない。この信仰宣言において、彼らは自分たちが知る以上に、互いが兄弟であると感じるようになるだろう。更に、さまざまな教会や共同体が、一度、全世界的な一種の連邦を結べば不敬虔の進歩に対抗して力強く勝利を勝ち取るとるために戦うことができるようになるだろう。…』 と。

 私たちは、ただ黙って、このエキュメニズムの運動に従っていいのでしょうか? カトリックの全伝統と歴代の教皇様の教えに逆らうこの運動に。私たちに本当の平和を与えるのは、青と白の折鶴ではありません。

 シスター・ルシアは1957年フエンテス神父とインタビューをし、こう語っています。私たちはここでシスター・ルシアの警告を思い出します。

 「神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」

 「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。」

 天主を忘れた人類はますます残酷になっています。しかし、こんな私たちに、1917年ファチマの聖母は素晴らしい約束を下さいました。

 もしロシアが汚れなき御心に奉献されるならば--
・汚れなき御心は勝利するでしょう。
・ロシアは回心するでしょう。
・多くの霊魂は地獄から救われるでしょう
・そして平和の一時期が人類に与えられるでしょう

 しかし、「もしそうでなければ、[ロシアは]戦争と教会への迫害を引き起こしながら、全世界にその誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は大いに苦しみ、さまざまの国が絶滅させられるでしょう。」(1917年7月13日)とも警告されました。

 もしロシアが汚れなき御心に奉献されないならば--
 ・ロシアは全世界にその誤謬を広めるでしょう、
 ・戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら。
 ・善人は殉教するでしょう。
 ・教皇は大いに苦しむでしょう。
 ・そしてさまざまの国が絶滅させられるでしょう。

 そして今、私たちが目にしているのは、エキュメニズム、諸宗教の一つの世界兄弟愛、そして国連を通じての平和というヴァチカンの新政策、世界が暴力と道徳的悪化へと急降下、ロシアの回心の失敗などです。

 世界の平和のため、多くの霊魂が救われるために、私たちには何が必要か、聖母マリアは1952年5月にシスター・ルチアにこう言われました。

 「教皇様に、わたしが汚れなき御心へのロシアの奉献を常に待っているということ、奉献なしにはロシアは回心することができず、また世界も平和を持つことがないだろうということを知らせなさい。」

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

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【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』


【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出
小さきものよ,われに来たれ
神との親しさ(6)
収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察 by ソルジェニーツィン
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自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。

2007年08月11日 | エキュメニズム関連情報
アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、

 カトリック新聞2007年8月12日付(3919号)の記事について、コメントを付け加えます。

 聖ピオ十世会は、宗教統一運動(エキュメニズム)のリストの中には入っていません。何故なら、カトリック教会内の内部問題(an internal matter of the Catholic Church)だからです。

◆ ベネディクト十六世教皇様はそう言いました。
「これは、教会の中心における内部的和解に至る問題です。」

It is a matter of coming to an interior reconciliation in the heart of the Church.

◆ エキュメニズム真っ盛りの最近、ある方が、「キリスト者の一致のための教皇庁立委員会」の委員長のエドワード・カッシディー枢機卿(Edward Cardinal Cassidy )様に、聖ピオ十世会について、1994年3月25日付けの手紙で質問しました。枢機卿様は、1994年5月3日付けの手紙の中でこう答えられました。原文を掲載します。

May 3, 1994

Dear Sir, .... Regarding your inquiry (March 25, 1994), I would point out at once that the Directory of Ecumenism in not concerned with the Society of Saint Pius X. The situation of the members of this Society is an internal matter of the Catholic Church. The Society is not another Church or Ecclesial Community in the meaning used in the Directory. Of course the Mass and Sacraments administered by the priests of the Society are valid. The Bishops are validly, but not lawfully, consecrated.... I hope that this answers your letter satisfactorily.

「某様、・・・1994年3月25日のあなたのご質問に関し、聖ピオ十世会は宗教統一運動(エキュメニズム)のリストの中には入っていません。この会の会員の状況はカトリック教会内の内部問題に過ぎないのです。聖ピオ十世会は、このリストの中でつかれて言う意味においての別の教会や別の教会的団体ではないのです。もちろん、この会の司祭によって執行されているミサは秘蹟は有効です。司教達は非合法ですが有効に聖別されています。・・・私はこの手紙があなたのお手紙に十分答えたととと期待します。敬具。エドワード・カッシディー枢機卿:委員長」

 私たちは、カトリック新聞 2007年8月12日付(3919号)の記事にエキュメニズムの本質が見えていると思います。つまり、聖伝との断絶、カトリックの過去はダメ、カトリック聖伝以外ならなんでもOK、ということです。


 では、何故カトリック教会内の内部問題(an internal matter of the Catholic Church)が生じてしまっているのでしょうか? 

 何故なら「第二バチカン公会議は、教会内のフランス革命だった」(スーネンス枢機卿)から、公会議において「教会は十月革命を起こした」(コンガール神父)からです。

 ベネディクト十六世も、ラッツィンガー枢機卿時代に「第二バチカン公会議は、反シラブスであった」と告白しました。

 そして教会内部の大革命のまっただ中で、革命を引き留めようとして命をかけて聖伝を守った男がいるから、革命にとって内部問題が生じたのです。

 何故、彼が革命に参加しなかったというと、彼は教会から離れたくなかったからです。何故なら、過去と断絶してしまうこと、これこそ離教でありカトリック教会ではなくなってしまうことであるとよく知っていたからです。

「私たちは教会から離れたくありません。その全く反対です。私たちは、カトリック教会を続けたいのです! 自分の過去と断絶してしまった教会、それはカトリック教会ではありません。・・・ 将来、真理が再び明らかになることでしょう。私たちはそれを確信しています。それ以外では有り得ないからです。天主様は、ご自分の教会をお見捨てにはならないからです。」
(ルフェーブル大司教 ジュネーブにおいての説教1978年5月15日)

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聖ピオ十世会韓国のホームページ
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韓国カトリックでのベネディクト十六世の自発使徒書簡Summorum Pontificumは?

2007年08月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 韓国でのベネディクト十六世の自発使徒書簡Summorum Pontificum

 兄弟姉妹の皆様、韓国ではベネディクト十六世の今年の7月7日の自発書簡がどのように受け入れられているかをご紹介します。

● 例えば、韓国では天主教大田教区庁、あるいは天主教仁川教区庁などがベネディクト十六世の自発使徒書簡(韓国語で「自意教書」)の韓国語訳とそれに伴う司教たちへの書簡を公示事項として発表しています。

● 韓国人司祭も自分のブログに自発使徒書簡と司教たちへの書簡をアップしています。たとえばオ・ヨアン神父のブログなど。
1970년 개혁 이전의 로마 전례 사용에 관한 「교황들」(Summorum Pontificum)

● 大田教区は、アレアハングル形式の添付ファイルで自発書簡の韓国語訳をアップしています。

 日本の司教さまたちは今後も無視をし続けるのでしょうか?

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「キリストにならいて」の「平和を求めることと、奮発心に進むことについて」

2007年08月10日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 多数の兄弟姉妹の皆様が「キリストにならいて」の引用を喜んで下さり、私も大変うれしく思います。

 そこで今日は次の11章の黙想を提案します。

11 平和を求めることと、奮発心に進むことについて
Cap. 11. De pace quærenda, et zelo proficiendi.

1. 私たちが、他人の言葉やおこない、また自分にかかわりないことに、気をつかわないなら、私たちはふかい平和を知るだろう。他人の問題にかかわりあい、外からの気晴しを求め、自分の内に心をひそめることが、ごくまれか、あるいはごく少ない人が、どうして、長く平和に生きられよう?単純な人々は、さいわいである。かれらは、ゆたかに平和をうけるからである。
1. Multam possumus pacem habere, si volumus nos cum aliorum dictis et factis quæ ad nostram curam non spectant non occupare. Quomodo potest ille in pace die permanere, qui alienis curis se intermiscet, qui occasiones forinsecus quærit, qui parum vel raro se intrinsecur colligit? Beati simplices, quoniam multam pacem habebunt.

2. どうして聖人たちは、あれほど完全になり、あれほど、観想にふけることができたのだろうか?それは、かれらが、地上的なのぞみを、全くおさえようと努めたからである。そうしたから、かれらは、全心をあげて、天主に一致し、自分の内心のことに、自由にたずさわれるようになった。私たちは、自分の欲望にしばられすぎ、世俗のはかないことに、気をつかいすぎる。私たちは、一つの悪にさえ、なかなか勝てない。そして、日々完徳に進もうという確たる決心がないので、いつも冷たく生ぬるい。
2. Quare quidam Sanctorum tam perfecti et contemplativi fuerunt? quia mortificari omnino ab omnibus terrenis desideriis studuerunt, et ideo totis medullis cordis Deo inhærere, atque sibi libere vacare potuerunt. Nos nimium propriis occupamur passionibus, et de transitoriis nimis sollicitamur. Raro nam vitium unum perfecte vincimus, et ad quotidianum profectum non attendimus, ideo frigidi et tepidi remanemus.

3. 私たちが、自分自身を全くぬぎすて、内部的などんな束縛も切りすてるなら、そのときには、天主のこともいくらか理解でき、天主の観想を味わうこともできるだろう。唯一最大のさまたげは、欲望と世俗的な望みとから脱けきれず、聖人の完全な道に入ろうと、努力しないことである。ちょっとした障害にあうと、私たちはもろくも落胆し、人間からの慰めを求めてしまう。
3. Si essemus nobismetipsis perfecte intenti, et exterius minime implicati, tunc possemus etiam divina sapere, et de cælesti contemplatione aliquid experiri. Totum et maximum impedimentum est, quia non sumus a passionibus, et concupiscentiis liberi, nec perfectam viam Sanctorum conamur ingredi. Quando etiam modicum adversitatis occurit, nimis cito dijicimur, et ad humanas consolationes convertimur.

4. 勇士のように戦おうと努力すれば、天から、主の助けがきっとくる。私たちに勝利をえさせるために、戦いの機会を与えたお方は、その恵みによりたのんで戦う者を、助けようと常にまちかまえておられる。私たちが、宗教上の義務を、表面だけ守って、しかもそこから利益を受けようと思うなら、その信心は長つづきしないだろう。悪の根元に斧をうちこもう。そうすれば欲望から解き放たれ、完全な心の平和を味わえよう。
4. Si niteremur sicut viri fortes stare in proelio, profecto auxilium Dominii super nos videremus de cælo. Ipse nam certantes, et de sua gratia sperantes paratus est adjuvare, qui nobis certandi occasiones procurat, ut vincamus. Si tantum in istis exterioribus observantiis profectum religionis ponimus, cito finem habebit devotio nostra. Sed ad radicem securim ponamus, ut purgati a passionibus pacificam mentem possideamus.

5. 一年に、一つずつの悪でも断ち切れたら、すみやかに完徳の道を進むだろう。それなのに、何年もの修道生活を経た今よりも、改心した当時の方が、まだしも清くて善良だった、と気がつく。私たちの熱心と進歩とは、毎日増さねばならないはずだが、かつての熱心さを、いくぶんでもまだ保っているのさえも、大したことのように思われる。自分自身に対して、始めにさからえば、後には、どんなこともやさしく、喜ばしくおこなうことができる。
5. Si omni anno unum vitium extirparemus, cito viri perfecti efficeremur. Sed modo contrario sæpe sentimus ut meliores, et puriores in initio conversionis nos fuisse inveniamus quam post multos annos prosessionis. Fervor et profectus noster quotidie deberet crescere, sed nunc pro magno videtur si quis primi fervoris partem possit retinere. Si modicam violentiam faceremus in principio, tunc omnia possemus facere cum levitate et gaudio.

6. 悪い習慣を断つ事は、つらいことだが、自分自身の意志に、たえずさからうのは、それよりさらにつらいことである。しかし、小さな困難に勝てなくて、それよりも困難なことにどうして勝てよう。あなたの欠点に、はじめから逆らい、手がつけられぬようにならない先に、悪い習慣を、早く除き去れ。生活を自分で良くみちびけば、どれほどの平和があり、かたわらの人々を、どんなに喜ばせるかをあなたが知っていたら、ああ、あなたは、霊的完徳にすすむために、もっともっと一心になったはずだ、と私は思う。
6. Grave est assueta dimittere, et gravius est contra propriam voluntatem ire. Sed si non vincis parva et levia, quando superabis difficiliora? Resiste in principio inclinatini tuæ, et malum defere consuetudinem, ne forte paulatim ad majorem te ducat difficultatem. O si adverteres quantum tibi pacem et aliis lætitiam faceres, temetipsum bene habendo, puto quod sollicitior esses ad spiritualem profectum.

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第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
すべてのプロテスタントおよび非カトリック者にあてた教皇書簡『ヤム・ヴォス・オムネス』 1868年9月13日
教皇レオ十三世 フリーメーソンの悪について『フマヌム・ジェヌス』1884年4月14日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇レオ十三世 フリーメイソンについて『クストディ・ディ・クエラ・フェーデ』1892年12月8日
教皇レオ十三世 聖公会の叙階の無効性について『アポストリチェ・クーレ』(抜粋)1896年9月13日
アメリカ主義について『テステム・ベネヴォレンチエ』1899年1月23日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ Pascendi Dominici gregis』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務 Notre charge apostolique』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジェネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日
【参考資料】
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』
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コプト正教会の日本人司祭にさいたま教区(谷大二司教)が教区事務所の一室を毎週貸す

2007年08月10日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

【参考資料】カトリック新聞 2007年8月12日付(3919号)より

====引用開始====

 エキュメニズムに一役
 教区事務所でコプトのミサ
 さいたま教区、一室貸す

 毎日曜日のミサの場所を探していたコプト正教会の日本人司祭に、さいたま教区(谷大二司教)が教区事務所の一室を貸すことになり、七月二十二日から毎日曜朝、ミサがささげられている。これもひとつのエキュメニズム(教会一致運動)の形。

 場所を探していたのはトーマス金崎司祭=写真。金崎司祭によると、エジプトが中心のコプト正教会には隣国のスーダンやエチオピアにも信者がいる。シリア、エチオピア、アルメニア正教会が兄弟教会で、ロシアなどの東方正教会とはまったく交流がない。日本にはエジプト人留学生などがいるほか、エチオピアからの難民の信者が多いという。そうした人々を司牧するため、二○○四年、日本に派遣された。
 何カ所かの教会を当たったがどこも貸せる状況になかった。「日曜日の午前中だからどこもミサにぶつかるから」(谷司教)。そこで、週末は空いていることの多い教区事務所の会議室を、ということに。
 関東圏にはある程度の数の信者がいると見られる。「探せば五十人くらい。エチオピア人を大切にしています。帰る当てがないので大事にしないと」と金崎司祭は使命を語る。

 アルフショコラン!
 会社勤めをしていた時にエジプトを旅行した金崎司祭は、紅海岸のイスマイリヤを訪れ、コプト正教会の人と知り合い、家に招かれ教会に一緒に行くようになった。「それから毎年エジプトに行くようになりました」
 会社を辞め、一年働いては一カ月エジプトという生活。それが二カ月、三カ月となり、「もう見切りをつけよう」と一九九六年にカイロの神学校に入った。「教会では聖歌隊に入り、児童養護施設の手伝いにも行っていて」
 オーストラリアのダニエル・アントニオス主教に招かれ○三年にシドニー教区に異動、翌年叙階され、その年七月から日本で働いている。この三年間、神戸、鹿児島、東京と司牧を続け、適当な場所を探していた。「カトリックがなければまだミサを始められませんでした。アルフショコラン(千回ありがとう)!」

====引用終了====

 コプト正教会とローマ公教会との間には、キリスト論、終末論、教皇の裁治権・教導権上の首位に関する点に相違がある。
 コプト正教会は、第四公会議(カルケドン会議)によって否定された「キリストには一性しかなく、その人性は神性に吸収されて人間の肉体はない」とする、キリスト単性異端説を継承している。

【単純な疑問】
 もしもカトリック司祭が、ベネディクト十六世教皇のモートゥー・プロプリオ『スンモールム・ポンティフィクム』により聖伝のミサを捧げたい、聖伝のミサを望む信徒の方々も、関東圏にはある程度の数の信者がいるから、そういった信徒の方々を大切にしていきたい、としたら、そのような司祭はどのような待遇を受けるのだろうか?
 もしもカトリック信徒の方々が、御聖体を大切にして口で跪いて拝領したい、とお願いしたら、どのような待遇を受けるのだろうか?

 このような待遇を谷司教様がなさっていることを取り上げているカトリック新聞に私たちもアラビア語で、シュークラン(ありがとう)!

 またこの記事のことを教えて下さったマキシミリアノさんにもグラチアス(ありがとう)!

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성 비오 10세회
トリエント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】교황 베네딕토 16세의 자의교서 Motu Proprio 『SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式韓国語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

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