Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2017年 12月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】
死者の月です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。
意向:死せる信者のため、よき死を迎えるため
実践すべき徳:祈り
守護の聖人:聖アンドレア

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2017年 12月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    12月1日(初金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月2日(初土) 殉教者童貞聖ビビアナ(3級祝日)赤
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月10日(主) 待降節第2主日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月11日(月) 証聖者教皇聖ダマソ1世(3級祝日)白
            午前6時半 ミサ聖祭 
    12月12日(火)~12月15(金)まで毎日  ←追加されました
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月16日(土) 殉教者司教聖エウゼビオ(3級祝日)赤 ←追加されました
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月17日(主)~12月21(木)まで毎日  ←追加されました
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月22日(金) 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
    12月23日(土) 待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 
            午後9時 クリスマスの朝課、クリスマスキャロル 
            深夜11時55分 ミサ聖祭(真夜中のミサ)主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白 
    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭(日中のミサ)

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    12月3日(主) 待降節第1主日(1級)紫 
            午後01時  ロザリオ及び告解
            午後01時半 ミサ聖祭       ←時間が変更になりました
    12月4日(月) 宣教地では聖フランシスコ・ザベリオ1級祝日 
             教会博士証聖者司教聖ペトロ・クリソロゴの記念
            午前7時 ミサ聖祭
    12月17日(主) 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫)   ←追加されました
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月24日(主) 主日の主の御降誕の前日(1級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
    12月25日(月) 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭
    12月26日(火) 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎聖母の汚れなき御心への信心の実践として多くの祈りと犠牲をありがとうございました!
【聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍が終了しました】
2016年8月15日~2017年8月22日
聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍についてのお招き ←こちらをクリックしてください

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聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子 ダウンロード用のリンク

2017年12月03日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月17日(主日)には、レネー神父様が東京でのミサの後に、聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についてのお話と、入会式をなさってくださいます。

 東京でのミサは10時半からです。ミサの後の祈りの後、ほぼ直後にされますので、ミサに与ってから入会式にも与ってください。聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子もあります。以下のリンクからダウンロードしてください。

聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)についての小冊子






天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年記念の「汚れなき聖母の騎士会の歌」

2017年08月04日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖マキシミリアノ・コルベによる「無原罪の聖母の騎士会」創立100周年を記念して、「汚れなき聖母の騎士会の歌」を作ってみました。
み母マリア みもこころも」のメロディーで歌って下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「汚れなき聖母の騎士会の歌」


汚れ知らぬ 清きみ母
天(あめ)と地との きさいマリア
罪人らの よりどころよ
我らの愛 母なる君
主はことごとく 慈悲の恵みを
君の御手に ゆだね給う
罪ふかき 我らなれど
身許に馳せより 伏して祈る


御身こそは 「み踵(かかと)もて
蛇のかしら 踏みて砕く」
そのお方よ、ただ一人で
全ての誤謬 滅ぼし給う。
マリアの騎士は うまずたゆまで
我が身すべて 御手に委(ゆだ)ねん。
命も死も 身も心も
御旨のままにぞ 使い給え


いと優しき われらの母
汚れの無き 愛の炎 
真理(まこと)の道 避難所(よりどころ)よ、
み母を知る 慈悲の恵み
迷える子らに 与え給えよ。
主の恵みは 御手を通し
救い主の 聖心から
潤いあふれて 与えらるる。


上の歌詞は次の祈りからインスピレーションを受けました

 「ああ、インマクラータ(汚れなき聖母)よ、天と地の元后、罪人の拠り所、我らの愛深き母よ、天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望まれ給えり。不肖なる罪人、我(名前)は、御身の足もとにひれ伏し、御身にひれ伏してこいねがい奉る。
我がすべてを全く、御身のもの、御身の所有物として受け取り給え。
 また、我について、霊と肉体のすべての能力について、我が全生涯、死、永遠について、御身がよりお望みになることを全て成し給え。
 もしも御心にかなうならば、我が全てを完全に使い給え。そは、御身について言われた「かの女は、おまえの頭を踏みくだく」また「御身は、ひとりで全世界の異端をことごとく滅ぼされた」が実現されるべき御業のためなり。
 我が、 御身のインマクラータの憐れみ深い御手のうちに、ふさわしい道具としてあらしめたまえ。そは、道を迷い、無関心の、かくも多くの霊魂たちに、御身を知る喜 びを引き起こさせ、御身の栄光をこれ以上ないほど最高にいや増し、かくてイエズスの至聖なる聖心のいとも甘美なる御国が、最高度に拡張するためなり。
 御身が入り給うところはどこであれ、そこで御身は回心と成聖の聖寵を祈り求め給うなり。そは、御身のみ手を通してイエズスの至聖なる聖心から、全ての聖寵は、我らにたどり着くが故なり。」


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われらの指揮官なる神父の手紙【第1号】 ~聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)

2017年03月15日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

聖マキシミリアノ・コルベが騎士たちにメッセージを書いたとき、騎士たちはそのメッセージに「われらの指揮官なる神父の手紙」と名付けたものでした。聖コルベの死後、後継者である無原罪の聖母の騎士会(MI)の歴代国際モデレーターたちが、「国際モデレーター(調整官)」という少し複雑な教会法上の名称よりも、「指揮官」という名称を使う方が騎士たちにとっては簡単だという単純な理由から、この伝統を長く継続させました。天主の御摂理が長上たちの声を通して皆さんのしもべを「無原罪の聖母の騎士会-伝統厳守会」の国際モデレーターとしてお選びになったのですから、聖なる創立者の足跡に従って、ある程度定期的に皆さんに「指揮官なる神父の手紙」を送らせてください。当時の騎士たちは、聖マキシミリアノを父そして案内者の両方と認識していました。ですから今日、私は皆さんの祈りをこいねがうのです。私が聖マキシミリアノの忠実なこだまとなり、そうすることで、私たちに本当の父と案内者がまったくいない今日、聖マキシミリアノがもう一度、そしてこれまで以上に「われらの愛する指揮官なる神父」になってくださいますように。

この最初の手紙で、私は皆さんに、伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会の起源についてお知らせし、またその始まりから私たちの時代までの簡単な歴史的説明をしたいと思います。

それは、私が神学校に入った最初の年である1981年のことでした。ドイツの聖伝のカトリック青年運動(KJB)の指導者たちが、聖マキシミリアノ・コルベの生涯と使徒的業績に捧げた会報を発行しました。私たち神学生は、この私たちの時代の聖人を見いだして魅了されました。それは、聖コルベが、この深い信仰と使徒的情熱において完全に伝統的でしたが、同時に今の現代技術の手段を使って仕事をしたからです。現代の若者さえをも魅了する聖人です。

この若者たちの回心についての問いが、1986年以来私たちがアフリカに配属されているときに持ち上がりました。ファチマの聖母のご出現のメッセージ(聖三位一体のミシェル修道士による三巻)と聖マキシミリアノ・コルベの伝記(マリア・ウィノウスカ著)に触発され、ロイック・デュベルジェ神父は1988年、少女のための運動「無原罪の聖母の仲間たち(CI)」を創立しました。MIに三つのグループがあるように、少女たちは「無原罪の聖母の子どもたち、しもめたち、使徒たち」に分かれており、それぞれがファチマの汚れなき御心のお望みを寛大に実現させようとしました。そのひとりひとりがほかの少女たちの回心のためにもっと寛大になってゆきました。その結果は圧倒的でした。創立5年後には、「CI」のグループが近所の子どもたちを回心させるためにガボンの首都のいろいろな地域に設立され、多くの「使徒たち」が聖ピオ十世会のミッションの1500人の子どもたちのためにカテキストとして登録されました。ファチマの75周年を祝う年には、CIは多くの回数、ご出現についての芝居を上演し、新たに何百人もの人々を教会に導きました。しかし最も驚くべき実りは、多くの若い女性たちの内的な変化でした。彼女たちは本物の内的な生活を生き、異教の環境、または家族の中でさえ、信仰を守ろうという時には英雄的な勇気を見せたのです。彼女たちの中には、両親や兄弟姉妹を回心にまで至らせた者もいました。いろいろな熱帯病のために早死にした人々の中に、私たちはまれな段階に至った徳と聖性さえ見ることができました。この信じられないような驚くべき出来事によって、私たちの時代における無原罪の聖母の抜きんでた力に対する信頼、ファチマの特異な重要性、そして私たちのあらゆる使徒的なわざを聖母とともに、聖母の命令のもとでのみ行うことの必要性を、私たちは確信したのです。

しかし、のちの1994年のことでしたが、驚くべきことにポーランドにおいてカトリック聖伝のわざを始めるよう指名されたとき、聖マキシミリアノ・コルベとその騎士会がどのような人々であるのかを本当に発見したのです。母語で書かれた聖コルベの手紙や講話を読んで私たちが発見したのは、黙想的でありかつ最も行動的である万能の天才、マリア様の最も深い神秘に関する神学者であり、何百万もの人々が聖母を知るようにさせ、かつ愛させるために現代の技術的手段と発明を利用した組織づくりの師です。このいつも死ぬような病気にかかっていた小さな修道士は、「レジオ・マリエ」と「ファチマの聖母のブルー・アーミー」に続く世界で三番目に大きい最も重要なマリア様の運動を設立し、また大きな資金もなしに「無原罪の聖母の町」と呼ばれる修道院を開きました。そこは15年以内に、中世以来世界で最も大きな千人近くの修道士を擁する修道院になりました。自分の祖国でマリア様への愛の炎に火をつけるだけでは足りず、遠いアジアへのミッションにも、「何十億もの霊魂」に聖母の足元へもたらしたいとの望みを抱いてそれに着手したのでした。最後には、その英雄的な一生のあと、一家の父親である囚人仲間の代わりに死ぬというアウシュヴィッツの餓死室での英雄的な死を迎えました。

1998年にワルシャワに最初の修道院を開いたとき、もちろん、無原罪の聖母の町であるニエポカラノフをしばしば訪問しました。私たちがこの巨大な使徒職の名残(博物館、最初の礼拝堂や聖マキシミリアノが住んでいた各部屋、聖人の英雄的な同志たちの墓など)を黙想すると、まるで聖人自身が私たちに会っているかのようでした。また聖マキシミリアノを直接知っていた年老いた修道士たちと長い会話をすることは、他に類を見ない貴重な体験でした。しかし、私たちはMIの別の面も発見せざるをえませんでした。この場所はカリスマ運動でいっぱいのところで、その書店はリベラルかつ近代主義の書物で満杯であり、私たちはしばしば、野外ロックコンサートに見られるような、人々に空しい感情を引き起こす集会を目撃しました。1997年にはMIの新しい会則が公表されましたが、それは以前の会則とは大変異なるものでした。ベストセラーのうちの一冊は、騎士会の総長であるシンブラ神父の本でした。その本で同神父は聖なる創立者を、その考えが狭量であり、「彼の時代の意見に固執した」として、強く批判しました。聖マキシミリアノを知っていた年老いた修道士たちにこれらの変化について尋ねたところ、私たちはしばしば、悲しげに「今やすべては変わった」と言うのを聞きました。「無原罪の聖母の騎士誌」は近代主義的な暗示に満ちた信心会報になっており、創刊当時の雰囲気は失われました。

このとき、若い信者が何人か私たちのところにきて、無原罪の聖母の騎士会を、まさに聖マキシミリアノが創立したそのままの形で、私たちが再発足させることができないかどうかを尋ねました。1920年代以来ポーランドのカトリックはMIによって深く影響を受けていますから、聖なる創立者がMIを設立したのと同じ精神でMIを再創立することを…。

この願いのために、このアイディアが理にかなっているかどうかを分析しなければならなくなりました。聖伝のカトリックには、マリア様の運動が他にも既に沢山あったからです。単にもうひとつ別の運動を創立するだけでは、存在している多くの運動の参加者の数や力を分裂させてしまいかねません。ですから、無原罪の聖母がそのご意志を私たちに示してくださるよう、小さな祈りの十字軍を組織しました。

この時、私たちは騎士会とその聖なる創立者のさらに深い側面を発見して、この運動が世界で他に類を見ないものであり、私たちの時代に完全に適合していることを、以下の理由から、確信したのです。

1)その名称が示しているように、無原罪の聖母の騎士会(Militia Immaculatae)は戦闘の教会(Militant Church)、すなわち地上での悪魔や罪、誤謬との絶えることのない戦いの中にいるまことのカトリック教会を思い起こさせます。50年前から、これらカトリックの本質的な事項は、全世界の平和やすべての宗教の相互の尊重のために努力するよう教えられてきた信者たちの心から取り去られてしまっていました。さらに悪いことに、同じころから、天国や地獄、煉獄、死、審判、悪魔との戦い、誤謬から唯一のカトリックの真理への回心など、永遠にして最も重要な現実が広く捨てさられ、相互理解と平和において世界を統一する望みというものと置き換えられてしまっていました。フリーメーソン的な新しい世界秩序が多くのカトリック信者の理想となってしまったのです。

この現代主義の病に対抗して、MIは私たちの時代の平和主義に対する薬となり、唯一のまことの視点、すなわち、私たちはこの世では霊魂の救いのために戦っている、という事実を強く思い起こされるものとなるのです。MIは、永遠の価値と、私たちがこの世での短い時間を正しく使うことに重きをおいています。MIは、その定義自体において、すべての反教会主義者たちや偽りの宗教を、唯一のまことの教会へ回心させる、という反エキュメニズムの召命をもっているからです。

2)私たちの時代において非常に必要とされる霊的戦いというこの考えは、寛大な霊魂たち、特に青年たちに、偉大で魅力的な理想のために自らを捧げるという熱意を起こします。個人主義的な私たちの時代において、私たちは自分の霊的な安逸に閉じこもって自己中心になり、宗教的実践を個人的なこととしてのみ理解するという大きな危険の中にいます。このように長い間恐ろしい危機が続くと、私たちは自分が聖にして母なる教会に属しており、キリストの神秘体全員への責任があるのだということを忘れてしまうという危険があります。MIは私たちに、主の偉大なる新しい掟「主が愛されたように私たちの隣人を愛せよ」を深く理解させてくれます。これはすなわち、永遠の破滅の淵へ向かって走っている霊魂たちの救いのために私たちができるだけの努力をすることです。教会の中で誰かがまことの価値に立ち戻り、最も小さな小教区からバチカンに至るまでのそれぞれの場所で、無原罪の聖母を取り戻し、そして無原罪の聖母と共に全てのカトリックの聖伝を取り戻そうと望むときはいつでも、私たちは幸せであり感謝でいっぱいです。私たちは、霊的な病をもっているかわいそうな霊魂たちに対して、軽蔑をもって「そんな異端者とはかかわりたくない」と言うのではなく、その人を、無原罪の聖母を通じて私たちの主の不変の真理へ連れ戻すために私たちができうることをしたいと思うのです。

3)MIは私たちにカトリック信者としての真のアイデンティティを取り戻させ、またそれとともに、地上で天主の国を広げるため努力するイエズス・キリストの兵士になるという、ここ地上での自分たちの役割を深く理解させてくれます。この生涯の任務を達成するため、私たちは堅振の秘蹟を受けたのです。無原罪の聖母の騎士会は、祈りや実践において他の運動や団体と並ぶようなものというよりは、私たちの生活に対する新しい法のように本質的なものなのです。その新しい法とは、つまり、何をするにしても、敵を改宗させることによって攻撃し、イエズスの聖心の国を広げる聖母の御手の道具、聖母の軍団の騎士として、それをするのだということです。この法が私たちの生活全般にわたって浸透するならば、私たちは空しいもので自分の時間を浪費せず、むしろ私たちが地上にいる短い期間を、最大限の最も偉大な行い、永遠の行い、霊魂の救いに満ちたものにするでしょう。

4)別の魅力的な側面:この運動は、無原罪の聖母への奉仕において、最も現代的な手段を使うことに熱心です。現代人をして、マスメディアへの新しいカトリック的なアプローチを取らせるのです。マスメディアは、強力な最悪の誘惑の手段として、大抵が闇の力によって悪用されています。とにかく若者が電子機器の中毒になるように、MIはこの中毒を、無原罪の聖母と霊魂の救いのための奉仕へと変えるのです。この側面によって、この運動が私たちの時代の状況やニーズに完全に適合することを多くの人々が理解して、彼らが外からMIに加入するようにさせることができるのです。

しかし同時に、この運動は、霊魂を救うための騎士たちの最も重要な武器として、祈りと犠牲の精神に深く根付いているのです。この運動は、非常に多くの霊魂が地獄に落ちており、それは彼らのために祈ったり犠牲をしたりする人がいないため、祈り、犠牲をするように、というファチマの聖母のお求めに完全に適合しています。さらに、聖マキシミリアノの使徒的祈りのための方法は、良き祈りの生活を送ることが困難である私たちの時代に完全に適しています。

5)しかし、最も重要な点は、私たちの生活の中で無原罪の聖母が占める場所にあります。MIは現実的な日々の生活において、聖ベルナルドや多くの聖母信心のあった聖人たちの主張を、特に聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールのまことの信心を適用しています。彼は、すべてのことを、マリアを通して、マリアとともに、マリアにおいて、マリアのために行うように教えています。MIは、聖母の無原罪の御宿りという偉大なる真理、特にすべての人々のための回心と聖化の恩寵すべての仲介者としての聖母の役割という偉大なる真理を、具体的で寛大な実践へと至らせます。MIは、騎士の個人的な生活の中において無原罪の聖母の重要性を騎士に理解させ、特にいまだに誤謬と罪の中にいる失われた愛する子どもたちを永遠の破滅から救うためにご自分を助けてくれるようにとの聖母のお求めの重要性を騎士に理解させます。ここにおいてカトリック信者は、この世における自分の役割が何であるのか、人間がこの地上でできる最も偉大なわざにおいて自分がいかに重要であるのかを毎日学ぶのです。そのわざとは、永遠の幸せの最上のものを他の人たちに贈ることです。同時に、MIは騎士に必要な謙遜を教えます。騎士一人だけでは何もできませんが、無原罪の聖母の道具としてならば、聖母の忠実な騎士としてならば、なんでもすることができるのです。

6)これらすべての点は、確かにいくつかの国で聖伝に忠実に再創立されたレジオ・マリエにも見られます。しかし、レジオ・マリエはローマの軍団の形式に従って、エリート兵士たちの運動として作られたもので、そのメンバーには本質的に非常に多くのことが要求されます。ところが反対に、無原罪の聖母の騎士会はあらゆる人、たとえもっとも怠惰なひとでさえ加入でき、騎士になるのにほとんど何も要求しません。MIは、すべての人を聖母の足元に投げ出すための大衆運動であり、各人が聖母に少なくとも小指一本を捧げるように強いるのです。その後聖母はその人の手とその人自身をお取りになって運動を導かれます。フィリピンのレジオ・マリエが見いだしたのは、MIが、レジオ・マリエ会員が毎週訪問する多くの人々を、彼らを聖母の騎士にすることによって、聖母により近く結びつける特別な手段となることでした。

7)この運動は、多くの大衆のために設立されたとはいえ、救いのわざのために私たちが協力するあらゆる可能性を内包しています。この運動は、個人として無原罪の聖母に奉仕したいと思う人々(MI 1)を招いていますが、より良くより広い使徒的結果に到達するためのグループやサークル、団体での共通使徒職(MI 2)も想定しています。最後にまた、霊的なエリートに加わって無原罪の聖母に完全に自分を明け渡して英雄的に一生を奉献する最も熱心なメンバー(MI 3)をも招いています。

このような運動はこれまで世界で創立されたことはありませんでしたが、その聖なる創立者の普遍性を伝えています。完全に観想的かつ同時に活動的であり、個人個人の努力を尊重しかつ大衆を集め、最も高い知的な活動(無原罪の聖母のアカデミー)の概念も、最も実践的な実現も包み込み、二千年の聖伝とともに永遠に変わることのないカトリック信仰を守るとともに、最も現代的な技術と現代の発明を利用するのです。

聖ピオ十世会総長は提案した議論に賛成し、ポーランドにおいて伝統を厳守するMIを創立することを認めてくださいました。2000年5月6日、マリア様の月の初土曜日に、約50人のカトリック信者が最初に無原罪の聖母の騎士になりました。彼らは、聖マキシミリアノ自身によって書かれ、署名された「ディプロミク(ちいさな学位証)」の写しを受けました。この創立の実りはすぐにやって来ました。騎士たちの中の寛大さ、規則的な祈りの生活、使徒的な精神が増え、特に書物による使徒職(冊子、書籍、パンフレット、ちらし)が著しく増え、それによってポーランドでカトリック聖伝が知られるようになりました。第二次世界大戦前に聖マキシミリアノ・コルベとその仲間の騎士たちが書いたそのままの文章を出版したため、第二バチカン公会議の精神による教会内の新奇なものと、MIの最初の50年の霊性や理想との間の大きな違い、さらには矛盾さえも、多くの信者が簡単に知ることができるようになりました。

2002年にはモルゴンの聖伝のカプチン会の神父たちがMIに加わりたいと望み、フランスでMIを創立したいと望みました。2004年には最初のアメリカ人司祭たちが、アメリカのいくつかの修道院や聖堂でMIを創立し、2006年にはスイスでも設立されました。しかし最初はすべて、聖マキシミリアノの「ファン」が何か個人的な誓約をしたのであり、この運動は聖伝のカトリックの世界では(ポーランドを除いて)一般的に知られていませんでした。やっと直近の3年間、聖母ご自身がこの小さな軍隊を成長させようと望まれていたように思えました。何も特別な宣伝や告知がなかったにもかかわらずどんどん多くの信者が興味を持ったのは、MIに関するパンフレットや書物の出版と、ポーランドとスイスとアジアでの三つの重要なウェブサイトの設立のおかげでした。3年の間に騎士の数は2013年の約5000人から2016年の1万3000人へと倍以上になりました。現在までさまざまな国でのMIの管理はそれぞれのMIの司祭たちの主導に任されており、司祭たちは長上の許可を得ながら彼ら自身主導によって個人的に「何かをしようと」してきたのです。そこでさまざまな努力を一つにまとめ、MIをカトリック聖伝の小さな軍隊として構成するために、MIの最高権威である聖ピオ十世会総長は、皆さんのしもべを国際コーディネーターに、すなわち聖マキシミリアノの言い方に従えばMIの「指揮官」に任命しました。

この私たちの時代におけるMIの重要性に関する上で述べた七つのポイントについてもう少し長く黙想してくだされば、私たちの夢がなぜファチマ聖母ご出現の100周年に十万人の騎士を聖母の足元に捧げることなのかを皆さんは理解してくださるかもしれません。1917年に巨大な反キリスト教の軍隊(ローマのフリーメーソン、モスクワの共産主義)がこの世に現れたとき、聖母はファチマとMIの創立によってそれに応えられました。2017年に反キリスト教の軍隊が、自分たちが全世界を支配する勝利の象徴として100周年を祝うとき、聖母が再び小さな軍隊、「最後の時代の聖母の使徒たち」(聖グリニョン・ド・モンフォール)、聖母の汚れなき御心に奉献された子どもたち(ファチマ)、聖母の忠実な騎士たち(聖マキシミリアノ・コルベ)によって再びお応えになる、と皆さんはお考えになりませんか?

ですから、皆さん一人一人への謙遜なお願いをもって私の話を終わらせてください。8月14日に私たちは聖マキシミリアノの英雄的な死の75周年をお祝いします。どうかその日までに、カトリック信者を一人見つけて、その人に無原罪の聖母の騎士会に加入してもらうよう、可能な限りの力を尽くしてくださいませんか?!

2016年5月31日、「元后なる聖マリア」の祝日に
私の司祭としての祝福をもって
感謝のうちに


英語原文はこちら  Father Director’s letter No#1 MI “Militia Immaculatae – traditional observance”
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Father Director’s letter No#1 MI “Militia Immaculatae – traditional observance”

2017年03月15日 | M.I.(無原罪の聖...
Dear Knights of the Immaculata!

When Saint Maximilian wrote to the knights, they used to name his messages “Our Father Director’s letters”. After his death his successors, the international moderators of the MI, continued long time this tradition for the simple reason that it was easier for the knights to use the term ‘director’ than the somehow complicated canonical term “international moderator”. As the Divine Providence through the voice of the superiors has chosen your servant as international moderator of the “Militia Immaculatae – traditional observance”, allow me to go in the footsteps of the holy founder and send you more or less regularly “Father Director’s letter”. As the knights in those times recognized Saint Maximilian both as their father and guide, so today I ask humbly your prayers, that I would become a faithful echo of him, so that today, when we lack terribly true fathers and guides, he may be again and even more “our beloved Father director”.

In this first letter I wish to inform you about the origins of the Militia Immaculatae in its traditional observance and to give you a brief historical account from its beginnings until our times.

It was in our first year of the seminary, in 1981, when the leaders of the traditional Catholic Youth Movement in Germany (KJB) issued a bulletin consecrated to the life and the apostolic work of Saint Maximilian Kolbe. We Seminarians were fascinated to discover this Saint of our times, who was so absolutely traditional in this deep faith and apostolic zeal but at the same time working with contemporary modern technical means. A Saint who fascinates young people even our times.

This question about the conversion of young people came up again, when since 1986 we were appointed to Africa. Inspired by the message of the apparitions of Our Lady in Fatima (the three volumes of Frere. Michel of the Holy Trinity) and the biography of Saint Maximilian Kolbe (written by Maria Winowska), Fr. Loic Duverger then founded in 1988 a movement for girls, the “Compagnie de l’Immaculee”. As the MI counts three groups, the girls were divided in “children, servants, and apostles of the Immaculata”, each of them would realize more generously the requests of the Immaculate Heart in Fatima. Each of them would become more generous in striving for the conversion of other girls. The results were overwhelming: After 5 years of existence, groups of the “CI” were founded in various regions of the capital of Gabon to convert the children in the neighborhood, many “apostles” were engaged as catechists for 1500 children in our Mission Saint Pius X. During the jubilee of the 75 anniversary of Fatima the CI played many times the theater about the apparitions and attracted hundreds of new people to the Church. But the most marvelous fruit was the inner change of many young girls who lived an authentic inner life and showed sometimes heroic courage to defend the faith within the pagan milieu or even family. Some of them brought their parents, brothers and sisters, to conversion. Amongst those who died an early death due to the various tropic diseases, we could observe a rare degree of virtue and even holiness. Such incredible surprises confirmed us in the conviction about the outstanding power of the Immaculata in our times, the exceptional importance of Fatima, and the necessity of doing all our apostolic work only with HER and under HER command.

But it was only in 1994, when surprisingly appointed to begin the work of Catholic Tradition in Poland, that we discovered really, who was Saint Maximilian Kolbe and his Militia. The reading of his letters and conferences in the maternal language made us discover a universal genius, both contemplative and most active, a theologian of the deepest mysteries of Mary and a master of organization who used the modern technical means and inventions to make Our Queen known and loved by millions of people. This always mortally sick little monk founded one of the most important Marian movements in the world, the third after the “Legion of Mary”, and the “Blue Army of Our Lady of Fatima”, opened with no material means a convent called “City of the Immaculata” who within 15 years became the largest in the world since the medieval times with almost 1000 inhabitants. Not enough to enkindle the flame of love towards Mary in his fatherland, he set out for the Mission in far Asia with the desire to bring to her footsteps “a billion souls”. Finally, after a heroic life his heroic death in the hungerbunker in Auschwitz dying for a co-prisoner, a father of a family.

When 1998 we settled in Warsaw to open the first priory, it was obvious, that we payed frequent visits to the nearby Niepokalanów, the City of the Immaculata. It was, as if the Saint himself would meet us, when we contemplated the remnants of this gigantic apostolate (museum, original chapel and the rooms where the Saint lived, the cemetery with his heroic companions etc.). It was a unique experience to have long conversations with the elder brothers who knew him personally. However, we had to discover the other side of the MI: the place was full of charismatic movements, the bookstore packed with very liberal and modernist books, we were often witness of liturgical ceremonies and meetings as a gathering of the masses to excite empty emotions similar to those you can find in any open-air rock concert. In 1997 were also published the new statutes of the MI very different from those before. One of the bestsellers was a book of the general moderator of the Militia, Fr. Simbula, who criticized strongly the holy founder for this narrowness and ‘being stuck in the opinions of his times’. When asking the elder brothers who knew the Saint about these changes, we heard often saying him sadly: “now all is changed”. The ‘knight of the Immaculata’ became a pious bulletin full of modern allusions, and empty of the original tone.

At the same time we were approached by some of our young faithful who asked, whether we could not restart the Militia Immaculatae exactly as Saint Maximilian founded it. As Catholic Poland since the twenties was deeply influenced by the MI, the re-founding of it exactly in the same spirit in which the Holy Founder established it …

This request obliged to analyze, whether this idea would make sense, as we had in the Catholic Tradition already quite a number other Marian movements. To found just yet another one, could divide the number and strength of the existing. So little prayer crusade was organized, that the Immaculata would show us her will.

At this moment we discovered a yet deeper aspect of the Militia and its holy founder and we realized that this movement is unique in the world and perfectly appropriate for our times for the following reasons:

1/ As the name indicates, Militia Immaculatae reminds the Militant Church, the true Catholic Church on earth in its permanent fight against the devil, sin and error. Since 50 years these essential catholic themes had been removed from the minds of the faithful who are taught to strive for universal peace and mutual respect of all religions. What is worse: since the same time the everlasting and most important realities about heaven, hell, purgatory, death, judgement, fight against the devil and conversion from error to the only catholic truth … had been widely abandoned and replaced by the desire of unifying the world in a mutual understanding and peace. The masonic new world order has become the ideal of many Catholics.

Against this modernist plague the MI appears as a remedy against the pacifism of our times and becomes a strong reminder of the only true perspective: we are on earth to fight for the salvation of souls. It emphasizes of the everlasting values and the right use of our short time on earth. It is in its definition anti-ecumenical calling of the conversion of all dissidents, false religions to the only true Church.

2/ This idea of spiritual fight so needed in our times provokes the enthusiasm of generous souls, especially the youth, to give herself up for a great and fascinating ideal. In our individualistic times, we are in great danger to close up ourselves in our own spiritual comfort and become self-centered and to understand religious practice only as private affair. After such a long period of terrible crisis we risk to forget, that we belong to Holy Mother Church and responsible for all members of the Mystical Body of Christ. The MI makes us deeply understand the great NEW commandment of Our Lord: “to love our neighbor, as he has loved him”, that is to do what we can to strive for the salvation of souls running towards the abyss of eternal damnation. We will be happy and thankful, whenever somebody in the Church returns to the true values and wish to bring HER and with HER the whole Catholic Tradition back in each place, from the smallest parish until the Vatican. We will not point to the poor spiritually sick souls with despise saying ‘with such a heretic I don’t want to have anything to do’, but we want to do what we can to bring him back to the unchangeable truth of Our Lord through the Immaculata.

3/ The MI gives us back our true identity as Catholics together with the deeper understanding of our role here on earth, to become a soldiers of Jesus Christ striving for the extension of the Kingdom of God on earth. To accomplish this life task, we have received the sacrament of Confirmation. The Militia Immaculatae is not so much another movement and associations amongst many with its prayers and practices, but it is essential like a NEW LAW for our life, that says: whatever you do, you do it as instrument in Our Lady’s hands, as knight in her army to attack the enemy by converting him, and so to extend the kingdom of the Sacred Heart of Jesus. If this law penetrates our whole life, we will not any more waste our time with nothing, but fill our short period on earth with a maximum of greatest deeds, eternal deeds, salvation of souls.

4/ Another fascinating aspect: this movement is eager to use the most modern means in the service of the Immaculata. It makes the contemporary man have a new, a Catholic approach to the mass-media, which are mostly abused by the powers of darkness as powerful means of the worst of temptations. As anyway the youth is addicted to their electronic devices, the MI turns this addiction into the service of the Immaculata and the salvation of souls. This aspect can bring many people from outside to join the MI, as they see, that this movement perfectly adapts to the situation and needs of our times.

But in the same time it is deeply grounded in the spirit of prayer and sacrifice as the most important weapons of the knights to save souls. It applies fully the request of Our Lady of Fatima to pray and do sacrifices, because so many souls go to hell, as there is nobody who prays and does sacrifices for them. Moreover, the methods of Saint Maximilian for the apostolic prayer are perfectly fit for the difficulties of our times to have a good prayer life.

5/ The most important point, however, consists in the place of the Our Lady, the Immaculata in our life. The MI applies in concrete daily life the claims of Saint Bernard and all the Marian saints, especially the true devotion of Saint Louis Mary Grignion who teaches to do all things through Mary, with Mary, in and for Mary. It puts into the concrete and generous practice the great truths of Her Immaculate Conception and especially of her role as Mediatrix of all graces of conversion and sanctification for all people. It makes understand the knight about the importance of the Immaculata in his personal life, and specially HER request to help her to save from eternal damnation her beloved children who are yet lost in error and sin. Here the Catholics learns every day, what is his role in the world and how important he is in the greatest work a man can do here on earth: to give others “all the best” of eternal happiness. In the same time it teaches him the necessary humility: alone he can do nothing, but he can do everything as instrument of the Immaculata, as her faithful knight.

6/ It is true, all these points can be found also in the Legion of Mary which already was re-established in its fidelity to Tradition in several countries. But the Legion of Mary is built according to the pattern of the Roman Legion, a movement of elite soldiers, what essentially demands very much from its members. On the contrary, the Militia Immaculatae goes to everybody, even to the laziest, and demands almost nothing to become a knight. It is movement of Masses to throw everybody at the footsteps of Our Lady, forcing him to give HER at least one little finger – she would manage it afterwards to take his hand and his full self. The Philippine Legion of Mary discovered in the MI an extraordinary means to engage the many people visited weekly by the legionaries to bind them closer to Our Lady by becoming Her knight.

7/ Even founded for the large Masses, the movement contains all possibilities of our collaboration in the work of salvation: it invites those who want to serve the Immaculata individually (MI 1), but also foresees the common apostolate in groups, circles, associations to reach a better and wider apostolic result (MI 2). And finally it invites the most fervent members to join the spiritual elite tending to total surrender and heroic life consecration to HER (MI 3).

Never such a movement has yet been established in the world, and it carries the universality of its Holy Founder: at the same time totally contemplative and active, respecting each individual effort and gathering Masses, englobing the idea of highest intellectual work (Academies of the Immaculata) and the most practical realizations, the everlasting unchanging catholic faith with 2000 years of Tradition with the most modern skill and inventions of our times.

The General superior agreed with the proposed arguments and allowed the foundation of the MI traditional observance in Poland. On May 6, 2000, the first Saturday of the month of Mary, around 50 Catholic faithful were the first to become Knights of the Immaculata. They received the “dyplomik” (little diploma), a copy of that written and signed by St. Maximilian himself. The fruits of this foundation were immediate: increase of generosity amongst the knights, regular prayer life, and apostolic spirit, expressed specially in an intensive increase of the written apostolate (bulletins, books, brochures, flyers) which made the Catholic Tradition known in Poland. Thanks to the publishing of the very texts of Saint Maximilian Kolbe and his fellow knights before the 2nd World War, many faithful could easily make the immense difference and even contradiction between the novelties within the Church in the spirit of Vatican II and the spirituality and ideals of the first 50 years of the MI.

In 2002 the traditional Capuchin Fathers of Morgon desired to join the MI and to found it in France. In 2004 the first American priests founded the MI in some priories and chapels of the US, followed in 2006, in Switzerland. But all the beginning were somehow the individual engagements of ‘fans’ of Saint Maximilian and the movement generally was unknown in the traditional world (except Poland). Only the last 3 years it seemed that Our Lady herself wanted her little army grow. Without any special advertisement or publicity more and more faithful got interested, thanks to the publication of the brochures and books about the MI and establishment of 3 important websites, in Poland, in Switzerland, and in Asia. Within 3 years, the number of the knights more than doubled from around 5,000 in 2013 to around 13,000 in 2016. Until now the care of the MI in the different countries was left to the initiative of the MI priests who individually by their proper initiative tried “to do something” with the permission of their superiors. In order to unite the different efforts and to constitute the MI as a little army of the Catholic Tradition, the General Superior – the supreme authority of the MI – delegated your servant to be the international coordinator or in the terms of Saint Maximilian ‘the director’ of the MI.

If you meditate a bit longer about the seven points above concerning the importance of the MI in our specific times, you may understand, why it is our dream to present 100,000 knights to the footsteps of Our Lady for Her 100 anniversary of Her apparitions in Fatima. When in 1917 gigantic antichristian armies emerged in the world (Freemasonry in Rome, Communism in Moscow), Our Lady answered with Fatima and the foundation of the MI. In 2017 the antichristian armies celebrate their anniversary as a symbol of triumph that they dominate the whole world, don’t you think, that Our Lady wishes again to answer with her little army, “HER apostles of the latter times” (Saint Grignion de Montfort), her children consecrated to HER Immaculate Heart (Fatima), HER faithful Knights (Saint Maximilian Kolbe)?

Let me therefore finish with on humble request to each one of you: on the 14 August we celebrate the 75 anniversary of the heroic death of Saint Maximilian. Would you please make all possible efforts, to find ONE Catholic and to convince him to join the Militia Immaculatae until that date?!

On the feast of the “MARY THE QUEEN”, the 31 May 2016
With my priestly blessings
Yours thankfully
Fr. Karl Stehlin
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聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

2016年09月23日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)に、ご招待いたします。

ファチマの太陽の奇跡が起きた三日後の1917年10月16日、長上の許可を得たマキシミリアノ修道士は、6名の同志たちとともに、ローマのセラフィクム神学大学(教皇庁立聖ボナヴェントゥーラ大学)のチャペルの聖母祭壇の前にひざまずき、無原罪聖母の騎士会(Militia Immaculatae)を創立しました。
1922年5月に、聖コルベは最初の会報「無原罪の聖母の騎士(Rycerz Niepokalanej)」を5,000部発行しました。この会報は15年後には約100万部になりました。1930年5月には、日本で「無原罪の聖母の園」を発足させました。

聖マキシミリアノ・コルベの精神に完全に忠実に従った、聖なる創立者の作ったままの会則(これは1974年に公式のMIによって捨てられてしまった)によって「無原罪の聖母の騎士会」(M.I.)が2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において再び始められ、この聖伝のM.I.はフランス、米国、スイス、ドイツ、オーストリア、アジアで公式に設立されました。2014年8月、M.I.の国際事務局はポーランドからスイスの聖ピオ十世会本部へ移されました。そのとき、騎士の数は約7,000人でした。2015年5月6日、日本の秋田で15周年を祝うかのように入会式がありました。2015年5月時点で、私たちの軍隊はすでに約1万人を数えます。

このように M.I.が非常に急速に拡大したことがおわかりいただけるでしょう。これは、まぎれもなく無原罪の聖母ご自身から来る特別な聖寵です。無原罪の聖母は、自分たちの霊魂を救いたいと強く望んでいるカトリック信者、あらゆる方向から攻撃を受けていると自覚しているカトリック信者に対して大変慈悲深くしてくださるのです。無原罪の聖母は次のことを私たちにはっきりと示してくださいます。すなわち、私たちがこの世で最も危険なこの時代に、妥協せずに信仰を保ちたい、聖人になりたいと望んでいるのなら、私たちは無原罪の聖母の忠実な子どもに、奴隷に、騎士になり、無原罪の聖母の英雄的徳、最も深い謙遜、汚れなき純粋さ、完全な従順をまねなければならない、ということです。
(無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン(聖ピオ十世会アジア管区長)より抜粋)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



”M.I.(無原罪の聖母の騎士会)”の新しいカテゴリができました。


アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第7号― 聖母の汚れなき御手の道具となった約束を忘れないために、ファティマ2017に向けて

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第8号 ファチマ100周年に向けて

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第9号 ”騎士",その4つの重要な意味

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第10号― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第11号― 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第12号― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

アジアの無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第14号― 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設,私たちの中の無原罪の聖母
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第14号 ― 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設,私たちの中の無原罪の聖母

2016年09月23日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第14号

*** 無原罪の聖母の騎士会祈りの十字軍の創設 ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん。

聖マキシミリアノ・コルベは、「Rycerz Niepokalanej―無原罪の聖母の騎士」誌の最初の号から、仲間の騎士の意向のために毎日祈るよう、すべての騎士を招きました。聖コルベはまた、自分たちの祈りの依頼を本部に送るよう、騎士たちを招きました。その依頼の中で最も重要なものは、聖コルベが「聖母の騎士」誌に掲載することさえしました。

この使徒職の効果は予想外のものでした。聖コルベが受け取った、依頼が奇跡的にかなえられたという感謝の手紙の数はどんどん増えてゆきました。そこで聖コルベは、雑誌の中で、「無原罪の聖母への感謝」というタイトルの特別ページを捧げることを決めました。このページには、非常に小さな文字で次のような百から二百の証言がありました。「ありがとう、親愛なる聖母の騎士の皆さん、死にかけていた息子が、祈りを依頼してちょうど九日後に奇跡的に回復しました」「ありがとうございます、無原罪の聖母、あなたの騎士たちの祈りによって、私は自分の召命を見いだしました」「〇〇地区の騎士の皆さんに特別に感謝します。閉校されそうだったカトリックの学校が救われました。そうなっていたら、私たちの多くの子どもたちにとって損害でした」。

六カ月後、編集者(聖コルベ)はもう一ページ増やさざるを得ませんでした。「聖母の騎士」誌の部数が八十万部という記録に到達したときには、いただいた恩寵が多く、月に七百から八百の感謝の言葉を掲載するために四ページを捧げました。これはつまり、騎士たちの祈りのお蔭で実現した天からの明らかな介入に感謝するため、毎年一万人ほどの人々が手紙を編集部へ送っていたということです。しかし、恩寵を受けた人たちのうちで、感謝の手紙を書かなかった人たちは、さらにどれほど多かったことでしょうか?

これは、私たちにとって重要な教訓です。聖母は常に私たちの祈りを聞いておられます(その祈りが良い意向で良く唱えられたらの話です。この面についての公教要理を読んでください!)。ですから、私たちが真面目に絶え間なく聖母に願うなら、聖母は奇跡的な答えさえもお使いになって、私たちを驚かせてくださるでしょう。私たちの祈りに対して、そんな予期せぬ実があるのはなぜでしょうか? それは、聖母が寛大な霊魂を愛しておられるからです。私たちが聖母のお求めに対して寛大であればあるほど、聖母も私たちに対して寛大になられるでしょう。聖母の寛大さが、私たちの寛大さよりも数千倍、百万倍なのは間違いありません。

しかし、それ以外にも、もう一つのさらに深い理由があります。それは、私たちに聖母の騎士会の本質を理解させてくれるということです。つまり、騎士会が、聖母の道具を通して、聖母の道具によって実現する、この世における無原罪の聖母ご自身の勝利の存在であるということです。無原罪の聖母の騎士会(M.I.)は、すべての恩寵の仲介者のご活躍の体現なのです。聖母は、ご自分の失われた子どもたちを正しい道に連れていき、回心と聖化という恩寵を彼らの霊魂に注ぎ込もうと望んでおられます。これが、聖母が天主なる御子から、御子が十字架上で亡くなろうとされているときに受けられた使命です。しかし、これらの霊魂にあふれるほどの恩寵を流し込むことのできる道具、経路がなければ、聖母がその使命を果たされることは不可能なのです。

皆さんは聖母の騎士会への入会によって、そのような道具である聖母の騎士になっています! しかし、皆さんが聖母の道具であるのは、皆さんが「罪びとや離教者、異端者、そして特にフリーメーソンらの回心のために努力する」というまさにその目標をもって行動するときだけです。それはこんな場合です。皆さんが彼らの救いのために何かをするとき、不思議のメダイを配るとき、良き模範を示すとき、特にその意向で自分の苦しみと犠牲を捧げるとき、しかし何よりも祈るときです。

聖マキシミリアノ・コルベは何回も強く述べています。MIの普遍的かつ第一の手段は祈り、具体的には使徒的な祈りです。「無原罪の聖母の騎士の目標は、世界中の霊魂の回心、無原罪の聖母の勝利です。しかし、外的な活動や事業をすべてもってしても、それが天主の恩寵によるみわざによらなければ、一人の霊魂さえも回心させることはできません」。

自由な人間の中の使徒職は、意志を、おそらく悪しきものであろうその意志を、善きものに向けることから成っています。そうすれば、天主から遠く離れていたり、天主の敵でさえあったりする人が、天主の方へ引き寄せられ、天主の友となるかもしれません。そして天主は、この任務を、無原罪の聖母を通して騎士たちに割り当てられます。彼らが霊魂の救済へ向かい、キリストの王国の宣教者となるように。人々が地獄の火から引き離されるかどうか、どれほど多くの霊魂がそうなるかどうかは、騎士たちにかかっているのです。しかしながら、これがすべての恩寵のうちで最も大きなものです。どのようにすれば、騎士は天からこの恩寵を引き出せるのでしょうか? それは、主に祈りによってです。

「祈りと苦しみによって、私たちは多くの恩寵を獲得することができます。外的な活動は、恩寵を得るための道を準備しますが、それ自体によって恩寵を提供することはできません。天主のご意志に確実に対応する一つの祈りがあります。すなわち、自分自身の聖化と隣人の聖化の依頼です。無原罪の聖母がすべての霊魂を勝ち取られるように私たちが祈るとき、それは確実に天主のご意志です。この意向のために私たちは、聖母が世を征服されるよう、私たちのすべての努力、困難、苦しみを無原罪の聖母に捧げることができるのです。

ナポレオンはかつて、戦いに勝つのに何が必要とされるのかと尋ねられました。彼は答えました。「三つのものが必要だ。お金、お金、そしてさらなるお金だ」。

霊魂を聖化するという問題のときも、まさにそうです。必要なのは祈り、祈り、そしてさらなる祈りです。祈りが不足していれば、霊魂は弱まります。人は恩寵の宝蔵から恩寵を引き出せば引き出すほど、それを宝蔵から得ることになるでしょう。祈りは最も誤解されやすいものですが、霊魂たちに平安を回復させ、幸せにし、天主の愛に近づけるための最も強力な手段です。祈りは世を新たにします。祈りは、すべての霊魂の再生と命に必要不可欠です。修道院の壁の外に一度も出たことがないにもかかわらず、祈りによって、[リジューの]聖テレジアはすべての宣教者の保護聖人になりました。

私たちもまたそのように祈ることを望みます。よく祈り、多く祈り、口によって祈り、心によって祈ることです。そうするならば私たちは、無原罪の聖母がどれほど強く私たちの霊魂を支配されるのか、私たちがどれほどもっと完全に聖母のものになるのか、どれほど罪が消えて過ちが少なくなるのか、どれほど優しく力強く天主の近くに引き寄せられているのかを、個人的に経験することになるでしょう。外的な活動はよいものですが、それが二次的なものであることは言うまでもなく、内的な生活に比べれば、黙想や祈りの生活に比べれば、天主への個人的な愛の生活に比べれば、二次的なもの以下に過ぎないのです。私たちが天主の愛でもっともっと燃える限り、この愛で他人の心を燃え立たせることができるでしょう。天主のために霊魂を勝ち取ることは、大変困難な仕事です。人間的な方法ではしばしば失敗するものです。実りのない会話や議論、砂の中にしたたり落ちてなくなってしまう事業、無駄に印刷される出版物、といったものです。しかし、祈りは決して失望させません!

「働いているとき心から出てくる小さなため息は、最高の祈りです。なぜなら、それは私たちを何度も何度も、更に強く無原罪の聖母と一致させ、聖母の道具である私たちと聖母の御手をつなぎ、それによって、私たちは多くの恩寵を受けるからです。生活の中で何か悪い状況になるとき、騎士が敵に敗れたり勝利を得られなかったりしたとき、まず自問すべきです。私たちは十分に祈っただろうか? 私たちの一人一人が、本当にこの問題について祈っただろうか? 私たちは、事業のすべての効果を外的な行動の中に見るという行動主義の危険から自らを守らなければなりません。こういう外的な行動だけに力を費やす騎士は、自らを実りのないものにしたり、自らを大きな欺きに陥らせたりするという大変危険な状態にいるのです」

伝統を厳守する無原罪の聖母の騎士会を再創設したあと、ようやく2012年になって、私はこの祈りの使徒職を始めたいというポーランドの何人かの騎士の依頼に答えて、事務局が提示した意向でロザリオ一連とメモラーレを唱えることに賛同した騎士たちの特別なリストをつくりました。一カ月後には、この使徒職に五十人の騎士を獲得し、一年後にはほぼ百人がいました。その理由は?

三カ月後には、上で述べたのと同じような「感謝」のページを私たちの情報誌に載せなければなりませんでした。その効果は、まったく圧倒的でした。無原罪の聖母が、愛する騎士たちに恩寵を注ぎ込もうと、まさにこの使徒職を待っておられたとは、私はまったく想像することもできませんでした。

そのため、私はアジアで同じような使徒職を始めようと決めました。

これは、皆さんが書き送ることのできる特別なメールアドレスです。

prayer@militia-immaculatae.asia

1)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍(M.I.—PRAYER CRUSADE)に参加したいということを書いてください。そのために、毎日少なくともロザリオ一連とM.I.の祈り「ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え」と、聖ベルナルドのメモラーレ「慈悲深き童貞マリア、御保護によりすがりて御助けを求め、あえて御取次ぎを願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今に至るまで、世に聞こえざるを思い給え。ああ童貞中の童貞なる御母、我これによりて頼もしく思いて走せ来り、罪人の身をもって御前になげき奉る。ああ御言葉の御母、わが祈りを軽んじ給わず、御憐れみをたれてこれを聴き給え。これを聴き容れ給え。アーメン。」を唱えるという約束をしてください。

注意 どのような理由であれ、皆さんがこのロザリオ一連を祈らないとしても(忘れたり、時間がなかったり、病気になったりで)、皆さんは罪を犯すのではありません。しかし、その場合でも翌日にロザリオ二連を唱えるのは良いことです。この一連の意向は、下記の祈りの依頼全部のために祈ることです。

a)無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加する騎士からの祈りの依頼

b)M.I.のモデレーターからの祈りの依頼

2)皆さんが望むだけいくつでも、望むだけ何回でも、祈りの依頼を送ってください! 事務局は、無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に参加している騎士全員に、この依頼をそのまま転送します(例外として、皆さんの依頼が教会の掟に適切でない場合は、修正するよう送り返されます)。

注意 皆さんの祈りの依頼が、仲間の騎士たちに具体的に送られるか、または一般的な内容(例えば、「自分の家族たちの回心のために、二十人の騎士たちが祈りを依頼している」など)で送られるか、については、事務局が決定します。自分の依頼が公表されることを望まない場合は、メールの中でそれを述べてください。

3)祈りがかなえられたなら、感謝の言葉を送ってくださるよう強くお勧めします。

無原罪の聖母の騎士―祈りの十字軍に、皆さん全員をお招きします。想像してみてください。一万人の騎士たちが毎日ロザリオ一連を祈り、そうすると、二千環のロザリオが騎士たちの意向で毎日唱えられることになるのです。それに加えて、皆さんは聖母の特別な使徒職を毎日行ったことになるのです。

いつも覚えていてください。自分のために真剣に祈れば、恩寵を受けるでしょう。

他人のために祈れば、二倍の恩寵を受けるでしょう。

カール・シュテーリン神父

2016年4月5日、マニラにて。

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ファチマ2017に向けて(第6部)

*** 1917年5月13日(2)―私たちの中の無原罪の聖母 ***


「おおマリアよ、あなたはすべて美しい」と、私たちの典礼は歌います。これはまた、ヤシンタが天からの幻視を黙想したあと、繰り返していたものでもありました。「おお何と美しいお方、おお何と美しいお方」。そのお姿があまりに美しいため、ご出現についてのあらゆる絵、あらゆる像にヤシンタはがっかりします。「実際の聖母がどんな方なのか、描写するのは不可能です。この地上の言葉で聖母のことを説明することさえできません」。

疑いなく、ファチマの子どもたちは、(ルルドの聖ベルナデッタ、パリの聖カタリナ・ラブレ、ラ・サレットのメラニーとマクシマンと同じように)無原罪の童貞、天と地の元后の栄光のお姿を、聖母が天に上げられたその御体を見るという特権を持っていました。子どもたちが見たマリアは、聖母の天主なる御子のそばに今も、そして永遠に座しておられるお姿です!

聖母を黙想すること、ルチアが詳しく述べたような様々な幻視者にご出現になった御姿の聖母を黙想することは価値あることです。そうすれば、私たちが、以前にも増して聖母に近づき、聖母をお愛しするのに助けとなるでしょう。

1)以前のルルドと同じように、ファチマでも、聖母は非常に若いお姿に見え、ルチアは15歳くらいだった、と言いました。
この驚くべき若さは、聖母の神秘のうち一つの面を思い出させます。私たちが子どもや若い人を見るなら、しばしば彼らの両親のことを考えます。マリア様の若さは、マリア様が「天の御父の永遠の娘」であることを、私たちに思い出させてくれます。この面は、私たちに、聖母の源、聖母の創造、聖母の誕生の日、そして何より聖母の御宿り、聖母の無原罪の御宿りについて考えさせます。聖母は、「いとも聖なる三位一体のふところ」から出た天主の光の最深部から来られるのであり、聖母は常に新たに天主の力と光と美を受けておられるのです。

「若いこと」は純粋さと美を意味しています―無原罪の聖母です! マリア様は常に霊魂と心と体が新たになっておられるのです。なぜなら、天主の光と命で満ちておられるからです。私たちはたびたび、この永遠の美に、天主の御業の傑作に、天主ご自身の永遠の光を映す生ける鏡、生ける像に目を上げるべきです。

2)再びルルドと同じように、(ファチマでも、)聖母は背丈が非常に小さく、5フィート(約150センチ)もないように見えた、とルチアは言いました。
この小さいこともまた意味を持っており、私たちに何かを語っています。聖務日課において、私たちは聖母について歌います。「私が小さな子どもだったとき、いと高き御者をお喜ばせし、私の胎内で人となった天主を生んだ」。天主の御前では、聖母は小さきものであるのを望んでおられ、できれば完全に消え去るほど小さきものであることを望んでおられます。これが聖母の謙遜であり、天主はこの謙遜に非常に引きつけられて、聖母を天主の御母となるよう選ばれたのです。

「大きく」なりたがり、目立ちたがり、有名になりたがり、高い評価を受けたがり、感謝されたがり、「消え去る」ことなど耐えられない私たちとは、何という違いでしょうか! しかし、聖性への道は、ここにあります。小さきものとなり、天主に栄光が与えられるよう、消え去ってしまいたいと望むことなのです。

3)もう一つ細かい点があります:聖母は三人の子どもたちに非常に接近なさいました。
足台として、聖母は高さ1メートルほどの小さなトキワガシの木をお選びになりました。「私たちは大変近くにいたため、自分たちが聖母の周りにある光、というか聖母から出てくる光の中にいて、聖母からおおよそ1メートル半ほどのところにいることに気づきました」。聖母は常に子どもたちを見ておられます。「聖母のお声は優しくて心地よいものでした」。本当に愛していれば、私たちはその愛する人たちに近づきたいと思いませんか? そして、その人たちを愛すれば愛するほど、私たちはその人たちにもっと近づきたいものです! また、私たちが愛する人たちのところにいるとき、親しみと愛の雰囲気を乱すようなことを話したり、そのような振る舞いをしたりしないよう気を付けます。まさにこのことがファチマで起こりました。しかし注意してください! 私たちに近づいてくるのは聖母であり、聖母は私たちを大変大変愛しておられるのです。聖母がどれほど私たちに、私たちの心に、私たちの人生の各瞬間に近づきたいと望んでおられるのかを理解し、認識することは、私たちの人生にとって最も大きな利益の一つとなるでしょう。

4)「ERA DE LUZ(光の時代)」
しかし、聖母のお姿を描写した最も重要な言葉は、「太陽より明るい光」です。ルチアはしばしば、「私たちは、白い服を着て、太陽よりも光輝く婦人を見ました」と証言しており、その光は非常にきらきら光っていたため、彼らはまぶしく思いました。「婦人は光の真ん中に来ました。今度も、私たちは(まぶしくて)目が見えませんでした。ときどき私は目を手でこすらなければなりませんでした」。

要するに、それは栄光の輝きに満ちた聖母の復活した御体だったのであり、そのお姿でコヴァ・ダ・イリヤにご出現になったのです。この聖母の御体は、ご変容のときのイエズスの御体と似ています。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マテオ17章2節)。黙示録の最初に出てくる栄光のキリストの素晴らしい示現において、イエズスは「顔は照りわたる太陽のようであった人の子のような者として」(黙示録1章16節)ご出現になります。主はダマスコへの道でサウロを地面に倒れさせられたとき、それも同じ光の中で起こりました。「真昼ごろ、私と一緒にいた人々の回りに、太陽よりも輝かしい光が天から下るのが見えました」(使徒行録26章13節)。この光は大変強かったため、サウロは視力を失いました。

太陽は、イエズスとマリアの復活の御体が発する天主の御光の象徴にしかすぎません。こういうわけで、童貞聖マリアは、雅歌の中に出てくる花嫁のように「月のように美しく、太陽のように輝き」(雅歌6章10節)、また黙示録の婦人のように「太陽に包まれた婦人」(黙示録12章1節)として、ファチマでご出現になったのです。コヴァ・ダ・イリヤでのご出現によって、童貞聖マリアは、「正義の太陽」の御母として、被昇天以来、天主の御光をまとっておられると私たちに確信させてくださいます。被造物でありかつ全く人間のままでありながら、聖母は、いわば(天主のおられる)至高天にまで入られたのです。

5)栄光の体:
「光ですべてが輝いていた」にもかかわらず、それでも出現されたのは、本当の人間のように見え、言いようのない美しさでした。聖母の御体は、さまざまな「その言いようのない光でできた波」のようでした。聖母に祈るとき、私たちは時折、まず聖母に対する深い霊的な眼差しを持ち、そしてこの子どもたちが聖母をどのように見たのかを想像しようとすべきです。「無限の清らかさと繊細な輪郭を持つそのお顔は、太陽の光輪の中で輝いています。御目は黒く、御手は胸の上で合わせられています。右手から美しいロザリオが提げられていて、真珠のように輝く白い玉があり、一番下には銀の小さな十字架がついていて、きらめいていました。足は、低木の緑の枝の上の小さなアーミンの雲の上にやさしくおかれていました。衣服は雪のように白く、真っすぐ足まであります。(まるでマントのような)白いベールは、縁が細密に編まれた金で飾られ、頭、肩を覆い、衣と同じほど低くまで垂れて、御体全部を包んでいます」。

教会は、無原罪の御宿りの祝日にこう歌います。「霊魂は天主において喜べ。天主は私に救いの衣を着せ、宝石を纏った花嫁のように、私に正義の衣を着けさせ給うた」(入祭文)。聖母はこういう風にファチマでご出現にならなかったでしょうか? 並外れた特権の象徴である光の衣を着ておられ、この特権によって、他のだれよりも救いの恩寵を獲得なさるのです。なぜなら、御子の将来の功徳によって、聖母はあらゆる罪のけがれから守られたからです。白く輝くマントをまとわれて、金色のまばゆい光で輝く聖母は、より大いなる輝きの内に再び見いだされ、回復された原初の正義の象徴です。「主は私を正義の外套で覆われた」(イザヤ61章10節)。

さらに、シスター・ルチアは、聖母が「どのように宝石で飾られておられたか」を見たかも説明します。ルチアは特に、その宝石の中の一つを「光の球」のようだと語りますが、それ以上の説明はありません。ファチマの聖母は外見から、雅歌の花嫁や黙示録の女性と正確に理解され、同一視されることを望んでおられます。このご出現は、他のどの宗教とも違う、マリア様に関するカトリックの教理を目に見えるよう表現したものです。すなわちマリア様は無原罪の御宿りであり(雅歌の花嫁)、身体と霊魂とともに天に上げられた童貞であり(光)、すべての恩寵の仲介者であり、天と地の元后であって、龍の頭を砕くお方(黙示録の婦人)だということです。



まとめ:
ファチマは単に「メッセージ」であるだけでなく、私たちを圧倒する現実です。天の元后のここ地上でのご臨在です。そして聖母は私たちに近づき、私たちが聖母に近づくことを望まれます。私たちが心の中で聖母のことを思えば思うほど、光と威厳にあふれた、しかし謙遜と優雅にあふれたご出現における聖母のことを考えれば考えるほど、聖母が私たちを守り導き、誤謬と罪の危険から守ることがおできになります。ファチマの子どもたちの目で聖母を見つめるとき、私たちにできるのは、その示現に魅了され、非常に多くの光によって「盲目」になることだけです! ですから、この光の中で生きるなら、私たちは、この世の輝きで私たちを試みようとする偽りの光を簡単に見つけることができますから、もうそれに心を動かされることはないのです。

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第13号 ― ファチマでの聖母の最初の御出現

2016年09月21日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第13号

*** ファチマでの聖母の最初の御出現 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

私たちの主イエズス・キリストの御受難と御復活という偉大なる神秘が近づいているため、1917年5月13日のファチマでの聖母の最初の御出現のときの出来事、およびそれについての解説を、皆さんにお送りさせてください。これによって、無原罪の聖母のみ言葉とお望みを皆さんが黙想する助けとなるかもしれません。私はまた、皆さんにもっともっとファチマの使徒たるよう心に留めておいてくださることを、お願いしたいのです。ですから、皆さんが他の人々を聖母に引き寄せることができるよう、皆さんはファチマの出来事とその奥深い意味を、どちらもよく知らなければなりません。

この聖なる御受難節のための私の司祭としての祝福とともに。
カール・シュテーリン神父

1917年5月13日
ファチマでの聖母の最初の御出現

私たちが聖母の現存そのものに入り、また聖母が愛しておられる子供である私たちを救うためになさった称讃すべき御介入について黙想する前に、私たちはまずなによりも、私たちが表現できないほど聖にして純粋で繊細である霊的な世界に入っていくということを知らなければなりません。

聖マクシミリアノ・コルベは、これを最も深遠な言葉でこう表現しました。「あなたが無原罪の聖母について読む準備をするとき、あなたはこれからいかなるけがれも全くない最も純粋な存在との接触に入ってゆくのだということを忘れてはなりません。また、あなたが読む言葉は聖母がどんな方なのかを表現することはできないということを考えておいてください。なぜなら、その言葉は人間の言葉であって、すべてをこの世的な方法で提示する人間の概念から引き出されたものである一方、無原罪の聖母は完全に天主に属する存在であって、そのため、あなたの周りのあらゆるものよりも無限に高いところにおられるからです。

…また、次のことを率直に認識してください。聖母の助けなしに一人だけでは、あなたは聖母について何も知ることができず、その結果、あなたはまことに聖母を愛することができないということ、さらに愛によってあなたの心を聖母に引き寄せるためには、聖母御自身がもっともっとあなたを照らしてくださらなければならないということを。」

これが聖母について私たちが読むどんなことにでも当てはまるのであるならば、私たちが聖母御自身にお会いし、聖母の御言葉や御振る舞いを理解し始めるとき、それはどれほどもっと当てはまるでしょうか。

第二の準備の黙想は次の通りです。私たちが御出現という出来事について読む際には、あたかもファチマが天主の御母と三人の子供たちの出会いでしかないかのように、つまりある歴史上の事実を思い起こすためだけにこれを読んではいけません。幻視者たちは常に、聖母の伝達手段となって聖母のメッセージを伝えるために、聖母によって選ばれた道具にすぎません。聖母はルチア、フランシスコ、ヤシンタに直接話されますが、聖母は彼らをすべての人間の代表として、すべての人に間接的に話しておられるのです。私たちも、1917年のコヴァ・ダ・イリアに自分自身がいたかのように、聖母のお言葉を私たちの心に直接受け入れなくてはなりません。

ここに、シスター・ルチアによって書かれた最初の御出現の記録があります。

<コヴァ・ダ・イリアの坂の上で、私はヤシンタとフランシスコと遊んでいました。
突然、私たちは稲光の閃光のようなものを見ました。
「家に帰った方がいいわ」と、私はいとこたちに言いました。
「稲光よ、雷と嵐かもしれない。」
「ええ、確かに。」と二人は言いました。
私たちは坂を下り始め、道の方へ羊を急いで行かせました。私たちは坂の中程、そこに立っていた大きなトキワガシの木とほとんど同じくらいの高さにまで行ったとき、また別の稲光の閃光を見ました。私たちがもう数歩だけ進むや否や、目の前の小さなトキワガシの木の上に全身純白の服をお召しになった御婦人を見ました。御婦人は太陽よりさらに光り輝き、きらきらと輝く水でいっぱいになったクリスタルグラスが燃えるような太陽の光線で貫かれている時よりも、もっと明るく強烈な光を放っていらっしゃいました。

私たちはそのお姿に大変驚いて、その前に止まりました。私たちは御婦人から数歩しか離れていない所にいたので、御婦人の周りを取り巻いているというか、むしろ御夫人から出ている光に覆われていました。
その時、聖母マリア様は私たちにお話しになりました。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
-「私は天国からの者です。」
「あなた様は私に何をお望みなのですか?」
-「私がここに来たのは、あなたたちがこれから6ヶ月間の間、毎月13日のこの同じ時刻にここに来るように頼むためです。私が誰か、そして何を望んでいるかは後で教えましょう。その後、私は7回目にここに戻ってきます。」
「私も天国へ行くでしょうか。」
-「はい、あなたは天国へ行くでしょう。」
「ヤシンタも行くでしょうか?」
-「はい、彼女も行くでしょう。」
「フランシスコも?」
-「はい、彼も行くでしょう。でも、彼はロザリオをたくさん唱えねばなりません。」

その時、私は最近亡くなった2人の女の子について尋ねることを忘れませんでした。彼女たちは私の友人で、私の姉と共に織物を学ぶために私の家にきていました。
「マリア・ダス・ネヴェスは天国にいますか?」
-「はい、彼女は天国にいますよ。」
「では、アメリアは?」
-「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります。」
-「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」
「はい、その覚悟があります。」
-「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。しかし、天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう。」

聖母は最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と魂の最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。そして同時に私たちに与えられた深い内的な衝動に突き動かされて私たちはひざまずき、心の中でこう繰り返しました。
「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る。我が天主、我が天主よ、我は至誠なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る。」

数秒の後、マリア様はお話しになりました。
-「世界の平和のため、そして戦争が終わるように毎日ロザリオを唱えてください。」
「戦争は長く続くでしょうか、それともすぐに終わるでしょうか?」
-「私が何を望むかまだあなたに話していないので、まだそれを教えることはできません。」

そして、天の御母は穏やかに東の空へ昇って行き、広い空に見えなくなってしまわれました。聖母を囲んでいた光が天空で聖母の前に道を開けたようでした、そして、この現象から、私たちは時々それを「天が開いているのを見た」と言ったものでした。>

では、聖母マリア様がおっしゃったお言葉について考えてみましょう。

1/「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
このマリア様の最初のお言葉、これは最初におっしゃったお言葉ですので非常に重要です。

-「恐れることはありません。私はあなたたちを傷付けたりはしません。」
ルチアはこう説明しています。「私たちが感じた恐れはマリア様に対する恐れでは全くなく、むしろ、雷を伴った嵐が来ることに対する恐れだったのです。マリア様の御出現によって私たちは恐れも恐怖も感じず、ただ驚きだけを感じました。」

ファチマにおける聖母の御出現から100年後の今、私たちはこれらの言葉のより深い解釈を見いだすことができます。暗闇の多数の力が、私たちを傷付けています。このことに対して、最初の主要な宣言がなされたのです。「私は、あなたたちの母親として、 あなたたちを傷付けたりはしません。」つまり、私と一緒ならば何も怖がることはありません、私の言うことを聞き、私に従い、私を受け入れるならば、あなたたちを本当に傷付けるようなことは許しません、という宣言です。


2/「私は天国からの者です。」
確かに聖霊に霊感を受けて、ルチアは、聖母に話しかけ、質問をする勇気を見出しました。
-「あなた様はどこからいらっしゃったのですか?」
その時、聖母は彼女に最初のお返事をされましたが、その質問に正確にはお答えになりませんでした。
「私は天国から参りました」とおっしゃったなら、それは確かに真実だったでしょう。
しかし、聖母は文字通り、こうおっしゃいました、
-「私は天国のものです。」(1922年にはじめてルチア自身が書いた記録には、「私自身、天国のものです!」と書かれています。)
この言葉だけで、私たちは聖母の神秘の全てを見るのです。

私たちが、諸天使と聖人たちと共に、「おお、インマクラータよ、あなたはどなたですか?」と尋ねると、
聖母はお答えになります。「私は、天国のものです!」
「天国の」という言葉、それは主祷文の「天にまします我らの父よ」という言葉をこだましています。そして、聖母はその全ての存在と人格をもって、この天国のものとして存在しておられるのです。

さて、すべての人間は、人間を両親にもつ子供ですから、第一に「地上のもの」です。それに対して、聖母マリアは人間としてはただ一人、一般の原則から除外されたお方であり、『地上のもの』である前に、第一に、主に『天国のもの』なのです。
何故でしょうか?

なぜなら、「神はそのみ業を始められたときから、そのみ業より早く、私を有しておられた。永遠から、初めから、地が始まる前から、私は立てられた。淵もまだなく…私は生まれた。…私は建築技師のように、彼のそばにいた。」(格言の書8章23-30節)聖母の『存在』の理由は、天主の神秘の中に埋もれています。すなわち、聖母の地上でのご生活は、聖母「自身、天国のもの」であることが目に見えるかたちで表現されているにすぎません。聖母の本質、聖母の存在の基礎、聖母の最も奥深いところは、被造物ではなく創造主にあり、時間ではなく永遠にあり、一言で言えば天国にあるのです。聖母は天主以外のものの為に生きることは決してなさいません。聖母は御自身の全存在において、ただ天主御父の娘、天主御子の母、聖霊の神殿、聖霊の浄配だけでいらっしゃるのです。

私は、…です。
聖母は、「私は…から来ました」とはおっしゃらず、「私は…です」とおっしゃいました。
それは、聖母御自身の自己定義といえるでしょう。私の存在、私の本性、私『自身』は「天国のもの」です。
さて、天国は永遠の命であり、聖なるものであり、闇の無い光であり、永遠の平和であり、完全の充満であり、無垢で汚れなきすべてです!

したがって、この自分自身に関する御説明は、ベルナデッタの質問に対する聖母のお答えを誠実にこだましています。
「あなたはどなたですか?」
「私は、無原罪の御宿りです。」

さらにもう一つ、考慮すべき重要な詳細があります。
正しくは、天主のみが「私は有る(存在する)!」とおっしゃることができます。実際に天主のみが存在されるからです。もし、被造物が「私は有る(存在する)」と言うならば、それは「私は持っている」という意味です。誰も「私は命である、私だけが命を持つ」とか、「私が真実である」とか言うことはありえませんが、「私は真実を話す」ということはできます。「私は有る(存在する)」というのは、私が、自分の持っているものの本源であるという意味です。

従って、私たちの天主だけが、天主であるが故に、こうおっしゃる事ができます。「私は復活であり命である。アブラハムより前に、私は有る。」
では、聖母マリアがルルドで「私は無原罪の御宿りです」とおっしゃり、またファチマで「私は天国のものです」とおっしゃったのは、誇張だったり、はたまた不正確なものだったりするのではないでしょうか? もし聖母が創造されたご自身の存在のことを話されたとすれば、それは厳密には「無」に等しいものですから、その通りということになるでしょう。ですが、聖母がそのようにご自身を示されるのを天主が許されるという事は、つまり聖母の中に、本質的に神的ななにものかが本当にあるということです。

どういう事でしょうか?
聖母は聖寵に満ち、あらゆる罪から解き放たれたことにより、 「御父と御子の賜物」、すなわち天主から私たちの心の中に送られる聖霊を十分に、完全に受け取られました。聖霊は聖母の内に完全に住まわれ、奥深く入り込まれるので、聖母の内には「彼女自身」が何も残らず、すべて天主で満たされます。聖母のお考えも、お言葉も、行動も、その他あらゆる事が、聖母御自身のものというより聖霊のお考え、お言葉、行動なのです。従って、
聖母は「私は…です」とおっしゃる事ができるのです。

聖マキシミリアノ・コルベはこの称賛すべき神秘についてこう説明しています。
「彼女は言い表せないほど崇高な方法で聖霊と結びついています。何故なら彼女は聖霊の浄配だからです。この結びつきという言葉は、被造物について使われるどんな場合よりも比類なく、より完全な意味において聖母に当てはまります。これはどんな結びつきなのでしょうか? それはとりわけ内的なもので、聖母の存在自体と聖霊の存在との結合です。聖母の存在の最初の瞬間から聖霊が聖母の内に住み、聖母の内に生き、それは永遠に続きます。この聖母の内における聖霊の存在は何から成っているのでしょうか? 聖霊御自身は聖母の内の愛であり、御父と御子の愛であり、天主が御自身を愛される愛であり、至聖三位一体全体の愛であり、実りの多い愛であり、御宿りです。被造物中では、愛の結合がこれに最も似ています。聖書はこのことを確認します。『二人は一体になる。』(創世記2章24節)また、イエズスも再びおっしゃいます。『もう二人ではなく一体である。』(マテオ19章6節)聖霊は、比類なきほど、より厳密な、より内的な、より本質的な仕方でインマクラータの霊魂の内に、聖母の存在そのものの内に住んでおられ、聖母の存在の最初の瞬間からその御生涯を通じて、すなわち永遠に、聖母の実りを豊かなものとされるのです。」


3/唯一必要なこと、つまり永遠に続くこと
ファチマでの御出現の一番最初からの重要なテーマは何でしょうか?
天使の出現によって、天主の絶対的優越性、至聖三位一体の栄光、天主への改心、そして、天主に反抗する侮辱への償いが示されました。 聖母は、後に子供たちを天主の威厳と無限の愛の深みに沈める天主の光を伝達されることによって、この同じテーマを子供たちの心に植え付けられました。また、聖母がお話しになった最初のお言葉は、死後の現実のみ、とりわけまず天国と煉獄の現実に関わるものでした。三回目の御出現の際、聖母は印象的な方法で地獄の現実をお見せになりました。

また聖霊の霊感によって、ルチアは大事な質問をします。
「では、私、私は天国へ行くでしょうか?」
ほとんど誰もがこの世と自分の短いこの世での人生へ完全に向いている物質的で無神論的なこの時代において、これはいかに良い訓戒でしょうか。今日、信者であっても、たとえ熱心なカトリック信者であっても、この質問はどれほど人々の心の中に浮かぶでしょうか。ルチアのこの小さな質問は、全ての聖人たちの生活の要旨であるだけでなく、私たちの救霊の業の目的でもあります。つまり、私たちの生活の中のすべてのことは、UNUM NECESSARIUM(唯一必要なこと)、すなわち「私は天国へ行くでしょうか?」を中心に展開すべきであるということです。私は天国へ行くために今日何をしたでしょうか? おお、聖母マリアよ、あなたはこの質問にお答えになるためにいらっしゃいました。もしファチマの子供たちが聖母にお答えしたように、私が聖母の望みにお答えするならば、聖母は「はい」とおっしゃるでしょう。

「ではヤシンタは? フランシスコは? マリア・ダス・ネヴェスは? アメリアは?」
この二番目の質問は、私たちにとって、(自身の救霊の)次に何が本当に大切であるかを示しています。ここに、隣人愛という私たちの主の新しい律法の全てが含まれています。常に私たちの周りの世界の物質的幸福ばかりについて心配し、「隣人愛」を、 物質的なものやこの世の楽しみを隣人たちに与えることにほぼ限定してしまっている私たちにとって、これもまた、いかに良い訓戒でしょうか!

私たちは次の質問をもってこの世界を見ることを学ぶ必要があります。「自分の子供たち、友人たち、隣人たち、親戚、私の敵、同胞、教会の神秘体の他のメンバーについてはどうでしょうか? 彼らの人生の問題は何でしょうか? 彼らは天国へ行くでしょうか?」そしてまたその答えは聖母マリアの手の中にあります。人々が彼らの救霊のために必要な手段を使い、特に聖母が「多くのロザリオを祈る必要があります」とおっしゃったロザリオを祈るならば、再び聖母のお答えは「はい」でしょう。「はい、彼らは天国に行くでしょう。」

私たちは、私たちの天の御母のこの慰めの御約束から深い感銘を受けるべきです。この御約束は、聖母に従い、幼い3人の子供たちの足跡を辿ることを望む全ての人々になされたものです。 またルチアの友達、マリア・ダス・ネヴェスが既に天国にいるということを聖母がルチアに明かされたのも、注目すべきことです。通常このようなことは、列聖された聖人を除いては、ほとんど明らかにされることがないからです。聖母は、御自分が天国からいらっしゃった唯一の大きな目的は、この唯一必要なことを私たちに思い出させるため、また、私たちが天国に至るのを助けるためであることを、このようなやり方で確認してくださいます。

/煉獄
「アメリアは?」「彼女は世の終わりまで煉獄にいることになります!」
次に聖母の要理は、「天国へ行く」のはそんなに簡単なことではない、という重要な点に進みます。聖性への道は骨の折れる努力であり、英雄的な寛大さが必要です。「天国へ行く」こと、つまり、救霊、聖性、「天主御自身である光」の内におけるあふれんばかりの幸福は、確かに聖母の御出現の主要な目的です。しかし、人が暗闇(罪)に汚染されている限り、純粋の光である天主御自身と一体になる ことはできず、完全に「心の清い人」のみが「天主を見る」という事を知っておくのも重要です。

もし天主が憐れみによって煉獄(死後の清めの可能性)を創造なさらなかったならば、ほとんどの人は死の瞬間に完全に心の清い状態にはないので、ほとんど誰も天国へ行くことはできなかったことでしょう。しかしこの清めの場所は、とても大きな苦しみを通して霊魂を浄化する霊的な炎です。聖母はルチアの友人であるアメリアの例をとって、こう言って、その苦しみがいかに激しいものかをお示しになりました。「…世の終わりまで!」これを私たちの言葉に翻訳すると、「全ての起こり得る事柄が終わるまでの完全な苦しみ」となります。教父たちによると、煉獄にいる1分は、この世での100年の最も辛い苦しみに勝る苦しみだ、ということですから、「…世の終わりまで」という言葉が何を意味するのか、私たちも想像することができるでしょう。

この世の問題や苦しみに捕われ、この世での短い月日と周囲の人々の小さな群れに閉じ込められている私たちにとっては、これもいかに良い訓戒でしょうか。この世での生活は、小さな丘のようです。その丘の先には、広大な谷があり、そこではあらゆる燃え盛る炎が数え切れない霊魂で満ちているのです。 その中に私たちは自分たちの先祖たち、親戚たち、友人たちがいるのを見ます…そして、彼らは皆、天国と、そして、この小さな丘である地上へと目を向けています。人々が自分自身のことのみにかかずらわず、自分たちの犠牲で隣人たちをこの苦しみから救うための小さな愛さえ持っているならば、その隣人たちは大きな慰めを得るでしょうし、またしばしばその苦しみからの完全な救済を受ける事もできるのです。

聖母はその御出現のはじめから、この何十億もの霊魂に満たされている煉獄という巨大な世界について、私たちに思い起こさせようとされます。その第一の理由は、(彼らは全て聖母の最愛の子供たちですから)彼らを助けることを私たちに奨励するため、そして第二の理由は、私たちが「天国へ行くこと」を気にせずに生活するならば、地上でのしばしの時の後に私たち自身が行って長い長い時間を過ごすかもしれない場所がまさにここである、ということを私たちに思い起こさせるためです。煉獄について考えることは、私たちが馬鹿げた小さな世界から離れ、むしろ『もうひとつの世界』、すなわち本質的な真実の世界を私たちが見て、そのために真理の内に生きる助けになります。

/最後に
聖母は教会についての重要な訓戒をお与えになりました。聖母は戦闘の教会の子供たちと共にあるために地上に御出現になります。しかし、戦闘の教会の存在理由は、ただ「天国に」ある勝利の教会のための準備をすることだけです。この間にある苦しみの教会は、哀れな罪人たちに死後の永遠の至福の為の準備をする機会を与えるためにあるのです。そして、これら三つは一つの教会であり、彼らを結びつけるものは、天主の御憐れみと、天主の恩寵の道具である聖母マリアです。


4/天国への道、つまり祈りと犠牲
目的を定めた後、聖母は、そのために使うべき手段についてお話しになります。
-「私はこの世ではあなたの幸福を約束しません、来世でのみ約束します。」インマクラータは、聖ベルナデッタにルルドでそうおっしゃっていました。

同様にファチマでは、3人の子供たちに天国を約束された後、すぐ聖母は彼らに『苦しみ』を告げられます。これが、光に導く十字架の王道です。1916年、天使は既に子供たちに対して、絶え間なく天主に犠牲を捧げるように招いていました。「そして特に天主があなたたちに送る苦しみを受け入れ、従順を持って忍耐しなさい。」

今日、聖母は子供たちに、ずっと多くのことを行うようにおっしゃいます。「天主をお怒りさせる罪に対する償いの行為として、そして、罪人の改心を願うために、あなた自身を捧げて、また天主があなたにお送りになる全ての苦しみに耐える覚悟がありますか?」再び聖母は天主の栄光と霊魂の救いのための犠牲、十字架と苦しみがもつ計り知れない価値を強調なさいます。

きたるべき永遠のものを子供たちに示した後、聖母は、このことを他の人たちに伝えたり、司祭のところに言ってミサを挙げるように頼んだり、祈りの会を開いたり、その他使徒的な行動を取るように子供たちに指示されるだろう、と私たちは想像するかもしれません。

いいえ、そうではありません。第一の手段は祈りでさえなく、むしろ償いと罪人の改心のために自ら進んで捧げる苦しみなのです!
また最も重要なことは、これらの苦しみが超自然の実りをもたらすためには、それを進んで受け入れなければならないということです。その苦しみは、天主と隣人とに対する愛の行為であって、その意味で、最も大事な掟を完全に満たすことになるのです。そして、苦しみを進んで受け入れれば受け入れるほど、それはさらなる愛の行為となり、より多くの実りがもたらされるのです。

従って、聖母は子供たちに自由な同意をお求めになります。そして子供たちの同意を得た後、聖母はこう宣言なさいます。「それなら、あなたは非常に苦しまなければならないことになるでしょう。」

このことによって、聖母は、「世間話」や取るに足りない内容の話は決してされないことがわかります。聖母とのお話しは完全な約束を伴うものです。もし、あなたが「はい」と答えるなら、それは引き続いて起こる結果の全てを含んだ「はい」なのです。

/犠牲と苦しみの他にも、聖母はそれぞれの御出現でもう一つの手段についてもお話しになります。それは祈りです! 

まずなによりも第一に毎日のロザリオです。天使は既に子供たちに祈りの生活の準備をさせ、小さな射祷を唱えるよう求めていましたが、それに「天使の祈り」を付け加えることもできるでしょう。私たちは、ファチマでのそれぞれの御出現が、規則的な、そして深い霊的生活を私たちに教える方法でもあることがわかるでしょう。もしファチマの子供たちが祈りという手段を使ったのにならって私たちもその祈りを実践するならば、彼らの心にもたらされたのと同じ効果が私たちの心のうちにももたらされることでしょう。

/そのような祈りと犠牲の生活のうちで最も重要なことは、天主御自身から与えられた最高の手段です。
-「天主の聖寵が、あなたの慰めになるでしょう。」
天国へ至る道において、私たちは確かに不断の努力をする必要があります。しかし、私たちの聖性が私たちの努力に依存していると考えることは大きな誤りです。私たちの努力は確かに重要なものですが、それは私たちの心を正しい向きに向け、天主御自身が私たちの生活の中に介入され、私たちに天主の光と生命、すなわち私たちの霊魂を聖化する天主の恩寵をお与えいただけるような状態にする、という意義しかないのです。この真理の証拠は下記の通りです。


5/ 天主の御出現
『聖母は、最後に「天主の聖寵があなたの慰めになるでしょう」とお話しなさいつつ、初めて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き、その光線は私たちの心臓と最も奥深い所までも貫き、私たちはどんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見ることができました。』

これは神秘的、驚異的な御出現です。それは、霊魂たちを天主の光に導くため、はかり知れない恩寵によって聖母に与えられた普遍的な仲介権を、驚くべき方法で示しているからです。子供たちはこの驚異的な出来事を三度にわたって黙想しますが、これは、1830年、リュー・ド・バックでの不思議のメダイに関する『光線をまとった聖母』の御出現を思い起こさせます。

そして、ルチアは重要なことを述べます。
「私たちはひざまずきました。それは私たちに、天主に関するとても偉大な知識の霊感を受けましたが、それについて話すことは容易ではありません。」ファチマでの出来事の最も偉大な専門家たちによると、これらすべての御出現の中核はインマクラータを通しての3回の「天主の光」の伝達にあります。

ここでは全てのことが重要です。そして、
/まず、まさに聖母のそのしぐさです。聖母は「はじめて両手を広げられました。するとマリア様の両手から非常に強い光線が出て私たちに届き…」
私たちは、子供たちがしたようにひざまずき、幼子イエズスを抱き、その御生涯の間懸命に働かれた聖母の御手を見なければなりません。しかし、この聖母の御手は象徴をはるかに超えるものです。私たちは持っているものを他の人に伝えるために、手を必要とします。私が両手を開くということは、私の心を開くということ、私自身を開くということ、私の霊魂の最も奥深いところを開くということです。

聖母は『聖寵の充満』ですから、聖母がその両手を開くと聖寵の大海は聖母の側に立つ全ての霊魂の中に溢れます。ルチアは、その恩寵(その光)は聖母の両手から流れ出でたと強調しています。その意味は、天国の扉が聖母によって開かれるだけでなく、聖母御自身が天国の扉であるという事です。

/聖母は何をお与えになるでしょう? 「非常に強い光線…どんなにすばらしい鏡に自分自身を映すよりももっとはっきりと、その光そのものであった天主の中に自分たちの姿を見る…」この『光』が現実、唯一真実である現実です。残りは影と虚無だけです。ここで、子供たちは最高の神秘的な恩寵の一つである、『天主御自身の御出現』を受けました。

子供たちがその時、本当に何を見て、何を受け取ったかについては、私たちはその効果によってのみ定義することができます。最初の反応は射祷を祈ることでした。「おお、至聖なる三位一体よ、我、御身を崇め奉る!」 

この光の中に、彼らは 至聖三位一体の言い表すことのできない神秘である三つの位格において、唯一真の天主を見ました。「我が天主、我が天主よ、我は至聖なる御聖体の秘跡にまします御身を愛し奉る!」この光の中に、彼らは世界における天主の現存、御聖体における現存に至る救霊の神秘の概要を見たに違いありません。

フランシスコは後でこう言います。「私は天使と会うことが好きでした。それよりも聖母とお会いするのが好きでした。私が一番好きだったのは、聖母から放たれる、私たちの心臓を貫く光の中で主を見ることでした。私は天主をとても愛しています!」

/この御出現の効果で、子供たちは三人とも愛と自己放棄の充満に満たされました。
彼ら自身が話しているように、御出現の時だけでなく、死を迎えるまでこの世での生活の間中そうでした。三人の人生全ては 途切れることのない天主への愛の爆発、天主の現存の下での生活、天主の御意志と良い喜びを求めること以外のなにものでもなかったと言うことができるでしょう。

これらの御出現は非常に多くの恩寵をもたらしたので、天主がふつう御自分の親友たち(聖人たち)に長い時間をかけてお与えになる恩寵を、天主は数分の内に子供たちにお与えになったことになります。天主の光を経験して、彼らは天主以外に他の何も望みませんでした。そしてこの恩寵こそ、天主がファチマの神秘に近づく人々全てに与えることを望んでおられるものなのです!

/天主の悲しみ。この光の御出現の中でフランシスコは、特に一つの現実に感銘を受けました。
「天主は、数多くの罪のため、とても悲しまれていました! 私たちはもう二度とどんな罪も決して犯してはいけません。」

実際、彼はその短い生涯を特にこの神秘の黙想に捧げることになります。「私は数多くの罪のためにとても悲しまれる天主のことを考えています! 私が天主をお慰めすることができさえすれば!」ーちょうど、1916年に神秘的な御聖体を彼らに与えられた時の天使の望みに対する答えです。「天主をお慰めしなさい!」

/アロンソ神父様は、私たちがファチマのメッセージの外面的様相と内面的様相を区別する必要があると説明しています。外的な目に見えるものは、より護教的なものであって、それは世界にファチマの真実性を証明し、聖母マリアのお望みを実現するために働く信者を動かすものです。しかし、ファチマの本質的なメッセージ、「本質的な現実」は内的にのみ与えられています。それは、「神的な世界、天主と天主の御意志の具体的経験、聖母マリアによって世界にもたらされた天主の伝達そのもの」です。私たちは、聖母を通した3回の『天主の光の伝達』をすべて黙想した後、ファチマのこの本質的な面に戻ることにしましょう。

最初の御出現の概略
もし、あなたがこの1917年5月13日の出来事について度々黙想するならば、人間とその地上での生活こそが最も重要でしばしば唯一価値あることとしてそれに焦点をあわせるような現代の世俗的、宗教的雰囲気から、ファチマがどれほど離れているか、ますます理解されることでしょう。たとえ私たちが天主を信じているとしても、天主は重要な要因ではなく、ちょうど、安心のための機関のようなもので、私たちの実際の生活とは関係しない、遠く離れた存在としてしまっているのです。まるで天主が存在しないかのように人々が生活したり振舞ったりするので私たちは反キリストの時代にいる、と聖ピオ十世が宣言されたのですから、私たちは、天主が全てである、というファチマの最初のメッセージの重要性をよりよく理解することができます。天主は光であり、天主以外には闇しかありません。このようにファチマは、私たちを幻想から目覚めさせ、この世の支配者の嘘に反対させるのです。重要なことは永遠の事柄です。それは、天国か地獄か、永遠への道である祈り、犠牲、罪との戦い、霊魂の救い、そして、なによりも天主の光、すなわち天主の愛という信じがたい幸せなのです!

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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M.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)祈りの十字軍へご参加ください

2016年05月30日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベは M.I.(Miliria Immaculatae 無原罪聖母の騎士)の普遍・主要な手段は祈りであり、具体的には使徒的な祈りであると何度も力説していました。

従って、私はアジアで同様の使徒職をはじめることを決めました。ここにあなた方のための特別なメールアドレスを載せます。

   prayer@militia-immaculatae.asia

1.まずはじめに、あなたがこのM.I.祈りの十字軍に参加したいと書いてください。
毎日、聖ベルナルドの「聖母の御保護を求むる祈り」(公教会祈祷文 239ページ)と、「ああ原罪なくして宿り賜いし聖マリアよ...」という M.I. の射祷と、少なくとも1連のロザリオを唱えると約束してください。 

このロザリオの祈りを、以下の人達から与えられる全ての意向で捧げてください。
 a)M.I. 祈りの十字軍の騎士たち  
 b)M.I. の代表者

2.あなたの祈りの意向を私に送ってください。これらの祈りの意向・祈りの要請は、M.I. 祈りの十字軍に参加する騎士達に自動的に送られます。
(もし、あなたの祈りの意向が教会法に沿ったものでないならば、意向を変更するようにメールを送り返します。)

3.もし、祈りの意向が叶えられたならば、感謝のメールを送るように強く勧めます。 私は、M.I. 祈りの十字軍に加わるように皆さんをお招きいたします。
(注意:あなたの祈りの意向が公開されることを望まないならば、メールを送る際にその旨を伝えてください。)

いつもこれを忘れないでください、
もし、あなたがあなた自身の為に祈るならば叶えられるでしょう。
あなたがほかの人のためにも祈るなら、2倍の報いを受け取るでしょう。

カール・シュテーリン神父

無原罪の聖母の騎士会の祈りの十字軍(日本語)
http://militia-immaculatae.asia/japanese/info15.php

無原罪の聖母の騎士会(聖伝) アジアのWEBサイト(日本語も対応しています)
http://militia-immaculatae.asia/



Join the M.I. ― PRAYER CRUSADE

Dear Knights of the Immaculata,
Saint Maximilian Kolbe insisted many times: The universal and primary means of the M.I. is prayer, and concretely the apostolic prayer.
Therefore I have decided to start a similar apostolate in Asia. Here is the special email address to which you may write:

   prayer@militia-immaculatae.asia

1/ Please write that you want join the M.I. ― PRAYER CRUSADE. For that you promise to say every day at least one decade of the Rosary with the M.I. prayer "O Mary conceived without sin ...." as well as the Memorare of Saint Bernard ("Remember, o most blessed Virgin Mary...").

The intention of this decade is: to pray for all prayer requests given:
a) by the Knights of the Immaculata who join the M.I. ― PRAYER CRUSADE,
b) by the moderators of the M.I.

2/ Send your prayer requests as much and as often you want! These requests will be automatically forwarded to all Knights who participate in the M.I. ― PRAYER CRUSADE (exception: if your request would not be in concordance with the laws of the Church, it will be sent back to you asking you to modify).

3/ You are strongly encouraged to send a note of thanksgiving if your prayer request was granted. May I invite you all to join the MI PRAYER CRUSADE.

Attention: If you do NOT want your request to be published, please mention that in your email.

Remember always: If you pray for yourself seriously, you will receive.
If you pray for others, you yourself will receive double.

Fr. Karl Stehlin

M.I. ― PRAYER CRUSADE
http://militia-immaculatae.asia/english/info260.php

M.I. ASIA
http://militia-immaculatae.asia/
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第12号 ― 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です!

2016年04月30日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第12号

*** 無原罪の聖母、あなたは最も謙遜なお方です! ***


無原罪の聖母の騎士の皆さん!

今年の聖金曜日は3月25日ですから、天主の御摂理は、二つの最も偉大なる信仰の神秘を一つにして黙想することで、私たち自身を聖化する方法に私たちを導きたいと望んでおられます!

(通常は3月25日であるお告げの祝日の)ご托身の神秘を、主のご受難と一つにさせるものは何ですか?

 謙遜です!

両方の神秘において、私たちは屈辱のまったくの頂点を目の当たりにするのです。3月25日(お告げの日)に天主は人となられ、まるでほとんどとるに足りないものになることによって、ご自分を無にされました。天主の御母、天と地の元后は、ご自分を主の最も謙遜な奴隷としかお考えにならないのです。

聖金曜日には、御子と御母はお二人とも、邪悪で、「うじ虫で、人間ではな」く、人間に捨てられたもの、らい病者…のようにみなされるという最大の不名誉のうちに無となられました。

私たちがただしなければならないことは、謙遜において無原罪の聖母に従い、聖母に倣うことだけです。聖母はなぜ、すべての聖人の中で最も偉大な方になられたのでしょうか? それは、聖母の謙遜によってです! 謙遜によって、いとも聖なる童貞マリアは完全にご自分から離れられ、天主のものではないすべてのものをご自分からなくされました。聖母の霊魂は貧しく、自分の「所有する」ものは全く何もありません。金でできた貴いカリスのようです。貴い液体を満たすために、このカリスは空っぽで、ほんのわずかなほこりもないものでなければなりません。貴い液体は、他の何とも混ざることなく、その新鮮さが保たれなければなりません。

マリア様の人生は謙遜の行い、屈辱の連続です。その人生は、最も謙遜な霊魂のまま揺るぎがない状態です。しかし、前提として、聖母の謙遜と、他のすべての人々の謙遜との間に大きな差があることに注意すべきです。人々は第一に、原罪と多くの個人の罪を原因とする、自らのあらゆる悲惨な状態を見ることができます。彼らの霊魂の廃墟と化した宮殿のような屈辱的な光景が、その謙遜の主な原因です。

マリア様の謙遜は罪の意識によるものではなく、それはマリア様がいかなる罪も決して犯したことがないからです。マリア様の謙遜は愛の謙遜、天主の友情を受け入れた友の謙遜であって、マリア様は、この友情が完全に公平で純粋な賜物であり、まったく功徳によらない恩寵であることを知っておられます。ご自分に授けられた賜物の計り知れないほどの偉大さを知っている愛すべき浄配(聖母)は、全くの献身と自己否定の行いで応えられます。

この比類なき謙遜な霊魂は、天主の美しさを非常に喜ばれ、天主の偉大さ、天主の無限の完全さに非常に心を奪われておられるため、その望まれることは、天主が自由にマリア様に与えられるすべてのものについて、ただ天主を讃美することです。天主とは何か、天主がお与えになるのは何かを知れば知るほど、マリア様の謙遜は増していきます。ですから、マリア様はその賛歌「マグニフィカト」で、こう歌われます。「けだし全能にまします御者、われに大事をなし給いたればなり。聖なるかな、その御名」。

従って、マリア様の人生で起こることは、私たちの人生で起こることとは逆です。私たちは自分に徳や才能を見いだせば見いだすほど、そしてそれを伸ばせば伸ばすほど、すべては自分自身の力だと思う危険、自分自身を喜ぶ危険が大きくなります。観客の前で披露すること、他人を自分自身で喜ばせること、注目を集めること、賞賛されること―これらはすべて、私たちの人生に満ちあふれている古典的な高慢の例です。

マリア様は、ご自分の霊魂にある宝を知っておられましたが、そこにそれらの宝を置いたお方を忘れてはおられませんでした。しかし、私たちは、自分の才能や強さ、徳を自分の力だと考えます。賜物の与え主としての天主は、私たちの視界から消えているのです。私たちは、アヴィラの聖テレジアの賢明な言葉を忘れるのです。「謙遜は、天主の賜物を無視することにあるのではなく、その賜物がどこから来たのかを学ぶことにあるのです」。

マリア様の人生における特定の各出来事を考察すれば、私たちもまた、謙遜についてのさまざまな特性と表現を学べます。今特に、マリア様の秘密について黙想しているときに起こってくる問題を自問することは価値があります。すなわち、私たちは、これらの深遠な真理を生きる(実現する)のか? 人生における最高の誤りなき模範として私たちに与えられたマリア様に、私たちはどのようにして倣うのか?

まず(聖母の無原罪の御宿りとご出生の後)、私たちが見るのは、エルザレムの神殿にいる幼い子どもとしてのマリア様です。多くの教父や神学者によれば、聖母は「scientia infusa(天賦的知、すなわち天主によって注ぎ込まれた知)」を受けておられ、その存在のまさに最初の瞬間から、天主によってあらゆる知識を持つという特別な権限を与えられておられました。従ってマリア様は、聖書全体だけでなく、聖書の最も深い意味をも完全に知っておられました。

しかし、何年もの間、マリア様は、人々からその知識を隠しておられただけでなく、神殿の当局者によって育てられ、教育される間、辛抱強く服従されました。神殿の司祭がユダヤ教の決疑論についての授業をしたとき、マリア様は辛抱強く耳を傾けられました。マリア様はまた、律法学士の教えに耳を傾けられましたが、主イエズスは後に彼らを、文字にとらわれて霊を殺すと非難なさるのです。

次に例を示します。「いつ朝の祈りを始めるべきですか? 夜明けの、光が夜の青さに対して目立ち始めるときです。しかし、それはどの程度の青さですか? 山のような青さですか、それとも空のような青さですか? それに、どんな見え方ですか。穏やかですか、それとも鋭い感じですか?」。その教えを受ける生徒は、すべての解釈を知らなければならず、一人の師が一つの方法を教え、別の師が別の方法を教えたことを知らなければなりませんでした!

ですからマリア様は、ご自分が経験することをただ退屈に思ったり、それらに批判的になるあらゆる権利を持っておられました。それでもなお、マリア様は神殿の当局者に服従なさったままでした。謙遜のこの面はdocilitas(従順、服従)です。確かにこの時点で、マリア様は偉大で素晴らしいことを学ばれ、それをさらに大きな愛のために用いられました。その反対のことが私たちに起こります。私たちがいったん神学的知識を得れば、それが誰かによって繰り返されるのを聞いて、私たちはすぐに退屈だと意志表示します。私たちが誰かよりも多くを知っていると思う場合は、自分が優位にあるのを誇りとする感覚が私たちのうちに起こり、私たちは他の人たちに軽蔑を見せようとします。しかし、私たちはそのような状況からも利益を得ることができるのです。なぜなら、知識の10%だけでも私たちにとって新しいものである場合、あるいは私たちが知っている主題の新たな一面を発見した場合、私たちは天主にさらに近づくことができるからです。

また、天主の神秘は無限であり、謙遜な従順(docilitas)の行いに対して、天主はしばしば、何年もの真剣な研究で得ることができる以上のものを与えてくださいます。天主の霊感から、マリア様は貞潔の誓いを立てることによってご自分を天主に奉献なさいました。これは、童貞聖マリアの奉献の祝日として、典礼暦にあります。

神殿の当局者は童貞性に対して非常に否定的な態度をとっており、子のいない女性を天主によって呪われたものと見なしていました。それゆえに彼らは、結婚生活以外の、女性のまともな生き方を知りませんでした。当時、両親が子どもの結婚を決めましたから、女の子が神殿で奉仕するために送られたとき、神殿の当局者は親の責任を引き継ぎました。その時代の女の子は、結婚したいかどうか、また誰と結婚したいかについて尋ねられることはありませんでした。神殿の当局者は、女の子のためにただ夫を選んだだけでした。ですから、彼らはマリア様にそうしました。ダビド家のヨゼフをマリア様のために選んだのです。

マリア様が、ご自分の霊魂の状態について何も理解していなかった人々に対して逆らわないため、いかに多くの謙遜が必要であったのかは簡単に分かります。童貞のままでとどまりたいというご自分の意向に対して、ヨゼフがどのように反応するかという恐れを克服するため、どのくらいの忍耐と信頼が必要だったでしょうか。このような状況では、女の子たちは通常、心では逆らい、天主に不平を言い、天主に対してささやくものでした。

マリア様は謙遜な信頼を保ったままでした。謙遜であることの素晴らしい表現のひとつは、盲目的に神の御摂理を信頼することです。私たちが問題の解決法を見つけられないとき、すべてが失敗や悲惨な状態になろうとしているとき、すべてがもう失われたように思えるとき、資源を使い果たしてしまったとき、そして自分が無力だと体験したとき、混乱や心配をすることなく、詮索もすることなく、すべてを天主にお委ねし、辛抱強く待つべきです。これは謙遜の頂点です。謙遜であって自分の惨めさと無力さを知っている人は、一生懸命に天主のご意志を行おうとしますが、いつでもどこでも、何とかしてすべてを与えてくださる天主からすべてのものが与えられることを期待しています。

最も重要な瞬間であり、謙遜が最大に現れたのは、受胎告知です。その瞬間、すべてはただ謙遜だけしかありませんでした。偉大な天使ガブリエル(その名は「天主の力」を意味します)は、最大限の謙遜をもって少女の前で深くおじぎをしました。それから、マリア様の謙遜が示されました。そしてついに、謙遜の頂点、人間の肉・本性への天主のご托身がありました。

その決定的な瞬間に、マリア様の中で何が起きていたのでしょうか? マリア様は、天主の本質、天主の御稜威、天主の無限についての黙想に集中なさっていたのを、私たちは知っています。マリア様は、天主がすべてのものの絶対的な主であるという真理を熱愛なさいました。でも天使がマリア様の前に立ったとき、マリア様は深く心を動かされました。マリア様は天使の挨拶を聞いたとき、同様に心を動かされました。誰もそんな言葉を聞いたことはなかったのです! マリア様は、「聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられた」という言葉が何を意味するのか、完全に理解されました。ですから、「これを聞いて心乱れ」られたということは、マリア様はこのような名誉の背後にある理由が分からず、すべての人々の中で最も小さい者であるご自分が、なぜそんな賜物を受けたのか理解できなかったということです。天使は話しました。そして、マリア様が最大の名誉、天主が被造物に授けることができる最高の賜物を受け取ったことが明らかになりました。マリア様は天主の御母となり、いとも聖なる三位一体への最も親密な命に導かれました。それに対するマリア様のお答えは何だったでしょうか? マリア様が最初に発した言葉はこうでした。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか?」。これが、天主のご意志を行うための、マリア様の唯一の心配事です。天主のご意志を行うことは、聖なる童貞性を天主に奉献することにあると、マリア様はあらかじめ理解しておられたからです。

そこで天主は、マリア様に夫として聖ヨゼフをお与えになることによって、マリア様の童貞性が守られることを厳粛に承認されました。この男性は、マリア様の童貞の誓いを尊重するだけでなく、まったく同じ理想を持っていたのです。従って、童貞の捧げものによって、マリア様は天主に完全に自分自身を捧げ、天主の御あわれみに限りなく自分自身を開くことができたのです。そして今、マリア様はメシアの御母になろうとしていました。自然の秩序では、これら二つの現実、つまり童貞であって同時に母であることはできませんから、マリア様は説明を求めて天使に尋ねました。すると天使は、預言者イザヤによって七百年前に予告された偉大な奇跡を説明しました。「見よ、おとめが身ごもる!」。天主には不可能なことは何もないという結論を目の前にして、マリア様は「フィアット(われになれかし)」を言われ、同意をお与えになりました。

非常に敬虔な、聖人のような人であっても、このような状況にあれば、天主がまさに自分をお選びになったという満足感を少し感じたかもしれません。次のように思うのは簡単でした。「このような名誉を与えられたことは何と素晴らしいことでしょう、他の人々に対して私はどんなに多くのよいことをすることができるのでしょう、私にこのような名誉を与えてくださるとは、なんとお優しい天主でいらっしゃるでしょうか」。ほんの少しでも自分自身に喜びを感じることがないというのは、そのような瞬間には困難なことです。では、マリア様は? マリア様は、すべての被造物の中で祝福され、人類で可能な最高の名誉を受けるよう選ばれましたが、それがすべての天主の賜物であることを完全に知っておられました。いと高き御者は御あわれみによって、マリア様の偉大な使命にもかかわらず、自分では何も持たないはしためであるマリア様の謙遜をご覧になりました。マリア様は、天主の創造のみわざによって、無からつくられました。マリア様は自分のものは何も持っておられませんでした。マリア様の中にあるすべての美しいもの、すべてが美しいと私たちが知っているものは、天主によって与えられました。天主の無限の御稜威と、マリア様自身の無限の無を考察して、マリア様は論理的な結論を引き出されます。「御身はすべて、われは無。御身はわれにおけるすべて。仰せのごとく、われになれかし。われは主のつかいめなり!」。私たちは知っています。この完全な信心が、そのお返しとして、失われた世界に救済をもたらす天主の本性からあふれ出る天主の愛の大海を動かしたことを。

一日三回、私たちは、お告げの祈りでこの神秘を思い起こします。三という数字は、充満、全体、不変、持続を表します。三度の祈りは、一日を通して私たちがいつもマリア様の謙遜に倣うべきであることを意味します。これにより、教会は、世界の救いのための受胎告知の重要性だけでなく、謙遜の徳の重要性をも強調するのです。この出来事で、謙遜が、その最も深い本質において、完全なる自己放棄、完全なる天主への信心、天主への回帰であることが示されています。マリア様のお答えがこれをなんとよく示していることでしょうか。Ecce ancilla Domini(ここに主のつかいめがおります)。この言葉には、人称代名詞の「私」はありません。人間の言語の中で最も大きな従順さを伝える言葉、つまりancilla―つかいめ、奴隷という言葉しかないのです! マリア様は常に最も謙遜で、天主の御前で自分を無とお考えだったのです。

お告げのとき、マリア様の謙遜は試され、最も過酷な試練を受けました。マリア様は、ご自分が地上にいるすべての人々に勝っているだけでなく、位階において、天のすべての天使より無限に勝っているというメッセージをお受けになりました。天と地の元后であり、天主を除いて、最高にして最も偉大で最も力あるお方…。実際、人がそんなメッセージを聞くと、めまいを感じますが、マリア様の場合は、それほど大きな名誉を与えられたにもかかわらず、平安のうちに、御自ら唯一聖にして偉大である天主とご自分の中におられる天主への静かな礼拝を育まれたのです。

マリア様の謙遜は、お告げの直後にも現れました。急いでザカリアとエリザベトの家へ行き、家事やささいな仕事を行い、こうして従姉を助けられたのです。

マリア様は、謙遜な人々、屈辱を受ける人々とさえも付き合いを求められました。そのような人々の中にいる時にのみ、マリア様は心安く感じられました。ザカリアとエリザベトは、律法の細則に正当性を見つけるのを誇りとしていたファリザイ人とは逆に、慈悲深い天主からの助けと救いを、天主の約束への信心と信頼を通して待っていた数少ない謙遜な人々の内に含まれる人たちでした。また、二人は世間から侮辱されていました。結婚していても子どもがいないことで、二人は天主によって罰せられ、天主に呪われているとさえ見なされていました。ザカリアがものをいうことができなくなり、天主への奉仕を終えてもおしであった時、それはこの呪いの明確な証拠であると村の人々は信じました。多くの人々は、それが彼の隠された罪に対する天主の罰であると信じたのです。そのため、彼らはザカリアを軽蔑しました。しかし、ザカリアはどんな言い訳もせず、書面または手話で説明することもしませんでした。

これもまた、謙遜の大きな現れです。私たちは皆、天主の御前では無ですから、謙遜な霊魂は、この真理を認める人々を好みます。また、地上では謙遜は常に屈辱を伴うため、謙遜な霊魂は屈辱を受け入れる人々に、特に甘んじて天主の御手で屈辱を受け入れる人々に引きつけられます。マリア様がザカリアとエリザベトの家を訪問なさったときに、心を開いて賛歌「マグニフィカト」を歌われたことは、この意味において理解すべきです。

謙遜のもう一つの側面は、最も重要なこと、つまり天主の御あわれみについて、無である私たちを満たそうと望まれる天主の聖心の偉大さについて思い起こすことです。しかし、天主はこのことを謙遜な霊魂にだけ行おうと望まれます。賛歌「マグニフィカト」は非常に複合的な祈りであって、全能である御者を讃美する新たな方法を継続的に探し求めずにいられない謙遜な霊魂の状態を伝えています。

謙遜のもう一つの側面は苦しみです。謙遜の行いそのもの(これは天主の方に向かおうとする霊魂の状態です)は、多くの場合、他の被造物に関して苦しむことにつながります。謙遜な霊魂が天主の聖心の偉大さの前に自分自身を開くと、天主はその霊魂に天主の無限の神秘を与え給うのです。この神秘は無限ですから、その霊魂は自分の心に起きていることを他人に語ることはできないか、また時には語ってはならないのです。その霊魂の最も親しい友人たちでさえ、そのときにはもはやその霊魂を理解することはできません。友人たちは、このために苦しみ、その霊魂も苦しみます。彼らは誤解され、あるいは拒否さえされたように感じ、引き下がり、そして古い友情と親密さが次第に消えていき、なくなってしまうかもしれません。

マリア様が身ごもったと知ったときの聖ヨゼフの苦しみは、この意味において理解すべきです。聖ヨゼフには、愛する人のもとを去り、自分は引き下がり、最愛の人の周辺から消える以外の可能性を見いだせませんでした。消える覚悟をするということは、自分が無であると認める行いでした! この覚悟はまた、聖ヨゼフが圧倒された御稜威をお持ちである天主の神秘的なやり方や命令に直面した際の謙遜の行いでもありました。

しかし、天主は常に謙遜の行いに報いられます。必要であれば、天主は奇跡を使ってでもそれをなさいます! そして、謙遜な霊魂は、天主を喜びにおいて信頼するだけでなく、苦しみにおいても信頼するのです。最後に、この世では謙遜は事実上、常に屈辱と結び付いています。堕落した被造物である私たちの場合は、屈辱なくして謙遜の徳を得ることは不可能です。マリア様は、原罪のけがれから守られていたという異なった状況でしたが、この点においても謙遜の模範となるために、私たちに比べ無限に大きくかつ多数の屈辱を自発的に受け入れられました。証明され、試された謙遜のみが真実のものです。「あなたがたのための部屋はない」という言葉がベトレヘムで発せられた瞬間から、マリア様は御子の屈辱にあずかられました。御子は御体においてその屈辱に耐えられる一方、マリア様は御心においてその屈辱を受けておられました。粗末な洞窟の中で天主の御子を生むという屈辱、逃亡者である屈辱、言葉で表せないほどのエジプトでの流浪の屈辱、ナザレトでの貧困の屈辱(その有力な証拠はロレトの家です!)、マリア様ご自身が悪しき人々の御子に対する敵意が増えていくのを経験された、イエズス・キリストの公生活の間の数多くの屈辱など。

キリストが全くの肉体的な無へと向かわれたとき、このすべてが屈辱の頂点にまで至りました。その瞬間、マリア様は、霊的に無となられ、十字架の下に立ち、そこで動かずにお立ちになったままでした。マリア様は、この最も過酷な試練に置かれたとき、引き下がることなく、動揺することなく、ためらうことなく、不平を言うことなく、逆らうことのない謙遜を示されました! それ以上に、これは、最も高貴な特性を示すことを完全に放棄した人の謙遜でした。

御子のためだけに生きておられるマリア様は、御子の代わりに、私たちをご自分の子どもとして受け入れられました! 最も聖なるお方の代わりに、マリア様は罪びとを受け入れられ、天主の愛の代わりに、マリア様は私たちの冷たさと無関心を受け入れられ、美の代わりに、怪物のような醜さを受け入れられました。そしてマリア様は、心をこめて天主のご意志を受け入れられました! 見よ、謙遜の頂点を!

これらの考察の助けによって、特にこの四旬節という聖なる期間に考察することによって、インマクラータの謙遜で悲しみに満ちた御心の中に入ることができ、私たちも心が謙遜になるように助けてくださるよう聖母に願うことができますように! そうすれば、槍にて貫かれたる主の聖心から流れ出る恩寵が、豊かに私たちを満たし、聖化し、変容させてくださるのです!

ジェネラル・サントスにて、2016年2月14日

カール・シュテーリン神父

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(ファチマに向けて この手紙は、ここまでですでに非常に長いため、皆さんは1917年5月13日の出来事に関連する別の手紙を3月の初めに受け取ることになります)

シュテーリン神父のすべての手紙は、ウェブサイトの Publication/Letters の階層にあります

聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第11号 ― 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

2016年04月20日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第11号」の日本語訳をご紹介いたします。

今年、「あわれみの御母」なる聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。

私たちは、霊魂を永遠の火から救うために「あわれみの御母」の道具になろうという情熱を増加させましょう。

聖母は、ファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。

シュテーリン神父様は、皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案してくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第11号

*** 2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

新しい年になりました。私たちは自分たちの目的を思い出さなければなりません。

毎年、毎月、毎週、毎日、毎時間、毎分、毎秒がそれぞれただ一つの意味を持っています。無原罪の聖母を通して、私たちの主にますます近づくことです。私たちは聖母に奉献されているのですから、私たち聖母の騎士は、こう付け加えるべきです。この新しい年に、私は聖母のために、これまでにないほど多くの霊魂を、さらにずっと多くの霊魂を勝ち取らなくてはなりません。彼らが、聖母を母、そして元后として認めてお愛しし、そうして、その御子、私たちの主によって救われるように。

それぞれの年もまた、特徴を持っています。重要な記念日や聖年のお祝い、または他の重要な出来事(洗礼、初聖体、結婚、最終試験、仕事上の業績など)です。一般に、このような例外的な出来事は、天主の栄光と霊魂の救いのために、これらの出来事をお祝いするか、これらにあずかる人々に対して、天主の御摂理によって与えられる特別な恩寵の源です。私たち聖母の騎士は、これらの降り注ぐ天主の愛に感謝し、徳と使徒的熱意を成長させるよう、その愛から利益を得るべきです。

2016年に注目すべきなのは、二つの特別な行事があることです。天主のあわれみの年であることと、ファチマの聖母ご出現と無原罪の聖母の騎士会設立の100周年を荘厳に準備する年であることです。

私たちは、あわれな罪びとの回心と聖化のために彼らに捧げられた天主の無限の御あわれみという現実についてしばしば考え、黙想すべきです。

さて、聖ベルナルドによると、私たちの主は「御母にあわれみの秩序」を委託なさいました。

そのため、今年、聖母は特別な意味で「あわれみの御母」になられます。聖母は、天主のあわれみ深い善良さが、永遠の死の闇と影の中で生きているもっと多くの霊魂に入っていくように、回心の恩寵という宝をもっと多くの人に広めたいと望んでおられます。聖母は、あわれな罪人たちに降り注ぐ恩寵がもっと簡単に与えられるように望んでおられます。

私たち騎士にとって、これは、聖母の奉仕にもっと自分を捧げようとする信じられないほどのよい動機となります。通常時に私たちの小さな祈りと犠牲が一日あたり多分一つか二つの霊魂を救うとすれば、「あわれみの年」のおかげで、私たちの主は、私たちの小さなつまらない捧げものに対して、さらに寛大にお応えくださるでしょうし、同じ祈りや犠牲に対して、多分10から20の霊魂を救われるでしょう。

言い換えれば、騎士としての私たちの小さな使徒職は、天主の御あわれみのおかげで、はるかに効果的になります。このことは、私たちの望みを大きくしてくれるはずです。ああ、無原罪の聖母よ、あなたは多くの美しい絵を描く力を、あなたの小さなほうきにしか過ぎない私に与えようと望まれるほど、私をたくさん愛してくださいます。「私の愛する子よ、霊魂を救うために私を助けてください!」というあなたの要望と訴えに対して私はどれだけもっと進んでお応えしなければならないことでしょうか。

霊魂を永遠の火から救うためにあわれみの御母の道具になろうという情熱を、私たちが増加させる最良の手段は、私たちがこの2016年中に実現しなければならない第二の事柄です。それは、終わりの時代における聖母のすべてのご出現の中で、おそらく最も重要なご出現に対する準備です。この御出現では、聖母がファチマで私たちに、救いのための最終手段として、聖人になるための簡単で確実な方法として、汚れなき御心を与えてくださいました。従って、私たちは今、真剣に「ファチマの使徒」になることを始めるべきです。

皆さんが今年、天主の無限の御あわれみの泉から、御あわれみを豊かに引き出すため、特別な決心を持つよう提案させてください。


2016年にまことの「ファチマの使徒」になるための決心

1.知性のために
a)可能であれば、毎日数分間、少なくとも1週間に1時間、ファチマのメッセージと精神について、深い文章や記事、本を読んだり聞いたりすること(www.fatima.org/resources/books.aspに豊富な文献があります)。
b)少なくとも3回、可能なら各土曜日(聖母の日)に、この手紙に掲載されたファチマに関する文章「ファチマに向けて」を読んで黙想すること。

2.意志と心
a)毎日、可能であればできるだけ頻繁に、罪びとの回心のために射祷を唱える。特に「イエズス、マリア、われ御身を愛し奉る、霊魂たちを救い給え」。
b)毎日、可能であれば少なくとも3回、ファチマの天使の祈りを唱える。
c)毎日、ファチマの聖母の意向でロザリオを唱える。
d)可能であれば、毎月13日に、マリアの汚れなき御心の意向で大斎を捧げる(その日が日曜日または守るべき祝日である場合は、前日または翌日に大斎を移す)。
e)毎初土曜日の務めに参加する(汚れなき御心に対して犯された罪を償う精神で、聖体拝領をし、その月のうちに告白を行い、さらにロザリオとロザリオ十五玄義の黙想を行う)。

3.行動
無原罪の聖母の騎士会の使徒職(不思議のメダイやリーフレットなどを配布すること)に熱心に参加する。

皆さんが、これらの決心を実行に移そうと努力するなら、汚れなき御心が、この2016年に非常に特別な方法で、皆さんのうちに聖母のこの御約束を実現してくださるのは確実です。「私の汚れなき御心は、あなたの避難所となり、あなたを天主へ導く道となるでしょう」。

2016年1月4日、シンガポールにて
カール・シュテーリン神父


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ

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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号 ― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

2016年02月05日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号」の日本語訳をご紹介いたします。

「あわれみの聖年」は2015年12月8日の「無原罪の御宿り」から荘厳に始まりました。
神父様は、「天主の御あわれみ」を私たちに黙想することを提案しています。
「無原罪の御宿り」こそ、「天主の御あわれみ」の神秘を表し、
「無原罪の御宿り」において、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのかを世にお示しになられること。
「あわれみの年」は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけであり、この天主の呼びかけに、私たちが何をしなければならないか?を教えてくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号

*** 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年 ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

毎年、無原罪の御宿りの祝日が近づくと、聖マキシミリアノ・コルベはあふれんばかりの霊的な喜びで満たされ、修道士たちにその喜びを伝えていました。この偉大なる教義は聖母ご自身だけに関係するのではなく、私たちに対しても優れて実践的な結果をもたらす、と聖マキシミリアノは、しばしば彼らに説明していました。12月8日が近づきますから、彼と共にこの神秘に入り、それについて黙想しましょう。その日は、騎士全員が無原罪の聖母への奉献を確実に更新すべき日なのです。

今年、教皇様は「天主のいつくしみ(あわれみ)の年」を宣言しました。12月8日に荘厳に始まります。広く説明されてきていることは、不幸にも天主の御あわれみの理解そのものについても、その私たちの生活への影響についても、多くの霊魂を大変な災厄に導くことになるような全くの誤った解釈がおこなわれているということです。彼らを回心させて回心と聖化というあわれみ深い恩寵を受けさせる代わりに、この偽りのあわれみは、彼らに自らの罪を続ける決意を固めさせ、「天に向かって復讐を叫ぶ」忌まわしい行為さえも寛容に扱い、また正当化するのです。さらに、「光であり、その中に闇は一切ありえない」という天主の本質そのものについての完全に誤った理解を示しているのです。

それにもかかわらず、私たちは、教皇の意向すなわち教皇の個人的な考え方と、最高の権威者による行為とを区別しなければなりません。つまり、最高の権威者が、「聖年」を定めることによって、天からのあふれんばかりの恩寵が来るよう天を開いてくださったのであり、私たちがその恩寵に対して自分の心を開くなら、それを受けることができるのですから。エルザレムでの枝の主日の出来事のあとの大司祭の言葉を思い出しましょう。彼は言いました。「民のために一人の人が死ぬ方がよい」。カヤファの意向は確かに悪しきものでしたが、大司祭としての職務において彼が述べたその言葉は、預言的であり正しいものでした。同様に、「今年の大司祭」の意向にもかかわらず、最高の大司祭イエズス・キリストはご自分の代理者による客観的かつ法的に正当な決定を尊重され、そのため主は、世界と教会にかつて見られたうちで最悪のこの危機の時において、その無限の御あわれみをあわれな人類に注ごうと望んでおられるのだ、と私たちは結論できるのです。天主だけが、悪をより高い善へと変えることがおできになり、そのため、天主は多くの高位聖職者の心にあるあわれみについての誤った考えさえもお使いになり、この一年の間に、まことの御あわれみをお示しになることができるのです。

しかしながら、この地上にいる司祭一人一人の任務は、教会の教導権、教父たち、教会博士たち、まことの聖人たちによって明らかにされ、教えられた天主のまことの御あわれみを信者に提示することです。そうすれば、あわれみの年は、よい心構えをもって天主の愛の泉に近づく全ての人々にとり、大きな恩寵の源となるでしょう

「偶然によって」は何も起こりません。それゆえに私たちは、どこでも常に天主の御摂理の道を見いだすべきです。私たちの主が、無原罪の御宿りの祝日にあわれみの年を開始するよう、教皇様に霊感をお与えになったのは、「偶然によって」ではありません。事実、天主の御あわれみの神秘を表すのに、すべての被造物の中でただお一人だけ汚れなく、原罪を免れておられた聖母の御宿り、聖母の存在のまさに始まり、それ以上の時はありません。無原罪の御宿りにおいて、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのか、そして、天主とのこの根本的な関係が無限の御あわれみであるよう望んでおられることを世にお示しになるのです。

天主の御あわれみは、無でしかない者への天主のまったくあわれみ深い謙遜の御業です。天主は、まったく見返りをうけることなく、無償の愛をくださいます。さらに、これは私たちに対する天主のまさに最初の御業なのであり、私たちの側からでき得るどのようなお応えよりも先にあるのです。天主は、その全能と上智をお使いになり、無条件であふれるほど豊かに、ご自身の愛、光、幸福、内的な喜びを与えてくださいます。天主は、私たちがこの永遠のあふれるほどの賜物の基礎の上に存在することを望んでおられます。天主は、その命で私たちを豊かに満たそうと望んでおられます。

しかし、私たちが、天主の賜物に対して、それを喜んで受け入れ、それに対して完全に心を開く場合にのみ、天主はこれを行うことがおできになります。罪を通して、私たちはこの天主の愛の流れを妨げており、天主に私たちへ御あわれみを与えていただく代わりに、私たちがこれらの賜物を受ける権利を持っていたかのように、私たちが自分自身でその賜物を得ることができるかのように思ってしまうのです。これは傲慢な態度であり、私たちの心の奥の本質はもちろん、天主の心の奥の本質まで否定しているだけでなく、それらを逆転させてしまうのです。天主が人類のしもべとしてとらえられているのです。人間は天主のようになりたいのです。

しかし、天主は、私たちの邪悪さと罪深さを使ってでも、さらに多くの御あわれみを示すことがおできになるのでした。天主は、半死半生の人類である私たちに、「良きサマリア人」である御独り子を送られ、私たちに赦しと浄めを与えてくださいます。この良き羊飼いは、迷える羊をあわれみ深く探し出し、御父の家へと戻してくださいます。イエズスが十字架に掛かり、私たちのために亡くなられたことは、天主の御あわれみの最大の現れです。「最後に至るまで」、主はご自分が持っておられるものすべてを、血のまさに最後の一滴まで、私たちにお与えになったのです。

しかし、人間の最大の悲劇は、多かれ少なかれ、その傲慢と自己満足の中に自らを閉じ込め、この至高のあわれみ深い天主の愛を受け入れないことにあるのです。天主の恩寵に自ら心を開いている人でさえ、天主がその御あわれみを完全にお見せになることを許しませんでした。なぜなら、「わが(天主の)心の計り知れないほどの愛に対する怠慢、無関心、忘却」があったからです。

では、天主の御あわれみを完全に受け入れ、天主のあふれるほどの恩寵に対する障害物を何も置かなかった人間がいるでしょうか? 実際に天主によって運命づけられ、天主がそうあるように計画なさったような人間を、私たちは見つけることができるでしょうか?

はい、その人こそが、インマクラータ、無原罪の聖母です! 聖母という存在はそのすべての点において、天主の御あわれみを反映したものです。聖母は天主からのものをすべて受け取り、受け入れられます。まさしくその結果、この天主の特性は、ある意味で、聖母においてご托身されているのです。聖母だけが、永遠の御父のすべての賜物を受け取られました。聖母は、天主がお下しになった善さに完全に心を開かれました。愛は、持っているすべてのものを与えることを望みます。天主は、被造物が受けることができるすべてのものを与えることを望まれます。そして、被造物の中で唯一聖母が、まことに天主の恩寵のすべてを受けたのです。なぜなら、聖母は、天主の愛に対して、いかなる障害物も置かれなかったからです。いつでも、どこでも、完全に、天主のご意志に対して「はい」と言われたのです。聖母は、絶対的に忠実に、天主の愛に応えられたのです。ためらいもなく、疑問もなく、疑いもなく! 天主ご自身が地上に来られるにあたって、聖母以上に良い道具と神殿はありえませんでした。それゆえに、最も善き御父の御摂理は、その汚れなき娘が、ほんの少しの悪に染まることをもお許しにならず、悪魔が聖母の霊魂へ触れることもお許しになりませんでした。これが聖母の無原罪のお宿りなのです。

無原罪のお宿りにおいて、私たちは、天主の御あわれみがまことに及ぶ範囲を発見するのです。まったく信じられないことであり、驚くべきことであるのは、天主が無でしかない被造物に対してどれほど多くを与えようと望まれるのか、天主の聖心が私たちの惨めさ(misery)に対してどれほど多く気にかけておられるのか、です。あわれみのラテン語である「ミゼリコルディア(Misericordia)」が示す通りです!

「見よ、わが最愛の子どもたちよ、われに造られし『無』よ、われに贖われし罪びとよ!
われは、わがあわれみを汝らに与えるに際して、無限の寛大さを示したい。汝らには無原罪の聖母が見えるか? 聖母がどれほど純粋か、どれほど美しいか、信じられないほどあらゆる徳にどれほど充ち満ちて、わが愛で燃える心を持っているかを? 最高の知恵、浸透する知性、わが永遠の命に満ち、聖霊の浄配、わが子の母、わが無限の力に参与するわが娘を? 汝らは、今までこのような被造物を見たことがあるか? これこそ、わがあわれみである!

しかし、さらに次の段階があるのです。聖母は天主の御あわれみを完全に受けられたため、今度は聖母がその子どもたちすべてに対するあわれみの源となるよう、天主は望まれたのです。イエズスが十字架の上で聖母に対して「あなたの子を見よ」と言われたとき、聖母は私たちの霊的な母となられました。それは、聖母が私たちのためにすべての恩寵の母なる源、すべての恩寵の仲介者、あわれみの御母―「マーテル・ミゼリコルディエ(mater misericordiae)」になられたことを意味しているのです! このゆえに私たちは理解するのです、人々が聖母の助けを請い求めるところがどこであれ、子どもが愛情深い母親について知っているように、聖母は「あわれみ深く」、常にあわれみ深く、母としてのあわれみに満ちておられるということを。

天主は、私たちの救いと私たちの永遠の幸福を大変望まれています。天主が、地上における天主の御あわれみの目に見えるしるしとして、御子の人間としての聖心を造られただけでなく、私たちに「あわれみの御母」を、私たちを非常に愛してくださるその御母のあわれみ深く汚れなき御心とともに与えてくださったほどに!

あわれみの年は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけなのです。「われは慈悲を示そう! 汝らにわが賜物を、わが光を、わが宝を、わが愛を与えよう!」。私たちがしなければならない唯一のことは、心の扉を広く開けて、自分を本当に天主の方に向け、インマクラータ、無原罪の聖母に倣うことです。私たちが、すべてを受け入れるという聖母の態度をもちさえすれば、私たちは、 天主の御あわれみをもう一度受け入れ、私たちの罪の浄めという天主からの驚くべき御業に始まるあふれんばかりに豊かな賜物を天主からいただくことができるのです。なぜなら、天主は何度も何度も私たちをお赦しになるのにお疲れになることは決してなく、私たちの強情さや不忠実をご覧になるのではなく、私たちの最も小さな悔い改めのしるしさえもお使いになって私たちを無限の愛の賜物に再び浸してくださるからです。

では、「無原罪の聖母の騎士」とは何でしょうか? 人間の霊魂に天主の御あわれみを注ぐための聖母の道具なのです。私たちのすべての祈り、犠牲、使徒的活動には、唯一の目標があります。汚れなきあわれみの御母を、罪と誤謬というあわれみのない闇に座したままの愛する子どもたちに近づけさせ、聖母が彼らの心に触れて、天主の無限の御あわれみに向かわせ、天主が彼らを救い、聖人にするのを可能にさせることなのです。

2015年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、ニゴンボ(スリランカ)にて。
カール・シュテーリン神父


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア ”騎士",その4つの重要な意味

2016年01月06日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。
聖マキシミリアノ・コルベ神父様はなぜ「騎士」と呼ぶのでしょうか?

 私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っています。

 朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。この第2回目は「天使の出現」について黙想させ、「あふれんばかりの天主の現存」と「天主の御稜威(みいつ)」を学ぶことを。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベが無原罪の聖母の道具を「騎士」と呼んだのには、重要なわけがあります。聖母が、この世でのご自分の道具となるよう私たちに呼びかけられるのは、死の闇と影の中に座したままの愛する子どもたちを救われるためです。聖母はその霊魂たちに改心と聖化の恩寵という大量の光を差し込ませたいと望まれており、私たちはその光を伝える橋または経路となるべきなのです。しかしながら、隣人を愛するということを、マリア様を通じてまことに行うことは、単に義務を果たしたり霊操や苦行を行ったりすることではありません。これは戦争であり、絶え間のない戦いなのです。それゆえに、聖マキシミリアノは、まさに軍隊の用語を使ったのです。恩寵が霊魂に出会うときはいつでも、聖母は不倶戴天の永遠の敵に出会うのです。この敵、悪魔は、原罪を通してこの世の支配者なのです。無原罪の聖母の役割は、再び征服することです。霊魂を贖って、サタンの暴政の国から私たちの主イエズス・キリストの永遠の国へと向かわせることです。

私たちはこの「騎士」という称号を軽々しく考えるべきではありません。私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っているのです。

第一に、この称号は、私たちが戦闘の教会に属しており、この地上で生きるということは不倶戴天の敵同士の絶え間のない戦いであることを思い出させてくれます。

私たちの主は言われます。「誰も二人の主人に仕えることはできない。…破滅に至る道はいかに広く、救いに至る道はいかに狭く通りにくいことか」。主についてはこう言われています。「彼が立てられたのは、イスラエルの多くの人の堕落と復活、そして逆らいのしるしとなるためである」。「私と共にいない者は、私に逆らう者である」。聖ヨハネは言います。「彼は世にあった。…世は彼を知らなかった。彼はご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。…この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先にわたしを憎んだことを忘れてはならぬ。あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。…私があなたたちを選んでこの世から取り去った」。さらにその第一の手紙の中で、ヨハネは基本原理を明確に述べます。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない。世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて御父から出るのではなく世から出る」(ヨハネ第一2章15-16節)。

聖パウロと教会の教父たちは、これ以外の教理を知りませんでした。聖アウグスティヌスは特に、救いの歴史のことを、天主の国と悪魔の国の終わりなき戦いであると要約しました。キリスト教のこの基本的考えは、例外なくすべての聖人に見られます。

天主を否定するフリーメーソンの扇動行為を目撃した聖マキシミリアノはこう書いています。「では、私たちは何をすべきなのだろうか、無原罪の聖母の騎士である私たちは…今日、私たちは、どちらの側に立つのかを断固として、また毅然として宣言しなければならない。無原罪の御母の連隊の兵士としてキリストの旗の下に立つのか、サタンの旗の下に、天主を憎むという反乱と背教の旗の下に立つのかを。私たちの主イエズス・キリストご自身が『私の味方でない人は私に背き、私とともに集めぬ人は散らしてしまう』と言われるように、ここには和解や妥協はありえない」。

私たち無原罪の聖母の騎士は、すでに決定を下しているのです。

さて、私たちは皆、現代の時代精神によって影響を受けています。今日、平和主義が教会内を支配しています。私たちはみな兄弟姉妹だ、敵はもはやいない、と教会内の人々は言います。平和、それが第一にして主要な標語なのです。彼らは言います、天主は戦争をお望みではなく、平和を望んでおられる、と。それに続いて、私たちは異なる信仰を持つ人々を理解するようにし、彼らを受け入れ、彼らの価値を知り、彼らと一緒に活動するべきだと言います。いずれにしても、人はすべて善意の人であり、それが、私たちが平和と幸福の新しい世界を建設している理由なのだ、と。そんなスローガンは教会の不倶戴天の敵によって何世紀もの間使われてきたという事実はさておき、そんな「宣言」は霊魂に対して犯すことのできる最悪の罪です。戦争は継続中であり、敵は攻撃し続けています。しかし、私たちの軍隊の将軍たちは武器を捨てるだけでなく、この敵を友と呼んで抱きしめさえし、非常に練りに練られた方法で誰かが背後から自分たちを傷つけていることに気がつきません。これが教会の危機なのです。ほとんど抵抗することなく、教会は霊魂たちを渡して、サタンの奴隷の状態にしているのです。

それゆえに、騎士は「一人ですべての異端をことごとく滅ぼし給うた」女の方の旗の下に立たなければなりません。この方はまた、現代の無神論という怪物ヒドラと戦う私たちを助けることがおできになります。カトリック信者は今日、戦いの精神で満ちていなければなりません。そうでなければ滅びてしまうでしょう。この敵は確かに大変危険です。なぜなら、目に見えず、形のない影響力として動員されてきているからです。人々をやさしい風のように包み、最強の壁を通り抜ける波長のように包みます。素敵でもっともらしく思えるフレーズに満ち、「バランスがとれ」、友好的で、親しみがあり、魅力的で楽しさに満ち、共感を呼ぶ感情があります。これが、敵が今日使っている毒なのです。このどこにでもいる死をもたらす敵との戦いを宣言することは、危険だと知られている明白な攻撃者に対処しなければならないことに比べれば、比較にならないほど困難です。この戦いはどのようなものか、敵の戦術はどんなものか、どんな武器やどんな戦略を使うべきなのか、といったことを考える前に、今が戦闘状態、実際、生死をかけた絶え間のない戦闘状態にあることを確信しなければなりません。「兄弟たちよ、節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ第一5章8-9節)。無原罪の聖母の騎士会会則の第一条は、この戦いを強調しています。「彼女はおまえの頭を砕くであろう」(創世3章15節)。もちろん、これは天国の地獄に対する戦争の宣言の最初にして唯一のものであり、無原罪の聖母の騎士の生き方を決定づけるべきものです。

第二に、終わりのとき、この戦いが激しさを増すことと、「できるなら選ばれた人たちをさえ迷わすほど」(マテオ24章24節)悪魔が勝利に次ぐ勝利を収めるという事実について完全に意見の一致があることもまた重要です。

ですから、天主の御母が主なご出現、特にラ・サレットとファチマにおいて、この戦いの最終段階のことを述べられ、忠実な子どもたちに対して聖母が私たちにお与えくださった強力な武器を手に取るように呼びかけられているのは驚くに当たりません。結局、聖母がご出現になったのは、正確に言えば、この戦いにおいて私たちのそばにいて、勝利へ至る最も確実な方法を教えられるためだったのです。天主の御母がシスター・ルチアに話されたときに使われた表現である「決定的戦い」の時代である現代において、若きダヴィドが怪力のゴリアテに相対したように、無原罪の聖母の旗の下、敵に対して真っ向から戦いを挑む小さな軍隊を招集することは、これまで天を喜ばせてきています。この戦いはさらに激しくなりつつあるため、主はしもべたちを高めて、この戦いについて知るだけでなく、戦いの前線において、細心の注意を払ってしもべたちの心と姿勢を兵士の理想の状態に保ち、敵の目を真っすぐに見て、敵の仮面をはぎ、敵と戦うようにさせてくださいます。これが無原罪の聖母の騎士です!

第三に、騎士とは普通の歩兵ではなく、いわゆるエリートに属しています。

再び聖マキシミリアノの言葉を聞きましょう。「天主の教会の敵たちによってなされたそのような強力な行為に直面して、私たちは無駄に時間を過ごすことが許されるか? ただ単に不平を言ったり涙を流したりすることが許されるか? 否! 考えてもみよ。最後の審判の時、私たちは自分のしたことを説明するだけでなく、天主は、私たちができたであろうにもかかわらずなさなかったよい行いすべてを数え上げられる。私たち一人一人には、最前線に立って敵の攻撃をかわすという重大な義務が課せられている。よくこんな言葉を聞く。『でも、私に何ができるだろうか。敵は十分組織化されており、大きな力と富を持っている…』。そんな人は、聖パウロがこう言ったことを確かに忘れてしまっている。『私は、私を強めてくださる天主においてすべてができる』」。

ですから創立者の著作においては次のような言葉が繰り返し使われています。騎士の身分、戦い、攻撃、霊魂を勝ち取る、敵を打ち滅ぼす、弾薬、正しい武器を配備する、など。それは、彼が、キリスト教が眠りに落ち、悪魔との平和が宣言されてきているこの私たちの時代の危険を予見していたかのようです。「騎士、騎士の身分、戦い。すべてまさに戦争のように聞こえる。なぜなら、実際に戦争なのだから! ライフルや爆弾、戦車、毒ガスが使われる戦争ではないが、本当の戦争だ。私たちの戦略は何か? なによりも、祈りなのだ」、「私たちは自分の頑迷さに勝ち、この防衛的な態度から脱しなければならない。フリーメーソンや自由思想は天主と信仰に対して戦いを仕掛けており、人を聖なるものを破壊する卑しい動物や野蛮人にしてしまおうとしている。だから私たちも戦おう。もちろん許された手段をもって。私たちと隣人たちが異教徒になるのを防ぐだけでなく、マリア様がすべての人の心を統治し、それによって彼らにキリストの国がやって来るようにするために」。

第四に、しかしながらこの戦いを、私たちの人生における冒険的な段階、感傷的な映画、コンピューターゲームのように理解してはなりません。この戦いには、私たちの持てる限りの強さが求められます。戦いは地上における私たちの滞留のあらゆる面に影響を与え、敵を打ち負かすまでは、限界を知らず、終わりがありません。言い換えれば、この戦いには中途半端なものはありません。騎士は最高の理想によって絶えず霊感を与えられなければなりません。「このお方、無原罪の聖母が、可能な限り早く全世界の元后、すべての人の霊魂の元后、世界のすべての国々の元后になってくださるために、すべての心が例外なしに聖母への愛で満たされるために、それが私たちの最高の理想である」。

騎士にとって、凡庸、怠惰、無関心は無縁です。「だから、騎士は悪が広がることに無関心でなく、心を挙げてそれを嫌い、機会があるならば、どこであれいつであれ、霊魂に毒を与える悪なら何であっても追い詰めるのだ」。

ですから再び言います。朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

2015年10月27日、マニラにて。
カール・シュテーリン神父


ファチマ2017に向けて(2)


1916年春 ― ルチアに対する天使の第一の出現

フランシスコとヤシンタ

ファチマの偉大なるドラマは1916年、天使の三回の出現によって始まりました。私たちの人生において特別な出来事が起こるならば、特にその始まりと終わりについて考察しなければなりません。始まりは、私たちの人生に重要な変化をスタートさせ(たとえば、勉強の始まり、信仰への回心、将来の配偶者との最初の出会い、召命の最初のしるしなどです)、終わりは、その出来事を通じて私たちに起きたことすべての頂点、まとめのようなものです(司祭叙階、婚姻の秘跡、長い間の勉強の後の最終試験などです)。天主の現れにおいても同様で、始まりと終わりに特別な注意を払わなければなりません。その始まりは、その上にビル全体が建てられる土台にたとえられ、終わりはビルの完成に似ています。

1916年以来、フランシスコとヤシンタは、従妹のルチアを手伝って、自分たちの家とルチアの家の羊の群れの世話をする許可を両親から得ていました。ルチアは9歳、フランシスコはちょうど8歳、ヤシンタは6歳でした。

1916年の春のある日、子どもたちは羊たちと共に、生まれ育った村アルジュストレル近くのオリーブ園にいました。いつものように、正午のころロザリオを祈り、軽い昼食を取ったあと遊び始めました。

「私たちはしばらくの間、ゲームを楽しんでいましたが、そのとき、強い風が木々を揺らし始めました。何が起きたのか見ようとして、見上げて驚きました。その日は通常と違って静かだったからです。すると、オリーブの木の上に、私たちの方にやって来る人物が見えました。私が前に話をした人でした。ヤシンタとフランシスコは以前まったく見ていなかったし、私もそのことを彼らに言っていませんでした。その人が近づいてくると、私たちはその容貌を識別することができました。若い男性で、14歳か15歳ぐらいでした。雪より白く、太陽の光が通り抜けたとき水晶のように透明で、大変美しい姿でした。

私たちは驚き、心を奪われ、びっくりしてしゃべることができませんでした。

私たちのところに来ると、その人は言いました。 『恐れるな! 私は平和の天使である。私と共に祈れ!』

天使は地面にひざまずいて、ひたいが地面につくまで頭を下げました。

超自然の力に導かれて、私たちも同じようにし、天使が言う言葉を聞いて、その言葉を繰り返しました。

『わが天主よ、われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る! われ、御身を信ぜず、御身を礼拝せず、御身に希望せず、御身を愛さぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る!』

これらの言葉を三回繰り返してから、天使は立ち上がって言いました。
『このように祈れ。イエズスとマリアの聖心は、汝らの願い求める声をお聞きになる。』そして天使は姿を消しました」。

私たちも、この最初の天の介入について黙想しましょう。

1.いつもと違う強い風

聖書の中にある天主の現れを黙想すれば、突然吹く神秘的な風と関係あることがしばしばあることが分かります。例えば、ホレブ山の預言者エリア、聖霊降臨の日の高間の家での使徒たちです。また、ルルドで最初に無原罪の聖母がご出現になったとき、聖ベルナデッタは「突風のような音」に驚きました。

詩篇103章は言います。「あなたは風を使いとし、あなたは風の翼に乗って進まれる」。霊に当たるヘブライ語は「強い風」と訳すことができます。この最初の事実は、ファチマ(の出来事)をこの世での天主の出現に近いものとします。この風によって、天主は超自然の雰囲気をおつくりになり、それがあらゆる闇と悪を吹き払い、光と天国のような平和をもたらすのです。

2.最初の言葉「恐れるな! 私は平和の天使である」

この言葉は福音書にあるものとそっくりです。天使が神殿でザカリアに現れ、洗者聖ヨハネの懐胎を告げたときです。あるいは、お告げの日の後に聖母にあいさつしたとき、天使は言いました。「恐れるな、マリア」。天使が聖ヨゼフに現れたとき、あるいは、ご復活の日の朝にイエズスの墓にやって来た女たちに現れたとき、天使は言いました。「恐れるな!」

3.天使の出現

天使の出現について聞かれたとき、ルチアはしばしば「Era de luz―天使は光のようでした!」と言っていました。これもまた、福音書の言葉とそっくりです。主のご復活を告げた天使は稲妻のような外見を持ち、その服は雪のように白かったのです(マテオ28章3節)。また、この福音記者は、ご変容の主についてこう述べています。「主の顔は太陽のように輝き、服は雪のように白くなった」(マテオ17章2節)。「天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主がご自身を(天使や聖母を通じて)人間にお見せくださるときはいつでも、輝きと光をまとっておられます。光に関するこの神秘は、ファチマのご出現全体を通して、本当にしばしば言われています。

4.あふれんばかりの天主の現存

ルチアは天使の出現について述べています。「私たちを包んだ超自然の雰囲気が非常に強かったため、長い間われを忘れてしまい、天使が去っていっても同じ姿勢のままで、同じ祈りを続けて繰り返していました。天主の現存を、本当に心の底から強く感じたため、私たちは互いに話をしようなどとは思いもよりませんでした」。天主の現存は途方もないことであって、私たちの弱い人間の力にとっては、粉砕されてしまうほどのものでした。しかし、この「天主の現存の前での無力」は、この三人の子どもたちにとって、まず第一に天主が無限に聖であることと被造物が無であることをよく知るという、まことの謙遜を学ぶ上での最高の場となったのです。

私たちへの教訓


1.私たちの中の天使

ファチマは天使の出現によって始まります。天主は私たちに、「目に見えない世界」が存在することと、私たちにとってそれがどれほど重要かをよく考えて理解させようと望まれます。純粋な霊としての天使が私たちに思い出させてくれるのは、私たちが永遠のために創られたということです。天使は、天主の超越性、御稜威、聖性を反映しています。私たちの住むこの物質的な世界においては、五感で感じるものだけしか理解できませんが、天使の存在は(五感で感じられないものがあると分からせる)重要な治療薬です。天使は、物質に対する霊の優位性、一時的なものに対する永遠の優位性を明らかにしています。

天使はまた、天主の無限の美しさを反映しています。歴史上の天使の出現においてはいつも、彼らの輝きと光に満ちた信じられないほどの美しさが見られています。聖トマス・アクィナスによれば、「美は、真理と善を輝きと栄光によって表しているもの」ですから、天使は私たちに真理と善であるものを愛させ、崇めさせ、それと同時に、醜いあらゆるもの、偽りと悪であるあらゆるものに対する健全な嫌悪を私たちに与えるのです。

最後に、天使は天主の全能の力と強さの反映です。

大天使聖ミカエルはルシフェルとその追随者を天国から地獄へと投げ落としました。
ガブリエルという名の訳は、「天主の力」です。
ラファエルはトビアを導き、最も大きな悪から彼を守る大変な力を持っています。

特に私たちの時代においては、私たちは自分の極端な弱さと力不足を感じています。第一に、良心を調べればいつも、力強い世代だった先祖たちに比べ、私たちは自分が完全に退化していることが分かります。また、どこであれ「闇の力」の支配があるがゆえに、私たちの生きる限り、天使の現存と保護の下にいれば、私たちはあらゆる誘惑に簡単に勝つのです。

天主が天使を送ってくださったのは、私たちを守るため、私たちの世話をするため、私たちの守護天使とするためであることを忘れないようにしましょう。一般的に言って、私たちが生きているあらゆる状況の中で、天使たちに私たちを助けようとする力と望みがあることを私たちは過小評価しています。ファチマでは、天使が子どもたちに祈ることを教え、一緒に祈りました。一回一回のミサには天使がいて、ご聖櫃の前で絶え間なく讃美と礼拝をし、天の元后に対して大きな崇敬と愛を捧げていることを私たちが思い起こすなら、私たちの霊的生活はたちまち変わることでしょう。なぜなら、天使たちは、私たちの霊魂が天主に対して開かれるために適した雰囲気をつくり出すからです。

2.天主の御稜威(みいつ)

この大変高貴な天使、彼が子どもたちに何を言い、どのような動作をするのでしょうか? 天使は天主に祈るために、地にひざまずいて、ひたいを地面につけます。一位の天使がすでに、子どもたちがその前でほとんど息をすることができないほど高貴な存在であるのなら、数十億もの天使が天主の御稜威のまえで地にひれ伏しているというのなら、いったいなんと言えばいいのでしょうか?! 「天使たちはみな、玉座…の周りに立ち、玉座の前にひれ伏して天主を礼拝した」(黙示録7章11節)。

ファチマの偉大なる始まりは何ですか? 一つの祈りです。

その祈りはどう始まりますか? 「ああ、わが天主よ」

・天主の無限の御稜威と偉大さについての失われた真理。無限の大海。創造物は天主の前では無。

・私たちにとって、これが意味することは、始めであって終わりであり、必要なただ一つのこと、世と私たちの生活の中心、それは私たちではなく天主であるということです。ああ、わが天主よ。

・あらゆる被造物は天主の前ではちりです。ですから、ひれ伏すこと、ひざまずくこと、これらは、私たちが真理を認め、天主の支配と天主に服従することを理解することの目に見えるしるしなのです。(天主よ、)あなたは始めであって終わりであり、本源であって目的であり、土台であって頂上です。私はまったくの無です。私は、あなたのおかげで、あなたにおいて、あなたのためにのみ存在することができるのです。

3.本質的な徳:信仰、希望、愛―私たちのいのちの本質

この祈りは絶えず、私たちを天主と関係づけてくれます。天主がすべてであるなら、最も重要なことは、私たちが天主に対して正しい態度を取ることです。するとこうなります。「われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る」。

われ信じ奉る、われ天主の目に見えない世界を認め奉る、われ、わが周りの目に見える世界以上に、御身がわれに啓示し給うたことを確信し奉る。われ信じ奉る、われ天主の実在を認め奉る、われ、わが目を真理とただ一つのまことのいのち、天主の存在と活動に開き奉る。

礼拝は、天主の啓示に対して素早くお応えすることです。信仰によって、天主が私のすべてであり、私が天主に完全に依存していることを理解するなら、私はそれを行動で示さなければなりません。

礼拝は、天主が私の本源でありかつ最終の目的であること、つまり私のすべてであることを承認することです。そして自分自身を本当に理解することです。私は完全にあなたに依存しており、私はあなたのものです。

希望は天主のご意思を成就させたいという望み、天主のところに到達したいという望みです。

天主の偉大さ、幸い、愛を見た者なら誰でも、限りない喜びへ憧れを持つ以外のことはできません。しかし、希望はまた、天主の御約束への信頼です。私たちは至福を希望し、望むことしかできません。なぜなら、天主は私たちをそのようないのちへと招いて天主の子どもとしてくださるからであり、私たちに天国での居場所を用意してくださっているからです。

愛は心が一致することです。私たちを創り、救う天主の愛へ、私たちを天主ご自身のいのちに参与させようと望む天主の愛へ完璧にお応えすることです。私たちのいのちの頂点であり、私たちがすることのできることのうちで最も高貴で最も良いこと、実際に私たちの人生の中で唯一の価値あることなのです。

「私たちの人生の終わりに、私たちはどれほど愛したかについて裁かれるでしょう」と幼きイエズスの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは言っています。

4.罪という神秘―償いの必要性

「われ、御身を信ぜ…ぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。大変興味深く重要なことは、私たちの人生の本質(私たちの天主との関係)を述べたあとで、天使は子どもたちにまったく反対のこと、天主の実在を否定すること、つまり罪について教えるのです。

ですから、ファチマの一番最初から、今日では完全に忘れられているもう一つのテーマが現れるのです。世界と人間の歴史は、二つの対立する力、天の国と悪魔の暴政の国、天主への「はい」と天主への「いいえ」(信じない、礼拝しない、希望しない、愛さない)との間の戦いです。

「素晴らしい新世界、地上の楽園」での生活を想像し、普遍的な友情と愛で皆が結ばれるであろうと想像するならば、それは最悪の幻想となってしまうでしょう。

いいえ―まことの天主への「はい」と「いいえ」の間の戦争があり、主ご自身の明白な宣言によれば、最後まで「はい」の態度でいる人々だけが救われるのです。

しかし、天主の敵を信じる人々に対して、ルシフェルの「私は仕えない」に従う人々に対して、私たちはどんな態度を取ればいいでしょうか? 憎しみでしょうか? 無関心でしょうか? 怒りでしょうか? 不幸なことにそれが、私たちの周りにいる悪に対して、しばしば私たちが起こす反応です。

天使は違う言葉を教えています。「われ、…人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。この小さな一文を何度も何度も黙想しなければなりません。

第一に、これは痛悔の祈り、悔悛の祈りです。赦しを請い願うことです。
罪びとが行う第一の愛のわざは罪を悔やみ、赦しを請い願うことです。私たちはみな罪びとですから、私たちはみな赦しを請い願わなければなりません。

「信じない人々」とは誰ですか?
他の人々だけでなく、この私も「信じない人々」の一人なのです。人生において、いったい幾度、信仰や従順(礼拝)、天主への信頼、まことの望み、天主と隣人への愛に欠けていたでしょうか! 自分がいま「光」の中にいるという事実は、私の技能や寛大さのゆえではなく、天主の無限の御あわれみのゆえなのです。

それゆえ私は、現在信じない人々、私も含めてかつて(それはそれほど以前ではないかもしれません)信じない人であったすべての人々と一致して、赦しを請い願います! この連帯は、隣人へのまことの愛のわざなのです。まことの愛は私たちの隣人に「全ての最善のもの」を求めます。全ての最善のもののなかで一番のものは、それがなければ救いが得られない「罪の赦し」です。

第二に、この祈りは、本当の最高の善と、本当の究極の悪が何であるかを分からせてくれます。
ファチマの一番最初に、「われ赦しを請い願い奉る」の言葉があるのなら、私たちは「天主を信ぜず、…天主を愛さぬ…」ことはいかに恐るべきことかを理解します。ですから、私たちの人生において最も重要な任務の一つはこのことについて思いをめぐらすことです。これは次回述べる天使の出現によって確認されることになるでしょう。


*** 非常に重要 ***


新しいウェブサイト www.militia-immaculatae.asia があります。

私たちは喜んで皆さんにお知らせします。「アジアの無原罪の聖母の騎士会」の新しいウェブサイトがもうすぐ開設されます。
アジアのすべての国々の騎士が、その国々に無原罪の聖母のことを知らせるために、私たちと協力してこの使徒職を行っています。

このウェブサイトを自分のためにだけ使うのではなく、できるだけ広めてください。これは、無原罪の聖母の道具としての皆さんの聖なる義務であって、聖母のことを知らせ、可能な限り多くの霊魂が聖母を愛するようにさせるためです。

しかしながら、誰かに文章を読んでもらったり、黙想してもらったりするために、皆さんがこのウェブサイトへのリンクをその人に送信するのなら、
その前に無原罪の聖母の射祷を唱え、皆さんがそのリンクを送信する人の心に聖母が触れることがおできになるようにお祈りください。

でも、第一に皆さんにお願いするのは、聖母にノベナ(聖母の連祷)を唱えることです。この重要な使徒職に対する聖母の祝福と恩寵を請い求めるのです。

どうぞ、皆さんの知り合いに、誰もが次のEメール「 info@militia-immaculatae.asia 」を使って無原罪の聖母の騎士会の管理者に連絡できることを知らせてあげてください。
(了)


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア ファチマ100周年に向けて

2015年09月30日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。「無原罪の聖母」とは何か、「騎士」とは何か、そして「無原罪の聖母の騎士」とは何か、を順を追って黙想します。

 「無原罪の聖母の騎士」は、無原罪の聖母の唯一の望みを実現させようとそのことだけを望みます。すなわち、霊魂の救いです。霊魂を天国に導くことです。救霊です。

 ファチマの聖母マリア様の言葉がこだまします。「本当に多くの霊魂が、永遠の滅びに行っています。何故なら、彼らのために祈り、犠牲を捧する人が誰もいからです!」と。

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。そこで、天使たちの子供たちへの前触れの御出現について黙想させます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

無原罪の聖母の騎士会を設立したとき、聖マキシミリアノ・コルベは、この会を他の信心会や第三会、マリア運動などと比較されたいとは思いませんでした。これらの信心会や団体は、会員に一定の祈りや信心業、具体的な使徒職を義務付けています。無原罪の聖母の騎士会の義務は、他の会より少なくもあり、多くもあります。

少ないというのは、一日に射祷を一回することと不思議のメダイを身に着けること以外に、騎士たちにはほとんど何も義務付けられていないからです。怠っても罪に定められてさえいません。

多いというのは、騎士たちは、いつでもどこでも従うべき大きな理想、新しい生活の法を与えられているからです。カトリック信者は、自分が正確に何者なのか、何者であるべきかということについて、深い理解力を受けています。つまり、個人的に祈るだけでなく、自分自身の救いのみを気にかけている個人主義者でもなく、戦闘の教会のメンバーの一人、私たちの主の弟子の一人でもあり、短い一生のうちに達成すべき非常に特別な任務を受け、イエズス・キリストの王国を拡張するために働きかつ戦う者という理解です。また、イエズス・キリストがその御母を、「キリスト教徒の軍隊の最高司令官」「黙示録の婦人」として任命なさったのであり、御母だけが龍と獣に対抗して立ち向かい、御母だけが「龍の頭を砕」き、「世のすべての異端を滅ぼす」との約束お受けになったのですから、聖母に自分を捧げ、聖母に奉仕する者となり、聖母のご意志を成就させ、聖母の子ども、奴隷、道具、兵士、使徒、軍団兵、騎士となるならば、カトリック信者だけが戦闘の教会で自分の役割と任務を果たすことができるのです。

朝目覚めるとき、皆さんは「私は何者だろうか」と自問します。その答えはこうあるべきです。「カトリック信者であり、無原罪の聖母の騎士である!」。そして、「きょうは何をすべきだろうか」と自問するとき、その答えはこうあるべきです。「私は、この一日のあらゆる小さなことに至るまで聖母の道具であり、だからきょうも、私たちの主の誉れのために、多くの霊魂の救いのために戦う。このようにして、私はわが主のこのご命令を達成しよう。『私があなたたちを愛したように、…あなたたちに模範を示したように、すべてを超えて天主を愛し、互いに愛し合え!』」。この考えが皆さんの霊魂に深くまで入れば入るほど、知性や心、意志、感情に浸透すればするほど、思考や言葉、行動に浸透すればするほど、朝から晩まで影響を与えれば与えるほど、皆さんはどんどん深く無原罪の聖母の騎士になっていくのです!

騎士になるためには、自分の人生の新たな法としてこの素晴らしい考えを受け入れようという意志を持てさえすれば(これが奉献の祈りです)十分です。(できるなら)少なくとも一日に一回はそれを思い出し、少なくとも一日に一回は聖母が霊魂を救う手助けをする聖母の道具として何かをすること、それが射祷一回だけであっても十分です。そうすると、皆さんは少なくとも一日に一回、本当に価値のある永遠のこと、天主をお喜ばせすることをしたことになるのです。少なくとも一日に一回、皆さんは自分の指を聖母に差し出したことになるのです。その小さな手ぶりは聖母に忘れられることはなく、しばしば聖母は、あわれな罪びとをその愛すべき御心に引き寄せて、罪びとに罪をやめさせ、聖性を成長させる機会をお与えになると、私たちの聖コルベは約束します。

しかしながら、無原罪の聖母がその子どもであり騎士である者に、さらにもっとお与えになるのは明らかです。事実、私は、自分の短い人生において、聖母の御手の道具としての役割についてもっともっと理解を深めています。ですから、それについて(これから)もっともっと考えるようになるでしょうし、聖母が人間をまことに幸福にし、サタンの支配から人間を解放するのをもっともっとお助けしようするでしょう。自分が無原罪の聖母の騎士であるとの思いは、何か私の活動の駆動装置、意欲の源のようであり、私の霊魂に隠された潜在能力や力強さ、才能を目覚めさせてくれ、少しずつ私の人生を変えていってくれます。そのうち、心が狭く、自己中心的で、怠慢で、退屈した、無関心なキリスト教徒は、理想に満ち、目に愛の炎を燃やした人間、霊魂の狩人となるのです。これこそがまさに、無原罪の聖母の騎士の歴史であり、その驚くべき成功の秘訣なのです。

1917年から1974年まで、この新しい命の法によって霊感を与えられた何百万もの素朴なカトリック信者が完全に別の人に変わって聖母の熱心な兵士となり、百人以上の福者や聖人、何千人もの英雄的霊魂が東ヨーロッパの無神論的共産主義国家において、天主の権利のために戦って命を捧げました。また、全世界の人々をカトリックの真理へと回心させた数えきれないほどたくさんの聖母の騎士もいました。

皆さんは、ご自分の「新しい名前」である「無原罪の聖母の騎士」という名前について黙想するだけで、この「新しい生活の法」を思い出すでしょう。その中にはすべてのものがあるのですから。

1.中心となる言葉は「無原罪の聖母(インマクラータ)」です。聖母なしではカトリック信者ではありえません。

「無原罪の聖母よ、あなたは何者でいらっしゃるのですか」。この質問を一分間黙想するならば、皆さんの地平は無限に開かれるでしょう。天主の御母、キリストの御母であるという聖母の第一にして主要な特権、それによって天主は天国から地上へこられ、それによって私たちは地上から天国へと戻ること。罪のしみもなく、いとも純粋で、聖寵充ち満てる無原罪の聖母。天主の完全な傑作であり、それに比べればすべての被造物はちりの如きもの。「ああ、無原罪の聖母、天と地の元后」。サタンの頭を踏み砕き、その御心が最後に確実で全面的に勝利する黙示録の女性。そして、「私たちを大変愛してくださる御母」。私たちの拠り所、天主へと至る私たちの道、私たちの希望、私たちの喜び! 地上で頼りになる唯一のもの。その中でイエズスの聖心が輝くマリアの汚れなき御心と、この二つの御心に天主の充満をもって浸透していく愛の炎。聖霊! 無原罪の聖母、いとも聖なる三位一体の御聖櫃、天主が私たちに与えようと望まれるまったくすべてのもの。すべては聖母を通して私たちにやって来ること。

2.第二の言葉は皆さんに関係があります、つまり「騎士」です。私は騎士である。それはどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは軍事に関係する用語であり、戦いという現実、危険な敵という現実を示しており、地上で生きることは二つの絶対的に敵対する勢力の間の戦争であり、真理と誤謬、光と闇、愛と憎しみ、幸福と不幸、天国と地獄、まことの教会と偽りの教会、キリストとサタンの間の戦争なのだということを思い出させてくれます。

第二に、騎士とは、単なる兵士よりも更なる存在です。騎士の心は素晴らしい目標で燃え上がっています。そのために戦い、命を捨てる用意があり、戦いの良き理由について納得し、率先して戦い、休息を知りません。騎士は高貴な心、勇敢な心を持っています。騎士は素晴らしいもののために戦い、狭量ではなく、決して怠けることなく、臆病者ではありません。中世の騎士の歴史は、これの良い実例です。

第三に、誰も自分を騎士とするのではなく、長上によって、しばしば王自身によってそう叙任されます。これは大きな特権です。中世には、自分がその名に値することを多くの努力や証拠で証明しなければなりませんでした。ですから、騎士の素晴らしい徳は、勇気と感謝、王に全面的に奉仕すること、あらゆる状況下で信頼されることです。完全であること、誠実であること、度量が大きいこと、寛大であることです。

私とはなんと対照的でしょうか。私はしばしば怠惰であり、怠慢であり、無関心であり、目的も理由もなくあらゆる場所をうろつき、あらゆる種類の幻影の餌食であり、野性的な感情を持ち、宣伝と世論の餌食なのです。ちっぽけな楽しみや面白い体験を探し求めて貴重な時間を浪費し、体と霊魂を駄目にし、多くの偽りの友人たちによって心が荒廃させられるのを許しているのです。

しかし、違う見方や意欲からであっても、天主が私にそうなるよう望まれるもの、天主がマリア様を通して私にそうなるようお求めになるものがあります。それは、私が英雄的に行動するために創造されたという永遠の運命を持ち、立派で、高貴なものとなることです。

3.第三の言葉は、前の二つの言葉を合わせたものです。つまり、「無原罪の聖母の騎士」です!

私は聖母のおかげで存在します。聖母が私をお選びになったという現実の中で、聖母の騎士になることに同意するときでさえ、聖母は私の改心と聖母の呼びかけに応える心を準備してくださいました。

私は聖母のために存在します。私が戦う高貴な理由は、聖母の名誉です。聖母は私を汚れなき御手の道具として、失われた子どもたちを誤謬と罪の牢獄から救うために世に送ってくださり、その結果、聖母は彼らを悪魔の鎖と永遠の破滅から解放してくださるでしょう。私のこの短い人生において、聖母は私にほとんど限界のない任務を与えてくださいます。私の人生の残りの貴重な時間を、無限の報いを勝ち取るために、聖母を通して世を征服するために使うのか、使わないのか、すべては私にかかっているのです。(不滅の霊魂一つ一つは、物質の世界全体以上のものです。)

聖母の素晴らしい望みが私の望みになるべきです。「私に子どもたちを返してください。子どもたちを光そして恩寵に連れていかせてください。でも私には道具としてあなたが必要です。あなたは、小さな祈りを通して子どもたちのところへ行きます。あなたは犠牲を通して子どもたちの霊魂に準備させます。あなたは彼らに近づいて、私の不思議のメダイ、私の言葉、私の忠実な奉仕者たちの言葉を与えます。あなたは彼らに私の奇跡と愛を語ります。すると、私はあなたが私と彼らの間に造った、それらすべての小さな架け橋を使って、彼らを改心させ、彼らを私の子のところへ返すためにやって来るでしょう。」

無原罪の聖母の騎士会が聖伝のカトリック信者の中に再び設立されるのを、天主の御摂理がお許しになったのなら、私たちには新しい自分が与えられるか、あるいは自分を取り戻させてもらえることになるでしょう! 私たちは自分を限定し過ぎていませんか? 私たちは、自分が受けた莫大な宝に対して、もう感謝していないという危険な状態にありませんか? 若者たちは宗教を担わなくなり、この世に満ちあふれた楽しみ、映画やゲーム、面白いことにもっと興味を持っているのではありませんか? 自らを「レジスタンス」として自画自賛しつつ「信仰を保全する」という名で自らの小さな個性や新奇性を褒めたたえているだけの人々と戦うというくだらないことに全時間を費やしてしまい、私たちは霊的な力強さを失いつつあるのではありませんか? 私たちは、自分たちの霊感や見方以外に規則のない状態で、小さな心地よい生活に閉じこもるという危険にあるのではありませんか? 私たちは、自分たちの望むことを行うだけで、「何者にも依存しない」ことが多すぎたり少なすぎたりしつつあるのではありませんか? その結果は、完全に自己を喪失してしまいます。

でも、無原罪の聖母ご自身が私たちを目覚めさせるために来られます。愛する子よ、今こそ来て、私の仕事をしなさい。あなたは、私が誰だか知っており、私に祈り、信仰を保つ人々のうちの残されたごくわずかな人々に属しているのです。あなただけのところに私は訪れることができ、あらゆる時代の中で最悪のこの時代に、私が霊魂たちを救うのを助けてくれるようお願いするのです。ですから、あらゆることやあらゆる人についての不毛なコメントや判断で、あなたの時間を無駄に使わないでください。インターネットで出回っているあらゆる意見や発言を読むことで、時間を無駄に使わないでください。政治のことは政治家に任せ、バチカンとの議論は聖ピオ十世会の長上に任せてください。そしてあなたは、自分のすべき仕事をしてください、と。

自分の不滅の霊魂を救い、他の多くの人々を救うのを助けるという、自分自身を取り戻してください! あなたは私の子であり、私はあなたの母なのですから、私だけがあなたに自分自身の感覚を取り戻させることができ、あなたを守ることができます。そうすれば、あなたは自分自身を緩めることはないでしょう。ですから、私のところへおいでなさい。私にあなたをカルワリオに連れて行かせてください。あなたの冷えた心は、あなたのためにその御血を捧げた私の子へのさらに多くの愛で鼓動するようになるでしょう。おいでなさい。私は、あなたが受けた信仰の驚くべき神秘すべてについて、あなたに黙想させてあげます。おいでなさい。私はあなたを私の道具にしてあげます。そうすれば、あなたの生活はもう一度素晴らしいものになるでしょう。そして、あなたが毎日従事している本当に平凡なことが、あなたが地上でできる最上のこと、不滅の永遠の宝を獲得することの重要な手段となるでしょう。「本当に多くの霊魂が永遠の滅びに行くのです。彼らのために祈ったり、犠牲を捧げたりする人が誰もいないのですから!」

皆さんが聖母の騎士であろうとすればするほど、皆さんは霊魂に平安が、心に喜びが、精神に光が増していくのです! 皆さんは、自分が何者か、自分の目標が何であるべきかという、自分自身をいずれ見つけていることでしょう!

皆さんもお分かりでしょうが、小指を聖母に差し出せば、今度は聖母から本当に信じられないほどの多くのものを受けます。すべての信者が自分を騎士として聖母に捧げれば、聖母はそれらの信者の信仰をさらに深くしてくださり、私たちの主のあの御言葉が私たちの中で実現することになるでしょう。「必要なことは唯一つ、まず天主の国を求めよ、そうすれば、すべて他のものは与えられる。」


2015年9月11日、シンガポールにて、
カール・シュテーリン神父



ファチマ2017年へ向けて


私たち無原罪の聖母の騎士は、無原罪の聖母の騎士会設立100周年と同様に、ファチマの聖母のご出現100周年を記念する準備をしたいと望んでいます。可能な限り多くの霊魂を聖母の足元に連れて行き、聖母の汚れなき御心の凱旋のために、黙示録の女性の龍やその獣に対する勝利のために戦う小さな軍隊にしたいと思います。

無原罪の聖母の騎士として、私たちは、無原罪の聖母の騎士会の会則に従って生きなければなりません。ですから、私たちは、聖母がその道具である聖マキシミリアノ・コルベを通して私たちに行うよう命じられたことを知らなければなりません。そのため、一人一人の騎士は「無原罪の聖母、私たちの理想」という本を読み、黙想すべきです。この本は、騎士会の精神、目的、意味のすべてを説明しています。

ファチマの使徒として、私たちは、人々の救いを確実にするために彼らを私たちの主のもとに連れて行くことができるのと同様に、聖母がファチマで三人の子どもたちに与えられたご要望にお応えし、それを広めるようにしなければなりません。ですから、私たちは、その後の世界へ聖母の素晴らしいメッセージを伝えるために選ばれた三人の生涯やメッセージと同様に、ご出現の正確な歴史と聖母の言葉や行いを知らなければなりません。

まず第一に、ファチマのご出現とは何なのかを定義しなければなりません。

ファチマは、1915年に、一つの前触れで始まります(後述参照)。1916年にルチア、フランシスコ、ヤシンタは、春、夏、秋の3回、天使の出現を受けました。1917年には聖母が5月13日から10月13日まで6回、8月を除いてコバ・ダ・イリアと呼ばれる場所で彼らにご出現になりました。8月のその日には、子どもたちは牢に入れられており、ご出現の場所に行くことができなかったのです。しかし、8月19日に聖母はバリンホスと呼ばれる場所で彼らにご出現になりました。7月13日に聖母は、汚れなき御心への信心を確立するため、またロシアの奉献を求めるため、あと2回来ることを約束されました。1925年12月10日には、聖母はポンテベンドラで、1929年5月13日にはトゥイで、修道女志願者となったルチアにご出現になりました。ヤシンタとシスター・ルチアは、個人的な恩恵のため、他にもご出現を受けました。シスター・ルチアは主と聖母からいくつかの啓示を受けました(ビジョンではなく内的な声のようです)。そのとき主と聖母は、汚れなき御心への信心を実践することについての質問に答えられました。

ファチマの全メッセージを理解したいなら、天使の3回の出現と聖母ご自身の8回のご出現について詳細を知っていなければなりません。聖母のお求めに対する信頼できる答えとしてファチマの子どもたちの生涯や行動を考察するのと同様に、彼らが語った主要な言葉を集めることもまた最重要です。私たちがファチマのメッセージを生かすため、本物のファチマの使徒になるため、子どもたちは、このようにして私たちの案内役になるのです。


1915年

ファチマの歴史には、1915年に興味深い前触れがあります。ルチアの初告解の日、ルチアは教区の教会にあるロザリオの聖母の御像の前でひざまずいていました。「私の霊魂の情熱すべてをもって聖母にお願いするため、私のあわれな心が天主のことのみに向けられるためです。目を御像に向けて、この謙遜の祈りを何度も繰り返していると、聖母がほほ笑まれたように見えました。また、愛にあふれた視線と優しい動きがあり、聖母がそうなさったのだと確信しました。私の心は喜びに満ちあふれ、ほとんど一言も発することができませんでした」。初聖体のあと(ルチアは8歳でした)、家の羊の世話を引き受けました。ある日、3人の少女と一緒に、羊に草を食べさせるために塀で囲まれた牧草地に入っていきました。「お昼ごろ、昼食を食べました。そのあと、仲間と一緒にロザリオを祈ることを提案し、みんな熱心に賛成しました。私たちが祈りを始めるやいなや、目の前で、木々の上の空中に止まっている人物が見えました。雪でできた像のようで、太陽の光でほとんど透明になっていました。『あれは何?』と仲間たちは尋ね、非常に怖がっていました。『分からない』。私たちは、前にいるその像をじっと見ながら祈りを続け、祈りを終えたとき、その像は消えました」。このご出現は2回ありました。のちにルチアは説明しました。「このご出現は私に強い印象を与えましたが、どう説明していいのか分かりません。少しずつ、この印象は弱まっていき、それに続く出来事もありませんでしたから、私はそれを完全に忘れてしまっていたと思います」

これらの無言の天の介入の意味は何でしょうか?

第一の意味。天主が人間の中で偉大なことを成し遂げようとなさるなら、天主の適切でふさわしい道具となるよう、選ばれた人々に準備をさせるのがいつものことです。ルチアは小さな子どもでしたが、しっかりとした常識があり、大変素朴な霊魂でした。しかしルチアは、特別な生活を送るために選ばれたのであり、その生活を送るには英雄的な謙遜と非常に苦しむ用意のある深い愛が要求されるのです。

この特別な任務には特別な恩寵が必要です。聖母のほほ笑みはその最初の段階であり、超自然の世界との圧倒されるような接触でした。そのような「接触」は、霊魂を強く聖化するのです。天使が現れれば、この超自然の世界の素晴らしさを理解させてくれ、それが霊魂に深い「印象」を与え、大変素晴らしいため、人間の言葉では説明できないのです。

第二の意味。これらのご出現のあと、小さなルチアの最初の苦しみが家族からやって来ました。以前は、ルチアは大切な「かわいい子」でした。今は、「幻視すること」、天の秘密を聞く役目が、いかに大きな犠牲を払うことになるのかを学ばなければなりませんでした。それによって得になることはなく、また自分がたたえられたり褒められたりすることはなく、子ども時代を幸せにしてくれるすべてのものを失いました。母や姉妹たちから批判の言葉を聞いて、ルチアは書きました。「人をばかにしたこれらの言葉や動作を私は鋭く感じ取り、今に至るまで抱擁を受ける以外は何も知りませんでした」

私たちのための教訓

これらの言葉のない前触れは、重要な教訓を私たちに示しています。

第一の教訓。大きな出来事が起ころうとしているなら、天主が準備してくださいます。天主は使者や天使、聖人を送って、人々を将来下される恩寵を受け入れられるよう(私たちの心を)開いてくださいます。ルチアにとっては、それは聖なるロザリオの元后のほほ笑み(幼きイエズスの聖テレジアもまた、勝利の聖母のほほ笑みによって癒やされました)と、3回の無言の天使の出現でした。私たちにとっては、それは無原罪の聖母の騎士になるという恩寵であり、私たちに送られた使者は、まず第一に私たちを天の御母に近づけてくれた偉大なマリアの聖人たちです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、私たちが自分を聖化するためにどれほどマリア様を必要としているのかを理解させてくれますし、聖マキシミリアノは私たちを聖母の旗の下に連れて行ってくれます。その結果、私たちは天主のご意志を成就させ、王たるキリストの呼びかけにお応えすることができるのです。私たちはまた、大天使聖ミカエルや守護の天使にもっと近づくべきです。彼らは同じような方法で、無言であっても私たちに深い天の「印象」を与えてくれます。

第二の教訓。

天国、天使や聖人たち、天主ご自身は私たちの経験を無限に超えていますから、天主ご自身がこの無限の光に対して私たちに準備をさせなければなりません。多くのプロテスタントに加えて、こんにちの近代主義やカリスマ主義の運動もまた、天主を無限の御稜威として正しく理解することを台無しにするという悲しい貢献をしています。遠く離れたところで出現した天使の前でも、すでに子どもたちが震えているのなら、ほとんど無限の数の天使の創造主である天主ご自身の前では、いったいどうなるでしょうか?

私たちは、イエズスとほとんど仲間のように話すことや、聖母にすてきな美しい母として近づくことに慣れています。私たちは、お二人が私たちよりほんの少しだけ優れたお方でしかないかのように、お二人に不平を言います。

聖ヨハネが天使の前でその威光のために膝をかがめたのなら、聖人たちの出現が人々を地に伏せさせ、目をまともに見る勇気もなかったのなら、この深い敬意を表した振る舞いは私たちのそれといかに違っていることでしょうか。

ですから私たちは、超自然の現実の前で適切に振る舞うようもう一度学ばなければなりません。

第三の教訓。

私たちが天主に近づけば近づくほど、私たちはもっとたくさん苦しまなければなりません。ファチマの子どもたちは、聖母から計り知れない幸せと喜びを受けるでしょう。しかし、彼らは「それに対する支払い」をしなければなりません。私たち「ファチマの使徒」も同じです。私たちが天主に奉仕しようと望めば望むほど、俗人たちは私たちをさらに拒絶するでしょう。一般的に言って、苦しみは私たちが近づいていった人々からやって来ます。聖母に奉仕したいのなら、皆さんのいわゆる友人たちは離れていくでしょう。誤解や屈辱、嘲り、軽蔑に苦しむでしょう。しかしきっと、他の友人たちを得るでしょうし、世が知ることのない慰めを受けるでしょう。


親愛なる無原罪の聖母の騎士、ファチマの使徒の皆さん、私たちは2015年に生きています。

これらの出来事のちょうど100年後、天は2017年の来るべき大きな出来事の準備をしようと望んでおられるのは確実です。これらの教訓を学び、それを私たちの生活に生かすならば、私たちはどれほど良い聖母の汚れなき御手の道具になることでしょうか!
(了)


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第7号 ― 聖母の汚れなき御手の道具となった約束を忘れないために、ファティマ2017に向けて

2015年08月31日 | M.I.(無原罪の聖...
アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙第7号

*** 聖母の汚れなき御手の道具となった約束を忘れないために ***


親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

皆さんが無原罪の聖母の騎士として誓約したことに関する古典的問題について皆さんにお示しすることをお許しください。

皆さんは、無原罪の聖母の小さな軍隊に所属するというこの特権に、どのようにして到達したのかを考えてください。皆さんが長い間にわたって聖母を愛してきたのは確かであり、聖母の信じられない御力を信じていました。多分、皆さんは黙想会への参加や静修をしたり、書物や文章を読んだりしたのでしょう。特別な恩寵が皆さんの心に触れ、炎となり、火となり、大きな望みとなったのでしょう。「天の御母、私はあなたのためにもっと(なすべきことを)行うべきです」。

皆さんがファチマでの聖母の汚れなき御心のメッセージを知ったのなら、またそれと共にレジオマリエや無原罪の聖母の騎士のことを知ったのなら、これを私たちの天の御母が皆さん一人一人のためにくださる大きな愛の、まことに特別な恩寵でありかつしるしであるとみなしてください。皆さんは深い感謝をもって思い出すでしょう、皆さんが聖母への美しい奉献によって入会した日のことを。聖母を知らなかったり、御子から離れてしまったりして、罪の中に生き、永遠の地獄への道にある多くの子どもたちを聖母が救うのを助けるために、聖母の汚れなき御手の道具となる約束をしたその日のことを。

しかし、熱心だった最初の数週間のあと、私たちはしばしば、あの誓約を忘れたり脇に置いていたりします。日々の必要とするものや試練のため、光はさえぎられ、炎は小さくなってしまいます。一度、少しの間、司祭のニュースレターや説教を読めば、少しの間はあの望みが目覚めますが、一般的には長くは続きません。

私たちのうちに炎を燃えさせ続け、あの誓約を継続させるには、私たちは何をすべきなのでしょうか。私たちが受けたものを保存するだけでなく、成長し、聖母にもっと近づき、聖母によって導かれ、聖母のあふれる愛によってもっともっと魅了されるために。

第一に、私たちが理解しなければならないのは、この最も高い価値について「忘れる」というこのこと、少しの間の熱心さのあとで怠けるというこのこと、最も偉大な愛に対する無関心というこのこと、これらは、原罪の傷によって起こされた私たちの堕落した本性に受け継がれているということです。この事実に驚いてはいけません。あたかも最悪の罪を犯したかのように、失望に陥ってはいけません。まったく正常なものだからです。私たちは堕落してしまった取るに足りないものですから、私たち自身の力によって、私たちの弱い手や心で天の宝を維持することはできないのです。

第二に、理解しなければならないのは、霊的生活を保ち、私たちのマリア様に対する愛や、誓約への忠実を保つことができるのは、天主の恩寵だということです。しかし、聖性において成長し、天主の栄光への熱意、救霊についての熱意が成長するには、天主の十倍の恩寵が必要です。主がマリア様を通してこれらの恩寵を私たちに与えたがっておられますが、すべての恩寵を得るためには、私たちがそれらを求めなければならないと確信しなければなりません。私たちが主の扉をたたくだけで、主は私たちのために扉を大きく開けてくださり、主のすべての宝で私たちをいっぱいにしてくださるでしょう。ですから、朝夕の祈りは重要なのです。朝はより大きな熱意を請い求め、一日の間忘れないようにと願うのです。「御母マリア様、私はあなたの子です。あなたの奴隷です。あなたの騎士です」。また夕には赦しを願います。私はたびたび忘れ、無視しました。強い決意をもって、次の日はもっとよくなるようまた頑張ります。皆さんの無原罪の聖母の騎士会への入会証明とともに行った奉献の祈りを時々更新することもまた、大変助けになります。

第三に、私たちの約束と誓約を守る最も重要な手段は、それらを心に留め、内省し、考え、黙想することです。これは私たちの知性が行うことであって、私たちは天主の光でそれを育てていかなければなりません。私たちが時々「聖母マリアの栄光」について読んだり、考えたり、黙想したりするだけで、私たちの精神は照らされるでしょうし、その結果として心に炎が燃え上がるでしょう。ですから、聖マキシミリアノ・コルベは月刊誌「無原罪の聖母の騎士」や他の本を出版すると大変強く主張したのです。ですから、聖コルベは最も現代的な伝達手段を使いたがったのです。そうすれば、聖母の御心に基づく信じられないほど多くの何百万もの事実、出来事、奇蹟、御出現、回心の恩寵、成聖の恩寵(の話)で(多くの)精神を養うことができるでしょう。人々はこれらのニュースを読むことによって、熱意が高まって、時には英雄的行為にまで至ったのです。

ですから、皆さんはこのニュースレターに感謝し、そして皆さんのために私たちがすでに発行し、また発行を計画中の小冊子やカテキズム、書物にも感謝すべきです。将来には、皆さんのための特別な書店、非常識な(ほど安い)価格でそれらの書物を注文できる書店を持ちたいと思います。そのために私たちは、無原罪の聖母の騎士のウェブサイトも準備しています。以下のリンク先は補足的情報を皆さんに提供します。皆さんが関心を持ってくださればと思います。

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日本語以外のページへ MILITIA IMMACULATE

これらのサイトを毎日十分間読んでくださるなら、皆さんは聖母について決して忘れないと確信することができるでしょう。

第四に、知性を養うだけでは十分ではなく、自分の意志によって実行もしなければなりません。これが意味するのは、黙想したことを少なくとも一日に一度、行ってみなければならないということです。たった一つの小さな犠牲によって、どれほどのものを得るのか、皆さんは想像もできないことでしょう。例えば、皆さんが誰かについて怒りたいならば、皆さんは「自分の怒りを殺す」という犠牲を捧げてください。誰かについて悪く思ったり話したりする代わりに、その人のために回心の恩寵と成聖の恩寵を願う小さな祈りをしてください。そうすれば皆さんは、天主に栄光を捧げ、自分を聖化し、効果的に隣人を助けたことになるのです。

聖なる良い行いとは、誰かに贈り物として良い本(小冊子、カテキズム、御絵、ロザリオ、メダイなど)をあげること、不必要なものを買うのをやめて本当に必要としている人(黙想会に参加する支払いのためなど)にお金をあげること、自分の義務を特別な愛と熱意とほほ笑みをもって果たすことです。

これらはまったく簡単な「思い出させてくれるもの」ですが、これらを通して皆さんは聖母を大変お慰めし、聖母が霊魂を救うのを助けるのです。試してみてください。



アジアの無原罪の聖母の騎士会に関するニュース

ご存じのように、私たちは、2017年のファチマのご出現の記念日に向けて、聖母の旗のもとに十万人の騎士を集めるために無原罪の聖母に助けをお願いしています。聖母の汚れなき御手に十万の道具を集めて、悪魔の頭を砕き、非常に多くの生ぬるい霊魂を救うためです。彼らは、天主の恩寵から離れてしまったか、天にあわれみ深い御父と素晴らしい御母がいることを全く知ることがなかった人々です。

ですから、私たちは無原罪の聖母の騎士会がほとんど毎週発展するのを見て大変感謝しています。しかし、忘れてならないのは、最も重要なのは騎士の数ではなく、その質なのです。無原罪の聖母の騎士の中に、熱心で従順で忠実な騎士が一人いれば、あまり熱心でなかったり無関心だったりする騎士たち千人にまさる勝利を獲得するのです。

この日(2015年6月30日)、私たちはアジアで1,918人の騎士を数えるのなら、こんな美しい「成績」が得られたことを聖母に必ず感謝すべきです。前回のニュースレター以来、騎士の数がほとんど倍になったことになります。私は特にティム・ファイファー神父様に感謝します。フィリピンの無原罪の聖母の騎士会のモデレーターとして、私たちの聖母の軍隊に入会するよう、ミンダナオの多くの信者に準備してもらっていたのです。また、アジアのほかの二つの国、中国とインドネシアの信者も、この数週間で無原罪の聖母の騎士会に加わりました。

私はこれらの騎士たちから手紙を受け取りました。彼らは孤立したところに、カトリックの信仰、特に聖伝のカトリックに敵対的な人々の中に住んでいます。彼らは自分たちが聖母のこの小さな軍隊に今属していることに大変感謝していますし、もう自分たちだけ孤立しているとは感じていません。彼らは、他の多くの人々が同じように孤立していて、聖母のために霊魂たちを勝ち取る同じ闘いに霊的に加わっているということを知っています。そして、このことは彼らを信仰においてより強くするのです。これが、忠実な騎士たちに対する聖母の愛の美しいしるしではないでしょうか。

将来、2―3カ月以内に、私たちのアジアのチャペルすべてで入会式が行われ、騎士の数は増え続けることを期待しています。テラジアン神父様はもうすぐ、南インド(ナーガルコーイル、クリスティラヤプラム、シンガンパライ、クーノア、トリチ=ティルチラッパリ=)の私たちのチャペルで新たな騎士を受け入れるでしょうし、私自身は9月にもう一度フィリピンを訪問して、イロイロ、バコロド、セブでの誓約の儀式に参加します。フォルティン神父様はタナイ、バギオ、アグーで入会式を行ないます。

そのあと、今度は皆さんの番です。私たちには皆さんの努力が必要です。皆さん一人一人が最初に、無原罪の聖母の騎士会へ入会する少なくとも2人の人を見つけてください。今からこのことについて考慮してください。聖母の道具として皆さんが行動するための小冊子や他の書物を求めてください。



*** ファチマ2017に向けて ***


ファチマの重要性を理解するために、1917年の出来事に直接関係したシスター・ルチアへの聖母の最後のご出現から始めることができるでしょう。1917年7月13日、天主の御母は、ファチマで「私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、月の第一土曜日の償いの聖体拝領を求めるため」もう一度やって来ることをお告げになりました。事実、天主の御母は、幼子イエズスと共に1925年12月、ポンテヴェドラの修道女志願者だったシスター・ルチアにご出現になり、聖母の汚れなき御心への奉献の本質を説明されました。1929年6月13日の夜の11時から12時の間には、トゥイでご出現があり、その中でマリア様は聖母の汚れなき御心へのロシアの奉献をお求めになりました。シスター・ルチアはこの幻視を次のように説明しています。「突然、チャペル全体が超自然の光で明るくなり、祭壇の上に天井まで伸びた光り輝く十字架が現れました。さらに明るい光の中で、十字架の上方に男性の顔が現れ、その体は腰まで見えました。その胸の前には全体が光の鳩がいて、 また、十字架に釘づけられたもう一人の男性がいました。その臀部の少し下には空中に浮いているカリスと大きなホスチアがあり、その上に十字架のつけられた男性の顔と傷ついた脇から血のしずくが流れ落ちていました。血のしずくはホスチアの上に流れ、そこからカリスの中へ落ちていました」。

「十字架の下の右側には、ご自分の汚れなき御心を手にもった聖母がいらっしゃいました。(それはご自分の汚れなき御心を左手にもち、剣や薔薇ではなく茨の冠に囲まれ、火のついた、ファチマの聖母でした。)」

「十字架の下の左側には、透明な水で書かれたような大きな文字があり、十字架に付けられた人の手から祭壇の上に流れていて、『恩寵と御慈悲』という言葉を示していました。」

「至聖なる三位一体の神秘が私に示されていることがわかりました。そして私はこの神秘について、私が明らかにすることを許されていない直観を受けました。」

この後シスター・ルチアは天主の御母がこの幻視の際におっしゃった言葉を書き記しています。それは、教皇が世界の全ての司教達と共に、ロシアを汚れなき御心に奉献することを求められたことと、それによってロシアが救われる、ということです。

この御出現の第一の目的は確かにロシアの奉献であって、ファチマにおける聖母マリアを通した天主の偉大なる御約束の履行でした。しかし、なぜ聖母マリアはこのメッセージと、至聖なる聖三位一体の幻視を結びつけようとされたのでしょうか?それはもちろん、聖母の御出現の究極の目的、最も深遠な意義はこの神秘に基づいているからです。言い換えれば、聖母がファチマ(や他の御出現)を通して世界に与えようとされる個々の聖寵は全て、大変深遠な現実つまり天主の神秘と贖いにおける無原罪の聖母の真の意義に人々の心を向けさせるためのものです。

全てのものは、御子を世に送られ、御子と共に聖霊を息吹かれる御父である天主から来ています。御父こそが、全ての存在するもの、全ての生けるもの、全ての愛の起源です。御父の聖心から御子が生まれ、聖霊が息吹かれるのです。

御子の使命は十字架の上で世を贖うことです。トゥイにおける幻視では、十字架が祭壇から天井に至る部屋全体を占めていました。十字架は天主の愛全体を表しています。十字架に付けられた御子を通じて、全ての『恩寵と御慈悲』が私たちに与えられます。贖い主の傷から流れ出る血はホスチアとカリスの神秘に集められます。つまり、キリストの贖いの業全ては至聖なる御聖体の内に現存し、これによってカルワリオでの犠牲が再現され更新されるのです。

聖霊の使命は、贖いの業全てを『照らす』こと、つまり天主の愛全てを光、恩寵、力として光り輝かせ、天主の御業を完成に至らしめることです。この聖霊の業、天主の自己犠牲、私たちと私たちの救霊のための天主のこの世への御降臨は全て、無原罪の聖母の御心に集められます。無原罪の聖母の御心は全て聖霊の光からの光であって、天主の愛全てを受けいれます。聖母の御心は、聖霊に満たされた聖母の霊魂、底知れない叡智に満たされた聖母の知性、献身と愛に満たされた聖母の意志とから成る聖母の深奥の目に見える現れです。聖母は、キリストと共に人類を贖うため、新しいアダムの側の新しいエバとして、お一人で十字架の下に立っておられます。聖母がそこに立っておられるのは、贖いの犠牲の初穂としてです。聖母の無原罪の御宿りの奇蹟はこの犠牲によってなされたのです。聖母の御心がキリストの茨の冠で刺された形で現れるのは、聖母が全ての被造物の中で最もキリストのお苦しみを共にされた共贖者であることを示しています。聖母はこの御心を手に、その御心を私たちに差し出し、私たちにくださいます。聖母が私たちの御母であるからです。愛の霊に強められ、聖母の御心は子どもたちのために燃えます。聖母はカルワリオの山で子どもたちのために幾多の痛みを忍ばれ、今、子どもたちをなんとか永遠の破壊から救い出そうという望みをいだいておられます。

無原罪の聖母は輝く御心を通して私たちの世界に触れられます。三位一体からの溢れる愛が聖母から霊魂に流れ込みます。これこそが天主の無限の愛の第一の動き、すなわち教会博士たちが『exitus(天主から出る)』と呼んだ、十字架につけられた主の傷から『恩寵と御慈悲』としてこの世に流れ出る、生ける水に例えられるものです。

私たちは、無原罪の聖母を通した天主からのこの『恩寵と御慈悲』の呼びかけに答えなくてはなりません。天主が御光臨されたのは、まさに私たちが天主に帰るためです。これは教会博士たちが『reflexus(天主に帰る)』と呼んだ、被造物が天主に帰ることです。天主が御光臨になったのと同じ道を通じて、私たちは天主に帰るのです。「私の汚れなき御心はあなたたちの避難所であり、天主に繋がる道です!」この御出現の際の聖母のメッセージは、ファチマの主要なテーマである三つの言葉にまとめることができます。それは、consecratio(奉献)、reparatio(償い)とconversio(回心)です。聖母マリアはキリスト世界が困難の内にある時に助けに来られ、人々を聖母の汚れなき御心に呼ばれ(奉献)、天主の下に導き(回心)、キリストの王としての統治の確立に参加するよう呼ばれます(償い)。

「ときがやってきました…」と言って、聖母マリアはトゥイでのメッセージを始められました。今、終わりのとき、被造物が天主に帰る始まりとして、聖母マリアが全ての恩寵の仲介者として世界に知られるよう、天主がお望みになることがファチマにおいて全世界に対して明らかにされました。聖母マリアの御心は天主の子どもたちを集め、暗い世界のただ中で恩寵の光を保つようにされます。私たちは聖母の御心において、最後までキリストの十字架の下で耐え忍ぶことができるのです。このようにして、私たちはマリアを通してキリストへ、聖霊において父なる天主へと帰ることになるのです。

2017年に向けての準備をするため、皆さんの心の中で聖母の言葉を繰り返してください。「ときがやってきました!」「親愛なる騎士のみなさん、みなさんが私を世界に知らせ、限りなく私に信頼し、数多くの霊魂を救うための私の汚れなき手の温和な道具となるときがやってきました。」


聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン神父 SSPX MI

2015年05月13日 | M.I.(無原罪の聖...
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は主の昇天の前日です。また今日は5月13日ですから、ファティマの聖母の御出現の記念日でもあります。98年前のこの日、聖母マリア様はこう言いました。
「世界の平和、そして戦争の終わりを得るために、毎日ロザリオを祈りなさい。」 (ファチマの聖母 1917年5月13日)

 記念日と言えば、今年はいろいろな記念がありました。秋田の聖母の涙の40周年。高山右近の帰天400周年、など。

 ところで、2015年5月8日は、豊臣秀頼の自害により大阪夏の陣の終結から400周年でした。(フィリピンからの秋田巡礼者5名と一緒に、大阪城天守閣にその日に登閣しました。)

 聖フランシスコ・ザベリオは、日本を大天使聖ミカエルに奉献しました。聖ミカエルが、謙遜に「誰が天主に如くものあるぞ」と雄叫びを上げてサタンと闘ったように、日本も聖ミカエルに倣い、天主に従うことができるように、との祈りが込められていました。聖伝の典礼暦によると、地方教会の祝日として、5月8日は、大天使聖ミカエルがガルガノ山に御出現した祝日です。

 キリシタンを迫害した豊臣秀吉の子孫である、豊臣氏が大天使聖ミカエルの祝日に滅んだことは、御摂理を感じます。秀吉が作った大阪城は、31年しか存続せず、徳川によって灰燼に帰します。キリシタンを迫害した徳川は別の大坂城を建設しますが、天守は36年後に落雷によって焼失します。御摂理を思います。


 ところで、聖マキシミリアノ・コルベの精神に完全に忠実に従った、聖なる創立者の作ったままの会則(これは1974年に公式のMIによって捨てられてしまった)によって「無原罪の聖母の騎士会」(MI)が2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において再び始められ、その15年後の2015年5月6日、日本の秋田で15周年を祝うかのように入会式がありました。

 そこで今日は、「無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン(聖ピオ十世会アジア管区長)


親愛なる無原罪の聖母(インマクラータ)の騎士の皆さん!

聖マキシミリアノ・コルベにとって、「マリア月」(5月)はいつも大変特別な重要性がありました。聖コルベは、騎士たち全員に聖母への信心(の行い)を二倍にし、聖母へさらに近づくよう求めました。そうすれば、聖母は騎士たちを導き、さらに多くの聖寵で満たしてくださるからです。実際、聖コルベの生涯における統計を見ると、マリア月の間には、騎士たちの数が非常に増え、この会が成長したのです。多くの例の中でいくつかの事実を示します。1922年5月に、聖コルベは最初の会報「無原罪の聖母の騎士(Rycerz Niepokalanej)」を5000部発行しました。この会報は15年後には約100万部になりました。1930年5月には、日本で「無原罪の聖母の園」を発足させました。

聖なる創立者の精神に完全に忠実に、聖伝の会則によって「無原罪の聖母の騎士会」(MI)を再発足させるのに、御摂理はまたマリア月を選んだのです。2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において、最初の騎士たちが聖マキシミリアノ・コルベご自身によって定められた入会の儀式に基づいて入会しました。この儀式は1974年に公式のMIによって捨て去られたものでした。

これはまことに慎ましく小さな始まりで、MIは最初の数年間はあまり拡大しませんでした。しかし2002年5月、フランスのモルゴンにある聖伝のカプチン会の修道士たちが、フランスにおける最初の騎士たちを入会させ始めました。2年後、マクドナルド、スタフキ両神父が米国のMIをスタートさせ、スイスが2005年に後を追います。2014年には聖伝のMIはドイツ、オーストリア、アジアで公式に設立されました。2014年8月、MIの国際事務局はポーランドからスイスの聖ピオ十世会本部へ移されました。そのとき、騎士の数は約7000人でした。2015年5月の今日では、私たちの軍隊はすでに約1万人を数えます。

このようにこの数カ月の間 MI が非常に急速に拡大したことがおわかりいただけるでしょう。これは、まぎれもなく無原罪の聖母ご自身から来る特別な聖寵です。無原罪の聖母は、自分たちの霊魂を救いたいと強く望んでいるカトリック信者、あらゆる方向から攻撃を受けていると自覚しているカトリック信者に対して大変慈悲深くしてくださるのです。無原罪の聖母は次のことを私たちにはっきりと示してくださいます。すなわち、私たちがこの世で最も危険なこの時代に、妥協せずに信仰を保ちたい、聖人になりたいと望んでいるのなら、私たちは無原罪の聖母の忠実な子どもに、奴隷に、騎士になり、無原罪の聖母の英雄的徳、最も深い謙遜、汚れなき純粋さ、完全な従順をまねなければならない、ということです。

親愛なる騎士の皆さん、このマリア月の間に、祈りや犠牲によって、聖母ご自身によって今皆さんに与えられた長上への子としての従順によって、沢山の霊魂の改心の恩寵が得られるよう、特別な努力を行うようにしてください。

私は、皆さんを聖母の汚れなき御心に深く投げ入れ、皆さんの心が聖母において燃えるように望みます。

カール・シュテーリン神父


大変重要

無原罪の聖母の旗の下にあって成長しつつある私たちの小さな軍隊、私たちの霊的家族に関するニュースを皆さんに送ることをお許しください。

1.入会(2015年5月10日現在、アジア管区の騎士870名)
4月最初の週に、インドで100人以上の騎士が入会しました(パラヤムコッタイ、トゥティコリン、ボンベイ)。フィリピン全土からの聖伝の巡礼の終わりには、無原罪の聖母の騎士会がこの国に設立され、483人の最初の騎士が入会しました。
5月6日、秋田(日本)の聖伝の巡礼の終わりに、37人が自らを「無原罪の聖母の御手の道具」(騎士会の奉献の言葉より)として奉献しました。これでアジア管区には870人の騎士がいることになります。このあと数週間のうちにも、インド(ボンベイ、ゴア、ヤーコード黙想センター、チェンナイ)とフィリピン(ジェネラルサントス、ダバオ、マニラ、カガヤンデオロ、ブトゥアン、イリガン市、セブなど)で、さらに入会があるでしょう。5月中に私たちは、聖母の切実なお求めにお答えすることを望んでいる多くの寛大な霊魂を天の元后の足元に投げ入れたいと思います。聖母からのお求めはこれです。「地獄の永遠の火から多くの霊魂を救い、唯一の真理と命への道を開き、彼らを私の天主なる子へと連れて行き、ついには彼らが天国で永遠に幸せになるよう、私を助けてください。」

2.MIフィリピン
無原罪の聖母の騎士会に参加したいと望んでいる信者が大変多いため、私はダバオの聖ヨゼフ修道院長のティモシー・ファイファー神父様をフィリピン全土のMIのモデレーターに指名しました。神父様はMIフィリピンの全国登録名簿を管理し、資料(ちらし、小冊子、カテキズム、証明書、入会用紙、儀式説明書など)を提供します。またニュースレターやそのほかの資料のフィリピン主要言語への翻訳の責任者です。フィリピンにはMIの三つの主要な事務所が設けられました。マニラ、イロイロ、ダバオです。さらに主要なセンターには、登録所が設けられることになっており、そこでは将来の騎士たちが入会登録をすることができます。

3.巡礼
すでに述べたように、多くの騎士たちがボホール(4月16-19日)や秋田(5月2-6日)の巡礼で入会しました。巡礼のテーマは、私たちの生活における聖母の重要性、特にこの終末の時代における重要性です。多くの巡礼者たちが理解したのは、自分の生活の中で達成すべき重要な任務を持っていること、そしてこの地上では愛すること以上に偉大なことは何もないこと、つまり友や親戚、隣人たちに善をなし、支援し、「最も良きこと」を効果的に願うことだということです。しかし、「最も良きこと」というのは、ここ地上には存在しません。地上ではすべてに限界があり、終わりがやって来るからです。人間の心は愛することを望んでおり、愛し愛されることを止めたり、少なくしたり、終わらせたりしません。しかし、これは天国においてのみ、天主からの賜物として存在するのです。多くの人々をこの幸せに導き、同時にそれらの人々が永遠の不幸や絶望へ向かうのを防ぐこと。これこそがマリア様が私たちに求めておられることです。聖母の御手の道具となることで、聖母は私たちを使って多くの人々の心に触れられるのです。聖母がファチマでこう言われたように。「祈り、犠牲を捧げなさい。多くの人々が地獄に行くのは、彼らのために祈り、犠牲を捧げる人がいないからなのです」。
私たちはよく、巡礼者たちから次のような意見を聞きます。「神父様、私が地上でそんなに多くのことができるなんて知りませんでした。私の生活がそんなに重要で、そんなに多くの人々の無限の命と幸せが私にかかっているなんて知りませんでした。はい、分かりました。聖母の騎士になりたく思います」。
無原罪の聖母がこれらの信者たちに与えてくださった熱心さに、私たちは感謝します。今、無原罪の聖母の騎士になった彼らの多くが、惜しみない力で多くの人々を無原罪の聖母のところに連れていくことを私たちは確信しています。

4.ファチマ2017
前回のニュースレターで、私はファチマの聖母のご出現100周年を特別に準備したいという私たちの望みを皆さんにお知らせしました。私たちの主の敵が彼らの周年記念(プロテスタント500周年、フリーメーソン300周年、共産主義100周年)を祝うであろうとき、私たちは聖母の足元に少なくとも10万人の騎士を集めて小さな霊的軍団をつくりたいと望んでおり、聖母がそれをお使いになって「サタンのかしらを砕き」「世界中の異端を滅ぼし」てくださればと思います。しかし、そのためには、祈りと犠牲とによって霊魂の救いのためだけに働くにもかかわらず、ファチマの聖母の素晴らしいメッセージを人々に知らせ、人々の気分を高揚させ、彼らをこの小さな軍隊に加わらせることを望む使徒たち、力を惜しまない騎士たちが必要です。

ですから、今後のニュースレターではファチマについてもっと多くの情報を皆さんにお伝えします。皆さんは自分自身の聖化のためにそれを使うだけでなく、それをよく研究することによって、ほかの人々にそれを伝えられるようになってください。そのようにして、皆さんは「ファチマの使徒」になるのです。聖母がお約束になられたように、皆さんの報いは大きなものになると確信できるでしょう。

まず第一に、私は皆さんにファチマの天使の祈りを繰り返し祈るよう求めます。

天使の祈りは以下の通りです(この祈りは、聖母が3人の子どもたちにご出現になる前に、天使によって子どもたちに与えられました)。

わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!
御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。
至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。
私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。
イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。



聖伝のM.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)についてのまとめ
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