Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考情報】ヴィガノ大司教の宣言「ヴィンチェンツォ・パリアの法律194号に関するつまずきを与える宣言について」

2022年08月30日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の宣言「ヴィンチェンツォ・パリアの法律194号に関するつまずきを与える宣言について」

信者の皆さんが、善き司祭たちの忠告を受けて、羊の皮をかぶった狼たちから遠く離れ、神秘体におられるイエズス・キリストを十字架につけ続ける、腐敗した異常な者たちから成る最高法院(サンヘドリン)に占拠されている教会を救ってくださるよう、ご介入を求めて主に祈ってくださいますように。

2022年8月27日(主日)

VIGANÒ’S DECLARATION Regarding the scandalous declarations of Vincenzo Paglia on Law 194

カルロ・マリア・ヴィガノ

教皇庁生命アカデミー会長のヴィンチェンツォ・パリアは、8月26日にイタリアのテレビ局「RaiTre」のインタビューで、中絶を合法化した悪名高い法律194号を「われわれの社会生活の柱」と呼んで(こちら)、教導権に忠実で、この恐るべき罪に反対するヨハネ・パウロ二世の燃えるような言葉を今でも心に留めている何百万人ものカトリック信者につまずきを与えました。この罪は、イタリア国内だけで、利己主義とリベラルな反キリスト教的イデオロギーの祭壇の上で、600万人以上の罪のない子どもたちを犠牲にしてきました。

【注:イタリアでは、1978年法律194号で妊娠中絶が合法化された】
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/471307/
https://www.sankei.com/article/20161127-KXUTXWIMBBNEFOD3MF53CAJOWI/

ヨハネ・パウロ二世が、まさに中絶に反対するために設立したアカデミーの会長の発言に対する教会の体【信者たち】の正当な憤りがあるところには、「リプロダクティブ・ヘルス」(性と生殖に関する健康)と「妊娠の中断」の支持者の拍手喝采もあります。彼らは、教会がキリストの声をもって話すときには常に妨害だとして教会を非難しますが、教会の最悪の代表的人物がこの世と足並みを揃えた思想に身を売って、新マルサス主義の不正な原理を自らのものとして採用するや否や、賞賛を与えるのです。

牧者および使徒の後継者として、私は、福音および諸教皇の教えに反するパリアのつまずきを与える言葉を、最大限の強さで非難しないわけにはいきません。

新世界秩序(New World Order)、国連、WHO、欧州連合、世界経済フォーラム、三極委員会、ビルダーバーグ・クラブ、そしてアジェンダ2030に従うすべての組織は、母親の胎内にいる罪のない子どもを野蛮にも殺害することを、権利として、「社会生活の柱」とみなしています。カトリックの位階階級にはびこり、その最高レベルを占めている背教者たちのセクトが、キリストの敵どもの思想的立場と足並みを揃えていることは、象徴的なことであり、また明らかになりつつあることです。それは、関係がないように見える問題――サイコ・パンデミックの物語(ナラティブ)やグリーン・イデオロギー――についてだけでなく、受胎から自然死に至る生命の尊重を含む、まさに「自然法」の根幹を否定している点においても、同じなのです。

心配されるのは、司教職にある私の兄弟たちの中に、そして、とりわけ枢機卿会のメンバーの中に、あえて声を上げてパリアの妄言を非難し、彼の教皇庁生命アカデミーからの即時辞任を求める者がいないことです。

信者の皆さんが、善き司祭たちの忠告を受けて、羊の皮をかぶった狼たちから遠く離れ、神秘体におられるイエズス・キリストを十字架につけ続ける、腐敗した異常な者たちから成る最高法院(サンヘドリン)に占拠されている教会を救ってくださるよう、ご介入を求めて主に祈ってくださいますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年8月27日


洗者聖ヨハネは、真理と正義を説くという使命に完全に忠実で、この理由で苦しみ、殺された:

2022年08月29日 | 聖伝のミサの予定

洗者聖ヨハネの殉教と教導教会についての説教

ドモルネ神父

はじめに

明日、8月29日は、洗者聖ヨハネの殉教をたたえます。洗者聖ヨハネは、まったく不当な方法で投獄され殺害されるという段階にまで至っても、教えを説くという自分の使命に忠実でした。洗者聖ヨハネは、あらゆる脅迫や迫害にもかかわらず、カトリックの信仰と道徳を告白するという義務を負っている私たちが倣うべき模範を見せてくれました。今日は、洗者聖ヨハネが、教導教会と私たちに示してくれた模範についてお話しします。

洗者聖ヨハネの使命

洗者ヨハネは、真理と正義を説いて、人々が私たちの主イエズスを迎える準備をするという使命を天主から受けました。洗者聖ヨハネの父ザカリアは、聖霊に動かされて、自分の子についてこう宣言しました。

「幼子よ、(中略)主に先立って、その道を準備し、(中略)闇と死の陰に座る人々を照らし、平和の道に導き入れる」(ルカ1章76-79節)。真理、それは、現実をありのままに知ることです。真理を説くとは、自然かつ超自然の現実を、特に天主について、また私たちと天主との関係についての現実を、人々に知らせることです。正義、それは、厳密に言えば、天主がこの世に定められた秩序に従って、すべての人にその人に当然あるべきものを与えることです。広い意味では、正義とは、天主によって定められた法に忠実に従って生きることを意味します。ですから、正義を説くこと、それは、天主をお喜ばせし永遠の幸福を得るために、人々が行うべき善を教え、避けるべき悪を戒めることなのです。

福音の中で、洗者聖ヨハネは、兵卒、税吏、ファリザイ人、そしてすべての人々に教えを説くという使命を完全に果たしたことが分かります(ルカ3章7-17節参照)。洗者聖ヨハネは、世俗の指導者たちに対しても、その使命を果たしました。ですから、兄の妻ヘロディアデとの姦淫の状態で生活していたヘロデ王に対して、洗者ヨハネは、繰り返し、断固として、勇気をもって、こう言ったのです。「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」(マルコ6章18節)。

洗者聖ヨハネは、このようにヘロデ王の罪深い振る舞いを糾弾することで、報復や迫害にさらされることを十分に承知していました。しかし、彼は、自分の使命に忠実であり続けました。洗者聖ヨハネは、天主への愛に動かされ、天主の超越性と権威を擁護したのです。また、彼は、ヘロデ王への真摯な愛にも動かされ、ヘロデ王を罪から抜け出させ、王を地獄から救おうとしていたのです。実際、人を愛するということは、その人の善を望むことであり、その人が永遠の幸福を得るの望むことです。人を誤謬や罪の状態のままにしておくことは、その人への愛がないことを意味します。

洗者聖ヨハネは、ヘロディアデの激しい憎悪の犠牲となりました。そして、最後には、ヘロデ王によって投獄され、残酷かつ最も不当な方法で暗殺されたのです。私たちは、この死に衝撃を受けるかもしれません。なぜ、天主はご自分の忠実なしもべを、このように虐待されるようになさったのでしょうか。それは、彼が、私たちの主イエズス・キリストとともに、贖いのわざにあずかるためだったのです。実際、贖いは苦しみを通して実現します。苦しみを通して、私たちは、被造物への乱れた愛を償い、聖徳を英雄的な段階で実践し、永遠の報いを受けるのにふさわしくなるのです。

洗者聖ヨハネは、真理と正義を説くという使命に完全に忠実でした。そして、彼は、この理由で苦しみ、殺されたのです。私たちの主イエズスは、このような忠実さに対して、洗者聖ヨハネを高くほめたたえられました。「女から生まれた者の中で、洗者ヨハネよりも偉大な預言者はいない」(ルカ7章28節)。

教導教会

教導教会は、洗者聖ヨハネに与えられた使命、真理と正義を説くという使命と同様の使命を、私たちの主イエズスから受けました。教導教会とは、教皇、司教、そして司教と共に働く司祭のことを意味します。使徒たちとその後継者たちに対して、私たちの主イエズスは、こう言われました。「行け、諸国の民に教え、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊の名によって洗礼を授け(よ)」(マテオ28章19節)。これが、真理を説く使命です。「私が命じたことをすべて守るように教えよ」。これが、正義を説く使命です。教導教会のこの使命は、この世の終わりまで、皇帝、王、大統領、首相など、この世の権力者を含むすべての人々に対するものなのです。

教導教会は、自らの使命を果たすとき、邪悪な人々の憎悪と迫害のために、トラブルに巻き込まれる危険があることを十分に承知しています。この世の権力者のカトリック教会に対する迫害はたくさんあります。真理と正義を忠実に説いたために、この世の権力者によって虐殺された教皇、司教、司祭はたくさんいます。教会の歴史において、教皇が自分の使命を裏切るよりも、すべてを失う方を選んだ場合はたくさんあります。最も有名なケースの中でも、イングランド王ヘンリー八世に反対した教皇クレメンス七世のことについて触れましょう。この教皇は、結婚の不解消性についてのイエズスの教えを裏切って、王の離婚を認めるよりも、イングランドにある教会のすべての財産を失い、ひどい迫害に耐えることを選んだのです。フランスのフリーメーソンの政府に反対した教皇聖ピオ十世のことにも触れましょう。この教皇は、世俗社会に対する王たるキリストの権利を裏切って、世俗主義を承認するよりも、フランスにある教会のすべての財産を失い、厳しい迫害に耐えることを選んだのです。

教導教会は、その使命のために多くの苦しみを受けました。しかし、私たちは、驚くべきではありません。私たちの主イエズスは、私たちにこう言われました。「私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言(ざんげん)を言うとき、あなたたちは幸せである。喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された」(マテオ5章11-12節)。真理と正義を説く者が苦しむことを天主が許されるのは、彼らが贖いのわざの仲間となり、英雄的な段階で聖徳を実践し、永遠の報いを受けるのにふさわしくなるためなのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、今日(こんにち)、教皇と大多数の司教が、どれほど自分の使命を裏切っているかを見るのは、心が痛むことでしょう。彼らは、断固として、勇気をもって、真理と正義を説く代わりに、邪悪な人々を喜ばせるために、私たちの主イエズスを裏切っているのです。例えば、すべての宗教は永遠の幸福への道であると教えることで(第二バチカン公会議「エキュメニズムに関する教令」(Unitatis Redintegratio)3番参照)、彼らは真理を裏切っています。例えば、結婚の問題で、離婚して再婚した者の姦通の状態を非難するのを拒否することで(使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)参照)、同性愛を非難するのを拒否し(2013年の教皇フランシスコの「私は何様なのでしょうか」参照)、中絶を非難するのを拒否することで(米国のジョー・バイデン大統領のケース参照)、彼らは正義を裏切っているのです。今日(こんにち)の教導教会は、洗者聖ヨハネの模範に倣うことから、いったいどれほど離れてしまっていることでしょうか。

私たちの主イエズスは、すべてのことをまったく見事に行われます。主には、今日(こんにち)の教導教会の大多数が、このようにご自分を裏切るようにさせるという、決定的に良い理由がおありなのです。その理由を、私たちは天国で知ることになるでしょう。私たちの主イエズスが、私たちカトリック信者一人一人に求めておられること、それは、全時代のカトリック信仰、全時代のミサを守り、主のすべての掟を守ることです。そのために、私たちは中傷され、軽蔑され、教会や霊的黙想会の会場のような施設から締め出され、多くの犠牲を払わなければなりません。この私たちの苦しみが、天主に栄光を捧げるものであり、私たちを天国で大きな報いを受けるに値する者とさせるものなのです。ですから、常に忍耐と勇気を持ち続け、私たちの主イエズスの知恵と善意に対する確信を持ち続けましょう。洗者聖ヨハネが私たちの模範となってくださり、天から私たちを見守ってくださいますように。

photo credit


カトリック聖伝のミサ報告 聖ピオ十世会 Traditional Latin Mass SSPX Japan

2022年08月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計111人でした。大阪では26人、名古屋では25人でした。名古屋では初めて聖伝のミサに与ったという多くの方々が来られとても嬉しく思いました。

東京では、来週の主日から九月の主日のミサが二回になります。午前9時00分と午前11時30分の予定です。ご不便になってしまうかもしれませんが、ご了承をおねがいいたします。

また、大阪では、来週の主日から三回だけミサの時間が午後6時00分になります。これも皆様にご不都合をおかけすると思いますが、ご理解をおねがいいたします。

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.

The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 111 including children.

09:00 mass
M: 22 (incl. 5 children)
F: 25 (incl. 4 children)
Total: 47 (incl. 9 children)

11:00 mass
M: 16 (incl. 5 children)
F: 20 (incl. 6 children)
Total: 36 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 14 (incl. 0 child)
F: 18 (incl. 0 child)
Total: 32 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 4 people who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 10 children)
F: 61 (incl. 10 children)
Total: 111 (incl. 20 children)


この良きサマリア人は イエズス・キリストです|天主は私たちのどのような悲惨さにあわれみを垂れるのでしょうか?

2022年08月27日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年8月28日は聖霊降臨後第12主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第12主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


命の文化は全世界で今大きな動きとなっています。 世界の至る所で聖カミロたちが生まれてきています。すべての人にこの良い知らせを知らせましょう。

2022年08月25日 | お説教・霊的講話

2022年7月18日(月)証聖者聖カミロ・デ・リリスのミサ
(マーチ・フォー・ライフ東京)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたのである。」(マテオ25:40)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は聖カミロの祝日です。聖カミロは、一時若い時に、軍人として軍隊生活を送っていた時に、世俗の精神に流されて罪に染まっていた時代がありました。しかし25歳の時に、それを回心する御恵みを受けて、その時に、イエズス様のために命を、生涯を御捧げしようと思いました。

伝染病患者、当時人々が多く苦しんでいた、その患者の保護をするために、看護をするための修道会「聖カミロ会」の創立者になりました。自分の命の危険を冒してまでも、病の人々を助けて、命を助けようとしました。遂に、1614年7月14日、ローマでその愛徳の犠牲となって亡くなりました。64歳でした。

私たちの主は、私たちを友人として、私たちの命の救いのために、永遠の救いのために、ご自分の命を与えてくださいました。聖カミロはこの主に倣ったのです。今日の福音でも主はこう言われます。「私は新しい掟を与える。あなたたちはたがいに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちもたがいに愛し合え。」(ヨハネ13:34)「友人のために生命を与える以上の大なる愛はない。」(ヨハネ15:13)

しかも、私たちを友人と思われるだけでなく、また主は、最も小さな弱々しい私たちをご自分自身であるかのようにお考えになさってくださっています。今日の聖体拝領誦でこうも言われます。「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたのである。」

最も小さな兄弟たちの一人、現代、日本では、また世界では、もっとも小さな赤ちゃんたちの、罪のない命が殺されています。日本の統計によると、2020年には、14万5340人の赤ちゃんたちの命がお母さんのお腹の中で奪われました。計算すると一日あたり398人の赤ちゃんが殺されてしまったということです。統計によると、日本だけで、1949~2020年の71年の間に、3925万2446人の赤ちゃんたちが亡くなりました。約4000万人です。

たった一回の中絶だけでも、堕胎というのはその特殊性からとても重大な、大きな罪となります。
1/ 第一に、何故かというと、無防備な人間を殺すからです。何の抵抗も、守ることも、その術のない人間を殺すからです。
2/ 第二に、罪のない人間の命を奪うからです。裁判で判決される人は有罪の人です。それでも死刑を廃止しようという動きがあるのに、罪のない赤ちゃんの命が奪われています。
3/ 第三に、何故ならば、最も残酷な方法で殺害されるからです。もしも赤ちゃんたちに日常的に行われていることを大人にやったとしたら、最も恐ろしい残酷な犯罪だとみなされてしまうに違いありません。
4/ 第四に、何故かというと、子供を守って、愛する義務のあるお父さんやお母さんによって、あるいは命を守る義務のある医者や看護士によってこれが行われているからです。義務を放棄するというよりは、義務を濫用しているからです。

たった一回でも、そのような性質がある恐ろしい罪であったとしたら、犠牲者の数を考えてください。犠牲者の数があまりにも多くあります。第二次世界大戦の日本人の死者は、軍人あるいは民間人を合わせると310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)だそうです。でも、71年の間に4000万人、第二次世界大戦の12倍以上の人間が亡くなったということです。

お母さんのおなかにいる赤ちゃんたちは、どんなに小さくても、立派な人間です。「小さな命」ではなくて、大きくてかけがえのない命です。この罪のない無抵抗で無防備の赤ちゃんたちの命を、私たちが愛する、守ってあげるということが、これこそが主のお望みです。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え。」「これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたことである」と仰っているからです。

このようなことを言うと、この世のマスメディアはこう反論するかもしれません。
「レイプの犠牲者がいるじゃないか!どうなんだ!」

もちろん、強姦、レイプというのは犯罪です。あってはならない大きな罪です。しかし「レイプによる妊娠」というのは、中絶理由の1%にも満たないものなのです。その例外的な理由で、あらゆる中絶を正当化する方便として、今使われています。でも、レイプという暴力による傷を、堕胎というさらなる暴力によって癒すことが本当にできるのでしょうか?受動的に受けた傷を、能動的に殺すことによって癒されるのでしょうか?死刑になるべきは、何故レイプの犯人ではなくて、赤ちゃんたちなのでしょうか?

現実に、今世界中で、レイプという暴力によってこの世に命を受けて、しかし生まれてきて、幸せに生きている方々が多くおられます。そして生まれてきたことをこのような方々は感謝して、そして是非このような赤ちゃんたちを守りたい、と今、プロライフ運動に参加しています。

レイプによって妊娠しながらも、勇気をもって「いのち」を選んだというお母さんたちがいます。そのようなお母さんたちは、「いのちを選んで良かった」とても感謝しています。たくさんそのようなお母さんたちがいます。このようなお母さんたちもプロライフ運動に参加しています。なぜかというと、中絶という暴力に訴えることをこのようなお母さんたちは拒んだからです。このようなお母さんたちが必要としたのは、人生の助けとなる癒しでした、祈りでした。堕胎という暴力に駆り立てる宣伝文句ではありませんでした。

このようなこの世の精神に対して、聖ヨハネは今日の書簡でこう言っています。「愛する者よ、世があなたたちを憎んでも驚くな。私たちが死から命にうつったのは、兄弟を愛するからであって、愛さない人は死の中にとどまっていることを、私たちは知っている。兄弟をにくむ者は人殺しであって、人殺しはその中に永遠の命をとどめていない…。」(ヨハネの第一の手紙3:13-15)

現代の中絶は、アステカで昔盛んにおこなわれていた人身御供とよく似ています。罪のない方々が生贄となっていたからです。アステカでは、太陽がちゃんと回るためには生きた人間の血が必要だ、と言って、多くの人たちが殺されていました。ちょうど私たちの生活がうまくいくために、赤ちゃんたちが犠牲になっているかのようです。しかし、1531年にメキシコの聖ファン・ディエゴにグアダルーペのマリア様がお現れになったとき、マリア様のご出現は人身御供を終わらせました。その後、10年間で約一千万人の先住民のインディアンたちが、キリスト教カトリックの信仰を受けました、洗礼を受けました。天主の御母であり、私たちの霊的な母であるマリア様は、この死の文化を「いのちの文化」「愛の文化」に全く変えてくださったのです。

1917年、ファチマのマリア様は私たちにこう約束されました。「最後に私の汚れなき御心は凱旋するでしょう」と。「大勝利するでしょう。」マリア様は、死の文化に死をもたらしてくれます。命の文化に命を与えてくれます。ファチマの マリア様は私たちにこうも言われました。"世界の平和と戦争の終結を得るために、ロザリオの聖母を称えて毎日ロザリオを祈り続けてください。" "聖母だけがあなた方を救うことができるからです。"

日本ではまだ戦後が来ていません、戦争中です。なぜかというと、罪のない日本の市民たちが、今戦争の犠牲になり続けているからです。この戦争を終わらせなければなりません。

愛する兄弟姉妹の皆様、ですから皆様を、「いのちのための行進、マーチ・フォー・ライフ」にお招きいたします。マリア様と共に、祈りで結ばれて、私たちは死に対する生命の勝利、闇に対する光の勝利に向かって歩みましょう。

命の文化は、全世界で今大きな動きとなっています。
今、世界の至る所で聖カミロたちが生まれてきています。命の大切さ、イエズス・キリストの聖徳に目覚めて、回心しています。「命のために戦いたい」という若者たちが世界中でどんどん増えています。
すべての人にこの良い知らせを知らせましょう。

ファチマの聖母、われらのために祈り給え。
聖カミロ、われらのために祈り給え。

「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたのである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ジャック・ルイヤール教授:カムループスでは遺体は発見されていない:カムループス・インディアン寄宿学校に埋葬された子どもたちの遺骨はどこにあるのか?

2022年08月24日 | カトリック・ニュースなど

ジャック・ルイヤール教授:カムループスでは遺体は発見されていない

(「ドーチェスター・レビュー」)

カムループス居留地の墓地が近くにあるというのに、200人の子どもたちの遺骨が、――居留地に――密かに埋められていて、昨年の夏までバンド評議会から何の反応もなかったということは、本当に信憑性があるのだろうか。

まだ発掘は始まっておらず、遺骨も見つかっていない。想像上の話と感情が、真実の追求を上回っているのだ。和解への道では、センセーショナルな神話を意図的に作り出すのではなく、すべての真実を追求し、伝えることが最善の方法ではないだろうか。

The Dorchester Review
In Kamloops, Not One Body Has Been Found
By Professor Jacques Rouillard

「ドーチェスター・レビュー」(THE DORCHESTER REVIEW)【年2回刊雑誌】への特別寄稿。
ジャック・ルイヤールはモントリオール大学歴史学部名誉教授。


7カ月にわたる非難と糾弾の末に、カムループス・インディアン寄宿学校に埋葬された子どもたちの遺骨は、どこにあるのだろうか?

「カナダ通信」(Canadian Press)は、「2021年の人」(Person of the Year 2021)として、寄宿学校の子どもたちを選んだ。昨夏の巨大なメディア製物語は、1890年から1978年まで学校が運営されていたブリティッシュ・コロンビア州内陸部にある跡地の一部をスキャンしたことから発展したものである。人類学者のサラ・ボリューが、地中レーダーを使って、そこに埋葬されていると一部で言われている子どもたちの遺骨を捜し、昨年5月27日に「Tk'emlúps te secwépemc First Nation」(シュワップ族先住民)のロザンヌ・カシミール酋長によって「発見」が初めて報告された。ボリューは2018年からフレーザーバレー大学で人類学と社会学の講師を務める若手人類学者である。ボリューの予備報告は、実際には学校近くのリンゴ園の土壌にある窪みと異常に基づくもので、掘り起こされた遺骨に基づくものではない。カシミール酋長によれば、これらの「行方不明の子どもたち」は「文書化されていない死」を表している。彼らの存在は長い間コミュニティーで「知られて」おり「中には3歳の子どももいた」[1]とカシミールは言う。

昨年7月15日の記者会見で明らかにされた新しい調査から、この人類学者は、発見の可能性のある「推定埋葬者」を215から200に縮小した。「ほんの表面をなぞっただけ」【きちんと調べていない】なのに、彼女は、「木の根や金属、石といった地表の乱れ」を多数発見した。「レーダーに映し出されたこの乱れ」から、彼女はこの現場が「埋葬者のように見える複数の痕跡を持つ」と結論づけた。しかし、この場所が発掘されるまで(発掘されればの話だが)、彼女はそれを確認することができない。コミュニティーの広報担当者は、報告書の全文をメディアに公開することは「できない」と述べている[2]。カシミール酋長にとっては、「カムループスの現場の継続作業が発掘に至るかどうかはまだ明らかではない」。

2021年のカムループスの「発見」は、カナダ国内外に大きなセンセーションを巻き起こした。この予備評価に基づいて、遺骨が発見されたり、信頼できる報告がなされたりする前に、ジャスティン・トルドー首相は直ちに、カナダの歴史における「暗く恥ずべき章」に言及した[3]。ブリティッシュ・コロンビア州のジョン・ホーガン首相は、寄宿学校制度による暴力と結末を際立たせる、215人の子どもたちの埋葬地を知り、「ぞっとして心が痛んだ」と述べた[4]。次いで、他のいくつかのアボリジニのコミュニティーとメディアも続けて、墓標のない墓について言及した。

5月30日、連邦政府はすべての建物の国旗を半旗にした。その後、連邦政府は「行方不明」の子どもたちと寄宿学校の生存者をたたえる新しい祝日を制定した。小さな犠牲者たちを偲んで、自然発生的に、多くの都市の教会の階段や議会の階段に靴やオレンジ色のシャツやその他の身の回り品の束が置かれた。国中で教会が燃やされたり、破壊されたりした。子どもたちの運命に対する明らかな報復として、銅像はスプレーで塗りつぶされ、引き倒された。マニトバ州議会前のヴィクトリア女王の銅像は、汚され、引き倒された。モントリオールの初代首相ジョン・A・マクドナルド卿の銅像は倒され、切り離された銅の頭部が象徴的に地面に転がっていた。

アボリジニの指導者たちによる根拠のない主張の後、いくつかのメディアは、215人の子どもたちの遺体が「発見」されたと主張し、さらに何千人もの子どもたちが寄宿学校から「失踪」し、親には何も知らされていないと付け加え、話を拡大・誇張して報道した。乱れのない跡地は、遺体が雑然と捨てられた「集団墓地」にさえなった。

この「ニュース」とされるものは、あらゆるメディアを駆け巡り、カナダの自己イメージと海外での評判を傷つけた。「恐ろしい歴史 カナダの先住民の子どもたちの集団墓地」というタイトルで、5月28日付のニューヨーク・タイムズ紙は、10月5日に更新されたものでさえ、こう報道した。「何十年もの間、カナダのほとんどの先住民の子どもたちは家族から連れ去られ、寄宿学校に強制的に入れられた。多数が家に戻らず、家族は曖昧な説明しかされないか、全くされなかった」。先住民のコミュニティーは、「行方不明の子どもたちの一部に起こったことの証拠、つまり元寄宿学校の敷地内にある215人の子どもたちの遺骨を含む集団墓地を発見した」[5]。


虚偽の報道

これらの虚偽の報道は、国連人権高等弁務官事務所に、この状況を「大規模な人権侵害」と表現するように仕向けた。国連は、カナダ当局とカトリック教会に対して、「200人以上の子どもたちの遺骨を含む集団墓地の発見について徹底的な調査を行う」よう促したが、これもまた、確認された遺体の一つさえ発掘されていないときのことだった。アムネスティ・インターナショナルは、カムループスで「発見」された遺体に責任を負う人物と組織が起訴されることを要求している[6]。

よりにもよって中国が――中国自身がおそらく史上最大の人権侵害国である――2021年6月の国連人権法廷において、カナダの先住民に対する人権侵害の調査を要求したことは、確かに皮肉なことだった。この要求は、カナダ当局が100万人以上のウイグル人イスラム教徒の不法拘束を調査するために、国連人権局長が新疆に立ち入ることを認める声明を読み上げる直前になされた。トルドーは、カナダには真実和解委員会があるが、「中国は問題があることさえ認識していない」と答えている[8]。

政府、修道団体、カトリック司教協議会など、この「犯罪」の加害者とされる団体もまた、言い訳をしている。6月、教皇フランシスコは、カムループスで「215人の子どもたちの遺骨がカナダで発見されたという衝撃的な出来事」[9]に対して痛みを表明し、異例のジェスチャーでカナダへの訪問を約束した。アボリジニの指導者たちは正式な謝罪を要求し、(ロザンヌ・カシミールを含む)何人かは、教会が生存者に対してより多くの補償を行うよう求めている[10]。墓標のない墓の真実を見つけるために、カナダ政府は6月に「埋葬地を特定して境界を定めるため、また望むなら遺骨を故郷に戻すために」封筒入りの2700万ドルを用意した[11]。

推測や可能性の問題に過ぎないこと、そしてまだ遺骨が見つかっていないことを決して指摘しないことで、政府とメディアは、本当はテーゼ(仮説)であること、つまり、寄宿学校からの子どもたちの「失踪」というテーゼに信憑性を与えているだけである。真実和解委員会(TRC)が支持した「文化的大虐殺」という主張から、同委員会が報告書で明示的に否定している結論、「身体的大虐殺」へと移行したのだ[12]。そしてこのすべては、あの人類学者自身が7月15日の記者会見で警告したように、根の動きによって簡単に引き起こされる土壌の異常に基づいているだけなのだ。

2013年から2015年にかけてTRCのために寄宿学校の墓地を調査した別の人類学者、スコット・ハミルトンによれば、地中レーダーの使用には非常に注意しなければならない。なぜなら、土壌は長年にわたって「堆積組織、(中略)文化に由来する不整合、障害物、あるいは空洞」によって乱されているかもしれないからである[13]。マニトバ州のブランドン寄宿学校での同じ手法で土壌を検査するプロジェクトは、2012年に始まり、2019年に再始動したものだが、まだ決定的な結果を得ていない。6月、調査チームは104の墓の可能性があるものを特定する作業を行っており、依然として寄宿学校のアーカイブを参照して、生存者にインタビューする必要がある[14]。

2015年の報告書で、TRCは、寄宿学校での子どもたちの3200人の死亡を確認した。驚くべきことに、3分の1(32%)の子どもたちの名前と、「半数」(49%)の死因を記録することができなかった[15]。なぜこれほど多くの「名前のない」寄宿学校の生徒がいるのだろうか。報告書の第4巻によると、「委員会がまとめることのできた寄宿学校の死亡に関するデータは、質・量ともに大きな限界がある」[16]のだ。

実際には、三学期ごとに、学校長は、政府が資金を提供した学校に通う生徒の名前を報告し、死亡した生徒の名前も明記していた。しかし、「多くの場合」、報告書によれば、学校長は、前年度に死亡した子どもたちの数を、身元を特定することなく、単に報告したにすぎない。あるいは、特定の学校が開校してから死亡した生徒の数の合計を出すこともあったが、名前、年、死因を表示することはなかった[17]。

委員会は、これらの「名前のない」生徒をすべて、生徒の死亡者数の合計に含めていた。このことは、校長による三学期ごとの報告と、名前のない一般的な報告の両方で、生徒の死が「2回」数えられたかもしれないということを意味する。委員会は、名前付き登録簿に記録された死亡の一部が、名前なし登録簿にも含まれるかもしれないことを認めている[18]。

この明らかに偏った方法は、行方不明の生徒の数と、彼らの死をめぐる知識の実態を大きく膨らませる。そして、この欠陥のある情報こそが、名前のない生徒が親に知らされずに失踪し、学校が粗雑に集団墓地に埋めたという推測の根底にあるものなのである。

委員会が記録した1921年から1950年までの寄宿学校での死亡率(名前のある死亡者と名前のない死亡者)は、同じ年の5歳から14歳までのカナダの一般人口の若者の死亡率の2倍であるため、この方法論的なギャップは1950年より前の年に関するものであると思われる。この死亡率は、学校に通う若者1000人あたり、年平均約4人の死亡だった。彼らの死因は、委員会が原因を特定できた場合、ほとんどが結核とインフルエンザだった。

一方、寄宿学校の死亡率は、やはり5歳から14歳の若者の場合、1950年から1965年までカナダの平均と同程度だった[19]。それ以前の期間より下がったのは、カナダの他の学校と同様に、寄宿学校でもワクチン接種が行われた結果であると思われる。


カムループス寄宿学校の死者数

「委員会」は、産業学校での死亡の報告についてさらなる調査が行われることを希望すると表明し、ロザンヌ・カシミールは、カムループスで「行方の分からない子どもたちの身元を特定することが極めて重要である」と述べた[20]。「ドーチェスター・レビュー」で、追跡調査を完了したことを発表できることを、私はうれしく思う。

1890年にシュスワップ族の酋長ルイス・クレクスリクセン(下の写真)の主導で設立されたカムループス産業学校は、歴代の聖母献身宣教会(オブレート会)の司祭・修道士と、ケベックの聖アンナ姉妹会によって運営されてきた。マチュー・ペローが「ラ・プレス」(La Presse)(2021年7月2日号)で推定したところによると、1950年代、約500人の子どもたちがいたこの学校は、4人の英語を話すオブレート会士と11人の聖アンナ姉妹会修道女によって運営されていた。ペローは、カトリック教会が運営する典型的な寄宿学校には、2、3人のオブレート会士と12人の修道女、そしてしばしば数百人の子どもたちがいたと考えた[21]。

【オブレート会神父を愛し尊敬していたカムループス寄宿学校の設立者であるシュスワップ族酋長ルイス・クレクスリクセン。】Photo Credit

カムループス寄宿学校では、国立真実和解センター(National Centre for Truth and Reconciliation 、NCTR)が、1915年から1964年までに死亡した51人の子どもたちの名前を公式に記録していた[22]。私たちは、カナダ国立図書館・公文書館の記録と、NCTRの研究者が参照しなかったと思われるブリティッシュ・コロンビア州公文書館の系図資料オンライン版が保持している死亡診断書から、これらの子どもたちの情報を見つけ出すことができた[23]。

この二つの資料を合わせると、49人の生徒のうち少なくとも35人(2人は重複)の死についての的確なイメージが得られる[24]。病気や事故の結果、17人は病院で、8人は自分の保護区で死んでいる。4人が検視解剖の対象となり、7人が検視官による検屍の対象となった。埋葬地としては、24人が故郷のインディアン居留地の墓地に、4人がカムループス・インディアン居留地の墓地に埋葬されている。残りの49人の子どもたちについては、情報がないか、ブリティッシュ・コロンビア州人口統計局の死亡診断書の全文を参照する必要がある。このことは、当局が彼らの死を見落とした、あるいは何らかの形で隠蔽した、あるいは両親に知らされなかった、あるいは遺骨が故郷に戻らなかったという「検証されていない」主張とは程遠いものである。ほとんどは知らされ、ほとんどは故郷に戻された。

1935年から、インディアン問題省は、生徒の死亡を扱うための特定の手続きを課していた。寄宿学校の校長は、同省の係官に報告しなければならず、係官は、自分、校長、死亡を診断した医師からなる調査委員会を作った。親は調査について知らされなければならず、出席して発言することが許された[25]。

例えば、14歳のキャスリーン・ミシェルは、1937年4月25日に病気になり、学校で看護婦に手当てを受け、看護婦が医者を呼んだ。5月1日、彼女は車でカムループスのロイヤル・インランド病院へ運ばれた。医師の治療を受けたが、2日後に急性腎炎で死亡、原因は麻疹と心機能不全だった。報告書では、医師は寄宿学校で行われたケアに何の欠陥も見いださなかった。父親は調査のことを知らされたが、出席を望まなかった。残念ながら、調査のメモには、彼女がどこに埋葬されたかは具体的に記されていない[26]。


重要なのは、カムループス寄宿学校が「カムループス居留地」の中心に位置していることである。この事実は、アボリジニの広報担当者やメディアによって決して報道されることはない。TRCの報告書には、「制度の初期のころには、学校は事実上すべて教会の運営で、(また)ほとんどの学校ではキリスト教式の埋葬が普通だった」とある。また、隣接する教会の墓地は、「学校で死んだ生徒だけでなく、この地方のコミュニティーのメンバーや宣教師自身の埋葬地として使われることもある」[27]。これこそが、カムループスで起こったことである。私たちの調査によると、4人の生徒が居留地の集団の墓地に埋葬されているが、この墓地は、寄宿学校からそう遠くない聖ヨゼフ教会の近くに位置している。

その墓地がすぐ近くにあるというのに、200人の子どもたちの遺骨が、居留地内の集団墓地に密かに埋葬されていて、昨年の夏までバンド評議会から何の反応もなかったということは、本当に信憑性があるのだろうか。カシミール酋長は、子どもの遺骨があることは以前からコミュニティーで「知られていた」と述べている。アボリジニの家族も、他のコミュニティーと同じように自分たちの子どもの運命を心配しているはずなのに、なぜ何も言わなかったのだろうか。さらに、高い道徳基準を持つ宗教的な男女のグループ全体が、反対意見もなく、一人の内部告発者も出さずに、このような卑劣な犯罪を共謀できるとどうして考えられるのだろうか。


学校はカムループス市にも近い。学校の運営を綿密に監視しているインディアン省の係官は、行方不明の子どもや死亡した子どもがいるという知らせに対して、もし何かあったとしても、すぐに対応したことだろう。最後に、これまで見てきたように、州はすべての死亡者に死亡証明書の提出を義務づけていた。20世紀初頭、ブリティッシュ・コロンビア州は西部開拓時代ではなかった。今日、カムループス寄宿学校に通っていた子どもたちの死亡証明書を入手しようとする研究者は、ブリティッシュ・コロンビア州系図記録のウェブサイトで名前と死亡日を入力すれば、それを入手することができる。このような種類の調査は、他の州でも可能である。

最後に、カムループスでの発表の後、昨年6月にさらなる衝撃を与えたサスカチュワン州のカウセス(マリーバル)先住民の、寄宿学校近くの別の「名前のない埋葬」跡地について、補足を加えておこう。その埋葬地は1899年から遠隔地で始められ、オブレート会と聖ヒヤチントの聖ヨゼフ姉妹会によって運営されていた。そこでは、751基の整然とした墓が発見されており、地中レーダーによる地表の調査はさらに進んでいる。CBCニュースのレポーターが示したように、これは実際には、マリーバルのマリアの汚れなき御心ミッションのカトリック墓地にすぎない。

1885年から1933年までの洗礼、結婚、埋葬の登録簿によると、確かに寄宿学校で亡くなった子どもたちの跡地に墓が存在するが、周辺地域の多くの大人や5歳以下の子どもたちの墓も存在する。「あの墓地には、みんなが混在していました」と、1940年代後半から1950年代半ばまでマリーバル寄宿学校に通った地元住民のパール・レラットと姉妹のリンダ・ホワイトマンは話す。パールは「姉妹の両親、祖父母、曾祖父母は、先住民の外から来た人たちと一緒にそこに埋葬されています」と言い、白人と先住民が一緒に埋葬されているのだという。近くに住む他の住民によると、1960年代まで墓には十字架や墓石があったが、墓地が「ひどい状態」だったため、一人の司祭がそれらを撤去したと言われている[28]。

サスカチュワン大学の歴史家ジム・ミラーによれば、「マリーバルとカムループスで発見された子どもたちの遺骨は、カトリックの儀式に従って墓地に埋葬されていたが、すぐに崩れ落ちた木製の十字架の下にあった」。「木製の十字架は、貧しい人々のためのカトリックの埋葬の目印だった」とトロント大学のブライアン・ゲトラーは裏付ける[29]。木製の十字架のある寄宿学校墓地は、おそらく現在のカムループス居留地の聖ヨゼフ先住民墓地(写真参照)のようなものだろう。

【写真:住宅学校で亡くなった4人のカムループスの子どもたちは、この墓地――カムループス・アボリジニ・コミュニティーの墓地――に埋葬されている(Credit: Ken Vavrhodt, Kamloops This Week, Nov 17, 2020)。ここにあるのは、1852年から1915年に亡くなるまで酋長だったシュスワップ族のルイス・クレクスリケン(Louis Clexlixqen)の碑である。インディアン教育の強力な擁護者であった彼は、1880年にカムループス居留地に昼間学校を設立する際にオブレート会神父たちを支援し、1890年にはそこに寄宿学校を建設することを開始した。】


TRCの報告書によると、教会の墓地はしばしば、学校で亡くなった生徒だけでなく、コミュニティーのメンバーや宣教師自身のための礼拝と埋葬の場として機能していた。寄宿学校の墓地は、閉鎖後、放棄され、放置され、さらには忘れ去られていくにつれて、背景がぼやけてきた。多くの場合、墓地の場所を特定することは困難となり、他の目的に使用されるようになった[30]。

カムループス寄宿学校に近い居留地のリンゴ園にある墓地や集団墓地とされるものについての事前調査が、カナダ政府によって承認され、世界中のマスメディアによって繰り返される主張のスパイラルに至ったとは、信じがたいことである。カナダの歴史における複雑な問題に対して、恐ろしくかつ単純化した印象を与えている。まだ発掘は始まっておらず、遺骨も見つかっていない。想像上の話と感情が、真実の追求を上回っているのだ。和解への道では、センセーショナルな神話を意図的に作り出すのではなく、すべての真実を追求し、伝えることが最善の方法ではないだろうか。

Notes

[1] Courtney Dickson, Bridgette Watson, “Remains of 215 children found buried at former B.C. residential school, First Nation says,” CBC News, May 27, 2021, Updated: May 29, 2021; Tk'emlúps te secwépemc, Press Release, “Remains of Children of Kamloops Residential School Discovered,” May 27, 2021.

[2] Jana G. Pruden and Mike Hager, “Anthropologist explains how she concluded 200 children were buried at the Kamloops Residential School,” Globe and Mail, Jul. 15, 2021, Updated: Jul. 16, 2021.

[3] Justin Trudeau on Twitter, May 28, 2021.

[4] Canadian Press, “B.C. premier ‘horrified’ at discovery of remains at Kamloops residential school site,” May 28, 2021.

[5] New York Times, May 28, 2021, Oct 5, 2021.

[6] United Nation Human Right, Office of the High Commissioner, “UN experts call on Canada, Holy See to investigate mass grave at indigenous school,” Geneva, Jun. 4, 2021.

[7] Amnesty International, “Letter to Prime Minister Justin Trudeau,” Jun. 14, 2021.

[8] Adam Taylor, “China calls for Canada human rights inquiry, pre-empting demand for investigation into abuse of Uyghurs,” The Washington Post, June 22, 2021; David Ljunggren, Stephanie Nebehay, “Canada’s Trudeau angrily questions China seeking probe of indigenous children's remains,” Reuters, Jun. 22, 2021.

[9] Linda Bordoni, “Pope expresses shock for Canadian Residential School discovery and prays for healing,” Vatican News, Jun. 6, 2021.

[10] Brooklyn Neustaeter, “Indigenous leaders call for apology, compensation from Pope amid possible Canadian visit,” CTV News, Oct. 27, 2021.

[11] Rachel Aiello, “$27M will soon be available to communities to help locate children who died at residential schools: feds,” CTV News, Jun. 2, 2021.

[12] Honouring the Truth, Reconciling for the Future. Summary of the Final Report of the Truth and Reconciliation Commission of Canada, Truth and Reconciliation Commission of Canada, 2015, p. 1.

[13] Dr. Scott Hamilton, “Where are the Children buried?,” Dept. of Anthropology, Lakehead University, c. 2015, National Centre for Truth and Reconciliation Reports, p. 36.

[14] Marek Tkach, “Manitoba first nation works to identify 104 potential graves at former Brandon residential school,” Global News, Jun. 14, 2021, updated Jun. 28, 2021.

[15] Final Report of the Truth and Reconciliation Commission of Canada, vol. 4, Canada’s Residential Schools: Missing Children and Unmarked Burials, McGill-Queen’s University Press, Montreal & Kingston, 2015, p. 1.

[16] Ibid., p. 8.

[17] Ibid., p. 7-8.

[18] Ibid., p. 7.

[19] Ibid., p. 19, 22.

[20] Tk'emlúps te secwépemc, Press Release, “Tk'emlúps te secwépemc, “KIRS missing children findings but a fraction of investigation and work need to bring peace to families and communities,” Press Release, Jul. 15, 2021.

[21] Mathieu Perreault, “Religious orders in residential schools is a ‘quebecois’ story,” La Presse Torstar, Jul. 2, 2021. https://www.thestar.com/news/canada/2021/07/02/religious-orders-in-residential-schools-is-a-quebecois-story.html

[22] National Centre for Truth and Reconciliation

https://nctr.ca/residential-schools/british-columbia/kamloops-st-louis/

[23] B.C. Archives, Genealogy, General Search http://search-collections.royalbcmuseum.bc.ca/Genealogy

[24] Library and Archives Canada, School Files Series - 1879-1953 (RG10), About the Records: Indian and Inuit Affairs Program sous-fonds: School Files Series, 1879-1953 (RG10-B-3-d), LAC c-8770, number 829; LAC c-8773, number 1323.

[25] Final Report of the Truth and Reconciliation Commission of Canada, vol. 4, Canada’s Residential Schools: Missing Children and Unmarked Burials, p. 9.

[26] Pensionnat Kamloops, Kathleen Michel, Library and Archives Canada, School Files Series - 1879-1953 (RG10), LAC C-8773-01350.

[27] Final Report of the Truth and Reconciliation Commission of Canada, vol. 4, p. 118-119.

[28] Jorge Barrera, “Catholic register, survivors offer clues to who may be buried in cemetery next to Marieval residential school,” CBC News, Jul 20, 2021.

On line : https://www.cbc.ca/news/indigenous/marieval-cemetery-graves-1.6106563

[29] Mathieu Perreault, “Religious orders in residential schools is a ‘quebecois’ story,” loc. cit.

[30] Final Report of the Truth and Reconciliation Commission of Canada, vol. 4, p. 125-134.


人の回心には奇跡が必要。奇跡は主イエズスが超自然の恩寵をお与えになる場合にだけ起こる。

2022年08月24日 | お説教・霊的講話

耳が聞こえず口もきけない人の癒やしについての説教

ドモルネ神父

はじめに

今日のミサの福音で、教会は私たちに、私たちの主イエズス・キリストが、耳が聞こえず口もきけない人を奇跡的に癒やされたという話を読ませました。この奇跡の霊的な意味について見てみましょう。

1)霊的に耳が聞こえず口もきけないこと

「人々は、耳が聞こえず口もきけない人を主のもとに連れてきた」(マルコ7章32節)。この二重の肉体的な障害は、二重の霊的な障害、すなわち霊的に耳が聞こえないことと、霊的に口がきけないことを表しています。

霊的に耳が聞こえないこととは、天主のみ言葉を聞いて信じる、ということができないことです。聖パウロは、ローマ人への書簡の中でこう述べています。「まだ聞かなかった者を、どうして信じられよう」(ローマ10章14節)。天主が、霊魂たちに信仰の恩寵をお与えになるのは、通常は、宣教を通してです。この宣教には、説教、講話、カテキズムの授業、対話、良い模範などがあります。イエズスとみ教えについて、何も聞くことができなかったり、何も聞きたくなかったりするとき、その人は霊的に耳が聞こえないのです。

霊的に口がきけないこととは、祈ることができないことです。口がきけないということは、耳が聞こえないことの結果です。聖パウロはこう言っています。「まだ信じなかった者を、どうして呼び求められよう」(ローマ10章14節)。実際、天主を信じない人は、天主に話しかけることができないため、天主を礼拝したり、天主に感謝したり、天主に赦しを願ったり、天主の助けを求めたりすることもできません。霊的に耳が聞こえないことが、霊的に口がきけないことの原因なのです。

2)耳が聞こえず口もきけない人の癒やし:耳が聞こえず口もきけない人の友人の行動

耳が聞こえず口もきけない人とは、私たちの主イエズス・キリストを信じず、その結果、天主に祈らない人々を表しています。さて、問題はこうです。この霊的に耳が聞こえず口もきけない人は、どのようにすれば癒やされるのでしょうか。福音が、その答えを教えてくれています。この癒やしが行われるのは、耳が聞こえず口もきけない人の友人たちの行動と、私たちの主ご自身の行動のおかげなのです。

まず、耳が聞こえず口もきけない人の友人たちが、その人をイエズスのもとに連れてきた、と書かれています。この意味は、私たちは未信者の人々を連れてきて、イエズスに触れさせるように努力しなければならない、ということです。では、そのためには、どうすればいいのでしょうか。その人々に、真摯(しんし)で誇りあるカトリック信者の生き方の模範を見せること、対話で私たちの主について話すこと、良い読書を勧めること、講話や説教を聞くように誘うこと、ミサにあずかるように誘うこと、不思議のメダイを配ること、教会を訪れて御像や御影(ごえい)、ステンドグラスの窓の意味を説明すること、巡礼や霊的な黙想会に誘うことなどをするのです。

次に、耳が聞こえず口もきけない人の友人たちは、「イエズスに手を置いてくださいと願った」(マルコ7章32節)と書かれています。この意味は、私たちは、その未信者のために、私たちの主に回心の恩寵を願わなければならない、ということです。私たちは、対話による説得や、生まれ持った才能によって、人々を回心させるのではありません。私たちの主こそが、人々を回心させ、人々の心に触れてくださる、そのお方なのです。ですから、私たちの役割は、未信者の、霊的に耳が聞こえず口もきけない状態を癒やしてくださるよう、イエズスに忍耐強くお願いし、イエズスの力とあわれみを信頼することなのです。私たちがそうすれば、イエズスは行動を起こしてくださることでしょう。

3)耳が聞こえず口もきけない人の癒やし:イエズスの行動

私たちの主イエズスは、ただ一言だけで、耳が聞こえず口もきけない人を癒やすことがおできになったはずです。しかし、イエズスは、いくつかの行動をなさることによって、その人を癒やされたのです。これは偶然ではありません。私たちの主は、私たちにいくつかの霊的な真理を教えたい、と思われたのです。

a)まず、イエズスは、耳が聞こえず口もきけない人を、群衆から連れ出されました。この意味は、その人の精神や心がこの世の喧噪や揺さぶりでいっぱいになっていれば、天主のみ言葉を聞いて耳を傾けることはできない、ということです。ですから、その人は、少しこの世から離れなければなりません。例えば、沈黙のうちに霊的な黙想会に参加することは、天主のみ言葉を聞き、天主の恩寵を受けるための非常に良い機会となります。また、死について、死後に起こることについて、私たちがこの世に存在する目的について、人々と会話をすることは、人々が、この世の喧噪や揺さぶりから精神的に離れて、永遠の観点から自分のことを考える助けとなります。

b)次に、イエズスは、耳が聞こえず口もきけない人の耳に指を入れられました。このイエズスの肉体的な接触は何を意味するのでしょうか。その意味は、すべての恩寵は、イエズスの人性によってもたらされ、私たちに伝えられることを意味します。イエズスは、この現実を、次のように言われたときにも表現されました。「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命はない」(ヨハネ6章53節)。ですから、人が回心するためには、その人は、私たちの主の人性に触れなければならないのです。つまり、その人は、イエズスの地上での御生涯、み教え、御受難と御復活について、本を読んで黙想しなければならないのです。

次に、耳が聞こえず口もきけない人の耳に入れられたイエズスの指は、何を意味するのでしょうか。イエズスは天主でいらっしゃいますから、その指は、天主の指です。しかし、聖書では、「天主の指」とは、聖霊を意味します。この表現は、御父と御子と聖霊の間の行動が一致していることを示すのに使われます。実際、御父は、御子なくしては何もなさいません(ヨハネ1章3節参照)。ですから、人間の体になぞらえて、御子は「天主の腕」と呼ばれるのです。しかし、御子は、常に聖霊を通して霊魂たちとこの世を導かれます(ヨハネ16章13-15節参照)。したがって、続けて同じようになぞらえて、聖霊は「天主の指」と呼ばれるのです。

耳が聞こえず口もきけない人の耳に指を入れて、耳が聞こえない状態を治されたことに対して、イエズスは、次のような意味を与えておられました。つまり、イエズスの地上での御生涯、み教え、御受難と御復活を知ることを通して、私たちの主が、聖霊および信仰の賜物を人々に伝えられる、ということです。

c)次に、イエズスは、耳が聞こえず口もきけない人の舌に、ご自分の唾液(だえき)で触れられました。このしぐさは、何を意味するのでしょうか。唾液とは、私たちの口の中にある液体で、舌にとっては味を感じたり話したりするのに必要なものです。したがって、唾液は、話したり味わったりする能力を表しています。耳が聞こえず口もきけない人の舌に、ご自分の唾液で触れられることに対して、イエズスは、知恵に満ちた教えを通して、人々が祈り、天主のものを味わって、霊的に養われるようにされるという意味を与えておられます。砂漠で、イエズスが悪魔に対して言われたことを思い出してください。「人はパンだけに生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。また、詩篇33篇にはこう書かれています。「主の慈しみを見つめ味わえ」(詩篇33篇9節)。

d)次に、私たちの主は、天を仰がれました。これにより、イエズスは、人々を天国の永遠の幸福に導くために、人々に対して良いことをなさることを示されます。その後、イエズスは吐息(といき)をつかれました。これにより、霊的に耳が聞こえず口もきけない人々に対する大いなるあわれみと、彼らを癒やしたいという願いを示されます。そして最後に、主は「エフェタ、開けよ」という解放の言葉を発せられ、奇跡が行われたのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、人の回心には、まさに奇跡が必要です。奇跡は、私たちの主イエズスが、その人に超自然の恩寵をお与えになる場合にだけ、起こるのです。私たちの役割は、すでに述べたさまざまな手段で、人々をイエズスに触れさせること、その後、奇跡が起こるように忍耐強くイエズスに祈ることです。私たちの善き救い主は、いつでも奇跡を行う準備ができておられますが、私たちが参加しなければ、奇跡を行ってくださいません。ファチマの聖母の次の言葉を、いつも心に留めておいてください。「多くの霊魂が地獄に行くのは、彼らのために自分を犠牲にして祈る人がいないからです」。


マリアがなぜ被昇天の栄光を受けられたのか:聖母の御謙遜

2022年08月22日 | お説教・霊的講話

マリアがなぜ被昇天の栄光を受けられたのかについての説教

ドモルネ神父

はじめに

今日の福音には、謙遜の徳のことが書かれています。私たちの主は、一つの原則を、私たちにお与えになっています。それは、「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」(ルカ18章14節)ということです。一方、明日は、聖母の被昇天をお祝いします。聖母の被昇天は、聖母が、天使たちや聖人たちをはるかに超えた天国の栄光に上げられることを意味します。私たちの主イエズスが定められた原則に従えば、マリアがすべてを超えて高く上げられたということは、聖母が誰よりもへりくだって、謙遜でいらっしゃったからです。ですから、私は今日、童貞聖マリアの被昇天とご謙遜についてお話ししようと思います。

1.被昇天の神秘

私たちが聖母の被昇天をお祝いするとき、私たちは二つの神秘をお祝いしているのです。それは、聖母が高く上げられたことと、私たちのキリスト教的希望の真理です。

マリアの被昇天は、聖母が高く上げられたという神秘です。マリアが高く上げられたことは、私たちにとっては神秘です。なぜなら、マリアは、すべての天使たちや聖人たちを超えた栄光という、私たちの理解を超えるところにまで、高く上げられたからです。マリアの栄光はあまりにも偉大なため、その限界は天主だけがご存じです。しかし、なぜマリアは、それほどの栄光にまで上げられたのでしょうか? それは、マリアが、最もすばらしい恩寵と、最も特別な特権に満ちておられたからだけなのでしょうか? あるいは、マリアが天主の御母でいらっしゃったからだけなのでしょうか? いいえ、それだけではないのです。マリアは、天主のみ旨に、絶えず完全に協力することで、この栄光を受けるにふさわしいお方となられたのです。マリアの天主への忠実さは、決して揺らぎませんでした。マリアは、すべての聖徳を最も崇高な段階にまでに実践なさったため、天主がマリアのために用意されていた報いを受けるにふさわしいお方となられたのです。マリアの栄光は、マリアにおける天主のみわざですが、同時に、天主と協力したマリアのわざでもあるのです。

マリアの被昇天をお祝いすることは、私たちのキリスト教的希望の神秘をお祝いすることでもあります。私たちのキリスト教的希望とは何でしょうか? それは、永遠の命と幸福を得ることです。この希望は、私たちが望むもの、すなわち、永遠の命と幸福が、まだ私たちから部分的に隠されており、私たちが想像できるあらゆるものを超えているために、神秘なのです。この希望はまた、私たちを永遠の生命を得るように駆り立てる力が、自然のものではなく、超自然のものであるために、神秘なのです。この力を、成聖の恩寵によって、神秘的に私たちに伝えてくださるのは、天主です。マリアの被昇天をお祝いするとき、私たちは、キリスト教的希望の真理もお祝いします。私たちが聖母に倣うなら、高慢、情欲、貪欲と戦うなら、徳を実践するなら、私たちは天国でマリアとともに、報いを受けるでしょう。

2.栄光の充満の土台であるマリアの謙遜

さて、こう自問してみましょう。天主が、マリアを被昇天によって高く上げられたのは、とりわけ、マリアのどんな徳に、報いをお与えになったからでしょうか? それは謙遜の徳です。聖母ご自身、マグニフィカトで、このことを明らかにしておられます。「天主は、はしための謙遜に御目をとめてくださいました。これからのち、代々の人々は、私を、幸いな女(ひと)と呼ぶでしょう」(ルカ1章48-49節)。またここで、私たちの主が述べられた、「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」という原則を思い出してください。天国で、天主は、聖人たちがこの世で示した謙遜の度合いに応じて、報いを与えられ、上げられるのである、と聖人たちは全員一致して語っています。

童貞聖マリアは、その生涯を通じて、見事なまでに、そして英雄的に、謙遜でいらっしゃいました。聖母には、真の謙遜を示すあらゆる要素があります。いくつかの例を挙げてみましょう。受胎告知のとき、マリアは、自ら全面的かつ自発的に、天主への依存と、天主への奉仕に身を捧げることで、謙遜を実践なさいました。聖エリサベトの家では、つつましい用事や家事を行うことで、謙遜を実践なさいました。マグニフィカトのときは、私たちに起こるすべての良いことについて天主に栄光を帰することで、謙遜を実践なさいました。主のご降誕のとき、またエジプトへの逃避の間は、貧しく不安定な生活を送ること、そして、他者に依存することで、謙遜を実践なさいました。神殿でイエズスを見失われたときは、天主の御摂理がお許しになった試練に対して、不平を言うことなく受け入れることで、謙遜を実践なさいました。カナの婚礼のときは、報いや評価をいささかも求めることなく、慎み深く他人に善を行うことで、謙遜を実践なさいました。イエズスの公生活の間、自分の子が非常に有名になって賞賛されていたときは、人々からの賞賛や名誉を避けることで、謙遜を実践なさいました。イエズスの御受難の間は、あらゆる種類の不当な侮辱に忍耐強く耐えることで、謙遜を実践なさいました。聖霊降臨の後は、教会の正当な指導者たちに従うことで、謙遜を実践なさいました。

聖母は、本当に、最も謙遜なお方でいらっしゃいました。天主の神秘への信仰において謙遜で、御子イエズスの最終的な勝利という希望において謙遜で、天主への心からの愛において謙遜で、行動において謙遜で、言葉において謙遜で、すべての振る舞いにおいて謙遜でいらっしゃいました。被昇天の栄光は、この聖母の深い謙遜に対する報いだったのです。

結論

私たちが、聖母に従って天国の栄光を受けたいと思うならば、聖母に従って謙遜を実践しなければなりません。私たちの謙遜の度合いが、天国で私たちが上げられる栄光の度合いを決定するのです。この現実を理解し、覚えておくために、これを、木に例えてみましょう。木は、高く伸びれば伸びるほど、その根は深くなければなりません。そして、枝が実をたくさんつければつけるほど、枝はもっと地面に向かって曲がっていきます。ですから、私たちもそうでなければなりません。私たちが聖なるものになろうと望めば望むほど、さらに謙遜にならなければなりません。私たちが天主の恩寵と聖徳に満たされれば満たされるほど、私たちは、天主の御前にさらに謙遜になり、すべての栄光を天主にお返ししなければなりません。

親愛なる信者の皆さん、今日と明日、深い謙遜と計り知れない栄光をお持ちの聖母をほめたたえましょう。聖母が模範を示してくださったように、私たちもあらゆる面で謙遜の徳を実践することを、聖母に約束しましょう。私たちは、多くの屈辱を経験することによって、謙遜を少しずつ身につけるのです。私たちが、人生の屈辱を、忍耐と辛抱で耐えるのを助けてくださるよう、童貞聖マリアにお願いしましょう。そうすれば、私たちの栄光は、天において大きなものとなるでしょう。


カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan: Tokyo and Osaka

2022年08月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計100人でした。大阪では29人でした。
だいぶ過ごしやすい気候になりましたが、夏休みで旅行をされているご家族や、帰省されている方々、暑さなどで体調を崩してしまった方々もおられたようです。お大事になさってください。

明日は聖母の汚れなき御心の祝日です。聖母の汚れなき御心にお祈りいたしましょう!

大阪におられる兄弟姉妹の皆様には、御不自由をおかけしてしまうことになり大変申し訳ございませんが、次の主日のミサは一時的に午後6時30分からのミサになる予定です。どうぞご了承ください。
09月04日、11日、18日
11月13日、22日、
2023年1月1日
名古屋でのミサは毎月最終主日にいつも通り行われる予定です。

【報告】
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 100 including children. 

09:00 mass
M: 23 (incl. 3 children)
F: 21 (incl. 2 children)
Total: 44 (incl. 5 children)

11:00 mass
M: 14 (incl. 5 children)
F: 25 (incl. 6 children)
Total: 39 (incl. 11 children)

12:30 mass
M: 10 (incl. 0 child)
F: 10 (incl. 0 child)
Total: 20 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 3 people who participated in multiple masses)
M: 46 (incl. 8 children)
F: 54 (incl. 8 children)
Total: 100 (incl. 16 children)


福音はキリストから受けた教え。 信仰を変えてはならない。 「空しく信じることなく,私が伝えたままを守るなら,それによって救われる」

2022年08月20日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年8月21日は聖霊降臨後第11主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第11主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


剛毅の徳と剛毅の賜物

2022年08月19日 | お説教・霊的講話

2022年7月17日(主日)聖霊降臨後第6主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

“Dominus fortitudo plebis suae.”

今日入祭誦で、「天主は、その民の力強さである、剛毅である」と歌いました。天主は私たちの力強さであります。そして私たちを力強くしてくれます。特に、聖霊の賜物を下さって、私たちを強めて下さいます。

私たち、今の現代の世界は、すぐにコンピューターの画面でクリックすれば何でも手に入る、簡単な時代になってしまいました。歩かなくてもボタンを押せばエレベーターが、あるいは歩く歩道がある、あるいは何でもできる、ですから簡単に、「全てが簡単だ」と思う時代になってしまいました。全てがボタンひとつで実行できるし、キャンセルもできるのです。そのために、私たちは非常に弱々しくなってしまいました。

しかし、天国に行くためには、イエズス様はこう仰いました。「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う。」(マテオ11:12)つまり、戦わなければならない、ということです。ですから、この「力強さ」というものがどれほど大切であるか、ということを私たちはしみじみと実感します。

そこで今日は一緒に、『剛毅』ということについて黙想致しましょう。YouTubeでも申し上げましたので、それに重なるようなものはなるべく省きたいと思っています。

剛毅には「徳」があります。そして剛毅の徳を完成させる為に、聖霊が賜物を下さり、これを「剛毅の賜物」と言います。

剛毅、力強さ、というのはどういうことかを見てみましょう。
「剛毅の徳」はどういうことかと言うと、それは理性が、「これがあるべきである」「これが正しいことである」「真理である」「これが正義である」「これが良いことである」ということを認める限り、それをどんなことがあっても、それに目指して、それを実行するようにやる、その力強さのことです。

特に、どのような悪があっても、それを妨害するようなことがあっても、その為に私たちには不都合がある、痛みがある、あるいは苦痛がある、疲労がある、あるいは損失がある、あるいは馬鹿にされる、というようなことがあったとしても、しかし善を目指して、真理を目指して、それを決して捨てずに、それを守り通す、それが剛毅です。

私たちが受ける悪の中には、遂には死、私たちがこの地上から命を失ってしまうかもしれない、ということまでも含まれます。しかしそれにも関わらず、真理を、信仰を、善を守り続ける、それを放棄しない、というその力強さ、それが剛毅です。

この例えば、このような剛毅、力強さというものは、戦争をする軍人が持っていたりします。しかし、そのような戦争のみならず、日々の生活にもあります。

今日の福音に出てきた4000人の人たちもそうでした。イエズス様のお話を聞きたい、イエズス様の元に行きたい、それなので、ご飯もなくても、遠くからも、砂漠の中を、イエズス様の後を慕って、力強く来た、という人々です、忍耐を持って来た、という人です。イエズス様は彼らに、奇跡を以って報われました。

同じように中には、ポンシオ・ピラトのようではなく、正義をはっきり言う裁判官もいます。例えば「この人は無罪である。だから、どのような圧迫を受けても、死ぬ脅迫を受けても、この人は無罪だ。だからこれは、この命は守らなければならない」と言うことです。

つい最近、アメリカの最高裁判所では、そのような裁判官たちがいました。それ以前には間違った判決があって、堕胎が憲法で保障された権利であるかのような判決があったのですけれども、「実はそのようなことは、憲法では保障されていない」と、判例を覆したことがありました。その前には多くの脅迫や、脅しや、その裁判官の家族に対する嫌がらせなどもありました。家の前でのデモとか。しかしそれにもひるまずに、裁判官たちは、「いや、これが正しい」と言いました。

あるいはアメリカでは、あるいはヨーロッパでは、カトリック教会は特に、聖伝のミサを守る人たちは、「どのようなことがあっても、ミサは、どのような恐ろしい疫病があったとしても、ミサだけは捧げなければならない」と力強くミサを続けてきました。

アメリカでは、たとえ国が法律で禁止したとしても、教会は閉めなければならなかったとしても、それならば駐車場で、トラックの中に祭壇を作って、駐車場の場所でミサをして、そして御聖体を授ける司祭もいました。雪が降ったとしても、雨が降っても、ミサを続けました。

あるいは、世界中では、ありとあらゆる手段を使って、ミサを捧げ続け、そして秘跡を捧げ続け、命の為に、霊的な命の為に、命がけでミサを守った、戦った神父様たちがいます。コロナの時もそうでした。

ルフェーブル大司教様もそうでした。「聖伝のミサは決して廃止されていない」ということを知り、それを守り通しました。その為に、どのような侮辱や、屈辱や、あるいは脅しの聖職停止や、あるいは破門などということもものにせず、信仰の為には一切妥協できないと、立ち上がりました。

このミサは守らなければならない。聖伝の秘跡を守り通さなければならない。司祭職を守らなければならない。2000年の教会の信仰の遺産を守らなければならないと、剛毅を以って、守り通しました。

日本のかつての殉教者たちも同じでした。たとえ禁止されたとしても、しかし、真理は決して疑問にさえ付すこともできない。これだけは絶対に譲ることができない。絶対の真理だ。命がどうなろうとも、私はこの真理を守るしかない。これを否むことができない。喜んで血を流して、何千人という方が殉教してきました。この日本で。私たちの祖先。剛毅の徳です。

しかしこの剛毅の徳に、聖霊は、愛である聖霊は、さらにものすごい御恵みを下さるのです。聖霊は、決して私たちがこのまま見殺しにされたり、見放されたりすることは決して許しません。そうでなくて、常に助けて下さって、力強く守って下さって、私たちに力を下さって、どのような苦しみにも、悪にも、耐え忍ぶことができる、という力を与えてくれます。「聖霊の賜物」です。

なぜかというと、聖霊とは、この地上では得ることができない、永遠の勝利、永遠の命まで導くことができる「天主の愛」であるからです。聖霊は、常に永遠の命へと眼差しを上げさせて、私たちを強めてくれます。

「私たちは必ず勝利する。必ず助けがある。決して、たとえ3日間食べ物がなかろうと、砂漠の中であろうと、イエズス・キリストは、私たちに命を与えて下さることができる、命の糧を与えて下さることができる、永遠の命を与えて下さることができる、勝利を与えて下さることができる、私たちに全ての助けを下さることができる、私たちの力強さだ!」と、力強くイエズス・キリストに従うことができるようにして下さいます。

今日の福音の人たちは、私たちの模範です。多くの私たちの先祖たちも私たちの模範です。

マリア様もそうでした。マリア様も、イエズス・キリストの力強さを以って、十字架の下に佇みました。聖母の御取り次ぎによって、ぜひこの剛毅の徳を願いましょう。

現代、信仰を、「都合が悪いから」とか、あるいは「ちょっと難しいから」とか、あるいは「何か人から言われるから」とかと言って、それを恐れているような人々に流されがちな現代、ぜひ確固とした力強い、真理を、永遠の命を求める、永遠の真理に確固とした確信を持つ力強さを、剛毅の徳を、剛毅の賜物を、乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カルメル山の聖母のスカプラリオによって危機から救われた実話

2022年08月18日 | お説教・霊的講話

2022年7月16日(土)聖母の土曜日 カルメル山の聖母の記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

愛する兄弟姉妹の皆様、一つお知らせがあります。
パリャラーニ総長は、秘書事務局長と一緒に日本にいる予定です。総長様がいらっしゃる間、大阪でもミサがある予定です。その時にはぜひ時間を作っていらして下さるようにお願い致します。サマース管区長もいらっしゃる予定です。

今日はカルメル山の聖母の祝日です。皆様もカルメル山の聖母については何度も話を伺ったと思います。スカプラリオの話も、土曜日の特権の話、特別のマリア様の保護の話もご存知と思います。

マリア様はルルドでは18回お現れになりました。その最後は7月16日、今日でした。スカプラリオの聖母の御姿で、聖ベルナデッタに現れています。

またファチマでは、10月13日、最後の御出現の時にも、マリア様は喜びの玄義・聖家族、それから苦しみの玄義、そして最後には栄えの玄義のお様子で御姿を見せて、そして栄えの玄義の御姿の時には手にスカプラリオをお持ちでした。そのマリア様をご覧になった子供たちは、マリア様は、スカプラリオによって私たちを、マリア様は救おうとされていると理解したと言っています。聖母の汚れなき御心に対する信心の一環をなすものでしょう。

今日は特に、スカプラリオでどんなことが起こったか?という話を二つだけ、エピソードをご紹介したいと思っています。

1844年に、聖地イスラエル、パレスチナ、聖地にいたカルメル会の司祭の話です。1844年のある日、このカルメル会の司祭は、墓地を訪問して、墓地で死者の埋葬をするように頼まれました。そこで神父様はバスに乗って、アラブの人が運転するバスに乗ってその墓地まで行きました。まだ目的地までは遠く3㎞ほど、2マイルほどのところで、バスは突然止まりました。まだ墓地に着かないにも関わらず、舗装されていない道路の途中に、非常に危険な沼、泥地があって、バスはそこに入ることができないと言いました。なぜかというと、もしも入ったら出ることができなくなるからです。そこでバスの運転手は神父様を降ろして、別の方に行きました。

神父様はどうしてもその道を通って墓地まで行かなければなりません。埋葬を準備している人たちが待っています。そこで、ぬかるんだ土の道を行くのですけれども、底なし沼のような泥道で、行けば行くほどどんどん体は沈んでしまいます。そしてある時、足を入れると、ズブズブと体が沈んでしまって、「もうこれは底がない」と理解しました。「このままでは、ここに埋まって死んでしまう。」

そこで、カルメル会の修道服である大きなスカプラリオを取って、それに接吻をして、カルメルのマリア様に祈りしました。そしてカルメル山の方を向いて(聖地です)、マリア様に、「助けて下さい」とお祈りしたところ、底なしだと思われたその沼、もうズブズブと支えがないと思われた所に、支えが出来たのを感じました。そしてそこから、沼の中ですけれども、それでも歩いて墓地まで3km、残る道を歩くことができたそうです。その時には靴も失って、もう泥だらけになってしまったけれども、命は助かった、とのことです。「これはマリア様のおかげだ!」と言って、沼を歩きながら、この神父様はマリア様を称えながら墓地まで歩いた、ということです。

これはちょうど、私たちがこの沼のような、罪の危険の周りに囲まれたところを、私たちの墓地まで歩きながら行く姿に似ているではないでしょうか?天国に辿り着く為に、私たちが一生懸命マリア様の元で歩いている姿に似ているではないでしょうか?

ある時にはその沼地があまりにも深いので、あるいは悲しみの沼地、あるいは絶望の沼、あるいは悪徳から悪い習慣からどうしても抜けられない、あるいは危険からどうしても逃れられない、という時がもしかしたらあるかもしれません。自分の力ではどうしても、もう行けば行くほど落ちてしまう、ズブズブ入ってしまう、もうこのここから抜け出すことができない、そのような時に、もしも私たちがスカプラリオを身に付けていたら、マリア様に目を上げて助けを乞い求めるならば、マリア様は決して見捨てることなく、私たちを助けて、目的地まで導いて下さる、ということのシンボルではなかったでしょうか?

もう一つ、こんな話があります。1846年、イギリスの船に乗っていたプロテスタントの家族がいます。それはイギリスを出て、それからアフリカの南先端の喜望峰まで通って行って、そしてインドの方まで行く船で、それは「KING OF OCEAN」という船の名前でした。「大洋の王」つまりどんなことがあっても沈まない「海の王様」という船の名前でしたが、しかし沈没しようとしていました。

なぜかというと、その時にものすごい嵐が吹き寄せて、強風と高波によって船は翻弄されていました。この船の沈没は時間の問題でした。波は止むことがありません。甲板にも水はどんどん入ってきます。それを見たプロテスタントの家族、フィッシャー牧師さんは、妻と子供たちにお祈りをするようにと言っていました。しかし船の危険はますます大きくなるばかりでした。

その時に、やはり同じ船に乗っていたカトリックのアイルランドの青年がいました。ジョン・マッコーリフという方です。彼はスカプラリオを身に付けていて、この牧師さんたちの家族の近くでお祈りをしていたのです。その時、何をインスピレーションを受けたのか、いきなり自分のシャツをまくって、スカプラリオを手に取って、それに接吻をして、そのスカプラリオを手に持って、十字架のしるしを海にしたそうです。そしてマリア様にお祈りしながら、そのスカブラリオを波に投げ入れたのです。

するとその瞬間に、ピタリと波が止まって、奇跡的に大凪になりました。ただ一回だけ波が甲板に来て、そしてジョン・マッコーリフさんの元に当たりました。実はその波は、マッコーリフさんが投げたスカプラリオを戻して、そしてそれで全てが終わりました。カルメル山のマリア様によって助けられたのです。

そのことを見ていたフィッシャー牧師家族は、あまりにも奇跡的なその出来事を見て、彼は「一体、どういうことか!?」とこのアイルランド青年に聞きました。この船はその後、目的地のオーストラリアまで行きます。オーストラリアで、この家族はカトリックに改宗したとのことです。

ちょうど私たちも、この世の人生と言う荒海を航海して天国までの道を行く時に、どうしても私たちの力では乗り越えられない危険や困難があるかもしれません。その時には、ジョン・マッコーリフさんがやったように、スカプラリオをぜひ手に取って、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちを必ず助けて下さいます。

スカプラリオによって命が助かった、霊的に助かった、あるいは肉体的に助かった、という話がまだたくさんあります。マリア様はかつてなさったように、今でも助けて下さいます。ますます荒波のような現代世界ですけれども、マリア様に対する信心を、スカプラリオに対する信心をしっかりと持つように致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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証聖者皇帝聖ヘンリコ:全ての権威は天主に由来する:権威を、天主の為に、人々を天主へと近付ける為に、天主を愛させるが為に使わなければならない

2022年08月18日 | お説教・霊的講話

2022年7月15日(金)証聖者聖ヘンリコ皇帝のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

証聖者皇帝聖ヘンリコの祝日を祝っています。

カトリックの教えによれば、天主の定めによって全ての権威は天主から来ます。父なる天主に由来します。ですからもしも、父親が父としての権威を持っているとしたら、それは天主に由来します。もしも国王が、あるいは皇帝が、国を治める力を権威を持っている、それの正当性を持っているとしたら、これは天主から由来します。天主に由来しない権威は何もありません。

ですから国を治める者は、あるいは上に立つ者は、天主から頂いたこの権威を、天主の為に、人々を天主へと近付ける為に、天主を愛させるが為に使わなければなりません。それこそが正しい権威の行使で、そしてその為にこそ権威が立てられました。

ちょうど天主がアダムとエワを創ったその原初の義の時に、全てが人間を頂点として、この目に見える世界が成り立っていました。人間が天主に従順である限り、全ての秩序は整っていました。そして平和がありましたし、動物たちは人間に一切害を与えることもなく、人間の言うことを従順に聞き、そして人間は全自然界を支配して、そして死も、病も、苦しみも、全くありませんでした。

しかし、天主に逆らったが為に、天主にノー!と言ったが為に、自然界も人間に逆らうようになってしまいました。今、現代社会の危機はまさにここにあります。

天主に本来ならば従うべき、天主の為に使うべき権威が、天主を否定するので、あるいは天主を知らないと言うので、権威は自分の権威の基礎を否定しているのです。

そこで権威は権威を保つ為に、あるいは暴力の装置を使ったり、あるいは警察を使ったり、あるいはマスコミでイデオロギーを押しつけたり、あるいは教育という装置を使って洗脳したり、人々を支配しようとします。しかしそうしようとすればそうしようとするほど、権威はますます弱体化していきます。弱体化すれば弱体化するほど、もっと支配を強めようとして、全体主義とか、あるいは警察とか、あるいはカメラで監視をする国家、あるいはコンピューターでコントロールしようとします。

何故かというと、権威が正しい目的を知らない、権威が正しい権威の行使をしていないからです。本来あるべき「天主の為」という目的を果たしていないからです。今、世界がそのようにますます危機に陥っています。その結果、全てを否定するようになっています。今の流行の言葉で言えば「キャンセル文化」、全てを過去を否定して、今のイデオロギーだけを押し付けるという文化、そういう野蛮を押し付けようとしています。

これは残念ながら、第二バチカン公会議の後のカトリック教会にも生じてしまったことです。本来ならば教えるべき立場にある教導教会、教え導く教会、そしてそれに従う教会、聞き従う教会の区別が、それが転倒されて、上と下がひっくり返ってしまって、今流行りのものは、シノドスの教会、そして司教様たちは、「教会に足を運ぶことを辞めたような人々から、特にそのような人々の話を聞かなければならない」と、世界中でそれを今実行しています。それと同時に、カトリックのもともとの教え、聖伝の信仰、不可謬の教えには、耳を閉ざしています。教会の過去を否定しようとしています。

今日、ぜひ皇帝聖ヘンリコに祈りましょう。この聖人の御取り次ぎによって、この世の霊的指導者たちが、そしてまた社会の指導者が、家庭の父親たちが、母親たちが、天主から与えられた権威を、天主からのものとして認めて、そして委ねられた霊魂たちを天主へと向かわせる為に、よく使うことができますように祈りましょう。

私たちが、正しい決断、そうあるべき決断を、あるべき掟を、あるべき指導を、天主の望むことを、人の気に入るというよりは天主の御旨を果たす、天主の御旨を喜ばせるが為に、行うことができますように。

特にカトリック教会の為にお祈りしましょう。ローマ教皇様、フランシスコ教皇様の為にお祈りしましょう。教皇様が、教会の教えを正しく教えるが為に教皇としてある、ということを自覚されますように。

そしてファチマのマリア様に特にお祈りしましょう。ファチマのマリア様は、「私だけがあなたたちを助けることができる」と仰いました。そして、「最後には私の汚れなき御心は凱旋するだろう」と言われました。マリア様の御取り次ぎによって、教会の為に、そしてこの世界の為に、家族の為に、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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今、最後に、第四の革命が、私たちとこの今生きている現実世界とを切り離そうとしています。

2022年08月17日 | お説教・霊的講話

2022年7月10日(主日)聖霊降臨後第5主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の集祷文はとても美しいものです。
天主は御身は、御身を愛する者の為に、目に見えない善を、素晴らしいものを準備して下さった。ゆえにわれらが、その全ての望みを超える約束を得ることができるように、全てを超えて主を愛することができるようにして下さい、と祈ります。

まさに、私たちの想像を超えた約束の為に、目に見えない善の為に、私たちは今ここに生きています。カトリック教会の創立の目的は、私たちをこの目に見えない永遠の幸せに導くことです。

トリエント公会議の公教要理にはこうあります。
「そして昔、律法の下にあった信仰者の団体がシナゴーガつまり集団と呼ばれていたことから分かるように、私たちが呼出された目的は永遠の事柄の知識とその所有にある。聖アウグスティヌスは「その名称がそれに与えられたのは、集団をつくるのがより都合の良い家畜のように、地上の滅びるものだけを求めているから」と教えている。キリスト者の民が、シナゴーガではなくエクレシアと呼ばれるのは、地上の死すべきものを軽んじてただ天の永遠のものだけを追求するからである。hoc ei nomen impositum est, quia pecudum more, quibus magis congregari convenit, terrena et caduca tantum bona spectaret. Quare merito Christianus populus non synagoga, sed ecclesia dicitur, quia terrenis et mortalibus rebus contemptis coelestes et aeternas tantummodo consectatur.」

ですから私たちはこの目的に到達することができるように、教会に協力しなければなりません。

天主は、御摂理によって、この教会の目的をより容易に、より安全に実行することができる為に、二つのものを作って下さいました。

一つは家族です。お父さんとお母さんの元で、子供たちが善を行なって容易に天国に行くことができるように、そして全てに越えて主を愛することができるように、家族を作って下さいました。

更にもっと大きな家族、つまり国家、国をも作って下さいました。それは、国が私たち国民に善を行なうように、そして悪を罰する、ということを以って、私たちがよりよく善を行なうことができるように、より不正を行なうことが難しくなるように、家族を守ることができるようにする為です。

カトリック教会の理想とするところは、教会が国家と協力し合って、国民をできるだけ多く、できるだけ簡単に、安全に天国へと、永遠の幸せへと導く為に、この地上での道を送る為です。ですから国はできるだけ教会の、あるいは福音の教えに耳を傾けて、創造主の、この世界を創って下さった三位一体の、贖い主の声を響かせるようにしなければなりません。善を追求して、悪を避ける、そして平和を求めることです。ちょうど聖ペトロが今日書簡の中で言っているようです。それが私たちの理想であって、イエズス様の御望みです。

その望みに従って、カトリック教会は1500年の間、キリスト教世界というものを築き上げてきました。多くの霊魂たちが容易に天国に行くことができるように、カトリックの王の元で良い社会秩序を作ろうとしてきました。

カトリック教会はキリスト教世界というものを作りましたが、残念なことにそれを破壊しようとする勢力がやって来ました。

最初の破壊の勢力は、プロテスタントでした。次に、自由主義、リベラリズムでした。その次に、共産主義がやって来ました。そして、今、最後に、第四の革命が、私たちとこの今生きている現実世界とを切り離そうとしています。

プロテスタント主義は、教皇という権威から私たちを切り離そうとしました。七つの秘跡から切り離そうとしました。カトリック教会という現実から、真の天主が作った現実から、私たちを切り離そうとしました。ただ聖書だけを持っていれば良いのだと言いました。

自由主義は、天主の定めた本当の意味の平等や、本当の意味の自由ということを歪曲させて、理解させました。例えば、本当の自由というのは、罪から自由であって、悪から自由であって、善を行なうことであることです。しかし彼らは、天主の法律からの自由で、何でもやって良い、人に迷惑をかけなければ罪を犯しても良いという自由だ、お金さえ儲ければ何をしても良い自由だ、と誤解しました。人間は、個々の消費者になってしまいました。

共産主義は、更にそれを発展させた形です。平等も、天主の前の平等、誰もが救われる為には、金持ちも貧乏人も、等しく天主の御旨という善を行なわなければならない、悪を避けなければならない、天主と法の前での平等を教えていました。しかし誤解された平等は、男も女も全ては同じだ、親も子供もない同志だ、人は等しく働く機械だ、という歪んだイデオロギーを教えました。

今、革命の最終段階にあります。なぜ最終段階かというと、天主の作った、私たちを助けるもの、家庭を破壊してしまって、そして人々をバラバラに分断させようとするからです。今、私たちが生きている現代、このその革命は更に度を増しているかのようです。

つい最近、埼玉県(私たちの修道院があるところです)の条例で、「性の多様性を尊重した社会づくり条例」というものができました、可決されました。パブリックコメントというものによると、9割が反対したそうですが、通りました。

それによると、自分の考えと現実との区別がつかない人の自認を他者が認めなければ、罰せられるということです。これは何かというと、誰かが自分を男だと思えば男。女だと思えば女と、主観的な自認を皆が認めなければならない。もしもそれを自認を、公認しないなら、ヘイトだ、差別だ、「私は傷付いた。あなたは悪をした」ということになる、そのような法律ができたということです。

ですからこのような人が、朝、目覚めたら、女だ、と思ったから、女湯に入った。女性の施設に入った、私は女だから。あるいは、今日、私は女だと思った。だから女性の競技に出て、金メダルを取ろう。もちろん肉体的な男性ですから、金メダルを簡単に取ることができます。もしも、あなた、それはおかしいんじゃないか?と言えば、それを言った方が悪くなるということです。

このような人たちのことをウォークと言います。ウォークというのは、歩くという意味ではなくて、目覚めた人という人で、自分の思ったこと通りに社会が認められないと、その認めない方が悪いと言う人のことです。

つまり、たとえて言うならば、私は医者だと思えば、皆、私を医者として取り扱わなければならない、ということです。私が今、犬だと思えば、犬だとして取り扱わなければならなし、犬と犬は結婚しなければならないと言えば、そうしなければならない、ということです。

ヨーロッパでは例えば、白人は悪いとされています。ですから、被害を受けたのが白人であっても、悪いのは白人だとされなければなりません。なぜかというと、このような人たち(ウォーク)は、そうすることによって、自分たちの尊厳を確認した、とされるからです。

嘘のようなことがおきています。何が本当であって何が間違いか、何が善であって何が悪かがごっちゃになるような世界が今、起ころうとしています。日本は大丈夫だということは絶対ありません。韓国でも同じような法律が今、できつつあります。日本にも、今、それが上陸しつつあります。

これは今は、埼玉の条例ですが、今日、電車に乗ると、同性愛の宣伝をするような映画が広告に載っていました。直視することができないような広告でした。そのようなことが当たり前であるかのように、電車の中では広告が、テレビの中ではそのような宣伝が、ラジオで、映画で、これからますます宣伝されることでしょう。罪が罪でないかのように、宣伝されるでしょう。

何が起こるかというと、家族の崩壊です。天主が立てた家族というものがこれからバラバラになってしまってしまう。あるいは国家というものが、国を愛することがいけないかのように、あるいは祖国の伝統文化を守ることがいけないかのように考えられる、そのような時代が今、到来しようとしてきています。

私たちは何もしなくて良いのでしょうか?何かものすごい、社会を壊そうとする勢力、日本の社会を壊そうという勢力があるかのように見えます。悪魔のような勢力があるかのように見えます。ですからそのようなものに対して、私たちは何かをしなければなりません。

皆さんもご存知の通り、今日は選挙の日ですから、一体誰に投票したら良いのだろうか、と思われている方もいらっしゃるかもしれません。よく見極めて、現実の世界の秩序を守る、つまり天主のたてた秩序を守る、という方に是非、投票をすることをお願いいたします。少なくとも、現実の世界を否定することに賛成するような人には投票しないように、私はお願いしたいと思います。

候補者の中には、同性愛を結婚として認める法律をすることはできる、と言う人がいるかもしれません。天主の秩序を壊すことに賛成をすることです。しかし、どうしてそのようなソドマとゴモラのような世界を私たちが作ることに協力することができるでしょうか?

どうぞ気を付けて下さい。なぜかというと、そのような人たちはそれだけで終わらないからです。子供を養子にもらいたい、と言うでしょう。そしてそうしてしまうと、犠牲者は子供たちです。それに疑問を挟むことのほうが悪になってしまいます。あるいは、そのようなことが普通にならなければならないことを、教えなければならない、と言うようになるでしょう。

これによって、アメリカあるいはヨーロッパでは多くの問題が生じています。選挙もできない、タバコも吸うことができない、結婚もすることができない小さな子供が、学校でジェンダーセオリーを教わって、そして自分は男だったのだけれども、女だと分かった。そして手術を受けることできるように、そして多くの子供たちが、そのものすごいお金のかかる手術をした、と。もう取り返しのつかないことが起こっています。子供たちが、あるいは弱い女性たちが、犠牲者になっています。そのようなことにストップをかけなければなりません。

ですから私たちは一体、どのようにしなければならないのでしょうか?

これを私たちを救うのは、このような今、現代世界から救うことができる唯一のものは、カトリック信仰です。なぜかというと、カトリック信仰こそが本当の現実を、私たちにそのまま教えているからです。

しかしそれを知るだけでは足りません。私たちがその通りに生きることが必要です。信仰を生きる為に助けが必要です。その為にはどうしたら良いでしょうか?

マリア様にお祈りして下さい。なぜかというと、私たちの数も、力も、あまりにも小さいからです。私たちが何をするか、まずマリア様の力が、天主の御母の力が必要であるからです。マリア様はファチマでこう仰いました。秋田でも仰いました。あなたたちを助けるのは、私しかいません。マリア様しかいない、と。

今この現代世界の敵は、私たちの手に負えないほど大きくて巨大であるかのように見えるかもしれません。しかしマリア様は更に強力で、私たちを助けて下さる天の御母です。

マリア様の要求通りに、教皇様がロシアを世界中の司教様と合わせて、聖母の汚れなき御心に奉献されました。するとアメリカでは信じられないような判決が起きたではないでしょうか。堕胎をするのは権利だ、と今まで判例があったのは、それは間違いだったと覆されたのです。今、そのような新しい動きが立ち上がって、特に若い人たちを中心に立ち上がっています。

これは、マリア様が私たちに特別の助けを与えている、という証拠ではないでしょうか。

ですから愛する兄弟姉妹の皆様、何も絶望しないで下さい。全ては天主の元に帰らなければなりません。その為に私たちにはマリア様が与えられています。

行動すると共に、お祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。その意味でもどうぞ、来週の月曜日にあるマーチ・フォー・ライフには是非、皆さんと共に、マリア様と共に、歩くことができればと思っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


【参考情報】カナダ先住民寄宿学校問題で事実無根の結論に飛びつく【REAL Women of Canada】

2022年08月17日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】カナダ先住民寄宿学校問題で事実無根の結論に飛びつく【REAL Women of Canada

Jumping to Conclusions Without the Facts in the Indigenous Residential Schools Question

オンタリオ州オタワ  2021年6月21日

REAL Women of Canada」は、サンダーベイにあるレイクヘッド大学の人類学者、スコット・ハミルトン博士(Dr. Scott Hamilton)の報告書を、会員とその関係者の皆さんに知っていただくべきだと考えています。ハミルトン博士は、「真実和解委員会」(Truth and Reconciliation Commission)の依頼を受け、先住民学校の墓地を再調査しました。博士はこれまで、215人の子どもが埋葬されたと報道されている旧カムループス寄宿学校を含む墓地の問題を広範囲に再調査してきました。

メディアはこの悲劇について、事実を調査せずに数多くの記事を書いていますが、その事実はこの状況に対する別の見方を明らかにしています。

スコット・ハミルトン博士の報告書の要約を添付します。

先住民寄宿学校問題で事実無根の結論に飛びつく

カナダの良識ある人々は、もはやメディアを信じることはできず、メディアから影響を受けることもあり得ません。メディアが信頼や尊敬に値しないことを自ら証明したからです。

メディアが情報操作しており不適切であることは、カムループスの寄宿学校の敷地内にある墓地に、無垢で無力な先住民の子どもたちが埋葬され、忘れ去られているという恐ろしい話で露呈しました。メディアの説明によると、この墓地は、寄宿学校でネグレクトされ、虐待され、捨てられ、その死を隠すために墓地に埋められた子どもたちの集団墓地(通常、戦争犯罪や虐殺を表す言葉)でした。本当だとしたら衝撃的な話になるでしょう。

しかし、オンタリオ州サンダーベイにあるレイクヘッド大学人類学部のスコット・ハミルトン博士は、真実和解委員会に依頼されて、寄宿学校に住み、学校の土地に埋められた亡くなった子どもたちの問題に取り組んできました。この問題に対する博士の調査は、メディアによって作られた認識とは全く異なる、驚くべき話を教えてくれます。以下に記す要約に疑問をお持ちの方は、次のサイトにあるハミルトン博士の44ページに及ぶ報告書そのものをお読みください。https://ehprnh2mwo3.exactdn.com/wp-content/uploads/2021/05/AAA-Hamilton-cemetery-FInal.pdf .

ハミルトン博士の報告書

ハミルトン博士は報告書の冒頭で、以下の理由で、答えを見つけるのが困難であることを説明しています。つまり、先住民寄宿学校の中には、同じ名前で各地に再建されたものがあるため、また、多くの場合、話が一世紀以上に及ぶため、物的証拠を見つけるのが難しいため、さらに、保存されている文書が必ずしも入手できるわけではないため、です。そのため、ハミルトン博士の作業は、現存する文書に焦点を当てました。博士の報告は、カナダにある150のインディアン寄宿学校の約100年にわたる運営についての驚くべき説明になっています。その調査が指摘しているのは、少なくとも3213人の子どもたちが、これらの寄宿学校で死亡したと報告されている、ということです。

アボリジニの死亡率

ハミルトン博士によると、19世紀から20世紀初頭にかけて、多くのアボリジニの人々が健康を害し死亡した主な原因は、伝染病でした。この期間、治療法のない結核が蔓延していたのです。この結核は、他のカナダ人よりもアボリジニの人々に大きな影響を与えました。先住民は、欧州からの新参者の病気に対して抵抗力に限界があったのです。寄宿学校内の生活環境が一般的に悪かったことも、この問題を大きくしたのでしょう。学校に行く前に、この病気に感染していた子どもたちもいたでしょうが、さまざまな教会によって建てられたのではなく、インディアン問題省によって建てられた、混雑し、粗末な寄宿学校の中で感染した子どもたちもいたのです。

1906年、インディアン問題担当最高医務官だったピーター・ブライス博士による連邦政府の年次報告書には、アボリジニの健康危機の程度が概説されています。彼はこう記しています。「カナダのインディアンの死亡率は全人口の2倍以上だった」。1909年の報告書では、ブライス博士が7校の寄宿学校の243人の生徒の詳細な調査を行い、すべての年齢層に結核が顕著に見られると結論付けています。同博士は、「平熱を示す子どもは一人もいなかった」と報告しています。このときの数年間の流行は、結核だけではなく、1918年のスペイン風邪の大流行など、他の病気もありました。この時はまだ、死を食い止めるための予防接種ができませんでした。また、そのころは、ペニシリンなどの抗菌薬や抗ウイルス薬、抗炎症薬もなく、使用できませんでした。1948年までに、学校における先住民の子どもたちの死亡率が大幅に減少したのは重要なことです。1948年以前は、生徒の病気や死亡が多く、その後の死亡率の低下は、医学の発展によるものと思われます。

寄宿学校

1883年以前、プロテスタントとカトリックの宣教師たちは、あらゆる年齢のアボリジニの人々の面倒を見るために、教会や学校、そして場合によっては病院を設立しました。これらの学校は、子どもたちが非アボリジニの社会的、宗教的価値観に順応するための基本的な読み書き能力を提供すること、また彼らがより容易に社会に同化できるようにするための職業訓練校を提供することを目的としていました。

1883年になって、カナダ政府はインディアン問題省の下で、「寄宿学校制度」として知られる、先住民の子どもたちのためのさらに大規模な施設を監督・設立しました。この施設では、ますます支配的になる欧州系カナダ人社会での彼らの雇用と統合を助ける目的で、学問と産業訓練の両方が提供されることになっていました。1920年のインディアン法の改正により、学齢期の先住民の子どもたちを昼間学校【通常の学校】や寄宿学校に送る権限がインディアン問題省に与えられました。その後、1970年代初頭になって、運営されていた寄宿学校の数は大きく減少し始め、1996年にようやく運営は終了しました。

インディアン問題省の埋葬政策について

全く驚くべきことに、インディアン問題省には、1958年まで、寄宿学校の子どもたちの埋葬に関する正式な文書による方針がなく、これは寄宿学校制度が急速に拡大してから、実に75年後のことでした。文書化されていなかったものの、同省の慣習として、長距離輸送の費用が生徒の死亡場所に埋葬する費用よりも低い場合、葬儀費用を支払わないというものがありました。これは、寄宿学校制度の全歴史を通じて行われてきた慣習、つまり、埋葬費を低く抑えておくことで、亡くなった生徒の遺体を故郷のコミュニティーに送り返そうという気持ちを起こさせないことと一致しています。インディアン問題省の長年の対応が示しているのは、通常の場合、学校で死亡した生徒の埋葬費用は学校が負担すると考えられていたことです。これを行う最も費用対効果の高い方法は、学校の敷地内にある墓地に埋葬することでした。この墓地には、生徒の遺体だけでなく、在職中に死亡した学校の教員や宗教関係者の遺体も多く埋葬されていました。時の経過とともに、墓地を囲むフェンスと同じように、墓を示す木製の十字架も劣化していきました。その結果、この墓地の一部は、時とともに失われてしまいました。もう一つの問題は、寄宿学校の墓地の維持管理です。インディアン問題省は、これらの墓地を維持する責任を認めませんでした。この責任は、不十分な政府資金でこれらの学校を運営していた宗教団体に降りかかってきました。また、これらの墓地は、近隣の自治体の住民の埋葬に使われるという問題もありましたが、自治体は墓地の維持管理には一切責任を認めませんでした。

まとめ

インディアン寄宿学校の歴史を通じて、亡くなった生徒を埋葬のために(出身地に)戻したり、学校近くの墓地を維持したりするのを妨げる、財政的な理由による手続きや障壁があったと思われます。墓に刻まれた木製の目印は時間とともに崩壊し、墓地を囲むフェンスも森林の植物で大きく覆われてしまいました。そのため、時の経過とともに、墓地の境界を決定したり、そこに埋葬されている人について知ったりすることも困難になりました。

これらの墓を隠そうとしたことを示す証拠は全くありません。さらに、長い間忘れられていたこれらの墓地に埋葬された子どもたちが、虐待やネグレクトで死亡したという兆候もありません。しかし、メディアの報道によって、そう信じるように誘導されます。寄宿学校の語は、さまざまな観点から心を痛めるものです。しかし、学校を運営したカトリック教会をはじめとする宗教団体が、子どもたちをネグレクトし、死に至らしめた無慈悲な振る舞いをしたと非難するのは、事実に基づけば妥当ではありません。もし過失があるとすれば、それは寄宿学校や子どもたち、そして墓地に十分な資金を提供しなかった連邦政府インディアン問題省にあります。メディアによれば、このカナダの悲劇は、カトリック教会や他の宗教団体の失敗とされています。このことは、宗教的な信仰を貶め、公共の場から宗教を追い出そうとするもう一つの試みです。寄宿学校は、その道具として使われているのです。

【追加の参考情報】
Les pensionnats autochtones au Canada (1)
https://fsspx.news/fr/news-events/news/les-pensionnats-autochtones-au-canada-1-73979

Les pensionnats autochtones au Canada (2)
https://fsspx.news/fr/news-events/news/les-pensionnats-autochtones-au-canada-2-73986

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