Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

沈黙の聖人,聖ヨゼフが必ず言ったであろう言葉|本来なら血筋において王であるべきだった聖ヨゼフは,聖旨に従い,謙遜に,額に汗して労働生活を送りました。

2022年04月30日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年5月1日は勤労者聖ヨゼフの祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「勤労者聖ヨゼフの説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


カトリックの兄弟姉妹の皆様、特にさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願い:自民党埼玉県連の『性自認』が入った条例骨子案にカトリック信仰の声を上げてください。

2022年04月27日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

カトリックの兄弟姉妹の皆様、特にさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願い

令和4年4月1日から5月2日まで、自由民主党埼玉県支部連合会(以下、埼玉県連)が、「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」の策定に当たって、意見を募集しています。

ご意見募集(パブリックコメント)について | 自由民主党 埼玉県支部連合会 ご意見募集(パブリックコメント)について

県民の皆様をはじめ、全国からも意見を応募できるとのことです。

特にカトリックさいたま教区の兄弟姉妹の皆様にお願いいたします。自民党埼玉県連の『性自認』が入った条例骨子案にご意見を出して下さい。カトリック信仰の声を上げてください。この条例案を提出しないように、パブリックコメントの提出にご協力頂けますようお願いいたします。

日本の社会とカトリック教会を守るために、発言してください。遠くで受動的に傍観して抵抗しないなら、亡国への歩みに向けて加速することになります。

聖ピオ十世教皇さまは、カトリック信者の怠惰や臆病が、信仰に反対する悪の力になっている、ということをおっしゃっていました。

この戦いにおいて私たちは一人ではありません。キリスト者として私たちは聖霊と協力するように招かれています。

「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」はここにあります。

この骨子案には多くの問題点があります。

■1条 目的には「性のあり方が男女という二つの枠組みではなく連続的かつ多様」とありますが、「性(sex)のあり方」には男性と女性の二つしかないというのが、人類の普遍的で客観的な事実です。生物学的性別は生涯不変です。男性の染色体と女性の染色体の二つのみが存在し続けているからです。この現実と条例は調和させることができません。

創世記は断言しています。「天主が人間を創造されたのは御自分の像にかたどってである。天主の像にかたどって創造されたのである。人間を男と女に創造された。」(創世記、1章、27)« Creavit Deus hominem ad imaginem Suam; ad imaginem Dei creavit illum; masculum et feminam creavit eos » (Gn 1,27). 

私たちの主イエズス・キリストも仰せられました。「あなたたちは読まなかったのか、はじめにすべてをおつくりになったお方が、人を男と女とにつくり、"そこで人は父母を離れてその妻と合い、二人は一体となる"とおおせられたことを」(マテオ19章)と。

天主は人間の男女の二つの性だけを創造されたのであって、「連続的かつ多様」な性を創造されたのではありません。このような条例の内容は、男女の生物学的な現実という概念そのものを分解してしまいます。

このような条例は、人間を男と女とに創造された天主に対する暴挙です。自然に反するものです。

人間は天主の似姿に創られています。聖父と聖子と聖霊との三位一体なる天主の似姿です。人間は、天主の愛から愛のために生まれた人格(ペルソナ)を持っています。生命を生み出すために「父親」「母親」「夫婦」が天主によって創造されました。

天に唾するものは、それが自分に帰ってきます。地震、台風、津波、などの自然の恐ろしさを知っている私たち日本人は、自然には逆らえない、逆らったらしっぺ返しが来る、ということをよく知っています。このような条例は、人間とはなにか、家族とは何かを崩壊させる脅威となります。私たちは、家族の破壊を容認することはできません。ひいては、家族を基礎とする日本社会全体が壊れてしまいます。従って亡国への一歩を踏み出すことになってしまいます。このようなことは、カトリックの信者でない方でも、常識的に理解できる事実です。

もしも客観的な現実と自然とに反することを、主観的に条例を定めようとするなら、それは「自然に従うのではなく、自分が決定する」という無謀なことです。しかし、例えば「重力がない」が条例として通過すれば、そうなるのでしょうか?

ジェンダー論は、人間の存在にとって現実のもの、真のもの、良いものを否定するという過程です。現実と真実と善を守るためにジェンダー論に反対することは、光と闇の戦い、命と死の戦い、愛と憎しみの戦い、真理と偽りの戦いです。

今、私たちが反対しなければ、私たちが悪に対して目をつぶって悪が広るままなってしまいます。そうなると、今度は、必然的に社会は、善に対して不寛容になり、悪をしなければ処罰されるようになってしまうでしょう。

■2条 定義では、「(2)性自認」を「自己の性別についての認識をいう」と定義付けて、自己申告による性別をそのまま認めなければならならないこととしています。言い換えると「自らを女性と認識する」だけで、身体的・法的な男性も「女性」として認めることです。身体違和感があることを要件とせず、手術などする気持ちのない人も含みます。「女性自認者」を「女性」を認めなければ「差別的取り扱い」とされることにあります。

これは、性別が、ジェンダー論に基づいた個人がそうだと思う可変的な主観的自己認識へと恣意的に変えられてしまうことを意味しています。これは大きな混乱を引き起こすことになります。

「自己の性別についての認識」による「性自認」を法制化・条例化することに、多くの女性が反対しています。

なぜなら、たとえば、「性自認が女性」という身体的には男性が、女性専用スペース(公衆トイレや公衆浴場、更衣室等々)に堂々と侵入しても、それを阻止することは「差別的取り扱い」になり、そのことは女性に不利益をもたらし、社会的混乱を引き起こしかねないからです。非常に深刻な道徳的・規律的な危機を迎えるだろうことは明らかです。

事実、札幌や大阪ではすでに似たような事件が起きています。
 
「女性スペースを守る会」は次の懸念を訴えています。

「女性トイレがもし身体男性にも開かれるのであれば、個室に引きずりこまれての性暴力被害、個室の盗撮被害の増加や盗聴さらに使用済みの生理用品を見られたり、持ち出されることも増えるでしょう。警戒心が薄く抵抗する力のない女児や、障害のある女性が性暴力被害に遭いやすくなるのでは、という懸念」について、ぜひ真摯に考えてください。女性専用の空間は、女性を守るシェルター的な働きをしているのです。

ある男性が、ある時点で、自分は女性であると確信する場合があり得ます。生物学的な男性が女性のスポーツに参加した場合、生物学的は女性は、絶対的に不利です。男性の自己認識を持つようになった女性が、司祭になることを要求する場合もありえます。これはカトリック教会にとって致命的な脅威となる恐れがあります。

社会的混乱を引き起こしかねない「性自認」の条例化を認めてはなりません。私たちはこのようなことを受け入れたり正当化したりすることは少しもできません。

■このような条例ができてしまうなら、同じ原理で、自己の性別についてのみならずさまざまなことがらについての「自認」していると主張する人の思い通りに社会を動かさなければならなくなる危険があります。

たとえば、今現在ではありえないと思われるかもしれませんが、"自分をサルだと「自認」した人がサルと結婚することを法律で認めないこと"は、差別的取り扱いとされるでしょう。この条例がつかった「性自認」の原理と同じ考え方に従えば、だれかが「自認」した通りだと認めないならば、それは「偏見」で「認識不足」で「暴力的」で「不当な差別で他人を傷つけている」ということになってしまうでしょう。「性自認」の原理を受け入れた限り、どこに線を引くことができるでしょうか。しかし、人間が何を自認しようとも、客観的な変わらない真理は存在します。全てが「自由」になるわけではありません。

■4条 差別的取扱い等の禁止についてには、「何人も、性的指向又は性自認を理由とする不当な差別的取扱いをしてはならない」とあります。「不当な差別的取扱い」に関する明確な定義がなく、恣意的な拡大解釈が可能で、あらゆることが「差別」とされる危険があります。言い換えると、女性の権利法益を守ろうとする発言や信仰に関する発言などが「差別だ」とすることにより議論をさせない危険があります。

「性の多様性に係る理解増進」「不当な差別的取扱い」というの名のもとに、憲法で保障された思想・良心、言論・表現、信教の自由などが侵害される危険があります。

■5条 県の責務についてには「県は、市町村、関係団体等と連携して」とあります。しかし「関係団体」とは、「レインボーさいたまの会」などのごく一部の偏向した団体であることが想定されます。特定の関係団体との癒着が懸念されます。 

■10条 啓発等についてには「県は、学校の授業その他教育活動において、性の多様性に関する理解増進のための教育等必要な施策を実施するものとする」「学校は、児童及び生徒に対し、性の多様性に関する理解増進のための教育又は啓発に努めなければならない」とあります。

「性の多様性に関する理解増進」を率先して担うのは、「レインボーさいたまの会」など当事者団体やLGBT活動家などだろうと予想されます。まだ未成熟で発達途上にある「児童及び生徒」に対する、性意識を混乱させるような「教育又は啓発」は、極めて危険です。

【参考情報】

「埼玉県性の多様性に係る理解増進に関する条例(仮称)骨子案」に待った!|保守の会|note

女性スペースを守る会

マルグリット・ペタース(Marguerite A. Peeters):ジェンダー論は、世俗化という革命の木になる実:ジェンダー革命は、「理論」ではない、人間の存在の現実、真実、善を否定する課程だ。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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本当に主は復活され、死の眠りから起き上がった。復活に関するあまりにも多くの確実な歴史的証言と旧約の預言の前兆がある。「この世に勝つ勝利は私たちの信仰である。」

2022年04月27日 | お説教・霊的講話

2022年4月24日(主日)白衣の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2022年4月24日、白衣の主日です。

今日フランスでは、日本からの聖ピオ十世会修練者である、シスター・マリ・エスペランスが初誓願を立てる予定です。どうぞシスターのためにお祈り下さい。日本からの最初の聖ピオ十世シスター会の修道召命のためにお祈り下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストは真によみがえりました。御自分の肉体を以って、その御復活を使徒たちに証明しました。

復活のその日、ドアを閉じられた部屋に、最後の晩餐の高間に主は現れて、ユダヤ人たちを恐れる弟子たちの中に現れて仰いました。「お前たちに平和あれ。お前たちに平和!」

今日の福音では、この言葉が何度も繰り返されました。そして御自分の手と脇を見せて、御自分が本当に復活された、ということを弟子たちに証します。その中の内の一人の使徒トマは、信じようとしませんでした。

「絶対信じない。もしも信じるのならば、私の手をその釘の跡に指を入れて、脇腹に手を入れない限り信じない。」これが言いたいことはつまり、そんなことはあり得ないということでした。「信じない。他の言ってる人を見ろ」でした。

しかし、私たちの主は、このトマのためにも、もう一度現れて、今日、そして「さぁ、お前の手をこの脇腹に入れよ。信じない者ではなく、信じる者になるように」と招きました。これを見たトマは、主の脇に、あるいは釘に本当に入れる勇気があったのかどうか分かりませんが、主を認めて、「御身こそ確かに、私の主であり、私の天主であります」と宣言しました。

今日、私たちの主は同じことを私たちにもなさろうとします。本当に主は復活され、私たちはそれを、その復活に関するあまりにも多くの確実な証言があります。2000年間のカトリック教会がそれを証言しています。御復活の後の世界の歴史が主の復活を証言しています。これほど確実な事実はありません。

今日、私たちは、御復活の後の歴史のみならず、更に旧約聖書にも目を向けて、イエズス・キリストの復活の神秘について更に理解を深めようと思っています。

主は十字架の上で亡くなりました。本当に死去されましたが、復活されたので、教父たちは、イエズス・キリストは「眠り」についた、「死の眠り」についたと言います。眠ったかのように、また起き上がったからです。

これは、最初のアダム、第一のアダムの眠りを思い出させます。アダムが眠っている間、脇からエワが創られたことを思い起こしてください。第二のアダムであるキリストが十字架の上で寝ている間、その脇から水と血が流れて、聖なる教会が出ました。いけにえの中から聖なる教会が生まれました。水は「洗礼」、血は「御聖体」です。

旧約聖書の中にはまた、次のような眠りもあります。それはノアです。方舟を造ったノアです。大洪水があって地上が浄められた後に、聖書によると、ノアは「最初に畑を耕した者である」と書かれています。そして最初に植えたものはブドウの木で、ブドウの畑を作りました。そして最初にブドウの実を潰して、それを飲んで、ブドウに酔ってしまいました。そしてブドウに酔った勢いで、裸になって寝てしまいます。すると三人の子供たちは、この父親の裸を見て笑います。その内の一人が笑って、二人はそれを辱めないように、お父さんの体を辱めないように、後ろに向きながらマントをかぶせます。

教父たちによると、これはイエズス・キリストの前兆だ、と言います。つまり、イエズス・キリストは、御自分のブドウ畑であるユダヤの民を、イスラエルの民を育てました。しかし、その彼らから却って迫害を受けて、そのイエズス・キリストは潰されて、ブドウが潰されたかのように血を流して、そしていけにえとなりました。それを飲んだノアが酔って裸になった。つまり、御受難に没頭して、その中に入り込んでしまって、十字架の上では衣さえも剥がされて、死の眠りについた、という前兆であると教父たちは言っています。

更に、「イエズス・キリストの十字架は、ユダヤ人にとっては躓き、ギリシア人にとっては愚かなもの、しかし選ばれた者にとっては、天主の力である」と言ったように、一部の、1/3の人類からは拒否され、笑われ、嘲られる原因となりました。

ヤコブの眠りはイエズス・キリストの死の眠りの前兆です。有名なヤコブの階段、ヤコブの梯子の話です。これで、御自分の死の前兆を見せようとしました。ヤコブはある日、ある所で眠りにつきました。石を枕にして眠ると、すると夢を見て、天にまで昇る階段があったのです。そしてその階段を天使たちが行ったり来たりしていて、お祈りを運んでいた、とあります。そこで、それを見て驚いたヤコブは、「これこそ天主の家である。“ベテル”と名付けた」とあります。

これは何を意味するかというと、これは「イエズス・キリストが、その隅の親石として死の眠りについた時、天に昇る階段、すなわち十字架が立てられて、その十字架を通ってのみ、天に祈りが昇られることができ、そして天から祝福が降りることができる唯一の階段が作られた、橋が作られた、ということだ」と教父は言っています。

更にこのような前兆はまだたくさんありますが、最後に一つだけ言うのを許して下さい。それはイエズス・キリストの復活、御受難と復活は、モーゼが率いた出エジプト、エジプト脱出によって前兆されていたということです。

つまり、奴隷状態にあったユダヤ人たちは、モーゼを先頭として紅海、赤い海を渡って、逃れた時に、ユダヤ人たちは壁のようになった海の中を、乾いたままの足で渡ることができました。渡り終わると、壁のようになっていた海はもとに戻り、彼らの後を追っていたエジプトの大群が海の中に溺れてしまって、全滅してしまいます。ユダヤ人たちは大勝利を祝いました。

紅海を渡った直後、イスラエルの人たちはモーゼを通して天主の十戒を受けます。その後、天主ヤーウェの指示に従って、契約の櫃を作ります。契約の櫃は、天主がそこにおられる、主の栄光がそこにおられる、天主の力によって覆われるという特別な櫃です。

ちょうど私たちの目の前にあるこの祭壇のような形をしていて、その前後には天使が、ケルビムが礼拝している姿が付いていました。そして棒で担ぐことができて、そしてその契約の櫃の中には三つのものがありました。「天主の十戒の石板二つ」と、そして「マンナ」、もう一つは「アーロンの杖」です。これは紅海を渡った後に、イスラエルの人たちが最も大切にしていたものでした。契約の櫃。そしていつも契約の櫃を先頭に行列を作って、約束の地まで動いていました。

ちょうど聖伝のミサを捧げる私たちは御聖体を、御聖櫃を前にして、イエズス様を先頭にして、「約束の地」である天国に向かって行列をしているかのようです。中にある三つのものは全て、イエズス・キリストを前兆していました。契約の櫃の中にある三つの一つは、まず天主の十戒です。これは天主の掟、天主の御言葉ですが、つまり「人となった御言葉イエズス・キリスト」の前兆でした。天から降ったマンナも、「イエズス・キリストの御聖体」の前兆でした。アーロンの杖はもちろん「大司祭であるイエズス・キリスト」の前兆でした。これによって奇跡が起こります。

では、私たちにとって契約の櫃とは何でしょうか?

それはマリア様です。聖母が、イエズス・キリストをその中に入れた新しい契約の櫃です。ですから教父たちは声を揃えて、新約の私たちは第二の新しいエジプト脱出をしている、出エジプトをしている。新約の民は、第二の本当の出エジプトの民である。悪魔の奴隷状態から逃れて、そして復活の命へと移動している、新しいイスラエルであると、言います。旧約時代にエジプト軍に大勝利を収めた通り、私たちも大勝利を収めます。

使徒聖ヨハネは今日の書簡の中でこう言っています。「この世に勝つ勝利は、私たちの信仰である。信仰こそが私たちに唯一勝利を与えて下さる。」

では、イエズス様の御復活の神秘の中に入ることに致しましょう。真に主はよみがえりました。そして私たちを永遠の喜びと大勝利へと導こうとされています。この勝利に与ることができますように、主に付き従いましょう。契約の櫃である、新しい契約の櫃であるマリア様に、私たちの忠実を乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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私たちがいつも目指すべきは、この地上の十字架の次にある栄光の復活である

2022年04月27日 | お説教・霊的講話

2022年4月23日(土)白衣の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は白衣の土曜日(Sabbato in Albis)とも言われております。なぜかというと、今日で復活の八日が終わろうとしており、復活の徹夜祭で洗礼を受けた方は、あるいは今日、あるいは明日、洗礼の時に受けた勝利の衣を脱いで、教会の保管場所に置くことになっていたからです。

ですから今日の書簡でも、今日の福音でも、このことが語られます。朝まだきに、復活のその日の朝、マグダレナ・マリアは、主の墓が空っぽであるということを弟子たちに使徒たちに告げに行きました。聖ヨハネと聖ペトロは、墓の中に主のくるまっていた布が、あるいは顔に被せられていた布が取られて、そのまま脱がされて隅に一つにまとまって置かれていたのを見ました。ちょうど洗礼を受けた人が、自分の受けた布を畳んで保管所に戻すかのようです。

聖ペトロも、今日の書簡で同じことを言います。私たちは、悪意と以前の罪の生活を脱いで、それを脱ぎ去って、生まれたばかりの乳飲み子のようにならなければならないと言っています。

今日、では教会は私たちに一体何を言いたいのでしょうか?

この今までの地上の生活の、この世の考え方、この世の生き方、この地上だけのことを考える生き方を脱いで、イエズス・キリストの復活の命を生きると招いています。

私たちの目的はこの地上ではなくて、永遠の命にあること、この地上でのことが、どのように苦しいことでも、辛いことでも、嫌なことでも、実はそれはあっという間に終わって、これをすぐに脱ぎ去って、永遠の終わることのないイエズス・キリストとの共の命が待っているということを私たちに教えようとしています。

私たちがいつも目指すべきは、この地上の十字架の次にある栄光の復活である、ということです。そうする時に初めて、私たちの受ける十字架が、実はこれは特別の御恵みである、ということが分かります。

辛い、あるいは嫌な、あるいは逃げたい、あるいは…ということは、実は本当は主から送ることが許されて、実は私たちの栄光の冠の種となって、本当は私たちに勝利の栄冠を与えようと、その機会を下さった、ということになるからです。十字架を通してのみ、栄光が与えられるからです。戦ってのみ、勝利が与えられるからです。

ですから今日、私たちは洗礼を受けた方々のように、地上の、あるいはあまりにも地上的なこの世の世界のことだけを考える見方を捨てて、イエズス・キリストの見方を、イエズス・キリストの考え方を、イエズス・キリストが思うような、永遠の命を求める生活をする御恵みを乞い求めましょう。

最後にマリア様にお祈り致しましょう。マリア様は私たちに、母として至福の生命へと招いて導いて下さるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


私たちの主イエズス・キリストは真によみがえりました。本当に死者の中からよみがえって、今生きておられます。主は真実によみがえられました。

2022年04月27日 | お説教・霊的講話

2022年4月22日(金)復活後の金曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちの主の御復活の御慶びを申し上げます。

私たちの主イエズス・キリストは真によみがえりました。本当に死者の中からよみがえって、今生きて、天に昇られて、天主聖父の右に座しておられます。主は真実によみがえられました。そして私たちを愛の眼差しで、憐れみの眼差しで見守っておられます。主は勝利されました。生きておられます。真の天主であるということを本当に証されました。

ですから福音では、今日、聖金曜日の全く反対を宣言します。ちょうど一週間前は、「我が天主よ、なぜ私を見捨てられたのですか」というその御苦しみを読みましたが、しかし今日は、「私には、天と地とすべての権威が与えられている。だから行って、全世界に行って、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、洗礼を授けよ」という荘厳な命令が与えられました。

全ての権威が、全ての力が、イエズス・キリストには与えられています。何も恐れることはありません。何も心配することはありません。イエズス・キリストが全てを勝利者として支配しておられます。ですから私たちの主は、復活の恵みとしてその実りとして、洗礼を、罪の赦しを私たちが受けることを命じておられます。

ノアの方舟で全世界が浄められたのも、エジプト人の手からイスラエルの人たちが紅海の、海の水を通って救われたのも、これも洗礼の儚い象りでした。ノアの大洪水よりも、エジプト人の手から脱出したその劇的な場面よりも、もっと崇高でもっと劇的な素晴らしい変化が、私たちの霊魂において、洗礼を受ける時に起こります。天主に対する無限の罪の負債が洗い浄められて、私たちの霊魂は生まれたばかりの赤子のように清く美しくなる。これが主の十字架の、そして御復活の恵みでした。

私たちは最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御取り次ぎで、主の復活の事実がますます私たちの心に深く確信として刻まれますように、そして洗礼の恵みの偉大さをますます理解することができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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【参考資料】次のコンクラーベについての覚書が枢機卿たちに回覧されている。これだ。

2022年04月25日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】次のコンクラーベについての覚書が枢機卿たちに回覧されている。これだ。

Settimo Cielo「セッティモ・チエロ」(第七天国)

サンドロ・マジステル

3月15日

次のコンクラーベについての覚書が枢機卿たちに回覧されている。これだ。

(サンドロ・マジステル)四旬節の初めから、将来の教皇を選出する枢機卿たちがこの覚書を回し読みしていました。ギリシャ語で「民」を意味するデモス(Demos)という名を持つこの覚書の作者は不明ですが、作者は自分の書いた内容に精通していることを証明しています。作者自身が枢機卿である可能性も排除できません。

以下、デモスの書いた覚書を掲載します。

*

今日のバチカン

あらゆる学派の論者たちは、たとえ理由は違っていても --- スパダロ神父(イエズス会)はおそらく例外であろうが --- この教皇職は多くの点で、あるいはほとんどの点で、災難である、大惨事であるという点で一致している。

1.聖ペトロの後継者は、その上に教会が建てられた岩であり、全世界にわたる一致の主要な源泉かつ原因である。歴史的に言えば(聖イレネオ)、教皇とローマの教会は、使徒継承の聖伝や、信仰の規則を保存し、諸教会がキリストと使徒が教えたことを教え続けることを保証するという唯一無二の役割を持っている。以前は「Roma locuta. Causa finita est.」(ローマは語った、一件は片付いた)であった。今日では「Roma loquitur. Confusio augetur.」(ローマが語る、混乱が拡大)である。

(A)ドイツのシノドスは、同性愛、女性司祭、離婚者への聖体拝領について語っている。教皇職は沈黙している。

(B)オロリッシュ(Hollerich)枢機卿は、性の問題に関するキリスト教の教えを否定している。教皇職は沈黙している。これは、この枢機卿が明確に異端的であり、隠された意味のある言葉遣いや暗示を使わないため、二重の意味で重大である。もしこの枢機卿がローマの懲戒を受けない状態が続くなら、これは歴史上ほとんど(全く?)前例のない、別のさらに深刻な規律崩壊を意味している。教理省は行動し、発言しなければならない。

(C)聖伝主義者や観想修道会に対する積極的な迫害と比べるとき、この沈黙は際立っている。

2.キリスト中心の教えが弱められ、キリストが中心から遠ざかっている。時には、ローマは厳格な一神教という重要性について混乱しているようにさえ見え、神性という概念を、汎神論とまではいかないものの、ヒンズー教の汎神論の変種のようなものにまで広げていることを暗示している。

(A)パチャママは偶像崇拝的である。おそらく当初はそのような意図はなかったのであろう。

(B)観想修道女たちが迫害され、カリスマ運動の教えに変えようとする試みがなされている。

(C)信仰と道徳における聖ヨハネ・パウロ二世のキリスト中心の遺産は、組織的な攻撃にさらされている。家庭に関するローマ研究所のスタッフの多くは解雇され、ほとんどの学生が去っている。「教皇庁生命アカデミー」は、例えば、最近、一部のメンバーが自殺幇助を支持するなど、深刻なダメージを受けている。複数の教皇庁アカデミーには、中絶を支持するメンバーや来賓講演者がいる。

3.バチカンでの法の尊重の欠如は、国際的なスキャンダルになる危険性がある。これらの問題は、現在バチカンで行われている10人の財務不正の被告の裁判を通して具体化したが、この問題はもっと古く、もっと広いものである。

(A)教皇は、裁判中に4回も法律を変えて検察を助けている【被告の権利は守られていない】。

(B)ベッチウ枢機卿は、裁判もなく、その地位を解任され、枢機卿としての尊厳を奪われたため、正当な扱いを受けていない。彼は正当な手続きを受けていない。誰もが適正な手続きを受ける権利を持っている。

(C)教皇はバチカンの長であり、すべての法的権威の源泉であるため、この権力を使って法的手続きに介入している。

(D)教皇は時々(しばしば)教皇の教令(自発教令)によって規則を定め、判決を受けた人々の上訴権を排除している。

(E)多くの職員(その多くは司祭)が、しばしば正当な理由なく、バチカン教皇庁から即座に解雇されている。

(F)電話の盗聴は定期的に行われている。どれくらいの頻度で許可されているかは分からない。

(G)トルツィの件に関する英国での裁判で、裁判官はバチカンの検察官たちを厳しく批判した。【その避難によると】彼らは無能である、かつ/または、買収されており全体像を示すことを妨げられている。【ジャンルイジ・トルツィは、バチカンのロンドンの不動産を巡る詐欺と横領の容疑で裁判中】

(H)2017年にジアーニ博士が率いるバチカン憲兵隊がイタリア領内の監査役(リベロ・ミローネ)の事務所の奇襲をしたことは、おそらく違法であり、確実に威嚇的で暴力的な行為であった。ミローネに不利な証拠が捏造された可能性がある。

4.(A)バチカンの財政状況は深刻である。過去10年間(少なくとも)、ほぼ常に財政赤字が続いている。新型コロナウイルス感染症以前は、これらの赤字は毎年約2000万ユーロであった。この3年間は、毎年3000万~3500万ユーロ程度である。教皇フランシスコ、教皇ベネディクトの両者より前の問題である。

(B)バチカンは年金基金の大幅な赤字に直面している。2014年頃、COSEA【Pontificia Commissione referente sull’Organizzazione della Struttura Economico-Amministrativa della Santa Sede (Italiano)/聖座経済行政機構諮問委員会/2013年7月に組織され2014年5月に廃止された】の専門家たちは、2030年に赤字が約8億ユーロになるであろうと試算していた。これは新型コロナウイルス感染症以前の話である。

(C)バチカンはロンドンのスローン通りの不動産で2億1700万ユーロの損失を出したと推定されている。1980年代、アンブロジアーノ銀行のスキャンダルで、バチカンは2億3000万ドルの支払いを余儀なくされた。過去25年から30年の間、非効率と腐敗によって、バチカンは少なくともさらに1億ユーロ、おそらくはそれ以上(おそらく1億5000万から2億)の損失を被ったことになる。

(D)教皇の最近の決定にもかかわらず、投資のプロセスは(2014年にCOSEAが推奨し、2015-16年に財務事務局が試みたように)一元化されておらず、専門家のアドバイスとは無縁のままである。何十年もの間、バチカンは、イタリアのすべてのまともな銀行家が避ける、評判の悪い金融業者を相手にしてきた。

(E)5261物件あるバチカン不動産の運用益は、スキャンダラスに低いままである。2019年(新型コロナウイルス感染症前の)運用益は、年間ほぼ4500ドルだった。2020年には、1物件あたり2900ユーロだった。

(F)財務改革における教皇フランシスコの役割の変化は謎であり不可解である。(財務改革は、犯罪の減少に関しては不完全だが実質的な進展があり、収益性に関してはIOR【宗教事業協会、通称「バチカン銀行」、バチカンの資金管理・運営をつかさどる組織】を除いてまったく成功していない。)

当初、教皇は改革を強く支持した。その後、投資の一元化を阻止し、改革と、汚職を明らかにするほとんどの試みに反対し、バチカンの金融機関の中心にいる(当時の)ベッチウ大司教を支持した。ところが2020年、教皇はベッチウに矛先を向け、最終的に10人が裁判にかけられ、起訴された。長年にわたり、AIF(Financial Information Authority)【財政情報局】の違反報告から起訴が試みられることはほとんどなかった。

外部監査法人「プライス・ウォーターハウス・クーパー」は解任され、2017年には主任監査役リベロ・ミローネがでっち上げの罪で辞任に追い込まれた。彼らは国務省の腐敗に近づきすぎていたのである。

5.教皇フランシスコとバチカンの政治的影響力は微々たるものである。知的影響力では、教皇の著作は、聖ヨハネ・パウロ二世や教皇ベネディクトの水準から低下していることを示している。意思決定や政策は「政治的に正しい」(politically correct)ことがよくあるが、ベネズエラ、香港、中国本土、そして今回のロシアの侵略において、人権を支持するための重大な失敗があった。

70年以上にわたって教皇職に忠誠を誓ったために断続的に迫害を受けてきた中国の忠実なカトリック教徒に対する公的な支援はない。ウクライナのカトリック共同体、特にギリシャ・カトリック信者【東方典礼カトリック信者】に対するバチカンの公的支援はない。

これらの問題は、次期教皇によって再検討されるべきものである。バチカンの政治的威信は、いまや落ち込んでいる。

6.別の低いレベルにある、トリエント典礼の聖伝主義者(カトリック)の状況を正常化する必要がある。

さらに低いレベルにある、聖ペトロ大聖堂での朝の「個人」および小グループのミサの挙行が再び許可されるべきである。現在、この偉大なバシリカは、早朝は砂漠のようである。

新型コロナウイルス感染症の危機は、教皇の謁見・ミサに出席する巡礼者の大幅な減少を覆い隠している。

教皇は神学生や若い司祭の間でほとんど支持されておらず、バチカン教皇庁には広範な不満(離反)が存在する。

次のコンクラーベ

1.枢機卿会は異様な枢機卿らが指名されることによって弱体化し、2014年の枢機卿会議でカスパー枢機卿の見解が否決された後、再招集されていない。多くの枢機卿が互いに見知らぬ者同士であり、次のコンクラーベに新しい次元の予測不可能性が加わっている。
2.第二バチカン公会議以降、カトリック当局は、特に西洋世界における世俗化、この世、肉、悪魔という敵意ある勢力をしばしば過小評価し、カトリック教会の影響力と力を過大評価してきた。

われわれは50年前より弱体化し、多くの要因が、少なくとも短期的には、われわれがコントロールできないものである。例えば、信者の数やミサの出席頻度の減少、多くの修道会の終焉または消滅である。
3.教皇は世界最高の福音宣教者である必要はなく、政治的な力である必要もない。ペトロの後継者は、使徒の後継者でもある司教団の長として、一致と教理のための土台となる役割を担っている。新しい教皇は、キリスト教とカトリックの活力の秘訣が、キリストの教えとカトリックの実践に忠実であることから生まれることを理解しなければならない。それはこの世への適応や金銭から来るものではない。

4.新しい教皇の最初の仕事は、正常性を回復させること、信仰と道徳における教理上の明確さを回復させ、法を正しく尊重することを回復させ、司教の指名の第一の基準が使徒継承の聖伝を受け入れることにあることを保証することである。神学的な専門知識と学識は、すべての司教、特に大司教にとって障害ではなく、利点である。

これらは、福音に生き、福音を宣べ伝えるために必要な土台である。

5.もしシノドスの会議が世界中で続けば、多くの時間と費用を消費し、おそらくこれらの本質的な活動を深めるどころか、むしろ福音宣教と奉仕からエネルギーをそらすことになるであろう。

もし各国または各大陸のシノドスが教理上の権威を与えられるなら、例えばドイツの教会が他の教会と同じではない教理上の見解や使徒継承の聖伝に適合しない見解を保持するなど、全世界的な教会の一致に対する新しい危険となるであろう。

もしこのような異端をローマが正さなければ、教会は、正教会のモデルではなく、おそらく英国国教会やプロテスタントのモデルに近い、さまざまな見解を持つ地方教会の緩やかな連合体にまで貶められるであろう。

次期教皇の早期の優先課題は、本質的な一致を求め、受け入れがたい教理上の違いを許さないことにより、このような脅威となる事態を取り除き、防止することでなければならない。同性愛活動の道徳は、そのような火種の一つとなるであろう。

6.若い聖職者や神学生は、ほぼ完全に正統派であり、時にはかなり保守的だが、新しい教皇は、2013年以降、おそらく特に中南米で、教会の指導者たちに影響を与えた実際の変化を認識する必要がある。カトリック教会内のプロテスタント・リベラル派の足取りには、新たな春が訪れている【力が強くなっている】。

離教については、教理上の問題をあまり重視していないことが多い左派からは起こりにくい。離教は右派から起こる可能性が高く、典礼上の緊張が煽られて緩められない場合には、常に起こり得ることである。

本質的な部分での一致。本質的でない部分での多様性。あらゆる問題に対する愛徳。

7.西洋における危険な衰退と、多くの場所における固有の脆弱性と不安定性にもかかわらず、イエズス会に対する訪問【制裁を見据えた実態調査】の実現可能性について真剣に検討すべきである。イエズス会は公会議の間の会員数36,000人から2017年には16,000人以下と破滅的な数の減少という状況にある(2017年には75歳以上はおそらく20~25%)。場所によっては、破滅的なモラルの低下もある。

この修道会【イエズス会】は高度に中央集権的であり、上からの改革や損害の影響を受けやすい。イエズス会のカリスマと貢献は教会にとって非常に重要であるため、そのまま歴史の中に消えてしまったり、単なるアジア・アフリカの共同体になってしまったりしてはならない。

8.南米におけるカトリック信者の数の悲惨な減少とプロテスタントの拡大を取り上げるべきである。アマゾン・シノドスではほとんど言及されなかった。

9.バチカンの財政改革に多くの作業が必要なのは明らかだが、これが次期教皇の選定において最も重要な基準であってはならない。

バチカンには実質的な負債はないが、毎年の赤字が続けばいずれ破産となる。これを改善し、バチカンを犯罪の共犯者から切り離し、収支を均衡させるための措置が取られるであろうことは明らかである。バチカンは、この問題を解決するために、多額の寄付を集めるために、能力と誠実さを示す必要があるであろう。

財務手続きが改善され、より明確になったとはいえ、継続的な財政的圧力は大きな課題だが、特に第一世界の教会が直面している霊的、教理的脅威と比べれば、はるかに重要度は低い。

デモス

2022年の四旬節

 


2022年4月24日、フランスでは日本からの修道女が初誓願を立てられました。

2022年04月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

フランスの聖ピオ十世修道女会の修練院では、5名が着衣され、日本の最初の召命を受けた一名が初誓願を立てられ、3名が終生請願を立てられました。日本からさらに多くの聖なる召命が出ますようにお祈りください。

天主様の祝福が豊かにありますように!










カトリック聖伝のミサの報告 聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

2022年04月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2022年4月24日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計108人でした。大阪では29人、名古屋では12人でした。日本では149人の方々が聖伝のミサに与ることができました。天主に感謝!

今日、フランスでは、日本出身の女性が聖ピオ十世会シスター会で、初請願を立てられます。どうぞお祈り下さい。

【報告】
Dear Fathers:
Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 108, including children.

09:00 mass
M: 20 (incl. 1 child)
F: 30 (incl. 4 children)
Total: 50 (incl. 5 children)

11:00 mass
M: 20 (incl. 3 children)
F: 24 (incl. 6 children)
Total: 44 (incl. 9 children)

12:30 mass
M: 10 (incl. 0 child)
F: 10 (incl. 0 child)
Total: 20 (incl. 0 child)

Total of 3 masses (excl. 6 people who participated in multiple masses)
M: 47 (incl. 4 children)
F: 61 (incl. 10 children)
Total: 108 (incl. 14 children)

愛する兄弟姉妹の皆様を
2022年「聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼」へお招きいたします
2022年5月1日(日)~5月5日(木)

第16回聖ピオ十世会日本公式秋田巡礼2022を開催します - 聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITA


白衣の主日|私たちも聖トマとともに信仰を告白し 断言しましょう。「イエズス・キリスト, 御身こそ私の主であり,私の天主です!」

2022年04月23日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2022年4月24日は白衣の主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「白衣の主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

 


聖ピオ十世会と日本のニュース:洗礼・初誓願・レネー神父様の秋田巡礼参加など

2022年04月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

2022年4月16日(主日)復活祭
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、御復活の御慶びを申し上げます。
東京でも大阪でも、多くの方々が、ミサに与ることができました。たくさんの兄弟姉妹の皆様が、復活の徹夜祭、そして日中のミサに与ることができました。主の復活の喜びを特に一緒に分かち合うことができました。どうぞ良い聖なる一日をお過ごし下さい、復活節をお過ごし下さい。

今日はいくつかお知らせというかニュースを、聖ピオ十世会と日本のニュースをお知らせしたいと思います。

主に三つあります。

一つは、復活の徹夜祭、東京では一人の女性の成人の方が、洗礼を受けました。どうぞ彼女の為に聖化の為にお祈り下さい。

もう一つは、次の主日、白衣の主日、Quasimodoの主日には、日本出身の女性が聖ピオ十世会シスター会で、初請願を立てられます。どうぞこの彼女の為にお祈り下さい。

特に修道者の召命は教会の聖性、教会が聖であるということを示すための重要なマーク、しるしです。ですから召命があればあるほど、真にキリストの教会である、ということの証(あかし)になります。ですからたくさんの召命が与えられますように、多くの男女が修道生活、また司祭に召し出されるようにお祈り致しましょう。

第三は、秋田巡礼です。5月1日~5日まで今年も秋田巡礼を行ないます。そこで皆さんを心から招待したいと思います。

今年はチャプレンとして三名の司祭が同行する予定です。皆さんいつも一緒に行っているドモルネ神父様と私のみならず、レネー神父様もいらっしゃる予定です。秋田巡礼に参加される予定です。私たちはレネー神父様のお話も大変楽しみにしております。

レネー神父様は東京で5月1日にミサをここで捧げて下さる予定です。全てがうまくいきますようにお祈り下さい。そして東京と大阪、その他の所でレネー神父様はこれからもミサを捧げて下さる予定ですので、どうぞ楽しみにしていて下さい、久しぶりです。

では、愛する兄弟姉妹皆様、良い復活節をお過ごし下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




主の御復活は私たちに本当の希望を与える。主は愛の憐みの天主だから。私たちに約束を守る方であって全てができる方だから。

2022年04月22日 | お説教・霊的講話

2022年4月16日(主日)復活祭のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストは、真(まこと)によみがえりました。御自分の天主の力を以って、死から肉体を伴ってよみがえりました。これは歴史的な事実です。今日はその日です。

弟子たちは、恐れて隠れて戸を閉めていたにも関わらず、主の復活を見て態度を全く変えました。御復活の前と後の弟子たちの態度、教会の全ての歴史が、主が真に復活した以外の説明がつけられないことを語っています。

この私たちの主の復活は私たちに教えていることがあります。たくさん教えていることがありますが、特に今日はその二つの点を黙想することを提案します。

一つは、イエズス・キリストは真の天主であって、御自分の力で死からよみがえることができる、不可能なことが全くない、ということです。全てがおできになる方である、ということです。

もう一つは、イエズス様は私たちに、弟子たちに、「三日後に復活する」と約束されました。その通り、言葉を守ってされました。つまり、私たちの主は、決して約束を違えることがない、裏切ることがない方です。ですから私たちの主に信頼する者は、決して裏切られることがない、ということです。なぜかというと、「私の名によって祈るものは、聖父が必ず叶えてくれる」と約束したからです。

主の復活は私たちに多くの聖徳を与えようとしますが、以上の二点から、今日は特に「希望の徳」について黙想したいと思っています。

なぜかというと、主は御自分の力で、もう人間的に見れば絶対絶命だ、全くもうこれで万事休す、もうやる術がない、もう負けた、もうこれで終わった、だめだ、もうやる術がない、と見えたにも関わらず、勝利を御自分でもたらしたからです。人間の力ではできないことでも、天主にとってはあまりにも簡単なことでした。ですから、イエズス・キリストには全てができます。私たちに希望を与えてくれます。イエズス・キリストは真の天主だからです。

また、もっと理由があります。主は御復活の今日、恐れている弟子たちに、壁を通って部屋の中に、閉め切っている部屋の中に入ってきて、「お前たちに平安あれ!」と言われました。叱るのではなくて、慰める為にやって来ました。なぜかというと、主が復活されたのは、私たちに永遠の命、天主の命を与える為であったからです。主の御復活は、私たちを慰める為、力づける為であったからです。私たちも同じような復活を受ける、ということを教える為だったからです。私たちに真の希望を与えてくれます。憐みの主は、決して約束を違えることがないからです。

カトリック教会の2000年の歴史を見ると、そのことがはっきりと分かります。

初代教会が受けた300年間の厳しいローマの迫害時代、教会は何百万という殉教者を生み出しました。ローマ帝国は、軍事力、経済力、政治力、全てを使ってキリスト教を抹殺しようとしました。教会を亡きものにしようとしました。圧迫しました。しかし、ローマ帝国のとてつもない権力を以ってでさえも、軍事力を以ってでさえも、諸国を征服したその力を以ってでさえも、それはできませんでした。却ってローマ帝国は迫害を終え「キリスト教を自分の国の宗教だ」と宣言さえしました。

アリウス派の時代、全世界はアリウス派の異端に落ちてしまったかのようでした。しかし司教たちが、「イエズス・キリストは真の天主である。ただの人間ではない」とアリウス派に反対して、結局アリウス派は排斥されて、正統な信仰が復活しました。

フランス革命の時には、革命家たちがカトリック教会を破壊し尽くそうとしました。教会は没収され、壊され、瓦礫となりました。司教様たちでさえも、裏切るように脅迫されたり、死刑を以って脅されたりしました。司教様たちは殉教し、司祭たちも殉教し、修道者たちも殉教し、シスターたちも殉教して、多くの血が流されました。「もう教会はこれで終わりだ」と思われたその時に、瓦礫の中から、昔のままの教会が復活しました。あたかも何もなかったかのように、全く変わらずに姿を現しました。これはフランス革命の時でした。

カトリック教会は日本でもそうでした。豊臣秀吉の時代から江戸幕府まで、七世代、250年に渡ってキリスト教を迫害して根絶しようとしました。江戸幕府が最高の知恵を尽くして、立札とか、五人組とか、踏絵とか、色々なことが考えられました。250年間司祭がなかった、日本からキリスト教を絶滅しようとしたにも関わらず、何万人というカトリック信者が七代に渡って信仰を続けて、そして遂には七世代後にキリシタンが復活しました。信仰は生き生きとしていました。

つい最近(2008年11月24日)188名の殉教者が長崎で列福されました。17世紀前半に殉教した日本の男女の信仰者たちです。その時の日本の首相はカトリック信者でした、フランシスコ麻生首相です。その時には、日本の国営放送であるNHKがその列福式を全て生中継しました。

キリシタンを迫害する為に島原は全く更地になってしまいましたが、それに代わる別の島原城がその後、その更地にした迫害者によって造られました。今、その島原城は、キリシタンの博物館になっています。

天主に逆らって戦いを挑むものは長く続きません、どんなに困難なことがあっても、イエズス・キリストは必ず勝利します。主は私たちにいつでもどんな時でも希望を与えます。イエズス・キリストは真の天主だからです。

これはカトリック教会の歴史だけではありません。私たちの個人でもそうです。私たちにもしも辛いこと、嫌なこと、苦しいこと、あぁもうダメだ、誰も助けがない、と思った時にこそ、イエズス様を信じて下さい。イエズス様に希望して下さい。主は私たちを助けることができます。今までこうだったと思ったものがガラッと状況を変えることができます。なぜならば主は、全てがおできになる、愛の憐みの天主であるからです。私たちに約束を守る方であって、全てができる方だからです。特に私たちには絶望する理由がありません。ただ一つ、それは私たちが全て地獄に落ちてしまった時だけです。それ以外は全て希望があります。

イエズス・キリストは私たちに御恵みと、幸せと、永遠の命を与える為に、復活されました。ですから、私たちはいつも主に希望を置くことにしましょう。私たちはこの世に生きるのではなくて、永遠の命に生きる、天主の命を生きる為にこの地上にいます。

私たちが恐れるべきものは、「他の人が何て言うかなぁ」とか、「あぁ、キリスト教だと言うと…」ではありません。私たちが恐れるべきは、イエズス・キリストを罪によって悲しませること、私たちが罪を犯すことによってイエズス・キリストの敵となることです。それだけが私たちにとって恐れるべきことです。イエズス様の憐みとその愛に信頼致しましょう。

最後に、私たちは聖母マリア様にお祈り致しましょう。なぜかというと、マリア様は決して主の復活の希望を失ったことがなかったからです。私たちにいつも希望を与えて下さっているからです。マリア様はどのようなことがあっても、十字架の足下で、そしてイエズス様の亡骸を抱きながらも、墓に葬りながらも、イエズス・キリストの復活を希望していました。

今日、マリア様に、その信頼を、その希望を、私たちもいつも失うことがないようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カルロ・マリア・ヴィガノ大司教:聖金曜日の黙想「いざ歌え、舌よ、栄光ある戦いの栄冠を、十字架の戦利品について高貴なる凱旋を告げよ。いかにして世の屠られた贖い主は勝利し給うたかを。」

2022年04月21日 | お説教・霊的講話

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 聖金曜日の黙想

Carlo Maria Viganò. Meditation on the Sacred Parasceve.

2022年4月15日

マルコ・トサッティ
親愛なる「Stilum Curiae」の友人および敵の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による聖金曜日の黙想を受け取りましたので、喜んで掲載させていただきます。良き読書と黙想を。

聖なる用意日
2022年4月15日 聖金曜日

Astiterunt reges terræ, et principes convenerunt in unum, adversus Dominum, et adversus Christum ejus.(詩篇2章2節)
「地の王たちは立ち上がった。また君主たちは同盟を結んで一つになった、主に逆らって、その油を注がれた者に逆らって」

この日の朝課の第一夜課の冒頭の詩篇は、次のように簡潔に宣言しています。
「我等いざ、彼等の絆(きずな)を断ち切り、その軛(くびき)を我らより抛(なげう)たん!」これは、長い間、あまりにも長い間、私たちが目の前で起きているのを見ていることではないでしょうか? 権力者やエリートは、天主との結びつきをすべて取り消し、天主の聖なる法に反抗しようと望んでいるのではないでしょうか? 彼らは、被造物にある創造主の像、人間にある三位一体の似姿を見る影もなく歪曲させようとしていないでしょうか? そして、私たち自身、キリストの甘美なるくびきから離れ、この世と肉と悪魔の奴隷になるように、いったい何度誘惑されたことでしょうか?

今日の典礼はすべて、天主の御稜威(みいつ)の憤(いきどお)り、子らの反乱に対する御摂理(みせつり)の御父の狼狽(ろうばい)の憤り、人間の忘恩に対する御子の悲しみの憤り、真理に盲目になり、天主のみ言葉を聞こうとしない人々による悪への狂気じみた頑固さに対する、慰め主の苦渋の失望の憤りに満ちています。

小羊の花嫁【教会】は、昨日、その祭壇で衣を剥ぎ取り、主の衣の分割を思い起こさせましたが、その沈黙は、私たちをカルワリオの厳しい典礼に、ご受難の荘厳で聖なる行為に、連れ戻します。天主なる司式司祭(イエズス・キリスト)は、交誦 Deus, Deus meus, quare me dereliquisti?「わが天主、わが天主、なんぞわれを見捨て給いしや?」(詩篇21章1節)と唱えられました。この儀式を目撃した人々はこれを誤解しました。その場にいた人々は、Eliam vocat iste.「彼はエリヤを呼んでいる」と言い、自分たちが目の前で、ご托身の天主が、まさにダヴィドが詩篇21篇で預言したことを成就させていることに気づいていなかったのです。Speravit in Domino, eripiat eum: salvum faciat eum, quoniam vult eum. 「彼は主により頼んだ、主が彼を救うだろう、主が救うだろう、主は彼を喜び迎えたのだから」。そして、ご受難の場面で読むように、彼らはこう繰り返しました。「天主の子なら、十字架から下りよ!」。そしてまた Diviserunt sibi vestimenta mea, et super vestem meam miserunt sortem. 「彼らは私の衣を互いに分け、私の服をくじ引きした」。十字架の下で兵士たちは、主の継ぎ目のない衣のためにサイコロを振りましたが、この振る舞いによって、聖書が預言するこの聖なる描写に参加していることを知らなかったのです。

「天主の子なら、十字架から下りよ!」何という愚かさでしょうか。彼らは、総督官邸での拷問、鞭打ち、いばらの冠の押しかぶせ、ゴルゴタへの登攀、そして十字架刑によって見る影もなくなったその人が、天主の御子であるからこそ、十字架から下りようとされなかったのだと理解しなかったのです。

人間の犠牲は、たとえ最も英雄的で残虐なものであっても、原罪と全時代の罪の無限の重さを埋め合わせることは決してできませんでした。怒りの子の状態から私たちを贖(あがな)い、恩寵の秩序へと回復させるためには、天主が、あるいはむしろ天主にして人間であるお方が、その十字架上で亡くなられることが必要だったのです。このお方は、御父の御声に対して、永遠において Ecce venio.「みよ、私が行きます」と答え給うたお方。御自らのご托身を考慮して、天主の上智が無原罪の童貞、いと高き御者の最もふさわしき幕屋、Domus Aurea「黄金の堂」、「新しい永遠の契約の櫃」、「上智の座」を準備なさったお方。Foderunt manus meas et pedes meos: dinumeraverunt omnia ossa mea.「彼らはわが手わが足を貫き、わが骨をことごとくかぞえたり」。ローマの習慣では死刑囚は十字架に縛り付けられるだけだったにもかかわらず、そのいと神聖なる御手と祝されし御足は釘で貫かれたのですから、シナゴーグで繰り返し語られていたこの言葉、大司祭たちが暗記していた言葉、律法の博士たちがユダヤ人の子どもたちに教えた言葉を聞いた人々の目は開かれるはずだったのです。この詩篇は、こう警告しています。兵士が瀕死の主に葦で水を飲ませようとしたとき、Potaverunt me aceto.「彼らは私に酢を飲ませた」。

私たちは自問すべきです。最高法院(サンヘドリン)の腐敗によるユダヤの民の無知は、キリストの民の無知に関して同様の責任を負っている今日の大司祭たちに対する恐ろしい警告に聞こえないか、と。また、奇跡を起こし、福音を宣教した柔和なナザレトのイエズスにおいて、当時の大司祭たちが見た脅威は、しかも彼らが世俗権力の手をつかってまで死に追いやろうと企てるほど感じた脅威は、現在の大司祭たちを震え上がらせるはずではないか、と。彼らは、自分の権力と社会的名声を保つことだけを考えて、天主の御国を妨害するために、今もなお、この世の王たちや君主たちにすがっているのですから。

Vinea mea electa, ego te plantavi: quomodo conversa es in amaritudinem, ut me crucifigeres, et Barabbam dimitteres? Sepivi te, et lapides elegi ex te, et ædificavi turrim. これは第一夜課の応誦の言葉です。
「選ばれた私のブドウの木よ、お前を植えたのは私だ。どうしてお前はそんなに苦くなったのか、私を十字架に付け、バラバを釈放するほど。私はお前を柵で囲って守り、お前から石らを取り除き、塔を建てた。」

このように丹精込めて育てられたぶどう園に対して、天主の知恵は愛と苦悩に満ちた警告を叫びます。Convertere ad Dominum Deum tuum. 「おまえの天主なる主に回心せよ」。そして、ご受難の苦しみの中、エルザレムの裏切り、イスラエルの背教を思いながら、この言葉を繰り返しておられるのです。親愛なる子どもたちよ、主のいと尊き御血によって贖われ、まことに多くの苦しみの代価として買い取られた人々が、今日再び主を死に追いやって、バラバを自由にすることを選んだ裏切りを思うとき、私たちの救い主の苦しみがどれほど大きいかを考えて、私たちは震えるのです。Tamquam ad latronem existis cum gladiis et fustibus comprehendere me: quotidie apud vos eram in templo docens, et non me tenuistis: et ecce flagellatum ducitis ad crucifigendum. 「おまえたちは剣とこん棒を持って、盗人のように私を捕らえに来た。毎日、私はおまえたちのもとにいて神殿で教えていたのに、おまえたちは私を捕らえなかった。そして見よ、おまえたちは私を、鞭で打たせ、十字架につけるために連行する。」

私たちは毎日、主の役務者の口を通して、教会で主の教えを聞いてきました。しかし今日、剣とこん棒を持って、まるで主が悪人であるかのように、主に逆らう者たちがいます。Adversus Dominum, et adversus Christum ejus「主に逆らい、主のキリストに逆らう」と。

また、弟子たちに裏切られ、使徒たちに見捨てられ、敵のなすがままに否定され、一人残された主の御苦しみが、私たちの心を動かして自分の不忠実を忌み嫌うようにさせるのにもしも十分でないとするならば、天主にして人間であるお方(主イエズス・キリスト)を宿し、養育し、成長させ、大人になるのを見届け、30年間ともにおられた聖母が、主が、最も恩恵を与えた人々によって裏切られるのをご覧になり、ほんの数日前にはダヴィドの子イスラエルの王として主を賞賛していた人々によって死に追いやられるのをご覧になるしかなかった悲しみを、主の至聖なる御母の恐ろしい御悲しみを考えてみましょう。

汚れなき御心を剣で貫かれ、聖ヨハネとともに十字架の下に佇み続け給うた悲しみの聖母のことを思いましょう。その恐ろしい数時間に、いとも聖なる童貞にして天主の聖母なる母性は、愛する御子のご受難を唯一無二かつ親密な方法で知らなければなりませんでした。その結果、聖母は共贖者の称号にふさわしいお方となられたのです。

主の御苦しみに付き添う聖母の御苦しみの上に、救い主の御悲しみの原因である私たちの罪による聖母の御苦しみが加わりました。その一つ一つが、イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心を貫き、ご受難において天主の御子と至聖なる御母を神秘的に一致させたのです。このことは、親愛なる子らよ、私たちに自分の罪を憎ませ、私たちを回心させるに十分であるだけではありません。さらには、私たちの呼吸の一つ一つ、心臓の鼓動や思考の一つ一つを全て償いの精神で捧げて、イエズスと聖母お二方の苦痛を軽減させ安堵させるように駆り立てるのに十分であるはずです。

用意日の静寂の中で、自然そのものが静かに天主の――そうです、天主の!――埋葬に立ち会っています。非常に多くの心が、かたくなさでほとんど信じようとしないとき、【聖金曜日の典礼で行う通り】私たちは十字架の前にひれ伏し、聖ヴェナンチオ・フォルトゥナートとともに、墓から祭壇まで御聖体を運ぶときに歌う讃美歌の荘厳な言葉を繰り返しましょう。

O Crux, ave, spes unica!
おお、十字架よ、めでたし、唯一の希望よ、

新たなアダムによって聖別された救いの木の前に、膝をかがめよう。

Salve ara, salve victima.
めでたし、祭壇よ、めでたし、いけにえよ。

Beata, cujus brachiis pretium pependit sæculi:
statera facta corporis, tulitque prædam tartari.
至福なるかな、そのその両の手には、この世の贖いの値が掛かり、
肉体の重さを支え、地獄が期待せし獲物を取り上げたり。

聖歌「忠実な十字架」(Crux Fidelis)の慰めを与える詩の節を、私たちのものとしましょう。

Flecte ramos, arbor alta, tensa laxa viscera,
et rigor lentescat ille quem dedit nativitas,
ut superni membra regis mite tendas stipite.
高き木よ、枝を垂れよ、緊張せる内臓を緩(ゆる)めよ。
かの生まれながらの強靭さが柔らがんことを。
天上の王の御手足を木の上に優しく伸ばさんことを。

Pange, lingua, gloriosi lauream certaminis
et super crucis trophæo dic triumphum nobilem,
qualiter Redemptor orbis immolatus vicerit.
いざ歌え、舌よ、栄光ある戦いの栄冠を
十字架の戦利品について高貴なる凱旋を告げよ。
いかにして世の屠られた贖い主は勝利し給うたかを。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年4月15日
Feria VI in Parasceve
用意日の金曜日(聖金曜日)


私たちが天主へと行くには、永遠の命の道を通る為には、天国の道を開く為には、天主の御望みを果たす為には、その秩序を回復する為には、たった一つの方法しかありません。それは十字架の木です。

2022年04月20日 | お説教・霊的講話

2022年4月15日(金)聖金曜日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、アダムとエワが木で犯した罪を償う為に、人祖が木を以って破壊した秩序を回復する為に、第二のアダムイエズス・キリストは、十字架の木を以って、愛の秩序を、天主の秩序を立てました。

私たちが天主へと行くには、永遠の命の道を通る為には、天国の道を開く為には、天主の御望みを果たす為には、その秩序を回復する為には、たった一つの方法しかありません。それは十字架の木の実(イエズス・キリスト)を取って、私たちもそこに一緒になることです。

イエズス・キリスト、すなわち人となった真の天主は、聖血(おんち)を全て流して、御自分の御体を私たちに与え尽くして、命を捧げて、そして愛の秩序を立てました。これがキリスト教の真髄です。天主が立てた新しい世界秩序です。

この十字架に、十字架の神秘に、そして十字架の神秘の続きであるミサ聖祭に、全ての恵みと、天主の秩序への鍵が、秘密が入っています。これ以外にはありません。

この十字架に、天主の愛がどれほど偉大であったか、全て表れています。

天主聖父(おんちち)は、聖子(おんこ)を全く容赦しませんでした。天主聖子(おんこ)も御自分を全て与え尽くしました。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であろうとしました。

ここに、私たちに対する無限の愛が表れています。

同時に十字架は、私たちにもう一つの事を教えています。天主の愛のほかにさらにもう一つ別の事です。

それは罪の恐ろしさです、罪の結果です。私たちの犯した罪は、その償いの為に、天主の聖子が聖血を全て流すことさえも要求しました。

罪の結果がどれほどであるか、ということを十字架は示しています。

この十字架の木の立てられた、世の救いの木が立てられた聖金曜日に、私たちは心を込めて、天主の愛、十字架の神秘を礼拝して、讃美致しましょう。イエズス・キリストの愛に感謝致しましょう。

私たちも、弱い私たちですけれども、イエズス・キリストの御助けを以って、私たちの受ける、私たちに与えられた十字架とそして苦しみを、私たち自身の為に、そして隣人の為に、兄弟姉妹たちの為に、マリア様を通して、イエズス様に御捧げする御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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この被造の世界で、私たちの持てるものの中で、全宇宙の中で、最も価値のある、最も貴重なもの、それは「御聖体」

2022年04月20日 | お説教・霊的講話

2022年4月14日(木)聖木曜日 最後の晩餐のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、聖木曜日、聖なる三日間が始まります。

今日、私たちの主イエズス・キリストは、私たちの為に、この被造の世界で、私たちの持てるものの中で、全宇宙の中で、最も価値のある、最も貴重なものを私たちに下さいました。それは「御聖体」です。今日、私たちは主の最後の晩餐の高間に霊的に参りましょう。同じこの高間で主は御聖体を制定され、そして復活の日には弟子たちに現れます。

ユダヤの暦によれば、一日は夕方から始まります。ですから、この御聖体の制定から十字架に付けられるその日は、ユダヤの暦によれば一日です。その一日が、イエズス様の生涯の最後の一日が、御聖体の制定で始まりました。

御聖体は、私たちが持つもので最も価値のあるものです。なぜかというと、これは私たちの天主、世界の創造主、贖い主、救い主、王の王の真の御体であるからです。

主は私たちの罪の償いの為に、御血を全て流されて、苦しみを受けて、罪の償いを果たしたのみならず、贖いを果たしたのみならず、その御体を以って、私たちに御自分の全てを与えようと思われました。主の御恵みを与えるのみならず、聖寵を与えるのみならず、御自身も全くそのまま与え尽くして、全てを残りなく与えようと思いました。それが御聖体です。七つの秘跡の中核です。私たちの救いの最も大切なものです。

この御聖体が、世の終わりまで私たちと共に留まりますように、私たちを養い、慰め、恵みを与え続けるように、ミサ聖祭を制定し、カトリック司祭職を制定しました。

何と聖なるこの夕方、何と主の憐れみ深い愛でしょうか。この御聖体を制定するその値は、主の御血潮、全ての命でした。そのどんな値を払っても御聖体を、御自分の御体を与えたい、という思いでした。世の終わりまで与えたいと思っていました。

主はこの御体が冒瀆されることを、信じられないこと、粗末に扱われること、冷たい心で受けられることなどを、あらかじめ御存知でした。それにも関わらず、今日いらしてミサに与っている愛する兄弟姉妹の皆様のため、私の為に、御聖体を与えたい、私たちに一致したい、全てを与え尽くしたい、私たちの愛を受けたい、と思って、御聖体を制定されました。

今日、このミサを捧げることができることは、何という私たちにとっての喜びであり、栄光でしょうか。主の愛を私たちはどれほど受けているか、私たちは天国に行って初めて理解することができます。

今日、どうぞこの愛を、主のとてつもない御恵みを理解する御恵みを乞い求めましょう。マリア様の御取り次ぎを乞い求めましょう。御聖体から私たちが決して離れることがないように、イエズス・キリストの御聖体をいつも愛し続けることができるように、感謝することができますように、そしてもしも天主様の御恵みであれば、そして御望みであれば、イエズス様に私たちの体も、心も、命も、捧げることができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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【参考資料】ヴィガノ大司教は教会と国家の危機の診断を続ける:今日私たちはルフェーブル大司教が教会が全時代の教理と聖なるミサに立ち返るための前提を作り出した功績を理解している

2022年04月19日 | カトリック・ニュースなど

主はその恩寵で私たちを助けてくださるでしょうが、私たちに自分の役割を果たすよう求めておられます。私たちがキリストと共に戦うなら、キリストと共に勝利を祝うことができます。私たちがどちらの側にもつかず、さらに悪いことにサタンの側につくなら、サタンとともに私たちは奈落の底に落ちることになるでしょう。

【参考資料】最近のインタビューで、ヴィガノ大司教は教会と国家の危機の診断を続ける

In Recent Interview, Abp. Viganò Continues to Diagnose the Crisis in Church and State

ブライアン・マッコール 2022年4月11日

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は最近、イタリアのテレビチャンネル「カナレ・イタリア」(Canale Italia)のインタビューを終えました。以下は、イタリア語のインタビューへのリンクと、ヴィガノ大司教から提供していただいた書き起こしの翻訳です。

IN ESCLUSIVA: Intervista a Mons. Carlo Maria Viganò | Piazza Libertà - Canale Italia

インタビューの全体的なテーマは、大司教が過去4年間の多くの公開の介入で取り上げてきたいくつかのテーマを発展させたものです。教会と国家における今日的な問題を、大司教は、最終的に「この世の君」(ヨハネ12章31節、14章30節、16章11節)のために働く工作員が教会と現世の政府へ浸透したという形式を持つ大革命という文脈に位置づけています。

教会内においては、教会を復興させるための究極の問題にしてつまずきの石は第二バチカン公会議である、と大司教は明確にしています。大司教はインタビューの冒頭で、マルセル・ルフェーブル大司教が公会議の破壊的本質を見抜き、また公会議の大失敗を非難しようとしたことを賞賛しています。

ヴィガノ大司教は、位階階級のすべてのメンバーが、潜入者たちと積極的に共謀しているわけではないと区別しています。しかし、彼らが公会議への愛着を断ち切ることができないため、教会の瓦解に対する彼らの反対は結局は効果がないということを指摘しています。大司教は、こう説明しています。

位階階級の健全な部分は「それにもかかわらず、現在の背教のイデオロギーの前提を受け入れています。なぜなら、彼らは、公会議と、その誤謬を大衆に伝える新しい典礼を受け入れているからです。彼らは、教会が屈することを望んではいませんが、すべての証拠に反して、また60年間の失敗の後、自分を欺いているのです。つまり、彼らは、公会議が間違って解釈されただけだと考え、また、新しいミサの捧げ方はひどいものだが、典礼に一定の尊厳を取り戻すことができると考え、さらに、エキュメニズムは(東方)正教会とだけなら良いが、偶像崇拝者とはだめだと考えているのです」。

また、大司教は、2013年のコンクラーベと、根強く続いている深刻な不正の疑惑に関する最近の論評をさらに明確にしています。ベネディクト十六世が今でも教皇であるという著者アントニオ・ソッチの論文を支持する機会を与えられたものの、ヴィガノ大司教はこの立場を受け入れていません

大司教は、教皇ベネディクトの退位とそれに続くコンクラーベをめぐるこれらの根強い疑問のすべてが「広がり、信者の間に動揺や混乱、分裂を引き起こしている」と指摘するだけです。

ソッチとは異なり、ヴィガノはベネディクトが教皇であるとは宣言していません。大司教は、バチカンとコンクラーベに参加した枢機卿たちが、異常なほど沈黙していることを指摘しています。教会の秘密保持義務は、教会を守るためのものであり、不正や腐敗を隠すための道具ではないことを、関係する高位聖職者たちに思い起こさせています。この意味で、大司教は模範を示したのです。大司教は、平時に適用される守秘義務を、教会の浸透と解体に沈黙で協力する口実に使うことはできないことを理解していたのです。このため、大司教は沈黙を破り、セオドア・マカリックらの腐敗を明らかにしました。

最後に、バチカン市国の統治における腐敗を明らかにする仕事と、教皇庁の高官によって自分がその仕事から組織的に排除されたことについて、大司教はさらに詳しく説明しています。大司教の説明によれば、財務汚職の摘発と是正を阻止するために、大司教は駐米教皇大使に昇格させられたようです。しかし、大司教はこの「クーデター」を苦々しく思うどころか、むしろこの教皇大使への任命は御摂理的なものであると見ています。大司教は、米国とのつながりを非常に重視していることを明らかにしています。

このインタビューは非常に啓発的であり、教会と国家への浸透を懸念しているすべての人は、(イタリア語で)動画を見るか、文章全体を読むべきでしょう。

*****

2022年4月2日、テレビチャンネル「カナレ・イタリア」のために、アルマンド・マノッキア博士に対してカルロ・マリア・ヴィガノ大司教が行ったインタビューの翻訳。

【問い】第二バチカン公会議(1962―1965年)を皮切りに、カトリック教会内へのフリーメーソンの浸透はますます実体を見せてきました。進歩主義と相対主義は、聖伝への忠実さを弱めるための武器として採用されました。ですから、1988年にヨハネ・パウロ二世から"破門"されたマルセル・ルフェーブル大司教は、カトリックが奈落の底に落ちていることを感じていたのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】間違いありません。ルフェーブル大司教は、「公会議革命」の破壊的な性質を理解し、それを糾弾しようと望んでいた数少ない、非常に数少ない高位聖職者たちの一人でした。また、私が「(糾弾しようと)望んでいた(高位聖職者たち)」と言ったのは、他にも多くの高位聖職者たちが、本当の革命が進行中であることを理解していたからです。その革命を危険だとみなす人々もいれば、「教会の春」とみなす人々もいました。しかし、危険だとみなしていた人々の中で、その革命を公然と糾弾する方法を知る人はほとんどいませんでした。今日、私たちは、ルフェーブル大司教が、公会議の「政治局」(politburo)の命じる路線に反抗し、教会が全時代の教理と聖なるミサに立ち返るための前提を作り出したという、歴史的な功績を理解しています。

【問い】「ザンクトガレン・マフィア」は、教会における「世界経済フォーラム」のようなものなのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】世界経済フォーラムを、市民の意思に反してグローバリズムのアジェンダ(行動計画)を押し付けるために、自らの信奉者を国家の公的機関や国際的な公的機関の重要ポストに配置した私的なロビー団体とみなすならば、確かにザンクトガレン・マフィアと同様のものだとみなすのが適しています。

同じように、この陰謀団は、ローマ教皇庁や教会の周辺機関にも代理人を配置しましたが、それはちょうど、信者の意思に反して公会議のアジェンダを押し付けたようにです。しかし、世俗的な領域に世界経済フォーラムだけしかないわけではないように、教会の領域にもザンクトガレン・マフィアだけしかないわけではありません。

私たちは、世俗社会と教会の双方を巻き込んだ世界的なクーデターに直面しているところです。両者とも、自らの権力とその権力に由来する権威を、自らが統治している組織の目的のためではなく、その組織を破壊するために利用する人々によって浸透され、支配されています。この権威の危機を糾弾しなければなりません。なぜなら、国家と教会の両方で最高レベルの指導層に到達した人々の行動が、破壊的かつ犯罪的な行為であるからです。

【問い】アントニオ・ソッチは著書「Non è Francesco」(彼はフランシスコではない)で、教会法の観点から、フランシスコの教皇座への選出は正規の方法で行われておらず、2013年のコンクラーベは非合法である、と主張しています。これについての大司教様のお考えは、いかがでしょうか?

【ヴィガノ大司教】アントニオ・ソッチが再構成したものは、ベルゴリオに非常に近いエリザベッタ・ピケ【イタリア生まれのアルゼンチンのジャーナリスト】や、オースティン・イヴェレイ【英国人ジャーナリスト】が漏らしたことに従ったものであり、明確な証拠に裏付けられていないとしても、もっともなように思えます。しかし同時に、その再構成したものはこれまで聖座によって否定されたことがなく、そのため、ベネディクト十六世の辞任とコンクラーベにおけるザンクトガレン・マフィアの工作に関する憶測が広がり、信者の間に動揺や混乱、分裂を引き起こしています。

数え切れないほどの問題にバチカンが介入していることを思えば、このような重要な問題に対してバチカンが沈黙していることには当惑を覚えます。あのコンクラーベに参加した枢機卿たちが沈黙していることに対する困惑は、さらに大きいものです。教会の教皇に関する秘密保持義務(pontifical secret)に訴える者もいますが、使徒憲章(Universi Dominici Gregis)が規定する規範に違反して、教皇の選出が無効となる可能性があるのですから、この長期にわたる沈黙を正当化する理由は何もありません。

私が信頼できる情報源から得て知っていることは、ジョヴァンニ・バッティスタ・レ枢機卿――彼は、枢機卿会の次席枢機卿として2013年のコンクラーベの議長を務めました――が個人的に質問を受け、選挙当日の夕方、コンクラーベが3度目の投票検査に進んだ根拠は、使徒憲章「ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス」(Universi Dominici Gregis)のどの条項かと尋ねられた際、回答を拒否し、強い調子で怒りながら、すべてが規則に従って行われた、と主張した、ということです。

遅かれ早かれ、真実は明らかになるでしょうから、教会に対してなされた非常に深刻なダメージを糾弾して、修復しなければならなくなるでしょう。

【問い】カトリック教会は、これまでしばらくエキュメニズムに没頭してきており、グローバリストの寡頭制が認可するように提唱する論理に沿って動いてきましたが、今日では、単一の宗教、つまり、一神教の教理と、アンデスのパチャママ・カルトのような異教徒の信仰を混ぜた、一つの習合主義宗教(syncretism)の創造を目指しているように思われます。これは【教会を殺そうとする】殺人行為、というか、あるいは、これはむしろ【教会の】自殺しようとする振る舞いなのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】両方です。一方では、位階階級の腐敗した部分――簡潔のために、私はこれをディープ・チャーチと呼んでいます――はサタンに従属しているため、キリストの神秘体としての教会を憎んでおり、教会のかしら【であるキリスト】にかつて起こったように、教会を殺そうとするのです。しかし、キリストが復活なさったように、キリストの神秘体も、受難の後に復活させられることを私たちは知っています。ですから、その通りです。悪魔に仕える者たちは殺害作戦を実行するのですが、彼らは狂気に陥っており、失敗に終わる運命にあります。

一方、位階階級の健全な部分は、大部分が司教や聖職者なのですが、それにもかかわらず、彼らは、現在の背教のイデオロギーの前提【第二バチカン公会議の新しい考え】を受け入れています。なぜなら、彼らは、公会議と、その誤謬を大衆に伝える新しい典礼を受け入れているからです。彼らは、教会が屈服することを望んではいませんが、すべての証拠に反して、また60年間の失敗の後、次のように自らを欺いているのです。つまり、彼らは、公会議が間違って解釈されただけだと考え、また、新しいミサの捧げ方はひどいものだが、典礼に一定の尊厳を取り戻すことができると考え、さらに、エキュメニズムは(東方)正教会とだけなら良いが、偶像崇拝者とはだめだと考えているのです。

しかし、もし彼らが、"危機は第二バチカン公会議で始まった"と確信していないのなら、また、"この惨事を引き起こしたのは公会議であり、それを改善するためには、公会議以前に存在していた信仰、道徳、典礼に戻る必要がある"と理解していないのなら、彼らは知らず知らずのうちに、問題の一部になっているのです。

彼らは、善意は持っているのですが、あらゆる方面からの攻撃に直面しているときに戦わないので、危機の解決の障害となってしまう穏健派の部分を代表しています。彼らが、公会議と、ディープ・チャーチの世俗化されたメンタリティーを支持していることで、彼らの振る舞いは確かに自殺しようとしているかのように見えます。

【問い】ベルゴリオは、「無原罪の聖母のフランシスコ会」(Franciscans of the Immaculate)、「福音の使者会」(Heralds of the Gospel)、「贖い主の御母マリアの小さき姉妹会」(Little Sisters of Mary Mother of the Redeemer)など、最も伝統的な修道会に対して警察のように規制しています。彼はおそらく本物の召命に対してアレルギーがあるのでしょうか、それともこれらの修道会の財産は誰かにとって魅力的なのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】サイコ・パンデミックで起きた経済危機、教会の閉鎖、ベルゴリオと司教たちの活動に対する多くのカトリック信者の嫌悪感によって、教会が信者の献金や寄付の激減に苦しんでいる時に、少しでもお金や不動産を集めることは、悲惨なバチカンの財源を膨らませるのに便利な方法であることは明らかです。

しかし、その本当の理由、つまり、ベルゴリオの教会のあらゆる行動の動機となっている理由は、聖伝に対する執拗な憎悪なのであって、その雄弁な現れが、観想修道会と保守的な修道会なのです。これらの近代主義者の怒りを想像してみてください。最も進歩的な共同体が死に絶え、修道会が召命の危機と修道生活を放棄した多くの人々の喪失の中で消滅しつつあるのと同時に、規律、創立者の規則への忠誠、真の清貧、苦行、黙想の精神、トリエント典礼といったもののある修道会や団体では、再び繁栄しているのを目撃したのですから。

このことはすべて、彼らの失敗を明らかにするものであり、したがって、それは排除されなければならないのです。その理由は、スータンを着ない司祭、ベールをかぶらない修道女、祈らない修道者、そして空っぽの教会といった公会議後の宗教よりも、聖伝がはるかに大きな支持を得ていること(組織的に排斥されなかったなら、さらに膨大な支持を得ていたことでしょう)が分からなくなるようにするためです。

ベルゴリオの考えでは、自分が認可するのに値する召命は、近代主義的で、包括的で、実存的な、【教会の外郭】周辺に向けられており、教理上の無さや、道徳的な空虚さ、陳腐な人道的スローガンで成り立っているものだけです。ある召命が純粋にカトリック的であり、天主に栄光を帰し、霊魂を救いたいという願望によって生かされているという兆候は、それが曖昧であってもそれが示されるやいなや、それは聖職者主義、不寛容、原理主義、硬直性の表すものであるとして、…さらに【聖職者主義、不寛容、原理主義、硬直性以外の】、ベルゴリオのレパートリーである、多かれ少なかれ不快な言葉で攻撃されます。それは、敵対者を犯罪者として扱うためのテクニックの一つであって、公会議以来すでにうまくいくことが検証されている方法です。

【問い】教皇フランシスコは、多文化主義、環境保護主義、移民を賞賛し、ソロスとビル・ゲイツをバチカンに迎え、実験的な遺伝子血清の推進者の役割を演じています。彼の事業とイエズス会士として養成されたことの間に相関関係があるという仮説は成り立つでしょうか?

【ヴィガノ大司教】私たちがこの相関関係を「仮説」にとどめるならば、少なくとも私たちが素朴(ナイーヴ)で、かつ不注意であるのを証明することになります。教会で最も重要な修道会の一つであったイエズス会は、悪魔の行動の標的となってきており、悪魔は、第二バチカン公会議のかなり前から、イエズス会のカリスマを堕落させ、徐々に方向をそらせてきました。そこで今日では、イエズス会は、言ってみれば「攻撃体」になってしまっており、これを使ってディープ・チャーチは、カトリック教会の残存物を解体しようとしています。こうすることによって、フリーメーソンと新世界秩序が望む"人類教"の「入れ物」として機能できる形を持たないNGOで置き換えようとしているのです。これは、公会議によって据えられたイデオロギー的土台と一致しています。

すべてのイエズス会士がそうですが、ベルゴリオは、まずイエズス会士であり、次にカトリック信者です。この理由で、イエズス会士が位階階級の位に登ることは今でも禁じられており、そのため、このアルゼンチン人は、ブエノスアイレス大司教に聖別されるために、教皇に特別許可を求めなければなりませんでした。もし、その許可が認められず、その代わりに聖イグナチオの規則が尊重されていたならば、私たちは2013年以降の災難を免れていたことでしょう。イエズス会士は、公会議革命の遂行だけでなく、自分たちの一人をペトロの玉座に据えるための工作においても、重要な役割を果たしたことは明らかです。

【問い】2009年、バチカン市国行政庁次官として、大司教様はバチカンの予算を見事な方法で回復させられました。800万ユーロの赤字から、3400万ユーロを超える黒字に転換したのです。この透明性の路線の追求および汚職との戦いの中で、大司教様は、誰かの足のつま先をいくつか踏んでしまわれたようです。その後、偶然にも、彼らは大司教様を駐米教皇大使に任命しました。ラテン語でいうところの「Promoveatur ut amoveatur」(排除するために昇進させよ)というケースだったのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】私の駐米教皇大使への任命は、当時全権を握っていた国務長官ベルトーネ枢機卿の決定です。当時、私は2009年7月から行政庁次官を務めており、それ以前は国務省の教皇使節代表【現外交官人事局長】を務めていました。私の仕事は、ローマ教皇庁と教皇使節での司教昇格のプロセスの準備と検討でした。この役割のとき、私は、ふさわしくなかったり同性愛者だったりした高位聖職者の任命に反対し、またその中でも特に、マカリックの枢機卿帽を取り上げてしまうように提案しました。このような私の役割は、私の長上たち、特にベルトーネの不評を買い、ベルトーネは私を説得して、国務省から行政庁へ次官として異動することを受け入れさせ、その際、長官のジョバンニ・ラジョロ枢機卿が引退したときに、私をその代わりに任命するという約束がありました。汚職と闘い、悲惨な行政庁の財政を回復させようとする私の活動に、一部の人々は反対し、2010年からは、私に対する誹謗・中傷の記事が掲載され、まさに「モビング」(職場いじめ)が行われるようになったのです。聖なるバチカン宮殿に端を発するスキャンダラスな告発は、私を職務から外す口実をベルトーネに与えました。ですから私は、何が起きているのかを知ってもらうために、教皇に報告するしかないと感じたのです。

【参考】教皇、バチカン国務省に「外交官人事局」を新設

教皇ベネディクトはすぐに私を呼び、私がベルトーネとの出来事を話す前に、ヴェラシオ・デ・パオリス枢機卿に代わって私を聖座財務部(Pontifical Council for Economic Affairs of the Holy See)の局長に任命することを提案されたのです。そして、教皇は次のような正確な言葉をもって、それを実行に移しました。「これは、あなたが聖座に最も貢献できる仕事だと確信しています」。

教皇ベネディクトに提供された私に対する圧力、誤った情報、中傷がどのようなものであったかは想像に難くありませんが、それによって、教皇は考えを変え、私を駐米教皇大使に任命しました。私は従順の精神でその任命を受けましたが、苦痛がないわけではありませんでした。何故ならこの任命は、私が行政庁で行ってきた、教会を損害から回復させる仕事をすべて無効にしようとする、教皇庁によるクーデターであることをよく認識していたからです。

教皇は私にこう書き送ってこられました。「私は、現時点でのあなたの御摂理的な地位は、米国での教皇大使職であるという確信に至りました。一方、私は、この偉大な国に関するあなたの知識が、この仕事に要求される挑戦にあなたが取り組むのに役立つと確信しています。この仕事は、さまざまな意味で、普遍教会の将来にとって決定的だと思われますから」と。

この広大で愛すべき国での私の公式任務は終わりましたが、教皇ベネディクトがほとんど予言的に言及し、私を巻き込んだこの任務 -- この挑戦 -- は、これまで以上に知られるようになっています。

【問い】新世界秩序に対する大司教様の明晰で激しく勇気あるご介入は、大司教様に不愉快な結果、脅迫、メディアの攻撃をもたらしたのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】マカリック枢機卿(当時)のスキャンダルを暴露した後にはもう、私は身の安全に気を配らなければなりませんでした。2020年5月に始まったと記憶しているパンデミックの茶番劇に関する私の発言は、当時、侮辱や言葉のリンチを受け、不当な干渉や陰謀論を推進しているとの非難を浴びました。また、私の発言を書いたのは私ではない、私が精神病や「解釈の錯乱」に陥っている、あるいは悪魔に取り憑かれているなどとほのめかす者さえいました。数日前のロシア・ウクライナ危機に関する私の発言の後の非難については、言うまでもありません…。

このような度の過ぎた攻撃は、一部はカトリック保守派やいわゆる政治的右派のグループからも出ていることに驚いています。多くの場合、私が味方だと考えていた人々は、まずパンデミックの茶番劇に反対し、次に戦争の挑発に反対していましたが、彼らが敵の側にいることを示したのは、いわゆるワクチンの有効性や道徳的合法性を認めたり、ゼレンスキーをプーチンの拡張主義の目的による罪なき犠牲者として紹介したりしたことです。現実は全く異なっており、自分のテーゼを支持するため、あるいは自分の主人に従うために、現実を否定したり隠したりすることは、罪人とその共犯者に対する非難を、さらに正しく動機のあるものにすることに役立つだけでしょう。

いずれにせよ、私は天主と聖母に、私が健康であること、そしてこれまで与えてくださったご保護に感謝しています。

【問い】ドラギ政権はウクライナ問題を利用して、2022年12月31日まで緊急事態を延長しました。イタリアの政治・経済・社会の将来について、どのような予測をしておられますか。

【ヴィガノ大司教】市民保護局(Civil Protection)の緊急事態が、パンデミックの緊急事態の延長として考えられ得るのかどうかは分かりません。何故なら、パンデミックの緊急事態は、ピサ裁判所の最近の判決で違法かつ違憲と宣言されたからです。きわめてはっきりしているのは、--- もしも何らかの疑問があったとするならばですが【現実は疑問の余地はない】、 --- ドラギは、彼の政府やイタリアの最高機関の他の多くの代表者と同様に、議会のほぼすべての支持を得て、超国家的権力に応えているということです。これらのロビー団体のメンバーとして、彼は、たとえそれが国益や市民の利益に反していても、グローバリストのアジェンダを実行する使命を帯びています。実際、そのアジェンダは、まさにイタリアの社会的、経済的、宗教的、文化的構造を破壊することであり、グレート・リセットを実行することです。その創造者であり推進者であるクラウス・シュワブは、最近ドラギと会いました。

状況は極めて不透明であり、未知の部分に満ちているため、あえて予言はしません。新世界秩序の計画では、イタリアは屈服し、何百万人もの移民に侵略され、カトリックのアイデンティティーを失い、伝統は消し去され、外国の多国籍企業に売り払われるはずです。サービスや公共財は民営化され、彼らが許可すると決めた方法でしか旅行できないようになり、私たちのあらゆる行動を管理し、デジタルIDや他の魅力的な婉曲表現で呼ぶであろう永久の「グリーンパス」によって監視するといったことで、彼らは私たちを奴隷にしようと望んでいるのです。

しかし、彼らは、自分たちが永遠の敗者【悪魔】に対して従属的であること、そして、天主の御摂理は、私たちの祖国を破壊から救うように決定することができるということを考慮に入れてはいないのです。ただし、イタリア国民が、現在の悪は、私たちの罪の結果、国家やすべての国の公共の罪の結果、つまり、私たちのイタリアの魂である信仰を否定し、普遍的な王であり、したがって私たちの国の真の王でもあるキリストから王冠を奪ったことに対する罰であることを理解しさえすれば、の話ですが。

主はその恩寵で私たちを助けてくださるでしょうが、私たちに自分の役割を果たすよう求めておられます。私たちがキリストと共に戦うなら、キリストと共に勝利を祝うことができます。私たちがどちらの側にもつかず、さらに悪いことにサタンの側につくなら、サタンとともに私たちは奈落の底に落ちることになるでしょう。

【問い】私たちを抑圧する悪魔的なテクノ・ヘルス全体主義に反対するために、欧州のすべての反体制勢力の間に新しい神聖同盟のようなものを創設し、一緒に参加するおつもりはありませんか?

【ヴィガノ大司教】最近、私は、エリートのクーデターに対抗して、各国の善なる勢力を調整することができる「反グローバリズム同盟」の創設を呼びかけました。しかし、この同盟は、信者がキリスト者として、また市民として、信仰を公に証しし、政治に関与しなければならないのと同様に、信者の主導でなければならないのです。主が「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に与えよ」(マテオ22章21節)と戒められたとき、主は税を払うだけでなく、祖国に対する義務を果たすように、私たちを励ましておられます。特にイエズス・キリストに対する抑えがたい憎しみによって、伝統的キリスト教社会の破壊を最終目的とする人々によって祖国が危機にさらされているときには、なおさらです。

しかし、一方で敵は、私たちに、避妊や妊娠中絶、同性愛、また疫病やワクチンによって、世界人口の削減を始めることで世界の「リセット」を実行するために、やろうとしていたことを詳しく説明したにもかかわらず、他方で、善人たちは、「進歩」にびくびくとおじけづいているように見え、これらの犯罪プロジェクトに対して、非妥協的な社会的、政治的提案をもって反対することを恥じているようでした。

一方で陰謀家たちが、ダボス会議で未来のリーダーを育て、彼らを国家や国際機関のトップに据える――マクロンからトルドーまで、メルケルからゼレンスキーまで、事実上今日権力を握っているすべての人々――その間に、他方で、国家の主権、生命と伝統的家族の保護、そして宗教と道徳の擁護をについて配慮する人々は、いったい何をしていたのでしょうか?

彼らは何もしなかったのです。育てることもせず、将来の支配階級への投資もせず、譲れない原理に従ったカトリック指導者の学問的教育もしなかったのです。確かに、よく調べてみると、この分野での聖職者の裏切りが明らかになってきました。なぜなら、ディープ・チャーチは、世俗的な分野でのディープ・ステートの仕事に沿って、実際には、ほとんどディープ・ステートのイデオロギー的、社会的基盤を作るために、左派の要求に身を売ってきたからです。

つまり、説教や霊魂の回心よりもエキュメニカルな対話を好み、世界人権宣言の革命的原理を受け入れ、率先してキリストから王冠を奪い取り、国家の世俗性の使徒となったのです。今日、ベルゴリオをもって、グローバリズムのイデオロギー、移民主義、新マルサス主義、新世界秩序、人類教を支持して、裏切りは背教として完成したのです。ディープ・チャーチは、パンデミック詐欺と大規模ワクチン接種にさえ加担してきました。血清中に中絶による細胞株が存在し、ワクチンが引き起こす免疫システムの不可逆的な弱体化があるにもかかわらずです。今日、教会は偽善的にシステムの側に立ち、グローバル化とそれに力を与える犯罪原理に反対する唯一の国家の長であるプーチン大統領に反対して、シュワブの傀儡であるウクライナのゼレンスキーを支持しているのです。

イタリアに話を戻すと、私の考えでは、この危機を脱するためには、二つのことが必要です。

第一にして最も重要なことは、社会的な領域で福音を適用して、良い統治をしようと決意した支配階級や真の政治指導者を育成することです。これが前提とするのは、明らかなことですが、妥協することなく、勇気ある証しをする大胆さを持った、まじめに信仰と道徳に立ち戻ろうとするカトリック信者がいることです。

第二は、反グローバリズム同盟のプログラムを共有する政党や運動を一つにして、また中道右派政党が近年否定してきた主権主義、連邦主義、穏健なリベラル派の使命を再発見する連合の形成です。要するに、これまでの経験(過ちを繰り返さないよう注意する)と新しく生まれつつある運動を組み合わせることです。この考え方は、他の国々にも適用でき、グローバリストのリヴァイアサンに対して共同戦線を張ることができるようになると私は考えています。

Viganò a Canale Italia. La Verità Emergerà, e il Danno alla Chiesa Sarà Grande.

L’archevêque Viganò sur Canale Italia. Le texte français de l’interview.


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