Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 1月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】

意向:日本中の家庭のため、特に若いカトリックの家庭のため
実践すべき徳:天主の御摂理に対する信仰と信頼
守護の聖人:聖ペトロと聖パウロ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 1月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    1月5日(初金) 御降誕節の平日(4級)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    1月6日(初土) 主の御公現(1級祝日)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭
            正午より ファチマの聖母行列

    1月19日(金) 御公現後の平日(4級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    1月20日(土) 殉教者教皇聖ファピアノと殉教者聖セバスチアノ(3級祝日)赤
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    1月7日(主) イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日 
            午前09時  聖歌の練習及び告解
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)
            午後12時半頃 幼児洗礼
            午後02時半頃 主日の晩課(グレゴリオ聖歌による)
            【公教要理はクリスマス休暇で、お休みします】

    1月8日(月) 御公現の平日(4級)白 
            午前7時 ミサ聖祭

    1月21日(主) 御公現後第3主日 (2級) 緑
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    1月22日(月) 殉教者聖ヴィンチェンチオとアナスタジオ (3級) 赤
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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主の御降誕から始まったノベナのミサを今日捧げ終えました。聖母の汚れなき御心が私たちにイエズスの至聖なる聖心を与えてくださる

2018年01月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日1月2日イエズスの至聖なる聖名の祝日、主の御降誕から始まった愛する兄弟姉妹の皆様の意向のためのノベナの9回のミサを捧げ終えました。感謝いたします。

「救いは主以外の者によっては得られません。この世において、われわれの救われる名はそのほかにはないからです。」

 ところでレネー神父様のクリスマスの素晴らしいお説教は、私たちに霊的な新しい息吹を与えてくれます。

それは、聖母の汚れなき御心が、私たちにイエズスを与えてくださる、イエズスの至聖なる聖心を与えてくださる、という事実です。

「天主は、まず童貞聖マリアに御子を与えられ、そのあと聖母を通して私たちに御子を与えられた。私たちがイエズスを見いだしたいと望むなら、まず祝されし童貞を見いだし、聖母を通してイエズスを見いだすのです。これは、羊飼いたちが行ったことです。「彼らはマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。福音書にある順番に気を付けてください。彼らはまずマリア様を見いだし、そのあと幼子イエズスを見いだしたのです。

ああマリアよ! ああ聖なる天主の御母よ、私たちが熱心に探し求めている御身のイエズスをお与えください! 私たちにはイエズスが必要なのです! 罪にまみれた私たちのこの世は、救い主が必要なのです。彼だけが「罪から民を救う」(マテオ1章21章)のですから。彼だけがそれを行うことができます。なぜなら、彼だけが聖であり、彼だけが主であり、彼だけがいと高き御者、キリストなるイエズスだからです! でも、彼の近くに行けるのは誰でしょうか? 

マリアを通して私たちにイエズスをお与えになることによって、やはりマリアを通して「天主は御子とともに他のすべてを私たちに下さらないはずがあろうか」。マリアを通して「私たちはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた」のです。そして、聖母は天主の聖寵の御母となられたのです。

御身において、玉座の上のように、私たちは天主の上智である幼子イエズスを見いだします。多くの美しいご像が、御身をこの「上智の座」としています。私たちに、御身の膝の上に座っておられる天主の上智であるイエズスを見いださせ給え! 三人の賢者が御身を見いだして、「その家に入って、子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と没薬の贈り物を献上した」。彼らは星を見て喜びました。御身は、「正義の太陽」の到来を告知する私たちの暁の星であり、御身を見て、私たちは賢者たちとともに喜ぶのです、われらが喜びの源よ!

新しいエワ、新しいアダムの助け手として、御身は禁じられた実を食べるよう私たちにお与えになることはなく、いのちの木の実、すなわち十字架の実であるイエズスを私たちにお与えになります。これが、私たちが待ち望んでいる実であり、私たちは御身の嘆願を聞きます。「私のところに来なさい、私に願うあなたたち、私の実によって飽かされたいあなたたちよ」。

「御身を頼みとする者は幸せ。彼らは涙の谷を通り、一歩ずつ登る気持ちを固めていく」。ですから、この涙の谷において、私たちは御身に依り頼むのです。なぜなら、御身は、キリスト信者の助け、絶えざる御助けの御母であって、常に私たちが御子を見いだすように助けてくださるよう、私たちのために絶え間のない祈りをすることによって、準備なさっているのですから。

諸聖人は御子イエズスの御前に集まって永遠に感謝の賛歌を歌うこの祝されし日がやって来るとき、その感謝は、私たちを贖うためのご来臨という主のあわれみへの感謝ですが、また主が私たちのところへ御身を通して来られたという御身への感謝でもあります、ああ諸聖人の元后よ! 無原罪の御宿りから被昇天まで、御身は完全に主にお仕えになりました、ああ主のつかいめよ。

天国と永遠の平安への道において、聖なるロザリオの忠実な黙想を通して、私たちをこれに倣わせるよう取り成し給え、ああ平和の元后よ!」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭:本当の平和の条件と基礎

2017年12月23日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 主の御降誕とトリノの聖骸布とミサ聖祭について黙想してみました。





 最近のニュースによると、NPO法人「チャリティーサンタ」(東京)が今年の9月に調査したところ、103人の回答のうち10人に1人が、お金の余裕がないことなどが理由で子どもに「うちにはサンタは来ない」と伝えたことがあるそうです。

 この調査によると、クリスマス時期の気持ちを複数回答で尋ねると「楽しい」が58・3%でトップ。「子どものためにもっとやってあげたい」が56・3%、「お金がかかって大変」が42・7%と続いたとのことです。年収が低くなるにつれ「切ない」「しんどい」という回答が増えた、そうです。シングルマザーの3人に1人が、残念なことに「クリスマスなんてなければいい」と考えたことがあるのだそうです。きっと生活が大変なのだと思います。

 でも本来は、クリスマスとうのはサンタクロースの日でもなければ、「セールス」の日でもないし、「切ない」「しんどい」日でもないんです。

 「サンタクロースのクリスマス」なんて、なくてもいいけれど、「本当のクリスマス」はなければ困ります。

 何故なら、本当のクリスマスは、天主が人となって幼子としてお生まれになった日だからです。本当のクリスマスは、この全世界の創造という贈り物を超える、人間が天主と結びついたという無限の贈り物を頂いた日だからです。

 クリスマスは、天主が私たちを赦すために、私たちにご自分を贈り物として与えるために、人となって生まれた日です。だから世界中で祝っているのです。

 天皇陛下のお誕生日は私たちにとって大切な日ですが、クリスマスは天皇陛下のお誕生日よりももっと大切な日です。

 日本は、はやぶさという小惑星探査機を打ち上げましたが、それが地球に戻らせて大気圏再突入させました。これもすごいことですが、全宇宙を無から創造した天主が、私たちのうちに幼子としてお生まれになったというものすごい出来事を祝う日です。

 どのうちにもサンタは来ませんが、私たちのため天主は人となって来られました。

 それは、私たちの罪を赦すためです。私たちから罪の負債を取り除くため。私たちに代わって罪の償いを果たすため。十字架の苦しみを受けるためです。

 天主が人間を通してお働きになる、永遠が時においてお働きになる、天主が幼子の姿でお生まれになる、そんなことを聞くと、人々はつまずいて転んでしまいそうになるかもしれません。はい、何というつまずきでしょうか!

 聖性そのものであり罪がない天主が、極悪人のように苦しみ屈辱を受けて十字架に付けられる、何というつまずき!

 天主がパンの外見において真にましまし給う、なんというつまずき!

 天主が人間を通して不可謬の真理の教えを垂れる、なんというつまずき!

 天でも地でも罪を赦すことができるという天主の力を人間に与える天主、なんというつまずき!

 水によって洗礼を受けることによって、罪が全て洗われ赦される、なんというつまずき!

 人類の全ての罪を負って無罪であるにもかかわらず冤罪で死刑とされるためにお生まれになる天主、なんというつまずき!

 待降節第二主日の福音でイエズス・キリストはこう言いました。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 静けき真夜中、ベトレヘムで私たちの主は御母の元で安らかに眠っておられました。あたかも何も知らないかのように。

 ゲッセマニの園では、同じ主は苦悩のうちに祈られます。愛する三名の弟子達には、彼らが警備員であるかのように「目覚めて祈れ」と命じました。祈るイエズス・キリストには、罪の重みが私たちの主の上に重くのしかかります。人類の犯す公然の大犯罪と秘密のうちに犯される恥ずべき罪と全ての悪の行いをあたかもご自分が犯したかのように。主は、血の汗すら流し、真っ赤な血潮が滴り落ちます。

 三人の弟子達は眠りこけていました。エルサレムも眠っていました。起きていたのは、イスカリオトのユダと、主を捕らえようとする人々だけでした。あるいは、酒盛りで酔いつぶれつつ「天主なぞどこにいるのか」とうそぶく青年だけかもしれません。

 人々は疲れると眠ります。しかし心配事があると眠られません。使徒たちは、その時の重大さを知らなかったので、危険を知らなかったので、人類の罪の重みに気がつかずに、眠っていました。

 ペトロは剣を持って寝ていました。武装して、しかし、寝ていました。物理的な敵の攻撃に警戒してはいましたが、罪については心配していませんでした。

 弟子たちが「主よ、ごらんください。ここに剣が二ふりあります」というと、主は「もうよい!」とおおせられました。Domine, ecce, gladii hic duo. Sed Ipse dixit illis ; sufficit. 私たちはペトロのようなのかもしれません。物理的な活動さえすれば良い、と思っていたとしたら。

 どうして人間は兄弟同士で戦争をするのでしょうか?何故なら、人間は父なる天主にたいして罪を犯すことによって戦いを挑んでいるから。天主の創った自然に反する法律を作ろうとしているから。善と悪とを同じだとし、真理と誤謬も区別しないようにしているから。ニーチェの言葉に従えば、価値の転換(Umwertung aller Werte)を行い、悪はこれからは善と見なし、善を悪とみなそうとするから。

 天主の掟を無視し、家庭という聖なる家族制度は偽りの自由(放埒)によって汚され、子供たちは、十字架もなく救い主もなく天主の愛もなく、人間が罪を犯すことが自由であり人権であるという世界を作るようにと教えられているから。罪なき胎児を殺害するのが人権であるとうそぶいているから。そのような時、剣だけで足りるのでしょうか?

 聖ペトロはローマで殉教する直前にこう書きます。ローマが天主を忘れて生活していることを警告します。「かれら(=偽預言者・偽教師)の裁きは、古くからはたらきつづけ、その亡びは眠っていない。…かれらは知らないことがらをののしり、…けもののように、亡び、そして不義のむくいをうけるであろう。」(ペトロの後の手紙第2章)

その後、西暦370年、西ゴート族の王家に、ドナウ川河口でアラリックという子供が生まれました。だれもこの子供の歴史的な重大性を予見したものはいませんでした。アラリックは、ローマを3回包囲します。第3回目は410年8月24日、野蛮で凶暴な兵士たちがローマになだれ込み、ローマの富を強奪・略奪しました。多くの公共施設が略奪され、歴代皇帝の墓所が暴かれ、フォールム・ロマーヌムの複数のバシリカは破壊され、多くが捕虜となり、奴隷として売り飛ばされ、強姦・虐殺されました。

ローマ略奪の後、アラリックはアフリカ属州を征服しようと船舶にのり込みますが、突然死亡します(西暦410年、40歳)。ゴート族の古い慣習に従って、兵士たちはブゼント川の水を迂回させてアラリックの墓穴を掘り、永遠のローマを破壊した男を埋葬しました。

紀元前387年、ローマは、ブレンヌス率いるガリア人に侵略された以来、侵略されたことがありませんでした。800年の間なかったことが、想像もできなかったことが起こってしまったのです。ローマの驚きは、その体験した恐怖よりも遥かに大きいものでした。ローマの屈辱は、その驚きよりもさらに大きなものでした。聖エロニモは、ベトレヘムでそのニュースを聞いてショックで嗚咽します。

 私たちがいまもっている日本国憲法は、終戦直後、1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に施行されました。

「日本国民は、…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」「恒久の平和を念願し」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

しかしそれとほぼ同時に、1948年7月13日、優生保護法によって、日本の母親の胎内の子供たちへの戦争が可決されました。自国民の子供たちへは、恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を認めませんでした。この子供たちが流した血の償いは誰かがしなければなりません。「剣をとる者は剣で亡びるのだ。」

金正恩が、大阪出身の高英姫を母として1984年1月8日に生まれたとき、だれも彼の将来を予見する者はいませんでした。21世紀のアラリックとなるのでしょうか?その様なことがありませんように!

金正恩にはクリスマスを目の敵にしています。ニュースによると、2016年、金正恩はクリスマスを祝う行事を公式に禁止しました。その代わりに国を挙げて1919年12月24日生まれの、祖母の金正淑(キム・ジョンスク)の誕生日を記念しています。

天主教では、人々は天主イエズス・キリストを全てに越えて愛します。しかし、共産主義国家では人民は共産党に忠誠を誓わなければなりません。金正恩は、祖父の金日成を崇拝することを望んでいます。


 Vigilate et orate.「目覚めて祈れ」と主は言います。Vigilate とは「目覚めていなさい」「外的に警戒していなさい」ということです。

 Orate とは「祈れ」「内的に武装していなさい」ということです。ペトロは剣だけに信頼して、祈りを怠ってしまいました。外的な活動は、よく祈りよりも大切にされがちです。肉体上の敵は剣や銃や戦車やミサイルなどの軍事力で勝つことができます。しかし精神的な悪は、祈りと十字架でなければ勝てません。「祈りが一体何の役に立つのか?」ペトロはそう考えて剣を手にとって安心して眠りました。

 北朝鮮は、大陸間弾道ミサイルを開発し、核弾頭を大量に生産しようとしている、米ドル紙幣や中国の紙幣を偽造し、インターネットでハッキングし不正に資金を調達している、だから北朝鮮の耳を剣で切り落としてしまえばよい、金正恩を排除すればよい、と。それで全てが解決すると思っていたとしたら、私たちはペトロのようなのかもしれません。問題はもっと根の深いところにあります。

 罪こそがこの世での最大の悪であること、ルターの宗教革命も、ボルシェヴィキ革命も、戦争も、罪の結果であること、それを知ってこそ私たちは本当の平和への道を歩み始めることができます。革命も戦争も、私たちの生活態度の結果が熟した時に生じるものだからです。

 材木に熱をかけると炭になって火を出すように、天主の掟に反して人々が生活すると、その結果が社会全体に現れます。重力に逆らってみようとして高いところから飛び降りたとしても、怪我をするのは人間の方です。天に向かってつばを吐けば、その結果は自分に返ってきます。天主に悖って、自然の秩序に刃向かって行動すれば、苦しむのは人間です。天主の掟に逆らうことによって、天主の掟を破壊することはできません。そうすることによって破壊されるのは自分自身です。

 自分の蒔いたものを刈り取らねばなりません。天主に対して戦争を起こせば、人間は戦争を望んでいなかったにもかかわらず戦争を呼び起こしてしまいます。

 いたずら坊主を父親が叱ってビンタするように天主が私たちを罰するのではありません。何故なら、いたずらとビンタは、必ず起こるという因果関係がないからです。

 しかし、雨が降るとどうしても大地がぬれるというように、天主に背くとどうしても人間が罰を受けるのです。天主無しに、人間の力だけで平和な世界を築き上げることができるという幻想のうえに、この世界を作ろうとしているがゆえに、戦争を起こしてしまうのです。

 聖父なる天主を認めないところに、どうして人間が互いに愛すべき兄弟であることを認めることができるでしょうか。兄弟ではなく「人間は人間にとってオオカミである」とホッブスは言ったではないでしょうか。天主という土台を切り崩しつつ自分の住む世界が崩壊していっても、自分であたりに毒をばらまきながらそこから汲む飲み水が苦くなっても、そのことを天主に文句を言うべきではありません。

 地獄が罪の結果であるように、戦争も罪の結果です。

 ゲッセマニの園に、ユダがやって来ます。武装してやって来ます。司祭長、律法学士、長老たちからおくられた人々が、剣や棒をもってついてきます。裏切り者は、「私がくちづけするのがその人だ。捕えて厳重にひいていきなさい」とあらかじめ合図しました。

 愛情のしるしの接吻は、キリスト教の歴史におけるトロイの木馬でした。現代では、「人類の一致のため」「世界平和のため」という名目で、キリストが否定されています。「メリー・クリスマス」の代わりに「幸せな休暇」と言い、カトリックの聖伝のミサの代わりにエキュメニカルな礼拝式が取って代わろうとしてます。

 「天主が悪を許すわけがない」というのは、一般に広まっている大きな誤解です。悪の存在を見て、人々は「天主は一体どこにいるのか?」と冒涜しあざ笑う人々がいます。何故私は交通事故にあったのか?何故私はこんなに不幸な目に遭っているのか?何故私はこんなに苦しんでいるのか?俺がいったい何をしたのか?俺は苦しまなければならないような悪いことはしていないぞ!俺のやってきたことはすべて正しい!苦しみたくない!

 イエズス・キリストの十字架の左に付けられた盗賊は、自分を十字架から解き放ち、自分がまた働くことができるようにさせることが救い主の証拠であると主張しました。「もしもおまえがキリストなら、自分を救い、俺たちを救え!」(ルカ23:39)

 私たちが繁栄を満喫しているとき、人は天主について疑問に思いません。天主のしなければならない義務は、私たちが思い通りの人生を送ることができるようにすることであると考えているのかのようです。

 不幸なとき、天主を信じるという人でさえも、天主の存在を疑うかのような態度をとってしまうかもしれません。天主とは、あたかも私たちのこの世の成功を叶えてくれなければならないものであると考えているかのようです。

 この世の成功と、天主の性質とを一緒くたにするということは、悪には天主の力が及ばない、悪があることは天主が負けたことだ、と誤解することに起因しています。しかし、私たちの主は言います。「私につまずかない人はしあわせである」と。

 最後の晩餐の後、かんらん山に向かいつつ、私たちの主は弟子達にこう預言しました。「今夜、あなたたちは、みな、私についてつまずくだろう。"私は牧者を打ち、そして羊の群れは散る"と書かれてあるからだ。」

 天主の全能は、ご自分の御旨を果たそうとしない道具でさえも使って自分の目的を果たすことができる全能です。天主は、遙かにより大いなる善のために、時には悪が起こるのを許可するほどの全能をお持ちです。聖パウロは言います。「罪が増したところには、それ以上に恩寵はあふれるばかりのものとなった。」

 ローマ人の百夫長は、十字架の上で息絶えた私たちの主、天主の子羊であるイエズス・キリストの心臓に槍を貫き指します。ユピテルとマルスの神々を信じていたこの軍人は、その時イエズス・キリストについて「この方は天主の子だ」と叫びます。その天主の子の御受難の記録はトリノの聖骸布に残されています。

 ベトレヘムで天主が幼子として生まれた時、天使たちは大喜びで歌を歌いました。
天の軍勢の大群が「いと高き所には天主に栄光、地には善意の人々に平和」と天主を賛美しました。

 何故なら、私たちがうけるべき罰を全て自分の身に引き受けるために天主が赤子となって生まれたからです。救世主がお生まれになったからです。私たちが受けるべき苦悩を受けるために、私たちに本当の平和を与えるために、お生まれになったからです。

 私たちが、本当のクリスマスに戻るとき、イエズス・キリストを真の天主として信じ、礼拝し、希望し、愛する時、この世界に平和が戻ります。

 ミサ聖祭で司祭が聖変化の時、御聖体を奉挙します。その時、私たちは使徒聖トマスのようにこう言います。「わが主、我が天主なり!」と。ミサ聖祭で司祭が御聖体を私たちに示す時、洗者聖ヨハネの言葉を繰り返して、こう言います。見よ、天主の子羊を!Ecce Agnus Dei!

 馬草おけに横たわる幼子は聖母によって布に包まれましたが、十字架から下ろされたイエズス・キリストは聖母によって聖骸布に包まれました。

 願わくは、聖母よ、私たちが幼きイエズスを心から迎え入れることができますように助けてください。願わくは、私たちが主のおっしゃったとおり、自分の十字架を日々になって主の御後を歩むことができますように。

 ベトレヘムのクリスマスとゴルゴタの聖金曜日とミサ聖祭の挙行は、一致します。ベトレヘムの幼子とトリノの聖骸布とミサ聖祭の御聖体は一致します。

 東京では、明日、朝8時半からトリノの聖骸布の展示と、御降誕の前日のミサがあります。

愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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マルコによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年05月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! 聖マテオによる福音の朗読、数名の方々が感謝して下さり、より多くのファイルをご紹介することを励まして下さった方々がいました。大変うれしく思います。調子に乗って、マルコによる聖福音の朗読もご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マルコによる聖福音の朗読

マルコによる聖福音の朗読 第一章
マルコによる聖福音の朗読 第二章
マルコによる聖福音の朗読 第三章
マルコによる聖福音の朗読 第四章
マルコによる聖福音の朗読 第五章
マルコによる聖福音の朗読 第六章
マルコによる聖福音の朗読 第七章
マルコによる聖福音の朗読 第八章
マルコによる聖福音の朗読 第九章
マルコによる聖福音の朗読 第一〇章
マルコによる聖福音の朗読 第一一章
マルコによる聖福音の朗読 第一二章
マルコによる聖福音の朗読 第一三章
マルコによる聖福音の朗読 第一四章
マルコによる聖福音の朗読 第一五章
マルコによる聖福音の朗読 第一六章


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御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale.

2017年05月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月1日、勤労者聖ヨゼフの祝日です。聖母の月が始まりました。5月は、シュテーリン神父様が日本に来られます。5月3日から5日までは秋田巡礼です。

 5月の初金と初土に大阪で、5月7日(主日)は東京です。
今回は、ドイツで最初に聖ピオ十世会の修道士となったクラウス修士(Br. Klaus)も来日される予定です。

 5月は、都合により、聖伝のミサはこの一回だけになってしまいました。(予定されていた5月21日は、フェレー司教様のマニラ訪問のためにフィリピンにいなければならなくなりました。)愛する兄弟姉妹の皆様の多くが聖伝のミサにお越しになることをお待ちしております。

 ところで、御復活祭からカトリック教会は特別な季節になりました。復活節です。Tempus Paschale. 復活祭から聖霊降臨後の土曜日(三位一体の主日の直前の土曜日)までの特別の期間を「復活節」と呼びます。

 カトリック教会は、大祝日には、七日プラス一日の、八日間(オクターヴ)付きで祝います。例えば、聖霊降臨や御降誕祭がそうです。復活祭もそうです。しかし復活祭の場合、大祝日中の大祝日なので七日プラス一日、復活祭のオクターヴ(第八日目)が終わるその日から数えて、さらに、七日掛ける七プラス一日(7x7+1)の五〇日の間、更に祝います。五〇は旧約聖書によると大きな喜びを象徴する数です。

 御復活祭が始まる前の季節はバビロン捕囚の七十年に例えられ、七旬節があります。七旬節の間、私たちはアレルヤを歌うことが出来ません。逐謫・流刑にあったようです。

 復活節にはアレルヤが追加されます。絶え間ないアレルヤの歌は、天国にいるかのようです。あたかもユダヤの民がバビロンから、乳と蜜の流れる約束の地に戻ってきたかのようです。御復活直後のイエズスも、弟子達の前で蜜を食べます。復活の主日の直後の主日には聖ペトロの書簡の言葉が響きます。「新たに生まれたみどりごのように、それによって救いに成長するために、まじりのない霊的な乳をのぞめ。」

 復活節の間(聖霊降臨の主日とその八日間を除いて)ミサ聖祭では司祭は喜びの白の祭服を着ます。復活の栄光の白、幼子のような汚れのない白、乳よりも白い輝きです。

 イエズス・キリストは、ご自分の血によってみどりごである私たちを養って下さいます。十字架の上での死によって、ご自分の羊の群れに命をお与えになります。御復活によって、道を迷って失われた羊である私たちに赦しと慰めと導きを与えます。聖ペトロはその書簡で言います。「あなたたちは、羊のように迷っていたが、今はあなたたちの霊魂の牧者と番人とのもとに帰ったのである。」私たちは全て、イエズス・キリストの元に群れをなさねばなりません。

 イエズス・キリストの生まれる二〇〇〇年前、異教の中から天主はアブラハムを選び、アブラハムから偉大な民を作り上げました。この民は、天主によって聖化され、天主のために聖別されました。

 ユダヤ民族が偉大なのは、アブラハムに由来するからではなく、この民からイエズス・キリストが生まれるべきであったからです。ユダヤの民は、祝された天主の御一人子なるイエズス・キリスト、約束された贖い主の故に特別なのです。

 天主はこの民を特別に愛し、保護し、この民から人類の贖い主と、贖い主の御母、使徒たちが生み出されました。ユダヤの民は、キリストにおいて、人類のために偉大な善を運びもたらしたのです。なんと祝された民でしょうか!

 しかし、残念なことに、ユダヤの民は書かれた律法と預言に不忠実でした。残念なことに、ユダヤの民は、救いの実体であるキリストよりは、印と陰にこだわっていました。イエズス・キリストを信じず、イエズス・キリストを拒否してしまいました。

 キリストは霊的に全世界を自分の元に集めようとしました。しかし、残念なことに、ユダヤ教は全世界の政治的な支配を求めていました。ユダヤ教は、霊的な救い主の代わりに、政治的なこの世的な救い主を求めます。

 イエズス・キリストは、全世界の民族を霊的に統治することを臨んでいます。イエズス・キリストは、霊的な救い主です。そこで、この復活節 Tempus Paschale の間、イエズス・キリストの昇天があります。私たちの祖国は天国にあることを教えるために。イエズス・キリストの統治が霊的であると教えるために。イエズス・キリストは、ご自分の霊、聖霊を私たちに送ります。聖霊によって教会を統治するように。新しい霊的なイスラエルであるカトリック教会の霊的な指導の下に、諸国が合い互いに助け合うように、望まれます。

さて、お便りを頂きましたので、ご紹介させて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんにちは! お久しぶりです🙂 もう少しで 秋田巡礼ですね!

 昨夜 マテオによる聖福音の日本語の朗読を拝聴いたしてました、ありがとうございます。この朗読ファイルは、「天主様」で統一されていて、バルバロ訳の聖書も開いて時々聖書にも目を通しながら聴きました。貴重です。神父様のお声 若いです。時折ワンちゃん🐕の鳴き声が聞こえました、最後の28章になりましたら 「待て!おあずけ!」となりましたゆえ、神父様に御礼とお願いのメールを差し上げております。28章の件 どうぞよろしくお願い致します。また 神父様の聖書の朗読を 他のもお願い申し上げます。

 少し前のことですが、「イエズス・キリストが死なれた日は」(4月13日)にては、その説明を読みすぐに、神父様の説明と照らし合わせて 聖書の四つの福音書を開いてじっくりと読んでみました。過ぎ越しの食事をとる日が 共観福音書とヨハネ福音書において、ずれがあるというところです。そう言われてみると本当にそうです、自分が何も考えずに聖書を読んでいることをあらためて知らされています。これまで自分はそのような違いにも気づかないで聖週間を過ごしてきたのだなとわかりました。十二人の弟子たちや一般民衆と、上流階級・司祭階級・衆議所などというような人たちでは、過ぎ越しを異なる日に行っていたということを とてもくわしくご説明いただいて、・・まだ私は十分には理解できていないように思いますが・・感謝申し上げます。聖ヨハネは神殿に魚を卸していて、司祭職の人達の習慣にもよく精通していたのだという説明が思い出されました。また、用意日という言葉が福音書の中にあることも、すっかり見逃して読み過ごしていることにも気づきました。(用意日のことを バルバロ訳以外の聖書では、準備の日と訳していました。)イエズス・キリストが死なれた日は、ユダヤ人にとって 天主の子羊を裂く時、過ぎ越しの食事の時であった。そして イエズス様におかれましては 同時にその日 すべてを成し遂げられ、御父からのみ旨をすべて終えられた(安息日)だったのかなと 想像しました。聖書を読むということは、とても奥深いことであると感じさせられました。いつもご指導ありがとうございます。今年の四旬節は おかげさまで 聖書に親しむようになれたことも、とても嬉しく思っております。(ヨハネ福音書の公教要理の宿題もご報告したいともっていましたが・・・後ほどに。)

神父様の4月8日のお説教を読ませていただいて、悲しみ苦しみと喜びのコントラストをずっと思っていました。民衆からの栄光と司祭長からの冒涜というコントラスト、聖金曜日と復活の主日のコントラスト、十字架と復活というコントラスト、というお話がレフレインのように響いてきていました。

 枝の主日でも、その民衆がホザンナと歌って喜び歓迎したこととイエズス様の悲しみの両方が歌われましたが、その意味はこのお説教の中で話されていることと同じかもしれないと思いました。地上的な物事しか見えない時は、悲しみ苦しみ辱めの面だけ浮かび上がりますが、聖寵をいただいて天上のことまで見やる視野をいただけるなら、そこ(悲しみや苦しみ)に喜びや永遠の幸福が透けて見えるようになるということかなと 感じました。

ファチマで 三人の子供たちは天国からいらした光り輝く聖母マリア様を見たと同時に地獄の光景も見させられた、とあります。光と影、そして永遠とこの世。美しい典礼、グレゴリア聖歌や素晴らしい彫刻や絵画、それらは、天主様の栄光を讃えるために作られたと感じることがあります。(先日 美容院で渡された雑誌の中にミケランジェロのピエタの写真があり、ミケランジェロのマリア様の理解の仕方がなんて素晴らしいんだろう感動してしまいました)。わたしがカトリック教会の扉を叩いたのも、永遠という言葉がきっかけになっていたことを思い出します。人間の心の奥底には、永遠への憧れが息づいているのでしょう。天国からいらっしゃったマリア様の美しさと地獄の恐ろしさの対比の中で、ファチマの子供たちは永遠を思い信仰を生きたのですね。

そして4月16日のお説教では、力強い励ましをいただきました。イエズス様が復活されたことを受け入れることを選ぶ人は少ないかもしれません。特にこの日本では! イエズス様が復活されてマリア様が天の元后であることを信じる人・知る人はほんのわずかで、家族がカトリック信者でない人は孤独に信仰生活を送ってます。復活祭の主日のお説教をUPしていただいて、お説教を読んで 復活の喜びをようやく味わいました。ありがとうございます。一人でも多くの人に その喜びが伝えられますように 祈ります。

四旬節の前の準備の期間から、四旬節を良く過ごせるようにと大小斎や犠牲と祈りをよくできるようにと、そして 受難節のなかでの喜びと苦しみ悲しみのコントラストを強く意識させていただきました。大小斎も 四季の斎日や決められている日以外にも家族の協力もあり、たくさんお捧げできましたことを感謝しています。おかげさまで わたしは今年 復活の喜びの意味をよりよく黙想できたように思います。神父様ご指導ありがとうございます。

 今朝 復活節の主日の朝に わたしは マリア様の“イエズス様の復活”を待つ愛のことを黙想していました。イエズス様が最初に復活のお姿で現れてくださったのは 御母マリア様であったとのことを お説教でも触れてくださいました。受胎告知によって喜びだけでなく天主様への愛と人々の救いのために苦しむことを受け入れた聖マリア様の汚れなき御心は、聖土曜日に十字架上で苦しみと悲しみの中で罪に打ち勝ち死と地獄に勝って復活されたイエズス・キリストを待ち望む喜びに満たされていたことを 思いめぐらしました。マリア様は、喜びの中で実は苦しみをも受け入れられたということとコントラストするかように、深い悲しみ苦しみの中でも希望を失うことなく喜びを待ち望まれていたということを、今年ははっきりと理解できたように思います。(ロザリオでもこうしたことを思いめぐらしながら祈れて感謝です。2015年6月28日のブログ Ecce ancilla Domini Fiat! 大好きです。)勝利された主イエズス・キリストと いつもともに歩めますように。汚れなき御心のマリアに助けられ、いつも喜びに満たされていますように。

長々と乱文を書き連ねてしまいまして 失礼をお許しください。
秋田巡礼に一人でも多くの方が参加されますよう 私も微力ながらお祈りします。秋田のマリア様の警告は とても現実的です。胸が痛みます。
秋田の聖母 我らを憐れみ給まえ!

聖マリアの汚れなき御心のうちに!アレルヤ!

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ブログにマテオ様による聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介して下さってありがとうございます!

既にCDにして食事の時や、車の運転時などにずっと聞かせて頂いているのですが、この音源のおかげで福音書に接する機会がとても増えて、内容もよく知ることが出来て、とても嬉しく思っております!是非、さらにご紹介して頂けると、新約聖書に接する機会が皆さん増えられてとても良いのではないかなぁと思います!小野田神父様の朗読もとても聞きやすいです(o^^o)♪

デオ・グラチアス!アレルヤ!


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マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルのご紹介

2017年04月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

改めて私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。

今回は、マテオによる聖福音の日本語の朗読録音ファイルをご紹介いたします。これは愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが約十年ほど前に新約聖書を全て朗読して録音した時のものです。

もしも好評であれば、準備ができ次第、愛する兄弟姉妹の皆様に新約聖書の録音ファイルを、さらにご紹介していきたいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


マテオによる聖福音の朗読


マテオによる聖福音 第一章
マテオによる聖福音 第二章
マテオによる聖福音 第三章
マテオによる聖福音 第四章
マテオによる聖福音 第五章
マテオによる聖福音 第六章
マテオによる聖福音 第七章
マテオによる聖福音 第八章
マテオによる聖福音 第九章
マテオによる聖福音 第一〇章
マテオによる聖福音 第一一章
マテオによる聖福音 第一二章
マテオによる聖福音 第一三章
マテオによる聖福音 第一四章
マテオによる聖福音 第一五章
マテオによる聖福音 第一六章
マテオによる聖福音 第一七章
マテオによる聖福音 第一八章
マテオによる聖福音 第一九章
マテオによる聖福音 第二〇章
マテオによる聖福音 第二一章
マテオによる聖福音 第二二章
マテオによる聖福音 第二三章
マテオによる聖福音 第二四章
マテオによる聖福音 第二五章
マテオによる聖福音 第二六章
マテオによる聖福音 第二七章
マテオによる聖福音 第二八章

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モーゼとキリスト

2017年03月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

旧約のモーゼはキリストの前表でした。モーゼは選ばれた民イスラエルの救い主、指導者、養育者、教師となることを天主に選ばれました。
ファラオとの対決の後、過ぎ越しの夜、過ぎ越しの子羊を屠って食した後、モーゼはエジプトの奴隷状態から選民を解放します。
モーゼは、天主に命じられた通り、杖を持った手を挙げて、紅海を二つに割り、その中を、天主の民を、足を濡らせずに歩いて渡らせます。
彼は、民を砂漠の中で導き、マンナという天からのパンで養い、岩から水を湧き出させて乾きを癒やさせます。
モーゼは、過ぎ越しの50日後(過ぎ越しの後に命じられたとおりした40日間の断食の後)、シナイ山の上で、石に刻まれた天主の十戒を受け、これを民に与えます。天主と親しく語らい、イスラエルの仲介者であり、取り次ぎ者でした。民の弱さとかたくなさを堪え忍ぶ特別の忍耐が必要でした。

天主御父によってこの世に送られたキリストは、新しいイスラエルである贖われた人類の救い主、指導者、養育者、教師として、地獄の勢力(ファラオ)と戦います。
過ぎ越しの夜、キリストは、新しいイスラエルを罪の奴隷状態(エジプト)から解放します。イエズス・キリスト御自身が、屠られ、食される天主の子羊でした。
キリストは、天主の民を、洗礼という紅海を通して渡らせ、ご自分もその先頭に御受難という紅い海を通り抜けました。
キリストは、私たちをこの世の砂漠の中で導き、私たちを天からのパンであるご自分の御聖体で養い乾きを癒やして下さいます。
シカルというサマリアの町にあったヤコブの泉のかたわらで、サマリアの女にイエズスはこう言います。「この水をのんでもまたかわきをおぼえるが、私の与える水をのむ者はいつまでもかわきを知らないだろう。私が与える水は、その人の中で、永遠の命にわき出る水の泉となる」と(ヨハネ4章)。

またイエズスは、カファルナウムの会堂で、こうもおおせられました。「まことにまことに私はいう。天からのパンをあなたたちに与えたのはモイゼではない。私の父が、天からのまことのパンをあなたたちにくださるのだ。天主のパンは、天からくだって、世に命を与えるものである。(…)命のパンとは私のことだ。私に来るものはもう飢えることがなく、私を信じるものは、いつまでも渇きを知らないだろう。(…)まことにまことに、私はいう。信じる人は永遠の命をもつ。命のパンは私である。あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。しかし、天からくだるパン、それを食べる人は死なない。天からくだった生きるパンは私であって、このパンを食べる人は永遠に生きる。そして私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である。(…)まことにまことに、私はいう。人の子の肉を食べず、その血をのまなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終りの日にはその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。生きておられるおん父が私をつかわし、そのおん父によって私が生きているように、私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてもなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。(ヨハネ6章)

キリストは、復活の後50日目に、私たちに聖霊を送り、愛の掟を肉の心に刻んで下さいました。
イエズス・キリストは、大司祭として、天主御父と親しく語らい、しかも、私たちの弱さとかたくなさを堪え忍ぶ特別の憐れみと忍耐とで、私たちのための仲介者として、天で御父に取り次いでくださっています。
復活祭は近づいています。天主なる「モーゼ」イエズス・キリストは、私たちをして「エジプト」から解放してくれます。
復活祭に私たちに与えられる、天から下る生けるパンイエズス・キリスト!それが私たちに与えられるために、私たちの主はどれほどの苦しみと悲しみと辱めを甘受しなければならなかったことでしょうか!

復活祭には、新たな心で主の御聖体を受けることが出来るように良く準備しましょう!ファチマの天使が教えてくれたとおり、次の意向で御聖体拝領を御捧げいたしましょう。
「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

シスタールチアは、1931年8月29日にこう言っています。彼女はその当時24歳でしたが、私たちの主イエズス・キリストが来られて彼女に話しかけられたとき、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパ、ロシアそして世界の回心のために祈っていました。主はこう言われました。

「あなたはそれらの国々の回心のために祈ることによって私を非常に喜ばせる。そしてあなたはそれらの哀れな国々の回心を求めることによって大いに私を慰めている。『マリアの甘美なる御心がロシア、スペイン、ポルトガル、ヨーロッパそして全世界の救いでありますように』と言うことによって私の御母にしばしば願いなさい。」

では、私たちも御聖体拝領の時にこう祈りましょう。
「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え!」

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【参考資料】
Jacinta’s own preferred ejaculatory prayer was: “Sweet Heart of Mary, be my salvation!”

On August 29, 1931, Sr. Lucy said: “As I was asking God for the conversion of Russia, Spain and Portugal, it seemed to me that His Divine Majesty said to me: ‘You console Me very much by asking me for the conversion of those poor nations. Ask it also of my Mother frequently, saying: Sweet Heart of Mary, be the salvation of Russia, Spain, Portugal, Europe and the whole world. At other times say: By your pure and Immaculate Conception, O Mary, obtain for me the conversion of Russia, Spain, Portugal, Europe and the entire world. Make it known to my ministers that if they follow the example of the King of France in delaying the execution of my request, they will follow him into misfortune. It will never be too late to have recourse to Jesus and Mary.’”
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ルフェーブル大司教様の伝記の出版準備中

2016年07月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様

ルフェーブル大司教様の伝記を出版する準備を進めています。

出版のために、祈り、クチコミ、宣伝などしてくださることができましたら、大変幸いに存じます。

愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご援助を、感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父
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ルフェーブル大司教様の伝記の出版

2016年07月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様

ティシエ司教様の来日に合わせて、ルフェーブル大司教様の伝記を出版する計画があります。

印刷のためにあらかじめ予算が必要となります。もしも、印刷のために献金してくださることができる方がいらっしゃいましたら、大変幸いに存じます。

今、2枚しか在庫がありませんが、ルフェーブル大司教様の記念メダルを、最も多く援助くださった2名の方々に、その外の方々にはその他の記念品をお譲りしたいと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様の寛大なご援助を、感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父
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聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会へのお誘い

2016年07月24日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

8月のご予定は、如何でしょうか?
今回、黙想会のお招きを申し上げます。

今年の8月には、聖ピオ十世会日本として初めて、シュテーリン神父様のご指導の下に「聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母黙想会」を行う予定です。

来年2017年のファチマ100周年準備のために、この黙想会はとても大切です。ファチマの聖母の100周年をふさわしく迎えるためにも、黙想会に参加されることを強く推薦します。

特に、世界中から要望を受けているシュテーリン神父様が黙想会を指導して下さるのは特別の機会です。最初で最後の機会かもしれません。何故なら、シュテーリン神父様は世界中から黙想会の指導を頼まれているからです。

来年(2017年)の8月は私たちはファチマとローマに巡礼をする予定ですし、再来年(2018年)は、聖ピオ十世会の総会が開かれる予定で、アジア管区長もそれに参加されるからです。総会でシュテーリン神父様が高い地位に選ばれてると、アジア管区に戻られないこともあり得るからです。

ですから、今年の聖母黙想会に参加されることを、改めて強くお願いいたします。

◆黙想会形式: 聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会
◆指導司祭: アジア管区長シュテーリン神父様(日本語通訳 小野田神父)

◆日時: 8月10日夕方現地集合、15日 お昼頃まで。全日程の参加をお願いします。

8月11日(木)【山の日】朝7:00AMのミサから黙想会が始まります。
8月15日(月)午前9時30分から始まる歌ミサと聖体降福式をもって、黙想会が終了します。

◆黙想の場所: ホテルコスモスクエア国際交流センター 大阪市住之江区南港北1-7-50 http://www.kensyu-center.jp/

◆交通:
10日、15日は新大阪駅←→ホテルをバスが送迎してくれます(無料サービス)。
詳しくはアクセスのサイトをご覧下さい。
http://www.kensyu-center.jp/access/

◆宿泊費: シングル ひとり 61,000円
◇ツインをご希望の方々は、55,500円です。もしツインご希望の方がおられる場合はなるべく早く連絡すれば変更できます。ツインをご希望の方々は、その旨ご連絡ください。

◇部屋の数の都合により、必ずしもご希望に添えない場合もあるかもしれません。どうぞご容赦くださいますようお願いします。

◆御ミサは、会議室を仮の聖堂として使います。また、同じ場所で講話を行います。

◆持ち物: 祈祷書、ミサ典書、キリストに倣いて、新約聖書、筆記用具やノート類。個人で使用する衣服など。

◆参加ご希望の方は、メールでご連絡下さい。

◆申し込み締め切り:2016年7月24日までによろしくお願いします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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2016年7月10日 東京で午前10時半から聖伝のミサが、午後4時からマーチ・フォー・ライフがあります。

2016年07月07日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
 今日は、有名なスンモールム・ポンティフィクムが発表されて9年目ですね。

このあがむべき古くからの典礼の使用に対してふさわしい敬意が払われなければならない。
「福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、・・・ミサのいけにえを行うことは許される。」

 明日7月8日(金)と9日(土)は、大阪で、この聖伝のミサがあります。

 7月10日の主日は、東京で聖伝のミサがあります。

 7月10日の午後の公教要理の時間は、例外的に、いつもより早めに午後1時45分には開始して2時45分には終わらせる予定です。
 何故なら、この日は選挙の日ですが(私はすでに事前投票を済ませて参りました)、この日の午後4時から「マーチ・フォー・ライフ」に参加する意向だからです。

 「マーチフォーライフ」は、1973年1月22日にワシントンで、ひとつの最高裁判決が下ったことにより、アメリカは全州にわたってABORTION=人工妊娠中絶が「合法」になりました。その日から今日までに五千万件以上の中絶がおこなわれ、中絶問題はアメリカ社会に大きな影を落としています。

 一方、この判決に疑問を抱いた市民が立ち上がり、翌1974年から「March for Life=マーチフォーライフ」が始まりました。判決のあった日にワシントンDCに集まる参加者の数が年々増えつづけるとともに、すべてのいのちを守る「Pro-Life=プロライフ」の価値観が草の根でアメリカ全土に浸透していきました。





 アメリカ合衆国では、1973年以来2007年までのの中絶数は、49,551,703名でした。

 いのちのための大行進の参加者の大半は、10代、20代の若者たちです。彼らはPro-Life Generation=プロライフ世代であると言われ、世論調査でも今の若者は上の世代よりもプロライフの傾向が強いことが明らかになっています。

 今年の1月22日(金)のワシントンでは、吹雪のなかでも、マーチが行われたそうです。今年は、聖ピオ十世会の総長のフェレー司教様も参加されました


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 日本では、残念なことに、1948年7月13日に、現在の母体保護法の前身である優生保護法が成立しました。

 今から2年前の2014年7月13日、日曜日の午後、国会をめざして日本で初めてのマーチがスタートしました。産まれる前の赤ちゃんが、声をあげられないように、マーチ参加者も静かに、でも、満面の笑顔で歩きます。お腹の赤ちゃんが、声はあげられなくても生きていることそれ自体を喜んでいるように。

 こうして、声なき行進、祈りの行進がはじまり、毎年、7月の第二日曜日は、日本のマーチフォーライフの日となりました。

 先日、私たちは深い悲しみと憤りを持って、バングラデシュのダッカでのテロの事件を知らされました。日本人7人とイタリア人9人とを含む罪のない犠牲者20人が、平和にレストランで食事をしている間に殺害されたのです。週末で喜びと会話に満ちたレストランが、突然として恐怖に包まれ、血の海となりました。大使館のそばの高級レストランです。もっとも安全なはずの場所においてなされた卑劣な蛮行でした。過激で、憐れみもない悲劇でした。犠牲者たちは、バングラデシュにどんな悪事を行ったというのでしょうか?すこしでも助けたいと思ってバングラデシュにいたのに。何故、問答無用に、邪魔者として殺害されなければならなかったのでしょうか。「自己責任」なのでしょうか?それとも政府が邦人の安全確保のための責任を行使していなかったのでしょうか?

 優生保護法が施行されて、日本では、平和に安らかに眠っている日本人が、お母さんの胎内という赤ちゃんにとってもっとも安全で守られなければならない場所で、殺害され続けています。犠牲になった赤ちゃんたちは、手足を切りとられ、頭は砕かれ、虐殺されてお母さんのおなかの中から引きずり出されます。非常に残酷な話です。

 お母さんのおなかの中という赤ちゃんの場所が、突然として恐怖に包まれ、血の海となるのです。これは、胎児にとって、恐るべきテロ行為でなくてなんでしょうか。卑劣で、野蛮で、過激で、憐れみもない悲劇ではないでしょうか。赤ちゃんは、どんな悪事を行ったというのでしょうか?何故、問答無用に、邪魔者として殺害されなければならないのでしょうか?だれか守ってあげる人はいなかったのでしょうか?赤ちゃんには「自己責任」はありませんから。政府は、何故、赤ちゃんの安全確保のための責任を放棄してしまったのでしょうか?

 バングラデシュのダッカでのテロの罪のない犠牲者20人にたいして、私たちは深い悲しみと憤りと追悼の念を持って祈りますが、それと同じく、お母さんの胎内で殺害され続けている多くの赤ちゃんたちを守りたちと願います。しかも、10代の子供たちさえも中絶をしていて、その数は、日本が世界で一番いちばん多いのだそうです。

 そこで、7月10日には、このマーチに参加しようと思っています。そのために、いつもの晩課を愛する兄弟姉妹の皆様と一緒に歌うことができなく残念に思いますが、どうぞご理解下さい。

 愛する兄弟姉妹の皆様もどうぞご参加下さい。


 午後4時常盤公園出発、外堀通りに入り、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋を通って、午後5時日比谷公園中幸門内解散というコースになります。

 常盤公園は、となりに京王プレッソインというホテルがありますので、目印にしてください。

 当日が参議院選挙の投票日となるので、デモ行進中に特定の政党や候補者の支持を訴えるような行為は謹んでくださいとのことです。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


「その他の多くの権利の前提である基本的人権は、生命それ自身への権利である。これは受胎の瞬間からその自然な終わりまでの生命に関して真である。従って、堕胎は人権であり得ない。まさに人権に反対している。」(ベネディクト十六世

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洗者聖ヨハネの賛歌 Ut queant laxis resonare fibris

2016年07月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

6月24日は洗者聖ヨハネの祝日でした。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌にまつわるお話をご紹介します。

洗者聖ヨハネの賛歌(モンテカシーノのベネディクト会修道士であった助祭パウロ (Paulus Diaconus)の作った、サッポー詩節(Sapphicum)という韻律で書かれたもの)でその第1節は、11世紀にグィド・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)によってソルフェージュの名前をつけるために使われました。

サッポー調というのは、次のようなリズムを持った詩のことです。

UT queant laxis || REsonare fibris
― U ― ― ― || U U ― U ― x

MIra gestorum || FAmuli tuorum
― U ― ― ― || U U ― U ― x

SOLve polluti || LAbii reatum
― U ― ― ― || U U ― U ― x

Sancte Iohannes.
― U U ― x
(― は長い、Uは短い、xはどちらでも可を意味します。)


グィド・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)は、この賛歌の最初の三行の、ut, re, mi, fa, sol, la という最初の音節がドレミの音階の名前として使いました。最後の行(Sancte Iohannesの部分)はその時は特に使いませんでした。

しかし16世紀に7番目の音に名を付けるために Sancte Iohannes の最初の文字を取って SI をつかうようになりました。これは、フランダースのアンセルム(Anselme de Flandres)によるとのことです。

最初の ut は16世紀にイタリアで、do と置き換えられました。1536年には既に、ピエトロ・ダレッツォの書いたものの中に、イタリア語として使われた記録があります。このピエトロ・アレティーノ(1492 - 1556, Pietro Aretino, フランス語では Pierre l'Arétin)は、グィド・ダレッツォとは別の人です。これについての研究は、音楽家であった Corselis 神父(Mr l'abbé Corselis, Professeur de solfège et maître de chapelle du Collège du Sacré-Cœur de Tourcoing)のものがあります。

フランス語の語源辞典によると、17世紀初頭の人であったジョヴァンニ・バッティスタ・ドニ(Giovanni Battista Doni)が自分の名前の最初の音節から取ったのではないことになる、とあります。さらに、1673年にボノンチニ(Bononcini)が、イタリアの音楽家ドニの名前からとって ut を「ド」とした、という説もあるのですが、ドニとボノンチニとが生きている前から、既にドの名前が音符の名前として使われていた記録が残っていることから、ジョヴァンニ・バッティスタ・ドニを「ド」のゆかりとする説は否定されています。
Prononc. et Orth. : [do]. Ds Ac. 1878 et 1932. Étymol. et Hist. 1768 (ROUSSEAU). Mot ital. attesté dep. 1536 (l'Arétin ds BATT.) inventé pour remplacer ut*, moins facile à énoncer en solfiant; l'attest. de l'Arétin prouve que le mot n'a pas été inventé par G. B. Doni (1re moitié XVIIe s.) d'apr. la 1re syllabe de son nom. Fréq. abs. littér. : 68. Bbg. HOPE 1971, p. 360. SAIN. Sources t. 3 1972 [1930], p. 162.

http://atilf.atilf.fr/

http://www.cnrtl.fr/definition/do

Découvrir la musique médiévale は、以上のことを指摘して、ラテン語の Dominus から「ド」の名前が来ているという説を支持しています。

ラルース(Larousse)の音楽事典 « Dictionnaire de la musique »の Ut queant laxix の項によると、

このメロディーは、11世紀以前には(つまりグィド・ダレッツォ以前には)、そのソルフェージュのメロディーでは歌われたことがなかったこと、
そこでしばしば信じられていることとは反対に、グィド・ダレッツォは、この賛歌だけを利用したのであってもともとのメロディーを利用したのではなかったこと、
このメロディーは、同じサッポー詩節で書かれたホラティウスの叙情詩を歌うためにあった学習用の歌のメロディーから取られたか、あるいは、グィド・ダレッツォがソルフェージュのために作曲したか、のどちらかであること、
などが指摘されています。

実際、Silvia Walli の書いた Melodien aus mittelalterlichen Horaz-Handschriften. Edition und Interpretation der Quellen あるいは Jan M. Ziolkowski 著の Nota Bene: Reading Classics and Writing Melodies in the Early Middle Ages (Turnhout: Brepols, 2007)によれば、ホラーティウスの『歌集』4巻11歌1-20 Est mihi nonum superantis annum という叙情詩にこれと同じメロディーが付けられて11世紀の写本(Montpellier, Ecole de Médecine 425H)に残っています。

上記のラルース音楽事典は、ジャック・ヴィレ(Jacques Viret)とジャック・シャイエ(Jacques Chailley)が1981年に発表した発見についても言及しています。

それによると、よく「いろは歌の謎」などと言われる、例えば「とがなくして死す」というようなやり方の、深い意味がこの助祭パウロの詩には隠されていたとのことです。私の思うには、こじつけですが。

ジャック・ヴィレとジャック・シャイエによれば、この詩の中央に SOL という音節があり、これはラテン語では「太陽」を意味する。この「太陽」を文字でイメージすると SOL の真ん中の O の文字である。この O は、ギリシア語の最後の文字であるオメガに対応する。黙示録で天主は「私はアルファでありオメガである、はじめであり終わりである」と言っている。
この賛歌では SOL が、 FA と LA の音節に囲まれているが、これは ALFA アルファにつながる(中世ではアルファを ALPHA の代わりによく ALFA と転写した)。
ファの前は MI だけれども、これは M と I とから成立している。 M はラテン語では千を意味し I は一を意味する。マクロな世界とミクロな世界である。
FA と LA を ALFA と読んだように、SANcte IOhannes を IONAS と読むことができる。これは旧訳の予言者でキリストの復活の前兆である。云々。


では、 Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の翻訳をご紹介します。

ラテン語

Ut queant laxis resonare fibris
mira gestorum famuli tuorum,
solve polluti labii reatum,
Sancte Iohannes.

このラテン語に一番正確なフランス語の訳は次の通りです。

« Afin que les serviteurs (de Dieu) puissent clamer à pleine voix les merveilles de tes actions, ôte l'erreur de leurs lèvres impures, saint Jean. »

インターネットで見つける訳では、本当は、gestorum tuorum (あなたの行為(複数)の)という意味なのに、リズムの関係で famuli tuorum となっていることに引きずられてか、famuli tui (あなとのしもべたち)という意味で訳したもののコピペが氾濫しています。

洗者聖ヨハネには、しもべたちがおらず、これは天主のしもべたちが、あなた(つまり洗者聖ヨハネ)の驚くべき生涯を歌うことができるようにして下さい、という意味なのです。そのところをこのフランス語はちゃんと理解しています。

英語で凝った訳として、ラテン語のリズムを生かして訳した次のものあります。

Let thine example, Holy John, remind us
Ere we can meetly sing thy deeds of wonder,
Hearts must be chastened, and the bonds that bind us
Broken asunder.

あるいは、

O for thy Spirit, Holy John, to chasten,
Lips sin-polluted, fettered tongues to loosen,
So by thy children might thy deeds of wonder
Meetly be chaunted

ベネディクト会のシスターであった Cecile Gertken, OSB (1902-2001) は次のように、ド・レ・ミという音を生かして訳しました。英語では Do が「ド」ではなく「ドゥ」ですけれど。

Do let our voices
resonate most purely,
miracles telling,
far greater than many;
so let our tongues be
lavish in your praises,
Saint John the Baptist.

日本語では、次のような意味になります。

しもべらがゆるやかな声帯で
御身の驚くべき行為を歌い響かせ得るように
けがれた唇の罪を赦したまえ
聖ヨハネよ。



韓国語の訳は次の通りです。

세례자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

中国語では、次のようです。

神的僕人以誠摯的歌聲
讚美令人驚嘆的神蹟,
以除去他們言語間的罪惡,
啊!聖若翰我們讚美你。

==2016年12月19日追記==

洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネ、の「ヨハネ」は、日本語では同じですが、中国語では(そして韓国語でも伝統的に)、別人だということを区別させるために、別の言葉で訳します。

天主教(カトリック教会)では、中国語訳(汉譯)として、
洗者聖ヨハネを「圣若翰洗者」と「若翰」とし、
福音史家使徒聖ヨハネを「约翰」として訳し分けています。

プロテスタント(新教)では、どちらも「约翰」とされているようです。

韓国語では、現代伝わるカトリックの教えは中国語経由で導入されたので、当時の漢字の韓国語読みを採用し、洗者聖ヨハネと使徒聖ヨハネとでは「ハン」に当たる漢字が別に当てられていたために、

洗礼者聖ヨハネを、요안
使徒聖ヨハネは 요왕
と訳し分けていました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

==追記終わり==


では、日本語をもう一度ご紹介します。
聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。

【晩課】

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を響かせることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

Nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

Ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

Ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

【朝課】

Antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

Praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

Ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

Non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

【讃課】

O nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

Serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

Nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

Ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

Laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

Sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン

韓国語の訳もご紹介します。

세레자 요한이여 들어주소서
위대한 당신업적 기묘하오니
목소리 가다듬어 찬양하도록
때묻은 우리입술 씻어주소서

저높은 하늘에서 내려온사신
위대한 주님탄생 알려주시고
이름과 생애까지 일러주시며
낱낱이 아버지께 예고하였네

그약속 의심했던 당신아버지
그즉시 언어능력 잃으셨으나
당신이 이세상에 태어나시자
잃었던 목소리를 돌려받았네

어머니 모태속에 숨어계실때
태중의 임금님을 알아보시니
양친도 당신덕에 눈이밝아져
놀랍게 숨은사실 드러내셨네

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

높은덕 빛나시는 세례자요한
죄없이 눈과같이 깨끗하시네
사막의 은수자요 크신예언자
용감한 순교자로 복되시도다

꽃으로 곱게꾸민 빛나는화관
성인들 머리위에 올려지나니
어떤이 이중화관 받아쓰지만
당신은 삼중화관 받아쓰셨네

무수한 공로세운 능하신이여
저희의 굳은마음 녹여주시고
함한길 고르시어 평탄케하사
굽어진 오솔길도 곧게하소서

만물을 지어내신 우리구세주
마음의 어지러움 물리치시고
깨끗한 저희마음 찾아오시어
거룩한 당신거처 마련하시리

드높은 하늘나라 시민들이여
하느님 삼위일체 찬미하여라
저희도 겸손되이 용서비오니
저희죄 사하시고 구원하소서

아멘.


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レネー神父様のお母様が亡くなられました。お祈りください。

2016年06月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

レネー神父様のご母堂様が霊魂を天主様にお返しになりました。

霊魂の永遠の安息のためにお祈りください。RIP

トマス小野田圭志神父
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聖霊降臨の主日、おめでとうございます。大阪でのミサは新しい住所です

2016年05月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨の主日、おめでとうございます。

今日から、大阪でのミサ会場の住所は新しくなります。ご注意ください。

天主様に感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父
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パーフォーマンス課題にチャレンジしてみて下さい。Try this Performance task

2016年04月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
Ave Maria Immaculata

愛する兄弟姉妹の皆様、

「真性パーフォーマンス課題」と言われているものを提案したいと思います。これの目的は私たちのカトリック信仰の理解が深めるためです。ただ頭の中で知っているだけでなく、それを使うことができるためです。単語や文章の意味だけではなく、自分で発見して何故かの理由が説明できるようになるためです。

 もしよろしかったら、GRASPS によると言われている、パーフォーマンス課題にチャレンジしてみて下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


この課題の目的:
日本の歴史におけるカトリック教会について理解を深めること。
日本においてあまり知られていないカトリック教会の歴史についてもっと知りたいと興味を抱くようになること。

この課題を実行するに当たって、背景になる疑問
日本において、特別に知るに値するカトリック信仰の実り、記念碑、場所、出来事とは何があるか。何故それらが、日本におけるカトリック信仰を代表するのか。何故重要なのか。
日本において、キリシタン時代には、いつどこで何が何故あったのか。
聖フランシスコ・ザベリオが日本に到着した後の100年間(1549-1649年)、日本におけるカトリック教会には何が起こったのか?
いろいろな国籍の多くのカトリックの先祖たちは、何故信じられないような拷問や苦しみを終わりまで耐え抜くことができたのか。
拷問を苦しみ抜いていったいどのような利益があったのか。
カトリック教会を迫害した人々の動機は何なのか。迫害した人々は幸せだったのか?どのような終わりを遂げたのか。
様々な国々のいろいろな時代に亘る殉教者たちの共通の特徴はあるか、あればそれは何か。ローマ帝国や、李氏朝鮮、ヴェトナム、イスラム諸国におけるカトリック殉教者と、日本の殉教者とを比べると、どのような違いとどのような似ている点があるだろうか。
もしも聖フランシスコ・ザベリオの来日の時代の日本に生まれていたとしたら、私はカトリック教会のために、日本のために、何ができただろうか。

役割(Role):
小教区教会の主任司祭から依頼を受けて、東京におけるカトリック関係の観光ガイドを一日することになった。

対象(Audience):
日本に観光・巡礼に来たフィリピンのカトリック信者の観光客(日本は初めて)


想定状況(Situation):
今年の5月に、フィリピンから初めて巡礼・観光に日本に来る10名からなる観光団体のために、一日、東京見学を計画するように、東京都内の或小教区の主任司祭によって依頼されました。
グループはその日は文京区で朝七時から聖伝のミサに与って、午後の七時まで自由時間があり、日本と、日本におけるカトリック教会と、日本とフィリピンについて、文化的、歴史的、地理的、経済的、政治的な理解が深められるような場所を訪問することを望んでいます。
ただし旅行のための予算はあまりありません。

パーフォーマンスで求められていること(Product Performance and Purpose):
出発地は文京区で、終点地は上野になるような一日の観光計画を立てること。単に訪問場所と道のりだけではなく、何故、その場所を選んだのか、その場所の重要性、関連性、意義、歴史性、などを、主任司祭に説明する必要があります。
司祭が良く理解できるように、地図(パワーポイント)などの視覚資料を使って司祭に説明して下さい。


パーフォーマンスの評価のスタンダード基準 (Standards and Criteria for Success):
次の点に照らし合わせて評価されます。

*選ばれた訪問場所の重要性、意義。日本とカトリック教会とにとってどれほどの意味の深さを持っているかその理由。
*日本人にとってだけでなく、外国人観光客にとっても、意義や重要性を見いだせるか。
*選ばれた訪問場所を、訪問する物理的・経済的な制約が考慮されていて、現実的であるか。
*説明は、はっきりしていて、明確で、分かりやすく、説得力があるか。
*視覚資料は、有効に選ばれていて、説得力を増すものであるか。

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今日は聖グリニョン・ド・モンフォールの帰天300 周年です

2016年04月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖グリニョン・ド・モンフォールの帰天300周年です。

聖グリニョン・ド・モンフォール、我らのために祈りたまえ!
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