Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年5月6日(主) 秋田巡礼―シュテーリン神父様お説教 「マリア様が求めておられる私たちからの答え」

2018年06月27日 | お説教・霊的講話
2018年5月6日(主日) 秋田巡礼 御復活後第5主日のミサ
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

親愛なる友人の皆さん、この巡礼の終わりにあたって、マリア様が私たちから答えを、返答を求めている事は明らかです。

第1の答えは、今日の主日の福音の中にあります、「今までまだ、私の名前によってお前たちは求めた事がなかった。しかし求めよ、そうすれば与えられる。」

イエズス様の信じられないような約束です。まず私たちはその「この約束を信じていなかった」という事を、まず自分の過失を告発しなければなりません。皆さんの祈りは、この要求は、非常に快いものなので、私たちの罪人であるにもかかわらず、天主は私たちを愛してこれを叶えて下さる、という事です。ですからまず第1に祈らなければなりません。そして良く祈らなければなりません。

では「良く祈る」とはどういう事でしょうか?それは「私たちの主の名前において祈る」という事です。実際私たちは祈りを始める時に、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて」と言います。確かに口では、口先では言いますけれども、考えた事も、あるいは望んだ事もありませんでした。

「イエズス様の御名において」という事は、「イエズス様の御旨に従って」という事です。私たちは天主様の心に気に入る事を、適う事を望む事はできますけれども、心に適わない事は、反対する事は望む事ができません。

私たちは「確かに主の御旨に適う事がある」という事を知っています。例えば主の祈りで、「御国の来たらん事を」あるいは「御旨の行われん事を」という事は、これは御旨に適う事です。私たちの霊魂の救い、あるいは隣人たちの救いは、主の御心に適う事です。

しかし、この世的なものを求める時、例えば成功とか、あるいは健康とか、あるいは財産を得る事などについては違います。それらについては天主様だけが、本当にこれらのこの世的なものが、私たちの霊魂を救うのに役立って、私たちを永遠に幸せにするか否か、という事を知っています。ですからこの世のものを、この世的なものを求める時には、「もしも御旨に適うならば、御旨ならば与えて下さい」と、これを付け加える事が大切です。

そしてもしも私たちの望む事が、私たちの救霊に役立たないのであれば、私たちの祈りは無視されるのではなく、それをより高い次元のものに変えて聞き入れて下さいます。

第2に知らなければならない事は、「もしも私たちがよく祈るならば、必ずその祈りは聞き入れられる」という事です。しかしイエズス様は、一体どこで、一体いつ、どのように祈りが叶うか、という事は約束されませんでした。私たちは本当に謙遜に、そして主の御摂理に信頼して、私たちに最もふさわしい時期にそれが与えられる、という事を知らなければなりません。

もしもある母親が子供の回心を祈ったとします。しかし、もしもその子供がすぐに回心したとしても、その後また堕ちてしまったとしたら、もしもそのようだったら、天主様はその回心を引き伸ばす可能性があります。もしかしたら死の時の瞬間まで。なぜかというと、私たちにとって最も必要な事は、「聖なる死を遂げる事」だからです。

第3には、私たちが主の気に入る事を祈るという事、また主が望みの時に下さるという事のみならず、全く盲目的に主に信頼しなければなりません。「主の御名によりて、イエズスの御名によりて」と言う時に、「イエズス様とマリア様が1つである」という事を思い出して下さい。全ての恵みはどうやってもマリア様の元を通らなければなりません。したがって、「イエズス様の御名によりて求める、願う」という事は、「マリア様において、マリア様に全く依存して祈る」という事です。

そこで、私たちの「お祈りをする」という決心と共に、「マリア様に奉献する」という決心を立てなければなりません。多くの聖人たちは、「マリア様に奉献するほど、マリア様の御心に適う事はない」と教えています。「マリア様に奉献する、自己奉献する」という事はすなわち、「マリア様に私たちを、マリア様を通して天主に捧げる」という事です。あるいは別の言葉で言い換えると、「最高の母親の子供でありたい」と思う事です。そして「この非常に素晴らしい、威厳ある元后の良き兵士であり、そしてそのしもべであり、奴隷でありたい」と思う事です。

祈りと、そして奉献と、その最後に第3番目には、マリア様にこのように言う事です、「あぁマリア様、私に何かできる事はありませんか?」

ある大きな祝日に、例えば子供がお父さんからプレゼントをもらった、例えばミニカーとか。そのプレゼントを見て、「あぁ!これ欲しかったんだ!お父さん何か、お母さん何か、僕にしてもらいたい事ありますか!?」こんな事が私自身にありました。11歳から12歳の頃そうでした。母の返事はとてもはっきりしていました、「部屋に行って掃除をしなさい。」

私たちも同じようにしなければなりません、「マリア様、マリア様私に何かするべき事がありますか?何かしてもらいたい事がありますか?」そうしたらマリア様はきっと言う事でしょう、「早くあなたの霊魂のお掃除をしなさい。もしも子供よ、もしも私の気に入るように、私の心の適う者となりたいと思うならば、天主様をより多く愛して、隣人を愛しなさい。その為にはお手伝いをする事ができます、助けてあげます。」

私たちは今まで考察してきました、マリア様の汚れなき御心と共に、汚れなき御心を通して、どうやって私たちの天主への愛が膨らんでいくのか、増加していくのか、という事を。しかしイエズス様とマリア様の一致した聖心は、皆さんの一人一人に特別のお願いがあります。王たるキリストの呼びかけとは何でしょうか?何を呼びかけて招いているでしょうか?

「私の意志は、私の願いは、全世界を征服する事である。そして多くの霊魂たちを私の王国に戻す事である。永遠の破滅から彼らを救う事である。」「そして私はその自分の軍隊が欲しい。お前たちにその軍人となってもらいたい。そして戦う為に、特別に聖霊の七つの賜物を与える。私の教会を立てる為に、そして多くの霊魂を私の元に立ち戻させる為に、お前たちは堅振の秘跡を受けた。」「どのようにそれを行うか、それは全て、私の母に任せる。」

するとマリア様は私たちにこう仰います、「あぁ、我が子らよ、もしもあなた達が我が子イエズスの兵士になりたいならば、軍人になりたいならば、私の騎士になりなさい。なぜならば、回心の恵み、聖化の恵みは、全て私を通るからです。」「一体なぜカトリックの信仰を持っている人はそんなに少ないのでしょうか?私の子供たちは一体どこにいるのでしょうか?この私の子供たちは皆、失われています。私の事を母だと認める者たちでさえも、私に従う者はほんの僅かです。」「だから私には道具が必要です。その道具を通して、私の御恵みが行き渡る道具が必要です。この道具、この運河は、お恵みの運河は、私の騎士です、軍隊です。しかし彼らは死んだ冷たい道具ではなくて、生ける道具であって、騎士たちです。私の騎士たちはお恵みを私から受けて、他の霊魂たちに伝えなければなりません。」

これは単なるジェスチャーではなく仕草だけではなく、戦いです。この戦い、なぜ戦いかというと、悪魔は望んでいないからです。ですから道具は、悪魔との軍隊と直面しなければなりません。私たちはたった一人きりです。しかしマリア様が立って下さっています。マリア様がいる限り、悪魔の軍勢も何でもありません。

「あなたは私の道具でしかありません。しかし私が傍にいるので、どのような困難にも打ち勝つ事ができます。」マリア様が特別の奉献を皆さんから求めているのは、これが理由です。

「はい、お母さん。私は自分の身を道具として奉献する事を望みます。そしてたくさんの霊魂たちをお母さんの元に、子供として立ち戻らせたいと思っています。」

そこで既に騎士となっている皆さんは、このミサが終わった後に、私たちの奉献の祈りを更新します。そしてもしもまだ騎士となっていない方がいらっしゃれば、騎士となる事ができます。マリア様はこの自分の軍隊を創立する為に、創る為に、創立者を選び、それは聖マキシミリアノ・コルベでした。コルベ神父様はこの『無原罪の聖母の騎士会』という軍隊を創りました。そしてそれによって多くの霊魂をマリア様の元に戻そうと考えました。コルベ神父様のこの騎士会は非常に大切です。なぜかというと、特に日本でも働いたからです。日本で多くの数えきれないほどの霊魂を信仰へと立ち戻らせました。

私たちはこの巡礼で、マリア様の世界各地のご訪問やフィリピンでのミッションツアーについて考えました。そしてそのような時に、マリア様はなぜそうかというと、皆さんのような聖伝のカトリックの熱心な信者さんたちを見出すからです。そして皆さんの霊魂を使って、多くの偉大な業を働こうと思っています。どうぞこのチャレンジを挑戦を取って下さい。この異教の国、あるいは皆さんの祖国において、この多くの霊魂たちをマリア様に引き寄せる為に祈りを捧げて下さい、そして犠牲を捧げて下さい。

そこでこのミサの後に、眠っている騎士たちを起こす為にも更新式があります。私たちはマリア様の呼びかけに応えようとします。最高の母親に何かをしようと思っています。そして今日初めて騎士になろうとする方は、まずこの事を知って下さい、「もしも私たちがマリア様の為に、マリア様と共にするならば、自分の霊魂の為にとっては2倍3倍の良い事をする」事になります。マリア様の秋田での涙を考えて下さい、泣きながら「子よ、私はあなたが必要です」と言います。「失われた見失ってしまった子供たちを救う為に、あなたが必要です。あなたの祈りが必要です。」

では騎士として、もしなったら何をしなければならないでしょうか?まず不思議のメダイを受け取って下さい、毎日身に付けて下さい。1日に1回ちょっとした祈りを唱えて下さい。それはマリア様ご自身が教えて下さったお祈りで、皆さんの知っている祈りです、『ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメーソン会員のため、また御身に委ねられしすべての人々のために祈り給え』これです。これだけをしなければなりません。もちろんマリア様はそれよりももっと多くの事をしてもらいたいと思っていますけれども、でも最低限はそれだけです。

それら全ては、皆さんの熱心な熱烈な心と、皆さんの寛大さにかかっています。ではミサを続けていきましょう。特にこの巡礼で受けた多くのお恵みを感謝する為に、捧げていきましょう。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会日本の2018年7月の予定: SSPX Japan Schedule for July 2018

2018年06月27日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会日本の7月の予定です。

今年の7月11日から21日まで、聖ピオ十世会の第4回総会が開かれます。

この総会の準備のために、聖ピオ十世会では7月2日から10日までノベナの祈りが捧げられます。ノベナの祈りは、九日間次の祈りをします。
1)Veni creator を歌う
2)Sub tuum praesidium(「聖母の御保護に寄りすがり奉る」)の祈りを唱える。

2018年7月6日(初金)には、総会の準備のために大小斎を捧げます。

【大阪】
7月6日(初金)【聖ピオ十世会では大小斎】
聖霊降臨後の平日(4級) 
午後5時半 ロザリオ及び告解
午後6時 ミサ聖祭【イエズスの聖心の随意ミサ】

7月7日(初土)
証聖者司教聖チリロとメトディオ(3級祝日)白
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭 【聖母の汚れなき御心の随意ミサ】

7月13日(金) ←日付が変更されました
聖霊降臨後の平日(4級)
午後5時半 ロザリオ及び告解
午後6時 ミサ聖祭【ファチマの聖母を記念して、聖母の汚れなき御心の随意ミサ】

7月14日(土)←日付が変更されました
教会博士証聖者司教聖ボナヴェントゥーラ(3級祝日)白
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭

7月15日(主)
聖霊降臨後第8主日(2級)緑
午後5時半 ロザリオ及び告解
午後6時 ミサ聖祭

7月16日(月)
聖霊降臨後の平日  
午前8時 ミサ聖祭 ←時間が変更されました【カルメル山の童貞聖母マリアのミサ】

【東京】
7月8日(主)
聖霊降臨後第7主日(2級)緑
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭

午後の公教要理は「夏休み」として、「Dr.リガヤ・アコスタ 講演会〜「いのち」を選ぶために:今、呼びかけられています」に参加することを予定しております。
日時:2018年7月8日(日)午後2時半 
場所:岐部ホール 404号室※聖イグナチオ教会となり

7月9日(月)
聖霊降臨後の平日(4級)緑
午前7時 ミサ聖祭

7月15日(主)←日付が変更されました
聖霊降臨後第8主日(2級)緑
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭
ミサ聖祭の後、聖体降福式が特に pro-life のために行います。マーチ・フォー・ライフの前日だからです。
午後2時  堅振の準備のための公教要理
午後4時  主日の晩課


7月16日(月)←日付が変更されました
聖霊降臨後の平日  カルメル山の童貞聖母マリアのミサ
午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半 ミサ聖祭【カルメル山の童貞聖母マリアの記念】

午後2時  生命保護のための講話会
午後3時頃 マーチフォーライフに向けて出発
午後4時  マーチフォーライフ(築地カトリック教会に集合)



7月11日から21日まで、聖ピオ十世会の第4回総会が開かれます: 総会の準備のため聖ピオ十世会では7月2日から10日までノベナの祈り

2018年06月27日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の7月11日から21日まで、聖ピオ十世会の第4回総会が開かれます。

この総会の準備のために、聖ピオ十世会では7月2日から10日までノベナの祈りが捧げられます。ノベナの祈りは、九日間次の祈りをします。
1)Veni creator を歌う
2)Sub tuum praesidium(「聖母の御保護に寄りすがり奉る」)の祈りを唱える。

2018年7月6日(初金)には、総会の準備のために大小斎を捧げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

イエズス・キリストの新約の司祭職への愛を考え、司祭職と洗者聖ヨハネの関係について考察する

2018年06月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 6月24日は、洗者聖ヨハネの祝日でした。イエズス・キリストの新約の司祭職、カトリック司祭職と洗者聖ヨハネの関係について考察することを提案します。

 イエズス・キリストは、光よりの光、天主よりの天主、真の天主よりの真の天主、創られずして生まれ、天主聖父と同一の本性をもつ天主です。天主の御言葉が人となって、天主の聖母、終生童貞なる聖マリアの御胎内において、人間としてその聖心の鼓動を打ち始めたとき、天主聖父への愛に燃え立っていました。ご自分の汚れなき聖母への愛に燃え焦がれていました。

 イエズス・キリストは、人となったその直後、聖母マリアに特別の望みを起こさせました。聖母をして、イエズスを御胎内に秘めつつ、急いで司祭ザカリアの家へと旅立たせました。イエズスは、まだ母の胎内にいた洗者聖ヨハネに、純潔さと崇高な聖性を与えようと望まれたのです。イエズスは、ご自分の司祭職たちに対する愛の故に、洗者聖ヨハネへのもとへとまず駆けつけました、マリア様とご一緒に。

 イエズスこそが唯一の最高の司祭、メルキセデクの司祭職による永遠の司祭です。その他の司祭たちは、最高司祭であるイエズスから、権能と尊厳を受けているに過ぎません。イエズスの聖心はご自分の司祭たちを愛して鼓動しています。

 両者ともアアロンの家系である、ザカリアとエリザベトの子供である聖ヨハネは、旧約の司祭職と新約の司祭職とを結びつけるものでした。たしかに洗者聖ヨハネは父親の職業を継ぎませんでした。したがって旧約の司祭ではありませんでした。エルサレムの神殿に入って香を焚いたこともなければ、犠牲を捧げたこともありません。また洗者聖ヨハネは最後の晩餐にも同席せず、新約の司祭達のように聖変化をさせることもしませんでした。したがって新約の司祭でもありませんでした。洗者聖ヨハネは、同時に旧約の司祭職と新約の司祭職とを持ち、両者を重ね合わせるものでした。

 しかし、洗者の神殿は荒野でした。この世俗から切り離されて、天空をドームとする荒野という神殿で、礼拝と愛と祈りの香を焚きました。自分を犠牲として厳しい苦行の生活を捧げました。

 カトリック司祭がミサの時に言うように、洗者聖ヨハネもイエズス・キリストを指し示して言います。「天主の子羊を見よ!Ecce Agnus Dei!」と。聖ヨハネは改悛せよと呼びかけ、イエズス・キリストを指し示して福音を告げます。自分の純潔と霊魂たちの救いの熱烈な望みをもって、新約の司祭たちの模範となっています。

 イエズスは、ご自分の司祭たちへの燃える愛を持って、聖母の胎内に宿るや否や、洗者のもとに行き、彼を聖化し、潔め、聖寵の激流を与えました。

 後にイエズスは、ヨルダン川にいる洗者のもとに行き、彼から洗礼を受けることでしょう。イエズスは洗者聖ヨハネにご自分を全く委ねるのです。

 これこそ、イエズスが新約の司祭たちの手にご自分の体を委ねきるということの準備でなくて何でしょうか。


 イエズスは、洗者聖ヨハネにおいて、ご自分の聖心の最初の愛を、ファースト・ラブを与えました。イエズスの聖心は、まずご自分の司祭たちのために鼓動を打っていたのです!司祭にまず最高の贈り物をしました。最初の奇跡を行いました。司祭たちは、どれほどイエズスの聖心を愛し返さなければならないことでしょうか!


 聖母の汚れなき御心よ、カトリック司祭たちを照らし、守り給え!



天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2018年5月5日(初土) 秋田巡礼―シュテーリン神父様お説教 「教皇聖ピオ五世はマリア様の教皇」

2018年06月26日 | お説教・霊的講話
2018年5月5日(初土)秋田巡礼 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 教皇聖ピオ五世の祝日
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は偉大な聖ピオ五世教皇様の祝日です。この教皇様は、この聖伝のミサを列聖しました。この教皇様は全カトリック世界に、「天主様から来た非常に貴重な宝石、真珠が与えられた。その宝物こそ、この聖伝のいつも永遠のミサである」と宣言しました。

このミサの本質部分は、使徒の時代から由来するものです。このミサこそ、イエズス・キリストがなさったその神秘の深みを、私たちに与えて下さいます。すなわち「十字架の神秘」の深みです。

聖ピオ五世教皇様はトリエント公会議と共に、プロテスタントの誤りについて立ち上がった人です。このプロテスタントの異端は、カトリックをして非常に明確にドグマを発表するように動かしました。そしてその公会議においては、教会の神秘の、信仰の偉大さを深くはっきりと明確に宣言しました。特に秘跡の素晴らしさ、カトリック信仰全ての素晴らしさを表明しました。

聖ピオ五世教皇様は、イスラムによるヨーロッパの侵略を防ぐ為の非常に重要な道具となりました。そしてカトリック世界を守りました。聖ピオ五世教皇様の非常に巨大な努力のおかげで、カトリックの君主たちが一致して軍隊を作り、そしてイスラムの戦いにおいて勝利を収めました。特にレパントの海戦において大勝利を収めました。

同時に、霊的な偉大な軍隊をも結成させて、霊的な戦いにおいて異端と戦いました。つまりロザリオの事です。教会の敵達と戦う為にカトリックたちを一致させるその武器、その軍隊というのは、ロザリオの事です。

聖ピオ五世教皇様はしたがって、マリア様の教皇様でした。プロテスタントによって宗教改革が行われて、ぐちゃぐちゃになってしまったカトリック世界を守る為には、人間の力ではとても対抗できないという事をよく知っていました。その為に聖ピオ五世教皇様は、「天からの助けが必要だ。特にマリア様の助けが必要だ。ロザリオの元后の助けが必要だ」と確信していました。

そこで聖ピオ五世の時代と同じく、現代、キリスト教のカトリック世界においては、立派な教皇様、あるいは司教様が必要です。そのような司教様や教皇様たちが立ち上がって、今、「私たちの人間の力ではどうしても駄目だ。マリア様が必要だ。マリア様からの天の助けが必要だ」と、私たちを指導して下さる方が必要です。

聖ピオ十世教皇様が天において私たちの為にお祈りして下さっている事でしょう。「どうぞ教皇様、天にいらっしゃる全ての聖なる教皇様たちにお願いして下さい。そしてこの地上に教皇様のような、聖ピオ十世のような教皇様をこの地上に送って下さい。」今、そのような聖なる教皇様こそ、教会が必要とする方です。

「マリア様が私たちにとってどうしても必要な方だ」という事を教える為に、マリア様はファチマで現れました。シスタールチアははっきりと言いました、「天主様は現代において、私たちに最後のたった2つの手段を与えている。その最後の手段とは、『ロザリオに対する信心』と『聖母の汚れなき御心に対する信心』この2つです。」シスタールチアによると、「これは最後の手段である。したがってこの他にはもう無い」という事です。

聖ピオ五世教皇様はロザリオの信心のチャンピオンでした。願わくは、ピオ十二世教皇様が汚れなき御心に対する信心のチャンピオンとなって下さるのであればよかったのですけれども、それはできませんでした。しかしこのピオ十二世教皇様には私たちは感謝しなければなりません。なぜかというと、今この捧げている汚れなき御心のミサは、ピオ十二世教皇様が制定したものだからです。そしてこの全世界を汚れなき御心に奉献されたのも、ピオ十二世です。

残念ながら、ピオ十二世教皇様の統治の終わり頃には、この素晴らしい汚れなき御心に対する信心が完成させられずに、そのまま無とされてしまいました。そこで将来、汚れなき御心の教皇様が私たちに与えられる事を期待しています、希望しています。マリア様が望んだ通りの要求を満たす教皇様を待っています。マリア様は、「そのような教皇様がやって来る、与えられる」と約束しました。

そのような約束があるからといって、私たちはそのまま安楽に座って何もせずに、指を加えて待っているだけではだめです。たくさんの事をしなければなりません。イエズス様は言いました、「求めよ、さらば与えられん。」したがって、この特別な教皇様を求めなければなりません。

なぜ汚れなき御心の教皇様がそれほど必要なのでしょうか?なぜかというと、教皇様だけが、全世界に信心を確立させる事ができるからです。なぜなら教皇様だけが、マリア様の要求された事を果たす事ができるからです。したがってこの教皇様が到来する事を私たちは準備する事ができますし、準備しなければなりません。

秋田への巡礼、また全世界の色々なマリア様の巡礼地の巡礼には、1つの、たった1つの目的があります。それは「マリア様の汚れなき御心の凱旋の為」という事です。マリア様の汚れなき御心の凱旋というのはもう申し上げましたが、「これこそが平和」という事です。

もしもマリア様が私たちの祖国の元后であるという事を望むならば、そしてマリア様の御恵みが教会に染み通り渡らせる事を望むならば、まず私たちがマリア様の御心に、私たち自身を奉献しなければなりません。そして私たちの心に、マリア様が凱旋しなければなりません。言葉を言い換えると、私たちこそマリア様の汚れなき御心に対する真の信心を持っていなければなりません。

マリア様に対する真の信心は2つの部分があります。「外的な部分」と「内的な部分」です。この事については、ファチマ100周年を記念して、1年かけて黙想してきました。

また、汚れなき御心に対する信心を実践する人々に対してなされた約束の、非常に大きな事であるという事を黙想してきました。その実践する霊魂たちは、「天主にとって極めて貴重なものとなる」と約束されました。

私たちは知っています、私たちがどれほどつまらない下らない罪人であるか、という事を。しかしこのようなものでさえも、天主にとって非常に大切なものとなるとしたら、これは汚れなき御心に対する信心をするからです。という事は、この信心がどれほど素晴らしい価値を持っているか、という事が分かります。

マリア様は言います、「この信心を実践する者には、私は救いを約束する」と。マリア様はその条件を、その事をどのように約束するかを述べています、「私は個人的に、私自身が、その死を遂げる霊魂の元にやって来て、必要な全ての恵みを与えましょう。」

またマリア様は別のところで、「この汚れなき御心に対する信心をする家庭には、家族には、特別の祝福を与える」と仰っています。

私たちの人生の終わり、その臨終の時こそが最も恐るべき、そして難しい時です。教会の教えも、また諸聖人の教えも同じです、「私たちの臨終の時こそが、最高の戦いの時である」と。この霊魂の死の時に当たります。つまり、これは悪魔にとって最後のチャンスなので、全ての力を総動員して、私たちの霊魂を地獄に引きずり込もうとするからです。この時こそ最悪の時です。なぜかというと、私たちはたった一人きりで戦わなければならないからです。

しかし、汚れなき御心の信心をしているならば、一人ではありません。マリア様がいらっしゃいます。

では、汚れなき御心の真の信心の「外的な部分」とは何でしょうか?

まず外的なものの1つには、「初土の信心を5回続けてする」という事があります。その5回の初土の間に何をすべきか、という事を詳しくマリア様は教えてくれました。すなわち告解をする事、聖体拝領をする事、そしてロザリオを5連唱える事、そして15分黙想する事です。その4つ共を「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向をもってする、という事です。「告解については、その日のみならず、その前後にする事ができる」と言っています。

もう1つ外的な信心には、「マリア様に対する奉献」があります。その私たちのお祈りの本には、多くの美しい奉献のお祈りがあります。マリア様は、「私たちが全くマリア様に属する」という事を望んでいます。これが奉献です。

またマリア様が望んでいる事は、「ロザリオを毎日唱える事」です。

第4の外的な信心は、「多くの射祷を、特にファチマで教えられた射祷を唱える事」です。ファチマでは天使が子供達に、どうやってお祈りするかを教えてくれました。私たちはそのお祈りをしています。シスタールチアもそしてジャシンタも、日常の間いつも頻繁に小さな、マリア様の汚れなき御心に対する呼祷を、あるいは射祷を唱えるという事を勧めています、言っています。

私たちはジャシンタが一番好きだった祈りを知っています。毎日何百回も唱えていたお祈りです、「甘美なるマリア様の御心よ、私の救いとなって下さい。」

ファチマに関する本を読むと、マリア様ご自身が子供達に、そういうお祈りを子供達に教えていたという事が分かります。

特に教会がそれをするようにと命令したのは制裁を加えたのは、「あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え…」という一連毎の後に唱えるロザリオの祈りです。

人間は肉体と霊魂で作られているので、外的のみならず内的な部分も信心がなければなりません。この「内的な部分」は、この信心の霊魂にあたるもので、非常に重要な部分です。

これは何かというと、「マリア様とは一体私たちにとってどなたであるのか?そして汚れなき御心とは私たちにとって何であるのか?」という事を知る事です。マリア様の汚れなき御心というのは、マリア様の全てにおいて、一番内的で、一番大切な部分です。また天使たちは天国で、「おぉインマクラータよ、あなたは一体どなたですか?」と言っています。

これは何を意味するかというと、マリア様がご自分の汚れなき御心の奥深くに入る事を招いている、という、そしてマリア様と緊密な関係を結ぶという事を招いている、という事を意味します。

もしも私たちがきれいなマリア様の御影、あるいはきれいな御像を持っていて飾っていて、そしてその前でお祈りしたとしても、それでは不十分です。マリア様について黙想しなければなりません。そしてマリア様にお願いして、マリア様の御心を開いて、マリア様の御心の神秘を私たちに教えて下さるように、見せて下さるように懇願しなければなりません。

「心」というのは、私たちの人柄、人格のその中心にあるものです。頭でも目でも手でも足でもありません。誰かを愛している時に、「あぁ、私は足を込めて愛しています」とは言いません。「心を込めて愛しているよ」と言います。もしも2人が友情を結ぶとしたら、その2人が相互に与えるのはこの「心」です。この心というのは、全身に血を流している心臓という器官の事ではありません。心というのは霊的な現実の事です。私たち自身全ての事です。私たちの知性、私たちの意思、私たちの心、私たちの感情、私たちの感覚、全てを合わせたものが「心」です。

では、このマリア様の最も深い神秘の「御心」とは一体何なのでしょうか?

この御心というのはすなわち、巨大な愛の炎です。マリア様が持つ全ての最も美しい徳が集まって1つになったものです。私たちは1年中かけて、マリア様の被昇天、マリア様の汚れなき御孕り等々、色々な特権を讃美します。私たちがマリア様の汚れなき御心を讃美する時、そのマリア様の全ての特権と、全ての栄光と、全ての素晴らしさを1つにまとめて讃美します。

この御心には誰かがいっぱいに詰まっています。つまり聖霊がマリア様の御心の中に入って、そのマリア様の全てを占めています。聖霊というのはつまり「天主の愛」の事です。この天主の愛である聖霊が、天主が与える事ができる全ての愛を、マリア様に与えています。すなわち「マリア様の汚れなき御心」というのは、ほぼ「聖霊の目に見える愛の現存である」と言う事ができます。

したがってマリア様の持っている力というのは、人間の力ではありません、天主からの聖霊からの持てる全能の力です。全くマリア様に所属している、このマリア様のこの汚れなき御心、天主の聖霊が詰まっているこの御心を、マリア様は皆さんに最高のプレゼントとして、私たちに下さいます。

汚れなき御心への信心というのはつまり、一言で言うと、そのような愛に詰まった御心を私たちが受け入れる事です。つまり私たちがマリア様の導かれるままにする事です。マリア様の心の動きと、私たちの心を全く一致させる事です、1つにする事です。マリア様が思う事を私たちも思い、マリア様が感じる事を私たちも感じて、マリア様が望む事を私たちも望む事です。マリア様の御心は私たちの心に愛の火を燃え立たせてくれるので、いつも「マリア様の御心の御旨を果たしたい、御旨に従いたい」と思わせます。

この信心をする霊魂たちに、マリア様は極めて素早く約束を果たされます。このミサで皆さんがこの信心を本当に実践するようになさって下さい。この今日、講話の中で、「マリア様の御心を通って、イエズス様の至聖なる聖心に直行する」という事を見ます。この司祭の祭服を見て下さい、この後ろにはマリア様の汚れなき御心があります。皆さんはマリア様の汚れなき御心に、皆さんの心を与えて下さい。するとマリア様はその皆さんの心をイエズス様の聖心に与えます。すると私たちは、その為に秋田にやって来たその目的のものを得る事ができるでしょう、つまり「心の平安」です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖なるロザリオの黙想【苦しみの玄義】-2018年5月5日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

2018年06月25日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義黙想(2018年5月5日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父



苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

秋田のマリア様は、私たちを毎日待っています。マリア様は私たちと共にオリーブの山に行きたいと待っています。私たちがいつもイエズス様の御受難に参与する事ができるように。毎日、秋田では、マリア様の涙がイエズス様といつも一緒にいております。マリア様は私たちの心が、地上の事から悲しみから離脱する事を求めています。毎日忠実に、イエズス様の御受難を黙想する事ができる御恵みを乞い求めましょう。



苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

イエズス様が受けたこの恐るべき拷問を、私たちも受けて苦しまなければなりません。私たちもこの負債を支払わなければなりません。私たちの負債は無限なので、それを支払いきる事はできません。毎日、毎瞬間、私たちの主が、私たちの肩から重い負債を取り除こうとしているので、感謝しなければなりません。私たちの心に秩序を戻し、その為に払いました。私たちが罪を犯し、イエズス様が支払って下さいます。これこそが私たちの堕落した本性、堕ちた本性をまた回復して下さる方法です。

天主の前で罪は存在する事ができません。聖ヨハネによると、「天主は光であって、その中に闇が無い」からです。したがって、罪の結果は、永遠の破滅です。永遠の破滅とは、天主から離れる事です。イエズス様は今、私の罪を全て支払って下さいます。イエズス様のおかげで天主の元に立ち戻る事ができます。マリア様を通して、イエズス様のこのはかりしれない愛の深さを理解する恵みを乞い求めましょう。



苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

イエズス様は全ての支払いを払ったにもかかわらず、マリア様は私たちが、イエズス様の御受難に参与をする事を招いています。なぜかというと、もしも誰かを愛するならば、その愛する方の苦しみに無関心でいる事はできないからです。イエズス様が私の為に苦しめば苦しむほど、無限に苦しむほど、私の心に同情と、共に苦しむ心を起こさせます。ですから、マリア様の招きに寛大に応える恵みを乞い求めましょう。

秋田ではマリア様は、両手を広く開いて私たちを招いています。マリア様の御心によってマリア様の目によって、どれほどイエズス様は私の為に苦しんだかを見て下さい。それは私にとって大きな利益になります。イエズス様がどれほど私の為に苦しんだかを知れば知るほど、私はますます罪と誘惑から解放されます。



苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

マリア様の汚れなき御心の中に深く入りましょう。私たちのつまらない罪に汚れた心を、マリア様の汚れなき御心の中に入れさせてもらいます。そしてこのマリア様の心を通して、イエズス様をお慰めしましょう。誰もイエズス様を打ち捨てて、見放してしまっているにもかかわらず、イエズス様こそ王の王であるにもかかわらず、誰もその事を認めようとしません。栄光の王冠の代わりに、茨の冠を受けます。そしてイエズス様は王は、十字架を担われます。

この世の罪の値を支払う為に、このイエズス様を望まない人々の為に、私たちはベロニカの役割を果たしましょう。私たちは何も持っていませんし、私たちは何者でもありません。少なくとも私たちの善意、小さな善意をもって、私たちの心の望みをもって、「イエズス様、私の小さないけにえと私の実りを受け取って下さい。私の祈りも、犠牲も、本当に僅かですけれども、マリア様と一致してイエズス様を慰めたいと思っています。どうぞイエズス様、私の心に平和を与えて、私の心の中に入って来て下さい。御身の御旨を果たしたい、と私の心は思っています。」



苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

ローマのバチカンには、十字架の上にはイエズス様の上にはこう書かれています、「十字架が立っていない所では、全世界は倒れてしまう。」

マリア様が立っているこの地球は、この世界です。しかしこの地球は、十字架なしにはそのまま留まる事ができません。地球がグルグル回転しているように、この世もグルグル変化します。人は生まれて死んでいきます。人々は変わります。そしてますます悪くなっていきます。この世は傲慢と、罪と、腐敗によって、ますます自己破壊をしています。この世はすぐ終わってしまうでしょう。しかしこの世に住んでいる人々の霊魂を、イエズス様とマリア様は永遠に救おうとしています。

この変わる世の中で、変わらないものが1つだけあります。1つだけ変わらないものがあります。1つだけ安全なものがあります。はっきりとした幸せに向かう道があります。それが「十字架の道」です。イエズス様が付けられたその十字架です。その下には、悲しみに満ちたマリア様が立っておられます。

ですからこの地上にいる間、私たちは必ずマリア様と十字架に留まらなければなりません。秋田のマリア様は、単純でありながら威厳があります。マリア様のこの御像には恐れがありません。変化もありません。いつも同じです。平和の元后です。マリア様の元に来る人々に、マリア様は必ず全てに平和を与えます。この無秩序の世に秩序を与えます、調和を与えます。美を、確実性を確固としたものを、永遠を与えます。

秋田巡礼-霊的講話【7】-2018年5月5日シュテーリン神父様「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」

2018年06月24日 | お説教・霊的講話
2018年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【7】
「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」

同時通訳:小野田圭志神父


「イエズス様とマリア様の聖心が一致している」

この神秘についてたくさんの事があります。しかし時間がもうあまりないので限られているので、その要点だけを申し上げます。拷問の時間がもう限られてしまっています。

では、聖ヨハネ・ユードについての話をしましょう。聖ヨハネ・ユードは初めて、イエズス様の至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心の2つについて、深い神秘を理解した方でした。まず素晴らしい感嘆すべき、マリア様の御心について本を書きました。聖ヨハネ・ユードは、マリア様の汚れなき御心と、イエズス様の至聖なる聖心のミサや典礼を最初に作った人です。

ヨハネ・ユードがどうやってマリア様の聖なる御心を理解したか、という事は非常に興味深いです。まず肉体的な臓器としての心臓について考察します。しかしこの心臓というのは、目に見えるしるしでしかありません。この中に霊的な心があります。この霊的な心の中に、マリア様の聖徳、あるいは特権が全て詰まっています。またマリア様との全く緊密なパーソナリティーが、その人柄が入っています。特にマリア様の燃えるような、周りに伝える愛があります。

更に、天主様の聖心がマリア様の御心に入っているのです。天主の玄義、天主の神秘が、永遠の天主の神秘がマリア様の中に詰まっているという事です。これが先ほどの講話の中でお話の中で、「聖霊がマリア様の心を全て所有している」という事の意味なのです。

天主御子がマリア様の御心を形成する形造る喜びをもって、そしてマリア様はそのお返しに、御子の人間としての聖心を形造ったという事です。「この2つの聖心はあまりにも一致して分かち難く一致しているので、1つのようにしか見えない。」聖ピオ十世会のエンブレムというのでしょうか、紋章を知っていますか?あるいは無原罪の聖母の騎士の。2つの聖心が1つに重なっています。



この2つが全く1つになっているという事を芸術的に表現するのは非常に難しいので、こうなっています。

「マリア様とイエズス様を離してはいけない。」ヨハネ・ユードによると、「私たちはいつもこの2つの事を考えていなければならない。マリア様とイエズス様の聖心は全く一致しているので、イエズス様を見る者はマリア様を見る。イエズス様を愛する者はマリア様を愛する。イエズス様とマリア様は、私たちの受ける祝福の唯一の源だ。私たちのする行動、私たちは何をするにも、この2つの一致した聖心を讃美する為になさなければならない。」

そこで聖ヨハネ・ユードは、「この2つの聖心は、1つの心だ」と言います。聖ヨハネ・ユードは、イエズス様とマリア様の聖心、と単数で言って、イエズス様とマリア様の聖心「たち」と複数では言わないのです。これは何を意味するかというと、人間の文法とか言葉が表明する事ができない深い神秘を表しています。「天主は2つの聖心をあまりにもぴったりとくっつけたので、これほどぴったりとしている結合はあり得ない。これよりも更に深い結合はあり得ない」と。



マリア様の生活とは、人生とは何でしょうか?イエズス様の人生でした。イエズス様の人生は全てマリア様の為でした。マリア様も全てイエズス様の為でした。マリア様にイエズス様が、「汝の子、ここにあり」と言った時に、マリア様を通して私たち全てを見ています。ですから聖ヨハネ・ユードによれば、私たちはマリア様を通してイエズス様を誉め讃えて、イエズス様を通してマリア様を誉め讃えるべきなのです。聖ヨハネ・ユードによると、「マリア様においてイエズス様を礼拝し、讃美しなければならない。」

「このようにしてマリア様は崇敬を受ける事を望んでいる。なぜかというと、マリア様ご自身には全く何でもないから。でもマリア様の御子であるイエズス様は、マリア様の全てであるから。マリア様の力、マリア様の偉大さ、マリア様の特権全ては、イエズス様にあるから。イエズス様はマリア様の存在理由、マリア様がここに存在している理由であるから。マリア様がここにいらっしゃるのは、イエズス様を与える為にいらっしゃる。イエズス様はマリア様の中にいらっしゃるのみならず、イエズス様御自身がマリア様の御心である。」



更にこのような話は続きます。そこでその聖ヨハネ・ユードと一緒に黙想すると、マリア様の御心の深さ、その偉大さ、そのイエズス様との一致をますます理解します。

プロテスタントの人は私たちに、「マリア様の事をあまりにもオーバーに話しすぎる」と非難します。でもよくその人たちが理解していないのは、カトリックの教えによれば、「マリア様に行くという事こそが、イエズス様に行く為の最高の道である」という事です。という事は、プロテスタントの牧師が言うには、「もしも私たちがマリア様を通さずに行こうとする事は、実は本当のイエズス様ではなくて、イエズス様の漫画に行くようなものだ。なぜかというと、私の頭に描くイエズス様に行ったのであって、私の頭が考えた聖書の解釈によるイエズス様を描いたのであって、私のイエズス様に関する私の考えが表れたのであって、しかしマリア様の御心に行くというのは、マリア様のご覧になるイエズス様なのであって、本物のイエズス様に行く事である、という事が分った。」

ところで、聖ヨハネ・ユードは第3の側面を話しています。これは本当に驚くものです。まずマリア様を通して、本物のイエズス様を知る事ができると分かりました。もう1つは、「イエズス様を通して、マリア様に行く事ができる」という事です。私たちのちっぽけな利己主義的な愛に基づいて、マリア様を知り、愛するのではなくて、イエズス様の寛大な大きな愛をもって、イエズス様の心をもって、マリア様を愛する、知る、という事です。

これはイエズス様の命令で法によります、「私は、あなたたちに模範を与えた。」イエズス様の徳を真似なければなりません。イエズス様の御謙遜、イエズス様の御忍耐、イエズス様のマリア様に対する、御母に対する愛を真似なければなりません。

聖ヨハネ・ユードは言います、「イエズス様は全く完璧に、マリア様をお愛しになった。マリア様が今まで受けた中で、最高の名誉を受けた。イエズス様は御自身を、マリア様を愛する息子として子供として捧げた。イエズス様はマリア様に全く忠実であって、奉献されていた。」

ですから、マリア様の御心をよく知る為には、イエズス様の聖心に行かなければなりません。ですからこうお祈りしましょう、「おぉ、イエズス様、御身の聖心を私に与えて下さい。御身の聖心をもって、御身の御母マリア様を愛する事ができますように。」「あぁマリア様、御身の汚れなき御心を私に与えて下さい。その汚れなき御心によって、御子イエズスを愛する事ができますように。」皆さん望みの通りやって下さい。皆さんの汚いちっぽけな心を取って下さい、本当にろくでもない、もう汚らわしい心ですけれども。皆さんの心はメル・ギブソンの勇敢な素晴らしい心ではないかもしれません。しかしこのみすぼらしい心ですけれども、マリア様に対する少しの愛は残っています。まずこの小さな心を、汚れなき御心に捧げて下さい。

これが奉献です。初土曜の奉献です。汚れなき御心への信心です。そしてマリア様の汚れなき御心をご覧になりつつ、私たちの心をそれに合わせて形造ります。そしてマリア様に、「マリア様のお望みの通りに、私の心を使って下さい」と言って下さい。するとマリア様は皆さんの小さな心を取って、イエズス様の聖心に捧げます。ちっぽけな心ですけれども、マリア様から受けたものですから、イエズス様は本当に喜んでこの贈り物を受け取ります。

なぜ本当に喜んで受けるのでしょうか?罪にまみれた自分勝手の心を受けるのが、イエズス様にとって喜びですか?半分腐ったようなりんごを、虫が食い散らしたようなりんごを受けるのは、イエズス様にとって名誉でしょうか?

「主よ、我が手の労働の実りを御身に捧げ奉る。」「私のこの大地の実りと、この労働の実りを御身に捧げ奉る。」「人間の尊厳を御身に捧げる。」そのような傲慢な態度は、イエズス様は愛する事ができません。

でもマリア様を通して捧げるとどうでしょうか?マリア様のたくさん美しい果物のたくさんの中に、私たちの心が1つ入っています。何百万もの美しい花々が咲き乱れています。私たちの汚らしいリンゴですけれども、マリア様のきれいな果実と一緒になると、その汚いのが取れてしまってきれいになります。そしてマリア様はイエズス様の前に行くと、特にご自分の御心を捧げます。無限の聖徳と、美しい花々と果実の詰まったものを、イエズス様に捧げます。そのたくさんの捧げ物の中に、皆さん私たちの小っちゃな腐ったようなりんごがあります。私たちのちっぽけな心も、マリア様のたくさんの贈り物と共に受け取ります。全て喜んで。

ではイエズス様はこれを何をするのでしょうか?まず私たちのこの小さな憐れな心を見て、弱々しい、もうどうでもいいような心を見ます。「あぁ、お前は母親が必要だろう。」「お前には力強い女王様が必要だろう。」「お前は軍人なのか。それなら将軍が必要だろう。」するとイエズス様は私たちの心を、御自分の聖心の中に入れます。そして御自分の聖心と一緒に、マリア様に返します。これが初金曜日です。至聖なるイエズスの聖心です。それが6月の信心です。

幼きイエズスの聖テレジアによると、「幼きイエズス様の小さなおもちゃのようになって下さい。」

幼きイエズス様は、お母様マリア様と一緒にこう遊んでおられます。小さなボールをイエズス様はマリア様に投げて、マリア様はイエズス様に投げて、このボールというのは私たちの心です。ところでイエズス様がマリア様にボールを与える時に、マリア様がイエズス様にボールを与える時に、この動くたびにこのボールが大きくなって、心もますます聖化されていきます。ますます浄められていきます。強くなっていきます。高貴になっていきます。そして勇敢な心になっていきます。これが聖化の簡単なやり方です。

たくさん学ぶ事があります。初金の信心も初土の信心も私たちもちゃんと覚えています。しかしよく考えると、「イエズス様とマリア様は私たちに与えようとしていた、という事が実はよく分かっていなかった」という事に気が付きます。

では、もしも私たちが本当に汚れなき御心に対する信心を実践しようとするならば、イエズス様の聖心に行って下さい。聖心と共に、このマリア様の汚れなき御心の信心を行って下さい。汚れなき御心の信心の重要な要素の1つは、罪の償いの為の御聖体拝領です。御聖体拝領という事は、イエズス様と一致する事です。

では初金で、もしもイエズス様の聖心に対する信心を良くやりたいと思うならば、汚れなき御心と一緒にやって下さい。例えば至聖なる聖心に奉献するとします。奉献の祈りを唱えます。でもマリア様の汚れなき御心をもってこの奉献の祈りを唱えて下さい。イエズスの聖心の連祷、美しい連祷があります。マリア様の汚れなき御心が私の唇を使って、これを唱える事ができるようにお願いして下さい。私が1人で「イエズスの至聖なる聖心よ」と言うよりは、マリア様が、「あぁ、我が御子、我が子よ、イエズスの至聖なる聖心よ」と唱えた方がどれほど力があるでしょうか。

ですから来たる6月のイエズスの至聖なる聖心の聖なる月には、マリア様の汚れなき御心をもって、それを通してイエズス様に行って下さい。それこそが、私たちが今までした事がなかったような、最高の聖心の月になります。


「聖時間」という特別な聖心に対する信心があります。この今晩の聖体礼拝があります。マリア様の汚れなき御心の中に、これをもってイエズス様の御聖体を礼拝して下さい。時々この事を思い出して下さい、「マリア様、私は1人で御聖体礼拝はしたくありません。マリア様、一緒に来て下さい。マリア様の御心が私の心を脈打って下さい。マリア様、マリア様の母のこの汚れなき御心の愛をもって、イエズス様の聖心をお愛し申し上げたいと思います。御身がイエズス様を信じたその信仰をもって、私も信じ奉りたいと思います。」

マリア様の汚れなき御心をもってする事によって、私たちの信仰生活が全く変わってしまいます。私たちが日常の義務に取りかかる時も、マリア様の汚れなき御心をもってなさって下さい。皆さんお好きなように、イエズス様の聖心にもマリア様の汚れなき御心にも好きな方に行って下さい。時々にはイエズス様の聖心に。そしてもちろん、「イエズスの聖心よ、至聖なる聖心よ」と言うのですけれども、その更にこれを縮めて、「イエズス様」これだけでも入っています、全て入っています。

では、「終末の時代におけるイエズスとマリアの使徒たち」とは一体誰の事でしょうか?この世の中、全く最悪の時代の世の中にも生きるにもかかわらず、いつもイエズス様とマリア様に忠実に仕える使徒たちとは誰でしょうか?

聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「イエズス様とマリア様の御名がその胸に刻まれている霊魂こそが、その使徒だ」と。

ではその為にはどうしたら良いでしょうか?聖マキシミリアノ・コルベは、「無原罪の聖母の騎士となる事である。」なぜかというと、そうする事によって、イエズス様とマリア様の現存が皆さんにおいて実現するからです。皆さんが働く時、旅行する時にも、あるいはショッピングをする時にも、私たちの心はイエズス様の聖心とマリア様の御心を行ったり来たりしています。

皆さん病気ですか?頭痛がありますか?「イエズス様、私の頭痛を御身の茨の冠の苦しみにお捧げ致します。聖心を取り巻くいばらの冠に一致させます。」「そしてこの私の頭痛をマリア様にも与えます。マリア様がそれを使って、イエズス様を使って慰めて下さいますように。マリア様、私の頭痛を御身の汚れなき御心に捧げます。御身がその十字架の元に佇んだ時のその悲しみと苦しみに一致させます。そしてどうぞ御身のとてつもない悲しみに、私のちょっとした下らないような頭痛も合わせてイエズス様を慰めて下さい。」

パレルモニアでもイエズス様の聖心はそう仰いました、そしてファチマでもマリア様はそう仰いました、「罪の償いをしなさい」と。「イエズス様とマリア様の聖心に背く、それを傷つける罪、この世の罪の償いをしなさい」と。

皆さんがこの社会生活をして、誰かとお話をする時に、ご自分一人でおしゃべりしないで下さい。もしも私たちがマリア様とイエズス様の聖心に一致して、その2つの間を行ったり来たりしているならば、皆さんの微笑みは皆さんの微笑みではなくなります。皆さんの微笑みの後ろにマリア様の微笑みが隠れています。すると皆さんの微笑みではなくてマリア様の微笑みに、他の友人、周りの人は惹かれてきます。そのようなマリア様の微笑みを、この世は私たちが考えているよりも更に必要としています。

どうぞこの外にあるチラシとかを取って、あるいは不思議のメダイを一緒に持って、どうぞお友達にあげて下さい、親切にあげて下さい。隣人や他のお友達に近寄って、どうぞ差し上げて下さい。山田太郎として皆さんの名前で近寄るのではありません、「聖伝のカトリックです」という事で近寄るのではありません、聖徳の模範として近寄るのではありません、それと皆さんたくさんお祈りしているから近付くのではありません。

つまり私の言いたい事は、「私のこの偉大な聖人のような俺がお前に教えてやるから、このそのちょっとしたパンフレット読んでごらん。分かるだろ、教えてやる。もしも議論をしたいなら始めなさい」と。「あぁ、神はいないだと?何だと!?第1の点、No!もう議論はありませんか?じゃあ終わり!」すると皆さんの話を聞いた人は、こう色々なパンチを受けてですね、「あぁ、あなた聖伝のカトリック、あなたは正しい。私は間違っている。あなたの勝ちだ。でも私は回心しない。」なぜかというと、私がすべき態度でしなかったからです。もしもターザンのようにこう自己満足の、こう「俺はすごい!」という態度で近付くならば、むしろ効果はありません。

私たちの強みというのは、「私たちの小さな心が、マリア様とイエズス様の聖心の間に行ったり来たりしている事」にあります。私は単なる道具にすぎません、ただ運河に過ぎません、その鉛筆に過ぎません。

全てはイエズス様とマリア様です。至聖なる聖心からマリア様を通して、あるいはマリア様の御心からイエズス様の聖心を通して、巨大な愛に満ちた聖心と1つに一致している聖心が私たちの前にあります。

そしてその特別大きなお恵みが、私たちの小っちゃな心の中に入るのです。そしてこのイエズス様とマリア様に満たされた光とお恵みが、私たちのちっぽけな心を通して隣人たちにもたらされます。

これが無原罪の聖母の騎士です。これが聖母の道具です。もしも私たちが自分の事だけでいっぱいであれば、何も与える事ができません。ファチマではマリア様は言いました、「イエズス様はあなたを使って、私の御心がこの世に知られる事を望んでいます。」

ですから「マリア様との一致」というアプローチをして下さい。この単純な簡単なマリア様の御像がなさるようになさって下さい。このマリア様の御像が家にあるという事を考えて下さい。あるいはイエズス様の聖心の御像がある。美しいお花があって、ろうそくも立てて飾って下さい。お友達がこの家を訪問する時に、あるいは家族の親戚がこの家を訪問する時に、このお友達たちは「あぁこの家には何台テレビがあるかな?どれほど大きいスクリーンがあるかな?」という事を思って来るかもしれません。「あぁ、私はこの家の中にそんなに花が飾ってあるのを見た事がありません。この御像も綺麗ですね。」おそらく訪問した人は感動すると思います。そしてこの皆さん、家族の皆さんのお友達を招待して、マリア様とイエズス様の御像をきれいに飾って、美味しい料理も出してあげて下さい。そして私ではなくて、イエズス様とマリア様がこの家の雰囲気であるようにして下さい。

皆さんのこの親切、あるいは皆さんの微笑み、あるいはイエズス様とマリア様の雰囲気、現存というものが、訪問者やお友達を回心させる事でしょう。

では皆さんのこの世における役割が分かりましたね?皆さんのキリスト教信者としての召命はこれです、「イエズス様とマリア様の一致した聖心の現存、この世における現存」それが皆さんです。

まず皆さんのたくさんのお祈り、「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救いたまえ。」イエズスの至聖なる聖心とマリア様の汚れなき御心、と言うのは長いので、これを「イエズス、マリア」と縮めて言います。皆さんがどこに行こうと、どこにいらっしゃろうとも、「イエズス、マリア、御身の御国が来たらん事を。」「御身が統治せん事を。」「御身が支配せん事を。」「御身が愛されん事を。」「御身が知らされん事を。」「御身がここにいらっしゃらん事を」と祈って下さい。「この教室に、」「この職場に、」「このスーパーマーケットに、」「このお店に、」「この事務所に、」「この道路に、」「このバスに、」「この飛行機に」

まず第1が祈りですが、第2が犠牲です。イエズス様の聖心とマリア様の御心がどのように私たちに与えられたのかを見て下さい。血を流していない聖心を見た事がありますか?あるいは槍で貫かれていないような汚れなき御心を見た事がありますか?イエズス様とマリア様は苦しみました。十字架という最も恐るべき拷問まで、イエズス様とマリア様は共に苦しみました。

皆さんがイエズス様とマリア様の聖心に捧げる事ができる、最も貴重で、最も大切なものは何か知っていますか?それは祈りではありません。皆さんのこのフィーリングとか愛の感情とかでもありません、「あぁ、イエズス様、愛してます…」と言ってこの空に飛んでしまっている夢を見ているかのようです。でもそのような時は頻繁にある事ではありません。この世が望まないような事、そして私たちにとって辛いような事を、イエズス様とマリア様に最も貴重なものとして捧げる事ができます。それは皆さんの苦しみと犠牲です。屈辱や困難など、辛い事です。皆さんを苦しめるような事、1日にそのような事が何回あるか数えてみて下さい。

まずそこで最初に申し上げた、「平和」という事について戻ってみます。普通は苦しい事があると、私たちはイライラして腹を立てます、怒ったりします。それからもう逃げようとします、避けようとします。頭痛がする時には、頭痛薬があって「もう頭痛が嫌だ」という、でもこの頭痛薬の為にアスピリンを10粒飲んだとしたら、お腹が痛くなります。でも1つの苦しみから逃れようとして、多くの別の苦しみを受ける事があります。しかしこれがイエズス様のなさった救いの御業の神秘は、私たちにとって最も悪いような事を、最善の良い事に変えてくれる事です。この世によって呪われたものが、愛の道具となる事です。

「愛してますよ。」「愛してます」と口で言うのはイエズス様に言うのは、あるいは互いに言うのは簡単です。こうやってこの愛を表明するのはもっと簡単です。お金はかかりません。でもこれが本物だとどうしたら分かるでしょうか?きれいな演説やお話でどうやって分かるでしょうか?私の隠れた望み、楽しみという事をどうやって分かるでしょうか?

例えば、男女が「本当にこの人が私の為に愛しているか」という事を見る為には、この人が自分の為に一生懸命働いている、あるいは時間を尽くしてくれる、というのを見て証拠になります。子供が親を愛しているというこの証拠は、口先だけで、「お父さん、愛してるよ」と言うだけではなくて、従順である事です。でも従順であるというのは本当に簡単な事ではありません。「遊びに行きたい」という時に、「お部屋のお掃除をしなさい。」「映画を見ようかな。」「宿題をしなさい。」でもこの子供はちゃんと言いつけの通りやっているので、「あぁ、親を愛しているのだ」という事が分かります。

イエズス様によれば、「本当の偉大な愛の証明というのは、愛する者の為に犠牲を払って、そして命さえも与える事である」と。

誰もがこう恐れています。「お元気ですか?」「神父様、年を取ってきました。去年はこの辺を走ったのですけれども、今年は足が痛くて、頭も痛くて、疲れてしまって、年を取ったんだなあと思います。」「2年前は本当に私は若々しくて美しい花のようでしたけれども、今は枯れてしぼんでいます。」将来は皆さん杖をついていらっしゃる事でしょう。車椅子です。そしてトマトはますますこうシワを寄せて、そしてますます私たちの顔は悲しそうな顔をするのでしょうか。

いや、そうではありません、その反対です。私は母に電話をする度にいつもこう聞きます、「お元気ですか?」「同じです、いつも同じだよ。」母は修道院の司祭の為に料理を作っています。3年前から手を上げる事ができなくなっています。ですから腕を上げる為に、もう1本の手を使って腕を上げます。でもそうすると手がとても痛いのだそうです。「あぁ、仕事辞めた方が良いんじゃないの?お母さん。」「でも何の為に?もしもお前の為に苦しまなかったら、どんな意味があるのだろう、私の人生に!お前は必要としているんじゃないの!?」

イエズス様とマリア様の聖心が私たちの霊魂の為にする事がこれです。この世は皆さんに、「あぁ、あなたたちは全く意味がない、人生に意味がない。」「もう役立たずだ」と言うでしょう。「あなたは年を取っているし、全くこの世の役にも立たずに邪魔者で、お荷物だ。」しかしその事実は反対です。ますます私たちは苦しみと犠牲を何百と捧げる事ができます。私たちがこの犠牲を、小さな心で犠牲を捧げれば、マリア様とイエズス様の聖心の道具となって行ったり来たりしながら、多くの霊魂を救う事ができます。皆さんを使って多くの霊魂を救う事ができます。

ですから具体的な使徒職の事について考えて下さい。イエズス様とマリア様の聖心の前に行ってこう祈って下さい、「あぁ、私に何をお求めですか?」

小野田くんは十何歳かの時に、「もしも主よ、よろしかったら、もしも私でよろしかったら使って下さい」とお祈りしたのですが、その答えを得ました。

もしも私たちの中に燃えるような聖心と、聖心への愛がなければ、召命もなければ聖化もありません、聖徳もありません。天の軍隊に加わって救霊の偉大な業を果たす、参与するという望みも起こりません。この皆さんの中で、この世の中で知っている知人や友人たちの事を考えて下さい。もしも皆さんが100人、一人一人が100人の知人を知っているならば、つまりここには50人がいらっしゃるので、100人×50で5000人の霊魂たちが、イエズス様の聖心からのお恵みを受ける事ができるはずです。そこで皆さんの知恵とタレントを使って、能力を使って、才能を使って、イエズス様とマリア様が知られるようにして下さい。

6月には至聖なる聖心の月には、皆さんお願いします、どうぞお願いします。皆さんの家庭を、マリア様の御心を通してイエズス様の聖心に奉献して下さい。イエズス様の聖心が王として着位する事ができるようにして下さい。マリア様のファチマのこの御像が皆さんの家庭に訪問するようにして下さい。そしてマリア様が皆さんの家庭の一人一人を祝福して、マリア様が仰った事、ファチマでなさった事をもう一度思い出すようにして下さい。どうぞ英語を知っている方は、私の書いたファチマの本を日本語に訳して下さい。なぜかというと、ファチマでマリア様が何と仰ったか、何を知っているかを知らなければならないからです。もしもそれが出来なければ、皆さん英語を勉強して下さい(^^)

では「平和の元后であるマリア様」とは一体どのような方であるか、皆さん理解されたと思います。永遠の天主の最高の本物の平和は、たった1つの所にしかありません。それは「イエズス様とマリア様の一致した聖心の中」です。この聖心は祭壇の御聖櫃の中にあります。また霊的に私たちに現存しています。この皆さんの心を、この一致した聖心にますます近付けて下さい。そして「聖心のように私の心を変えて下さい」と祈って下さい。そして謙遜にお願いして下さい、「私の心を、聖心の燃え尽きる炎の中で燃え尽かせて下さい。」そしてできる事ならば、このみすぼらしい心と聖心と交換して下さるようにお願いして下さい。そうすれば私の心に平和が来ます。そうすれば、私たちがどこに行っても、平和をもたらす者となります。それが現代の世界に最も必要とするものです。

ご清聴ありがとうございました。

教皇大使から日本の皆様にマーチフォーライフのためのメッセージが発せられました。今年のマーチフォーライフは、7月16日うみの日です

2018年06月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇大使から日本の皆様にマーチフォーライフのためのメッセージが発せられました。

「すべての人のいのちは神からの贈り物です。それゆえ人間はだれもが尊重され保護されなければなりません。人のいのちが神聖であるのは、それが神のかたどりであり似姿だからです。もっとも弱い状態にある人のいのちがどう扱われているか、国の民度の高さはそれによってはかられます。胎内から墓に至るまでの人のいのちを守る必要をマーチフォーライフが人々に気づかせてくれることを祈っています。」
ジョセフ・チェノットゥ大司教 
教皇大使

Every human life is a gift from God. Therefore every human being is to be respected and protected. Human life is sacred because it has been created in the image and likeness of God. The greatness of a nation's civilization is measured by the way it treats human life in its weakest forms. I pray that the march for life may raise awareness about the need to protect human life from womb to tomb.
His Grace Archbishop Joseph Chennoth
Apostolic Nuncio






2018年7月16日(うみの日)は、マーチフォーライフの日です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2018年6月22日、アメリカにある聖ピオ十世会神学校で6人の新司祭が叙階されました。

2018年06月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年6月22日、アメリカにある聖ピオ十世会神学校で6人の新司祭が叙階されました。




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

秋田巡礼-霊的講話【6】-2018年5月5日シュテーリン神父様「マリア様の汚れなき御心とは何か?」

2018年06月23日 | お説教・霊的講話
2018年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【6】
「マリア様の汚れなき御心とは何か?」

同時通訳:小野田圭志神父


今日は美しい初土の日です。そこで今日は、マリア様の汚れなき御心についての考察を進めていく事に致しましょう。

マリア様はご自身で、ご自分の御心を啓示しました。つまり子供たちにご自身の心を見せて、子供たちはマリア様の汚れなき御心が一体どのようなものか、という事をその目で見ました。そこでマリア様は、ご自分の御心に対する信心はどのような事にあるのか、という事を説明しました。

ではまず、汚れなき心とは一体何なのでしょうか?

マリア様は子供たちに、神学的な考察とか、あるいは論理付けた議論とか、あるいは公教要理を教えたのではなくて、ご自分の行いとその行動をもって「何か」を示しました。

マリア様の御心から光が流れ出ていて、そして子供たちはその光の中に全く沁み込んでいて、この光が子供たちを包んでいる、その中に生きている、その中にいるのを見るのですけれども、子供たちは、「この光こそが天主様だ」と分かりました。

マリア様の汚れなき御心の最大の啓示は、1929年6月13日にトゥイでシスターが見た、マリア様の汚れなき御心のそのビジョンです。マリア様が仰るには、「時は来ました。教皇様が全ての司教様たちと一緒になって、ロシアを私の汚れなき御心に奉献する時がやって来ました。」



それだけではありません。ルチアは、シスタールチアは三位一体のビジョンを見るのです。その日、夜中の11時から12時まで聖時間を過ごして、御聖体礼拝をしていたシスタールチアは跪いていました。真っ暗なチャペルがその時に光り輝いて、十字架に架かったイエズス様がその祭壇の上に大きく、天井から祭壇の上まで現れました。

このトゥイのビジョンについては絵がよくありますので、その絵を時々ご覧になって黙想して下さい。



そして十字架の上には天主なる聖父が手を大きく広げて、姿を現していました。聖父のその下には巨大な大きな十字架があって、その上にイエズス様が架かっていました。聖父とイエズス様の間に鳩の形をした聖霊がいて、その鳩が光を輝き出していて、その光が全てを輝き出していました。

十字架に架かったイエズス様は傷だらけで、その多くの傷口から血が流れていました。十字架に架けられたイエズス様の御頭はかがんでいて、その頭には茨の冠が被せられていました。その茨の冠から、血がポタリポタリと滴りていました。聖心も刺し貫かれていて、そこからの傷口から血が流れ出ていました。聖心の御血を受け取る所にカリスがあって、そのカリスの中に御血が流れていたのですけれども、そのカリスの上には御聖体がありました。

御頭から流れる茨の冠から流れ出る御血と、聖心から流れる御血は、まずホスチアの上にかかって、そのホスチアからポタリポタリとカリスの中に御血が流れていました。

左手の御血の傷口からは生ける水が流れ出ていて、それは文字になっていました。その文字には意味があって、「聖寵と憐れみ」と書かれていました。

イエズス様の下にはマリア様が立っていました。ファチマのマリア様でした。汚れなき御心をお持ちのマリア様でした。こうやって汚れなき御心をお持ちでした。汚れなき御心は普通の汚れなき御心の様ではなくて、茨の冠を被った御心でした。

ところでこの聖霊からの光、また聖父から聖子を通した御恵み、そして聖子の流される御血は全て、マリア様の汚れなき御心に集中して流れていました。そしてマリア様の汚れなき御心だけから、この御恵みが全て合わさって世界中に流れていました。

そのマリア様の下にシスタールチアがこう跪いているのがよく描かれています。シスタールチアはマリア様に触る事ができます。マリア様には触れる事ができるのですけれども、イエズス様とかそれ以外のものは触る事ができません。なぜかというと、祭壇の上でとっても高くあって遠くにあるからです。

これはちょうど、私たちとイエズス様との関係のようです。イエズス様と私たちの間にマリア様が立っています、汚れなき御心が立っています。この意味は、「聖三位一体が成した贖罪の業、救霊の御業、また全ての御恵みと全ての愛は、マリア様の汚れなき御心を通して私たちに与えられる」という、「マリア様は特別な役割を果たしている」という事です。

これは聖ベルナルドなど、他の諸聖人たちが、あるいは教会がいつも教えてきた事のイラストレーションです。教会の教えを一言でまとめて言うと、「天主が三位一体がこの世に与えようと思った全ての御恵みと全てのものは、マリア様を通してだけ与えたいと望んでいる」という事です。

天主聖父は両手を広く広げています。聖父は起源であって、その聖父の持てるその聖父である全て与え尽くす事ができる、その全ての無限の善を与えたい、与えようとしています。そして何を与える事ができるかというと、その愛する聖子、そして聖霊を私たちに与えます。

そこでまず聖子、十字架に付けられた聖子、私たちの為に与えられた聖子を見ます。イエズス様が私たちに与えられましたが、この使命というのは、私たちの霊魂を救う事、私たちの罪の償いをして、その負債を全て支払う事です。イエズス様の御血、その御傷、その苦しみは、私たちの罪をきれいに浄めてくれます、悪魔の力を破壊します。私たちを恐ろしい牢獄から解放します、地獄へと突き落とす牢獄です。私たちの霊魂を壊し、殺してしまう罪という癩病を浄める為に。御血は私たちを浄めるのみならず、私たちに天主の命に生かして下さいます。生ける水としてこう流れる聖寵と、御恵みと、憐れみ、これを与える為です。

そしてイエズス様がなさった私たちの回心の御恵み、そして浄めの浄化の御恵み、そして聖化の御恵み全ては、ホスチアとカリスに流れ込んでいます。つまりイエズス様のなさった救霊のその御業全てが、御聖体とそしてカリスに、つまりミサ聖祭の中に含まれているという事です。

ではこの浄め、そして聖化、それから私たちに栄光を与えるというもの全ての御恵みは、どうやったら私たちの所に届くのでしょうか?

それは、マリア様が私たちとイエズス様の間に立って下さるので、全てをそれを受け取って下さるのです。既にお告げの時にマリア様に天使はこう言いました、「あぁ、めでたし聖寵に充ち満てる御方。」

また、マリア様だけを満たす充ち満ちている聖寵ではなくて、全世界の、全人類の全ての人々を満たす御恵みが、マリア様に満たされたのです。

シスタールチアはマリア様の元に跪いて、どのようにかしてマリア様の御心に触れます。シスタールチアのように私たちもこうしなければなりません。マリア様は言葉を言い換えると、マリア様は聖寵の充ち満ち溢れた御心を御手に持っておられます。

では、何かとても貴重な物を皆さんが手に持っていたら、どうしたら良いでしょうか?これは自分の為にとっておくか、あるいは他の人に与えるかのどちらかです。でもマリア様は、ご自分の聖寵に満ちた御心があるので、それを自分のまた別にとっておくという必要はありません。もしも手に持ったという事は、これは私たちに与える為です。なぜかというと、十字架の下に佇んだというその時から、マリア様は皆さん、そして私の母親となったからです。

今日朝のミサに、汚れなき御心のミサで読んだ福音にその事が思い出されます。
(イエズスの十字架のかたわらには、その母と、母の姉妹と、クロパのマリアと、マグダラのマリアとが立っていた。イエズスは、その母と、愛する弟子とがそばに立っているのをごらんになり、母に、「婦人よ、これがあなたの子です」とおおせられ、また弟子には、「これがあなたの母です」とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。)

イエズス様、聖三位一体の燃えるような熱烈な望みは、御自分の天主の命を皆さんに与える事ですが、1つだけ、「マリア様の汚れなき御心を通してのみ与えたい」と思っています。これがカトリックの信仰の、「マリア様が全ての御恵みの聖寵の仲介者である」という事の1つの側面です。本来ならば第二バチカン公会議の時に、これがドグマとして信仰箇条として宣言されるべきでしたが、近代主義の人々によってそれが阻止されました。

では、これはまだこの真理の側面の1つでしかないのですが、その第2の側面を見てみます。最初の側面は上から、天主の方から私たちに下がってくる側面でした。天主様からマリア様を通して私たちに、天主から聖霊から聖子からマリア様、そして私たちに。

今度は私たちの方から始まります。皆さんは天国に行きたいですか?天主に近付きたいですか?救いの唯一のしるしは、「十字架」です。それ以外には天国に至る道はありません。十字架を通らなければなりません。ですから私たちはカルワリオに行かなければなりませんが、カルワリオというのは高い山です。そのそこでイエズス様が皆さんを待っています。死なんばかりに待ち焦がれています。御血全てを流し尽くして、皆さんに与えたいと待っています。私たちは本当に罪深い罪人ですけれども、これを全て赦そうと思っています。私たちは目が何も見えないですけれども、光を与えようと思っています。私たちは本当に愚かですけれども、知恵を与えようと思っています。

では私たちはイエズス様の所に行かなければなりません。でも皆さんはあまりにも小さな子供です。この小さな子、この子はもちろん高いカルワリオの山に行きたいと思っています。朝起きて、「よし、行こう!」と、朝は朝ご飯をちゃんと食べて、「さぁ、行くぞ!」と。1時間登ってみると…2時間…3時間…「お父さん、もうだめ、助けて。」するとお父さんは、「しょうがないなぁ」と言って肩車をしてくれます。

私たちも高い山に、イエズス様が待っている高い山に登る為には、同じようにしなければなりません。イエズス様は私たちに、御自分のお父さんではなくてお母さんを下さいました。そこでマリア様は言いました、「私の汚れなき御心はあなたたちの避難所であって、天へと導く道となるでしょう。」

教会の初代から今まで、全ての教会の博士や教父たちが口を揃えて言うのは、「天に行くには、マリア様を通してのみ行く事ができる。」

マリア様がどれほど大切な重要な方か分かりますか?天主様はマリア様を通してのみ、私たちの元にやって来るし、そして私たちもマリア様を通してのみ、初めて天主様の元に行く事ができます。

ですから、悪魔はどうしたら私たちが御恵みを受けずに、天国にも行かないか、ブロックするかという事を知っています。マリア様に私たちを近付けないようにする事です。その悪魔の2つの大勝利はプロテスタント、プロテスタントの牧師さん達はシュテーリン神父様の黙想会をやったその最後に、「あぁ、私たちはお母さんのいない家族だった!」第2の大勝利は、近代主義です。

第二バチカン公会議で近代主義がマリア様について何をしたか、詳しく説明しなければなりませんでした。もしも他の宗教に気に入られようとするならば、マリア様について話す事ができません。今でもその動きは続いています。マリア様はちょっと言ってみれば、敬虔な映画のスターと例えられます。美しい綺麗な女優さんで、ニコニコしている女優さんです。良い行動をして徳のある生活をしています。私たちと一緒に天主様への巡礼をする優しい姉妹。プロテスタントによるとそれがマリア様ですけれども、それはマリア様のほんの1%しか表していません。

まずマリア様は、天主の御母です。マリア様は終生童貞なる御方です。無原罪の御方であって、天主の御計画がマリア様によって100%完成された方です。天の全ての天使たちが合わさって、更に天の全ての諸聖人が合わさっても、ほんのちょっとした丘を造るのですけれども、マリア様は御一人でヒマラヤの高い山脈を造っています。

それのみならず、天主が私たち全てに与えようとする全ての恵みの仲介者です。もしも皆さんが今洗礼を受けて、カトリック信者であるならば、これはマリア様のおかげです。もしも皆さんが信仰を守り続けていたら、あるいは信仰を見出したとしたら、マリア様のおかげです。もしも私たちが罪を痛悔して告解をする事ができ、そして罪の赦しを受ける事ができたとしたら、マリア様のおかげです。

これが第2のミッションです。天主聖父と聖子は、私たちに聖霊を与えようとしています。このトゥイのビジョンによると、聖霊の輝く光はマリア様の御心に注がれます。マリア様は聖霊の浄配です。マリア様は聖霊の現存です、この世における現存です。

では聖霊とは何なのでしょうか?聖霊降臨の日に、聖父と聖子は私たちの心に聖霊を下さいました。天主聖霊は最も高き、天主の最も高き賜物です。この素晴らしいプレゼントを皆さんに与えようとしています。この贈り物、賜物というのは、永遠の愛です。この愛の贈り物を皆さんに、この世に与えようとしています。そしてこのものすごい宝物を与えようとするのですけれども、一体誰に与える事ができるかと探しています。

世の終わりに至るまで、このものすごい、いと高き賜物をこの世に与えよう、与えよう、与えようと望んでいます。私たちも、「聖霊来たり給え、我らの心に満ち給え。主の愛熱の火を我らに燃えしめ給え」と祈っています。でも聖霊が100%全く、全て来る事ができる被造物はどこにあるのでしょうか?

もしも聖霊がその宝物として、皆さんの霊魂に心の中に入ろうとしてドアをノックします。しかし多くの、皆さんの多くはそのノックされたという音さえも聞いていません。なぜかというと、その他の雑音で心がいっぱいなので、聖霊からのノックを聞く事ができないからです。朝から晩までこの音楽です。朝から音楽、映画、娯楽、快楽、ビジネス、仕事、あれだこれだ、と言って、聖霊の事を聞く時間もゆとりもありません。

そして「あぁ、遂にお祈りの時間だ」と、聖霊に心を開く時間になりました。でももう疲れていて、退屈になって、「あぁもう退屈だ。」皆さん、ミサの時の主日の説教の時の事を思い出して下さい。司祭は何とかして信仰の神秘を皆さんに伝えようとするのです。皆さんどうやってその司祭は反応を見るか知っていますか?これが第1のリアクションです(あくびをする)。第2の反応です(腕時計をしょっちゅう見る)。そして第3は、居眠りの反応です。私の野心は、この話の間に皆さんを眠らせない、という事なので、皆さんに拷問をかけます。聖霊はそのような、この世の事ばかりでいっぱいの、あまり自分の事に関心のない霊魂には入る事ができないのです。

でもその反対に、聖霊に心を開いている霊魂たちもいます、「聖霊に来てほしい。」敬虔な霊魂たちがいます。皆さんのように、「聖霊の声を聞きたい」と耳を澄ましている霊魂があります。

皆さんがたとえどんなに聖なる方であったとしても、100%聖霊を受けているとは限りません。なぜかというと、私たちの傲慢はあまりにも深く根付いているので、私たちがたとえ死んだとしても、まだその後50分生きているからです、傲慢は。そして私たちの中に傲慢が力強く生きている限り、聖霊は入る事ができないからです。一生かけてこの戦わなければなりません。

私たちの霊魂というのはお城のようです。そして聖霊の為に開かれたお部屋もあるのですけれども、地下室とかあるいは小さな隅の部屋は聖霊に開かれていずに、入ってみると臭かったり、とても入る事ができないような部屋があります。

「神父様、私の事を侮辱していますね?昨日は私の事を『豚』と言ったし、今は『臭い』と言ったし、本当にあまり変な事を言わないで下さい。」

私の言いたい事は、私たちの心には無関心がまだ根付いている、という事です。忘っぽいという事がある、という事です。イエズス様は私たちの心に生きておられるにもかかわらず、ケロリと忘れている、という事がどれほど多くある事でしょうか。

イエズス様は私の心にいて、御恵みを与えたい、与えたい、与えたい、と思っているのですけれども、私はケロリとしてイエズス様の事はいないかのようにほっぽらかしていて、この世の事だけに自分の事だけに関心を示しています。

平和について話した時の事を思い出して下さい。聖霊は平和のない平穏のない心に完全に入る事ができないのです。なぜかというと、平和を失ってイライラしたり、怒ったり、絶望したり、悔しがったりしている霊魂には、そして腐ったトマトのような霊魂には、聖霊はすっかり入り込む事ができないからです。

しかし全く絶対的に、完全に聖霊を受け取り尽くした霊魂が、たった1人だけいらっしゃいます。なぜかというと、罪の汚れが全くない浄い霊魂だったからです。原罪の汚れさえもありませんでした。全ての人間の中で唯一、この方だけがそれを聖霊を全く受ける準備ができていました。汚れがなかったのみならず、待っている事もなく準備ができていました。綺麗な窓ガラスを通して、太陽がスパーッと部屋の中に光が沁み通るように、マリア様の心の中に聖霊が全く沁み通ったのです。

ですからマリア様の仰る事、あるいはマリア様がなさる事というのは、マリア様の行動というよりは聖霊の行動でした。聖霊はマリア様の御心を全く所有していました。ですからマリア様は聖霊の現存だという事ができます。そこでマリア様だけが、たとえプロテスタントや近代主義の人たちが反対したとしても、マリア様だけがこう言う事ができるのです、「私は無原罪の御孕りです。私は天主へと導く道です。私の御心にあなたたちの回心の全ての御恵みがあります。皆さんを大聖人にする事ができます。」

私はよくプロテスタントとこの話をします。では非常に重大な反論があります。私が受ける告発というのは反論というのは、「あぁ、あなた神父様はマリア様を神格化してしまって、四位一体の第4のペルソナにしてしまっている。」

しかし誰かを神格化するという事は、これは冒瀆です。でもマリア様は、自分が聖霊自身だ、とは言っていません。「聖霊の道具であって、聖霊の声であって、聖霊の現存である」とのみ仰います。

ですからこのカリスマ運動をやっている人にも教えてあげて下さい。「聖霊!」「聖霊!」「聖霊!」そうではありません。聖霊というのは、皆さんの頭にコーン!とこう来るものではなくて、イエズス様を通して、マリア様を通して、私たちの元に伝えられます。マリア様が色んな所にですね、くるくる回ってですね、こう踊っているのを考える事ができますか?こういうおかしな感じの儀式をするのを想像できますか?もしもマリア様が本当にそうだったとしたら、マリア様は現れてそのように行動されるかもしれません。マリア様はその本当の御出現の中で1回も、カリスマ運動のリーダーたちがするように、聖霊を受ける為にするような儀式の事をした事がありません。

聖霊が現存しているという事は、トゥイのビジョンでもあります。マリア様は「聖子の御業が私たちの元に伝えられる」という事と、「聖霊の光が私たちの元に伝えられる」という2つのミッションがあります。聖霊がなさる事は、まずマリア様を通してなさいます。

では聖霊の皆さんの霊魂における最も重要な活動、仕事とは何でしょうか?聖霊降臨を見て下さい。聖霊の降臨の前には皆、家の中に閉じこもって恐れていました。彼らは貧しい漁夫で学校にも行った事がありません。言葉も田舎の言葉丸出しで話していました。英語もフランス語も日本語も話しません。しかし聖霊が来ると、色んな言葉を話し出しました。するとこの単純な魚を漁っている漁夫が、いきなり最も知恵の深いリーダーよりも知恵深く、素晴らしい話をし出してる、とびっくりします。

聖霊の賜物は私たちの知性を照らし出す光であって、私たちの意思を強める愛です。これはマリア様がなさいます。聖霊の全ての御恵みがマリア様の御心を通して、皆さんの元に届けられます。

なぜ天主様はこうやってマリア様を通して与える事を望むのでしょうか?なぜかというと、この世で母親、お母さんというほど美しいものはないからです。母親は子供を愛しています。ここにいらっしゃる全ての母親お母さんたちは、私が今何を言っているかその意味を分っているはずです。母親は子供に全て与えようとします。父親もそうです。もちろんここにいらっしゃるお父様たちのこの功徳も馬鹿にするつもりはありません。私も霊的な父であるので。これが汚れなき御心です。そしてこのような汚れなき御心が知られる事を、全世界に知られる事を望んでおられます。

しかし、まだこれでもマリア様の最も深い神秘の中には到達していません。マリア様の御心は、「聖霊に満たされて」と言っています。では聖霊はマリア様の御心の中で何をなさるのでしょうか?

使徒信経の中でこう言います。聖霊のマリア様における最大の御業というのは、マリア様においてイエズス様を形造る事です。イエズス様の至聖なる聖心を形造る事です。汚れなき御心は、イエズス様の至聖なる聖心の為だけに存在しています。偉大な聖人の内の幾人かは、この非常に深い神秘を私たちに説明しています。1人はサレジオの聖フランシスコ、もう1人は聖ヨハネ・ユードです。

サレジオの聖フランシスコはその有名な著作である『神愛論』という本の中にこの事を書いています。サレジオの聖フランシスコによると、「天主とは愛である。そして愛は一致を求める。2つは1つになる。」

世界が創造される前に、そして世界が在り始める前に、天主はそのまま在して、天主は唯一でありました。聖父は聖子に全てを与えます。そして聖子は聖父に全てを与えます。聖子は御自分全てを聖父に返します。聖父が与え、また聖子が与え、それを受け、その相互の愛は、聖霊です。天主は唯一ですけれども、その中に巨大な愛の運動があって、その運動は永遠に続いています。

皆さんこの事を深く理解できなかったとしても心配しないで下さい。私も深く理解したわけではありません。太平洋の大海原の百万倍も大きな愛の大海原を全て、聖父は聖子に与えるという事を考えて下さい。その愛の大海原を、聖子がその愛をまた聖父に返す。その愛のこう激流がこう合わさっていく時に、聖霊の息吹が出される。

その巨大な大海原の一滴の水を取って下さい。この小さな1滴の粒が、全ての何千何億の天使たちと、この大全宇宙とこのコスモス全てが、その中に入っています。皆さんの中で天文学者、物理学者がいらっしゃったらですね、この全宇宙の果てはどこにあるか仰って下さい。この世の初めから今まで、一体何千何億何京万の人が生きていたか数えてもらいたいと思います。そしてこの一人一人は守護の天使がついています。そして更に、この守護の天使の上に更に8つの階級の天使たちがいて、その数はもっと多いのです。この大宇宙の最も美しい全ては、比較するとほんの1滴です。これよりももっと少ない、小さなものにすぎません。

この天主聖父の愛の大海原が聖子に流れ出るこの愛、この聖子が天主に返すその愛、天国とはどれほどものすごい愛でしょうか。この大自然のもの凄い驚異、美しさ、その力強さというものは、ほんの一滴しかありません。

天主様は更にもっと素晴らしい事を望んでいます。この天主は、この小さな何でもないような皆さんたちを創造しようとしました。そしてこのような何でもないゴミのような私たちに、宝物を与えようとします。その宝物というのは、この愛の大海原なのです。どうやったらできるのでしょうか?

その天主の一致を、愛の一致を世に示そうとします。その為に、ある人間の心を創造します。なぜ心かというと、愛というのは私たちの心にあるからです。その心というのは、イエズス様の聖心です。イエズス様の愛の聖心です。全ての天主の愛の大海原の全てが、イエズス様の聖心に詰まっています。この至聖なるイエズスの聖心の連祷の、最初の呼祷の中にこれが入っています、「神性の充満てるイエズスの聖心」「永遠の聖父の御子なるイエズスの聖心」「聖霊によりて童貞母の御胎内に造られたるイエズスの聖心」

それが分かると、なぜマリア様の汚れなき御心か、という事が分かります。なぜマリア様の御心が聖霊に満たされているかが分かります。この永遠の天主の愛、無限の愛の詰まった聖心を形造る為に必要だったのが、このマリア様の御心です。イエズス様の聖心は汚れなき御心と全く一致します。イエズス様の聖心がマリア様の汚れなき御心を造ります。これこそ天主の最大傑作の1つです。マリア様は全てイエズス様の聖心から来ます。すると突然それが変わります、このように、イエズス様の人間としての聖心は、マリア様の御心によって形造られます。天主としてのイエズス様はマリア様の御心を形造り、マリア様の御心は、人間としてのイエズス様の聖心を形造ります。

皆さんの頭から煙が出て来だしたので、少し休憩を入れます。ちょっと頭を冷却してきて下さい(^_^;)

聖なるロザリオの黙想【苦しみの玄義】-2018年5月4日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

2018年06月22日 | お説教・霊的講話
苦しみの玄義黙想(2018年5月4日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父


苦しみの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

秋田のマリア様は、涙のマリア様です。イエズス様は御血を流しましたが、マリア様は涙を流します。御血はイエズス様の御体から流れますが、マリア様の御心からは涙が流れます。

ではなぜマリア様の心から涙が、イエズス様の御体から血が流れるのでしょうか?

第1に、悲しみの涙です。なぜなら、私たちが罪を犯したからです。マリア様の涙は、私たちに罪の痛悔を促します。マリア様は秋田で101回涙を流しました。100回というのは、完全な充満だとも言えるでしょう。そしてその101回は、それを更に満ち溢れるような悲しみの涙であって、私たちのどのような心の頑なになった罪人であってさえも、マリア様はそれを回心させる涙を流した、という事です。

「秋田のマリア様、私の心、霊魂を回心させて下さい。私の罪をますます深く悔悛する御恵みをお願い致します。」



苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

マリア様の涙の第2の原因は、マリア様が私たちに対して持つ巨大な愛の為です。101回の充ち満てる涙は、マリア様の巨大な充ち満てる愛を私たちに示しています。毎日、日に夜に、マリア様は私の為に涙を流されています。

マリア様のこの愛する、愛に満ちた御心は、私の為のお恵みの源です。マリア様の御涙は私の心を感動させます。そして私の無関心、冷たい心から、熱心な心に変えてくれます。このマリア様の涙は、私の心の暗闇を光に変えてくれます。マリア様の多くの涙は、私の心を浄めて、浄められた心を下さいます。

「おぉ、み母マリア様、私の汚れた心を御手に取って、そして御身の涙によって洗い浄めて下さい。御子イエズスの鞭打たれた、そして流された御血によって、私の心を浄めて下さい。」



苦しみの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

秋田のマリア様の両手は広く広げられています。これはあたかも、マリア様が私たちを招いているかのようです。そして私たちがマリア様の御元に駆け寄る事ができる為のようです。マリア様は私たちの心が貧しいものであったとしても、受け入れて下さいます。そして私たちの心を受け取って、ご自分の御心にしっかりと抱きしめて下さいます。

そしてマリア様はその御心から、イエズス様の聖心へと私たちの心を連れて行って下さいます。イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心を黙想すると、その2つの一致した心には、2つとも茨の冠が被せられているのを見出します。

なぜかというと、私たちの心を汚れた心を受け取る為に、マリア様とイエズス様はそれの代価を払わなければならなかったからです。なぜかというと、マリア様とイエズス様に、愛の代わりに茨をあげて、多くの茨を捧げてしまったからです。私の無関心によって、イエズス様とマリア様の聖心を傷付けてしまったからです。私の忘れっぽさによって、私の怠慢によって、そして私の数えきれない多くの罪によって、そして特に私の傲慢によって。

「それにもかかわらず、マリア様、秋田のマリア様、私の貧しい心をお受け取り下さい。この私の今、罪の痛悔に満ちた、そして愛に満たされたこの心を受け取って下さい。今日は御身に茨ではなく花を、お花を捧げたいと思います。謙遜と貞潔と、そして従順の花を捧げたいと思います。」



苦しみの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

秋田のマリア様は、十字架のメッセージです。ファチマ(秋田?)のマリア様が私たちに与える平和、マリア様が私たちに与える慰めとは、実は十字架です。マリア様は十字架の前に立っておられます。マリア様はなぜ立っているかというと、全世界を招いて、ご自分の御心へと招いているからです。そしてその御心から救いへと導こうとしているからです。

そしてマリア様は私たちに、そのお返しとして、私たちが近付くお返しとして、イエズス様から全てのお恵みを私たちに下さろうとしています。ですから十字架の元に立っています。イエズス様からの全ての御恵みを私たちに下さろうとしています。マリア様は手を広く広げています。御心を開いています。回心と聖化の恵みを私たちが受けるように、と招いています。

「秋田のマリア様、あなたは全ての御恵みの仲介者であります。マリア様、御身を通して、イエズスの至聖なる聖心の全ての御恵みが私たちに伝わります。その御恵みによって私は自分の十字架の道を、自分の十字架を取って歩む、道を進む勇気が与えられます。」



苦しみの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

マリア様はイエズス様と共に、私たちの命の源です。その命の源となる為に、死を通さなければなりませんでした。私たちに命を与える為に、十字架の下でマリア様は1000回、何万回もの死を遂げるほどの苦しみを受けました。もしもマリア様が生きておられたとしたら、それは奇跡でした。

マリア様だけが私たちに、十字架の神秘を、終わりなき愛の神秘を教えて下さる事ができます。マリア様の心をもって、イエズス様を愛する徳を乞い願いましょう。そしてイエズス様の心をもって、マリア様の心を愛する恵みを乞い求めましょう。そして私たち自身をマリア様に与え尽くす御恵みを乞い求めましょう、そして奉献し尽くす御恵みを。

Dr.リガヤ・アコスタ 講演会〜「いのち」を選ぶために:今、呼びかけられています 2018年7月8日(日)午後2時半

2018年06月22日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

プロライフのスペシャル・トーク・イベントのお知らせをします!

★Dr.リガヤ・アコスタ 講演会
〜「いのち」を選ぶために:今、呼びかけられています

日時:2018年7月8日(日)午後2時半 
岐部ホール 404号室※聖イグナチオ教会となり

◎英語‐日本語逐次通訳付き ◎入場無料(自由献金)
聖イグナチオ教会 英語の賛美の集い、信仰の分かち合いグループ共催
問合せ: 聖イグナチオ教会 英語センター03-3264-4576

講演会テーマ Theme of the Talk:
「いのち」を選ぶために:今、呼びかけられています

プロライフ=「いのち」を選びとることの大切さ、避妊・中絶という悪の問題、世界的なアンチライフ=死の文化の広がりをめぐって、講師自身の回心の体験を語りながら、みなさんと理解を深めます。



Dr. Ligaya Acosta リガヤ・アコスタ博士
Human Life International アジア・オセアニア地域ディレクター
Asia-Oceania Regional Director of Human Life International (HLI)

フィリピン保健省に長年勤務、2004年に「自然な家族計画」の研修を受けたことをきっかけに、それまで信じ進めてきた避妊など産児制限の対策、人口過剰の神話の深刻な誤り、偽りに気づく。大きな回心を経験し、現在は生命尊重pro-life、家庭の価値を広めるため Human Life International のメンバーとして活動、フィリピン国内や世界各地に招かれ、若者、家族、神学生・司祭、修道者などさまざまな聴衆のために講演を行う。

Human Life International
教皇庁の認可を受けたカトリックの国際団体。生命尊重・家庭の価値を広めるために研修会、講演活動、メディア資料制作を行っている。

★リガヤ博士は7月16日「産みの日」マーチをともに歩いてくださいます。

マーチフォーライフ2018
「産み」の日7月16日は築地教会に集合!
今年もマーチは築地教会を出発し日比谷公園をめざします。


Talk by Dr. Ligaya Acosta
Pro-Life Activism: Call of the Times
〜On Sunday July 8, 2018 2:30 pm~
At Room 404 Kibe Hall Adjacent to St. Ignatius Church
*The talk will be in English with Japanese translation.
*Free donations accepted
*Everyone is welcome!
Hosted by Praise&Worship and Faith Sharing Group,
John de Britto English Center, St.Ignatius Church Tel. 03-3263-4576

"Pro-Life Activism: Call of the Times"
- a talk that inspires/elicits more dedication and commitment to the pro-life cause, and enable them to gain more understanding on the evils of contraception and abortion and the global anti-life agenda......includes a sharing of my own personal conversion from being rabidly pro-choice to being staunchly pro-life.

Dr. Ligaya Acosta 
Human Life International
Asia-Oceania Regional Director of Human Life International (HLI)

Dr. Acosta worked many years at Department of Health in the Philippines. Her life changed when she was designated as Program Manager for Natural Family Planning in early 2004, where she first trained with the U.S. based Family of the Americas Foundation. Here, she discovered the deadly deception of contraceptives and sterilization and the myth of overpopulation. She experienced a major conversion which led her to become a staunch pro-life activist. As Regional Director of HLI, Dr. Acosta travels in the Philippines and around the world to give talks to various audiences, young people, families, religious and clergy.

Human Life International
HLI is an international pro-life organization recognized by the Holy See. It promotes values of life and family, organizing conferences, talks, production of media resources.

Dr. Ligaya will march with us on July 16.


カトリック教会の聖伝の叙階式の生中継が2018年6月30日(土)午後5時からあります

2018年06月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のドイツ、ツァイツコーフェンにある神学校「イエズスの聖心神学校」では、2018年6月30日(土)現地時間午前9時(日本時間午後5時)から叙階式が行われます。

 愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの叙階銀祝をお祝いした後でもあり、司式司教は私を叙階してくださったデ・ガラレタ司教(8月に初来日予定)でもあります。

 YouTubeで生中継が行われます。 興味のある方が多いと思い、お知らせいたします。

 儀式は聖伝によりラテン語でなされます。お説教は司教様がまずフランス語でされ、次にドイツ語に訳されることでしょう。

 生中継をご覧になるには、YouTubeのチャンネル PIUSFILMをご覧ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


On Saturday, June 30 his Exellency Bishop Alfonso de Galarreta will ordain six new priests.

For the first time you can watch the the ordinations in Zaitzkofen live online, starting at 9:00 a.m. CET

Ont the day of ordination visit our homepage to access the livestream on our youtube-Channel PIUSFILM.


聖ピオ十世会日本:聖伝のミサ(ラテン語ミサ、トリエント・ミサ)の報告:司祭叙階25周年祝賀会を感謝します!

2018年06月20日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月の16日には大阪で、17日には東京で、皆様から司祭叙階25周年を祝って頂きました。大阪では22名の方々が、東京では84名の方々がミサに与られ、聖体降福式に参与されました。






 祝賀会のために多くの方々が素晴らしい準備をされて、皆がとても幸せな時を過ごすことが出来ました。心から感謝しております。

 まず大阪でも東京でも霊的花束を頂きました!

祈りの内容 東京 大阪 計
ミサ参列 243 +168 =411
聖体拝領 228 +167 =395
霊的聖体拝領 840 +2162 =3002
十字架の道行 92 +83 =175
ロザリオ(環) 2048 +1418 =3466
小さき犠牲 746 +1940 =2686
他の祈りと愛徳 393 +10202 =10595

 411回のミサ参列、3466環のロザリオなどものすごい数のお祈りと愛徳の業をありがとうございます。

 これとは別に、今年に入ってから6月15日までに1753環のロザリオを捧げて下さったというカードも頂きました! 3466環と合わせると5219環です!ありがとうございます!この数をみると、聖ピオ十世会日本の霊的なバイタリティーがあると言うことは明白です。

 大阪でも東京でも、信徒の方々が「司祭のこころ」という歌を日本語で歌って下さいました。

 大阪の信徒の有志の方々が、私の説教選集を作成し、200部印刷して全て私が自由に使うことが出来るようにと贈呈してくださいました!

 東京の信徒の方々は、小野田神父の25年の歩みという30分ほどの映画を作ってくださり、それを大阪と東京で皆で微笑みながら見ました。この素晴らしいビデオを作ってくださった映画監督には、祝賀会の最後に、私から「パルムドール賞」を差し上げました。

 東京の別の信徒の方々は、聖ピオ十世会を祈りで支えて奉仕するという「祈りの奉仕会」を創立し、献呈してくださいました。

 更に、これを機会に、聖ピオ十世会フランス管区で作られた公教要理のビデオに日本語の字幕を付けて、毎週日曜日発信するというYouTubeのチャンネルが作られました!







 これはユーチュブで「公教要理」を検索すると、出てきます。よく簡潔に纏まった連載講座で、フランス語としてもはっきりしていて、幅広くカトリック教義の内容を正確に厳密に説明しているものです。是非とも、ご覧ください!

 祝賀会は、大阪でも東京でも、お寿司、サンドイッチ、もなか、お祝いのサプライズケーキ、色紙、花束、垂れ幕(二枚)、銀祝記念カード(五〇〇枚)、ワインや日本酒を始め、当日は、たくさんの方が、いろいろ持ち寄ってくださいました。当日はとても素晴らしく活気に満ちて祝賀ムードいっぱいで、にぎやかでよい祝賀会でした。本当にありがとうございます。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミサの報告をお送り致します。
6月15日(金) 聖霊の随意ミサ には16人、
6月16日(土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサには22人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

16日(土)のお説教でイエズス様の聖心と司祭の関係を黙想致しました。
イエズス様が司祭を特別に愛しておられることを黙想しながら、それほどまでにイエズス様に愛される神父様がうらやましくなりました。(;´∀`)
私が思っている以上に、司祭職は特別であり尊いものだという事を感じました。

イエズス様と司祭は全くひとつであられるという部分では、聖ピオ十世会の神父様方がいつもいつもイエズス様に倣おうとされているお姿を見て、今までもよく感じていました。愛に愛で返すお手本を私達に見せて下さっている神父様に、私たちも倣わなければいけないのです。

また、マリア様のご胎内にご托身された瞬間からイエズス様の聖心が物質的に始まられた事を教えて頂いたあとに、そのことを考えながらロザリオの玄義を黙想する事ができ、聖心の月にピッタリのロザリオ玄義黙想のヒントを頂きました。

ミサの後の小野田神父様司祭叙階25周年の祝賀会ではこれまでの神父様の25年の私達への愛とご親切を改めて思い返す良い機会となりました。

イエズス様の愛を一人でも多くの人に伝えたい一心での長年の苛酷なお仕事を振り返って、ただただ感謝し、精一杯の愛をお返ししたいと思います。
神父様から頂いたサイン付きのお説教集は私の大きな宝物になりました。ありがとうございました。

また、祝賀会のために素晴らしいご提案と指揮をして下さった信徒会長や寛大なご協力を下さった愛する兄弟姉妹にも感謝させて頂きたいと思います。

私たち小さな羊の群れが、引き続き小野田神父様のご指導の元、これからもっと沢山の愛をマリア様を通してイエズス様へお返しできますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!
金曜日は聖霊降臨の随意ミサをして下さってとても嬉しかったです!
また土曜日の御説教でも、司祭はイエズス様の聖心に特別に愛されているというお話しがとても印象深かったです。
司祭のこころの歌詞にもありますが、まさに「司祭の心は救い主の心」ですね。
この御説教を知った日本の若い男の子から、聖なる司祭への召命がますます増えますように!
そして小野田神父様の銀祝のお祝いにも参加させて頂く事ができてとても嬉しかったです。
私たちも小野田神父様と巡り合わせて頂いて15年ほどになりますが、出会った時からお優しく、全てにおいて素晴らしい神父様で、本当にいつも感謝しております。デオ・グラチアス!!
どうぞこれからもよろしくお願い致しますm(_ _)m
御説教集にサインもして下さりありがとうございます!これはもう家宝になります。

デオ・グラチアス!マリア様に汚れなき御心に感謝!!

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 35人(内、子供5人)
女: 49人(内、子供4人)
計: 84人(内、子供9人)


【報告】【東京】
小野田神父様

昨日は司祭叙階25周年のお祝いおめでとうございました。
私にとって、とても貴重な素晴らしい1日でした。ありがとうございました。

お会いする度に、いつも優しい温かい微笑みで、静かにお話しされるお姿、そして生い立ちを知るにつれ、ご立派なご両親のもと、既に司祭への道が決められたのだと確信しました。又、神父様への聞きたいコーナーは、何も解らない私にとって、新鮮でした。目から鱗のようでした。(…)

最後ご挨拶をせずに席をたちました事、どうぞお許しください。

お忙しい日々、どうぞお身体を大切になさってください。

【報告】【東京】
アヴェ・マリア!
昨日は小野田神父さまの叙階25周年の行事ありがとうございました。お疲れ様でした。盛大に行われて嬉しく思いました。豪華な食事とデザートと皆様と一体感を感じました。とても素晴らしい1日でした。(…)盛大にお祝い出来たことに感謝しております。


【報告】【東京】
Ave Maria Immculata!

聖ピオ十世会司祭小野田圭志神父様の司祭叙階25周年記念ミサに与らせていただきました。とても大きなお恵みをいただきました。拙い内容で申し訳ありませんが、ご報告させていただきます。

この日は、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭を挙行してくださいまして、イエズスの至聖なる聖心の随意ミサと、ご聖体降福式にて聖体賛美が捧げられました。そして皆で「人類の忘恩に対する償いの祈り」と「イエズスの聖心に家庭を献ぐる祈り」を唱えました。(二つともに個人的に昔よく唱えていたお祈りですが、司祭とともにお祈りできましたのは初めてです。)

お説教では、前回のご聖体のお話の続きに、イエズス様の愚かしいほどの狂おしいほどの愛について、“その愛の幅広さと長さと崇高さと深みを理解する”という聖パウロの言葉に基づいてイエズス様の聖心の愛を黙想し、その愛のなかでも最も特別な愛を受けるものである司祭職の恵みをお話しくださいました。神父様の話されるまま聖心の愛が胸に突き刺さるように伝わってきました。司祭というものがどれほどの恵みをいただく特別な職で、イエズス様とマリア様が司祭をどれほど愛されているか理解できました。

私は、ごミサのなかで小野田神父様が25年前にスイスの聖ピオ十世会の神学校にて司祭の叙階を受けられましたことを、心から感謝申し上げておりました。そして、私が今受けているお恵みと、日本が受けているお恵みを思いました。ご聖体拝領も聖母の汚れなき御心のうちに深く入り小野田神父様の司祭職のために拝領いたしました。

神父様と長年ご縁がおありながら日頃全くカトリックの典礼に触れる機会を持たないたくさんの方々が今回この記念ミサに与ってくださり、小野田神父様の銀祝いを祝ってくださいましたことにとても感動して、うれしく思いました。久しぶりに来られた信徒の方々や、信徒のご家族の普段は来られていない方々やご友人、その他の多くの方たちと記念ミサを捧げそれに与ることができたことは、とてもうれしいことでした。皆で小野田神父様の銀祝いをお祝い申し上げましたこと、イエズス様の至聖なる聖心に感謝いたしました。

記念の写真撮影の後、祝賀会が開かれ、テーブルが会場からはみ出してしまうほどでした。
祝賀会は、たくさんの方がお祝いと御礼の言葉を述べられまして、霊的花束の贈呈、祈祷の会の設立の贈呈や、ユーチューブで配信される公教要理講座の贈呈や、神父様へのQ&Aの時間、小野田神父様の司祭叙階25周年記念カードの配布、小野田神父様の生い立ちからこれまでの歩みの貴重なお写真から編集されたビデオの映写会、寄せ書きの冊子の贈呈など盛りだくさんでした。信者の方が奢ってくださった美味しいお寿司のほか、皆が持ち寄られたたくさんの食べ物や飲み物、そして、大きな記念のケーキも贈呈されて、果物の盛り合わせや最中の差し入れもありました。予定時間を大幅に超えましたが、楽しい一日でした。

“銀祝、小野田神父様司祭叙階25周年”まことにおめでとうございます。
天主さま、イエズス様、マリア様、小野田神父様を司祭に叙階してくださいまして、まことにありがとうございます。

大阪北部地震による聖ピオ十世会聖堂の被害について

2018年06月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今朝、午前八時ごろに発生した大阪北部地震で、被災された方々に慰労の言葉とお見舞いを申し上げます。

ご心配の方々がいらっしゃると思いますので、報告申し上げます。

大阪にある、私ども聖ピオ十世会の「聖母の汚れなき御心聖堂」では、ちょうどその時に、聖堂で祈って聖体訪問をしている信徒がおりました。この方の報告によると、聖ヨゼフ像や御聖体顕示台や燭台らが転倒して破損したリ歪んだりしてしまったのですが、それ以外は大丈夫だったようです。

また、大阪に住んでいる信徒の方々は少なくとも怪我はせずに無事だったとの報告を受けています。

天主とマリア様に感謝いたします。

昨日、東北新幹線の運行停止で、ミサに来られた方々が帰ることができず立ち往生してしまったのですが、今朝、無事に盛岡まで戻られたと伺いました。

全ては、御摂理。お捧げいたします。

マリア様、日本をお守り下さい!

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田神父

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】