Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちの生活の深い意味を与えるのは、イエズス・キリスト。すべては復活のためであって、私たちがイエズス・キリストとともに王位につくため。

2023年01月31日 | お説教・霊的講話

2022年10月30日大阪(主日)説教

聖母の汚れなき御心の聖堂にようこそ!

今日は2022年10月30日、王たるキリストの祝日を祝っています。

今日、教皇ピオ十一世の命に従って御聖体降福式の時に、毎年のようにイエズス・キリストの聖心に全人類を奉献する祈りをお捧げいたします。

来年の一月には、フェレ―司教様が日本にいらっしゃいます。私たちに堅振の秘跡を授けてくださいます。堅振を聖伝の典礼様式に従って受けていらっしゃらない方、それをご希望の方は、是非この機会に堅振の秘跡を受けるようになさってください。申込用紙は入り口にあります。

愛する兄弟の皆様、今日は王たるキリストの祝日ですから、イエズス・キリストが王であるというという意味について黙想いたしましょう。なぜ王であって、そしてそれは私たちにどのような意味があるかを黙想して、最後に王たるキリストに忠実であるために遷善の決心を立てましょう。

【1:イエズス・キリストは第二のアダムとして、私たちのために王位を回復してくださる王である】

第一のアダムは、創造された時に、すべての被造物を支配する王でした。アダムは、天主のもとに置かれ、成聖の恩寵の状態に生き、天主の友として、そして永遠の命を受けるべき、永遠の世継ぎを得るべき、天国の遺産を受けるべきものとして創造されました。アダムは動植物にさえも命令をすることができました。すべてはアダムの支配下にありました。

しかし、アダムとエヴァは罪を犯し、この秩序を破壊してしまいました。それは何を意味したかというと、王の地位を失ってしまったということです。もう、もはやアダムは命令しても自分の身体さえも、肉欲は反抗するようになり、自然界もアダムに茨を生み出し、そしてすべては苦しみを生み出すようになってしまいました。死を生み出してしまいました。王の地位は失われてしまいました。

アダムは、第二のアダム・贖い主を待つべき者となりました。私たちアダムの子孫は、すべて贖い主を待つ者となりました。それは来るべき第二のアダムが、救い主が、私たちにもう一度王位を回復してくださるべき方であるからです。

アダムに起こったことは、これは来るべきイエズス・キリストの前兆でした…聖ボナヴェントーラは言います…アダムはたった一人でいるのはよくないと天主が思われたので、アダムは眠りにつかされます。眠っているアダムの間から、そのわき腹から、骨からエヴァがつくられます…聖ボナヴェントーラは言います…いったい天主はなぜエヴァをアダムの骨からしか作られなかったのか? アダムのように土からも作れたのではないか? アダムに痛みを与えずに骨をとることもできたのではないか? なぜわざわざアダムは眠らされなければならなかったのか?…聖ボナヴェントーラはいいます…これは、アダムの眠りがイエズス・キリストの死を、第二のアダムの死を、十字架の上での死を意味させるためにわざと、ご計画のうちに眠りにつかせたのだ、と聖ボナヴェントーラ解説しています。

旧約聖書に行われてきたすべての出来事はイエズス・キリストを予告するものでした。つまりイエズス・キリストの受難を予告するものであって、私たちがどのようにして超自然のいのちを回復するかについて予告するものでした。それは第二のアダム、イエズス・キリストにおいて、その御血において回復されるものでした。

【2:イエズスは王として十字架によって王国を回復してくださった】

では第二に、どうやってイエズス様は私たちのために、王国を、超自然の完璧さを、回復してくださったのでしょうか。

ちょうど私たちに超自然のお恵みがないということは、成聖の恩寵がないということは、最も大切なものを欠いているということです。車にタイヤがない、あるいは飛行機に羽がない、あるいはコンピューターにその最も大切な部品がない、まったく役に立たない、それと同じです。

私たちにもしも超自然のお恵みが無かったら、この人生の最も大切な意味がなくなってしまうからです。

イエズス様はこれを回復しようとしました。その回復はご受難でした。十字架の木によるものでした。

イエズス様は王として、十字架の上に磔になります。イエズス様を王として茨の冠を被せられます。イエズス・キリストは、ですから私たちをこの十字架の御旗のもとにお呼びになっています。私たちもイエズス様とともに王位につくように。イエズス・キリストの天の遺産を王として支配するように、招いています。しかしそれにはたった一つの道しかありません。

旧約時代の全ての神秘を理解する鍵はイエズス・キリストであるように、私たちのいま生きている人生の人類の歴史の私たちの生活の深い意味を理解するのは、そしてこれに意味を与えるのは、イエズス・キリスト以外に何もありません。

なぜ私たちは病になるのか、なぜ苦しむのか、裏切られるのか、辱めを受けるのか、なぜここでこのようなことが起こるのか、すべてイエズス・キリストが私たちの人生に意味を与える鍵を持っています。

すべては復活のためであって、永遠の命のためであって、私たちがイエズス・キリストとともに王位につくためです。

イエズス・キリストの受けた茨の冠の王冠、あるいはその王の玉座である十字架、これを見ると私たちもこれを拒否することは出来なくなります。私たちの愛する贖い主・王が私たちに模範を見せてくださったのですから、どうして私たちがこの世のプリンス、この世の支配者、悪魔の提供する王冠を、甘い快楽の王冠を被って、イエズス・キリストからくださる王冠を捨てることができるでしょうか。

【3:遷善の決心】

最後に、王たるイエズス・キリストに忠実である恵みを請い求めましょう。遷善の決心を立てましょう。

もちろんイエズス・キリストは、この地上において諸国の全世界における王として、国際社会の王として、認められなければなりません。しかしその前に、イエズス様は私たちの家庭の王として、私たちの王として認められて、そして従順に愛されて従われなければなりません。

私たちの生活がすべてが、イエズス様を王として宣言するものとなりますように、マリア様にお祈りしましょう。なぜかというと、マリア様こそ、全生涯がそうであったからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


眠りの聖化について:それはどういう意味か、なぜそうしなければならないのか、その方法はどんなものか

2023年01月31日 | お説教・霊的講話

眠りの聖化についての説教

ドモルネ神父

はじめに

今日のミサの福音は、嵐を静める奇跡についてのものです。この話には、興味深い点があります。イエズスは、舟の中で眠っておられました。しかし、私たちの主の行いはすべて聖なるものですから、それには主の眠りも含まれるのです。ナツィアンツォの聖グレゴリオは、私たちの主が御自ら眠りに従うことを望まれたのは、私たちに自分自身の眠りを聖化することを教えるためであった、と述べています。

そこで今日は、おそらくあまり一般的ではないテーマ、眠りの聖化についてお話しします。それはどういう意味でしょうか、なぜそうしなければならないのでしょうか、そして、その方法はどんなものでしょうか。

1.眠りの聖化

自分の行動を聖化するということは、その行動を聖なるものにするという意味です。私たちの行いが聖なるものとなるのは、それが天主のご意志に従い、私たちの天主への愛から行われたときです。天主のご意志は、おもに、天主が宇宙に定められた自然法則、十戒、私たちの主が創立されたカトリック教会の教え、そして私たちの身分に応じた義務を通して、私たちに示されます。私たちが天主への愛から行動するというのは、まず成聖の恩寵によって天主との友情を持つ状態にあり、次にその行動の間中、私たちの精神と心を天主に向けることです。私たちが何をするにしても、それは天主の栄光のため、そして天主への私たちの愛の証しとして行わなければなりません。

さて、眠りの問題に移りましょう。眠りは、食べたり、働いたり、勉強したりといった、私たち人間の行動の一部です。私たちは、他の様々な行動を聖化しなければならないように、私たちの眠りも聖化しなければなりません。言い換えれば、私たちの眠りは天主のご意志に適ったものでなければならず、眠っているとき、私たちの心は天主の方を向いていなければなりません。

2.眠りを聖化する理由

眠りを聖化することは重要です。なぜでしょうか? 第一に、眠りは、私たちの人生の中で大きな部分を占めているからです。眠りを聖化しないということは、私たちの霊的生活を発展させるための時間のうち相当な部分を失ってしまうことを意味します。さて、覚えておいていただきたいのは、地上での生活の中で、私たちの霊魂に成聖の恩寵が増加していくということは、永遠の栄光が増加していくことを意味する、ということです。ですから、私たちは時間を無駄にしてはならず、人生の一秒一秒を、成聖の恩寵を増加させるために使わなければなりません。

第二に、私たちを罪に導くような誘惑や官能的な動き、あるいは危険な想像に身をさらさないようにするために、私たちは眠りを聖化するように気をつけなければならないということです。実際、私たちの冷酷な敵である悪魔は、決して眠りません。私たちが眠りを聖化しないのなら、それは、戦いのときに見張りをしないで眠ってしまう兵士のようなものです。敵が来れば、その無防備な兵士を見つけて、簡単に倒してしまうでしょう。

最後に、自分の眠りを聖化することは、死を準備する一つの方法です。眠りが、私たちの一日の最後の行動であるように、死は、私たちのこの世での最後の行動だからです。眠っているとき、私たちは、死にとても似た状態にあります。また、人が分からないうちに眠りから死に至ることは、実際、それほど珍しいことではありません。夜、眠ったあと、目覚めなかった人も多くいます。私たちのうち誰が、自分が夜、眠ったあと、朝には必ず目が覚める、と確信をもっていうことができるでしょうか? 眠っている間に死ぬということは、死の準備をする時間がありませんから、恐ろしい死です。大罪の状態で眠りについた人は、地獄で目を覚ますのです。ですから、眠りを聖化すること、つまり天主と和解せずに眠りにつくことが決してないようにすることが重要なのです。

3.眠りを聖化する方法

眠りを聖化することがいかに重要であるかを申し上げましたが、次の論理的な疑問は、それを行う方法です。そのためには、外的な心構えと内的な心構えが必要です。

外的な心構えの一つ目は、決められた時刻に正確に床につくことです。これは一種の自己犠牲であり、怠惰に陥らないために、また、疲労とそれによる時間の浪費を避けるために、必要なことです。必要な時に眠らなければ、私たちは、自分の身分に応じた義務を果たすことができなくなります。

外的な心構えの二つ目は、衣服を脱いで床につくとき、常にキリスト教的な慎み深さを守り、品位に欠けるようなことは、すべて注意深く避けることです。また、ベッドに入った後は、官能や不純な誘惑につながるような柔らかいものを避けるように注意しなければなりません。

外的な心構えの三つ目は、もちろん、夕の祈りを忘れないことです。この祈りは、できればベッドの上ではなく、ひざまずいて行うべきです。そしてこの祈りの間に、自分の良心を調べ、その日の罪の赦しを天主に願い、翌日再びその罪に陥らないことを約束することを、怠ってはなりません。聖水で十字架のしるしをし、聖水をベッドに少し撒いておくのもよいことです。

これらの外的な心構えに加えて、床につくときには、敬虔な思いを抱いて、祈ることが勧められます。寝る前の短い霊的読書は、この点で非常に有益です。

私たちの主イエズス、童貞聖マリア、私たちの保護の聖人、そして私たちの守護の天使に自らを捧げ、祈りながら眠りにつくことは、眠りを聖化するための優れた内的な心構えです。私が子どもの頃、守護の天使と一緒に祈りながら眠りにつくと、私たちが眠っている間中、守護の天使がその祈りを続けてくれると聞いたことがあります。なるほど、その考えは、それほどおかしなものではありません。この例と比べてみましょう。家庭では、夕の祈りの最中に、幼い子どもたちが眠ってしまうことがよくあります。そのとき、両親や年上の子どもたちは、自分たちのため、そして寝てしまった幼い子どもたちのために祈りを続けます。彼らは、自分たちの上にだけでなく、眠ってしまった幼い子どもたちの上にも、天主の恩寵を引き出すのです。では、両親が幼い子どもたちのためにするよりも、私たちの守護の天使が私たちのためにしてくれることのほうが少ない、ということはあり得るでしょうか? 悪魔が決して眠らず、常に私たちを敗北させようとしているのですから、他方、私たちの守護の天使も決して眠らず、私たちを守り、私たちのために天主に祈ることを、決してやめはしないのです。ヤコブのはしごの幻視(創世記28章12節)を思い出してください。ヤコブが眠っていると、地にはしごが立てられていて、その頂が天にまで達しているのを見ました。天主の天使たちもそのはしごを上ったり下りたりし、天主ははしごに寄りかかっておられ、ヤコブを祝福されました。

最後に、眠りを聖化するための最後の勧めです。夜中に目が覚めたなら、再び眠りにつく前に、少し呼祷をして、心を天主に上げることを覚えておきましょう。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの主イエズスは、地上での生活の間、眠られましたが、その眠りは聖なるものでした。私たちの眠りも、聖なるものでなければなりません。私たちは、臨終の時にそうあることを望む状態で、毎晩眠りにつくようにしましょう。私たちの善き母であるマリアの祝福によって、いつも私たちの主の聖心の上で眠りにつくようにしましょう。


茨の冠を被せられたもうイエズス・キリスト、苦しみの第三玄義の黙想

2023年01月30日 | お説教・霊的講話

2022年10月29日(土)大阪での説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

今日は土曜日の聖母のミサを行っています。10月のロザリオの最後の土曜日です。また明日は王たるキリストの祝日です。ですから今日は王たるキリストの祝日に関係のあるロザリオの玄義を一緒に黙想いたしましょう。

特に茨の冠を被せられ給(たも)うイエズス・キリスト、苦しみの玄義の真中の玄義、第三玄義を一緒に黙想いたしましょう。

イエズス様は、私たちの罪を償うために人となられました。罪を償うために、苦しみの十字架の道をお歩みになりました。第二のアダムとして私たちの罪を贖おうとされました。アダムが最初の罪を犯した時から、全宇宙は人間に逆らい始め、大地さえも逆らいました。大地からは茨が生え出て、そして額に汗をして、労苦して、糧を得なければならなくなりました。その茨をイエズス様は自分の頭(かしら)に、額に受けました。

旧約聖書では最初にアブラハムが、ヤーヴェからイサアクを生贄に捧げるようにと命じられた時に、その通りにしました。アブラハムがイサアクを屠(ほふ)ろうとしたその瞬間、ヤーヴェからストップの声が掛かります。その代わりに茨に頭が絡まっていた子羊がみつかり、これを代りに捧げろと、言われました。

私たちの代わりに捧げられる子羊には茨の冠が被せられなければなりませんでした。天主の小羊である主が茨の冠を被るべきことは、すでに予告されていたのです。イエズス・キリストはまことの天主、まことの王です。しかしローマ兵はこれを喜劇・嘲笑(あざわら)い・冗談の、王の戴冠式と替えてしまいました。ローマ兵にとってはこの戴冠式は嘲(あざけ)りの戴冠式でした。しかし、イエズス・キリストはまさに茨の冠を被ることによって、私たちの本当の王となるべきでした。贖いの王となるための本当の戴冠式でした。

この戴冠式の前には準備がありました。

戴冠式の準備のために、ゲッセマネの園で弟子たちから捨てられて、たった一人で主に祈らなければなりませんでした。

戴冠式の準備のために、体全体は鞭で打たれなければなりませんでした。血で赤く染まらなければなりませんでした。

戴冠式が終わった後は、王としてポンシオ・ピラトによって宣言されました。ナザレトのイエズス、ユダヤ人の王、と十字架の上に捨て札が書かれて、ラテン語とヘブライ語とギリシャ語と三つの言語で宣言されました。つまりローマ当局によって世界を代表する言語で普遍的に王と宣言されました。

この茨の冠という王冠を被った主は十字架の道を歩まれます。私たちの御母マリア様は主に従いました。そして十字架のもとにたたずみ、決してその王のもとを離れようとしませんでした。

私たちの主は茨の王冠を被ったまま、贖いの王として、十字架のベッドで死の眠りにつきます。もしも私たちの本当の王が贖い主が茨の冠を被ったのならば、ご自分の王冠とされたのならば、私たちはなぜそれ以外のオリーヴ冠、月桂冠、あるいは宝石の王冠を選ぶことができるでしょうか。

ぜひマリア様にお祈りいたしましょう。私たちの王に倣うことができますように。私たちの王の良き臣下として僕(しもべ)として、主の御国にいるものとして、同じ十字架の御旗のもとに主と共にいることができますようにお祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ユダ「愛するものよ、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰のために戦えと、あなたたちにすすめる」

2023年01月30日 | お説教・霊的講話

2022年10月28日(金)大阪での説教

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。

今日は、聖シモンとユダの使徒の祝日を祝っています。

多くの祝日が続いています。今日の使徒の祝日、主日は王たるキリストの祝日、火曜日11月1日は諸聖人の大祝日、また11月2日は死者の日です。できるだけミサに与るようになさってください。特に、ハロウィンの罪の償いをするためにもミサに与ってください。

では今日は、聖使徒シモンと聖ユダの祝日です。
この使徒たちはどのような人たちだったのでしょうか。一緒に黙想して遷善の決心を立てましょう。

典礼によるとすでに4世紀の頃から、聖シモンと聖ユダは、一緒に祝っています。離れることなく同じ日に祝っています。

聖シモンはカナネアの人で、熱心なシモンというあだ名が付けられていました。この聖シモンはエジプトに行って最初に宣教して、ついにはペルシャに行きました。

聖ユダはタデオとも言われており、新約聖書の中に聖ユダの手紙というのがありますが、それを書いた人です。ユダの書簡では自分を「イエズス・キリストのしもべ、ヤコボの兄弟ユダ」として、ヤコボの兄弟と言っています。聖ヤコボの手紙を書いたあのヤコボです。

聖ユダはメソポタミアで宣教して、そしてペルシャに行きました。ペルシャで聖シモンと遭って、そして二人一緒に働いてついに殉教した、と伝えられています。

聖ユダの書簡のなかには、伝えられた教えから離れて悪魔に身を売ってしまった、身体を汚してしまった人々について警告をしています。そのような人々には罰があると、ソドムとゴモラのことを思いださせています。ちょうどこの日に、私たちがこの頃に聖シモンと聖ユダの祝日を祝うのは、まさに私たちが信仰から離れてしまわないように、この世が私たちを憎んだとしてもそれに驚いてはいけない、ということを思い起こさせてくれています。

「愛するものよ、私は、私たちの共同の救霊についてあなたたちに手紙を書こうと心掛けていたが、ひとたび聖徒たちに伝えられた信仰のために戦えと、あなたたちにすすめる手紙を書く必要を感じた。あなたたちの間に、ある人々がしのびこんだからである。かれらは、古くから、かの裁きに定められている人々であり、私たちの恩寵を淫乱に変え、私たちの唯一人の師であり主であるイエズス・キリストをいなむ不敬な人々である。あなたたちがすべてを知っているにしても、私は、主がエジプトの地から人々を救い出してから不信仰な人々を亡ぼされたことを、あなたたちに、もう一度思い出させたい。また自分たちの優先権を守らず、自分の席をすてた天使たちを、主は永遠の鎖でしばり、偉大な日の審判までくらやみの底にとどめられた。ソドマとゴモラと同様にその付近の町々も、淫行にふけり、異なる肉におぼれたので、見せしめのために永遠の火の罰をうけた。この人たちも気が狂って肉を汚し、天主の主権を軽んじ、光栄あるものたちをののしる。…」

この世はイエズス様の愛を、イエズス様の愛の掟を、全く理由もなく憎みます。イエズス様を憎む者は御父を憎む者であって、イエズス様を受けないものは御父をも受けません、知りません。彼らは残念ながら、闇・サタンの悪魔の支配下のもとに知らないうちに入ってしまっています。昨今のハロウィンというのもおそらくその現象の一つに違いありません。主を離れた霊魂たちが、もともとは諸聖人の祝日であったものを別の形で悪魔を祝うかのように、世界中で大騒ぎしています。是非聖シモンとユダにお祈りいたしましょう。私たちがイエズス・キリストの愛に留まりますように、信仰に留まりますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


一人の王官がイエズスを探しに来て「主よ、あの子が死なないうちにすぐに来てください」と願った。どのような道徳的な意味を持っているのか?

2023年01月30日 | お説教・霊的講話

2022年10月23日主日 東京での説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音では、一人の王官がイエズスを探しに来て「主よ、あの子が死なないうちにすぐに来てください」と願いました。今日のこの出来事が私たちにとってどのような道徳的な意味を持っているのか、一緒に黙想いたしましょう。
特に理性が霊魂の王であるということについて、また霊魂を病に至らせる情念passioということについて一緒に黙想いたしましょう。

聖トマス・アクィナスによると、今日の福音の箇所の道徳的な意味は次の通りだと言っています。聖書の道徳的な意味というのは、“頭(かしら)であるキリストが行ったので私たちもしなければならない”意味と言います。そのようなことを、道徳的な意味で解釈する、と言います。

(1)理性は人間の王

さて聖トマス・アクィナスによると、理性というのは、知性と意志のことです。理性は、霊魂の王です。何故かというと理性が人間の全てを支配するからです。人間の愛情も、何を愛するかということも、理性によって導かれています。霊魂の他の全ての力も理性に従います。ですから、もしも私たちが理性に従っているのならば、秩序が生まれ、人間全体といういわば「王国」が保たれることになります。しかし、理性ではなくて無秩序な情念に導かれてしまうならば、あるいはそのような情念に抵抗しない時、つまり理性が「王」として支配しない時、すると私たちの愛情、つまり「息子」も病に陥ってしまいます。善から離れて悪に傾いてしまうのです。

どこで息子が病気になったのか、どこで熱が出て死にそうかというと、カファルナウムでした。カファルナウムというのは、ヘブライ語では「豊かさ」とか「慰め」という意味です。つまり、物質的な豊かさが霊魂の情念をふるい起たせてしまって、そしてこの病気の原因となったと、聖トマス・アクィナスは説明しています。こういう意味に適応できると、説明しています。

(2)悪しき情念をコントロールする

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、理性が情念に抵抗しないと霊魂が死に至ってしまうということを教えて、私たちが情念をコントロールしなければならないということを説明しています。

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、情念それ自体は罪ではない、悪ではないと言っています。もっと正確に言うと、情念passioが理性に支配されている限り、これは霊魂にとって善を為すと言います。しかし、これがコントロールされていない時に、すべてが情念によって支配されてしまうので、善と悪との区別ができなくなってしまって、病に陥ると言います。そして私たちは情念の奴隷となってしまう。真理が暗んでしまう、と説明します。

どういうことかというと、理性が正しく情念を支配しない時、例えば「悲しみ」というのを例にとってみましょう。他人の善を「自分の悪」だと考える時に、他人の善を喜ぶ代りに悲しんでしまいます。するとこれは嫉妬です。

しかし情念を正しくコントロールするなら、よいことになります。たとえば、おなじ悲しみを例にとってみると、他人の悪をみて自分の悪として悲しむならこれは憐れみになります。あるいは自分の過去の罪を自分の現在の悪として悲しむのならば、これは痛悔です。ですから理性が情念を正しく支配しなければならないのです。

ではどのようにしたらよいのでしょうか。どのようにしたら情念の奴隷状態から抜け出せることが、あるいは情念の奴隷とならないようにすることが、できるでしょうか。

聖ヤコボはこう言います。「私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。」(ヤコボ3:3)

聖アルフォンソ・デ・リゴリは、この言葉を引用して、私たちは情念を馬のように取り扱わなければならない、つまり悪い悪しき感情が、情念が出るや否や、理性の轡(くつわ)をはめてコントロールしなければならない、もしもその代わりに情念の要求のままに従ってしまうのならば、私たちは野獣のレベルにまで落ちてしまう、理性の賜物をいただいて生まれてきていながら、情念に従って野獣のようになってしまうのは、人間の品格を貶(おとし)めて、恥ずべきことである、といいます。

もしもそれを続けるのならば、つまり理性と天主とを軽んじて情念のままに従って生きてしまうのならば、天主はついには罰としてその邪欲のままに私たちをうち捨てておかれるだろう、といいます。
ローマ人への手紙の中で、聖パウロはこう書いています。「天主は、かれらのよこしまな心のままに、不当なことをおこなうにまかせられた。…」
これは最大の罰です。ですから私たちはこの状態からすぐに出なければなりません。

(3)「自分の主要な悪しき情念」を見出してこれを征服する

この悪しき情念というのは、聖アルフォンソ・デ・リゴリによると 自己愛から生じています。ですから自己愛という雑草を抜き取らなければなりません。どうして抜き取るかというと主は言われます。「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)

聖アルフォンソ・デ・リゴリによると、「自分の主要な悪しき情念」を見出してこれを征服するならば、他のものも簡単に制御できると言っています。「主要な悪しき情念」とは人によっていろいろ異なっていますけれど、まず自分にとって一番強く感ずる悪い情念のことです。しかし、そのままにのさばらすと火が付いたように熱がでたようにますます燃え広がってしまいます。

聖アルフォンソ・デ・リゴリの指摘によると、ヘロデ王は、野心のままに子供たちの命を幼子たちのいのちを奪った。あるいはイギリスのヘンリー八世は、女性に対する情念から、国全体を教会から離れさせ、また聖なる人々を処刑した。そしてついには最期に信仰を失った。情念に目をくらまされて、自分の快楽だけを追求してしまった。

ですから私たちは小さなうちに、できるうちに、情念を制御しなければなりません。傷口もすぐに閉じないと治癒できない腫瘍になってしまいます。あるいは、木もまだ小さいうちならば簡単に引き抜くことができますが、根が張った大木になってしまえば、それを引き抜くのは非常に困難です。

(4)祈る

ではどうしたらよいでしょうか。自己愛を捨てて イエズスの十字架に従うほかには何をしたら良いでしょうか。
聖アルフォンソ・デ・リゴリは、その最高の方法は天主に祈ることであると教えています。特にこの情念が激しい時には、ますます祈るべきである、と教えています。

では遷善の決心を取りましょう。私たちにとって悪しき情念とはいったい何でしょうか?これを見いだして、私たちがすべてを理性でコントロールすることができるお恵みを請い求めましょう。いつも理性が制御している状態を請い求めましょう。

今日の王官のように、霊魂が死なないうちに主に来ていただいて癒してくださることを願わなければなりません。が、主がお望みになれば主が来ていただかなくても癒すことができます。でも私たちは主の方に馳せ寄り、これを請い願わなければなりません。

聖伝のミサに与ることによってイエズスのもとに馳せ寄り、主に祈りましょう。最後にロザリオを通して、いつも情念を理性の支配下におかれて罪の汚れをまぬがれていたマリア様に倣って生活することができるようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年01月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日はフェレー司教様が東京で、カトリックの聖伝に従った典礼様式で堅振の秘跡を授けてくださいました。32人の愛する兄弟姉妹の皆様がキリストの兵士となる霊の刻印を受けました。昨日は、大阪で14人の兄弟姉妹がフェレー司教様から受けた堅振の秘跡で、聖霊の七つの賜物の充満を受けました。天主に感謝!受堅者の皆さま、おめでとうございます!大阪でも東京でも、私たちは恵みにあふれたとても幸福な一日を過ごすことができました。堅振の儀式は、やはり東京でも大阪でも、侍者の方々の素晴らしい動きでとても美しい典礼でした。

今日の東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計153人でした。大阪では30人でした。名古屋では13人でした。マリア様に感謝します!大阪と名古屋にはドモルネ神父さまがミッションに行ってくださいました。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、フェレー司教様のカバンを持つ役をさせていただきました。

東京では、午後にフェレー司教様が霊的講話をしてくださいました。カトリック的なまことの従順とは何か、また、全能の憐れみ深い天主が私たちに対して持っておられる無限の愛に基づく希望の徳についてお話を伺いました。聖ピオ十世会の司教様が、近い将来、すぐにまた来日されることを望みつつ司教さまからの祝福を受けてお別れしました。

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 153 including children.

09:00 confirmation and mass
M: 60 (incl. 10 children)
F: 65 (incl. 11 children)
Total: 125 (incl. 21 children)

11:30 mass
M: 13 (incl. 1 child)
F: 17 (incl. 1 child)
Total: 30 (incl. 2 children)

Total of 2 masses (excl. 2 persons who participated in multiple masses)
M: 72 (incl. 11 children)
F: 81 (incl. 12 children)
Total: 153 (incl. 23 children)

'Party for confirmands and family members'
Total: around 70 people incl. children

Conference by Bishop Fellay:
M: 20 (incl. 1 child)
F: 22 (incl. 1 child)
Total: 42 (incl. 2 children)


【参考情報】ヴィガノ大司教の説教:ローマにおける聖ペトロの司教座の祝日に:天主が聖なる教皇を与えてくださるよう祈ろう

2023年01月28日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ヴィガノ大司教の説教:ローマにおける聖ペトロの司教座の祝日に:天主が聖なる教皇を与えてくださるよう祈ろう

その沈黙によって、彼らは、聖なる教会の名誉を守ることも、素朴な人々をつまずきから守ることもありません。それどころか、小羊の花嫁を不名誉と屈辱に陥れ、まさに大洪水の瞬間に、救いの箱舟から信者を追い払っているのです。

Abp. Viganò on Feast of St. Peter’s Chair in Rome: Pray that God Will “Grant Us a Holy Pope”
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2023年1月23日


CATHEDRA VERITATIS
真理の司教座

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教
ローマにおける聖ペトロの教座の祝日について

Deus, qui beato Petro Apostolo tuo,
collatis clavibus regni cælestis,
ligandi atque solvendi pontificium tradidisti:
concede; ut, intercessionis ejus auxilio,
a peccatorum nostrorum nexibus liberemur.
使徒聖ペトロに、
天の国の鍵を渡し、
つなぎかつ解く権能を与え給うた天主よ、
その取り次ぎによって、
われらを、罪の鎖より解き放ち給え。
【集祷文】

イエズス・キリストに讃美

今日(1月18日)、ローマにある教会は、聖ペトロの司教座の祝日をお祝いしています。この祝日によって、私たちの主が使徒のかしらに授けられた権威が、この司教座において、その権威の象徴と教会的な表現を見いだすためです。このお祝いは3世紀から行われていた痕跡が見られますが、ルター派の異端の時代に、ローマ市に使徒聖ペトロがいたことが否定されたのに対応して、パウロ四世が〈ペトロがローマで最初に座した司教座〉(qua primum Romæ sedit Petrus)の祝日が1月18日に行われるように定めたのは、1588年のことでした。聖ペトロの教座のもう一つの祝日は、聖ペトロが設立した最初の司教区であるアンティオキアの司教座のためのもので、全世界の教会で2月22日に祝われます。

次の重要な点を指摘させてください。ちょうど人間の体が、病気にかかったときに抗体を強化することで、病気に感染したときそれに打ち勝つことができるように、教会という体も、異端によって脅かされた教義の各面をそれまでより鋭く肯定することで、誤謬の伝染が発生したときに自らの身を守ります。この理由から、教会は偉大な知恵をもって、ある時代に信仰の真理を宣べ伝えますが、それ以前にはそうすることはありませんでした。なぜなら、それらの真理は、それまでは信者がそれほど明示的ではない形で信じていたものであり、まだそれらの真理を詳細に記述する必要はなかったからです。ニケア公会議の聖なる決議文は、アリウス派が私たちの主の神性を否定したことに応え、古代の典礼の素晴らしい決議文の表現を繰り返しています。ミサの犠牲的価値や全実体変化、追悼、贖宥が否定されたことに対しては、トリエント公会議の聖なる決議文、およびその決議文とともに典礼の崇高なテキストが応えました。今日の祝日は、使徒ペトロによるローマ教区の創設を反教皇派が否定したことに応えたもので、まさにプロテスタントが異議を唱えた歴史的真実を繰り返し、それに由来する教理を強化するために、パウロ四世が望んだ祝日なのです。

過去60年間、キリストの教会にはびこってきた異端者とその新近代主義の信奉者たちは、逆の行動を取っています。また、カトリックの教導権をあからさまに否定しない場合には、教導権について沈黙し、それを省略し、そして、教導権を曖昧にしてそれを否定する人たちにも受け入れられるような形で定式化し、教導権を弱めようと試みるのです。これはまさに過去の異端者たちが行ったことです。これは、また第二バチカン公会議で革新主義者たちも行ったことです。これはさらに、正式な異端として非難されないために、教会が自らに付与したその「免疫防御」を消し去って、信者を誤謬に陥れ、異端という疫病に感染させようとする人々も行ったことです。

神秘体が何世紀にもわたって――特にキリスト教の時代の第二の千年期の間に――賢明に発展させてきたほとんどすべてのもの、つまり、ちょうど子どもが大人になって身体と精神が強くなるように、神秘体が調和をとりつつ成長させてきたものが、今や、キリスト教古代の原初の単純さに戻るというまやかしの口実で、また、教会の敵どもを喜ばせるためにカトリック信仰に不純物を混ぜるという言葉にできない目的で、故意に隠され検閲されてきたのです。

モンティーニ【パウロ六世】のミサ典礼書を手に取ってみれば、その中に明確な異端があるとは分からないでしょう。しかし、聖伝のミサ典礼書と比較すれば、啓示された真理を守るために作られた多くの祈りが省略されていて、改革されたミサをルター派にさえ受け入れられるようにするのに十分すぎるほどであることが分かるでしょう。そのことは、この致命的で曖昧な典礼の公布の後に、ルター派自身が認めています。このことを裏付けるように、ローマとアンティオキアにおける聖ペトロの教座の祝日でさえも、近代主義者のセクトが教会の領域で採用したキャンセル文化の名において、一つに統合されたのです。それは、目覚めた(ウォウクの)左派が世俗の領域でキャンセル文化を使用する前のことでした。

今日、私たちは、天才ベルニーニがバチカン大聖堂の後陣の祭壇に芸術的につくり上げた「使徒の椅子【使徒座】」(Cathedra Apostolica)で象徴的に表される、教皇職の栄光をお祝いしています。この大聖堂には、聖霊を描いた雪花石膏(alabaster)【細かい結晶が集まってできた白色半透明の石膏】の窓があり、また4人の教会博士、すなわちラテン教会では聖アウグスティヌスと聖アンブロシウス、ギリシャ教会では聖アタナシウスと聖ヨハネ・クリュゾストムスに守られています。何世紀にもわたってそのままの形で残されてきた当初の設計では、椅子は祭壇の上に置かれていましたが、革新主義者の破壊的な怒りはそれを許さず、後陣と【殉教による信仰】告白の天蓋(baldacchino)の間に移動させました。しかし、祭壇と椅子の建築的な一体性(今日では意図的に抹消されています)にこそ、ペトロの首位権の教理の基礎があるのが分かります。この教理は、キリストの象徴である犠牲の祭壇が石でできているように、〈隅の親石〉(lapis angularis)であるキリストを土台としているのです。私たちは今、重大な危機と背教――【信者たちによる背教だけでなく】ペトロが最初に座した玉座【教皇による背教】のレベルにまで上ってしまった、――という歴史的な局面において、教皇職を祝っています。

また、私たちの心が、非常に多くの霊魂と天主の御稜威(みいつ)の栄光を損なう革新主義者の荒廃によって引き起こされる廃墟を見て打ちひしがれているとき、また、私たちが、〈教会に対してうち勝てぬ〉(Non prævalebunt)と言われた私たちの主の約束と、この数十年に位階階級が犯した罪の罰として御摂理が教会のトップにお与えになった人物によって広められた絶え間のない異端とつまずきとを、どのように結びつけて理解できるのかの照らしを天から懇願しているとき、まだ修道院に隔離された教皇がいると自分を欺いている人々の間の分裂を私たちが見ているとき…、そして、ベルゴリオ【教皇フランシスコ】が強く望んだ邪悪なシノドスの旅で北欧の教区における離教を見ているとき、私たちは故レオ十三世の予言を思い出します。彼は、サタンと背教の天使に対する悪魔払いの祈りに、その当時は、ほとんどつまずきを与えるもののように聞こえた、以下の恐ろしい言葉を挿入することを望みましたが、今日では、その言葉の持つ超自然の意味を私たちは理解することができるのです。

Ecclesiam, Agni immaculati sponsam, faverrimi hostes repleverunt amaritudinibus, inebriarunt absinthio; Ad omnia desiderabilia ejus impias miserunt manus. Ubi sedes beatissimi Petri et Cathedra veritatis ad lucem gentium constituta est, ibi thronum posuerunt abominationis et impietatis suæ; ut percusso Pastore, et gregem disperse valeant.

「汚れなき小羊【イエズス・キリスト】の浄配なる教会をいとも狡猾な敵どもは、苦々しさで満たし、悪酒で泥酔させたり。教会の全ての聖なる宝に不敬な手をかけたり。至聖なるペトロの聖座にして異邦人らの光となるべき真理の座が据えられし場所で、まさに彼らはいとわしきものの不遜な王座を置きたり。そは、牧者を打ちて、群れを散らすためなり。」

これは、でたらめに書かれたものではありません。主が教会の聖職者らを試すためにサタンに約100年の期間をお与えになるという幻視をレオ十三世がミサの終わりに見た後に、書かれたものです。この言葉は、その50年前のラ・サレットにおける聖母のメッセージ「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう」を繰り返すものであり、また同じように聖母が第二バチカン公会議と典礼改革による位階階級の背教を予言したファチマ第三の秘密より、十数年前のものです。

何世紀もの間、信者は誰でもローマを真理の道しるべとして仰ぐことができました。アレクサンデル六世のような歴史上最も議論を呼んだ教皇でさえも、大胆にも神聖な使徒的権威を簒奪しようとはしませんでしたし、教会を破壊し、教導権に不純物を混ぜ、道徳を腐敗させ、典礼を矮小化しようとした教皇はいませんでした。最も衝撃的な嵐のただ中でも、ペトロの椅子は揺らぐことなく、迫害にもかかわらず、キリストから授けられた使命「私の小羊を牧せよ。私の羊を牧せよ」(ヨハネ21章15-17節)を怠ることは決してありませんでした。今日、そしてこの10年間、主の群れの小羊や羊を牧することは、現在ペトロの玉座を占める者【教皇フランシスコ】にとっては「荘厳な愚かさ」とみなされ、主が使徒たちに与えられた命令「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)は、まるで聖なる教会の神聖な使命がセクトの異端的プロパガンダにたとえられるかのような、嘆かわしい「改宗至上主義」(proselytism)とみなされているのです。彼は、2013年10月1日、2014年1月6日、2016年9月24日、2018年5月3日、9月30日、2019年6月6日、12月20日、2020年4月25日、そしてちょうど1週間前の2023年1月11日にもまた、そう言っています。

ですから、ここにおいて、第二バチカン公会議だったものの痕跡が、その最後の息も絶え絶えの痕跡が崩壊します。公会議は、「宣教」(missionarietà)を合言葉にしながらも、異教化した世界にキリストを宣べ伝えるためには、キリストが使徒たちに教えられ、教会が忠実に守るべき義務を負う超自然的真理を信じることがまず第一に必要であるということを理解しなかったのですから。時代のメンタリティーを喜ばせるために、カトリックの教理を薄めて、黙殺し、裏切ることは、信仰のわざではありません。なぜなら、この信仰の徳は、至高の真理である天主に基づいているからであり、また、天主の啓示する権威や救いの愛を拒絶すれば、誰も天主の救いや助けを望むことはできないからです。それは、愛徳のわざではありません。なぜなら、天主の本質そのものを否定すれば、誰も天主を愛することはできないからです。

カトリック信者だけでなく、世界の人々にもつまずきを引き起こすほどに至った、この位階階級の指導者たちの背教を可能にした傷、教会という体を襲った〈傷〉(vulnus)とは何なのでしょうか。それは、権威の濫用です。それは、権威に付随した力を、権威そのものを正当化する目的とは正反対の目的のために行使することが可能だと考えることです。それは、天主に代わって、何が正しくて何が正しくないかを決めるための天主の至高の力を簒奪し、進歩と進化の名の下に、今でも人々に言えることと古いとみなされるべきことを決めるということです。それは、聖なる鍵の力を使って、つなぐべきものを解き、解くべきものをつなぐことです。それは、権威は天主に属し、他の誰にも属さないこと、そして、国々の統治者も教会の高位聖職者もすべて、王にして大司祭であるキリストに位階的に服従していることを理解しないことです。要するに、教えの座を祭壇から切り離すこと、代理者や摂政の権威を、その権威を完全に所有し、かつその起源であるがゆえに、その権威を聖とし、上から承認するお方の権威から切り離すことなのです。

ローマ教皇の称号には、「キリストの代理者」(Christi Vicarius)と並んで、「天主のしもべのしもべ」(Servus servorum Dei)というものがあります。前者がベルゴリオによって軽蔑的に拒否されたとすれば、後者を保持するという彼の選択は、彼の言動が示すように、挑発的なもののように聞こえます。

教会の高位聖職者たちは、いかなる陰謀や策謀が「サタンのしもべのしもべ」として行動する者を玉座に導いたのかもしれないことを明らかにするよう、また、なぜ彼らが彼の行き過ぎを恐れながらも手助けしたり、あるいは、この高慢な異端の暴君の共犯者になったりしたのかを明らかにするよう、問われる日が来るでしょう。知っていながら、誤った賢明【慎重さ】の感覚から沈黙している者たちは震え上がるように。その沈黙によって、彼らは、聖なる教会の名誉を守ることも、素朴な人々をつまずきから守ることもありません。それどころか、小羊の花嫁を不名誉と屈辱に陥れ、まさに大洪水の瞬間に、救いの箱舟から信者を追い払っているのです。

主が私たちに聖なる教皇と聖なる統治者たちを与えてくださるよう祈りましょう。この長い試練の期間に終止符を打ってくださるよう天主に懇願しましょう。この試練のおかげで、天主がお許しになったあらゆる出来事と同様に、キリストにおいてすべてを復興させる(instaurare omnia in Christo)ことがいかに基本的なことかを、キリストの主権を拒絶する世界がいかに――文字通りの――地獄であるかを、そして、自らの王の衣――十字架上の小羊の血で染められた衣――を軽蔑をもって剥ぎ取り、権力者の、新世界秩序の、グローバリスト・セクトのしもべとなる宗教がさらにひどく地獄的であるかを、私たちは理解している真っ最中なのです。

良き時代が来たらんことを。キリストの平和が来たらんことを。キリストの御国が来たらんことを(Tempora bona veniant. Pax Christi veniat. Regnum Christi veniat.)【聖歌クリストゥス・ヴィンチットより】

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年1月18日
ローマで最初に座した使徒聖ペトロの教座
Cathedra Sancti Petri Apostoli, qua primum Romæ sedit

英語版

Abp. Viganò on Feast of St. Peter's Chair in Rome: Pray that God Will "Grant Us a Holy Pope" - Catholic Family News

イタリア語版

Viganò, Omelia per la Cattedra di San Pietro, Lambita da Apostasia ed Eresia.


堅振の秘跡についての説教(4)堅振の秘跡の聖伝の典礼の意味と、1970年に作られたこの秘跡の新しい典礼について

2023年01月27日 | お説教・霊的講話

堅振の秘跡についての説教(4)堅振の秘跡の儀式について

ドモルネ神父

はじめに

今日は、堅振の秘跡について、もう一度お話しします。具体的に言えば、この秘跡の聖伝の典礼の意味と、1970年に作られたこの秘跡の新しい典礼についてです。

1.堅振の秘跡の典礼

秘跡の典礼とは、秘跡が行われる際の儀式や祈りのことを意味します。これらの儀式と祈りには、2種類あります。秘跡の有効性のために必要不可欠なものと、不可欠ではありませんが、秘跡の効果を外部に表し、秘跡をよく受けるために、霊魂を準備させるものです。

堅振の秘跡について、不可欠な要素は、頭の上に手を置き、額に聖香油を十字架の形に塗り、同時に、次の言葉を唱えることです。「われ父と子と聖霊との御名によりて、なんじに十字架のしるしをなし、たすかりの香油をもってなんじを堅固にする」。これは司教、あるいは司教からその権能を授かった司祭が行わなければなりません。

その他の儀式と祈りは、聖伝の典礼によれば、次のとおりです。額に油を塗る前に、司教のみが、受堅者の上に手をかざしながら、聖霊に祈ります。額に油を塗った後、司教は受堅者の頬を軽くたたき、それから受堅者のために祈り、受堅者を祝福します。最後に、司教は受堅者に、使徒信経、天にまします、めでたしを唱えさせ、儀式を終えます。

2.これらの儀式の意味

これらいくつかの儀式の意味について、少し説明しましょう。

◆堅信の秘跡を授ける人は司教であり、司祭ではありません。それはなぜでしょうか? 堅振は、霊的な成熟と力が授けられる秘跡ですから、それを授けることは、司祭の権能の充満を持つ役務者、すなわち司教に属するのです。

◆司教は、受堅者の頭の上に手を置いて、堅振の秘跡を授けます。なぜ、このようにするのでしょうか? 人の上に手を置くという動作は、その人に権能や使命を伝えることを表します。堅振の秘跡において、その動作は、聖霊と、私たちの主イエズスを公に告白する使命の伝達を表します。使徒行録には、使徒たちが手を置いて堅振の秘跡を授けたことが記されています。「サマリア人は主イエズスの御名によって洗礼を受けていただけであった。そこで、ペトロとヨハネが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(使徒行録8章16、17)。

◆司教は、聖香油を額に塗ります。聖香油は、聖木曜日に司教によって祝別された、オリーブ油と香を混ぜたものです。オリーブ油と香は、偶然に選ばれたものではなく、それらには霊的な意味が込められています。第一に、オリーブ油には、健康的なビタミン、脂肪、抗酸化物質がたくさん含まれており、恩寵の豊かさを象徴しています。第二に、オリーブ油を肌に塗ると、スムーズに浸透していきます。これは、聖霊が私たちの霊魂にスムーズに入り込み、その恩寵と賜物で霊魂を豊かにしてくださることの象徴です。また、オリーブ油を肌に塗ると、筋肉がより柔らかくなります。そのため、その昔、レスリング選手は、試合に備えるため、筋肉にオリーブ油をすりこんでいたそうです。ですから、オリーブ油は、私たちがキリストのために戦うことができるように、聖霊が私たちを強めてくださることを表しているのです。
香は貴重な樹液です。その心地よい香りは、霊魂の中にある恩寵と聖徳の甘い香りを表します。香りが魅力的であるように、堅振によって完全になったキリスト教徒は、徳のある生活の模範によって、人々をキリストに引き付けなければならないのです。

◆司教は、額に十字架のしるしをします。なぜ、額にするのでしょうか? 堅振によって、私たちはキリストの兵士となり、王たるキリストの紋章、つまりそれによってキリストが悪魔を打ち負かした十字架のしるしを付けられるからです。また、額の十字架は、私たちの精神や心が、いつもキリストに向いていなければならないことを意味します。最後に、額は、私たちの体のうちで最も目につきやすい部分ですから、額の十字架は、堅振が私たちに、恐れたり恥じたりすることなく、キリストを公に告白する使命と力を授けてくれることを表します。

◆司教は、受堅者に、イエズス・キリストのためなら、どんな苦しみも、死さえも覚悟しなければならないことを思い出させるために、受堅者の頬をたたきます。

◆最後に司教は、受堅者に、使徒信経、天にまします、めでたしを唱えさせます。この三つの祈りに、カトリックの信仰全体が要約されているからです。

3.新しい堅振の儀式

ここで、新しい堅振の儀式について、少し述べておきましょう。堅振の儀式は、1970年に近代主義者たちによって修正されました。それは良い改革だったでしょうか、そうではなかったでしょうか? それは良い改革ではありませんでした。

• まず、教皇パウロ六世は、聖香油を準備する際に、いかなる植物油でも使用することを許可しました。彼は、世界の一部の地域では、オリーブ油が簡単に手に入らないことを指摘しました。しかし、神学者たちや教皇たちはずっと、オリーブ油がこの秘跡の有効性のために必要であると考えていました。オリーブ油は、堅振の秘跡で使用するよう、私たちの主イエズスが選ばれた物質です。誰もこれを変えることはできません。さらに、教皇パウロ六世が挙げた理由は、まったく納得のいくものではありませんでした。過去には、世界中どこでも、オリーブ油を手に入れるのは、今よりもっと難しかったのです。それでも、教皇たちは、聖香油を作るためにはオリーブ油を使う必要があると、論じ続けていました。ですから、聖香油を作るためにオリーブ油以外の油を使うことは、堅振の有効性に、非常に重大な疑問を投げかけることになります。

• もう一つの重大な問題は、額に油を塗る際に、司教が手を頭の上に置かないことです。しかし、神学者たちは、これを、この秘跡の有効性に不可欠なものだとみなしています。

• 儀式もまた変更されており、しかも、より良いものにはなっていません。新しい儀式によると、司祭たちが、司教と一緒に、聖霊に祈ります。そのため、司教は、堅振の本来の役務者のようには見えません。また、司教はもう、「われ父と子と聖霊との御名によりて、なんじに十字架のしるしをなし、たすかりの香油をもってなんじを堅固にする」とは言いません。その代わりに、「聖霊の賜物を受けなさい」と言うのです。この言葉は、堅振が私たちをどのような者にするのか、正しく述べてはいません。また、新しい儀式では、司教はもう頬を軽くたたくことはありません。その代わりに、親しみを込めた動作とともに、励ましの言葉をかけるのです。ですから、受堅者はキリストの愛のためにどんな苦難にも耐える覚悟をしなければならない、というようには、もはや見えないのです。

しかし、近代主義者たちはなぜ、堅振の儀式を変更したのでしょうか? それは、信教の自由とエキュメニズムという彼らの誤った教理のせいです。近代主義者たちは、カトリック教徒が、地上におけるキリストの王権を拡大するために働くことを望んでいないのです。教皇フランシスコは2018年に、「キリスト教徒間の布教は、それ自体、重大な罪である」とさえ述べました。

結論

何日か後に堅振の秘跡を受けることになる、親愛なる信者の皆さん、祈り、償い、良い読書によって、また皆さんの心を童貞聖マリアと一致させることによって、準備を続けてください。使徒たちが聖霊降臨の日に聖霊を受ける準備をしたのは、この方法によってです。

すでに堅振の秘跡を受けている、親愛なる信者の皆さん、もうすぐ行われる堅振の儀式を機に、自分の堅振を思い出してください。自分の霊魂の中に堅振の霊印、キリストの兵士としての霊印を持っていることを思い出してください。みなさんは、人生のあらゆる機会にキリストを証しする力を授けられていることを思い出してください。私たちの主イエズスの、次のみ言葉を思い出してください。「あなたたちは世の光である。…だから、あなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はあなたたちのよい行いを見て、天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章14、16節)。


堅振の秘跡についての説教(3)堅振の儀式の心臓部:堅振の質料と形相:新しい堅振の問題点

2023年01月27日 | お説教・霊的講話

堅振の秘跡についての説教(3)

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちは先週、聖霊の七つの賜物、つまり上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏について黙想しました。
今回は堅振の秘跡の儀式についてお話しいたします。

(1)堅振の儀式の心臓部
堅振の典礼様式は初代教会がローマで行っていた古代の儀式に由来しています。この儀式の核心部分は、目に見えるしるしを与える部分と秘跡の言葉です。言い換えると、秘跡の質料と形相です。
堅振の秘跡の質料と形相について説明します。

【質料】
洗礼の秘跡の質料は、受洗者の額に流れる自然水でした。洗礼のためには、少し流れる程度の量の自然水が必要でした。
さて、洗礼の時の水に対応するような堅振の秘跡の質料は、「司教による按手」と「聖香油を塗油しながら受堅者の額に十字架のしるしをすること」です。
「按手」とは、手を頭の上に置くことです。【手を直接に置かずに伸ばすことを「掩手」(エンシュ)と言います。】
聖香油とは、司教が聖木曜に香(バルサム)を混ぜて聖別したオリーブ油のことです。旧約時代から王、預言者、司祭がオリーブ油を受けました。カトリック教会の全歴史を通じて一致している聖伝により、オリーブから絞られた油だけを堅振の秘跡の質料として使用しています。聖伝によればどのような植物油でもいいというわけではありません。この秘跡で塗られるオリーブ油は、聖霊の恵み、つまり聖寵がゆたかに注がれ、信仰をかためることを示します。キリストとは「油を注がれた者」という意味です。こうして受堅者はキリストにより良く与るのです。
香り高く、腐敗することのない香(バルサム)は、堅振を受けた人が、聖寵に強められて、キリスト教的な徳の香りを放ち、悪徳による腐敗から逃れることを示します。イエズス・キリストの快い香りを受堅者たちの生活が広めることを意味します。
額は恐れと恥しさのしるしのあらわれる部分ですから、額に十字架のしるしを塗油するのは、受堅者がイエズス・キリストの十字架を恥て顔を赤らめてはならない、またキリスト信者の名と身分を恥じないだけでなく、信仰の敵を恐れることがないように、という意味です。

【形相】
洗礼の秘跡の形相は、次のことばのことです。「某、われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて、なんじを洗う」。洗礼のこの言葉に対応するような堅振の形相は、「某、われ、なんじに十字架のしるしをなし、聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、救かりの聖香油をもってなんじに堅振を施す(なんじを堅固にする)」です。
以上が堅振の秘跡の質料と形相についてでした。

(2)堅振の典礼様式
では、堅振の秘跡の心臓部を取り囲む儀式を説明します。聖伝によれば、堅振の秘跡はミサとは別個のもので、通常はミサは、堅振の秘跡の直後に行われます。堅振の儀式は、三つの部分から構成され、最後に付属の祈りがついています。
1)聖霊を呼び求める
2)堅振の秘跡
3)ほおを打つ
4)最後の祈り
では詳しく見てみます。

1)聖霊を呼び求める
司教は立ったまま受堅者たちの方に向いて、両手を胸の前に合わせて次のように祈ります。受堅者たちは跪いて胸の前に手を合わせています。私たちにとって最悪の事態は罪を犯すことですから、とりわけ司教は受堅者らを「罪より守り給え」と次のように祈ります。「聖霊があなたたちに降臨し給い、いと高き天主の力があなたたちを罪より守り給わん事を。」
次に、司教は全ての受堅者たちの方に両手を伸ばします。これは聖寵を伝えるということを意味するしぐさです。手を伸ばしながら、聖霊が受験者たちを罪という悪魔の奴隷状態から抜け出させ、彼らが聖霊に属するように祈ります。
「全能永遠の天主、主は忝けなくも御身のこのしもべ等を水と聖霊とによりてを新たに生まれしめ給い、且つ彼らに全ての罪の赦しを賜い給うた。願わくは彼らに七つの形の御身の霊、聖なる慰め主を天から送り給え。」
司教は聖霊の七つの賜物を、上智と聡明との霊、賢慮と剛毅との霊、知識を孝愛との霊、主を畏れる霊と個々に呼び求めます。受堅者たちはそのたびにアメンと答えます。

2)堅振の秘跡の核心部分
司教は祭壇の前におかれた椅子に座ります。受堅者は代父あるいは代母に伴われて司教の前に跪き、代父母は立ったまま自分の右手を受者の右肩に置きます。
司教は、受堅者の霊名(堅振名)を一人ひとり尋ね、右手の親指の先で香油を付けて、それぞれの受堅者の頭の上に右手を置きます。つまり按手してこう言います。
「某、われ、なんじに十字架のしるしをなし」
司教はこう言いながら受堅者の額に親指で十字架を印します。さらに形相の言葉を続けます。
「救かりの聖香油をもってなんじに堅振を施す(なんじを堅固にする)」
右手で「聖父」「聖子」「聖霊」という言葉でそれぞれ十字架の印をして、つまり三回十字架のしるしをして、祈りを終えます。
「聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。」
受堅者はアメンと答えます。

3)ほおを打つ
続いて司教は「平和があなたともに」と言いながら、受堅者の頬を軽く打ちます。堅振を受ける人の頬を軽く打つのは、イエズス・キリストヘの信仰のために受ける屈辱や労苦をおおしく耐え忍ぶべきことを教えるためです。司教が同時に平和を祈るのは、勇気ある態度の報いとして平和が与えられることを意味しています。
これが終わると受堅者は立ち上がり、次の者が跪いて堅振を受けます。こうして全員が受け終わるまで続きます。

4)最後の祈り
全ての受堅者が堅振を受け終えると、アンティフォナ(交誦)を聖歌隊が歌います。私たちが今受けた秘跡を堅めてくださるように天主に祈ります。
次に、謹んで跪いている全ての受堅者たちに司教は最後の祝福を与えます。
最後に、司教は司教杖を手に持って、受堅者に向かい、立ちあがって主祷文、天使祝詞、使徒信経を唱えるように命じます。
以上が聖伝による堅振の秘跡の儀式の説明です。

(3)新しい堅振の問題点
では、今から50年前にできた新しい堅振について、どのような違いがあるか見てみましょう。

第二バチカン公会議以後、全ての秘跡が新しくなりました。それはエキュメニズムの影響をも受けたからです。そのためにプロテスタントによる考えが入り込んでしまいました。それによると秘跡とは、目に見えるしるし(象徴)だけであって聖寵は生み出さないとされます。何故ならプロテスタントによれば信仰のみで救われるとされるからです。たとえばルター派の「堅信礼」といわれるものは「秘跡」ではなく「信仰宣言」の一つです。
堅振とは天主の子供たちを、信仰のために戦うキリストの兵士とすることです。しかし、エキュメニズムのために第二バチカン公会議以後は、カトリック信者が信仰の戦いと武器を放棄するように指導されています。新しい堅振では司教が受堅者のほおを打つ儀式がなくなりました。新しいミサの中で行われる新しい堅振は、洗礼の約束の更新から始まり、ルター派の「堅信礼」という信仰宣言に良く似ていると言われています。

秘跡が変わった理由は、さらに「過越しの神秘」という新しい神学の影響を受けたからです。それによると罪の贖いとは、天主の正義を満足させるという伝統的な概念ではなく、むしろ天主の愛を表しているという側面だけが強調されています。新しい堅振では、七つの賜物は「知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心」となっていて、「主への敬畏」(主を畏れること)ということばが省かれています。

1971年8月15日に、形相が「たまものである聖霊のしるしを受けなさい」(Accipe Signaculum Doni Spiritus Sancti)ということばに変わりました。この新しい形相は東方教会の堅振(chrismation)の様式から来るとされています。【聖伝によると司教が「某、われ、なんじに十字架のしるしをなし、…なんじに堅振を施す(なんじを堅固にする)」と司教が行為しているのことがはっきりと表されていますが、新しい堅振では行為の主体が曖昧です。】

オリーブ油を使うことは旧約時代からの聖伝でしたが、1972年11月30日、パウロ六世は全ての植物油の使用を認可したので、堅振の秘跡の有効性に対する疑いはますます深刻なものとなってしまいました。

(3)遷善の決心
御昇天の時に主イエズスはこう言われました。「聖霊があなたたちの上にくだり、力をお与えくださる。あなたたちは、イェルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう」と。ギリシア語では、証人と殉教者とは同じ単語(μαρτύριον)です。
どんな場合でも私たちの信仰を決して恥ずることがないように、確固たる超自然の信仰を恵みをこい求めましょう。キリスト者は、キリストの御名と御旗つまり十字架を誇りに思います。最後までこの栄光を守ることができる聖寵を祈りましょう。

私たちの主はこう言われます。
「私と私のことばを恥じる人を、人の子もまた、自分の栄光と、おん父と聖天使たちとの栄光をもって来るそのとき、恥じるだろう。」(ルカ9:)
「私はいう。人々の前で私の味方だと宣言する人を、人の子もまた、天主の天使たちの前でかれの味方だと宣言する。しかし、人々の前で私をいなむものは、天主の天使たちの前でいなまれるだろう。」(ルカ12:)

日本の26万人以上の聖なる殉教者たちを見てください。【日本では記録が残っているだけでも4000人以上の殉教者がいます。江戸末期から明治初期を含めると26万人以上のキリシタン殉教者たちがいたと推定されています。】たとえば日本二十六聖殉教者の中には聖霊に満たされた日本の聖なる少年たちがいました。

広島の三原に着いた夜、16才のトマス小崎は母親に次のような遺書をしたためました。「母上様、主のお恵みに助けられながらこの手紙を書きます。わたくしたちは長崎で十字架につけられることになっています。どうかわたくしのことも、父上のことも何一つご心配なさらないでください。パライソ(天国)で母上様のおいでをお待ち申し上げております。母上様、臨終のときに、たと神父様がいらっしゃらなくとも、心の底から罪を痛悔し、イエズス様のお恵みをお願いすれば救いを全うするすることができます。人からどんなことをされようとも忍耐し、すべての人に愛をお示しください。また、ふたりの弟を異教徒の手にゆだねることのないように、たいせつに育ててください・・・・・。」

最年少で12才のルドビコ茨木少年は、殉教の1年前に受洗しました。共にいた司祭が逮捕された時、彼は除外されたのですが、捕えるよう願い出ました。長崎への死の行進中、いつも明るく朗らかにふるまい、ある茶屋で休憩中、唐津城主の弟寺沢八三郎が茨木のいたいけな姿に同情して、「信仰さえ捨てれば、わたしの家に引き取って武士にしてあげるが、どうだ」と言いました。ルドビコ茨木は顔色を変え「お奉行さま、あなたこそキリシタンにおなりませ。そして一緒に天国へ参りましょう」と、きっばり断わりました。西坂の丘の刑場では「自分の十字架はどこ」と尋ねました。十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄ります。十字架につけられた時、喜んで『パライソ(天国)、パライソ、イエズス、マリア』と言っていました。心には聖霊の恵みが宿っていたのです。

聖アントニオ少年は殉教の約1年前に京都に来て他の少年たちと共に教育を受けます。アントニオの父親は一行のあを追い、泣く泣くむすこに「おまえはまだ若いし、大きくなってから殉教してもおそくはない」とくどきました。しかし13才のアントニオは「デウス様に生命をささげるのに、年をとっているかどうかは問題ではありません。あの罪なき幼子たちも生まれてまもなくキリスト様のために殺されたではありませんか」と答えて、びくともしなかったのです。

主は言われます。「人々が、あなたたちを憎み、破門し、侮辱し、そして、人の子のために、あなたたちの名を不敬のものとして排斥するとき、あなたたちはしあわせである。その日には喜びおどれ。あなたたちは、天において偉大なむくいをうけるであろう。」(ルカ6:)

現代世界に生きる私たちは堅固な信仰を持つために、堅振の秘跡が必要です。堅振の秘跡をよく受けるために、続けてよく準備しましょう。聖霊のより多くの賜物をこい願いましょう。
受堅者の方々は、堅振の秘跡を受けるまでに良い告解をしてください。

洗礼の秘跡を堅振の秘跡で完成してくださる聖寵を主に感謝いたしましょう。
聖霊の浄配である聖母に祈りましょう。


堅振の秘跡についての説教(2)聖霊の七つの賜物:上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏について

2023年01月26日 | お説教・霊的講話

堅振の秘跡についての説教(2)

愛する兄弟姉妹の皆様、

1月28日、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂では、午前10時30分から堅振の秘跡が始まります。堅振の秘跡を受けようとする方々は、その前に必ず告解の秘跡を受けてください。できる方は前日の金曜日の夕方のミサの前に告解をすまし、土曜日にしか告解をすることができない受堅者のために配慮をお願い致します。

1月29日、東京では入谷ホールの三階で、午前9時から堅振の秘跡の儀式が開始します。堅振の秘跡を受けようとする方々は、その前に必ず告解の秘跡を受けてください。できる限り事前に(例えば、来週の主日である1月22日に、あるいは修道院で)良い告解を受けてください。来週の主日(1月22日)は、二回目のミサのあとで、堅振の儀式のリハーサルを予定しています。

私たちは既に、堅振の秘跡とは何か、そしてその効果は何かについて黙想しました。
今日は、聖霊の七つの賜物、つまり上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏について黙想しましょう。

(1)聖霊
堅振の秘跡は、私たちの霊魂において聖霊の現存を増加させます。何故なら、堅振の秘跡を受けることによって、私たちは霊的な子どもから、霊的な大人になるからです。たしかに洗礼の秘跡によって私たちは超自然の命に生まれます。聖霊の働きを受け始めて「成聖の恩寵の状態」になります。しかし、堅振の秘跡によって聖霊の力が霊魂にますますはたらくようになり、超自然の命が完成されるのです。

では聖霊とはどのようなお方でしょうか?聖霊とは、万物の創造者かつ私たちの主である三位一体の第三のペルソナです。御父と御子のペルソナと同じく、永遠、無限、全能の天主です。聖霊は、御父と御子を一つの源として、そこから意志と愛とによって出る(これを神学用語で「発出する」と言います)お方です。御父は御子を永遠からお生みになり、聖霊は御父と御子から、永遠の昔から発出しておられます。

では聖霊はどのように私たちにはたらきかけるのでしょうか?聖霊は、聖霊降臨の日に、使徒たちに下りました。十二使徒は洗礼を受けて、三年の間イエズス・キリストに従い、常に主のみ教えを聞いていたけれどもその御旨をさとらず、また心が弱くてイエズス・キリストの御苦難の時には逃げてしまいました。聖霊の御降臨によって、ようやくイエズス・キリストの御意を覚り、勇気を得て、教えの為にどこまでも力を尽し、苦しみを甘んじ、辱めを喜び、生命を惜しまいほどの強い信者となりました。

聖霊は、堅振の秘跡を通して、全教会と天主の教えを信ずる全ての人々のために送られます。つまり、堅振の秘跡は、洗礼の後に信者に聖霊をこうむらせる「聖霊降臨」の日と言うことができます。聖霊は、十二使徒の上には火のような舌、つまり炎の形をもってお現れになりました。堅振の秘跡で、聖霊は、からだの中の霊魂のように、恩寵とたまものをますます一層豊かに与えてくれるのです。こうして、真実と愛の王国を教会の中につくりあげ、信者がまちがいなく天国への道に導かれるようお助けになるのです。

教皇聖グレゴリオは、こう言っています。天主は教会という神秘体に、キリストという頭を与え、聖霊という心臓を与えた。キリストは真理を知らせ、聖霊は愛を実践させ愛させる。」

(2)聖霊の七つの賜物
堅振の秘跡は、洗礼を受けたキリスト者の霊魂にいっそう多くの恵みを豊かに与えて、霊的な兵士にし、キリストの御国である教会の拡張と発展のために、天主の敵と救霊の敵に対して戦うことができるようにしてくれます。そのために必要な霊的な武器を与えてくれます。この武器を、聖霊の賜物と言います。聖霊の賜物は、聖霊の特別なはたらきによって、私たちの知性を助け、私たちの意志を強めてくれます。聖霊の賜物には七つあります。上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、主への敬畏です。聖霊の七つの賜物を詳しく見ていきましょう。

1)主への敬畏
七つの聖霊の賜物うち、最高の賜物は上智です。上智の賜物を最高に受けるためにある最初の賜物は「主への敬畏」です。ちょうど、大きな建物を建てるには、しっかりとした基礎を作ることが必要なように、また、大木には深い根があるように、主への敬畏がまず必要です。智恵の書にはこうあります。「智恵の根は、主を畏れることである Radix sapientiae est timere Dominum(智書1:25)」
天主に仕える最初の障害は傲慢です。ルチフェルは傲慢によって罪を犯し、地獄に落とされました。アダムとエワも傲慢によって罪を犯しました。現代ではトランスヒューマニズムという傲慢があります。しかし、聖霊は私たちが謙遜にとどまるように、主への敬畏を与えてくれます。
何故なら聖霊は、天主への愛を私たちに注ぎ、罪によって天主を悲しませたり、天主から離れたりすることを畏れさせるからです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5:5)と。天主を愛するがゆえに、主の御稜威(みいつ)を敬うのです。敬畏は、天主が有りて在るものであること、始めもなく終わりもなく、目に見えるものと見えないものすべてをお創りになった全能のお方であること、無限に聖なる方であること、天主の御前では私たちは無に等しいこと、弱々しい存在であることを垣間見せてくれるます。アシジの聖フランシスコがその良い模範です。

2)孝愛
天主に仕える第二の障害は利己主義です。しかし聖霊は、私たちに、養子として愛の霊を与えます。「あなたたちは、(…)養子としての霊を受けた。これによって私たちは「アッバ、父よ」と叫ぶ。」(ローマ8:14-15)聖ヨハネはこう言います。「御父がどれほどの愛を私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主の子供と呼ばれ、また実にそのとおりだからである」と。この愛によって、聖霊は、私たちをして、天主を父として子としての義務を果たさせるのです。言い換えると、聖霊は、私たちを動かし、天主を私たちの父として認識し、天主を父として礼拝し義務を果たすように助けてくれるのです。
孝愛の賜物によって、私たちは天主を「我らの父」として礼拝します。父なる天主に関係する全ての人々をも大切にするように動かされます。聖人たちを敬うことも孝愛の賜物に属することです。また、全ての信徒は、天主の子供ですから、私たちの兄弟です。兄弟として愛し合うべきです。主はこう言われました。「あなたたちは皆兄弟であり、またあなたたちの父はただ一人、天におられる御父だけである」と。
幼きイエズスの聖テレジアは、1886年のクリスマスの夜に、大きな天主の愛を受けて、霊魂をすなどる者となるために自分を忘れなければならないと突然理解したと書いています。

3)知識
人間は、目に見える被造物を通して、目に見えない天主を知るようになります。そこで、聖霊は私たちが天主に忠実に留まり、霊魂の救いを果たすことができるように、被造物とは何かを正しく理解し、被造物をどのように使って天主へと行くべきかを教えてくれます。
知識の賜物は、被造物を通して天主を知らせ、信じるべき正しい信仰を識別させ、被造物を天主に至る道具として正しく使わせ、天主へと至るために被造物の本当の価値や意味を教えてくれ、被造物について正しい判断を下すように助けてくれるのがです。
被造物とは天主へと至る手段であって目的ではありません。そこで「知識の賜物」は、被造物が、天主を失わさせ、永遠の不幸の機会となりうる危険性をもっているということを分からせてくれます。また「知識の賜物」は、過去の過ちを悲しませ、私たちは涙の谷に生きていることを理解させ、被造物の危険性に囲まれていることを悲しませます。
聖トマス・アクィナスは、正しい信仰を全人生を通して深めていました。
聖フランシスコ・ボルジアは、スペイン王国の宰相でした。女王イサベラが若くして突然なくなると、棺に眠る女王の死体を見る機会がありました。崩れた顔と汚臭は見るに耐えられないものでした。その時、被造物のはかなさを深く理解しました。聖霊の働きで、徹夜して祈り、後にすべてを捨ててイエズス会に入会しました。

4)剛毅
被造物が、罪の機会となりうることが分かっただけではたりません。聖霊は、誘惑や挑戦、困難や弱さに打ち勝つ力を与えてくれます。聖霊は人間の心を動かして、全ての危険を耐え忍びながら乗り越えて。信仰の証しをして、もしも必要ならば命さえも与えることができるようにしてくれます。聖霊は人の心に、永遠の命への信頼を注入し、恐怖を追い払います。聖霊のこのような働きが剛毅の賜物です。
日本における聖なる殉教者たちは、聖霊が死に至るまで私たちを強めてくださっていることを証明しています。

5)賢慮
天国に至る道を歩みながら、もっとも必要なものを私たちに示して、私たちを導いてくれるのが賢慮の賜物です。人間の救いに関する、聖霊からの良き勧めを賢慮の賜物と言います。
賢慮とは、何かの目的を達成するために私たちが為すべきことについて、行動の前によく考えて良い助言を受けることです。聖霊の賜物としての賢慮は、疑いや不確かさの中で私たちを導き、私たちが永遠の命という目的に向かうすべてのことについて、救いのために必要であるか否かを導いてくれます。
人が病気の時、医者のアドバイスが必要なように、人間は困難な時(例えば罪を犯して霊的に病を患っている時)、特に永遠の救いに関する時、罪から癒されるために必要なものが、聖霊からの賢慮です。アルスの聖司祭は、多くの霊魂たちを天主の道において導きました。
聖ノルベルトは、貴族出身で若いころに宮殿に仕えていました。ある日狩に出かけた時すぐ近くに雷が落ち、乗っていた馬はノルベルトを地面に振り落としてしまいます。意識を取り戻すと、聖霊の働きで、自分が裁きの座に出る前に、罪の償いをする時が与えられたことを感謝します。彼は、司祭となり修道会を創立し大司教にもなりました。

6)聡明
天国への道のりにおいて、主は永遠の幸せを私たちに垣間見せてくれます。信仰の神秘を理解するように光が与えられます。信仰の真理として信じるように提示されたことを、知性が深く浸透して正しく把握する、このためにあるのが「聡明の賜物」です。
聡明の賜物は、ラテン語では intellectus と言います。これは intus legere つまり「中を読む」という意味を含み、親密に知るということを含意します。
人間の知性は、五感で感じられるものを貫き通して、それが何であるかという本質にまで至って理解します。しかし人間の知性の自然の光は有限でその力には限界があります。
ところで人間は、超自然の至福を得るという目的のために創造されて生きています。ですから人間は自然を超えるより高い真理にたどり着く必要があります。しかし自然の光によっては知り得ない天主の神秘を知るためには、さらに強い超自然の力が必要です。人間に与えられたこの超自然の光が、聡明の賜物です。
聖ヨハネ・ボスコは、聡明の賜物を通して、多くの青少年たちが天国を望むようにさせることができました。

7)上智
上智とは智恵という意味です。聖霊からいただく智恵は天上からの智恵なので、これを上智の賜物と言います。上智の賜物は、全てを、天主が定めた規定に従って判断して、それによって秩序付けることができるようにさせてくれます。何故なら「霊は、天主の深みまで、すべてを見通すから」(コリント前2:10)です。究極の原因であり最高の善である天主を最終の目的として判断する時、人は本当の意味で上智ある者となります。
上智の賜物は、天主のことがらをよく見通して観想させるだけでなく、人間の行いを規定します。人間の行為の規定・方向づけをするときに最初にするべきことは、上智に反する悪を取り除くことです。つまり、最高の善である天主に対して罪を犯すことを畏れるようにすることです。ですから、主をおそれることは智恵の始まりであると言われます。
ソロモン王は上智の人でした。何故なら富や被造物よりも天主からの真理を愛していたからです。
聖霊の七つの賜物を受けているか受けていないかを例えると、マストに大きな帆がついて風を受けて進むヨットか、手でオールをかいて進むボートか、のような違いがあります。洗礼を受けた霊魂は、天国という目的に向かって進むことができます。しかし堅振の秘跡で聖霊の賜物を受けた霊魂は、帆に風をうけて進む船のように、天国に向けてもっと簡単に航海するのです。

(3)遷善の決心
堅振の秘跡をよく受けるために、続けてよく準備しましょう。
主の御昇天の後、使徒たちは聖母とともに祈り聖霊降臨を祈りで準備していました。堅振の日まで毎日祈ってください。特に聖母とともに聖霊に祈ってください。聖母にも祈ってください。聖母は聖霊の浄配だからです。堅振の秘跡を受ける前の1月19日から27日まで、毎日 Veni Creator Spiritus(聖霊の御降臨を望む祈り:公教会祈禱文210ページ)を唱えましょう。
また受堅者の方々は、堅振の秘跡を受けるまでに良い告解をしてください。
来週の主日には、堅振の秘跡の聖伝の儀式についてお話しいたします。


堅振の秘跡についての説教(1)堅振の秘跡とは何か、その効果は何か

2023年01月26日 | お説教・霊的講話

堅振の秘跡についての説教

ドモルネ神父 2023年1月8日

はじめに

1月28日には、フェレー司教様が、大阪のチャペルで、また1月29日には東京で、堅振の秘跡を授けてくださる予定です。この儀式で堅振を受けることを、あるいは、この儀式に単に参列するだけであってもそれを実り豊かなものとするために、今日と今後2回の主日の説教は、堅振についてのものになります。今日は、堅振の秘跡全般についてお話しします。最初に、秘跡とは何かということを思い起し、次に、堅振の秘跡とは何か、そしてその効果は何か、ということについて、具体的に説明します。

秘跡全般について思い起こす

私たちの主イエズス・キリストは、私たちを天国へ、つまり、天主の永遠の命と完全な幸福にあずかるように、招いておられます。私たち自身には、天主の命にあずかる権利も力もありません。天主の命は、私たち人間の本性の力を完全に超えています。私たちの主イエズス・キリストが、そして主だけが、この命を私たちに与えることがおできになるのです。ですから、主は、そのために、七つの秘跡を制定されたのです。では、秘跡とは何かを思い出してみましょう。

まず第一に、秘跡とは、外的なしるしです。このことが意味するのは、秘跡とは、私たちが感覚で認識する身振りや言葉であって、目に見えない現実を表すものだということです。ですから、洗礼のとき、私たちは、人の額に水が流れるのを見て、「われ、父と子と聖霊との御名によりて、汝に洗礼を授ける」という言葉を聞きます。この流れる水と、この言葉は、私たちには見えないながらも、その人の霊魂の中で起こっていること、つまり、原罪からの清めを、外的に表しているのです。

次に、秘跡とは、恩寵を生み出すものです。第一に、秘跡は、天主の命にあずかることのできる成聖の恩寵を、私たちの霊魂の中に、生み出し、植え付けるのです。また、秘跡は、私たちが全生涯を通じて自分の義務を果たすために必要な、助力の恩寵を得る権利も与えてくれます。助力の恩寵とは、私たちが善い行いをすることができるように、天主から与えられる助けのことです。

では、堅振の秘跡について、もっと詳しくお話ししましょう。

堅振の秘跡

堅振の秘跡を授けるにあたって、司教は聖霊に祈り求めてから、堅振を受ける人の頭に手を置き、その人の額に聖香油を塗り、次の言葉を述べます。「われ、父と子と聖霊との御名によりて、汝に十字架のしるしをなし、たすかりの香油をもって汝を堅固にする」。聖香油とは、オリーブ油と香を混ぜたもので、聖木曜日に司教によって聖別されたものです。

私たちが見聞きするこの身振りと言葉は、堅振を受ける人の霊魂の中でそれと同時に起こっている、目に見えない現実を表しています。その現実とは、聖霊が霊魂に来臨し、霊的な成熟をもたらすことです。この現実を理解するためには、聖霊降臨のことを思い出さなければなりません。聖霊降臨の前、使徒たちは、私たちの主イエズス・キリストの友人でしたが、子どものように恐れていました。聖霊降臨のとき、聖霊が使徒たちの中に入り、霊的な成熟と力をもたらしたため、彼らは、迫害を恐れることなく、全世界にイエズス・キリストを宣べ伝えたのです。堅振のときに私たちの霊魂に起こることは、聖霊降臨のときに使徒たちに起こったことと同じなのです。

堅振の秘跡の効果

堅振の秘跡の第一の効果は、私たちの霊魂を、霊的な子どもの状態から、霊的な成熟の状態へと変え、その移行をしるすことです。洗礼によって、私たちは天主の子となりますが、そのとき、私たちの霊魂は、霊印と呼ばれる、消すことのできないしるしによって、天主の子であることがしるされるのです。堅振によって、私たちは霊的に大人となり、私たちの主の統治のために戦うことができるようになります。その時、私たちの霊魂は、もう一つの霊印、つまり、キリストの兵士としての霊印によって、この新しい状態にあることがしるされるのです。

堅振の秘跡の第二の効果は、成聖の恩寵を生み出すことです。堅振を受けた人は、私たちの主イエズス・キリストと、もっと一致するようになります。成聖の恩寵とは、天主の命にあずかることであることを思い出してください。しかし、天主は無限なお方です。ですから、私たちは、ますます深く天主の命にあずかることができるようになるのです。成聖の恩寵は、私たちの霊魂の中で、ますます増していくことができるようになるのです。

堅振の秘跡の第三の効果は、私たちが日々、自分の使命を果たすために必要な助力の恩寵を受ける権利を私たちに与えることです。堅振の秘跡によって、私たちはどのような使命を受けるのでしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリストの統治を、まず私たちの霊魂の中に、次に私たちの家族の中に、そして私たちの周りの社会の中に確立するという使命です。

堅振の秘跡の第四の効果は、聖霊の七つの賜物を私たちに完全に与えることです。洗礼のとき、私たちはこれらの賜物を受けますが、それらを完全に利用することはできません。これらの賜物は、上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏です。これらの賜物については、次の主日に、小野田神父様が詳しく話してくださるでしょう。

結論

親愛なる信者の皆さん、次の原則を忘れないでください。「秘跡は常に恩寵を生み出すが、私たちは自分の良い心構えに応じて、この恩寵を受ける」。ですから、私たちは、この秘跡を受けるために、よく準備しなければなりません。どのようにすればよいのでしょうか? 堅振の秘跡についての教会の教えをよく学び、良い告解をし、堅振の日までに聖霊へのノベナを行い、そして、生涯にわたって、あらゆる困難にもかかわらず、私たちの主イエズス・キリストにお仕えする固い決心をもつことによって、です。締めくくりに、このような良い心構えを示す短い実話をご紹介します。

中国でカトリック教徒が迫害を受けていたときのことです。10歳の中国人の少女が、司教に堅振を受けるのを認めてくれるように強く求めていました。司教は、少女があまりに幼いため、ためらいました。しかし、少女は、より一層、懇願し続けました。ある日、司教は少女にこう尋ねました。「堅振を受けた後、役人があなたを牢獄に入れ、あなたの信仰について尋ねたら、あなたは何と答えますか?」。少女はこう言いました。「司教様、私は天主の恩寵によってキリスト教徒です、と答えます」―「では、もし役人があなたに福音を捨てるように言ったら、どうしますか?」―「決して捨てません、と答えます」―「では、もし役人が処刑人を呼んで、あなたに、信仰を棄てなければ首を切るぞ、と言ったら? どう答えますか?」。少女は勇敢に、堂々と、こう答えました。「私はその役人に言います。首を切って、と」。

その信仰を見て、司教は少女の願いを受け入れ、堅振の秘跡を授けたのでした。


【参考文献:ヴィガノ大司教】NON SERVIAM(私は仕えない): ヘロデからダボスまでの革命の歴史

2023年01月25日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献:ヴィガノ大司教】NON SERVIAM(私は仕えない): ヘロデからダボスまでの革命の歴史

2022年12月16日(金曜日)

NON SERVIAM: A History of Revolutions from Herod to Davos

カルロ・マリア・ヴィガノ

DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(諸国の民にとって待ち望める者):天主のみ言葉がご托身になったことは、教会と国家に対するキリストの主権の始まりである

Discite justitiam moniti, et non temnere divos.
Vendidit hic auro patriam, dominumque potentem
imposuit, fixit leges pretio atque refixit;
hic thalamum invasit natæ vetitosque hymenæos;
ausi omnes immane nefas ausoque potiti.

警戒して正義を学べ、神々を侮るなかれ。
これは黄金のため祖国を売り、過酷な専制君主を置き、
報酬のため法を作り、また作り直しし者、
禁じられたる婚姻のため、娘の寝室に侵入せし者、
みな最悪の非道をあえて試み、実行せし者なり。

- Æn., VI, 620-624
「アエネーイス」第6歌620-624

1.前文

キリストの王権に関する教理は、カトリック教会と「公会議の教会」との〈区別〉(discrimen)を構成するものであり、実際、その区別は、カトリックの正統と新近代主義の異端の間の〈あの〉分岐点です。なぜなら、非宗教主義(laicism)や自由主義的な世俗主義(liberal secularism)の信奉者たちは、私たちの主の主権が世俗(市民)の領域に及ぶこと、それによって、権力者の恣意や操作されやすい民衆の意志に従属することを世俗(市民)の領域から排除することを受け入れることができないからです。

しかし、権威が超越的な原理に基礎を置くという考えは、キリスト教とともに生まれたのではなく、ギリシャ・ローマ時代の遺産の一部です。同じギリシャ語のἱεραρχία【hierarchia 聖なる支配】は、一方では「神聖なものの管理」を示していますが、他方では権威の「神聖な力」のことも言っており、この言葉に付随した約束事は、まさに、国家が責任を負う公職であるλειτουργία【liturgia 典礼】なのです。

同様に、この原則の否定は、異端思想やメーソン・イデオロギーの専権です。国家の非宗教性(laicity)はフランス革命の主要な主張であり[1]、プロテスタンティズムはその神学的基盤を提供しましたが、その基盤は後に、自由主義や無神論的唯物論の出現により哲学的誤謬へと変化したのです。

時間の経過を超え、空間の境界を越えて、人類をキリストの啓示の完成へと導く、完全に首尾一貫した調和のとれた全体像というこのビジョンは、かの文明に特有のものであり、ディストピアの名の下にかの文明は除去され取り消されることが望まれたのです。なぜなら、ディストピアは、本質的に不敬であるがゆえに非人間的であり、また、高慢さと天主のご意志に対する反逆のせいで至高の善を永遠に奪われた、敵対者【悪魔】の抑えきれない憎悪に由来するものであるからです。

私たちの同時代の人々が現在の危機の理由を理解できないのは、驚くに当たりません。御摂理の教育的介入のおかげで歴史の過程で築かれた知恵と記憶という遺産を、彼らは奪われることを許してしまったからです。御摂理は、すべての人々の心に、人生のあらゆる局面を導くべき永遠の原則を刻んでいたのです。

この素晴らしいπαιδεία【paideia教育】によって、天主から遠く離れ異教の闇に浸っていた諸国民は、歴史における超自然の次元の突然の出現、すなわちキリストの到来を、自然の手段によって、前もって準備することができました。キリストにおいてすべてが復興され、すべてが天主のκόσμος【cosmos 宇宙・世界】の一部であることが示されるのです。

ウェルギリウスは「アエネーイス」を不完全なものとみなして破棄するよう遺言で残していましたが、アウグストゥスがその出版を命じたとき、ちょうど帝国全土で〈ローマによる平和〉(Pax Romana)が始まったところでした。天主の御子のご托身を歓迎し、人類をサタンの奴隷状態から救うために、世界に与えられた平和です。その荘厳で神聖な平和の響きは、今日も「ローマ殉教録」の壮大な言葉に響き、ご降誕祭前日の朝、私たちは再びそれを聞くことになります。

Ab urbe Roma condita anno septingentesimo quinquagesimo secundo, anno imperii Octaviani Augusti quadragesimo secundo, toto orbe in pace composito… Jesus Christus æternus Deus æternique patris Filius, mundum volens adventu suo piissimo consecrare, de Spiritu Sancto conceptus, …in Bethlehem Judæ nascitur ex Maria Virgine factus homo.

(ローマ市の創建から752年、皇帝オクタヴィアヌス・アウグストゥスの治世の第42年、全世界は平和であった。…永遠の天主、永遠の御父の御子であるイエズス・キリストは、その最も愛すべきご来臨によって世界を聖別しようと望まれ、聖霊によって宿り給うた。…そして、ユダのベトレヘムで童貞マリアから生まれ、人となり給うた。)

救い主のご誕生のわずか40年前、ウェルギリウスは、ローマに留学していたヘロデの息子たちと交際する機会を得ました。彼は、彼らから、旧約のメシア預言と、彼の牧歌第4歌に歌われている、間近に迫った〈幼子〉(Puer)誕生の告知を知ることになったのです。

Jam redit et Virgo, redeunt Saturna regna,
jam nova progenies cœlo demittitur alto.
Tu modo nascenti Puero, quo ferrea primum
desinet, ac toto surget gens aurea mundo,
casta fave Lucina: tuus jam regnat Apollo.[2]
今や乙女なる女神も帰りきて、サトゥルヌスの王国はもどってくる。
今や新たな血統が、高い天より降りてくる。
さあ清らかなルキナよ、生まれ出る子供を見守りたまえ。
この子とともに、ついに鉄の種族は絶え、黄金の種族が
全世界に立ち現われよう。今や、あなたの兄アポロの世が始まる。
【小川正廣訳】

また、ダンテが「神曲・煉獄篇」(Purgatorio、第22歌70-72)の中で詩人スタティウスが【ウェルギリウスの詩を】回想するところを紹介しています。

Secol si rinova;
torna giustizia e primo tempo umano,
e progenie scende da ciel nova.

新しき世紀は来りぬ、
正義は、人間の原初の時は、帰り来りぬ、
天上より新しき子孫は降り来たまいぬ。
【平川祐弘訳】

キリストの出現を待ち望むこの不安の中で、アウグストゥスは、ウェルギリウスの詩に、一世紀にわたる内戦の後、平和が実現した世界への憧れを見いだし、その詩を破壊から救いました。アウグストゥスは「アエネーイス」に、天主のご意志とそれに由来する祖国(Patria)と家族への絆を尊重する限りにおいて、御摂理によって歴史の偶発的な出来事に挿入され、永遠に固定された天主のご意志に参加しているという、信心深い(pius)と自認する人々のモデルを見いだしたのです。

私たちは、たとえ信仰を持っていなかったとしても、まっすぐで正直な人の霊魂が、崇高な運命に感動する理由を簡単に理解することができます。崇高な運命の前では、嘘つきで偽りの神々は沈黙し、シビュラ【アポロの巫女】は無言になり、アラチェリ(Aracœli)の神託は引き下がるのです。次に、運命(ラテン語ではfas 英語ではfate)には動詞fariを参照しており、この動詞は「語る」という意味で、天主のみ言葉、つまり御父によって発せられた永遠の御言葉を指していることが分かります。キリスト信者は、父としての非常に多くの善意によって、すなわち、人類の贖い主であるキリストの光に向かって闇の中をさまよう人類に寄り添っているこの御摂理の手によって、喜びを感じ続けているのです。

歴史と歴史に対する天主のご介入に関するこのビジョンには、言葉にできない何かがあります。霊魂に触れ、霊魂を善へと駆り立てて、英雄的行為の希望を、そのために戦い、自分の命を捧げるべき理想への希望を目覚めさせる何かがあるのです。

このように現世と永遠、自然と恩寵が完璧に結びついた上で、世界は約束されたメシア、平和の君、罪と死に勝利する〈平和の王〉(Rex pacificus)、〈諸国の民にとって待ち望める者〉(Desideratus cunctis gentibus)を歓迎し、認めることができたのです。高間の部屋からカタコンベまで、最初のキリスト信者の共同体から真の天主の礼拝のために改造されたローマのバシリカ【聖ペトロ大聖堂】まで、主が使徒たちに教えられた祈りが掲げられています。〈御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを〉(adveniat regnum tuum, fiat voluntas tua sicut in cœlo et in terra.)。こうして、異教徒の帝国がキリスト教の発祥地となり、独自の法律と市民的・社会的影響力をもって、福音の伝播と霊魂のキリストへの改宗を可能にしたのです。確かに、素朴な霊魂ですが、博識な人々、ローマの貴族、帝国の役人、外交官、知識人の霊魂もあり、彼らは、〈敬虔なるアエネーイス〉(pius Æneas)のように、自分たちが御摂理にかなった計画に関与しており、その市民の聖徳、贖いがなければ不完全で不毛だったはずの、その正義と平和への熱望に意味を与えるよう求められていることを、何とかして理解したのです。

2.国家の「御摂理的」役割

救いの経綸は、この「中世的」かつキリスト教的な事象のビジョンにおいて、個人が天主の御摂理のこの偉大な計画の一部となる特権を持つことを認めています。歴史の中で天主のご介入における人間の〈積極的参加〉(actuosa participatio)――親愛なる革新主義者の言い回しを借りることをお許しください――、その参加においては、各人の自由は、道徳的選択に直面しており、それゆえその選択はその人の永遠の運命にとって決定的なものです。善と悪の間の、つまり、天主の御旨に合わせる(御旨の行われんことを fiat voluntas tua)か、天主に背いて自分の意志に従う(私は仕えない non serviam)かの間の選択です。

しかし、まさに各個人が御摂理の行動に従う際に、私たちが理解するのは、どのようにすれば、これらの個人で構成される地上の社会が、今度は天主のご計画の中で役割を担い、そのメンバーの行動が、支配者の権威によって、同じ目的を追求するために彼らを結びつける共通善(bonum commune)へと、より効果的に導かれるのが可能になるのか、ということです。

国家は、完全な社会として、すなわち、〈なしとげられるべき一つのもの〉(quid unum perficiendum)の追求に必要なすべての手段を自ら所有している社会として、それゆえ、それ自身の機能を持っています。つまり、主要には市民らの善のため、市民らの正当な利益の保護、外敵および内敵からの祖国の保護、社会秩序の維持のために秩序づけられた機能です。言うまでもなく、文明人は、ジャンバッティスタ・ヴィーコの極めてキリスト教的なビジョンに従って、先人のなした試みと失敗とを経験することで、歴史の研究の重要性を理解して、真の進歩を可能にし、アリストテレス・トマス主義的思想の有効性を認めてきたのです。何故なら、抽象的な哲学理論を創り上げてそれを基礎とするのではなく、まさに現実の知識を基礎として発展したからです。

この〈善政〉のビジョンは、シエナのプッブリコ宮にあるアンブロージョ・ロレンツェッティによるフレスコ画に象徴的に表現されており、中世社会の深い宗教性を裏付けています。確かに制度の宗教性ですが、しかしこの宗教性を共有し、自らのものとした人々は、公的機能を身にまといつつ、自分たちの役割を創造主によって社会に刻み込まれた天主の秩序(正確にはκόσμος)に一致した表現として考えたのです。

このローマ帝国の歴史的役割については、「アエネーイス」(第6歌850-853)にその例があります。

Tu regere imperio populos Romane memento
hæ tibi erunt artes, pacisque imponere morem,
parcere subjectis et debellare superbos.

だが、ローマ人よ、そなたが覚えるべきは諸国民の統治だ。
この技術こそ、そなたのもの、平和を人々のならわしとせしめ、
従う者には寛容を示して、傲慢な者とは最後まで戦い抜くことだ。
【東道男・高橋宏幸訳】

あるいは、

だがローマ人よ、おまえは采配をふるい、諸国民を治めよ。覚えておけ、
これこそがおまえの技(アルテース)なのだと。平和の礎(モーレース)を与え、
従うものは懐(なず)け、仇なすものは平らげよ。
【杉本正俊訳】

【直訳】ローマ人よ、おまえは命令により諸国民を統治するを覚えよ。
この技術はおまえのものとなるだろう、平和の習慣を押し付け、
従う者らには赦しを、傲慢な者らは平定せよ。

ローマを偉大にしたのは、この御摂理にかなった使命の自覚でした。しかし、その没落を決定づけたのは、道徳の堕落によってこの任務を裏切ったことでした。

3.非宗教性という概念と権力の世俗化

プロテスタントの偽の宗教改革以前のどの時代でも、西洋諸国の支配者と臣民の双方にとって、「国家の非宗教性」(laicity of the state)という概念は全く考えられなかったため、それ【国家が宗教を持つ】以外には不可能でした。ルネサンス後期以降になってやっと、無神論の理論化によって、個人が神的なものに公的礼拝を捧げる義務から解放されることを許す哲学的思想の形成が可能になっただけであり、メーソンの原理は、啓蒙主義に始まり、フランス革命、神授の君主制の転覆、カトリック教会の激しい迫害に続く世俗社会の強制的な世俗化を通じて、広まっていきました。

今日、現代社会は自らの非宗教性を主張することを利益と考えていますが、ギリシャ・ローマ世界では、神々に対する反抗は不敬のしるしであり、その権威は上から認可され承認された権力の表現である国家に対する反乱のしるしであると考えられていました。〈警戒して正義を学べ、神々を侮るなかれ〉(Discite justitiam moniti, et non temnere divos)と、奈落(Tartarus)に投げ込まれ、休むことなくこの警告を叫び続けるように宣告されたプレギュアースを戒めています(「アエネーイス」第6歌620)。私たちがキリスト教の普及を当然の前提として受け継ぎ、中世が認識し評価した古典文化は、それゆえ、〈神々を侮るなかれ〉(non temnere divos)という義務に基づいており、祖国への裏切りから専制政治の確立まで、経済利益のための法律の公布や廃止から市民生活の最も神聖な戒律の侵害まで、〈宗教〉(religio)の欠如がいかに国家の破滅の原因となるかを示しています[3]。このような懸念がいかに根拠のあるものであったかを示すものとして、あえて現代社会の廃墟を思い浮かべてみましょう。この廃墟では、母親の胎内の罪なき人々の殺害、ジェンダー論や子ども時代の性教育による子どもの堕落、小児性愛者のロビー活動による地獄の儀式での子どもの搾取といった前例のない恐怖を合法化することができ、そのロビーの悪名高いメンバーは権力の座に就き、今のところあえて誰も非難しようと試みはしないのです。現代世界は、悪と死に身を捧げる悪魔の手先のセクトに支配されています。このような醜悪なものに目をつぶって沈黙している人々は、天主の御前で復讐を叫ぶ恐ろしい犯罪の罪深い共犯者なのです。

4.権威の神聖さ

フランス革命までは、天主の御名の下において、支配者は権威を行使することにその正当性を見いだし、同時に統治される人々は、権力の濫用から自分たちの権利が保護されると考えていました。なぜなら、社会全体が唯一の主の最高権力の下に位階的に秩序づけられており、主は、まさに王や君主、教皇や高位聖職者の裁判官でさえあるという理由から、〈恐るべき御稜威の王〉(Rex tremendæ majestatis)として認識されていたからです。教会で描かれる最後の審判の場面では、王冠【王】、三重冠(ティアラ)【教皇】、ミトラ【司教】が地獄の描写の中に点在しています。

この権威の神聖さは、もともと中立的な存在として生まれた権力に後から付け加えられた概念ではありません。それどころか、あらゆる権力は、イスラエルでも異教の国々でも、その起源を常に神性への言及に見いだし、西欧世界ではキリスト教の出現と皇帝テオドシウスによる国教としての承認によって、超自然的な任命の完成を獲得したのです。こうして、東方の皇帝は、ビザンチン帝国でラテン語を話す宮廷では〈チェザル〉(Cæsar)でしたし、ロシアの〈ツァーリ〉(Czar、царь)とブルガリアの〈ツァール〉(Czar)も同じく〈チェザル〉でした。最後に神聖ローマ帝国があって、その最後の君主である福者カール・フォン・ハプスブルクは、第一次世界大戦によりフリーメーソンによって転覆させられました。

将来の君主、貴族、聖職者を教育することは、彼らの知的、実用的な指導をするにとどまらず、確固たる原則や規律を守る習慣、情熱をコントロールする能力や統治の徳の実践を保証する特定の道徳的、精神的な育成を必然的に提供するものとして最も高く評価されました。社会制度全体が、権威を行使する者に、王たるキリストの御前での責任を自覚させたのです。キリストは、この世の王権と霊的王権の唯一の保持者であり、地上の彼の役務者たちは厳密に代理の形で行使しなければなりませんでした。このため、例えばシュヴァーベン公フリードリヒ二世の場合に起こったように、教会の霊的権威が君主の現世的権威に優越することによって、ローマ教皇は権力を濫用する王の臣下たちを、【王に対する】服従義務の絆を解くことができた【教皇は国民が権力を濫用しているフリードリヒ二世に従う義務がないと宣言した】のです。

5.あらゆる権威に及ぶ世俗化

世俗の権威の世俗化に続いて、最近では宗教的権威の世俗化も進んでいます。宗教的権威は、第二バチカン公会議によって、その神聖さが大幅に剥奪されました。それは、外面的にだけではなく【理論的にそうでした、つまりその理論によれば】、教会の権力は洗礼の力だけから下【天主からではなく民】からやって来るとされ、【この権力は洗礼を受けた】「司祭的な民」によって【一部の】代表者たちに委任され、「座長を務める」さまざまな任務がこの代表者たちに対して授与されるという、カルヴァン主義のセクトと同じように冒涜的な(そして革命的な)見解に利するためでした。

この逆説は、ここでさらに明白になります。なぜなら、世俗化は、真の宗教の権利を認めない世俗社会内部での寛容の力学を教会に持ち込み――それによって教会の本質を歪め――、寛容の力学を教会自らのものとすることによってこの力学を正当化する結果になるからです。この観点から、今日、「シノダリティーに関するシノドス」が民主的で議会的な調子で宣伝している非常に深刻な逸脱は、公会議が理論化した原則を実践しているにほかなりません。公会議のために、非宗教性――すなわち、地上的権威とその超自然的正当性の間のつながりの断絶――が、あらゆる人間社会に及ぶべきであり、同時に、あらゆる「神権的」誘惑も時代遅れで不適切なものとして排除すべきであるとされているのです。

必然的に、家長(paterfamilias)から教師、判事から政府役人に至るまで、この世俗化のプロセスの及ばない権威は存在しませんでした。【以前は】権威に服してそれに従う者たちの義務、また、知恵と慎重さをもって権威を執行してそれを行使する者の義務は、天主の父性を想起させていました。そのため、【反乱しようとする者たちにとって】権威は不当なものとされなければなりませんでした。何故なら、反抗は主として父なる天主の権威に反するものだからです。「1968年」の革命は、「革命」の小枝に過ぎませんでした。その中では、最低限の社会秩序を保証するために、功利主義や利便性のために自由主義が温存してきたものは、ついに解体され、西洋諸国を無政府状態に導いたのです。

6.秘密結社の破壊転覆的行動

かの悪名高いセクトは、王座と祭壇とが同盟を結ぶ力を知っており、カペー朝を皮切りに、支配者を腐敗させ、貴族をその仲間に引き入れようと陰で画策していました。実際には、すでにドイツ諸侯領ではプロテスタントの異端が、そしてヘンリー八世のイングランドでは英国国教会の離教があり、教皇権とそれに忠実な正統な君主に反対するグノーシス派の新入会者たちの秘密集会が活発に行われていました。

しかし、革命とは、カトリック諸国から信仰を奪うため、自分たちのイデオロギーの目的と経済の目的のためにカトリック諸国を奴隷にするために、秘密結社がカトリック諸国を攻撃した主要な手段であることは確かであり、文書化されています。フリーメーソンが行為するところはどこでも、それは同じ道具と同じ宣伝を使います。その理由は、公共機関の世俗化、国家宗教の廃止、教会の特権とカトリックの教えの廃止、離婚の合法化、姦通の非犯罪化、ポルノやその他の悪徳の蔓延を実現するためです。なぜなら、日常生活のあらゆる面で、そのキリスト教的世界は消去され、最も卑しい快楽の充足に専念し、聖徳、誠実さ、正義を嘲る不敬で無宗教の社会と取り替えなければならなかったからです。これらは自由主義思想の「成果」で、最も忌々しい反聖職者主義は、これを「進歩」と「自由」と呼んでいるのです。

教導権が秘密結社に対して無数の非難をしてきたことは、国家の平和と霊魂の永遠の救いに対する脅威【から守るという理由】によって十分に正当化されました。教会が世俗の【国家】権威と結びついている限り、フリーメーソンの行動はゆっくりであり、フリーメーソンはその犯罪的意図を隠すことを余儀なくされました。

フリーメーソンは忍耐強く潜入活動を続けたために、また、19世紀末に近代主義のおかげでその潜入が完了したために、教会の権威は腐敗し、フリーメーソンは、反抗的で姦淫を犯す聖職者たち――彼らは知性と意志を迷わされ、そのため容易に奴隷状態となって脅迫されるようになってしまったので――の共犯をあてにできるようになったのです。彼らの教会内での昇進は、聖ピオ十世の先見の明のある警戒によって阻止されたのですが、衰弱したピオ十二世の教皇在位の最後の数年に静かに再開され、ヨハネ二十三世の下で勢いを増しました。彼自身もおそらく教会ロッジのメンバーだったのかもしれません。各個人の腐敗が、その人たちの属する組織の崩壊につながるということを、私たちはまたもや見ることになります。

7.市民的・社会的・経済的革命

1789年にフランスで始まった革命は、同じ方法で実施されました。まず貴族と聖職者の腐敗、次にあらゆるところに潜入した秘密結社の活動、次に君主制と教会に対するメディアのプロパガンダ、そして同時に、国際大金融の投機と欧州の経済システムの変容に対する国家の対応の不十分さによって、貧窮し税金を負担していた人々を扇動するための、街頭暴動や抗議行動の組織化と資金調達です。その際、フリーメーソンの破壊転覆的理論を真の革命に転換させた主なテコは、貴族と教会の資産を横取りすることに最大の関心を持つ階級に代表されます。それは、不動産、調度品、美術品などの貴重な遺産を売り払うためだけではなく、それまで大部分は自然のリズムと古風なシステムに従って作物を生産させていた広大な土地の利用を始め、従来の社会経済構造を根本的に変革するためでした。

実際、フランス革命の後、第一次産業革命が起こり、蒸気機関の発明と生産の機械化によって、労働者や農民が畑から大都市に大量に移動し、彼らは安い労働力に変えられました。彼らは、自立した生活手段を持つ可能性を奪われ、新しい税金や関税によって悲惨な状況に追い込まれました。19世紀全体は、革命のイデオロギー的母体が、経済的利益と金融支配に本質的に結びついた教理的な異端に基づいていることを確認している時代です。

第二次産業革命は、パリ会議(1856年)からベルリン会議(1878年)までの間に起こったもので、主に欧州、米国、日本が電気や大量生産などの新しい、強制的な技術革新を行いました。

第三次産業革命は1950年代に始まり、中国やインドにまで及び、主に技術革新、IT化、テレマティクス化【カーナビのような移動体に通信システムで情報をリアルタイムで提供すること】、そして〈ニューエコノミー〉、〈グリーンエコノミー〉、情報統制へと拡大していきました。これにより、科学技術が人類の物質的幸福をもたらす可能性を確信する新実証主義の文化的風土が形成されるはずでした。大衆を操作するという行為は、社会がどのようなものになり得るかという想像力に十分なスペースを与え、SFという映画のテーマを通じてそれを示唆するものでした。

2011年以降、物理的世界、デジタル世界、生物的世界の相互浸透が進み、第四次産業革命がついに始まりました。人工知能(AI)、ロボット工学、モノのインターネット(IoT)、3Dプリンター、遺伝子工学、量子コンピューターなどの技術の進歩が組み合わさったものです。このディストピア的プロセスの理論家は、世界経済フォーラムの創設者兼会長である悪名高きクラウス・シュワブです。

8.全体主義の前提としての権威の世俗化

霊的権威と現世的権威の間の調和と位階的相補性を人為的に分離することは、それが実行されるたびに、専制政治や無政府主義の前提を作り出す不幸な操作で終わりました。その理由はあまりにも明白です。キリストは教会と国家の両方の王であり、その理由は、天主から出ない権威はない(ローマ13章1節)からであり、また、道徳律が不在である条件下では、国家は天主のご意志とは無関係に自らの意志を押し付けることができ、したがって〈天主の国〉(Civitas Dei)という天主の〈秩序〉(κόσμος)を破壊して、〈悪魔の国〉(civitas diaboli)という恣意性と地獄の〈混沌〉(χάος)に置き換えてしまうからです。

今日、西洋諸国は、その決定について天主にも人民にも責任を持たない権力者の人質となっています。なぜなら、彼らは上からも下からも正当性を得ていないからです。世界経済フォーラムの破壊転覆的なロビー活動によって準備され実行されたクーデターは、外圧を用いて政府を独立した地位から、事実上追い出し、国家から主権を奪ったのです。しかし、新世界秩序の支配者たち(彼らに関することはすべて〈新しく〉、打倒すべきことはすべて〈古い〉のです)は、自分たちが最終的な勝利に近づいていると信じて、その計画を明らかにした傲慢さのために、これが消滅するプロセスが今、露呈しています。確かに保守主義だとして非難されない知識人でさえ、クラウス・シュワブやその手先がなしている国家統治への耐えがたい干渉を非難し始めているほどです。数日前、フランコ・カルディーニ教授は、こう宣言しました。「経済と金融を管理する勢力は、今や政治家階級を選び、腐敗させ、決定し、それによって政治家階級はビジネス委員会(comitato d’affari)と化しています」(こちら)。そして、この「ビジネス委員会」の背後には、国家経済を損なうような盲目的な利益追求の目的があるだけでなく、人口を細かく管理し、強制的に人口を減らし、公共サービスの完全民営化のために病気を慢性化させるという不穏なプロジェクトがあることもよく承知しています。この〈グレート・リセット〉を統率する精神は、過去数世紀のブルジョワジーや高利貸しを動かしていたものと同じで、貴族や聖職者が利益の源泉と見なしていなかった広大な土地を利用することに関心があるのです。

おれはあいつがだいきらいだ、キリスト教徒だからな。
だがそれより気に食わんのは、謙遜ぶってばか面さげ、
ただで人に金を貸しやがって、ヴェニスのおれたち仲間の
金利を引き下げてることだ。[4]
【小田島雄志訳】

このような人々にとって、人類とは、迷惑な邪魔者であって、彼らの犯罪的な目的を追求するために利用し、道具化しなければならないものであり、またキリスト教道徳とは、金融の手の中にある【金融資本がコントロールすることが可能な】政府を確立するにとって忌まわしい邪魔物なのです。今日これが可能であるとすれば、それは彼らの妄想に歯止めをかける超越的な道徳的基準も、この私的利益への卑劣な隷属から免れている権力も存在しないためです。そして、ここで私たちは、現在の状況が本質的に権威の危機であり、拝金主義のエリートによるグローバル・クーデターがもたらす脅威について、個人の理解を超えたものであることを理解します。

9.キリストのご誕生

救い主のご誕生は、至聖なるマリアの童貞のご胎内に至聖なる三位一体の第二のペルソナがご托身になったことにより、永遠が時間と歴史の中に入り込んできたことを表しています。真の天主にして真の人間である私たちの主のペルソナにおいて、天主の権威がダヴィド王家の子孫の権威に加わり、十字架の犠牲による人類の贖いは、蛇が起こさせた原罪によって破壊された天主の秩序を恩寵の経綸において回復させるのです。

まぐさ桶に横たわる幼子なる王は、羊飼いたちや博士たちの礼拝のために、君主の特権であったうぶ着に包まれてご自身を示されます。それがしるしである(et hoc vobis signum、ルカ2章12節)。[5]主は星々を動かし、天使たちに讃美されながらも、ゴルゴタで、また黙示録の幻視で、栄光の玉座が十字架であるように、まぐさ桶をご自分の玉座として、ベトレヘムの貧しいうまやを自分の地上の宮殿として選ばれます。私たちの主は、王、司祭、預言者の称号を認められ、東方の賢者たちから讃美を受けますが、すでに、自分の権力に対する脅威を主に見いだす者から逃げなければなりません。愚かで残酷なヘロデは、〈non eripit mortalia, qui regna dat cœlestia〉(天主は地上の国を取り除かず、天上の国を授ける)ことを理解しません[6]。今日の権力者たちは愚かで残酷です。彼らは何百万人もの罪のない人々を虐殺し、その身体と霊魂に対して行われた虐殺において、死の専制政治を強化しようとし、人々を奴隷にすることによって、ご自身の御血でこれらの霊魂を贖われた王の王、支配者の主に対する反逆を再び起こそうとします。

しかし、ベトレヘムの幼子が、人間と天主との位格的結合において御子の神性を現されたのは、その謙虚な主権の確認においてなのです。全能の天主と乳離れしていない赤ん坊の弱さが、最高の裁判官のすさまじい裁きと生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が、天主の御言葉の不変の永遠と赤ん坊の沈黙が、天主の御稜威(みいつ)の栄光の輝きとパレスチナの寒い夜の動物のための避難所の粗末さが一体となった神性です。

神性と人性、権力と弱さ、富と貧困を見事に結合させた、この一見矛盾したものの中に、私たち全員、特に権威を構成する人々が、私たちの霊的生活と生存のために引き出すべき教訓も見いだすことができます。

主権者、君主、教皇、司教、行政官、教師、医者、父親でさえ、永遠の領域から、天主の御子の神聖な王権から由来する力を享受しています。なぜなら、彼らはその権限の行使において、それが意図されたものに忠実である限り、それを正当化する者の名において行動するからです。〈あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である。そして、私を拒む人は、私を送られたお方を拒むのである〉(ルカ10章16節)。ですから、世俗および教会の権威に従うことは、天主がお決めになった位階的秩序に従うことなのです。このため、権威を濫用する者に従わないことも、その中心を天主に置き、その代理人である地上の権力に置かない秩序を守るために、同様に必要なことです。そうでなければ、私たちは権力を持つ者を崇めることになるからです。その者が天主に服従している限りにおいてのみ、敬意を払う資格があるのです。しかし、今日、権力の座にある者への敬意は、王であり教皇であるキリストへの正当な従属の絆を持たないばかりか、むしろ、キリストの敵です。また、民主主義というキメラによって喧伝される人民主権とされるものが、自分たちの権利が守られていることを訴える相手がいないその人民に対する巨大な欺瞞であることが証明されているところです。一方、天主を簒奪させることを容認してきた人たちが主張できる「権利」とは何でしょうか? 貧しい者、追放された者、孤児、未亡人のための正義を保証する唯一の存在である超越的なものとはもはや何の関係もないことを受け入れたとき、権力が専制政治に変わることにどうして驚くのでしょうか?


10.キリストにおいてすべてを復興させよ Instaurare omnia in Christo

世界経済フォーラムの犯罪者から「シノドスの道」の異端者まで、邪悪な者たちの見かけ上の勝利は、最終的な敗北を運命づけられながらも、道を踏み外した人類への罰の道具として御摂理によって許された悪という厳しい現実を私たちに突きつけます。なぜなら、貧困、疫病、計画された危機によって引き起こされた悲惨さ、経済的利益によって動かされた冷酷な戦争、習慣の腐敗、「人権」として認められた無実の人々の虐殺、家族の解体、権威の崩壊、文明の解体、文化と芸術の野蛮化、聖徳と善に対するあらゆる衝動の消滅、これらはすべて、徐々にしかし常に同じ方向に実行された裏切りに欠かせない結果にすぎず、常にこれから起こる最悪のことの序章でしかありません。それは、天主への侮蔑、天主の御稜威(みいつ)に対する〈私は仕えない〉(non serviam)の邪悪な挑戦なのです。これは、サタンが、永遠に敗北するであろう戦いに勝つことができるというサタンの思い込みの大きさに比例して、さらに冷酷で猛烈になります。

眠り給え、幼子よ、泣き給うな。
眠り給え、天の幼子よ。
大嵐はあえて
御身の頭上にて猛威を振るうことなし。
かつての地の上で使われたる
戦いの駿馬のごとく
まさに御身のみ顔、翼を広げん[7]

すべてをキリストの下に集める(エフェゾ1章10節)とは、自然界と超自然界の秩序、私的領域と公的領域の両方において、罪によって破壊された秩序を再構築することであり、革命が「傲慢」(ὕβρις、hybris)の妄想で奪った王の王冠を、王の王に回復させることです。さらにそれを行う前に、第二バチカン公会議のイデオロギーおよび現在の「教皇職」の背教によって引き裂かれた三重冠を教皇に回復させることです。

教皇や王、大司教や国家の統治者、教会の信者や国家の市民は皆、恩寵によって動かされた「再生」(palingenesis)の中で、キリストに、王にして教皇であるキリストに、王の民の真の権利の唯一の復讐者に、弱者と抑圧者の唯一の保護者に、死と罪の唯一の征服者に戻らなければなりません。そして、キリストのもとに戻るこの旅において、謙遜は、主が私たちのために示してくださったカルワリオへの道を放棄することによって、私たちが引き受けた滅びの容易な道を、どのように逆戻りさせるかを知る上で、私たちを導いてくれるでしょう。それは、主が最初に歩まれた道であり、主が秘跡の恩寵を通して私たちに伴われ、復活の栄光のための唯一の前提である十字架に至る道です。

新世界秩序の死と罪のイデオロギーに制限を設けることができると考える者、邪悪な者が小児性愛、変質者化、性別の取り消し、子どもや弱者や高齢者の殺害という恐怖を広めることを防げると考えている者、この道を歩み続けることで物事を変えることができると考える者は、欺かれているのです。革命のせいで、世界が地獄になったのならば、反革命の行動によってのみ、世界は今よりも邪悪でなくなり、致命的でないものに戻ることができます。第二バチカン公会議と改革された典礼のせいで、位階階級が異端者、堕落した者、姦通した者の受け皿となったのならば、公会議前まで使徒たち、教父たち、博士たち、聖人たち、教皇たち、司教たちが行っていたことに戻ることによってのみ、天上のエルザレムの像に戻ることができます。滅びの道を歩み続けることは、事実、滅びに至ります。奈落の底に向かう競争が速いか遅いかの違いだけです。

私たち一人一人がキリストへの帰属を強めることができれば、社会はもっと早く主のもとに戻り始めるでしょう。そして、私たちを贖うためにご托身になった天主への無条件の帰属は、羊飼いや博士たちとともにまぐさ桶のふもとで幼き王を謙虚に礼拝することから始めなければならないのです。

眠り給え、天の幼子よ。
諸国民は、知らず、
誰が生まれたるかを。
されど、彼ら
御身の尊き遺産となる、
その日は来らん。
いと謙遜に眠り給う御身、
塵のうちに隠され給う御身。
彼ら、御身が王たるを知らん。[8]

私たちが恩寵に触れられて、地上の地獄という救いのビジョン――もしもグローバリズムのディストピアが確立される間、私たちが惰性で傍観するならば地上が地獄のようになってしまうと理解すること――に心を動かされて、私たち全員に、本当の王を認める祝福の瞬間が訪れますように。そしてその時、王を認めつつ、私たちは王の聖なる旗のもとで、サタンに対する恐るべき勝利者――無原罪の聖母(Immaculata)――とともに人類の敵に対する歴史的な戦いを戦うことができるのです。いにしえの蛇の頭を踏み砕き、その呪われた手下どもの頭をも踏み砕くのは、一被造物――女性、童貞、御母――【つまり聖母マリア】でしょう。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年12月17日
Sabbato Quattuor Temporum Adventus
待降節の四季の斎日の土曜日


[1]フランス憲法の第1条は、共和国は「不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的」であると、明示的に述べている。

[2]今や乙女なる女神も帰りきて、サトゥルヌスの王国はもどってくる。
今や新たな血統が、高い天より降りてくる。
さあ清らかなルキナよ、生まれ出る子供を見守りたまえ。
この子とともに、ついに鉄の種族は絶え、黄金の種族が
全世界に立ち現われよう。今や、あなたの兄アポロの世が始まる。
【小川正廣訳】

ウェルギリウス「牧歌」第4歌6-10

[3]【別訳】
忘れるな。正義と神を蔑(なみ)せぬことを学べ。
黄金のため祖国を売り、僭主の権勢を
敷いた者、金に動かされて法律の改廃をなした者、
娘の閨房に押し入って、禁断の婚礼をなした者など、
すべてが道に背く凶悪な暴挙に及び、この暴挙をし遂げた輩だ。
【東道男・高橋宏幸訳】

「正義の何たるかを学んで、わしのようにならぬようにせよ。神を侮ってはならぬのじゃ」。
ほかには、黄金で国家を裏切り、実力者に権力をゆだねし者、
金銭で法を定め、あるいは廃止せし者、
娘の寝室に侵入して禁断の婚(まぐわい)を遂げし者など
ここにいる者はすべて、暴戻な手段で非道を犯した悪者たちばかりです。
【杉本正俊訳】

ウェルギリウス「アエネーイス」第6歌620-624

[4]シェイクスピア「ヴェニスの商人」第1幕第3場(シャイロックの言葉)

[5]この点では、「聖書辞典」(Studium、1963年)にあるモンシニョール・フランチェスコ・スパダフォーラの聖書解釈学的研究を参照。

[6]「クルデリス・ヘロデス」(Crudelis Herodes)。御公現の第一晩歌の賛歌

[7]A・マンゾーニ「降誕祭」99-105

[8]A・マンゾーニ「降誕祭」106-112

英語版

NON SERVIAM: A History of Revolutions from Herod to Davos

イタリア語版

Mons. Vigano: Messaggio di Natale, Cristo Re delle Nazioni e il Gran Reset.

フランス語

Desideratus cunctis gentibus - L’Incarnation du Verbe de Dieu inaugure la Seigneurie du Christ sur l’Église et les Nations, par Mgr Viganò


聖ピオ十世会 カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Japan SSPX Japan

2023年01月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2023年1月22日に東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計113人でした。大阪では29人でした。
堅振の日が近づいてきました。聖霊来たり給え!東京では次のミサは入谷ホールの三階です。お間違えの無いようお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today. The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 113 including children.

09:00 mass
M: 28 (incl. 6 children)
F: 30 (incl. 8 children)
Total: 58 (incl. 14 children)

11:30 mass
M: 27 (incl. 3 children)
F: 32 (incl. 4 children)
Total: 59 (incl. 7 children)

Total of 2 masses (excl. 4 persons who participated in multiple masses)
M: 53 (incl. 9 children)
F: 60 (incl. 12 children)
Total: 113 (incl. 21 children)


堅振の秘跡について③|堅振の秘跡の典礼について:秘跡の有効性のために儀式において不可欠なこととその意味。1970年に修正された新しい堅振の儀式は良い改革ではありませんでした

2023年01月22日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、YouTubeでドモルネ神父様による「御公現後第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

参考資料:  聖霊に対するノベナ

堅振の秘跡を受ける前に九日間のノベナとして、毎日 Veni Creator Spiritus(聖霊の御降臨を望む祈り:公教会祈禱文210ページ)を唱えましょう。


堅振の秘跡について③|堅振の秘跡の儀式:秘跡の核心は[質料]と[形相]。第二バチカン公会議後の「新しい堅振」の問題点とは?

2023年01月21日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2023年1月22日は御公現後第三主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御公現後第三主日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

SSPX JAPAN聖ピオ十世会日本にチャンネル登録もお願いいたします。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

参考資料:  聖霊に対するノベナ

堅振の秘跡を受ける前に九日間のノベナとして、毎日 Veni Creator Spiritus(聖霊の御降臨を望む祈り:公教会祈禱文210ページ)を唱えましょう。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】