限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・141】『庖人雖不治庖、尸祝不越樽俎而代之矣』

2024-01-21 10:09:57 | 日記
高校時代、漢文は苦手であった。漢文につけられた返り点というもの読み方があまりよく分からなかったからだ。レ点や一、二、程度ならまだしも、上下、甲乙丙、天地人などになると全く判じ物であった。それだけでない、「不常」「常不」のどちらが部分否定で、どちらが全否定か、という問題も、解釈のしかたが分からず、「適当に答えても1/2の確率で当たる」と気楽に考えていたが、ある時、授業中に当てられ、運悪く逆の目に出たため、老教師からこっぴどく叱られた苦い経験がある。

こういう私であったが、学校を卒業してからずっと後になるが、あることときっかけにして漢文が(ほぼ)完全に読めるようになった。そのきっかけとは、『王陽明全集』を読んでいた時に孟子の文章が頻出するが、いちいち参照するのが面倒なので、孟子の全編を理解しようとした。しかし、読むのではなく、孟子の書き下し文を音読し、MDに録音して、耳から学んでいくことにした。不思議なことに、何度か録音を聞いている数ヶ月の内に全く労せず漢文がすらすらと読めるようになった。この時ついでに分かったのは、英語式に読めば ― つまり、主語+動詞+目的語、前置詞+名詞 など ― 漢文の返り点はほぼ「レ点や一、二」で十分ということであった。上下、甲乙丙、天地人などというややこしい規則を作ったのは、無理やり完全に日本語に読もうとしたからだと分かった。

さて、このように漢文は全くの苦手科目ではあったものの、教科書で見知った荘子の文章には最初から強く惹かれた。荘子の言葉から、彼の強烈な自由精神がにじみ出てくるのを感じた。大学に入ってから、自分で中国古典を読み始めた時も、荘子の文章は、不思議とよく理解でき、気に入った文句をいくつも見出すことができた。たとえば外編の《秋水》に「曳尾於塗中」(塗中に尾を曳く)という句がある。これはある時、楚王の使いの者が荘子を高官に任命しようと呼びにきたが、荘子はその話を受けず、「ちょうど亀が殺されて宮殿で甲羅が大切にされるより、泥の中を這いまわっていてでも、生きていたいように、私も社会的に高い地位に就くより、貧乏でもいいから自由の身でいたい」と答えたことによる。

なまじっか高官に任命されると、雑用に忙殺されるだけだけでなく、運悪ければ、政争に巻き込まれて横死しかねない。それよりも、社会の底辺にいてもいいから、自分自身の思い通りに生きることが望ましいという。荘子は、このような自由精神の持ち主であったため、自分事でない世間の雑事に好き好んで首をつっこまない方がよいと考えた。



『内篇』《逍遙遊》には「庖人雖不治庖、尸祝不越樽俎而代之矣」(庖人、包を治めずといえども、尸祝、樽俎を越えてこれに代らず)と述べる。尸祝(ししゅく)とは、神主のような役割の人だ。この句の意味は、たとえ料理人が料理を作ることを放棄しても、尸祝が自分の役割を越えて、代わりに料理をするようなことはするな、という戒めである。これは、何も自分の仕事だけに邁進せよというような意味ではなく、知識も経験もないのに、他人の仕事に余計な口出しをするなという busy body に対する訓戒だ。

西洋にもこれと相通ずる言葉がプリニウスの『博物誌』巻35に見える。
【ラテン語】ne supra crepidam sutor iudicaret.
【私訳】靴屋は靴に関すること以外には口を出すな。
【英語】a shoemaker should give no opinion beyond the shoes
【独語】Was uber dem Schuh ist, kann der Schuster nicht beurteilen.

この言葉は、古代ギリシャの絵画の名人であるアぺレス(Apelles)にまつわる。あるとき、彼が描いた絵で靴の片方の紐が短すぎたのを靴屋が指摘した。アペレスが早速その助言を受け入れ描き直した。翌日、靴屋は自分の忠告が受け入れられたことを得意になって、さらに、足の描き方もおかしいと、指摘した。その言いぐさに腹を立てたアペレスが上のように怒り、「自分の専門外のことについては、発言を慎むべし」と厳命した。つまらなコメンテーターが多い昨今に適切な箴言といえるだろう。
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