限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第353回目)『眼からうろこのイスラム理解が進む本』

2023-04-30 09:14:15 | 日記
世界の文化を理解する最もよい方法は、なんと言ってもやはり現地体験だろう。私は幸運にも20代の初めにドイツに留学することができ、累積で8ヶ月間ヨーロッパ各国を旅行することで初めてヨーロッパ各地の実態や人々の考えかたの差を知ることができた。そこで感じたのは、それまで学校で習っていた歴史や地理の授業では文化の深層はとうてい窺いしれない、ということであった。

この点から考えると、イスラム圏に滞在経験が全くない私のイスラム理解は完全にBookishであり、不完全である。しかし、何も手をこまねいたいた訳ではなく、日本で出版されているイスラムの本を数多く読んだが、どの文化圏もそうであるが、たいていは当該文化圏に好意的な関心をもっている学者が書いているので、ネガティブな面や、文化の薄暗い深層をほじくりかえすような記述に出会うことは少ないとしたものだ。この点では、西洋人の書いた本には否定的な面もずばりと指摘する率直さがある。一例として、日本に対する批判的な意見を述べるデービッド・アトキンソンやアレックス・カー、古くはカレル・ヴァン・ウォルフレンが挙げられる。これらの人々は日本と日本文化を愛すればこそ手厳しい指摘をしている。

さて、イスラムに関してであるが、最近、大島直政氏の『イスラムからの発想』(講談社現代新書)を呼んだ。ここには、私が知りたかったイスラム文化の点が多く載せられていた。大島氏はトルコに二度留学して、現地語もかなり出来るので、現地人と本音の対話をすることが可能であったとのことだ。私もドイツ留学で感じたが、現地語が話せると話せないのとでは、現地の人々の心の機微の理解に雲泥の差が生じる。つまり、英語だけの会話では必要な情報は十分入手することはできても、文化の深層に踏み込んだ議論は残念ながら難しいことが多い。逆の立場で、日本に滞在している外国人で日本語が出来る人とそうでない人の日本に対する認識を比較すると分かるであろう。



以下に、大島氏の本の中でイスラムに対する指摘のうち特に印象に残った文章を幾つか列挙してみよう。私のコメントを ==>でしめす。

P.17 商人が外国人や旅行者に対して値段をふっかけることについては、親しい者とそうでない者との差をつけることが良いことだ。

==>日本では、客に対して公平な態度が評価されるのとは真逆といっていいほどの差だが、このような態度は東アジア儒教圏(中国・韓国・北朝鮮・香港・台湾)でも同様である。

P.18 夫婦は互いに相手の親をおじさん、おばさん、と呼ぶ。お父さん、お母さんは、本当に血のつながった父母でしかない。

==>イスラムの血統を重視する感覚は日本人の想像を超えて強烈だということが分かる。血のつながりのあり/なしで峻別するのもやはり東アジア儒教圏と同じだ。

P.26 神を冗談の題材にすると、本気で怒る。

==>戦後すぐにアメリカ兵が日本の民家で畳をマットレス同様に考えて、土足で上がった時に日本人が感じた怒りの感情だろうが、多分、怒りの度合いはそのような比ではないだろう。以前、ムハンマドを皮肉ったカリカチュアを掲載したフランスの雑誌社がイスラム教徒に襲撃されたことがあったが、この事件がこれに該当するのであろう。

P.76 (大島氏は)数多くの神学者に(なぜ、神が悪魔の存在を許したのかについて)質問したが、ついに納得のいく答えは得られなかった。

==>一神教の教義に馴染みが薄い日本人であれば、このような疑問は必ず持つものだ、と私は思う。本来なら、日本人のイスラム学者はこの点について、日本人に分かるような説明をする義務があるはずだが、誰もこの点について説明してくれない。大島氏のこのような突撃精神は異文化を理解するときは、必須だ。

P.78 イスラムの説く天国は絶対に悪酔いしない美酒や永遠に処女の美女がいるというが、霊にセックスは必要だろうか?また、女性信者の天国はどうなるのか? 数多くの神学者に尋ねたが、納得のいく答えはえられなかった。

==>この点は私もコーランを初めて読んだ時に感じたが、日本語で書かれたイスラムに関する書物には説明は見つからない。

P.89 イスラム教(および、ユダヤ教、キリスト教)では信仰とは、神との契約に従って「信者の義務」を忠実に履行することである。

==>日本人は自分の都合のよいように神に頼って願いをすることを信仰と考えているような節が見られるが、一神教徒とは真剣度が全く違う。これは東南アジアの南伝仏教(上座部仏教や小乗仏教という)の僧侶や比丘尼たちの何百ともいわれる戒律を守るのと同じ感覚だ。

P.112 イスラムでは禁酒のはずだが、元来、中央アジアの遊牧民であったトルコなどのイスラム教徒は馬乳酒などを飲む風習があったので、現在でも酒は禁止されていない。

==>東南アジアのイスラム教徒など見てもそうだが、元来の土俗的風習の方が宗教より遥かに慣性力が強い。

P.126 ムハンマドによってアラブ全体がいわば一家になって平穏がもたらされたが、結局ムハンマドの死によって、またアラブ社会に根強かった「部族第一主義」が復活し、抗争が荒れ狂う社会に逆戻りした。

==>これも、上で述べたように、土俗的風習は宗教の力より遥かに強いということだ。

P.145 中東社会は、「神の前における万人の平等」どころか、権力者が治まらない世界だったし、今もそうである。

==>アラブは強力な権力者を必要とする社会、日本と真逆だ。これから分かるのは、アラブは本質的に民主主義国家にはなれないということだ。

P.154 「強い者が放牧する、弱い者が耕す」という、農業と農民蔑視から抜け出せない。

==>この観念は、アラブだけでなく匈奴やモンゴルと中国の関係においても確認できることだ。日本では勤勉が美徳される。これは農耕社会の発想だが、歴史的に遊牧民と一切接触がなかった日本人には遊牧民のこの心情は全く理解不可能だろう。

P.161 神の存在を否定する「無神論者」は人間とみなしてもらえない。

==>イスラム教徒でなくともユダヤ教徒やキリスト教徒などの一神教徒は「啓典の民」仲間であるが、仏教徒は「誤った神の観念に囚われている」とはいうものの、まだ人間の部類だというが、「無神論者」はもはやけだもの(獣)と同じだということだ。

P.176 (異文化の理解について)確かに、個人と個人の間なら、「相互理解」に達する場合も少なくないが、「集団と集団」の相互理解は容易でない。

==>以前のブログ 百論簇出:(第117回目)『国際人に必要なグローバル視点』
でも述べたように、私は個人同士と団体や集団間の相互理解は全く別次元だと確信しているが、図らずも大島氏と同じ意見だと分かる。


P.186 一般のイスラム教徒には、「異教徒と理解し合おうという思想はない」、ということを心得ておかなければならない。つまり自分の宗教は絶対なので、あくまでも「異教徒は異教徒」なのである。だから、「異教徒との契約」を踏みにじっても、根本的には「罪」にならない。

==>血も涙もないぞっとする意見だが、これが真実であろう。本多勝一の『アラビア遊牧民』には、アラビア遊牧民ほど嫌な人種はいないと言っていたが、その根本原因は彼らのこのような異民族観に由来するのであろう。 P.194 にも、「人類みな兄弟」式のヒューマニズムは、悲しいかな日本でしか通用しないというのが、「世界史の現状」である、と繰り返している。

これ以外にも、数々の点で教えられるところの多い本である。大島直政氏の『アナトリア歴史紀行 : 東西文明の接点・四千年』も個性のでた本で、有益な示唆が多い本であった。 Wikipediaなどで調べると、日本の文壇や学界からあまり評価されなかったようだが、日本における言論の自由のなさを象徴するように私には感じられる。
コメント
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