(前回)
〇「多言語への興味を持つ」(『教養を極める読書術』 P.39)
本書でも書いたように、結局私自身の関心の分野が広がったのは、他(外部)からの強制的な面も多くあったことは否定できない。その中にあって、多言語への関心は一貫して私の内面から湧き出てくるものであった。
それらの経緯については、かつて2010年の8月から50回にわたって連載した『私の語学学習』というブログに書いたとおりである。
しかし、多言語に関する関心・興味もよくよく考えてみると、大学1年生の夏休み前に、ドイツ語教師であった鬼の高木にこっぴどく叱られたために、ドイツ語に上達するようになり、最終的にはドイツ留学を果たすことができた。それゆえ、これもいってみれば外部要因ともいえる。
今回のテーマである「多言語への興味を持つ」という観点でいえば、第二外国語でドイツ語を選択したのは今から考えると大正解であったといえる。というのは、多言語といった場合、当然のことながら、英語を外すことはできないが、問題は、第二外国語に何を選択するかである。私の場合はドイツ語であったが、もしフランス語であったとしたら、今ほど多言語への興味というのが持てなかったかもしれないと感じる。
その理由は、私の場合、多言語の興味はほぼ語源への興味という意味であるからだが、ドイツ語の辞書 Wahrig Deutsches Wörterbuch に巡りあえたおかげでドイツ語を通してインド・ヨーロッパ語族の語源への興味がわいてきたからである。何故だか分からないが、フランス語の辞書はフランスで作られたものからして、語源欄の説明は極めて不十分である。さらに日本で作られた仏和辞典などには語源欄は全くないといっていいほどだ。つまり、第二外国語でフランス語をとっていたとすれば、語源にあまり関心を払わないままであったかもしれないと感じる。
さらに言えば、現在はインド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語、Proto-Indo-European language)と呼ばれているが、私がドイツ留学当時(1977年、78年)は ― 他の国ではどうだか知らないが ― インド・ゲルマン祖語(Indogermanische Ursprach)と呼び習わされていた。それというのも、印欧祖語の研究はインドに上級裁判所の判事として赴任したウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)によって始められたものの、その後の研究ではドイツ語圏の学者が学術的に一番進んでいた。
その証拠の一つが、60年前に出版された Julius Pokorny の "Indogermanisches etymologisches Wörterbuch" だ。現在では時代遅れの記述もあると言われるが、当時は学会の粋を集めた印欧祖語の語源辞書であった。この意味で、ヨーロッパ言語の語源やギリシャ・ローマの事柄を調べようとすると、ドイツ語で書かれている立派な辞書や専門書は数多いので、ドイツ語が読めることメリットがある。
自国語と英語の他に、いくつかの言語が理解できる Polyglot (つまり、多言語のができる人間)であると次のような点において知的水平面(intellectual horizon)が広がる。
A. 多言語のができるメリット
1.和訳されていない本を読むことができる。
2.原語での表現そのものを知ることができる。
B.言語の持つ意味を考える
3.言語に於ける音の重要性を考える。
4.日本語の文法や語彙を考える
5.表意文字と言われる漢字と表音文字と言われるアルファベットの差を考える
ところで、先年亡くなった渡部昇一は『発想法 リソースフル人間のすすめ』(講談社現代新書)の中で、発想豊かな人であるためには外国語をしっておく必要があると、次のように繰り返し述べている。
P.39 (ある小説家が自殺したのは)書かなくなる理由が、種が尽きたという感じの作家には、日本語のものしか読んでいないはずの人に多く、外国語をマスターしている作家にはそれ(種が尽きる)がなかったようである。
P.83 また語学というものがいかに発想を涸らさないための有力な道具であるかもわかる。
P.124 逍遥と鴎外の例で見たように、滾々と湧くアイデアを持った人をしらべてみるとその秘訣は語学にある場合が多い。語学というものは、相当な段階にまで達するならば、その言語を持った民族が作りあげた数世紀、あるいは数十世紀の文化・文明、特に思想・文学という宝庫に通ずる鍵を持ったようなものであって、ちょっとやそっとで種切れになることはなくなるであろう。
P.140 …外国語の文献を扱う人のほうが、リソースフルということになりやすい。外国語を読む時間は多くかかっても、それは発想の井戸を掘っていると考えるべきである。相当の早さで一つの外国語を読めることは、水量豊かな井戸を持つことに連なる、ということは繰り返しておくに値しよう。
つまり、豊かな発想ができるには、自国語と英語だけでなく、ひろく言語全般に関する広い関心が必要で、それも苦労なくある程度の早さで読めることが必要だということだ。
(続く。。。)
〇「多言語への興味を持つ」(『教養を極める読書術』 P.39)
本書でも書いたように、結局私自身の関心の分野が広がったのは、他(外部)からの強制的な面も多くあったことは否定できない。その中にあって、多言語への関心は一貫して私の内面から湧き出てくるものであった。
それらの経緯については、かつて2010年の8月から50回にわたって連載した『私の語学学習』というブログに書いたとおりである。
しかし、多言語に関する関心・興味もよくよく考えてみると、大学1年生の夏休み前に、ドイツ語教師であった鬼の高木にこっぴどく叱られたために、ドイツ語に上達するようになり、最終的にはドイツ留学を果たすことができた。それゆえ、これもいってみれば外部要因ともいえる。
今回のテーマである「多言語への興味を持つ」という観点でいえば、第二外国語でドイツ語を選択したのは今から考えると大正解であったといえる。というのは、多言語といった場合、当然のことながら、英語を外すことはできないが、問題は、第二外国語に何を選択するかである。私の場合はドイツ語であったが、もしフランス語であったとしたら、今ほど多言語への興味というのが持てなかったかもしれないと感じる。
その理由は、私の場合、多言語の興味はほぼ語源への興味という意味であるからだが、ドイツ語の辞書 Wahrig Deutsches Wörterbuch に巡りあえたおかげでドイツ語を通してインド・ヨーロッパ語族の語源への興味がわいてきたからである。何故だか分からないが、フランス語の辞書はフランスで作られたものからして、語源欄の説明は極めて不十分である。さらに日本で作られた仏和辞典などには語源欄は全くないといっていいほどだ。つまり、第二外国語でフランス語をとっていたとすれば、語源にあまり関心を払わないままであったかもしれないと感じる。
さらに言えば、現在はインド・ヨーロッパ祖語(印欧祖語、Proto-Indo-European language)と呼ばれているが、私がドイツ留学当時(1977年、78年)は ― 他の国ではどうだか知らないが ― インド・ゲルマン祖語(Indogermanische Ursprach)と呼び習わされていた。それというのも、印欧祖語の研究はインドに上級裁判所の判事として赴任したウィリアム・ジョーンズ(1746-1794)によって始められたものの、その後の研究ではドイツ語圏の学者が学術的に一番進んでいた。
その証拠の一つが、60年前に出版された Julius Pokorny の "Indogermanisches etymologisches Wörterbuch" だ。現在では時代遅れの記述もあると言われるが、当時は学会の粋を集めた印欧祖語の語源辞書であった。この意味で、ヨーロッパ言語の語源やギリシャ・ローマの事柄を調べようとすると、ドイツ語で書かれている立派な辞書や専門書は数多いので、ドイツ語が読めることメリットがある。
自国語と英語の他に、いくつかの言語が理解できる Polyglot (つまり、多言語のができる人間)であると次のような点において知的水平面(intellectual horizon)が広がる。
A. 多言語のができるメリット
1.和訳されていない本を読むことができる。
2.原語での表現そのものを知ることができる。
B.言語の持つ意味を考える
3.言語に於ける音の重要性を考える。
4.日本語の文法や語彙を考える
5.表意文字と言われる漢字と表音文字と言われるアルファベットの差を考える
ところで、先年亡くなった渡部昇一は『発想法 リソースフル人間のすすめ』(講談社現代新書)の中で、発想豊かな人であるためには外国語をしっておく必要があると、次のように繰り返し述べている。
P.39 (ある小説家が自殺したのは)書かなくなる理由が、種が尽きたという感じの作家には、日本語のものしか読んでいないはずの人に多く、外国語をマスターしている作家にはそれ(種が尽きる)がなかったようである。
P.83 また語学というものがいかに発想を涸らさないための有力な道具であるかもわかる。
P.124 逍遥と鴎外の例で見たように、滾々と湧くアイデアを持った人をしらべてみるとその秘訣は語学にある場合が多い。語学というものは、相当な段階にまで達するならば、その言語を持った民族が作りあげた数世紀、あるいは数十世紀の文化・文明、特に思想・文学という宝庫に通ずる鍵を持ったようなものであって、ちょっとやそっとで種切れになることはなくなるであろう。
P.140 …外国語の文献を扱う人のほうが、リソースフルということになりやすい。外国語を読む時間は多くかかっても、それは発想の井戸を掘っていると考えるべきである。相当の早さで一つの外国語を読めることは、水量豊かな井戸を持つことに連なる、ということは繰り返しておくに値しよう。
つまり、豊かな発想ができるには、自国語と英語だけでなく、ひろく言語全般に関する広い関心が必要で、それも苦労なくある程度の早さで読めることが必要だということだ。
(続く。。。)