限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第1回目)『徹夜マージャンの果てに』

2009-04-28 12:47:00 | 日記
コンサルタントという職業は華やかなように見えて学生には人気のある職業の一つです。しかしコンサルタントというのは知識や経験の足りない部分を想像と弁舌でカバーする必要があり、隠れた部分で機転と創造力、それとかなりのあつかましさを要する職業なのです。それで陰ではコンサルタントとは、『一を聞いて十を知り、百しゃべる』といわれています。

私もよく使うテクニックですが、この例のように数字を含んだ言い回しはリアルな印象を与えるものです。ほかにいくつか例を挙げてみましょう。『紅一点』とは良く知られた言葉ですが、出所は北宋の宰相であった王安石の詩の『萬緑叢中、紅一点』(溢れるばかりの緑の葉の中に一つだけ赤い花が際立っている)であると伝えられています。

『春宵一刻、値千金』もこれまた北宋の文人・蘇軾の詩の一句です。情景としては:『春の宵、どこからか花の芳香が漂う。パーティもお開きになり、ブランコがぽつんと朧月に照らされ、しんしん(沈沈)と夜がふけていく。』春のけだるい夕刻、時の過ぎていくのが惜しいというメランコリックな情緒が伝わってくる名文句ですね。

これらの詩の作者の王安石や蘇軾は本職はやわな詩人などではなく高級官僚、つまり超エリートです。ご存知のように中国では高級官僚を採用する試験である科挙が隋・唐に制度として確立して以来歴史に名が残っている文人の多くはこの科挙の合格者(進士)であったのです。

彼らの論文試験の答案用紙は巻物にしてうずたかく積まれますが、皇帝の面接試験の際には、そのトップ合格者(状元)の答案がそれらの一番上におかれることから、最も優れた作品を圧巻と呼ぶようになりました。つまり一番上の巻物が他の巻物を圧するという意味です。と言っても物理的な圧力自体は小さいのですが。

歴史上では、実力があるにも拘わらずトップ合格者(状元)になれなかった人に人気があつまるようです。蘇軾も残念ながら次点だったのです。そのわけはこの年の採点責任者の欧陽脩の弟子の曾鞏(そうきょう)も受験していたので、蘇軾の答案を読んだ欧陽脩はあまりの出来のよさにてっきり曾鞏の文章だと勘違いをしてしまいました。弟子に最高点をつけると身びいきと疑われると思い欧陽脩はその蘇軾の答案を次点にしたのでした。蘇軾には大変残念なことでした。曾鞏も蘇軾も二人とも嘉祐二年の進士です。

余談ですが、蘇軾(号は東坡)は豚の角煮がすきだったことからトンボーロー(東坡肉)という料理が今に伝わっています。

さて、この蘇軾のお父さんは蘇洵(そじゅん)といい、若い頃は国士きどり(現代用語ではフリーター)でまったく学問や家業は顧みなかった人でした。しかし27歳の時に一念奮起して、従来の生活を全く放擲(ルビ:ほうてき)し、猛烈に勉強をはじめました。しかし時すでに遅く、何度受験しても結局進士に合格するには至りませんでしたが、その論鋒するどく憂国の情溢れる文章は欧陽脩はじめ多くの文人や政治家の認めるところとなりました。そしてついには子の蘇軾や蘇轍とともに唐宋八家の一人に選ばれるまでになったのでした。

私はこの蘇洵ように能力のあるなしに関係なく発奮してこそ初めて大成することができる、と確信しています。

ところで、私はしばしば人から『理系なのによく歴史や哲学のいろいろな事を知っていますね』と聞かれますが、その背景には学生時代に大いに発奮するきっかけがあったからでした。

大学の2年生の冬休みに入ろうかという時のことでした。当時学生の必須科目であったマージャンができなかった私は学友に教えてもらう事になりました。夕食を済ませたあとで四人そろってその内の一人の下宿へ行きました。牌の名称や役の種類を教わり、点数の数え方もある程度理解すると早速実戦に入りました。コタツ机の上に毛布をかぶせて(なるべく)音のしないように牌をかき混ぜ、牌を並べるのですが、やはりどれから切ればいいのかわからず隣から助言を頼む始末でした。人の牌など見る余裕もなかったのですが、それでも一応聴牌(ルビ:てんぱい)やリーチまでもっていくこともできるようになりました。

そのようにして教わりながら時間も経つのも忘れて遊びふけっていたのですが、気がついてみると窓ガラスには水滴が浮かびカーテンの隙間から薄明かりが射しこんでくる時刻になっていました。マージャンのしょっぱなから徹夜マージャンになったわけです。私はマージャンができるようになった興奮で目がさえていたのですが、他の三人の内二人はうとうとと寝入ってしまいました。残された私ともう一人は当初学校の事などたわいのない話をしていましたが、次第に人生論や世界観など真剣な議論をするようになってきました。相手はなにしろ人には容易に屈しない広島県人ですので、なかなか私の意見にウンとはいってくれず、いちいち反論してくるので、私もそれに応戦していました。

当初私は、相手にとって不足はない、こちらにはいろいろと用意している弾(反論)があるのだ、とたかをくくっていましたが、議論をすすめていく内に突然弾が全くなくなっているのに気づきました。つまり、相手からつっこまれたテーマに関して全く考えていなかった、あるいは反論する材料を持っていなかった自分を発見したのでした。当時、同級生よりは多少は本を読んでいて、ましな思考をしていると自惚れていた私は、愕然としました。ムキになって応戦していたものの、その言葉がうつろで、自分で聞いていても全くめちゃめちゃな論理でした。事ここに至ってはもはや眼前の学友との議論などは問題ではなく、何もまともに考えていなかった自分自身が嫌になるほど恥ずかしくなったのでした。

いつしか私達の大きくなった声に寝ていた二人も起き出したのをしおに、帰ることにしました。冬の朝の冷気を浴びながら、下宿にむかってやみくもに自転車をこいでいた私は心のなかで悲痛な声で叫びました、『これでは全くダメだ!お前は何も考えていなかったではないか!』

下宿に戻ってから、今朝の議論を再点検しました。自分に何が欠けていたのか?まる一日考えて、私は決心したのです『人生の意義とは何なのか?正しい生き方とは何なのか?自分がなんのために生まれたか?、こういった問いの解決を第一目標としよう。ともかくも自分なりの解答を見つける為にこれから全力を尽くそう!』と。当時20歳だった私は一応の解答期限を10年間、つまり30歳になるまでと固く決心しました。

翌日から私の生活はがらっと変わりました。工学部の学生だったのですが、専門の本や授業はそっちのけで、私の決めた課題に関連する本ばかり読みました。当初はどういう本を読めば良いのか分からず、とりあえずこの分野のガイドブックともいうべき人生論の本から読み始めました。その内にそれらの本の中で名前が挙げられている本(原典)に直接向かうようになりました。そのような本は決して読みやすいものではありませんが、ともかくも喰らいついていくことにしたのでした。そうして広範囲に古今東西の本を渉猟していく内に先ほど挙げました疑問を解決するヒントを徐々に見つけることができるようになりました。

こういった私の読書の方法は旅行の仕方に喩えると次のようになるでしょう。普通の人は旅行する前にガイドブックを何冊も買いこみ、丁寧に読み、現地に着いたら何を見るか、何を食べるか、どこに泊まるかなどを事前に決めるでしょう。それに反して、私の場合は非常に簡単な旅行パンフレットで行き場所を決めると、とり合えず事前情報は無しで現地に行きます。現地ではいろいろとまごつきますが偏見なしに現地の景色、食べ物を味わう事ができます。この方法では確かに取りこぼしが多くありますが、普通の人のように、現地でも実物(原典)をほとんど見ず、専らガイドの説明を聞き(解説書だけを読み)足早に素通りしていく事に比べると遥かに記憶に残ります。それ以上に重要なのは、このように自分の目で確かめ、直接的経験を通して自分なりの判断を下す訓練をしていくと、結局当時の私に欠落していた『自分の腑に落ちる物の考えかた(Selbstdenken)ができる』ようになるのです。

一念発起して、自らの疑問解決の為に始めた読書で、20歳当時に決めた期限はとっくに過ぎていますがまだ問題の全面解決には至っていません。料理に喩えると、このごろやっと前菜を食べ終えた気分です。つまり一を聞いてようやく三程度を知りうるようになり、五程度をしゃべっている(あるいはこのようなエッセーとして書いている)ような状況です。十を知り、百しゃべれるまではまだまだ遠い道のりです。

コメント
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