限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第20回目)『その時歴史が、ズッコケた』

2009-08-25 06:19:14 | 日記
古今の書道の名人といえばいまから1700年前の東晋の王羲之とその息子の王献之に指を屈します。その王羲之の作品の中で最高傑作と言われている『蘭亭序』は王羲之が曲水の宴の際にほろ酔い気分で書いたもので、書き損じをくろぐろと塗りつぶした文字もあります。また、書いている途中で興が乗ってきたのか、字が踊ったり、極端に大きくなったり、傾いたり、とおよそ習字展に出せば必ずや落選するに違いないような代物です。



私がこの王羲之のことを知ったのは今から30年位前になります。大学に入学したての頃、教養部にその年に出来た真新しい図書館がありました。天井がかなり高く、ニ階は各机が仕切られて隣が見えなくなっている広い自習室がありました。昼ご飯を食べると、きまって眠くなる私はよくこの図書館で仮眠をとっていました。(たまには、熟睡におちいることもありましたが。)そこでいろいろと本を読んでいたうちに、中央公論から新たに発刊された大部の書道全集を見つけました。第一回目の配本がこの王羲之と王献之でした。私は字が下手で当時はかなりコンプレックスをもっていたので、早速借りてきて、大学から歩いて五分の下宿で眺めていました。

本の後ろのほうには、それらの書跡(作品)の解説があるのですが、中田勇次郎氏の解説は、単なる文字の説明だけの普通の解説のとどまらず、作者の王羲之だけでなく、謝安石など周辺の人たちに関する逸話が盛りだくさんある、いわばエピソード集だったのです。当初は書道の観賞のはずでしたが、その内にこれらの人々が生き生きと記述されている解説のとりこになってしまいました。その内にこれらのエピソードの大多数は『世説新語』と『晋書』が出所であることが分かりました。日本では、この時代、東晋のひとつ前の三国志が人気がありますが、私は三国志より、奇抜で、自由精神が溢れている人物が多く輩出したこの東晋時代の方が好みです。思想的にも私の大好きな荘子が単に紙の上の理念的(bookish)でなく、生活のバックボーンの思想として(といっても高等遊民の世界ですが)の地位を確立した時代でした。

さて、その王羲之の息子に王徽子という一風変った人がいました。竹を非常に愛していていました。竹の颯爽とした姿が良いということで、とうとう竹を『我がいとしの人』という意味の『此君』(しくん)と名づけました。極め付きは、ある雪夜に独酌をしていた時に突然遠く離れた友人に会いたくなり、船に乗って夜通し行きました。明け方近くになってようやくその友人の宿の近くまでたどり着きましたが、なんと急にその友に会う気がなくなって門の前で引き返して帰ってきたというのです。このような性格の王徽子は晋書では『雅性放誕』と評価されています。誉めているのかけなしているのかは分かりませんが、ともかくこのように晋書や世説新語に描かれているこの時代の人間はみんな一流の俳優のように個性が豊かで、しかも現実離れしているので、私は大好きです。

ローマ時代、超グルメで有名なアピキウスはその名を冠した料理本が今でも重宝されているそうです。(但し、本自体は数世紀後の偽作らしいという事ですが。)さて、そのアピキウスにも王徽子と似た話があります。アピキウスは喧騒のローマから離れてナポリ郊外に住んでいて、海老を常食としていました。その海老はかなり大きくロブスターよりも大きいものでした。ある時、アフリカ沿岸ではもっと大型の海老が取れると聞き、直ぐにその日のうちにアフリカへ船を出しました。途中悪天候にあってえらく苦労したそうですが、何とかアフリカ沿岸に近づくことができました。彼が大型の海老を求めてわざわざイタリアからやってきたという噂を聞きつけて漁師達が自慢の大きな海老を持って彼の船に漁船を近づけてきました。アピキウスは漁師達の持ってきた海老が予想に反して小さいので、もっと大きな海老はないのか、と聞きました。これ以上大きい海老はない、と漁師達が答えるとアピキウスはそのままアフリカに上陸もせず、もとの方向へと引き返してしまった、と言うことです。東西で似たような変わり者の話です。

さて、また話は晋にもどりますが、晋は当初中国全土を支配していたのですが匈奴の侵略で黄河流域(華北)から追い出されてしまいます。逃れた人たちが建康(現在の南京)に都を構えました。王羲之もそのように逃れてきたうちの一人です。華北を平定した前秦の第三代皇帝、苻堅は百万と号する大軍を率いていよいよ中国全土を統一しようと南方の晋を攻めてきました。時の尚書僕射(総理大臣)の謝安は甥の謝玄にわずか数万の兵隊をつけて送り出しました。両者は建康近くの、肥水という所で激突します。

数で劣る謝玄が苻堅の軍を打ち破る快挙を成し遂げます。戦勝のしらせを召使が持ってきたとき謝安はたまたま客と囲碁を打っていたのですが、その知らせを聞いてもあまりうれしそうな顔をしなかったのです。客がどういう知らせでしたか、と聞いたら素っ気無く、『小兒輩遂已破賊。』(な~に、こわっぱどもがようやりおって。)と答えただけでした。さて囲碁も終わり客を門まで送っていったあとで、謝安はあまりのうれしさに(多分どこかをけっとばしたのでしょう)下駄の歯が折れてしまっていたにも気付かずに家に入ってきました。下女がそれを見つけてしまったのでしょう、『不覺屐齒之折』と晋書には記されています。謝玄の戦勝はまさに『その時歴史が動いた』大事件であったにも拘わらず、このときの情景はこの謝安の『屐歯(げきし)の折るるを覚えず』というズッコケた言葉だけが残っています。



ギリシャのアルキメデスはご存知でしょう。浮力を見つけたあまり、うれしくて裸で家まで走って帰った人です。(ストリーキング第一号というわけです)浮力は今もアルキメデスの原理という名前で呼ばれています。さて、そのアルキメデスはギリシャ人ですが、今のシシリー島シラクサ(Syracuse)に住んでいました。本来は数学者(幾何学)で、図形に関する定理などを熱心に研究していた人です。当時、風呂屋では、サウナなどに入ったあとは体にマッサージオイルを塗ってもらい、ソファに寝そべってリラックスするのが常ですが、その時にでも油の塗られた体に指で丸や線で図を描きながら考え事をしていたとか。そうとうの幾何学オタクだったようです。

ある時アルキメデスが住んでいるシラクサがローマ軍に攻められた時の話です。町の防衛のため、アルキメデスは得意の幾何学を機械工学に応用して、滑車を組み合わせて巨大な起重機を作り、港に面した城壁に据え付けました。それは港に停泊しているローマ軍の船ごと持ち上げて、ぶんぶんと振り回し、乗っている船員をまるで虫けらの如くたたき落した、と言います。また城壁の下に接近してくる敵の艦艇を大きなフォークのような物で突き刺し、船首を高く持ち上げる沈没させてしまったりとか。とうとう無敵を誇るローマ軍もすっかり怖気づいて、ちょっとでも城壁の上に綱や木の道具が現われると、叫び声をあげならが、逃げ惑う始末です。私は、この部分(プルターク英雄伝の『マルケルス篇』)を読んでいて、思わず噴き出してしまいました。まるで現在の漫画そのものだ、と思ったのです。

私は中学校や高校で歴史を習っていた時はどうも年号や政治家の名前、制度の名前など、本当に味気ない単語の羅列ばっかりでちっとも面白く感じられませんでした。大学に入ってから、冒頭に書きましたように自分の興味のあることで歴史を学んでいくと、結構面白いのです。つまり、歴史は無味乾燥の暗記物ではなく、このように生きた人々のエピソード集として読むと非常に面白い、と言う事を発見したのでした。人の名前や地名などもそのエピソードと一緒に自然と覚えられます。中国では、伝統的に書物は経・史・文・集の四種類に分類され、このようなエピソード集は稗史(はいし)と言って、正史との対照で一段と低く見られています。どうもその影響が現在の日本にも根深く残っているようです。私は、もうそろそろ、そういった堅苦しい考えは捨てて、『ズッコケの歴史を最初に学ぼう!』と提案したいと思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする