限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

翠滴残照:(第2回目)『読書レビュー:教養を極める読書術(その1)』

2021-01-31 22:19:08 | 日記
『教養を極める読書術』は、昨年の11月に出版された私の本である。自分で書いた本を読書レビューするのは、いささか自己撞着的ではあるが、読み返してみると、いくつかの場所で説明不足や、書き足りなかった点が見つかった。ドイツの文豪・ゲーテはドイツ文学の傑作といわれる畢生の作『ファウスト』を書き上げたが、死ぬまでに何度も書き直したと言われる。ゲーテの顰に倣う訳ではないが、私も自分の本に対して、第三者のつもりで足りない点を指摘したい。



〇 人はいかに生くべきか?(P.3)

本書では、冒頭に「人類4000年の特等席からの見晴らし」という文句を掲げた。この文句は本ブログの副題ともなっている。私は文化や文明は必ずしも時代と共に発展するとは考えない。例えば、ギリシャ彫刻や中国書道を見てもわかるが、2000年や1500年前に作られたものがいまだに世界の最高傑作と目されているものがたくさんある。現代が掛け値なしで古代より優れているものと言えば物質と情報の面であろう。確かに食い物は古代、中世より質・量ともけた違いに優れている。料理法も格段に進歩している。しかるに文化面でいえば、彫刻や書道だけでなく、進化どころか随分と退化している物が多くある。

例えば、自分の頭でしっかりと考えることができなくなっている日本人の若者が増えているようだ(下記記事参照)。偏差値教育やゆとり教育の弊害だと言えるが、本質的には、戦後日本が経済的に豊かになり、何も真剣に考えなくてもそこそこ生きていくことが可能になったのが、主原因であろうと私には思える。現在との比較で言えば、幕末明治の大変革時に、圧倒的に少ない情報や知識でありながら、30歳そこそこの若者たちが自分の頭で考えて、国を誤まらずに舵とっていったことを思えば、現在の政治家の不甲斐なさが一層際立ってくる。

【参照記事】
学力の低下現象と新「学問のススメ」 ― 加藤尚武(京都大学) 1999年4月8日

現在の日本では、人生論や哲学・宗教に関して「口角泡を飛ば」して議論する、というような熱き魂の触れ合いが敬遠される。その点、欧米各国では生活水準は日本より高いものの、いまだに青臭い人生論や日本では滅多に見られない宗教論争などに熱心に参加する人が多い。これらの議論の様子は、次のYouTubeの動画で確認することができる。

〇Debate Islam is a Religion of Peace
https://www.youtube.com/watch?v=kGxxbqPSLR8


〇Dawkins on religion: Is religion good or evil? | Head to Head
https://www.youtube.com/watch?v=U0Xn60Zw03A

〇The God Debate: Hitchens vs. D'Souza
https://www.youtube.com/watch?v=9V85OykSDT8


〇Islam and the Future of Tolerance (Fixed Sound)
https://www.youtube.com/watch?v=sWclm4Bi4UM


このような雰囲気に囲まれて育つ人間とそうでない人間とは随分と思考の深味が異なる。もっとも、日本国内に住み、日本人とだけ付き合う人々には、このような白熱議論と無縁であったとしても、何ら実生活に困まることはないだろう。しかし、日本を出て海外で生活をする、あるいは日本に居たとしても常に外国人とビジネスをしたり、会話をしないといけないと間違いなく、彼我の思考の差に愕然とする事態に遭遇するはずだ。その時になれば何とかうまく切り抜けられるはず、と考えるのは、事態を甘く見くびっている。それなら、思考を深める即効薬はと探しても、思考の深さというのは一朝一夕につくものではない。十年単位で始めて可能なものだ。それも、与えられたドリルを間違わずにこなせば、得られるというような代物でもない。

「すき腹にまずいものなし」との諺にあるように、いくら美味い料理でも、食べたいという欲求がないのならうまくは感じない。それと同様、自分の心の奥底から湧いてくる探究心・向上心がなければ、どのような本を読んでも自分の血肉にはならない。思考を深めようとしても、興味や関心が本物でないと読書は長くは続かないだろう。推理小説やサスペンスドラマが人気なのは、続きを読みたい、観たいという刺激が途切れずに湧いてくるからだ。読書も、この境地に至れば自然と読む分量が増えてくる。

本書は、私の読書遍歴をかなりつっこんで書いたが、振り返れば、20歳の時の「徹夜マージャンの果てに」からすでに 40数年経過しているものの、まだまだ知らないことが日々数多く出てくる。富士山の麓には、どんな日照りでも尽きることなく、滾々と清水が湧く湧水池がいくつもあるそうだが、私の疑問も尽きることなく湧いてくる。それら疑問の根底に通奏低音のように流れているメインテーマは、ずばり「人はいかに生くべきか」という難問だ。本書は突き詰めれば、このテーマに私がどう立ち向かったのか、という供述書、あるいは告白書のようなものだ。

ところで、私は知識欲というのは愛欲や金銭欲同様煩悩の一形態であると思っている。つまり世間的に見れば結構な性質かも知れないがつまるところ、仏(ほとけ)から見れば知識欲旺盛の人間というのは(情報を)飲んでも飲んでも喉の渇きが癒されない哀しい業(ごう)を背負っているとも考えている。

続く。。。
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