限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第237回目)『真打登場:「資治通鑑に学ぶリーダー論」(その8)』

2018-12-09 14:23:49 | 日記
前回

コンピュータのOS(Operating System)にタイムシェアリングという概念がある。一つのCPU(Central Processing Unit)を皆でたらい回しにして、割り当て時間だけ使うのだ。仕事を超超高速に処理することで、あたかも複数の仕事を同時にこなしているように見せかけることができる。しかし、よ~く見ると(当然のことながら)CPUはある特定の時間には特定の一つの仕事しかしていない。ここで、漢文と全く関係のないタイムシェアリングの話を持ち出したのは、何年かの間に漢文だけでなく他のこともいろいろと手がけていたのであることを言いたいためだ。

1995年から暫くの間「国訳漢文大成」で漢文をかなり真剣に読んだおかげで、2年ほどの間に中国の古典といわれるものはあらかた読み終えてしまった。その後(運悪く?)デリバティブ・システム構築や知識共有のプロジェクトへの参画などでやたらと忙しくなった。この時、海外出張などもあったので、錆びつきだした英語やドイツ語をブラッシュアップしなければと頑張った。近代西洋語をするついでに、以前からやりたいと思っていたラテン語や古典ギリシャ語の独習も始めたので、漢文はまたもや開店休業状態となった。

このように数年の間、漢文をあまり読むことなく過ごしていたが、2003年にたまたま、神保町の中国書籍を専門に扱っている山本書店に入ったところ、『王陽明全集・全10巻』(明徳出版社)が目に入った。陽明学は 1980年に社会人になった当初、安岡正篤師のビジネス書をかなり読んでいたのでずっと関心はあった。岩波文庫の『伝習録』をぱらぱらとは読んでみたものの、何だかよく分からなかったので、それ以上調べようという気にはなれなかった。ところが、目の前に王陽明の10巻の全集が見えて、俄然「これを読めば陽明学が分かる!」(のではないだろうか?)とうれしくなった。またもや、手持ちの金が無かったので、とりあえず店主に「売らないでくれ」と頼んで、すぐに近くのATMで金を下ろして購入した。

この王陽明全集は漢文の原文に書き下し文と注とがついているだけで現代語訳はない、至ってシンプルな構成である。しかし、通読を旨としている私にはこれで十分だった。第一巻には『伝習録』が収められているが、これは文庫で読んでいるので、飛ばして第二巻の文録から読み始めた。



書き下し文だけだが頭注は過剰なほど入っている。この注を読んでいくと当然のことながら古典からの引用が非常に多い。幸いなことにこれらの出典のほとんどは手元の国訳漢文大成にあるので該当の箇所をチェックしながら読んでいった。論語はすでに何度も読んでいるので問題ないが、困ったのは非常に頻繁に引用されている孟子だ。以前、孟子は読んだのだが、興味が湧かず途中で止めてしまったのであまり分からない。それで、引用文の意味を理解するために本文を探してもなかなか見つからず、非常に手間どった。

王陽明を理解するには、孟子の理解が必須なので、何はともあれ、まず孟子を読もうとした。しかし、机の前に坐って孟子を読むのはどうもかったるく感じたので、MD(Mini-Disk)に孟子の書き下し文を吹き込んで耳から学ぶことにした。この方法は、すでに大学受験に際して、私自身の経験で効果が立証済みだ。私は社会科目が苦手だったので、大学受験も高校3年生の秋まで、社会科は全く手を付けていなかった。しかし、受験が近づいてきたので、やむなく日本史の教科書をまるまる吹き込んで、それを何度も聞くことで暗記した。教科書一冊分は大体数時間程度で吹き込めるので、一日、30分程度でも聞くと、いくら記憶力が悪い者(it's me!)でも 2、3ヶ月で大体完璧に覚えることができる。

従ってこの時も孟子の書き下し文を全部吹き込んで通勤途中の電車の中などで聞いた。その際、耳で聞くだけでなく、目でも文字を追いかけた。インターネットの中国語のサイトから孟子のデータ(html、BIG5形式)をダウンロードして、ワードに移し、縦書きに直してプリントした。いわば、自作標点本だ。一日に1時間程度、耳で聞きながら目で文を追うことを数ヶ月続けていると、その内に文を見るだけで頭のなかで書き下し文が鳴り響くようになった。

横着をして、孟子の文を耳で聞くという方法を通して、私は図らずも漢文を完全に(つまり、自己満足できる程度に)読めるようになった。翻って、江戸時代、寺子屋で初歩的な教育を受けた人たちがどうして漢文がかなり正確に読めるようになったのかは、ひとえに「漢文を耳から学ぶ」という点にあったのだと合点がいった。これによって得た漢文読解力が最終的に資治通鑑の通読を可能にしたのであった。

【参照ブログ】
 沂風詠録:(第55回目)『漢文は音読で、完全にマスターできる!』


続く。。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする