限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第390回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その233)』

2019-01-13 17:17:41 | 日記
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【332.時刻 】P.4427、AD498年

『時刻』とは「時の流れのある一点」と国語辞典には説明するが、あまり良い説明とは言えない。そもそも辞源(1987年版)によると「刻」そのものが「計時的単位」との説明があるので、「時」がなくても「刻」だけで「時刻」という意味であるということが分かる。

ついでに、辞源(1987年版)には中国の古代の「刻」の説明が次のように載っている。
 「刻」: 古代以銅漏計時、一昼夜分為一百刻、按節令、昼夜計数不同。冬至昼四十五刻、夜五十五刻、夏至昼六十五刻、夜三十五刻、春分秋分、昼五十五刻半、夜四十五刻半。至清代始用時鐘。以十五分為一刻、四刻為一小時。

この程度の文なら、漢字だけ並べられても意味がとれるだろう。一個所「按節令」は分かりにくいかもしれないが「季節に応じて100という時刻を昼と夜で按分する」という意味だと理解できる。概略は、古くは一日を100刻とし、季節によって昼と夜の配分が異なった、つまり、定時法だったということだ。(ちなみに日本の江戸時代は不定時法)

さて、「時刻」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。宋書が初出であるが、宋元以降、近代に至るにつれて一層多く用いられていることが分かる。上で述べたように元来「刻」だけで「時刻」の意味を示しながら、「時刻」という表現が多く用いられるようになったのは、「耳で発音だけを聞いて意味が分かる」ようにするための人為的なものであると私は推測する。



さて、資治通鑑で「時刻」が用いられている場面を見てみよう。南斉の明宗の治世下、王敬則が反乱を起こした。それを聞いた明帝は即刻、王敬則の親族を捕えて全員を処刑した。(上聞王敬則反、収王幼隆及其兄員外郎世雄、記室参軍季哲、其弟太子舎人少安等、皆殺之。長子黄門郎元遷将千人在徐州撃魏、敕徐州刺史徐玄慶殺之。)

毎度のことではあるが、中国では無実の人がいともたやすく殺されてしまうのは全く痛ましいことだ。これも全て中国人の根本的概念である「血族」に由来する弊習だ。

王敬則は自分が帝位に就くというのは、大義名分に欠けるので、形式的に帝室の一員である蕭子恪を明帝の代わりに帝位に就けようとした。反乱の片棒を担がされては、命が危ないと感づいた蕭子恪はすぐさま逃走した。そこから、「走れメロス」もどきのドラマが始まった。

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前の呉郡太守で南康侯の蕭子恪は蕭嶷子である(つまり、蕭子恪は、南斉の建国者・蕭道成の孫)。王敬則は起兵するに当たって蕭子恪を担ぎあげようとしたが、危険を察知した蕭子恪は急いで逃げ隠れた。

乱が勃発した当初、始安王の蕭遙光(明帝の兄)は明帝に、将来の憂いを避けるために高祖(初代皇帝・蕭道成)と武帝(二代皇帝・蕭賾)の子孫を皆殺しにするよう進言した。そこで、宗室の王や妃・子供たちを全て宮廷に呼び寄せた。…途中で逃げられないようにするため、各々の両側に人を1人ずつ付けた。あたかも戦時下のように軍法に従った処置だ。幼子は乳母と共にひっぱってきた。この晩、宮廷の医者に命じて毒薬(椒)を大釜一杯(二斛)煮させた。木工係(都水)に命じて棺桶の材料、数十人分を用意させ、真夜中になれば、全員を殺そうと手筈を整えた。

さて、逃走した蕭子恪は裸足のまま秘かに宮中に駆け付け、夜の11時ごろに建陽門にたどり着き、帝にお目通りを願った。時刻は真夜中を過ぎていたが明帝は疲れて寝ていた。中書舎人の沈徽孚は帝の寵臣の単景雋と相談して、処刑をせずにいた。

そうしている内に、明帝が目を覚ましたので、単景雋が「蕭子恪が宮中に参上しています」と告げた。帝はおどろいて「まだか、まだか?」(処刑はしてしまったのか?)と問うと単景雋は「まだです」と言うと、帝はベッドをなでながらほっとし様子で、「あやうく、遙光のために無実の人を殺すところだったわい!」とつぶやいた。それから、招集した王族たちには食事を振る舞い、翌朝には皆を帰した。

前呉郡太守南康侯子恪、嶷之子也、敬則起兵、以奉子恪為名;子恪亡走、未知所在。

始安王遙光勧上尽誅高、武子孫、於是悉召諸王侯入宮。…敕人各従左右両人、過此依軍法;孩幼者与乳母倶入。其夜、令太医椒二斛、都水辦棺材数十具、須三更、当尽殺之。子恪徒跣自帰、二更達建陽門、刺啓。時刻已至、而上眠不起、中書舎人沈徽孚与上所親左右単景雋共謀少留其事。

須臾、上覚、景雋啓子恪已至。上驚問曰:「未邪、未邪?」景雋具以事対。上撫曰:「遙光幾誤人事!」乃賜王侯供饌、明日、悉遣還第。
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太宰治の小説に「走れメロス」というのがあるが、夕陽が沈む直前にメロスが駆け戻り、友の命を救ったが、まさに蕭子恪は必死の思いで暗闇を駆け抜け宮中の辿りついて、何十人という王族の命を救った。まさに南斉のメロスだ!

ところで、古代ギリシャに「ダモクレスの剣」という言葉がある。玉座というのは、他人から見れば羨ましいかもしれないが、実際に坐ってみると、常に命の危険にびくびくしなければならない、非常に厄介な場所である、ということをシラクサの僭主ディオニュシオス1世は玉座の上に、一本の細い馬の尻尾に剣をつるして示した。

今回の話でも蕭子恪の一族は、なまじっか帝室の一員であるために蕭子恪が反乱軍に祭り上げられたという噂(ガセネタ)だけで、明帝からはすぐさま玉座を狙う反逆者と見なされた。そのため、一族は有無をいわさず即座に処刑されそうになった。つまり、王族というのは、命が一瞬先はどうなるか分からない身分であるということだ。

韓非子は《姦劫弑臣》篇に、当時の諺として「厲憐王」(癩、王を憐む)という言葉を紹介している。癩患者(ハンセン病患者)は自分は不治の業病に侵されているが、その自分よりも王の方がずっと惨めで可哀想だという意味である。実際、『本当に残酷な中国史』(P.64)に書いたように、北朝の宋の皇子の劉子鸞は、父帝亡き後、兄の劉子業から自殺を命じられた(賜死)時、まだ十歳であったが「もう二度と王家などに生まれてきませんように」(願後身不復生王家)と切に願った。庶民から羨まれる高貴な身分は、逆に厭(いと)わしいものだということが分かる。

ちなみに、明帝の叫んだ「未邪、未邪?」(まだか、まだか?)は当年(AD498年)の流行語大賞に選ばれたとか、選ばれなかったとか。。。

続く。。。
コメント
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