限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第381回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その224)』

2018-11-01 18:42:34 | 日記
前回

【323.伉儷 】P.4346、AD494年

『伉儷』とは「夫婦」という意味。今はあまり使われず、いささか古語めく。辞源(2015年版)には「伉儷」の用例として文選(巻56)の文(余之伉儷焉)を引用した後に、次のような説明が見える。
「かつては、伉儷と言えば多くの場合『正妻』(嫡妻)を意味したが、後になると夫婦関係を指すようになった」(古時伉儷多指嫡妻、後用作夫婦的通称)

そもそも「伉儷」とは「伉」と「儷」の合体語であるが、辞海(1978年版)によると「伉」は「匹耦也」(pair)という意味であるが、「儷」も全く同じく「匹耦也」(pair)と説明されている。漢語の熟語にはこのように、全く同じ意味を重ねた redundant な語がかなり多い。推測するに、漢字とは元来、「一音=一字=一義」が原則なので、同じ意味の語を重ねることなど想定外であったはずだ。しかし、一字だと当然のことながら、表現できる事柄が限られてくる。また、一音節だけで識別できる以上の字を作ったので、当然の帰結として同音の字が多くできた。(ちなみに、日本語の発音の種類は 50音であるが、中国語だとだいたい 300音であるようだ。つまりいくら知能の発達している(?)中国人といえども300語以上を区別して発音できない!)

そうした事態に対して、弥縫的(泥縄式)ではあるが畳韻や双声という、ひねったやり方をあみだして、上で述べた漢字の原則(単音節で一つの意味)を自ら破ることになった。結局、複音節で一つの意味(義)を表現するようになったのが「伉儷」のような単語が多く生み出された理由だ。

さて、「伉儷」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。



これから分かるように、だいたい晋書から隋書までに使われた単語であることが分かる。日本の時代区分でいうと、古墳時代から白鳳時代までの極めて古い時代だ。そのような時代に使われていた、いわば化石化した単語が今だに、たま~、にではあるが、平成の御代の日本でも使われている。

さて「伉儷」が資治通鑑で使われている場面を見てみよう。

南斉の第3代皇帝・蕭昭業(廃位されたので死後は鬱林王と呼ばれる)やその妃には眉を顰める放蕩が多く、近親の臣下(蕭諶や蕭坦之)からも見放されたと言う場面。

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帝(蕭昭業)の妃である何后もまた淫乱であった。秘かに帝の左右に仕える楊珉のベッドに寝起きし、まるで夫婦(伉儷)のようであった。それでいながら楊珉は帝ともホモの関係にあり、仲睦まじかった。そんな乱れた関係に輪をかけて、何皇后の親戚の女子も宮殿に呼び寄せて耀霊殿に住まわせた。宮殿と後宮との間の門は昼夜問わず、開いていたので誰彼なく行き来していた。西昌侯の蕭鸞(後の明帝)は蕭坦之を使わして帝に楊珉を処刑するよう要求した。何后は悲しみのあまり顔を覆って涙を流し「楊珉ちゃんはまだ子供なのに、どうして罪もなく殺すのですか!」蕭坦之は帝の耳元で「世間では楊珉と皇后は通じているとの噂が立っていて、もう隠しようがありません。誅殺しないわけにはいきません。」と囁いた。帝は仕方なく、許可した。ところが気が変わって、すぐさま取り消したが、すでに処刑が行われてしまっていた。

蕭鸞はまた別の時、徐竜駒を処刑するように帝に進言した。帝は反対したかったが、できなかった。心の中では蕭鸞の専横をますます憎んだ。蕭諶と蕭坦之は帝の放蕩が日を追ってひどくなり、悔悛の気配が見えないので、自分たちの身が危なくなるのではないかと心配した。それで、今までは帝に付いていた方針を変えて蕭鸞の側に付くことにし、蕭鸞に帝を廃嫡するよう進言した。そうして秘かに、蕭鸞のスパイとなって帝の動向を逐一蕭鸞にしらせたが、帝は全く気づかなかった。

何后亦淫泆、私於帝左右楊珉、与同寝処如伉儷;又与帝相愛狎、故帝恣之、迎后親戚入宮、以耀霊殿処之。斎閤通夜洞開、外内淆雑、無復分別。西昌侯鸞遣坦之入奏誅珉、何后流涕覆面曰:「楊郎好年少、無罪、何可枉殺!」坦之附耳語帝曰:「外間並云楊珉与皇后有情、事彰遐邇、不可不誅。」帝不得已許之;俄敕原之、已行刑矣。

鸞又啓誅徐竜駒、帝亦不能違、而心忌鸞益甚。蕭諶、蕭坦之見帝狂縦日甚、無復悛改、恐禍及己;乃更回意附鸞、勧其廃立、陰為鸞耳目、帝不之覚也。
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皇帝の蕭昭業(鬱林王)の後宮は乱れていた。南斉書や南史によると、何后は楊珉(南斉書や南史では「楊珉之」と書かれている)だけでなく、何人もの美男子と淫行を重ねていたようだ(妃択其美者、皆与交歓)。バイセクシャルの帝は楊珉を宮廷に引き入れたので、自然と何后と楊珉の仲が一層親しくなったが、帝はまるで気にかけなかった。それで、何后と楊珉はあたかも夫婦のように(如伉儷)寝室を共にした、と言う次第。

何后と楊珉との醜聞が世間に漏れ聞こえるようになって、臣下(蕭鸞)が災いの種である楊珉を処刑するように、帝に進言した。帝はその進言を拒み切れずに、心ならずも処刑を許可した。それだけでなく、別の寵臣の徐竜駒も処刑せざると得なくなった。いづれの場合も、記録上では帝が処刑したということになるのだが、実際は実力者(この場合は蕭鸞)が決定を下したことがこの辺りの記述から明らかになる。

このように、史書・資治通鑑をよく読むと、表面的な歴史的事実からは見えてこない、陰であやつっている真の実力者が浮かび上がってくる。絶対権力者と言われる中国の歴代の帝王の内、その名に値する本当の絶対権力の持ち主は、実は一握りしかいないことが資治通鑑を通して読むとよく分かる。中国の実力者の実態は現在でも変わっていないと私は考えている。これが、
 「『資治通鑑』を読まずして中国は語れない、そして中国人を理解することも不可能である」
ということだ。

続く。。。
コメント
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