(前回)
【322.臨時 】P.4316、AD491年
『臨時』とは「その時時の必要に応じておこなうこと」で「その場かぎり、非恒久的」というニュアンスが付きまとう。辞源(2015年版)には2つの意味が載せられている。「到事情発生之時」(事柄が発生したとき)と「一時、暫時」とある。
「臨時」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。史書での初出は史記であるが、晋書以降かなり多く用いられていることが分かる。
さて「臨時」が資治通鑑で用いられている場面を見てみよう。
蕭道成が建国した南斉の二代皇帝の武帝(蕭賾)は即位後、国力の充実に力を注いだ。その一つが法律の改定であった。以下の文に見るように、法というのは本来は人々の権利を護るためにあるものなのに、却って人々を圧迫する道具となっていたからだ。
+++++++++++++++++++++++++++
昔、晋の張斐と杜預が人々が理解できるようにと、法律の条文に各々の解釈で註釈をつけた。それが30巻にものぼったが泰始(AD265年 -274年)から用いられていた。しかし、法律の条文は極めて簡約なので、意味が不明な個所が多かった。ひどい場合には、同じ条文に対して二人(張斐と杜預)の解釈が死刑とそうでないと正反対の結論を出すこともあった。実務担当の下級役人(胥吏)たちは適宜(臨時)、条文を都合よく解釈して不正を働いていた。武帝はこれを糺すべく、裁判担当の役人たちに、これらの注釈を整理し直すよう命じた。永明7年(AD489年)に尚書・刪定郎の王植が二人の解釈をまとめ直して提出した。そこで帝は公卿八座を招集して、議論するよう命じた。竟陵王の蕭子良が議長となって意見をとりまとめた。ただ、参加者たちの意見が分かれた時は、帝の裁断を仰いだ。こうして、2年かけ今年(AD491年)になってようやく法律の解釈が一本化した。
初、晋張斐、杜預共註律三十巻、自泰始以来用之、律文簡約、或一章之中、両家所処、生殺頓異、臨時斟酌、吏得為姦。上留心法令、詔獄官詳正旧註。七年、尚書刪定郎王植集定二註、表奏之。詔公卿八座、参議考正、竟陵王子良総其事;衆議異同不能壱者、制旨平決。是歳、書成。
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中国には古来、法律が多くあった。しかし、いかにも中国的ではあるが、これら数多い条文には整合性が欠落していた。その上、条文があまりにも漠然と書かれているためいろいろと恣意的に解釈できる余地があった。こうした法律の不備を熟知している吏(地元の役人たち)は、法の抜け穴や矛盾を有効活用(!)合法的に不正を行っていた。つまり、法は存在しながらも実質的にはいわば無法状態にも等しき状態だったということになる。
想像するに、武帝は即位以前から、このような悪弊をたびたび耳にしていたので、何とかしたいという強い信念をもっていたに違いない。それで即位するや早速、条文の解釈を全部見直すよう指示した。その作業が終わるや「やれやれ、これで民も救われることだわい」と思ったことだろう。
しかし上の文に継いで、資治通鑑には「このような形式的な統一だけでは事は解決しない」との意見が廷尉の孔稚珪から提出されたと述べられている。孔稚珪の主張は、事態の改善のためには、あくどき「吏」に実務を一任せず、清廉な士にも法律の実務を担当させよ、というものであった。そのためには、高級官僚である士にも法律実務を学ばせないといけないと述べた。
ここで、「官吏」という言葉について説明しよう。日本では「官吏」は「役人」と同義に用いられているが、中国では「官吏」とは伝統的に「官」と「吏」という2つの別々のグループを指す。「官」とは中央で採用され中央官庁に勤務する、あるいは地方の出先機関に派遣された、いわばキャリア組である。一方、「吏」とは、地方で採用されたノンキャリア組であるが、大抵において、先祖代々いわば家業としての役人だ。親から譲り受けた権益と、網目状に張り巡らされた膨大な裏情報を活用して地方政治を実質的に牛耳っていたのはこれら「吏」であるようだ。(宮崎市定氏の説明)
つまり、裁判などの判決には当然「官」が関与するが、獄中の待遇などや実際の法の執行は「吏」が担当していた。ここが不正の温床で、このような点に対しても「官」が目を光らせない限り不正はなくならない。この孔稚珪の提案は武帝によって裁可されたものの、残念ながら実行に移されることはなかった(詔従其請、事竟不行)。
「上に政策あれば、下に対策あり」の中国の諺通り、「吏」たちは、一致団結し、自分たちの不利になることをあの手この手で無効化してしまったに違いない。残念ながら、何年もかけて行った武帝の高邁な裁判浄化運動は全くの水泡に帰した。巷では京大生を揶揄して「イカキョウ」(いかにも、京大)という言葉があるが、武帝のこの失敗もいかにも「河清百年を俟つ」(俟河之清、人寿幾何)の中国らしい結末だ(イカチュウ)。
(続く。。。)
【322.臨時 】P.4316、AD491年
『臨時』とは「その時時の必要に応じておこなうこと」で「その場かぎり、非恒久的」というニュアンスが付きまとう。辞源(2015年版)には2つの意味が載せられている。「到事情発生之時」(事柄が発生したとき)と「一時、暫時」とある。
「臨時」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、下の表のようになる。史書での初出は史記であるが、晋書以降かなり多く用いられていることが分かる。
さて「臨時」が資治通鑑で用いられている場面を見てみよう。
蕭道成が建国した南斉の二代皇帝の武帝(蕭賾)は即位後、国力の充実に力を注いだ。その一つが法律の改定であった。以下の文に見るように、法というのは本来は人々の権利を護るためにあるものなのに、却って人々を圧迫する道具となっていたからだ。
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昔、晋の張斐と杜預が人々が理解できるようにと、法律の条文に各々の解釈で註釈をつけた。それが30巻にものぼったが泰始(AD265年 -274年)から用いられていた。しかし、法律の条文は極めて簡約なので、意味が不明な個所が多かった。ひどい場合には、同じ条文に対して二人(張斐と杜預)の解釈が死刑とそうでないと正反対の結論を出すこともあった。実務担当の下級役人(胥吏)たちは適宜(臨時)、条文を都合よく解釈して不正を働いていた。武帝はこれを糺すべく、裁判担当の役人たちに、これらの注釈を整理し直すよう命じた。永明7年(AD489年)に尚書・刪定郎の王植が二人の解釈をまとめ直して提出した。そこで帝は公卿八座を招集して、議論するよう命じた。竟陵王の蕭子良が議長となって意見をとりまとめた。ただ、参加者たちの意見が分かれた時は、帝の裁断を仰いだ。こうして、2年かけ今年(AD491年)になってようやく法律の解釈が一本化した。
初、晋張斐、杜預共註律三十巻、自泰始以来用之、律文簡約、或一章之中、両家所処、生殺頓異、臨時斟酌、吏得為姦。上留心法令、詔獄官詳正旧註。七年、尚書刪定郎王植集定二註、表奏之。詔公卿八座、参議考正、竟陵王子良総其事;衆議異同不能壱者、制旨平決。是歳、書成。
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中国には古来、法律が多くあった。しかし、いかにも中国的ではあるが、これら数多い条文には整合性が欠落していた。その上、条文があまりにも漠然と書かれているためいろいろと恣意的に解釈できる余地があった。こうした法律の不備を熟知している吏(地元の役人たち)は、法の抜け穴や矛盾を有効活用(!)合法的に不正を行っていた。つまり、法は存在しながらも実質的にはいわば無法状態にも等しき状態だったということになる。
想像するに、武帝は即位以前から、このような悪弊をたびたび耳にしていたので、何とかしたいという強い信念をもっていたに違いない。それで即位するや早速、条文の解釈を全部見直すよう指示した。その作業が終わるや「やれやれ、これで民も救われることだわい」と思ったことだろう。
しかし上の文に継いで、資治通鑑には「このような形式的な統一だけでは事は解決しない」との意見が廷尉の孔稚珪から提出されたと述べられている。孔稚珪の主張は、事態の改善のためには、あくどき「吏」に実務を一任せず、清廉な士にも法律の実務を担当させよ、というものであった。そのためには、高級官僚である士にも法律実務を学ばせないといけないと述べた。
ここで、「官吏」という言葉について説明しよう。日本では「官吏」は「役人」と同義に用いられているが、中国では「官吏」とは伝統的に「官」と「吏」という2つの別々のグループを指す。「官」とは中央で採用され中央官庁に勤務する、あるいは地方の出先機関に派遣された、いわばキャリア組である。一方、「吏」とは、地方で採用されたノンキャリア組であるが、大抵において、先祖代々いわば家業としての役人だ。親から譲り受けた権益と、網目状に張り巡らされた膨大な裏情報を活用して地方政治を実質的に牛耳っていたのはこれら「吏」であるようだ。(宮崎市定氏の説明)
つまり、裁判などの判決には当然「官」が関与するが、獄中の待遇などや実際の法の執行は「吏」が担当していた。ここが不正の温床で、このような点に対しても「官」が目を光らせない限り不正はなくならない。この孔稚珪の提案は武帝によって裁可されたものの、残念ながら実行に移されることはなかった(詔従其請、事竟不行)。
「上に政策あれば、下に対策あり」の中国の諺通り、「吏」たちは、一致団結し、自分たちの不利になることをあの手この手で無効化してしまったに違いない。残念ながら、何年もかけて行った武帝の高邁な裁判浄化運動は全くの水泡に帰した。巷では京大生を揶揄して「イカキョウ」(いかにも、京大)という言葉があるが、武帝のこの失敗もいかにも「河清百年を俟つ」(俟河之清、人寿幾何)の中国らしい結末だ(イカチュウ)。
(続く。。。)