限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第187回目)『チャート式脳の弊害(補遺)』

2016-04-17 22:23:07 | 日記
以前のブログ
 百論簇出:(第139回目)『チャート式脳の弊害』
では「古典を読むのが難しい」という若者の悩みから、現代日本の教育の欠陥について論じた。これに関連して最近、また別の若者(女性)から「漢文の読み方をマスターするために、韓非子を自分で吹き込んだが、挫折した」という悩みを聞いたので、それについて考えたことを書いてみたい。

そもそも彼女がなぜ漢文を自分の声で吹き込もうとしたのかについては、次のブログ、
 沂風詠録:(第179回目)『リベラルアーツとしての漢文』
を参照してもらうことにして、問題の「韓非子の読み方」に焦点を絞って話をしたい。

「韓非子」とはいうまでもなく、中国の戦国時代の弁論の雄・韓非が書いたといわれる本である。古来、多くの注釈や現代語訳が出ている。一番入手しやすいのは、原文、書き下し文、現代語訳の三拍子が完備した岩波文庫の4冊であろう。(もっとも、私の個人的な好みは、大正末期から昭和にかけて刊行された『国訳漢文大成』シリーズだ。これは、旧漢字・旧かなであり、現代語訳は付いていないが、漢字のフォントが微妙に小太りで何とも落ち着きのある字体だ。それに語釈が極めて少なく、下段に追いやられているので、本文を通して読むのが極めて快適である。もっとも、現代の若者にとっては、語釈が不親切な上に、現代語訳がないので全く読みづらい本だと感じるであろうが。。。)

さて、彼女は岩波文庫を買ったのであるが、第一冊めの巻1から吹きこんでいったという。

韓非子・巻1の冒頭を見てみよう。
 「臣、聞く。知らずして言うは不智、知りて言わざるは不忠。人の臣と為りて不忠なるは死に当たり、言いて当らざるも、亦(また)死も当たる。然りといえども、臣、願わくば悉(ことごとく)聞くところを言わん。ただ大王、その罪を裁せよ。。。」
 (原文:臣聞不知而言不智、知而不言不忠、為人臣不忠当死、言而不当亦当死。雖然、臣願悉言所聞、唯大王裁其罪。。。)

このような文を読んで、文章の妙を味わえるようになるには何度も韓非子を通読しなければならない。(この点については、『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)のP.288のコラム「古典の読み方 -- 3回目でチューリップが満開」を参照)つまり、初心者にとって、皆目、意味が分からない文章が延々と文庫本300ページ続くのが韓非子なのである。「ベンチャーのデスバレー」という言葉があるが、韓非子に限らず、古典と言われているものにはたいてい、死ぬほど面白くない文がところどころに潜んでいて、そこに足をとられると全く進まず、沈没してしまう。

韓非子の場合もそうで、初心者が読む場合には、冒頭から読めば、 99.9%、途中で脱落するだろう。そうならないために、興味のわかない所は、見向きもせずエイッとすっとばし、第2冊目の『説林 上・下』や『内儲説 上・下』、さらには、第3冊目の『外儲説 上・下』などの逸話(エピソード)集から読み始めることだ。この辺りの話は、日本でいうと「講談」に類する。話の内容がどの程度、真相であるかの詮索は野暮で、このような話では、韓非が一体何を主張したかったのかという大枠をつかむことだ。そうすると、彼の肉太の思想が秀逸なエピソードと共に長く記憶に残るだろう。

前回の『チャート式脳の弊害』
でも述べたが、現代の日本人はあらかじめ「ここが重要」というマークなしには読書ができないように育てられている。つまり、レールが敷かれていないとだめなのだ。場所と順序が固定化されたものを最初からきちんきちんと順番通りに真面目にこなすことが習い性となっている。あたかも、ランチは必ず焼肉定食、旅行は必ずパッケージツアー、と決めているようなものだ。定められたルートを外れることに非常に不安感を感じる。言い換えれば、自分の頭で自分に一番ぴったりとするやり方をさがそうとせず、誰かが決めたやり方に安直に、かつ、盲目的に従おうとする。



吉川英治の宮本武蔵『円の巻』には、愚堂禅師が土下座する武蔵の周りに杖で円を描いて立ち去ったとある。この円の意味を考えて、武蔵は二刀流に開眼したと言われるが、「地面に描かれた円」というのは、自分(武蔵)が勝手に作っていた自分の限界のことであろうと想像する。自分が円の中でしか生きることができないと考えていたが、そのような円は自分の妄想であって、自分の行動を束縛するものではないのだ、と悟った。

「既存のしきたりや概念を打ち破る」、これは言うは易し、行うは難しである。「リベラル(自由)」が、未だ日本では正しく理解されていないと、『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』(祥伝社)(第1章)に述べた。それに随伴して言うと、リベラルアーツが日本人にとって修得しにくいのは、子供のころからのぎちぎちのカリキュラムによって、『チャート式脳』になってしまった人が、欧米に比べて割合的に多いからではないかと私は感じる。

(尚、上の文中で、「盲目的」という単語を使ったが、これは blindly の意味であり、障碍者に対しての差別用語ではない。また「しょうがいしゃ」は「障碍者」あるいは「障礙者」と書くべきで、「障害者」、「障がい者」のどちらも正しくないと考える。)

【参照ブログ】
 百論簇出:(第112回目)『目に余る、単語の魔女狩り』
コメント (1)
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