限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第204回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その49)』

2015-05-07 21:22:18 | 日記
前回

【143.神主 】P.1296、AD26年

日本では『神主』とは『かんぬし』と訓じ、神を祭る行事を行うホスト役を指すが、中国古典では『しんしゅ』と訓じ、いろいろな意味があるようだ。辞海(1978年版)に『神主』とは『即ち、木主なり。宗廟に立ちて、もって神を棲すもの』(即木主、立於宗廟以棲神者)と説明する。つまり位牌のことだ。

春秋穀梁伝の注に『神主』について次のような説明がある。
『主とは蓋し、神の憑依するところ。その状は正方。中央に穿ち、四方に達す。天子の長さ、尺二寸、諸侯の長さ、一尺』
(主蓋神之所憑依、其状正方、穿中央達四方、天子長尺二寸、諸侯長一尺)

つまり、『神主』の形状は普通見かける位牌のように長方形ではなく、正方形であったようだ。さらに、天子と諸侯のような高貴な身分の者だけ祭ることが許されたということが分かる。実際に、前漢の終わりに赤眉の乱の時に、後漢の将軍・禹が前漢の神主を収容した時の様子を見てみよう。

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長安城中の食糧がなくなってしまったので、赤眉軍は財宝を分捕り、宮殿に火をつけ、街中で恣ままに人殺しをし、荒らしまわった。それで、長安の城中には人がいなくなってしまった。赤眉軍は西へと移っていったが、兵士は百万人いると豪語した。南山から途中の城邑を攻略しては掠奪しながら、最後には安定と北地に至った。禹は官軍を率いて南方から長安に入ろうとし、昆明池に陣を布いた。前漢の歴代の皇帝の廟を訪づれ、前漢の11帝の神主を収容して都の洛陽に送った。そして、これらの園陵をチェックしてまわり、墓守を任命して番をさせた。

長安城中糧尽,赤眉収載珍宝,大縦火焼宮室、市里,恣行殺掠,長安城中無復人行;乃引兵而西,衆号百万,自南山転掠城邑,遂入安定、北地。禹引兵南至長安,軍昆明池,謁祠高廟,収十一帝神主,送詣洛陽;因巡行園陵,為置吏士奉守焉。
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後漢は前漢の正当な後継者であるとの意識から、後漢の功臣の筆頭に挙げられる禹は光武帝になり代わって前漢の帝王達の宗廟を修繕し、墓守をおいて管理させた。行き届いた心遣いというべきであろう。



【144.平素 】P.3415、AD394年

『平素』は『いつも』という意味であるが、どちらかというと現代より過去においてそうであった、というニュアンスが強い。英語で言うと、 used to be のようなニュアンスと言える。

資治通鑑では、東晋の元帝(司馬睿)の妃であり、簡文帝(司馬)の実母である鄭氏に太后を贈位するかどうかを議論した時に『平素』が使われている。

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会稽王の妃であった鄭氏に簡文宣太后をいう位を追尊するかどうかの議論が起こった。群臣たちは宣太后の位を贈り元帝の御陵に合祀すべきだと言った。太子前率の徐邈はそれに対し、反対を唱えた「宣太后は平素の時、元帝は正式な皇后とはみなしていなかった。それなのに、子孫になって先祖の思いに逆らって皇后の位を贈るとは!」

追尊会稽王太妃鄭氏曰簡文宣太后。 群臣謂宣太后応配食元帝,太子前率徐邈曰:「宣太后平素之時,不伉儷於先帝;至於子孫,豈可為祖考立配!」
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鄭氏というのは、現皇帝の孝武帝(司馬曜)の実祖母に当たる。それで、徐邈の反対にも拘らず結局は尊号を奉られ、廟も建てられた。孝を重んずる中国ならでは、という感じがする。

尚、この『平素』は二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で『平素』を検索してみると、三国志、晋書あたりが初出であることからかなり新しい語句だと分かる。それ以降、宋史や元史を除いて、現代に至るまでほとんど使われていない。中国で廃れたが日本ではまだまだ現役という語句はしばしば見かける。

【145.動揺 】P.850、BC61年

『動揺』とは現代日本語では、もっぱら「心の平静を失うこと」という個人の心理状態を指す言葉として使われている。しかし、漢文では『四夷、ついに動搖あり』(四夷卒有動搖)というように、人の集団が不安な気持ちから騒乱状態になるような事態を示す言葉として使われているようだ。

【146.動静 】P.3432、AD396年

『動静』とは現代日本語では、もっぱら「物事のありさま」を様子見することを指す。漢文でもこのような意味で使われることがある。例えば『漢のために匈奴の動静を偵察す』(巻23・為漢偵察匈奴動静)という文句が見える。しかし、『動静』とは辞海(1978年版)に『猶言動止也』(なお、動止というがごとし)とあるように、文字通りに解釈すれば『動いていること、停止していること』と言う意味になる。それゆえ、次のような使われ方も可能だと分かる。

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軍事の動静を悉く、慕容麟に委ねた。

軍事動静,悉以委麟
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五胡十六国時代、後燕の二代目の皇帝・慕容宝は兄の慕容麟を信用して軍隊の指揮権、つまり軍隊をいつどこに動かすか、どこに陣営を張るか、を与えた。後日、慕容麟は自分の力を過信したのであろうか、慕容宝に反旗を翻して、自ら皇帝の位を僭称した。中国では戦乱ともなれば身内と雖も信用できない実例の一つと言えよう。

続く。。。
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