限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第207回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その52)』

2015-05-28 04:46:25 | 日記
前回

【150.神州・大名 】P.3471、AD398年

日本では戦前。戦中の皇国思想の影響で、『神州』とはとりもなおさず日本のことを指す、というように理解されている。しかし、この語はすでに紀元前の戦国時代の遊説家である騶衍が中国の別称(赤県神州)として用いている。その後も、史書だけでなくかなり広汎に用いられている。二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)に絞ってでも、合計で264回も出現する。

 +++++++++++++++++++++++++++
晋書(中華書局):巻122(P.3058)

呂光は後日、家来たちと酒盛りをしたが、その時、政治に話が及んだ。当時、刑罰が厳しかったので、参軍の段業が進み出て戒めた「重い刑罰を律儀に実行するのは、賢明な君主のなすべきことではありません。」呂光はそれに対して「秦の商鞅の法律は至って厳しく、そのおかげで六国を征服出来た。一方、秦末に呉起が貧賤から身を起こして、一時は世の中に君臨できたのはどうしてか?」 段業が答えて「殿のように、賢明な君主がいまや天命を受けて、天下の支配者となり、かつての聖人の君主である尭舜の後を継ごうとして、過ちのないように細心の注意をはらわないといけないのに、どうして商鞅のようなつまらない法家の理論を取り入れてこの道義にみちあふれている神州を治めようとするのですか?そのようなやり方は天下の誰も殿に望んでいないでしょう!」呂光はこの厳しい指摘を受け入れて、厳罰な法を適用するのを控え、寛大な政治に切り替えた。

呂光後讌群僚,酒酣,語及政事。時刑法峻重,参軍段業進曰:「厳刑重憲,非明王之義也。」光曰:「商鞅之法至峻,而兼諸侯;呉起之術無親,而荊蛮以霸,何也?」業曰:「明公受天眷命,方君臨四海,景行尭舜,猶懼有弊,奈何欲以商申之末法臨道義之神州,豈此州士女所望於明公哉!」光改容謝之,於是下令責躬,及崇寛簡之政。
 +++++++++++++++++++++++++++

呂光は五胡十六国時代、後涼を建てた、一世の英雄である。子供のころから沈着で大度量があり、めったなことでは感情をあらわさなかったった(晋書、巻122:沈毅凝重、寛簡有大量、喜怒不形于色)呂光が常人とは異なっていたことを『目重瞳子』という単語で表わしている。『目重瞳子』とは、二重まぶたのことであるが、歴史的には、古くは伝説の聖人の舜や楚の名将・項羽もそうであった。これらの史実を踏まえて晋書の著者は、呂光も舜や項羽に匹敵するほどの大人物であると言いたかったのであろう。



さて、『大名』であるが、これも日本の戦国時代以降の領主を指す言葉としてすっかり日本語としての意味が定着している。しかし、辞海(1978年版)には『大名』を『大名、謂大名称也』(大名とは、大いなる名称をいう也)と説明する。現代的に表現すると "big name" ということであろう。

資治通鑑の中で、この神州と大名が使われている節を紹介しよう。場面は、四世紀末の南北朝時代、北魏の初代皇帝・拓跋珪が国号の『魏』を変えようと思い、群臣に諮問したところである。

 +++++++++++++++++++++++++++
魏王・拓跋珪が群臣を集めて国号について議論させた。臣下が皆いうには「周や秦以前では、諸侯から天子になると以前の国の名称を王朝名にしています。漢が興ってからの王朝を建てたのは諸侯でなく、庶民でありました。それに反し、我が国は百世にもわたって、代(地方名)の北に広大な領土を所有した侯で、中国人をも支配しています。この機会に『代』を王朝名にすべきです。」秘書官(黄門侍郎)である崔宏が言うには「昔は、商の人が王朝を建てた時に、時々で首都を移転したので、同じ王朝でありながら、殷と言ったり商と言ったりしたのです。我が国の『代』は由緒ある国名ではありますが、世の中を刷新(維新)するのが使命です。かつて(AD386年、年号は登国)の時に国号を『魏』と決めました。魏とは偉大なる名号で神州のなかでも上位の国名です。このまま魏と名乗るのがいいと思います。」拓跋珪はこの意見に賛成した。

魏王珪命群臣議国号。皆曰:「周、秦以前,皆自諸侯升為天子,因以其国為天下号。漢氏以来,皆無尺土之資。我国家百世相承,開基代北,遂撫有方夏,今宜以代為号。」黄門侍郎崔宏曰:「昔商人不常厥居,故両称殷、商,代雖旧邦,其命維新,登国之初,已更曰魏。夫魏者,大名,神州之上国也,宜称魏如故。」珪従之。
 +++++++++++++++++++++++++++

結局、北魏は『代』という地名由来の名称を王朝名として採用するのではなく、魏という由緒ある名前を使い続けることとなった。しかし、我々後世の人間にとっては、魏という王朝がいくつもあって極めて紛らわしいので、『代』としてくれていた方が、ありがたかったのだが。。。

続く。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 百論簇出:(第165回目)『陽... | トップ | 想溢筆翔:(第208回目)『資... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事