限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第278回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その121)』

2016-10-20 22:41:49 | 日記
前回

【220.施行 】P.3813、AD429年

『施行』とは現代では「計画を実行にうつすこと」あるいは「法律の効力を実際に発生させること」などの意味があるが、漢文では紀元前から前者の意味で(自動詞、他動詞の両方で)かなり頻繁に使われている。(下表参照)



資治通鑑で、『施行』が使われている場面を見てみよう。

時は、北魏の第3代皇帝、太武帝の時代。北魏は鮮卑族の拓跋が建国したが、当然のことながら住人の大多数は漢族であった。宰相の崔浩も漢族の一人であったが、太武帝に大層気に入られて、侍中にまで昇進した。

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北魏の皇帝・太武帝が崔浩に侍中・特進将軍・撫軍大将軍の称号を与えた。それは今までの種々の計画立案に対する褒賞であった。崔浩は占星術が得意で、いつも酢が入った器に、銅のナイフを漬けておいて、夜、天体を観察している時に何か変わったことがあれば、これで紙にメモを取った。太武帝は崔浩の家にやってくると、決まって天変や災害のことについて質問した。太武帝が突然やってくるので、崔浩は正式な官服を着るのが間にあわない時もあった。崔浩の家では粗末な食事はしか出せないが、それでも太武帝は意に介せず、必ず箸をつけた。時にはたったまま平らげて帰還することもあった。ある時、太武帝は崔浩を自分の寝室まで引き入れて、打ち解けた雰囲気で「君は全く博学だ、その上、我が朝の三代にまめに仕えてくれたので、君を信頼して引き揚げたのだ。どうぞこれからも、隠すことなく、びしびしと意見をしてくれたまえ。時には、怒ったり、君の意見に従わないこともあるかもしれないが、君の意見はしっかりと心に刻んでおくから」と言った。

また、高車渠帥が新たに臣下となった時には、崔浩を指さして「お前たち、この人をよーく見るがよい、なよなよしていて、腕力がないので、強弓や槍は持てないが、胸の中には鎧兜を遥かにしのぐ武器を秘めている。ワシは他国を侵略しようと計画しても、どうも決断することができなくていることが多かったが、成功したのは、皆この人のアドバイスのお蔭だ。」ついで、秘書官(尚書)に対して「国家戦略で、お前たちが決断できないときには、必ず崔浩の指示を仰いでから実施(施行)せよ」と命じた。

魏主加崔浩侍中、特進、撫軍大将軍、以賞其謀画之功。浩善占天文、常置銅鋋於酢器中、夜有所見、即以鋋画紙作字以記其異。魏主毎如浩家、問以災異、或倉猝不及束帯;奉進疏食、不暇精美、魏主必為之挙筯、或立嘗而還。魏主嘗引浩出入臥内、従容謂浩曰:「卿才智淵博、事朕祖考、著忠三世、故朕引卿以自近。卿宜尽忠規諌、勿有所隠。朕雖或時忿恚、不従卿言、然終久深思卿言也。」

嘗指浩以示新降高車渠帥曰:「汝曹視此人尫繊懦弱、不能彎弓持矛、然其胸中所懐、乃過於兵甲。朕雖有征伐之志而不能自決、前後有功、皆此人所教也。」又敕尚書曰:「凡軍国大計、汝曹所不能決者、皆当咨浩、然後施行。」
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このように、太武帝は崔浩に絶大の信頼を寄せていた。あたかも、劉備玄徳と諸葛孔明の間柄のようだ。しかし、この完璧とも言える信頼関係は、20年後の国史編纂で決定的に決裂した。それは、崔浩が太武帝からの信頼をあまりにも過信し、鮮卑族拓跋部の未開・野蛮な風俗をありのまま書いたので、拓跋部の総帥としての太武帝の面子が丸つぶれになったからだ。太武帝は激怒し、崔浩の同族に止まらず、姻戚関係にあった范陽の盧氏、太原の郭氏、河東の柳氏などすべて一族が皆殺しされた(尽夷其族)。さらに、崔浩の部下たちも皆、殺された。(『北史』巻21)

改めて、中国人の面子に対する執着心は我々日本人の想像を遥かに越える強烈なものだと思い知らされる出来事だ。

続く。。。
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