限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第277回目)『ローマ人のギリシャ語への羨望』

2016-10-16 23:04:04 | 日記
科学史や技術史は、一般的にはリベラルアーツの範疇に入らないと考えられているだろう。私も学生時代はそのように考えていた。しかし、15年ほど前から、科学史や技術史の古典的大著をいくつか読むうちにそのような考えが間違っていることに気付いた。言うまでもないが、科学や技術も社会活動の一部として各地の文化の影響を受けている。それ故、科学史や技術史を知ることで、その地域の文化の発展や文化のコア概念を把握することができることもある。

例えば、ヨーロッパ・イスラムの科学と技術の時代変化を見てみよう。下記の図に示すように、ヨーロッパの科学はだいたい、4世紀以降の西ローマ帝国の凋落と崩壊と軌を一にしてどん底にまで落ち込んでいる。その後、数百年間まったく進歩がみられない。ヨーロッパにおいて科学が復興するのはようやく12・13世紀あたりからである。



一般的には、蛮族によってローマ社会が混乱に陥ったということ、つまり政治経済的観点から、科学技術の凋落を説明することが多いだろう。

確かに、それも間違いではないが、もう一つは、言語面からみると、科学技術(とりわけ科学に顕著であるが)の発展が言語と密接な関連をもっていることがくっきりと浮かび上ってくることが分かる。結論をいうと:
 「ギリシャ語が分からないと科学が理解できないし、科学の発展を支えることはできない。」

紀元前5世紀あたりからギリシャは文化全体が栄えた。当然、科学に関してもギリシャ人の才能が大いに発揮され、科学分野の多くの書物がギリシャ語で書かれた。技術のように、本や文字が読めなくとも、見よう見まねと自分なりの創意工夫で発展していくのと異なり、科学は先人の業績を根本から緻密に調べて理解しないと先に進むことはできない。当然、先人の本を読むということになるが、これがヨーロッパにおいては全てギリシャ語で書かれているのだ。それ故、西ローマ帝国の崩壊によってギリシャ語を読めなくなった西ヨーロッパの知識人たちには、そこまで営々と蓄積されたギリシャ科学の精華はもはや宝の山ではなく、ゴミの山と化したと言っても過言ではない。

当時の西ヨーロッパの知識人たちは少なくともラテン語は読めたのだから、科学の書物がラテン語に翻訳されていれば、その気になりさえすれば、科学を進展させることができたとの想定は成り立つ。しかし、歴史が示すように、ざっくり言って、西ヨーロッパでは 12・13世紀になってアラビア語経由で、科学も含めギリシャの書物がはじめて大量にラテン語化されたといって過言ではない。

それでは、ギリシャ語の本はそこまで全く読まれなかったのか、というとそうではない。紀元前数世紀以降、ギリシャの書物はローマ人に非常に愛好された。彼らのギリシャ語のレベルはTÖICやTÖFLでいうと満点レベルに近い。中には、それ以上の文人もかなりいた。

ローマの政治家で文人のPlinius Jr.(プリニウス:ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス) という人がいる。伯父の Pliniusと区別するために小プリニウスと呼ばれている。彼が文人としての名声を確立したのが、その書簡集である。その一つ(巻4-3)にはローマ人がいかにギリシャ語を羨望したかということが分かる文章がある。

この書簡で、プリニウスは友人のアントニヌス(Arrius Antoninus)のギリシャ語の詩を絶賛し、ローマ人で君ほど立派なギリシャ語を話せるものもいるまいと、述べた上で更に、次のように続ける。

【原文】invideo Graecis quod illorum lingua scribere maluisti. neque enim coniectura eget, quid sermone patrio exprimere possis,cum hoc insiticio et inducto tam praeclara opera perfeceris.

【私訳】私はギリシャ人が羨ましい、だって君は詩をギリシャ語で書くつもりなんだろう!ギリシャ語で素晴らしい詩を作ることができる君ならラテン語でもきっと我々の琴線に触れる素晴らしい詩を書けるに違いない。

【英語】I am jealous of the Greeks that you should have elected to write in their language, for it is easy to guess what choice work you could turn out in your mother tongue, when you have produced such splendid results with an exotic language which has been transplanted into our midst.

【独語】Ich beneide die Griechen, daß Du lieber in ihrer Sprache schreiben wolltest. Und man kann leicht vermuten, was Du in Deiner Muttersprache ausdrücken könntest, wenn Du in dieser fremden und eingefürten so hervorragende Werke geschaffen hast.

上の文を見ても分かるように、ローマの文人たちは、あたかも現代人が英語能力の高い人に嫉妬を感じるように、ギリシャ語の達人に憧れた。それの裏返しとして、背伸びしてでも、ギリシャの物はなんでも原文のギリシャ語で読もうとしたに違いないと思える。結局、ヨーロッパ科学の停滞の一つの原因は、ギリシャ語がバイリンガルレベルに上手なローマの知識人がギリシャ語の書物をラテン語に翻訳する必要性をあまり感じなかったために、科学書がギリシャ語のまま放っておかれたためだと言える。その結果、必然的に、ギリシャ語が読めなくなった途端に西ヨーロッパの科学水準が急落したのであった。

ところで、プリニウスがべた誉めのアントニヌスであるが、本職の詩人ではなく、二度もコンスル(執政官)になった、文人政治家である。中国にも曹操や欧陽脩、王安石、蘇軾など文人政治家が多いが、ローマにも数多くいた。文人政治家が多いからと言って必ずしも国が安定するとか発展する、といったことにはならないが、他人の足の引っ張り合いや、愚にもつかない政策論争などよりも、よほどましだと私には思える。ただし、某政治家のように、高価な絹服を着ないと筆が持てない見かけ倒しの文人政治家には要注意ではあるが。
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