限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第34回目)『ジョン万次郎の小粋な話』

2010-01-30 08:04:37 | 日記
幕末・明治の偉人のちょっと小粋な話をしてみましょう。

幕末の勝海舟の親は小吉といい、江戸の渡世人(ヤクザ)の総取締役だったそうです。この子吉の自叙伝が『夢酔独言』で、この内容と一番近い本を挙げるとすれば夏目漱石の『坊ちゃん』である、と言えばだいたい内容がおわかりでしょう。『坊ちゃん』はフィクションですが、これは自伝ですので、実際にあったことがらが書かれている、と私は思っています。子吉は、ある日思い立って伊勢参りをするのですが、お金をほとんどもっていないので、当然無銭旅行です。どのようにしてやりくりしたのかは、実際に本を読んでください。しかし、このような記述から江戸時代の人情味がよく分かります。現在『ふりこめ詐欺』が日本では横行していますが、中国では全く無いとか。両国のこの差の原因は、日本人の他人への思いやりに求めることができるのではないかと、私は考えています。

江戸開城に際して幕府側から海舟が出て新政府側から西郷隆盛が出て交渉した時に、海舟がいざという時には江戸全体に火の海にする腹案を以って隆盛に当たったと言われています。以前この個所を読んだ時には私にはどうも海舟ののっぺりとした顔立ちと、このような大胆な発言との関係が合点がいかなかったのですが、この子吉の伝記を読んでようやく分かりました。

海舟は親の威光で一声かければ関東八州のヤクザを総動員できた人だったのです。それで海舟は最終的には明治政府から伯爵を授けられるのですが、その自伝『氷川清話』には『俺のような人間が伯爵様と知ったらオヤジはひっくり返るだろう』というような自嘲的文句が出てきたのだろうと思います。

さて、海舟は先見の明があって、オランダ語をしっかり学んでいます。それが最終的には1860年、咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコへ日本人だけで往復航海するときに役にたったと言われています。しかし同行した福沢諭吉によると海舟は船酔いでほとんど部屋に閉じこもり、役に立たなかったとか。



この時、福沢諭吉はかのWebster English Dictionaryを購入してます。これが日本で初めての本格的な英語辞典が輸入された嚆矢だと言います。しかし同時にもう一人の日本人も同じくサンフランシスコで Websterを購入したのですが、これが非常に達者な英語をしゃべるというので現地の新聞にもデカデカと取り上げられたそうです。

その人こそ、ジョン万次郎といい、元は土佐の漁師だったのですが、漁に出かけた時に嵐に巻き込まれ、無人島で餓えを凌いでようやくアメリカの捕鯨船に拾われてマサチューセッツのNew Heavenという町でその船の船長のお蔭で高等教育を受けることが出来ました。日本では漁師という身分なので教育は全く受けなかったにも拘わらず、天性非常に利発な人だったみたいで、アメリカの学校では非常に優等な成績で卒業しました。彼はアメリカでも出世できるにも拘わらず、当時鎖国状態で海外渡航者は処刑されるかもしれない危険を冒してまで戻ってきました。

当時はペルー来航など万事多難の世相で英語ができる万次郎などは非常に貴重な人材だったはずなのですが、アメリカのスパイではないかと誤解をうけ、とうとう江戸時代は外交の表舞台には出れずじまいでした。その万次郎は咸臨丸で久しぶりにアメリカの地を踏んでWebsterを買ったのでした。

後年、明治になってからジョン万次郎はその英語力をかわれて開成学校(現・東京大学)の教授に任命されます。私が彼に感心するのは、このように出世してながら、宴会があると残り物の料理を包んで持って帰り、橋の下の乞食に恵んであげた、という人情味溢れる点です。ジョン万次郎はアメリカで洗礼をうけてキリスト教徒になっています。それで、彼の行動の一端には、キリスト教の博愛精神がベースにある、と見ることもできますが、私はそのように狭くとらえる必要はないと思います。ジョン万次郎の人としてしてもとから備えていたやさしさ、器量だと言っていいのではないでしょうか。
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