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限りなき知の探訪

50年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第137回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その72)』

2013-09-26 21:41:45 | 日記
 『6.05  中国の硬骨の臣、死を覚悟の上で諌める。(その1)』

今から20数年前の1989年6月4日に天安門事件は起こった。中国が今にも民主化しそうな革命前夜の興奮が天安門広場には溢れかえっていた。しかし突如として現れた戦車部隊によって学生・市民の多くが死傷し、一夜にして民主化の夢は潰えた。

翌日(6月5日)天安門広場から戦車部隊が一列縦隊になって引き上げようとした時、突如として一人の青年がその行手を遮った。戦車が若者を避けて右に行けば、青年も右に動き、左に行こうとすれば、左に行って戦車の通行を阻んだ。戦車は青年を踏みつぶそうとすればできたはずだが、命を張ってまで戦車に立ち向かう若者を殺すことはできなかった。その光景がビデオや写真に撮られ、全世界に配信された。青年は『無名の反逆者』(Tank Man)と名付けられた。


【出典】Tank Man

中国は古来から専制政治の国で言論が弾圧されていたように思っている人がいるかもしれないが、この考えは必ずしも正しくない。中国は日本とは違い、この Tank Man のように、自分が正しいと思ったことはだれでも表明することができた。しかし、権力者を怒らせば殺されることは覚悟しておかなければならない。

後漢の陳忠は過去の幾つかの例を引き合いにだして、『人民は死をも恐れずに正論を吐き、皇帝は寛大な心でその意見を聞き入れ反省すること』が理想だと述べた。(後漢書・巻46)
 『仁君は山藪の大を広くし、切直の謀をいれ、忠臣は謇諤の節を尽くし,逆耳の害をおそれず。』
 (仁君廣山薮之大,納切直之謀。忠臣盡謇諤之節,不畏逆耳之害。)

中国では、正論を述べることに命を懸けたケースは古来から数多い。その例を見てみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻32・漢紀24(P.1033)

もと槐裡村の長である朱雲が上書して意見を述べた。公卿を前にして朱雲はいった:「いまの朝廷の大臣たちは、上は主上を正すことができず、下は民の利益になる事業もせず、皆むだめしを食っている。これは孔子がいう『鄙夫はともに君につかうべからず。いやしくもこれを失わんことを憂えば、至らざる所なし』の者だ。私は馬を斬る大きな刀を頂いて、奸臣一人の首を刎ねて見せしめにしたい。」と言った。それを聞いて成帝が「それは誰だ」と尋ねた。「安昌侯の張禹です!」と朱雲が答えた。成帝は大いに怒って「こわっぱ役人が地位をわきまえず大臣を誹り、帝王の師を辱めるとは死刑だ!」護衛の役人が朱雲を引きずりだそうとしたが、朱雲は廊下の欄干をつかんだため、欄干が折れてしまった。朱雲がそれでもわめいて「私は死んで、過去の忠臣の龍逢や比干に黄泉で会えるなら満足です!私を殺せば帝の評判はどうなるでしょうか?」護衛の役人は朱雲を連れ去った。この時、左将軍の辛慶忌が冠を脱ぎ、腰の印綬を外して、階下の地面に頭を打ち付ける叩頭の礼をしていった。「この者は従来から奇矯な言動で知られている者です。もし言うことが当たっているなら、殺すべきではありません。一方、間違っていたなら寛大に赦してやるべきでしょう。私は自分の命を懸けて申し上げます。」辛慶忌は何度も地面に頭を打ち付けたので額から血が流れた。成帝もようやく落ち着いて、朱雲を赦した。後日、家来が欄干を修理しようとした所成帝が「取り替えずに、壊れた木を拾って修理せよ。直臣を顕彰したいのだ!」

故槐裡令朱雲上書求見,公卿在前,雲曰:「今朝廷大臣,上不能匡主,下無以益民,皆尸位素餐,孔子所謂『鄙夫不可與事君,苟患失之,亡所不至』者也!臣願賜尚方斬馬劍,斷佞臣一人頭以其餘!」上問:「誰也?」對曰:「安昌侯張禹!」上大怒曰:「小臣居下 *B053上,廷辱師傅,罪死不赦!」御史將雲下,雲攀殿檻,檻折。雲呼曰:「臣得下從龍逢、比干游於地下,足矣!未知聖朝何如耳!」御史遂將雲去。於是左將軍辛慶忌免冠,解印綬,叩頭殿下曰:「此臣素著狂直於世,使其言是,不可誅;其言非,固當容之。臣敢以死爭!」慶忌叩頭流血,上意解,然後得已。及後當治檻,上曰:「勿易,因而輯之,以旌直臣!」

もとの槐里の令、朱雲、上書して見えんことを求む。公卿、前にあり。雲、曰く:「いま、朝廷の大臣、上は主を匡すあたわず。下はもって民を益するなし。みな尸位素餐す。孔子の所謂『鄙夫は、ともに君につかうべからず。苟しくもこれを失わんことを患えば至らざる所なき』者なり!臣、願わくば尚方の斬馬の剣を賜りて、佞臣一人の頭を斬り、もってその余を励まさんとす!」上、問う:「誰ぞ?」こたえて曰く:「安昌侯の張禹なり!」上、大いに怒りて曰く:「小臣、下に居て上をそしり,廷にて師傅をはずかしむ。罪は死、赦すなし!」御史、遂に雲を将(ひき)いて去らんとす,雲、殿檻に攀る。檻、折る。雲、呼びて曰く:「臣、下に龍逢、比干に従いて地下に遊ぶを得ば、足れり!いまだ聖朝のいかんをしらざるのみ!」御史、遂に雲を将いて去る。ここにおいて左将軍・辛慶忌、冠を免じ、印綬を解き、殿下に叩頭して曰く:「此臣、もともと世の狂直たること著し。その言をして是ならしめば、誅すべからず。その言、非ならば固よりまさにこれを容るべし。臣、敢えて死をもって争う!」慶忌、叩頭っして流血す。上の意、解く。然る後、やむを得。後まさに檻を治むるにあたりて、上、曰く:「易(か)うなかれ。因りて輯(あつ)めよ。もって直臣を旌す!」
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朱雲が命懸けで、成帝の寵臣である張禹を斬るべし、と進言した場面。

朱雲は自分の進言が受け入れられなかったがそれでも尚、廊下の欄干に取りすがってわめいた。引きずり下ろされた時、手すりが折れてしまった(『折檻』(せっかん)の出典)。成帝は自分の信頼する張禹を面罵されたので、激怒して朱雲を処刑せよと命じた。しかし朱雲の熱誠に感動した左将軍・辛慶忌のとりなしで成帝の気持ちも和らぎ、幸いなことに朱雲は処刑を免れることができた。

このように正論を述べることは命取りになる危険は高い。しかし、命懸けのリスクをおかすのではなく、謎かけのような言葉で、相手にそれとなく非を悟らせる方法もある。このテクニックは諷諌と言われている。

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後漢書(中華書局):巻57(P.1853)

大戴礼に、君主を諌めるに5つの方法があるが、『諷諌』がベストと述べる。直接的に言わないで、別のものに喩えて反応を伺い、婉曲に言いたいことを述べる。そうすることで、発言自体で罪に問われることがなく、またそれを聞いた君主も反省できる。要は言葉でなく趣旨が伝わり、それで物事が正しくなればよいのだ。どうして、君主の間違いを暴き立てて、ごりごりと指摘し、自分の知識をひけらかして名前を売る必要があろうか?

論曰:禮有五諌,諷爲上。若夫託物見情,因文載旨,使言之者無罪,聞之者足以自戒,貴在於意達言從,理歸乎正。曷其絞訐摩上,以衒沽成名哉?

論に曰く:礼に五諌ありて諷を上となす。それ、物に託して情を見、文によりて旨を載す。言う者をして罪なからしめ、聞く者をしてもって自ら戒むるに足るがごとし。貴きは意、達し、言、従い、理の正に帰するにあり。いずくんぞ、その絞訐(こうけつ)にして上を摩し、衒沽もって名を成さんとするや?
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この文は、後漢書・巻57の李雲に見える。李雲は正義感あふれる士で、当時、大将軍の梁冀を誅した功績で一躍、富と権力と握り横暴を極めた単超をはじめとする五中常侍を弾劾し、桓帝を厳しく批判した。正論ではあったが、桓帝の怒りに触れ李雲は投獄された。その上、李雲を弁護した杜衆も同じく投獄された。大臣達は彼らの批判は言葉使いこそは激しいものの、内容的には間違っていないとして助命を嘆願したが、桓帝は李雲と杜衆の二人を処刑した。後漢書の著者・范曄は李雲の短慮を批判し、物には言い方があることを知るべきだと評した。

私は中国の史書をかなりの分量読んだが、中国には命を懸けて正論を吐く人士が日本よりずっと多いと感じる。概して、中国の知識人は孔子や范曄が勧める穏やかな諷諌より、どちらかというと直截的にズバリと指摘する『指諌』(質指其事而諌也)を好むと言ってよさそうだ。(『直諌』や『正諌』ともいう。)

命懸けの諌言が資治通鑑にもかなり載せられているが、次回以降、幾つか紹介しよう。

【参照ブログ、参照サイト】
 想溢筆翔:(第81回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その16)』
 想溢筆翔:(第123回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その58)』

 (百度百科)『五諫についての説明』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』

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