限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・28】『尤而效之、罪又甚焉』

2010-04-04 10:36:31 | 日記
以前、『旧約聖書、新約聖書の感想』という記事を掲載した。その中で、
  『6.この二つの本を中国の古典にたとえてみると、旧約は春秋左氏伝に相当し、新約は論語に相当すると言えよう。』
という意見を述べたが、それについて説明しよう。

旧約聖書(以下、旧約と略す)というのは、確かにキリスト教徒にとって聖典であるが、同時にイスラム教徒にとっても読まざるを得ない書であると思われる。というのは、コーラン(現在、クルアーンと呼ばれる)では、旧約が頻繁に引用されているからである。

私なりに解釈すると、旧約はイスラエルの民だけでなく、中東の民に共通の宗教観や倫理観をまとめたものであるからこそ、モハメッド(現在、ムハンマドと呼ばれる)も自分の宗教の中に取り入れたのだ。つまり旧約はそれだけ普遍性のあるものなのだ。一方、新約はイエスその人の言行録と言うべき篇が主体となっているために、本来的には普遍性のある倫理観が述べられているにも拘らず、キリスト教徒以外には普及しなかった、と言っていいだろう。(イスラム教徒が旧約と新約を本当はどのように理解しているか、私は正直言って知らない。)



さて、これと平行の図式が中国にも見られる。

中国はその面積や思想・文化の多様性からヨーロッパ全体に匹敵する、と私は思っている。つまり、単純に『中国=漢民族=儒教』という図式でくくりきれないのである。そういった多様性の中、春秋左氏伝は、旧約同様、中国という地域に住んでいる人々に共通の倫理観が書かれている。それは、私の考えでは、『義と血筋の重視』の二点に集約される。論語はこの倫理観を基礎に置きながら、孔丘という人物の言行をまとめたもので、儒教徒以外には普及しなかった。むしろ、論語は他派からは攻撃や嘲りの対象となった。

さて、今回取り上げた『尤而效之、罪又甚焉』(咎めて、これにならう。罪、また甚だし)というのは、春秋左氏伝の僖公、24年に出てくる言葉である。意味は、『他人の悪事を糾弾しておきながら、自らがその悪事をするのは一層罪深いことだ』。

最近、某国の政治家が野党議員であった時に、『秘書の不始末は、その政治家本人が責任を負うべき』と言っておきながら、首相になった途端に、不正な会計処理(脱税)を秘書がしたことに対し『自分には責任がない』とぬけぬけというのが、丁度この言葉で非難されている言動である。あるいは同じく野党時代、『赤字国債発行糾弾』と言っておきながら政権を取った途端に、未曾有の赤字国債を発行した某政党のやり口を非難するのに相応しい言葉だ。

欧米では、ことあるごとに聖書が引用されて、糾弾、自己弁護がおこなわれる。何千年も生き続けた言葉が、善くも悪くも現在の人間の行動規範となっている。日本に日本人以外の人々も数多く住むようになってきた現在『おてんとう様が見ている』という、もはや日本人にすら理解しがたい抽象的な言い方ではなく、もっと具体的な言い回しを、春秋左氏伝から少しは学んだ方がよいのでないか、と私は考える。
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