限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第6回目)『旧約聖書、新約聖書の感想』

2009-06-22 08:10:09 | 日記
高校の英語の時間に、『聖書は必ずよみなさい』と言われた。その後、私は、ドイツやアメリカに留学をしたため、欧米におけるキリスト教の影響と教会の実際の活動も目の当たりにし、聖書を読む必要を強く感じた。それてぱらぱらと読んではみたものの、ついぞ通読しようという気が起こらなかった。



ところが、数年ほど前、親しくしているキリスト教徒の日本人が、新興宗教にこりだして、しきりに『だれそれは神の声が聞こえた』とか『マイトレーヤが近々出現する』と言い出した。その人は話の中でいろいろと聖書の文句を引き合いに出すが、私にはその文句の真意が果たしてその人の解釈通りかどうか、判断しかねた。それで意を決して集中的に旧約聖書と新約聖書を1ヶ月半ほどかけて通読した。高校の時から数えると実に30年が経過していた。さて実際に読んでみると、それまで抱いていたキリスト教にたいする考えが間違っていたり、逆に、キリスト教の教会や信者に対して疑問が沸き起こってきた。

これら二つの聖書についての私の疑問、印象を書く。

1.旧約聖書と新約聖書とで神の概念が異なる。旧約の神はギリシャなどの神とあまり大差がなく、間違いもしたり、人を見損なったりする、など、完全・完璧でないところがある。

2.旧約聖書と新約聖書とで、神と人間(預言者)の関わり方が異なる。新約では最終的に神が必要なく、イエスその人が最終的な帰依すべき信仰対象となっている。旧約ではそれに反して、預言者が人と神の媒介者という位置にある。

3.新約の中でも、パウロの視点がその後のキリスト教会の指導原理となっているように感じる。その点では、キリスト教というよりパウロ教と呼んだほうがよさそうに思える。

4.パウロなどの使徒の活動戦略の一つが、『イエスは父なる神の右に座っている』というような権威付けである。また、『キリスト教徒にあらずんば人にあらず』のような排他的意図が非常につよく感じられる。結局こういう姿勢が現在までのキリスト教国々における宗教戦争の根本となっている、と感じる。

5.旧約・新約聖書というのが無誤謬である、という前提で物を考えている限り、キリスト教の教えの真髄を正しく判断できないはずだ。

6.この二つの本を中国の古典にたとえてみると、旧約は春秋左氏伝に相当し、新約は論語に相当すると言えよう。

7.新約聖書における文だけでは、神の属性が合理的には説明されていない。トマス・アクイヌスやスピノザの説く神性のもろもろの性質、特に完璧性は、ビザンティンのギリシャ正教会がひねくりまわした理屈を転用したにすぎないことがわかる。
(2009/06/28日:訂正:トマス・アクィナスの理論は、ビザンティンよりむしろアリストテレスを学ぶことによって精緻化されたイスラム神学の影響を色濃く受けている、という指摘を出口治明氏より頂いた。)

8.聖書のなかには本来的に話した当人、あるいは書き留めた人、あるいは編集者の思い間違いなど、かなり多くの間違いが入り込んでいるはず、と考えるのが合理的である。しかし、今までの聖書の解釈は、それらの誤謬を正しいと強引な理屈をつけている。考えるに、現在の裁判でも、明らかな犯罪者にたいしても弁護人がついて無罪に持ち込むケースなどがあることから、理屈などはどこにも付くものだ。そうすると、結局理屈がつくからと言って正しいとは限らない。

9.キリスト教は宗教が本来解決案を提出すべき問題、『生の意義』(なぜ生まれてきたのか?)に対する回答が示されていない。その意味では仏教の方が形而上的ではある。ショーペンハウアーなどはこの点で仏教、あるいはその前のヴェータなどの方がキリスト教より宗教の本来の役割を果たしていると評価している。

10.キリストの復活という奇跡がなくてもイエスの教えは充分納得できる。論語にある『不以人廃言』(人をもって言を廃さず)という言葉のように、キリスト教徒にならなくてもイエスの言葉は十分活用することができる。

11.世の中のキリスト教信者の中には奇跡や復活があるからキリスト教を信じている人が多くいる。そうすると、奇跡や復活などが否定された場合、キリスト教が宗教、あるいは単なる教えとしての価値がなくなるとしたら、なんと情けないことではないか!宗教というのは本来的にそういった、まやかしを超越して人に義(ただしい)生き方、安心感を教えるべきものでなければいけないと私は考える。

12.欧米人と話をしていてしばしば経験したことだが、本来理性的で、数学的証明、法律解釈などを論理的に理解できる人でもいったんキリスト教徒になった途端、聖書に内在する誤謬を理論的に解明できなくなってしまう。一種のメンタルブロックにかかってしまうようだ。

この二つの本を読んでみてつくづく、世評は当てにならない、やはり自分でしっかりと原典を読み、自分の頭で考える(Selbstdenken)必要性・重要性を再確認した。特に、旧約聖書は内容的にとても聖なる本とは私には思えない。私の意見に疑問をお持ちの方には是非これら二つの本を読まれることをお勧めする。
コメント (2)
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