限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第286回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その129)』

2016-12-15 22:20:16 | 日記
前回

【228.我輩 】P.4442、AD499年

『我輩』(わがはい)は、通常日本語では『吾輩』と書き、一人称単数形を意味する。この両方の単語、『我輩』と『吾輩』を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると次のようになる。



どちらも、晋書が初出であるので、かなり新しい単語だと分かる。資治通鑑にも両方の単語がかなり頻出する。全部をきちんと調べたわけではないので、感覚的にしか言えないが、『吾輩』は一人称単数形のケースが多いが、『我輩』はどちらかと言えば一人称複数形(つまり、我々、我們)の意味で用いているように思える。(今後、暇をみてはチェックしたいと思っている。)

さて、資治通鑑で『我輩』が使われている場面を見てみよう。

中国の女帝といえば、武則天を思い浮かべるが、北魏(386年 -534年)の馮太后も凄腕の女帝であった。夫の文成帝の崩御後、国政を背負って北魏の隆盛を築いた人であった。その一方で、馮太后はキップの良い、磊落な人でもあったようで、公然と愛人を何人も囲った。その姪もまた皇后(孝文幽皇后)となったが、政治的腕力においてはとても馮太后に及ばず、孝文帝が崩御した直後に悲劇的な最後を迎えることになった。

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彭城王の元勰たちが孝文帝の遺言だといって、馮后に自殺するように迫った。北海王の元詳が長秋卿の白整に馮后に毒薬を届けさせたが、馮后はわめき叫んで逃げまわり、毒薬をのむことを断固拒否した。そして「陛下がこんな酷いことを言ったはずがない。お前たちがぐるになって私を殺そうとするのだろう!」 白整は馮后を押さえつけてむりやり毒薬を呑ませたので、とうとう馮后は死んでしまった。馮后の棺が洛城の南まで来たとき、咸陽王の元禧などが馮后の死ぬ様子をつぶさに知って、お互いに顔を見合わせ、にやりとして、「たとえ孝文帝の遺言がなくとも、わしら兄弟が結束してこやつ(馮后)を消し去っていたよな。売女[ばいた]が天下を握ったら、逆にわしらの方が消されてしまっていたはずだわい!」馮后には幽皇后という諡号が与えられた。

勰等以高祖遺詔賜馮后死。北海王詳使長秋卿白整入授后薬、后走呼、不肯飲、曰:「官豈有此、是諸王輩殺我耳!」整執持強之、乃飲薬而卒。喪至洛城南、咸陽王禧等知后審死、相視曰:「設無遺詔、我兄弟亦当決策去之;豈可令失行婦人宰制天下、殺我輩也!」諡曰幽皇后。
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馮后は孝文帝の遺言によって強制的に殺された。インドでも似たようなサティーという奇習があった。日本でも古代には古墳時代には人身御供があったが、可哀想だというので埴輪に置き換わった。それ以降、夫の死に妻が付き合わされるということを ― あったのかも知れないが ― 寡聞にして知らない。これだけに止まらず世界の類似の事象をいろいろと調べてみると、日本は古代から人間本来が持っている人権意識が、案外、高かったことに気付く。

続く。。。
コメント
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