限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第284回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その127)』

2016-12-01 20:50:48 | 日記
前回

【226.風塵 】P.3831、AD431年

『風塵』とは物理的な「かぜ、ちり」の意味ももちろんあるが、辞源(2015年版)には「流言蜚語(飛語)」の意味もあるという。現代風にいうと『風塵』とは風で飛ばされる程度の「軽いデマ」ということになろうか。



二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると、上の表のように初出は漢書であることが分かるが、実質的には後漢書から使われていると考えていいだろう。さらにこの表をみると、晋書が突出して多い(27回)。そして、唐以降はあまり使われていないことも分かる。つまり、六朝人に好まれた熟語であったということだ。


【出典】ziggysart2 ID: 201503261400

デマの意味で「風塵」が用いられている例を紹介しよう。時は、南北朝時代で北には北魏(太武帝)、南には宋(文帝・劉義隆)があり、対立していた。北魏に善政を敷いた地方官・王慧龍という人物がいたが、宋にとっては目の上のたんこぶであった。どうにか亡き者にしたいと宋の文帝が策略をかけたが。。。

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魏の太武帝は王慧龍を滎陽の太守に任命した。王慧龍は地方官として十年間、善政を敷き、農業も軍備もどちらも非常によく整った。安定した生活が営めるとの噂が広まり、一万戸もの人(約10万人か?)が集まってきた。それを聞いた宋の文帝は何とかして敵方の勢力をくじこうとスパイを魏に送り次のような噂を広めさせた。「王慧龍は大きな功績があるにも拘らず、位が低いままなのに不満をもっている。秘かに宋の軍隊を引き入れて、上官の司馬楚之を縛り上げ、反乱を起こそうとしている。」

魏の太武帝はこの噂を聞いて王慧龍にじきじき次のような内容の手紙を送った。「宋の文帝(劉義隆)は貴卿を虎のように恐れていて、何とか同士討ちさせようとあがいていること位、ワシにはお見通しだ。風塵の噂など気にかける必要などないぞ。」

宋の文帝は、噂作戦が失敗したので、今度は呂玄伯という刺客を送って王慧龍を暗殺させようとして「王慧龍の首を取ってきたなら、二百戸の領地と、絹千匹を褒美として与える」と約束した。呂玄伯は逃亡者を装って魏に行き、王慧龍に面談し、極秘の情報をお伝えしたいので、人払いを願った。王慧龍は怪しいヤツだと思い、呂玄伯の身体検査をさせたところ、懐から小刀が見つかった。呂玄伯は潔く「殺してくれ」と言ったが、王慧龍は「人は主人のために尽すものだ。」といって放免しようとした。王慧龍の部下たちはそれに反対して「宋の文帝はこれからも暗殺を企むことでしょう。呂玄伯を殺さなかったら、これからも続々と暗殺者がやってくることでしょう。」と諌めたが、王慧龍は気にせず「死生は天命によるものだ。暗殺者なんぞがワシを殺せるものか!仁義を防護服とすれば、何も恐れる必要はない。」と言って、予定通り呂玄伯を釈放した。

以王慧龍為滎陽太守。慧龍在郡十年、農戦並脩、大著声績、帰附者万余家。帝縦反間於魏、云「慧龍自以功高位下、欲引宋人入寇、因執司馬楚之以叛。」

魏主聞之、賜慧龍璽書曰:「劉義隆畏将軍如虎、欲相中害;朕自知之。風塵之言、想不足介意。」

帝復遣刺客呂玄伯刺之、曰:「得慧龍首、封二百戸男、賞絹千匹。」玄伯詐為降人、求屏人有所論;慧龍疑之、使人探其懐、得尺刀。玄伯叩頭請死、慧龍曰:「各為其主耳。」釈之。左右諌曰:「宋人為謀未已、不殺玄伯、無以制将来。」慧龍曰:「死生有命、彼亦安能害我!我以仁義為扞蔽、又何憂乎!」遂捨之。
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資治通鑑ではこの節は「遂捨之」で終わっているが、原文の『魏書』ではさらに「時人服其寛恕」(時人、その寛恕に服す)という文が続く。王慧龍の寛大さに皆が敬服したというのだ。世知辛い南北朝の時代に、王慧龍のような大度な人を見ると一掬の清涼感を感じる。

【参照ブログ】
 通鑑聚銘:(第68回目)『暗いトーンの資治通鑑にも、一掬の清涼感』

続く。。。
コメント
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