限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第177回目)『グローバルリテラシー・リベラルアーツ・教養(その8)』

2012-08-26 16:53:32 | 日記
前回に続いて、私の考えるリベラルアーツの学び方を述べよう。

フェーズ1の準備と、フェーズ2のインプット(読書)が終わったら、いよいよ得た知識を活用してみよう。

 フェーズ3:アウトプット

以前のブログ、百論簇出:(第55回目)『教うるは学ぶの半ばなり』でも述べたが、教えるというのは学習の促進剤である。この意味から、リベラルアーツでもインプット(読書)が進んで、自分の意見がまとまったら、思い切って意見を発表をしてみることだ。例えば、身近な人に話してみる(講話)とか、多くの人の前で講演したり、討論するという直接的な方法がある。それ以外にブログやメールマガジン、Facebook などで自分の意見を、できれば実名で、広く世間に発表する。意見を公表するで、質問や指摘を受け、自分の理解不足や気づかなかった観点を知ることができる。

私の場合、2009年から2012年にかけて京都大学の授業や、このブログ『限りなき知の探訪』、および、年に数回開催している『リベラルアーツ教育によるグローバルリーダー育成フォーラム』での講演はこういった実践の一環である。授業や講演の場合、話す内容を事前にまとめないといけないが、理解不足の点を数多く見つけることができた。例えば、2010年度と2011年度に行った英語授業、『日本の情報文化と社会』と『日本の工芸技術と社会』は、英語で話さなければいけなかったこともあり、かなり入念に授業準備した。毎回、PPT資料で30枚ものスライドを用意したのだが、1年半もの間この2つの分野についてはかなり多岐にわたってかなり時間を費やした。そこまでインプット(読書)だけでは、不確かだった知識が、アウトプット(講義)をすることではじめてかっちりと自分の中に定着したとの実感を得ることができた。

 フェーズ4: 実務で検証

この連載の第6回目
 【B】リベラルアーツは、まさかの時に備える保険のようなもの
と言うことを述べた。つまりリベラルアーツの学習で得た知識は、必ずしも日常の生活でいつも必要とされる訳ではない。将来のいつかの時点で、実務の中で役に立つかもしれないという漠然としたものである。しかし、リベラルアーツを必要とする場面に遭遇することは必ずあるといえる。例えば次のような事象は身近にも必ず経験することであろう。
 ○組織(会社・官庁・団体)の利益と社会の利益が相反する時
 ○組織(会社・官庁・団体)の方針と自分の生き方が相反する時


こういった時にどういう判断を下すか、どういう行動をとるかで、その人の考え方、生き方、つまり哲学が、試される。単なる見解の相違ではなく、自分あるいは組織が刑事事件にまで発展するような事態に巻き込まれることもあろう。そういった時、後悔のない行動がとれるかが問われる。

これ以外にも、次のような人との交わりにおいても教養やリベラルアーツの真価が問われる。
 ○魅力あるビジネスパーソンに出会った時
 ○外国人との付き合いでのアフターファイブの話


自分と価値観や視野の異なる人に対して、『話すに足る人物』だと認めてもらえるか?その人が気づかなかったような視点を提示できるか?もう一度会ってみたいと思ってもらえるか?リベラルアーツの本質は、単にものごとを知っているというのではなく、独自の見解を持っているということである。見識の高い人と会う時というのは、その人の持つ哲学が試されているのだ。



以上は個人的な観点でのリベラルアーツの学習の真価が発揮される時であるが、それにも増して現在のグローバル社会では、外国の組織(企業・官庁・団体)との交渉にリベラルアーツの真価が問われる。。現在の国際社会において日本の地位および産業競争力は相対的に低下しつつある。それで、日本の会社の対応が甘いと知るとそれにつけ込み、あくどくむしり取ろうとするギャングまがいの暴動は、中国での王子製紙、ホンダ、あるいはインドでのスズキ、などで発生している。

私がリベラルアーツの上位の概念としてグローバルリテラシーの必要性をこの連載の第1回目に強調したのはこういった背景を意識してのことであった。つまり、日本と文化背景の異なる国々や組織の中での上司、部下として付き合うには、彼らの文化のコアの把握が不可欠なのだ。文化のコアを理解するというのは、具体的には次のような場面でその真価が問われる。
 ○自分(あるいは日本人)の考え方と異なる時、彼らの主張の論理が理解できるか?
 ○自分(会社あるいは個人)の主張を相手に納得させることができるか?
 ○複数の文化背景をもった外国人のグループを任された時、リーダーシップを発揮して上手にまとめて運営していけるか?


過去のイギリスの植民地支配を見ると、彼らは必ず現地(アフリカ、中東、アジア)の文化を詳細に調査している。それも象牙の塔の学者が学究的観点から行うのではなく、外交官、商人などの実務者が実生活の経験をベースとして学問的な観点をもって異文化を探究している。結果的には植民地からさらなる利益を搾取する目的であったとしても、彼らが残した文書は現地の文化を知るうえで今なお非常に価値がある。これは、幕末、明治初期に日本を訪問した外国人のなかでもとりわけイギリス人(例:オールコック、アーネスト・サトウ、チェンバレン、イサベラ・バード、ジョージ・サンソムなど)の書を読むと、彼らの観察眼の確かさがわかる。

この意味からもグローバル社会では、リベラルアーツを学ぶことは、表層的な教養の箔をつけるためではなく、文化のコアを理解することであり、単なる知識に止まらず、ビジネスに必要な活眼を養うことであることが理解できよう。

ただ、このようにリベラルアーツの習得は重要であることが分かっていても、この連載の第6回目で述べたように
 『資格試験と違って最終ゴールや成果が見えづらいリベラルアーツを学ぶことは中途で挫折しやすい。』
のも事実だ。それでは、中途で挫折するのを回避する方策はあるのだろうか?
この疑問に対する私の答えは:
 成果を目的とせずに、プロセスを楽しむこと
である。昨今の日本では勉強に限らずスポーツでも、結果、つまり得点、を競うことに重きを置きすぎる傾向が強い。

私はこういった世間の風潮には賛同しない。とりわけ、リベラルアーツのように、達成目標が明確でない場合、結果主義ではうまくいかない。それは以前のブログ、【座右之銘・2】『死生在命、富貴在天』で述べたとおりだ。
 努力した結果が他人から評価されることだけを目標にして、努力するのではなく、その努力していること自体に満足を感じていなければ、その努力は『さもしい』と思う。論語の中の『知之者不如好之者、好之者不如樂之者』(これを知るものは、これを好むものにしかず、これを好むものは、これを楽しむものにしかず。)はその心境を的確に表現したものだ。

つまりリベラルアーツの学習とは学んでいるプロセス自体に楽しみを見い出さなければ続かないのだ。この事を肝に銘じてほしい。

続く。。。
コメント
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