限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

座右之銘・20】『盡信書、則不如無書』

2010-02-06 10:11:28 | 日記
華燭の宴というのは、結婚式の美称であるが、この中で使われている『燭』とはともしびのことを言う。この『燭』のつく別の単語に『挙燭』(きょしょく)というのがある。

出典は韓非子『外儲説左上第三十二』で、次のような話が載せられている。

ある地方の役人が夜中に燕の大臣に手紙を書いていたところ、手元が暗かったので、お側の者に、暗いからろうそくを持ち上げよ、という意味で『挙燭せよ』と命じた。それと同時にうっかりとその同じ言葉を手紙の中に書き入れてしまった。後日その手紙を受け取った大臣は、文中にこの謎めいた言葉を見つけて、考え込んでしまった。暫く考えて、『燭というのは賢人であり、挙というのは、任用せよ』という意味に違いないと結論づけた。その後、賢人を多く登用した燕の国は大いに治まったという。



誤解が正解だったということだが、韓非子の意図は、『今世挙学者多似此類』(今の世、多くの学者の言うことはこの類が多い)、つまり学者の言う事を人は善意に解釈してうまく活用しているが、実際の言葉はくだらない戯言にすぎない、ということだ。ここに、韓非子一流の辛辣さを感じるのだが、私はこの辛辣な皮肉を逆に重宝している。つまり、本というのは作者が本来伝達しようとしていた意図とは別の意味に理解して、自分の為に役立てているのが私の本の読み方なのだ。

私のこの主張を支持するのが、今回取り上げた孟子の言葉、『盡信書、則不如無書』(尽く書を信ずれば則ち書なきに如かず)の趣旨だ。ここで言う『書』とは一般の書というのではなく、五経の一つの『書経』を指すのだが、現代の我々はこれを一般的な書物の意味に理解してよいと私は考える。この句の意図は『本を無批判的に信用するぐらいならいっそうのこと本は存在しない方がましだ』。つまり、私の主張である『本は自主的な観点から理解してよろしい』となる。もっとも、悪弊因習にこりかたまっている某学界で名をあげようと欲しなければ、の話ではあるが。。。
コメント
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