限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・18】『得意而忘言』

2010-01-24 14:30:32 | 日記
前回荘子を取り上げたついでに、もう一つ荘子の言葉を取り上げる。

荘子の雑篇・外物篇に『筌蹄(せんてい)』という言葉がある。

『筌は魚にある所以なり、魚を得て筌を忘る。蹄は兔にある所以なり、兔を得て蹄を忘る。』(筌者所以在魚,得魚而忘筌;蹄者所以在兔,得兔而忘蹄)
意味は『ビクは魚をとるための道具である。魚を得てしまえばビクに用はない。ワナは兔をとるための道具である。兔を得てしまえばワナに用はない』
ここから筌蹄という言葉がでた。つまり目的を達成するための手段は、それ自身意味があるのではなく、目的を達成すれば、意味をなくすというのだ。簡単に言えば、レースの後のはずれ馬券が意味をもたないのと同様だ。



ところが、いつもそうだが、中国人の言い方は、こういう助走のあとで本当に言いたいことがでてくる。この場合もそうだ。
『言は意にある所以なり、意を得て言を忘る』(言者所以在意,得意而忘言)
先ほどの筌蹄と同様、言葉も意図を伝達する手段であるから、意図がわかってしまえば、言葉の正確な言い回しは忘れてもどうってことはない、というのがこの一文の趣旨であるのだ。

この核となる言葉、 『得意而忘言』(意をえて、言を忘る)は、字句だけを後生大事に抱え、何かと言えば、古い時代の言葉を振り回す、知ったかぶりの知識人を非難する言葉だと私は理解している。荘子はそういったエセ学者が大嫌いであったのだろう。言葉に忘れても坦然としている人とだけ、お付き合い願いたいものだ、と言い残した。(吾安得夫忘言之人、而與之言哉!)

同時代では、見つからなくとも、後世に知己を求む、ということだろうか。
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