癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

年の暮れの思い出

2014年12月29日 | 日常生活・つぶやき

昔我が家で飾ったものと同じ飾り物が多いまゆ玉飾りの画像(他サイトから借用)

 子どもころの年の暮れの思い出といえば、自分にとっては、大混雑のデパートでの買い物、朝早くからの餅つき、障子の張り替え、まゆ玉飾りが4大事業だった。

<正月買い物>
 正月買い物は、当時住んでいた大野町からバスに乗って函館へ出掛けた。行き先は、函館駅前のボーニ森屋か十字街にあった丸井デパートである。ものすごい人出で、小さいときは母の角巻き(これも懐かしい)の裾にしがみ付いて歩いたものだった。あるとき、顔を上げて見たら、角巻きの主が自分の母でなかったことがあった。そのときのパニックは今でも忘れない。幸い、母が見つけてくれたので助かった。

 中学2年のとき、大野町商工会の年末大売出しで、1本しかない一等賞が当たった。景品は携帯ラジオだった。それも10枚で1回引ける籤なので、友達から端数をもらい集めて引いたものだった。すぐに商工会長から父のところに電話が行ったらしい。父が「みなさんで好きなだけ飲んでください」と気前よく酒を振る舞ったので、結構高く付いたらしい。
 翌年、近所の人から、「籤運が強いから代りに引いて」とずいぶん頼まれたが、ほとんどハズレばかりで、そのたびに申し訳ない気持ちになったものだ。

<餅つき>
 我が家では、28日が餅つきの日と決まっていた。まだ暗いうちに目が覚めると、もち米を蒸している匂いが家中に充満していた。狭い玄関で借りてきた臼と杵で、多いときには10臼もついた。白もちのほかに、豆もち、胡麻もち、よもぎもち、なぜか甘納豆もちもあった。これが好きだった。
 弟妹4人がその前に膝をついて、餅をつく父とあいどりをする母のみごとなコンビネーションぶりにほれぼれして見たものだ。一年中で父が一番頼もしく見えたときかもしれない。
 半つき状態のまだ粒の残っている餅を食べるのが好きだった。つき上がった餅の端をつまんで食べながら、弟妹で、丸めたり、平たく延ばしたりしたものだった。

<障子の張り替え>
 大掃除の後の年に一回の障子の張り替え作業は子どもの仕事だった。普段、障子を破ると叱られたが、このときだけは、思い切り指で穴を開け放題で最高のストレス発散だった。それでも、きれいに剥がし、最後は桟をきれいに濡れ雑巾で拭き上げてから、緊張の紙張りとなった。
 ずらさないできれいに貼れたとき、まっさらに仕上がった障子ができあがったときの満足感は子供心にもうれしかった。

<まゆ玉飾り>
 大掃除や餅つきの後は、まゆ玉飾りだった。近所の人が山からミズキの枝を切って来て届けてくれた。それに、今でも売っているが、色とりどりの半球状の麩?のようなものを、蒸し釜の上に張った布巾で二つの合わせ口を濡らして、枝をはさんでくっつけるのが楽しかった。つきたての餅を小さくちぎって枝に付ける家もあった。
 それができあがると、父が子どものころから飾ってきたというまゆ玉飾りをぶら下げるのだった。年々飾り物に人形や手作りの飾りが増えて行った。
 

 これらは、自分が親になったときには、正月買い物はスーパーに変わり、餅つきは自動餅つき機に変わり、障子はなくなっていた。ただ、まゆ玉飾りだけは、子どもが家にいるうちは、同じことを続けた。3代にわたった古い飾り物がまだ箱に入って、どこかで眠っているはずだ。 

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
よいお年を (よっちゃん)
2014-12-29 19:59:15
繭玉飾りのことをすっかり忘れていました。この記事を読んで思い出したので、さっそく飾ろうと思います。
今年もたくさんの記事でとても楽しませていただきました。自分では絶対に行けないような山々に、行ったような気分になれるのが嬉しいところです。来年も楽しみにしています!よいお年をお迎えください~m(_ _)m
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よっちゃんさんへ (sakag)
2014-12-29 20:30:32
まゆ玉は正月を迎える部屋の中に彩りを添えてくれましたよね。
現在の我が家は、正月を迎えると言っても、妻がお掃除をしてくれるだけで、特別なことはしなくなりました。
今年も拙サイトへお付き合いいただき、ありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
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