自然日誌 たかつき

自然についての問わず語りです。

4月を振り返る

2019年04月30日 | ごあいさつ Greetings
毎年のことですが、4月には芽吹きの季節であっという間に新緑になります。先月から始動した花マップ活動が進んでいます。現役ではなくなったとはいえ、新年度はやはり慌ただしく過ごしました。武蔵美大での講義が始まりました。20日に懐かしい仙台で半世紀ぶりの同窓会がありました。タヌキ、シカの分析が一巡りし、データをまとめています。裏高尾のタヌキについては論文化しました。高知県のタヌキのサンプルを分析しています。月末は博物館の粘土模型を作りました。

4/3 東大でシカの標本整理
4/6 花マップ調査(砂川)
4/7 観察会
4/8 小平市立鈴木小学校入学式
49 小平市立第三中学校入学式
4/9 かわさき市民アカデミーで講義
4/10 武蔵野美大で講義
4/11 裏高尾でシカ痕跡調査
4/14 高尾山でシカ痕跡調査
4/18 玉川上水で取材(水口)
4/19 笹川財団発表会
4/20 仙台で東北大学理学部同窓会
4/24 麻布大学いのちの博物館企画委員会
4/25 花マップ調査(境)
4/26 裏高尾のタヌキの論文完成
4/27 相模原市のオーサーズカフェで麻布大学いのちの博物館を紹介する講演
4/28 玉川上水花マップの活動の取材を受ける
4.29 粘土模型を作る
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粘土模型 ラッコ

2019年04月29日 | 博物館
ラッコも作りました。模型をどう立たせるか、そのために脚をどう作るかがいつでも問題なのですが、ラッコは仰向けの姿勢が普通なのでその心配はありませんでした。胴体に手足をつけ、頭と尻尾をつけました。つけるというより、全体の円柱を頭と胴のところで細くしたのが頭、胴の先を細くしたのが尻尾です。


形を作って少し線描きをしたところ

形が整ったら絵の具を塗り、その上に色鉛筆で毛を描きました。顔は薄めです。


顔は鼻の両側は薄く、ここには長い毛が生えているのですが、毛穴を描くだけにしました。貝は本物をのせました。

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粘土模型 シロサイ

2019年04月28日 | 博物館
シロサイはシマウマのように模様はありませんから、形そのもので勝負です。脚が太いので安定しており、作りやすさがありました。シマウマの脚には実は割り箸が入っているのです。シロサイでは肩をぐっと盛り上げ、顔を長くしてツノを伸ばします。それで大体オーケーです。最初は大きくバランスを考えます。そこで納得できないと後で修正が効かないからです。体型がバランスよくできていれば、あとは細かいところを丁寧に詰めていけばいいのです。



色をつけましたが、大した違いはないみたいです。目にはプラスチックを入れました。手芸店に行くとぬいぐるみ用の目が色々売っています。


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粘土模型 シマウマ

2019年04月27日 | 博物館
麻布大学いのちの博物館の展示では展示は手作りのものが多くあります。というのは標本は基本的に本物ですが、その解説としてのパネルの文章、そこへの挿絵はできるだけ手描きのイラストにしているからです。現在は写真がいくらでも手に入る時代ですが、それでは味気ないものになりますし、もちろん著作権をクリアするという問題もあります。それに、予算が限られているということもあります。そういうこともありますが、フクロウの展示の時に、石粉粘土でフクロウの模型を作ったら割合好評だったので、その後は楽しみながら、少しずつ粘土模型を作るようにしています。
 連休明けに新しい企画展示を始めるので、今回も石粉粘土の動物模型を作っています。

 シマウマは形だけではウマと区別がつかないほどです。ただ少し胴体が長いのと、尻尾の付け根の長い毛がない部分が長いようです。



 でも色を塗る、というか、シマウマの縞を描きこむとそれらしくなりました。顔から尾までの長さは25cmくらいです。目にはプラスチックを入れたら、輝いて見えて、本物っぽくなりました。



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仙台6

2019年04月26日 | その他 others
仙台にはもう1泊しました。というのは生物学科だったK君がある知人に仙台に行くことを話したらぜひ自宅に泊まってくれという話になったというのです。その人(Sさん)はK君とアドベンチャークラブの仲間で、そのクラブには私の知人が多くて一緒に山登りをしていました。ただ、私はラグビー部に入ったので誘われたのですがアドベンには入りませんでした。Sさんとは顔を知っている程度の中でした。ところが人の縁とは不思議なもので、我が家が引っ越した先の小学校で運動会があり、次女が4年生くらいの時、応援していたら、Sさんが隣にいたのです。そこの娘さんをうちの娘が追い抜いたのでした。「やあやあ」というので親しくなり、家族ぐるみで行き来するようになりました。娘同士も仲良しで、その娘さんが東京に来ることになり、親しくしているようです。

 夕食をいただいて雑談をしていたら玄関のピンポーンがなりました。
「実は会わせたい人があって」
とSさん。誰だろうと思っていたら、
「吉村です」
と、なんとラグビー部の先輩が現れました。驚く私に吉村さんが
「まだわかんないんだけど、なんで高槻がSさんのところに来ることになったわけ?どういう関係なのよ?」
「私が説明しますね」と私。
「実は私はアドベンに知人が多くて最初誘われて、部員登録はしたらしいんですよ。でもラグビー部に入ってそちらには行きませんでした。Sさんは仙台市役所に就職してラグビーを始めて、その流れで吉村さんにあったんですよ」
「ああ、そういうことか。じゃあひょっとしたら、ラグビー部に入ってなかったかも知れんってことだな?」
「可能性はありました」
「でも、ラグビー部の方を選んだってわけだな。よかった、よかった」(笑)
「何たって速かったからなあ。それまで東北大のラグビー部にウィングらしいウィングっていなかったんだ。それがすごい奴が入ってきたから1年の時からレギュラーになったんだ。なあ、100メートル11秒台だったよな?」
「11秒7です」
「だから、ボールを持つともうトライさ」
「いや、あれはセンターがうまかったから、私のところまで回ったらもう相手は一人しかいないんで、トライできたんですよ。2人いたらだめ、倒されてました」
「そうね、人には強いとは言えんかったな」
「ええ、力を抜いてステップを切るという走り方ができるようになったら、卒業でした」
 と話は尽きません。
「高槻といえばさ、ラグビー部には田口先生と言って怖い監督がいたのよ。その先生が夏になると蔵王とか登山に連れて行ってくれて、高山植物の名前を教えてくれるんだ。みんな何も知らんから、はあーってなもんだ。それが高槻が<違います>って言ったもんだから(爆笑)、みんな焦ってさ、先生も学生は黙って聞くもんだと思ってたから、あれはショックだったんじゃないか」
「高槻らしい」とSさん。
「あの人はお医者さんだったのにひどいんですよ、足に傷をして先生のところに行っても<痛いふりするな、走れば治る>(爆笑)ですもんね」
「俺なんかさ、胸を打ってえらく痛かったから先生のところに行ってレントゲン撮ってもらったら肋骨にひびが入ってたのよ。その時だって<走れば治る>だぜ(爆笑)」
「口が悪かったからですからね。吉村さん、監督に褒められたことります?」
「そんなのねえよ、一回も」
「私ね、一度だけあるんですよ。試合後のミーティングでキャプテンが<今日の試合は高槻のトライで勝てた>と言ったとき、監督は<ウィングがトライするのは当たり前だ。当たり前のことをほめるな>と言うんですよ」
「言いそうなことだ」
「私もそう思ってたし、監督が選手を褒めたのなんか聞いたことなかったからそンなもんだと思っていました。トライして嬉しそうな顔をする選手がいると怒るんですよ。<トライというものはチーム全員のものなんだから、ウィングは嬉しそうな顔をするな>ですよ」
「ところが、一度だけ褒められたことがあるんですよ」
「ほう」
「東大の定期戦で、相手のウィングがライン沿いに走ってたんですよ。そいつに抜かれたらトライになるから絶対に止めないといけないし、肩の方にタックルしても倒れないでパスされるから、膝くらいの低いところにタックルして一発で倒すしかないんですよ。ところがあのグランドはライン近くに陸上のトラックがあってコンクリートで危ないんですよ。それをやったものだから、<高槻、あれは勇気がいるタックルだった。よくやった!>。前にも後にも褒められたのはあの時だけですよ。でも普段褒めない人が褒めてくれたから感激したなあ」
 といった具合で話は尽きません。忘れていた学生時代のことが次々と蘇り、とても楽しいひと時でした。
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仙台5

2019年04月25日 | 植物 plants
翌日は蝶好きの知人と秋保の雑木林に行きました。ヒメギフチョウという早春にだけいる蝶が見れるかもしれないというのです。山道は今は使われておらず、道に低木やササが生えていて藪漕ぎ状態で大変でした。結局ヒメギフには会えませんでしたが、いくつかスミレなどを見て楽しみました。
 その後は解散で私は東北大学の植物園に行ってゆっくり過ごしました。学生の頃、よく行ったものです。植物園の先生と親しくなり、研究室にもよく行きました。園内を歩いたらちょうどスミレの時期で、マキノスミレやナガハシスミレなど、東京では観ないスミレもいくつかありました。


エイザンスミレ


マキノスミレ


タチツボスミレ


ナガハシスミレ

そのほかにもいくつか嬉しい出会いがありました。


オキナグサ


エンレイソウ


ミズバショウ
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仙台4

2019年04月24日 | その他 others
その夜は秋保温泉という仙台の郊外の温泉に行っての懇親会でした。私たちが属していた生物学科は定員が30人で、実際は20人余りだったので、皆知り合いでした。物理学や化学は大所帯だったので、事情は違ったみたいでした。生物学科の同級生は半分くらいが研究者になりました。異例なことだと思います。
 懇親会に来ていた人が自己紹介をしましたが、もちろん研究とは全く違う生き方をした人もいました。しかし共通して語っていたのは、「話はよくはわからなかったけど、自分の好きなことに向きあって、それをまっすぐ追い求めたことはわかり、それはやはり素晴らしいことだと思った」ということでした。実際、私の前に話した人たちは国際的な「Science」とか「Nature」などに論文を書くような高度な研究をしてきたようでした。私はそういう人たちとは同列には並べられませんが、それでも「大好きなことを追い求めた」という意味では胸を張ってよいと思いました。
 久しぶりに会ったので、いろいろ話し合いました。おもしろかったのは、孫の話をしていてもいつの間にか「ミトコンドリアDNAは母系だから・・・」などと生物学の話になるのでした。遅くまで語り合いましたが、私と頭を向き合っていた友達のいびきがすごくて参りました。

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仙台3

2019年04月23日 | その他 others
私は若い頃に調べたシカとササの関係、シカの個体群動態、特に300頭もの死体を回収した時の話、シカが森林生態系に及ぼす影響、その後に行ったアファン の森での花と昆虫の関係などの話題を話し、最後に、子供の頃から大好きだった生き物研究ができた戦後の平和な70年という時代に感謝するという話をしました。冒頭で、中学2年生の時に、蝶と食草の関係について抱いたアイデアを、愛読書だった「日本原色蝶類図鑑」の監修者であった九州大学の白水隆先生に手紙を書き、先生から返事をもらった時に感激したという話もしました。それと、同窓生に向けての話として、当時の周辺の秀才の話をしました。
 教養部時代の数学の講義はやたらに難しく、私は公式を暗記するしかありませんでした。その式は先生が板書をしていて黒板いっぱいになる程長く複雑なものでした。試験前に、友達に「あれを覚えるのは大変だよな」と言ったら「公式っていうのは考えればできるんだよ」と言われてびっくりしました。彼は続けて言いました。「あの式は美しいよ」と。私が寝不足でぼーっとしている時もサッカーをしたりしていました。数学では、大学に入学すると読まないといけない難解な古典があるらしく、それに立ち向かうのだそうですが、彼はそれを高校時代に愛読していたというので呆れてしまいました。その後、いろいろ話をするようになりましたが、お父さんもおじいさんも学者だということで、本人も当然学者になるつもりだと言っていました。
 ともかくそういう秀才が周りにたくさんいたので、凡才の私は「こういう連中と一緒にやっていけるだろうか」という不安がありました。発表ではそういう話もしました。
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仙台2

2019年04月22日 | その他 others
7、8人の人が研究紹介をすることになりました。私もその一人でした。
最初の人の話はニュートリノで、さっぱりわかりませんでした。わかりませんでしたが、その人が夢中になって重力だかなんだか、要するに世界共通の課題を解くべく頭を使い、実験をして、いくつかの大きな問題を解いたことは、なんとなくわかりました。どうやら国際的なレベルの研究をした偉い先生になっているようでした。
 ところがその話が終わった後、ある人が「今の話は物理の連中にはおもしろいのかもしれんが、部外者にはさっぱりわからない。だから物理の人に話す話だけでなく、要するにどうおもしろいかをもっとわかりやすく話さないと困る」
 と通常の感覚で言えばえらく失礼な発言をズケズケいうのでびっくりしました。しかも言われた人は穏やかに「いやあどうもすみません」と詫びたのですが、別の人は「それはあんたの考えで、全員がそう考えているとは限らない。それは一つの意見として聞くよ。話す方はそれなりにこれが良いと考えて準備しているんだから・・」とさらにズケズケと切り返します。
 それを聴きながら、あの頃の学生の関係 -- 形式的なことにこだわらず、問題をズバリと口にする雰囲気 -- が蘇ったような気がしました。こういう空気は今の学生には全くありません。私たちの世代でも学生時代にはそうしてやりあっても、社会に出ればそうはいかないと「マナー」を身につけていったと思いますが、そのままで爺さんになった人たちがいたのを見て微笑ましく思いました(私もその口で、会議などで厳しいことを言って驚かれることがあります)。
 その後も理論物理学の難しい話や、JAXAで活躍している地球物理学の人の話などが続きました。地球物理学の方は少しはわかりました。
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仙台1

2019年04月21日 | その他 others
4月20日に仙台に行きました。それは私がいた東北大学理学部の同窓会に出席するためです。卒業したのが1973年ですから46年という長い年月が流れました。理学部には数学、物理学、化学、生物学、地理学、地学などの学科がありました。私はもちろん生物学科にいたのですが、今回は物理学の人が中心になって企画をし、準備をしてくれました。
 入学したのは1969年で、この年は日本の大学史において特異な年となりました。大学紛争のピークにあり、東大の安田講堂が学生に占拠され、東大の入試がなくなりました。私は受験生で、東北大学に行くと決めていたので、非常に苦しい状況に置かれたわけです。実際問題、東大を受験する予定だった受験生が大量に東北大学を受験したために、例年多数派であった仙台の高校からの入学者が激減したとのことです。だから私は全力は尽くしたものの、合格できたかどうかわからず、発表までは不安な毎日が続きました。
 幸い合格することができ、その頃はなんと18時間もかけて仙台に行きました。新幹線は東海道しかなかった時代で、米子から山陰本線で京都に出て、そこから東海道新幹線、そこから特急で東北本線を北上したのでした。仙台がどういう街かも知らず、米子の駅には高校時代の友達が見送りに来てくれましたが、今思えば海外旅行にでも行くような気分でした。
 入学した後5月からストライキで授業はありませんでした。学生集会が行われ、参加はしましたが、何か本質とはずれた議論が行われていたので本気にはなれず、私は下宿で自分が読みたい本を読み、野山を歩いて植物の名前を覚えたり、昆虫採集をしたりするようになりました。山陰とは違い、私にとって憧れだったクジャクチョウなどがいくらでもいて感激しました。
 そういう時代を共有した同窓生が集まったというわけです。入学時に十代、卒業時に20代だった若者が、皆お爺さんになっていました。
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