山田の図が牧野図鑑になる過程が見れるというのは実に興味ふかいことです。これはヒヨドリジョウゴで、特徴が的確に表現されています。
牧野図鑑の葉の形の正確さと、葉脈の微妙さはタチツボスミレでも言いました。この
図を例に2つのことを書いておきます。
一つは線画になっていわば「決定版」となるのですが、そのことでやや様式化するというか本物以上に本物らしくなるような感じがします。
もう一つは植物画を描くときはある段階のものを見て描くのだから、この例で言えば花の段階のものを描いています。左上には果実が追加されています。これは花とは別の時期に描いて追加しています。図鑑にするために情報を充実させているわけです。牧野は隙間があるのを嫌って、出来るだけ多くの情報を書いて隙間を埋めたそうです。情報が多いのはいいことですが、この本の解説者は「余白が少なくなって充実感がある」「このことが読者に安心感を与えるように思う」と書いています。
私はちょっと違う感じを持ちます。私は隙間を余白ということも、実際に隙間を埋めることも好きではありません。私は博物館の展示をしてきましたが、ほとんどの人は壁に隙間があると「何か飾った方がいいですよね」と言います。
しかし、私は隙間があれば残します。私は「広告じゃあ、あるまいし」と思います。限られた紙面に可能な限りの情報を詰め込む広告は貧乏くさい(cheepだ)。展示は豊かな心で行うもので、その心と「隙間は埋めよう」という精神は相いれないと考えます。だから必要な情報を絞り込んであれば、隙間はあった方が良い。それは余白ではなく「マ」です。ないことが意味を持つからです。
次の図はヒヨドリジョウゴの山田の原図です。これは間違いなく生きた植物を見ながら描いています。的確に線画を描き、淡彩を塗っています。メモのように花の拡大図などを添えていますが、植物の姿を自然に描いており、マがあり、それが実に素晴らしい。牧野の図では茎の上の方の長卵形の葉だけを描いて、アサガオの葉のように切れ込んだ葉は切り取って右下に添えられています。それによって図鑑の正確さと情報追加に成功していますが、その時に植物の自然体の魅力が失われたと思います。そのことが原図を見るとよくわかります。
ヒヨドリジョウゴ 山田図