少し長くなります。
15世紀のフランス、ブルゴーニュのある村で少年がブタの親子に噛み殺されるという事件が起きた。とんでもないことが起きたのでブタは殺害されて当然であろうが、なんとこのブタ親子は裁判にかけられたのだ。被告はブタだが、代理で所有者が出席した。証人尋問があり、判決は有罪となりブタは木に吊るされ処刑されたが、子ブタは無罪となった。これは実際に起きたことである。
次に紹介するのは16世紀のチロル地方で、モグラが畑に穴を掘って植物が生えないようにしたことが問題になり訴えられた。これに対して弁護士は、モグラがイヌやネコの被害にあわないように安全通行券を与えるべきであるとしたので、裁判官は追放命令はやめて、親子のモグラと妊娠中のモグラには安全通行券と猶予期間を与えた。
同じ16世紀のシャンパーニュではネズミが穀物に被害を出したので訴えられた。判事はネズミに出頭を命じたが、ネズミは出頭しなかったので欠席とされた。これに対して弁護士はネズミにとって裁判所は遠く、ネコの危険があるなどと述べ、またネズミを断罪するのは人間性に欠けると訴えた。
昨日(5/17)発売の「人間の偏見、動物の言い分」という本の一部です。笑ってしまうようなことですが、大真面目に行われたことです。いやこれは笑い事ではないのです。
これを笑う人はきっと「便りのないのは良い便り」という言葉の意味もわからないでしょう。必要があれば携帯電話をかければよい。なんで便りがないのが良い便りなのか?と。
人は少し離れていれば、大声を出しても聞こえず、伝わらない。ましてや隣町、あるいは遠くにいる人とは連絡は取れないのだから、安否は推察するしかない・・・それが本来の人間のあり方だったことに思いを馳せることができない人は、20年後の、いや10年後の若者からさえ笑われること必定です。
そのように、立場が違えば世界が違って見えるのはごく普通のことで、ましてや違う民族、さらには違う動物のことはわかりにくい。そのために勝手なイメージ作りが行われがちで、そのことが悲劇を生んでいます。そういうことを書いて見たいと思ったのがこの本を書いた背景にあります。
以下はちょっと「営業調」の文です。
私は長いあいだ動物の研究をしてきて、動物の立場から見たらこの世はずいぶん理不尽だと思うだろうなと想像することがよくありました。それが本書で言いたいことなのですが、その主張のために2つの工夫をしました。
一つは 動物を類型したことです。「動物」というときに、ペットも家畜も野生動物も区別がされないために「動物のいのちを大切に」ときくと、多くはイヌ・ネコのイメージをして、食肉用のウシやブタのことは考えないし、野生動物の絶滅のことも考えません。そこで動物を類型しながら説明しました。
もう一つは現代の都市生活と動物の関係を考えるために、大胆とは思いながら、狩猟採集時代、農業時代、都市生活時代という時代区分をし、それぞれの時代に人が動物にどう接してきたかを考えたということです。
その作業をすることで、都市生活が下手をするとかなり深刻な問題を生む危険性があることにも言及しました。
イースト・プレスの関連のサイト こちら
15世紀のフランス、ブルゴーニュのある村で少年がブタの親子に噛み殺されるという事件が起きた。とんでもないことが起きたのでブタは殺害されて当然であろうが、なんとこのブタ親子は裁判にかけられたのだ。被告はブタだが、代理で所有者が出席した。証人尋問があり、判決は有罪となりブタは木に吊るされ処刑されたが、子ブタは無罪となった。これは実際に起きたことである。
次に紹介するのは16世紀のチロル地方で、モグラが畑に穴を掘って植物が生えないようにしたことが問題になり訴えられた。これに対して弁護士は、モグラがイヌやネコの被害にあわないように安全通行券を与えるべきであるとしたので、裁判官は追放命令はやめて、親子のモグラと妊娠中のモグラには安全通行券と猶予期間を与えた。
同じ16世紀のシャンパーニュではネズミが穀物に被害を出したので訴えられた。判事はネズミに出頭を命じたが、ネズミは出頭しなかったので欠席とされた。これに対して弁護士はネズミにとって裁判所は遠く、ネコの危険があるなどと述べ、またネズミを断罪するのは人間性に欠けると訴えた。
昨日(5/17)発売の「人間の偏見、動物の言い分」という本の一部です。笑ってしまうようなことですが、大真面目に行われたことです。いやこれは笑い事ではないのです。
これを笑う人はきっと「便りのないのは良い便り」という言葉の意味もわからないでしょう。必要があれば携帯電話をかければよい。なんで便りがないのが良い便りなのか?と。
人は少し離れていれば、大声を出しても聞こえず、伝わらない。ましてや隣町、あるいは遠くにいる人とは連絡は取れないのだから、安否は推察するしかない・・・それが本来の人間のあり方だったことに思いを馳せることができない人は、20年後の、いや10年後の若者からさえ笑われること必定です。
そのように、立場が違えば世界が違って見えるのはごく普通のことで、ましてや違う民族、さらには違う動物のことはわかりにくい。そのために勝手なイメージ作りが行われがちで、そのことが悲劇を生んでいます。そういうことを書いて見たいと思ったのがこの本を書いた背景にあります。
以下はちょっと「営業調」の文です。
私は長いあいだ動物の研究をしてきて、動物の立場から見たらこの世はずいぶん理不尽だと思うだろうなと想像することがよくありました。それが本書で言いたいことなのですが、その主張のために2つの工夫をしました。
一つは 動物を類型したことです。「動物」というときに、ペットも家畜も野生動物も区別がされないために「動物のいのちを大切に」ときくと、多くはイヌ・ネコのイメージをして、食肉用のウシやブタのことは考えないし、野生動物の絶滅のことも考えません。そこで動物を類型しながら説明しました。
もう一つは現代の都市生活と動物の関係を考えるために、大胆とは思いながら、狩猟採集時代、農業時代、都市生活時代という時代区分をし、それぞれの時代に人が動物にどう接してきたかを考えたということです。
その作業をすることで、都市生活が下手をするとかなり深刻な問題を生む危険性があることにも言及しました。
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