長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

五稜郭と榎本武揚と北風と<榎本武揚の戊辰戦争維新回天白虎編>維新の風6

2017年02月05日 09時04分33秒 | 日記

























  慶応四年(一八六八)、勝海舟は幕府閣僚名簿を筆した。
 陸軍総裁   勝安房守(勝海舟)
 陸軍副総裁  藤沢次謙
 海軍総裁   矢田堀鴻
 海軍副総裁  榎本武揚
 会計総裁   大久保一翁
 会計副総裁  成嶋弘
  他 ………
 勝海舟は共順派閥をつくる。
 しかし、主戦派の榎本を閣僚に入れたのも、勝海舟の頭脳だった。
「釜さんよ、なぜおぬしを閣僚に入れ、しかも海軍副総裁においらがしたのは何故だと思う?」
 勝は江戸で榎本武揚にきいた。
「いや。わかりません」
 榎本は正直に答えた。「なぜです?」
 勝海舟は笑った。
「おぬしが危険分子だからさ」
「いや。そうではないでしょう? 勝さん外国の……フランスが幕府に手を貸してもいいといってくれている。幕府軍とフランス軍が組めば新政府軍だか官軍だかには負けはしません。勝さんはそれを俺にやらせるつもりなのでしょう?」
「べらぼうめ!」
 勝は榎本を叱った。
「戦争は終らせなきゃならねぇ。徳川を生かすために幕府をつぶすのさ」
「しかし……」
「こっち(幕府)がフランスなら、あっち(薩長)はイギリスだ。ろくなことにならねぇ。インドや清国(中国)の二の舞だぜ」
「しかし、幕府軍のほうが兵力は大きい。軍艦の数だって勝っている。幕府軍とフランス軍が組めば新政府軍だか官軍だかには負けはしません!」
「あきれたやつだな。釜さんよ、幕府はあくまで”共順”だ。それを忘れなさんなよ」
「……共順?」
「そうさな!」
 勝海舟は念を押した。勝の元にはフランス人陸軍派遣のブリュネとカズヌーブという将校が制服のまま来た。
「勝さん、フランスの与力あります。幕府軍にフランスが与力します。」
「そうです。幕府軍負けないね。フランスが必ず勝たせます。」
勝海舟は「いやあ。もう、ここからは日本人たちだけで。内戦になりますから。」
「いや、勝さん。幕府軍のほうが武器も軍艦も多いね。必ず勝つのことね」
「そうです。フランス信じてください。必ず勝つね。」
勝は苦笑して「いやあ、幕府も徳川さまも恭順ですから。」というのがやっとだった。

話を少し戻す。
”われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ”
 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。
 そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。
 敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。

「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」
 勝安房守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。
「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」
 勝は沈黙した。
 ……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…
 言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。
 勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。
「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」
 近藤たちは決起した。
 やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤はいう。
「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」
 新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。
 皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。
 甲陽鎮部隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。
「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」
 近藤はいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。
  勝海舟(麟太郎)にとっては、もう新選組など”邪魔者”でしかなかった。
 かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?
 とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!
 そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!
「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」 勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。
 そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。
  近藤たちは故郷に錦をかざった。
 どうせなら多摩の故郷にたちよって、自慢したい……近藤勇も土方歳三もそう思った。それが、のちに仇となる。しかし、かれらにはそんなことさえわからなくなっていた。
 只、若年寄格に、寄合席格に、と無邪気に喜んでいた。
 近藤は「左肩はまだ痛むが、こっちの手なら」とグイグイ酒を呑んだという。
 数が減った新選組には、多摩の農民たちも加わった。
 多摩の農民たちは、近藤が試衛館の出張稽古で剣術を教えた仲である。
 土方歳三は姉に、「出世しました!」と勝利の報告をした。
「やりましたね、トシさん」姉は涙ぐんだ。
「それにしても近藤先生」農民のひとりがいった。「薩長が新政府をつくったって? 幕府は勝てるのですか?」
 近藤は沈黙した。
 そして、やっと「勝たねばなるまい!」とたどたどしくいった。「今こそ、多摩の魂を見せん!」
 といった。
 勝は榎本武揚にいった。
「江戸を丸裸にするしかねぇ。でなければ江戸に火をかけちまうしかねぇぜ」
「しかし…勝さん。それでは幕府はどうなっちまう?」
 勝は「幕府? へん! 知ったこっちゃねえ!」と鼻で笑った。
 榎本は不快に、思った。

         4 江戸無血開城




「勝さんは本気で幕府をつぶす気ですか?」
 ある席で、榎本武揚は問うた。
「そうだ」
 勝海舟は頷いた。「幕府は腐りきっている。つぶさなければ日本は外国の植民地になる」「しかし……幕府は三百年も続いたのですぞ? その咸厳たるや…」
「釜さん」勝は戒めた。「腐ったのもその三百年も続いたからだ。徳川家康から慶喜までで腐りきった。もう幕府にこの国をまかせちゃおけねぇんだ」
「では……勝さんは「裏切り者」をかってでると?」
「そうだ」
 勝は頷いた。「すべてはこの国のためだ。俺が裏切り者になってもかまわねぇ」
 榎本は沈黙した。
「おいらの”幕引”が気にいらねぇなら遠慮なく斬ってくれ」
「……そうするぜ」
「おいらは今度、西郷吉之助(隆盛)とあう」
「え?!」榎本武揚は仰天した。「あの薩摩の西郷と?! なぜ?」
「江戸を、徳川を守るためだ」
「しかし、そんなことでいいんですけぃ?」
「もう一度いうよ、釜さん。おいらの”幕引”が気にいらねぇなら遠慮なく斬ってくれ」 勝海舟は強くいった。

  勝海舟が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、勝海舟は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。
 閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。
「勝安房守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」
 結局、勝海舟の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。
 正月十八日、勝海舟は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、”長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか”という意味の書を送った。
 一月二十三日の夜中に、勝海舟は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
 勝海舟は慶喜にいう。
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
 勝海舟は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
 勝海舟は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
  勝海舟の危惧していたことがおこった。
 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。
 二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。
(大山伯著『戊辰役戦士』)

  薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
 勝海舟は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
 そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
なかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」


  西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
  ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
  江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
 ……”わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する”………
  官軍は江戸へ迫っていた。
 慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。                  
 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。   江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。
「もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
 まもなく、勝海舟が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が勝海舟の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら勝海舟は警戒した。
 勝海舟は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいっているのだと疑いを深くするばかりだ。
 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
 隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
 慶喜は涙声だったという。
 勝海舟は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。
 勝海舟は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
 西郷吉之助は五つの条件を出してきた。      
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。
 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。勝海舟は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。
 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は勝海舟に集まった。
 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
 勝海舟は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
 勝海舟はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。


  官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(勝海舟)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
 西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。 
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
  いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
 勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
 勝は沈黙する。
 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
 勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では”共順する相手を攻撃するのは違法”ときいていた。
 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
  官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
 彼は私から公になったのだ。もうひとりの”偉人”、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ!、と歓声をあげたという。
(勝海舟は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。
 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。勝海舟の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。
  江戸あらため東京は物騒で治安が悪化していた。
 榎本武揚は「旗本六万騎の家族は三十万人もいる。それらをこれからやしなっていくた                  
めには新天地しかない。蝦夷(北海道)にいこう!」と部下にいった。

  幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
  その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。
 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。
 勝は「釜さんよ、軍艦をすべて官軍に渡してくれねぇか?」という。
 しかし、榎本武揚は「俺は幕府海軍副総裁として最後まで新政府軍と戦い申す」というだけだった。どこまでも主戦派だ。

  案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
 三月二十七日、土方や永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。          
 近藤勇はひとり取り残されていった。

  近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
 と怒鳴った。
 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
 近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
 近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」
 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
 歳三はいった。
 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。

  四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。しかし、正体がバレる。
 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
 ……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨    
てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

 官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…勝海舟は榎本の内心を知っていた。


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