長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

【平成28年熊本地震以外の記事】【保存版】先輩ママに学ぶ、妊婦さんが気をつけたいこと

2016年04月23日 16時03分08秒 | 日記










【保存版】先輩ママに学ぶ、妊婦さんが気をつけたいこと
ママの声を中心に、妊活中~妊娠中に知っておくといいことをまとめました。 更新日: 2016年04月18日
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お医者さんに相談しながらボディメンテナンス◎
おっぱいマッサージをする
アマナイメージズ
お母さんのおっぱいを飲む赤ちゃん by アマナイメージズ
おっぱいマッサージをする
医師や助産師に相談しながら、妊娠中期に乳首の手入れをはじめ、妊娠後期からマッサージするといいのだとか。
「授乳は結構、母子ともに根気がいるんだなーというのが最初の感想でした。 おっぱいの手入れありなしでは大きく違ってきます」
出典
妊娠中のおっぱいの手入れ.〜みみりん助産師の妊娠出産おっぱい育児入門
出産後、石のように固くなる「乳腺炎」になってしまう人も多いらしい。。
「産院でおっぱいマッサージをするように言われても痛いし、なかなか毎日は難しいと思いますが、頑張っておくと効果大」
出典
ママテラス | 妊婦だった私へのアドバイス
骨盤ベルトを巻いてみる
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妊婦帯 World Bridge ダブルベルトでしっかり! 妊婦用サポーター 腹帯 産後骨盤ベルト マタニティガードル 産前、産後に (ピンク)
骨盤ベルトを巻いてみる
妊娠初期・安定期前から使うことができ、腰痛も和らげてくれるそう。こちらも医師や助産師さんに相談しながら使ってみてください。
「産後も使える骨盤ベルトを使用していました。お陰で産後の骨盤の緩みもひどくなく、体重も徐々に減ってきています」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】1:出産・育児に強い身体をつくる|ベネッセ
自分の筋力を鍛えるため産後は2ヶ月くらいまでがいいという声も。
食事のことも知っておきたい…φ(..)
体型を気にして少食にするのはNG。。
アマナイメージズ
Single pea on white plate by アマナイメージズ
体型を気にして少食にするのはNG。。
産後の体型を気にして、食事を控えるママが多いらしい…
最近、出生時の体重が2500グラム未満の「低出生体重児」が増えている
出典
低体重児、成長後にリスク やせ形妊婦や喫煙が要因 |ヘルス|NIKKEI STYLE
「小さく産んだから、大きく育てよう」とすると、大人になってから糖尿病や心臓病などの成人病になるリスクが高くなる
出典
その話、ホント?それとも迷信?「妊娠中にやったほうがいいこと」の巻|プレママ特集|プレママタウン
えっ。。
母子ともにいいのはやっぱり和食
アマナイメージズ
おうちごはん by アマナイメージズ
母子ともにいいのはやっぱり和食
脂肪分が少ないので太りにくく、まんべんなく栄養をとることができちゃう。
「助産師さんからは『難しいことを考えるより、色々なものを偏りなくバランスよく、よく噛んで味わって食べるように』とアドバイスをもらいました」
出典
妊娠中にしておけばよかった24のこと | よしぱんblog
欠かせない栄養素なのが、「葉酸」
アマナイメージズ
サプリメント by アマナイメージズ
欠かせない栄養素なのが、「葉酸」
厚生労働省も、「食事のほかサプリメントで1日400μgの葉酸摂取」を推奨してる。
「葉酸は赤ちゃんの神経や脳を作るのに重要な栄養素。妊活をしている時、そして妊娠してからも葉酸を飲みました」
出典
妊娠・妊活応援ブログ
助産院で葉酸についてのアドバイスをもらう人もいますが、案外知らない人も多いのだとか。
葉酸は、妊活中の女性こそ必須。妊娠の可能性がある段階で葉酸を意識して摂取することが大切
出典
妊娠したい! その前に摂っておきたいあの栄養素|ウーマンエキサイト(1/2)
妊娠前~妊娠初期は、通常の約2倍近くの葉酸が消費されるらしい。
葉酸は妊娠前からと、授乳中も積極的に摂る必要のある栄養素なのです
出典
葉酸はいつまで摂るべきか、その摂取量とは? | 美肌レシピ
ベビ待ち・妊婦さん向けのサプリも
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ビタミンとミネラルの美的ヌーボプレミアム
ベビ待ち・妊婦さん向けのサプリも
手軽に必要な栄養素がとれる葉酸サプリ「美的ヌーボプレミアム」
妊活・妊娠・授乳中に必要な葉酸400μgをたっぷり配合
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厚生労働省もDHA・EPAの摂取を推奨してる。
100%天然成分。豊富な栄養素が美容面のサポートもしてくれる
出典
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ベビ待ち・妊娠中のママの栄養補給に|美的ヌーボプレミアム
https://bitekitown.com/lp/nouveau-pre10
勉強したり、教室に参加してみても♪
離乳食の本を読んでみる
アマナイメージズ
離乳食を食べる赤ちゃん by アマナイメージズ
離乳食の本を読んでみる
出産してからだと時間の余裕がないみたい><
「赤ちゃんの月齢ごとの発育や離乳食など勉強していればよかったなと思います。今はなかなか本を読めずいつもその場しのぎに…」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】4:サポート体制を整える|ベネッセ
夫と両親学級にいってみる
アマナイメージズ
妊婦のお腹に手をあてる夫婦 by アマナイメージズ
夫と両親学級にいってみる
旦那さんも父親になる心の準備ができて、産後の協力が得られやすくなるかも!?
「育児のやり方がわかったみたいです。また、よその旦那さんたちがたくさん参加していたのを見て、恥ずかしくなくなったみたい」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】4:サポート体制を整える|ベネッセ
妊娠中イベントに参加してみる
アマナイメージズ
ヨガをする女性たち by アマナイメージズ
妊娠中イベントに参加してみる
ひとつの情報に縛られるより、幅広い声に触れることで安心できるのだとか。
「自治体やNPOが主催するマタニティヨガ教室など、調べてみると意外とありました。産院の母親教室とは違った情報も沢山得られる、とっても質の高いものでした」
出典
妊娠中にしておけばよかった24のこと | よしぱんblog
相談できる人やお友達が増えることで心強いこともあるかも◎お気に入り詳細を見る

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黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載9

2016年04月23日 06時36分55秒 | 日記














  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。
「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、サル」
 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
  直江兼続は上杉の使者として、岐阜城へと数名で入っている。兼続は魔王・織田信長と対面した。「信長さまは上杉の御見方なのかそうでないのか…」
「のう、兼続。わしは比叡山や石山本願寺を討とうとしている。どう思うか?」
「それは義に劣りまする! 坊主を討つはみ仏に刃を向けるのと同じに御座る!」
「義とは戦の為の口実にすぎない……坊主ではない。金と欲に眼の眩んだ武装集団でしかない。それを殺すのは当たり前だ。天下は綺麗事では取れない」
「お言葉ながら……義がなければ人は野山の獣と同じにござりまする!」
「…ほう」
「い…いえ。謙信公がそう申しておられて…そのぉ」
 信長は笑って「ならば獣でも鬼でもよい。天下を取れるならばこの身、獣鬼にくれてやるわ!」といった。そして座を去ってから秀吉に「あやつの首、上杉に送れ。織田の天下に上杉は無用じゃ」という。秀吉は兼続の命が惜しいと思った。
 そこで兼続の命を、石田佐吉(三成)が救った。刺客から逃れさせ、越後へ帰した。
「あなた様の名は?」兼続はきく。と、石田が「佐吉…羽柴秀吉家臣・石田佐吉じゃ」
「このご恩……この兼続……生涯忘れませぬ!」
 兼続はそういって礼を申した。こうして直江兼続と石田三成ががっちりと組んで、関ケ原で共に戦うことになる。上杉が西軍についたのはここが始まりといっていい。

  信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。


 有岡城の城主・荒木村重は天正6年(1578年)11月に突如として織田信長に反旗を翻した。
が、苦しい戦いを強いられ、荒木村重は天正7年9月に有岡城を抜け出し、中国の毛利元就に援軍を求めた。
しかし、天正7年(1579年)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、城兵が織田軍の調略に応じ、落城する。
御着城の城主・小寺政職は、有岡城の城主・荒木村重に同調して織田信長に反旗を翻した。
が、有岡城が落城すると、天正7年12月に御着城を捨てて中国地方へと逃げた。
小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。
その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、天正10年(1582年)に死んだ。小寺政職には男子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、小寺政職の死によって大名としての小寺家は滅んだ。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛(小寺官兵衛)は、羽柴秀吉に、
「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」
と頼んだ。
黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。
小寺官兵衛は家臣・衣笠久右衛門を備後の鞆(広島県福山市鞆)に派遣して、小寺家を呼び寄せ、小寺氏職を養育した。
小寺官兵衛は小寺政職のせいで命の危機にさらされたのに、旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。「恩をもって仇を報ず」とは、このことである、と人々は感心した。
黒田官兵衛と父・黒田職隆は、御着城の城主・小寺政職に仕え、小寺政職から「小寺」姓を賜り、小寺姓を名乗っていた。
しかし、小寺官兵衛は織田信長に反旗を翻し、毛利輝元に寝返ったので、黒田官兵衛と父・黒田職隆は小寺姓を捨て、旧姓「黒田」へと戻した。
どの時点で黒田姓へと戻したのか、正確な時期は分からない。
御着城の城主・小寺政職は織田信長に属していたが、途中で毛利側へと寝返った。
「小寺」は反逆者の姓なので、織田信長(または羽柴秀吉)が小寺官兵衛に「小寺」姓の使用を禁じた、という説もある。
いずれにせよ、黒田官兵衛は小寺性を捨てて名実共に黒田官兵衛に復帰したので、ここからは表記を「小寺官兵衛」から「黒田官兵衛」へと変更する。
 天正8年(1580年)閏3月、人質となっていた松寿(後の黒田長政)が、黒田官兵衛の元に返還される。
天正8年(1580年)、三木城を落として東播磨を平定した羽柴秀吉は、姫路城を黒田官兵衛に返還し、三木城を居城と定めた。
しかし、黒田官兵衛は、
「三木城は要害ですが、播磨では辺境の地にあり、居城には適していません。姫路は諸国への通路も良く、運送の便も良い要所なので、姫路を居城になされませ」
と助言した。
羽柴秀吉は、
「姫路城は汝の城であろう」と姫路城を返そうとしたが、
黒田官兵衛は「姫路城は中国征伐の重要拠点にて、もとより秀吉様に献上したものに御座います」と答えて受け取らなかった。
このため、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、黒田官兵衛は父・黒田職隆が築いた国府山城(こうやまじょう=別名は妻鹿城)を居城とした。
そして、黒田官兵衛の助言により、羽柴秀吉が居城・姫路城の改修工事を行う。
この姫路城の改修工事は、黒田官兵衛と浅野長政によって進められた。
さて、播磨には若干の毛利勢力が残っていたが、その後、羽柴秀吉によって駆逐され、羽柴秀吉によって播磨が統一された。
その後、織田信長は播磨16郡52万石と丹波13万石を羽柴秀吉に与えた。
すると、羽柴秀吉は黒田官兵衛に東揖郡(現在の兵庫県揖保郡)福井庄内など計1万石を与えた。
こうして、小寺家の家老だった黒田官兵衛はようやく大名に成り上がることができた。
黒田官兵衛が1万石の大名になったのは天正8年(1580年)9月、黒田官兵衛が35歳の事であった。
(注釈:1万石以上になると大名に分類される)。
さらに、翌年の天正9年(1581年)に1万石が加増され、黒田官兵衛は2万石の大名になった。
 天正8年(1580年)5月、播磨(兵庫県南部)をほぼ平定した羽柴秀吉は、弟・羽柴秀長を派遣し、但馬(兵庫県北部)を攻めた。
そして、但馬の守護大名・山名祐豊を討ち取り、但馬を平定した。
但馬を平定した羽柴秀吉は進路を西に取り、因幡(鳥取県東部)の攻略に取りかかる。
因幡の守護大名は鳥取城の城主・山名豊国であった。
天正8年(1580年)6月、羽柴秀吉の軍勢が、因幡にある山名豊国の鳥取城を包囲する。
羽柴秀吉が、
「降伏すれば因幡1国を安堵する」と持ちかけると、
鳥取城の城主・山名豊国は羽柴秀吉に降伏する。鳥取城を落とした羽柴秀吉は播磨へと引き上げた。
ところが、天正8年(1580年)9月、山名豊国の家臣や兵は毛利側によしみを通じ、羽柴秀吉に降伏した城主・山名豊国を追放して鳥取城に籠城したのである。
こうして、鳥取城で籠城する家臣は、総大将が不在になったため、毛利輝元の重臣・吉川元春に守将の派遣を求めた。
吉川元春は毛利家で山陰地方の責任者であり、鳥取城の要請を受け、家臣・牛尾元貞を鳥取城へ派遣した。
しかし、牛尾元貞は鳥取城で籠城するが、死亡(「病死」または「負傷死」)してしまう。
このため、吉川元春は牛尾元貞の後任として、家臣の市川雅楽允・朝枝春元の両名を鳥取城へ派遣した。
が、鳥取城側は吉川元春に守将のチェンジを要求した。
このため、吉川元春は一族の吉川経家を鳥取城に派遣し、天正9年(1581年)3月に吉川経家が鳥取城へ入った。
吉川経家は自分の棺桶を用意して鳥取城へ入ったという。
天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉は鳥取城への再派兵を決定し、黒田官兵衛を軍艦(軍師)に据え、2万の軍勢を率いて吉川経家が守る鳥取城を目指した。
さて、軍師・黒田官兵衛は鳥取城を攻めるにあたり、事前に因幡にある米を1粒残らず、相場の倍値で買い占め、若狭へと運んでいた。
さらに、黒田官兵衛は鳥取城を包囲する直前に、鳥取城の周辺に在る農村を襲い、ことごとく焼き払った。
自宅を失った農民は鳥取城へ逃げ込み、鳥取城の人口は一気に膨れあがった。
そこで、羽柴秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、兵糧攻めにしたのである。
これは、「三木の干殺し」と呼ばれる三木城の兵糧攻めが1年10ヶ月を要したため、もっと効率よく兵糧攻めを行うために、黒田官兵衛が考えた作戦だとされている。
このとき、鳥取城には20日分の兵糧しか残っていなかった(鳥取城は黒田官兵衛の策だとは知らず、籠城戦に備えて蓄えていた兵糧を売り払ったとも伝わる)。
そこへ、黒田官兵衛に家を焼かれて行き場を失った農民が逃げ込んできたため、鳥取城は一気に人口が膨れあがり、食糧不足に陥った。
下々の者まで食料は回らず、草や木の葉を食べ、稲の根を食べた。
木の皮や草の根を食べ尽くし、牛や馬の肉を食べたが、それでも食料は足らず、やせ衰えていった。
鳥取城は毛利からの援軍を期待したが、羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖しているため、毛利からの援軍は羽柴秀吉の軍に阻まれて鳥取城まで到達できず、鳥取城は完全に孤立した。
食糧の尽きた鳥取城は、地獄だった。籠城開始から4ヶ月が過ぎた10月になると寒さも増し、4千人の餓死者が出た。
やがて、鳥取城内の下々の者は、死人を掘り返して肉(人肉)を食べるようになり、地獄絵図が展開されるようになった。
いわゆる人肉を食べる「カニバリズム」である。
また、鳥取城から逃げだそうとした者が羽柴秀吉の軍勢に撃たれてれると、鳥取城の下々の者は撃たれた者に群がり、まだ息のあるうちから、撃たれた者の手足を切り取り、食べた。
人肉の中で脳みそは美味しいのか、頭は人気があり、下々の者は頭を奪い合って食べた。
このように人肉まで食べるようになった鳥取城の籠城戦が、世に言う「鳥取の飢殺し(鳥取の渇殺し=かつごろし)」である。
いかに大河ドラマでもこのような残虐なシーンは放送されることはなかった。
鳥取城兵糧攻めの「鳥取の飢殺し」と三木城兵糧攻めの「三木の干殺し」の2戦は、日本の兵糧攻めを代表する惨劇で、そのいずれも天才軍師・黒田官兵衛の献策だとされる。(注釈:三木城包囲は竹中半兵衛の献策とも言われている。)
天正9年(1581年)10月25日、人が人肉を食べるという地獄絵図に耐えきれなくなった守将・吉川経家は、兵士の助命と引き替えに切腹して、開城した。
三木城兵糧攻め(三木の干殺し)は1年10ヶ月を要したが、鳥取城攻略では天才軍師・黒田官兵衛の「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦が見事にはまり、鳥取城はわずか4ヶ月で落城したのである。
ただ、「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦を献策した軍師・黒田官兵衛は、鳥取城の落城を前に、阿波(徳島県)の三好家の救出を命じられ、阿波へと向かっている。
 天正8年(1580年)、羽柴秀吉が但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)の征伐を進めるころ、四国では土佐(高知県)の長宗我部元親が、阿波(徳島県)の三好家へ侵攻していた。
元々、土佐(高知県)の長宗我部元親は、織田信長の家臣・明智光秀と親戚で、織田信長と同盟を結び、良好な関係にあった。
そこで、長宗我部元親は明智光秀を通じて、織田信長に鷲や砂糖を贈り、織田信長から「四国を自由に切り取って良い」と許可を得ていた。
一方、阿波(徳島県)の三好家は、14代将軍・足利義栄を擁立し、中央政権でも権力を誇った名家だったが、15代将軍・足利義昭を擁立して上洛を果たした。
織田信長との戦に敗れ、衰退していた。
三好家は織田信長と対立していたが、没落後は黒田官兵衛を通じて織田信長の傘下に入り、三好家は羽柴秀吉の養子・羽柴秀次を養子に貰い受けていた。
このため、土佐の長宗我部元親と阿波の三好家の両家は、ともに織田信長側の勢力となっていた。
このようななか、土佐(高知県)の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始た。
そして、長宗我部元親は阿波(徳島県)と讃岐(香川県)をほぼ平定し、四国統一に迫った。
これに困った三好家は、長宗我部元親による四国統一を阻止するため、織田信長に救済を求めた。
これを受けた織田信長は長宗我部元親に、讃岐と阿波の一部を統治を認め、讃岐と阿波の北部を返還するように命じた。
しかし、長宗我部元親は、
「自分で切り取った領土で、織田信長から拝領したものではない」
として、織田信長の要求を無視し、阿波への侵攻を続けた。
これに怒った織田信長は、羽柴秀吉に三好家の救済を命じた。
これにより、長宗我部元親との交渉を努めていた明智光秀は、厳しい立場に立たされた。
さて、三好家の救済を命じられた羽柴秀吉は、鳥取城を兵糧攻め(鳥取の飢殺し)にしている最中だった。
羽柴秀吉は、毛利側の援軍・吉川元春とも対峙して動けないため、軍師・黒田官兵衛を名代として四国へと派遣した。
このころ、姫路では黒田職隆が容態が悪化し、命も危ない状態だったが、黒田官兵衛は黒田官兵衛は命令を拒否することは出来ず、嫡子・黒田長政に「私に変って黒田職隆によく仕えるべし」と命じ、三好家の救済へと向かった。
なお、黒田長政は黒田官兵衛の言いつけを守り、献身的に介抱を行ったので、黒田職隆の病気は治った。
 天正9年(1581年)9月、黒田官兵衛は仙谷秀久を淡路島へと派遣した。
ほかに、生駒親正などを阿波(徳島県)へと派遣し、黒田官兵衛自身も阿波へと渡った。
天正9年(1581年)11月15日、三好家から援軍の要請があったため、淡路に居た仙谷秀久を阿波の勝端城の援軍に差し向け、黒田官兵衛は淡路島へと上陸した。
淡路島には由良城(ゆらじょう)という要害があり、由良城には安宅河内守という強敵が居た。
このため、黒田官兵衛は誅殺によって由良城の城主・安宅河内守を斬り、淡路島の平定を成し遂げた。
黒田官兵衛が生涯で誅殺した人数は2人だけで、その1人目が姫路時代に仕えた小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
そして2人目が、由良城の城主・安宅河内守(あたぎきよやす)である。
なお、黒田官兵衛が城主・安宅河内守を斬った刀は、名刀「安宅切」と呼ばれ、現在(2013年)は福岡市博物館に保存されている。
天正9年(1581年)11月、淡路島・阿波・讃岐を平定し、三好家を救済した黒田官兵衛は、淡路島の洲本城(兵庫県洲本市)を仙石秀久に任せて姫路へと引き上げた。このとき、黒田官兵衛は36歳であった。
 武田信玄の亡き後を継いだ甲斐(山梨県)の武田勝頼は、天正3年(1575年)の「桶狭間の合戦」で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて衰退していた。
天正10年(1582年)2月、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻め、天正10年3月の「天目山の戦い」で武田勝頼を討ち、武田家は滅んだ。
北陸の上杉家は上杉謙信の亡き後、家督争いで疲弊しており、もはや織田信長の敵では無かった。
武田勝頼を滅ぼした後、残る強敵は九州の島津義久、四国の長宗我部元親、中国の毛利輝元となっており、織田信長の野望は天下統一に一歩一歩と近づいていたのである。


         7 本能寺の変



         長篠の合戦と安土城



話を戻す。
織田信長が三木城に差し向けた援軍・織田信忠は、織田信長に反旗を翻した神吉城と志方城を落城させた。
そして、上月城の援軍に向かった羽柴秀吉は織田信長の命令により、上月城を見捨てて三木城の攻略を再開すると、援軍に来ていた織田信忠の軍は兵を引き上げた。
さて、三木城は自然を巧みに利用した要害だった。
羽柴秀吉は籠城する三木城を力攻めで落とすのは難しいと考え、平井山に本陣を置くと、三木城を包囲し、糧攻めにした。
三木城には大勢の兵が籠城しており、食糧の補給が課題となっていた。
兵糧攻めは、黒田官兵衛や竹中半兵衛の献策とされている。
羽柴秀吉は三木城の周りに監視の付城を築いて食糧補給路を断ち、三木城を包囲して兵糧攻めにする一方で、三木城の別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した東播磨の豪族を討伐していく。
ちなみに黒田官兵衛と竹中半兵衛で二兵衛で、ある。
羽柴秀吉の軍勢が三木城の別所長治と小競り合いを行っているとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が500騎ほどを率いて山陰に布陣していた。
羽柴秀吉は小寺官兵衛を見て、
「官兵衛はなんでこんな所に居る。もしかして、官兵衛までも寝返る気か」と驚いた。
すると、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛は、羽柴秀吉に、
「あれは伏兵でしょう。今日の戦は必ず勝ちます」
と言い、神子田半左衛門に指示を与えた。
神子田半左衛門は竹中半兵衛の指示通り、城を攻めて弓兵と一戦すると、早々に引き上げた。
すると、敵軍は好機と見て、城から打ち出て神子田半左衛門を追いかけた。
山陰に布陣していた小寺官兵衛は時機到来と伏兵を起こし、城から出てきた敵軍を追撃した。
すると、竹中半兵衛が言った通り、敵軍が羽柴秀吉の陣の前を通ったので、羽柴秀吉は手勢を出し、側面から敵を攻撃した。
そこで、偽りの敗走をしていた神子田半左衛門も竹中半兵衛の指示通りに、とって返し、敵軍を攻めた。
結局、敵軍は、小寺官兵衛・羽柴秀吉・神子田半左衛門に三方から囲まれて全滅した。
三木城の戦いで、小寺官兵衛と竹中半兵衛は両輪のごときに活躍し、作戦を打ち合わせもせず、合図も無かった。
が、お互いの意図を察知して、阿吽の呼吸で臨機応変に作戦を変更し、敵を駆逐していったという。
[注釈:小寺官兵衛(黒田官兵衛)と竹中半兵衛の事を合わせ「二兵衛(両兵衛)」と呼ばれる場合があるが、「二兵衛(両兵衛)」は歴史小説家が付けた愛称なので、一般的ではない。私は軍師・竜虎と付けた。]
さて、小寺官兵衛は織田信長から、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の3国を治める大名・宇喜多直家の調略を命じられており、三木城の兵糧攻めが膠着状態に陥ると、宇喜多直家の調略にあたった。
播磨の赤松家は播磨・備前・美作の守護大名であった。
が、備前の家臣・浦上宗村の下克上によって赤松家は衰え、備前・美作は浦上宗村に奪われた。
しかし、浦上宗村の孫・浦上宗景の時代に、浦上家の家老・宇喜多直家が明石景親の支援を受けて台頭する。
と、浦上宗景は家臣・宇喜多直家に討たれた。
こうして、宇喜多直家は大名にのし上がり、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の3国を治める大名にまで発展した。
その後、宇喜多直家は中国地方の毛利元就の傘下に入り、一時は東播磨にまで勢力を伸ばしていた。
このため、播磨(兵庫県)へ進軍した織田信長は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)に、
「毛利の手前に宇喜多が居るので、宇喜多を退治して、毛利を滅ぼせ」と命じていたのである。
さて、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家の影響は東播磨にまで及んでおり、東播磨の上月城は宇喜多直家の支配下にあった。
しかし、この上月城は羽柴秀吉の侵攻を受けて羽柴秀吉に奪われ、尼子勝久に与えられた。
その後、毛利輝元は水路と陸路から播磨へと兵を送り、陸路からは毛利軍の吉川元春と小早川隆景が5万の軍勢を率いて上月城へと差し向けた。
上月城は元々、宇喜多直家の支配下だったので、この戦いは領地回復に繋がるのだ。
が、宇喜多直家は病気と称して出陣せず、弟・宇喜多忠家を参加させていた。
織田信長から宇喜多直家の討伐を命じられていた小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、宇喜多直家の行動から、宇喜多直家は心底は毛利輝元に属していないと察知し、説得を試みた。
宇喜多家には、宇喜多直家の台頭に貢献した重臣・明石景親が居る。宇喜多家の明石景親は、播磨・明石家の同族で、明石城の城主・明石正風の甥であった。
小寺官兵衛の母親は、明石正風の娘なので、小寺官兵衛は明石景親と親戚関係にあった。
小寺官兵衛は親戚の縁に頼って宇喜多家へ使者を送ったという。
小寺官兵衛は宇喜多家に使者を送り、
「毛利輝元は大国の主だが、天下を治める器では無い。毛利輝元は東播磨に大軍を派遣したが、上月城を1つ落とした事に満足し、我々を追撃しなかった。それに、私は阿閉城(あべじょう)で毛利の大軍を退けた。一方、織田信長は天下の都を領し、四方に命令を飛ばす天下の将である。貴殿は毛利輝元に属しているが、元来、毛利家から恩を受けているわけではない。力量の無い毛利家を頼るより、織田信長を頼れば、宇喜多家の繁栄になる」
と説得する。
宇喜多直家は直ちに家老を集めて意見を求めると、家老は、
「小寺官兵衛の意見に従い、毛利輝元に背いて、織田信長に属するのがよろしい」と言う意見で一致した。
評議が決すると、宇喜多直家は直ぐに家老・花房助兵衛(花房志摩守)を小寺官兵衛の元へ派遣し、織田信長への降参を申し出る。
小寺官兵衛は花房助兵衛を羽柴秀吉に会わせると、羽柴秀吉は大いに喜び、花房助兵衛に太刀を与えた。
このようななか、天正6年(1578年)10月に突如として摂津(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が織田側から毛利側へと寝返ったのである。
 天正6年(1578年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、織田信長に属して摂津1国(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が、突如として織田信長に反旗を翻して毛利側へと寝返った。
荒木村重は、摂津の豪族・荒木義村の嫡子として生まれる。
当初は池田勝正に仕えていたが、織田信長に気に入られて、織田信長の家臣となり、近畿での戦で功績を挙げ、摂津1国を任される大名にまで成り上がった。
荒木村重が織田信長に拝謁したとき、織田信長は饅頭を剣で突き刺し、荒木村重に「食べてみよ」と命じた。
家臣一同が青ざめるなか、荒木村重は平然と剣に突き刺さった饅頭を1口で飲み込んだため、織田信長は荒木村重を気に入り、摂津1国を任せたという。
荒木村重は織田側の軍勢として、石山本願寺攻めでは先鋒隊を務め、中国征伐では副大将を務めるほど、織田信長から信頼を得ていた。
さらに、摂津は織田信長勢力の最西端にあったため、播磨方面の担当窓口のような役割をしており、荒木村重は織田信長の中国征伐で重要な役割を担っていた。
一方、上杉謙信の死によって第3次信長包囲網は弱まったものの、15代将軍・足利義昭は依然として各地の大名に調略を続けたいた。
このようななか、有岡城の城主・荒木村重は、15代将軍・足利義昭の調略を受け、突如として織田信長に反旗を翻したのである。
荒木村重は摂津で大きな影響力を持っていたため、荒木村重が織田信長に反旗を翻す。
と、周辺の豪族も荒木村重に呼応して織田信長に反旗を翻し、摂津1国(大阪府)が毛利側に寝返った。
これに困るのが、三木城を包囲していた羽柴秀吉である。
摂津が離反すると、岐阜から播磨へと延びる戦線が遮断されるうえ、摂津は三木城と隣接してるため、籠城している三木城に食糧補給路が出来てしまうのだ。
さすがの織田信長も荒木村重の離叛に驚き、
「母親を人質に差し出せば、離叛は無かったことにする」
という条件を出し、明智光秀や蜂須賀正勝らを説得に当たらせたが、荒木村重の意思は硬かった。
そのようななか、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の元に、御着城の城主・小寺政職が有岡城の城主・荒木村重に呼応して、織田信長に反旗を翻すという噂が伝わってのである。
これに驚いた小寺官兵衛は、御着城を訪れて主君の小寺政職を必死に説得したが、小寺政職に応じなかった。
そのとき、小寺家の家老が小寺官兵衛を暗殺するという噂が聞こえたため、小寺官兵衛は密かに姫路城へと帰り、父・黒田職隆に相談した。
父・黒田職隆が家老を集めると、家老は、
「官兵衛殿を御着城へ返しては命が危ない。ここは姫路城に引きこもり、使者を遣わして難を逃れるべきです。いよいよ敵が攻めてくるのであれば、合戦し、寄せ手を討ち果たし、御着城へ攻め入りましょう」
と意見した。
しかし、小寺官兵衛は家老に、
「この城に立て籠もれば、小寺政職に対して謀反人となる。小寺家と合戦をすれば、不義になる。小寺政職に疑われて暗殺されたとしても、それは私の不義にはならない。武門の家に生まれたからには、義を重んじ、命は惜しまない」
と反対した。
すると、父・黒田職隆は、
「織田信長を主と仰ぎ、小寺政職を旗頭とした以上は、織田信長に二心を抱かず、小寺政職に背かない事が当然の義理である。いつものように御着城へ行き、小寺家の家老をあしらうべし。もし、難を逃れられない場合は、切腹するべし」
と小寺官兵衛の意見に賛成した。
こうして、小寺官兵衛はいつもの様にわずかな供を従え、再び御着城へ入った。

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